第6話「立って飲むだけなのに、なんで落ち着くんだろう」
昨日の商隊護衛で七時間近く歩いたせいか、朝起きた瞬間から脚が重かった。
痛くて動けないほどではないものの、階段を下りるたびに太腿の奥へ鈍い疲れが残っているのが分かる。牙猪を相手にしたとき使った左腕にも少し張りがあり、今日は絶対に戦闘のある仕事を選ばないと、《銀鈴の宿》の食堂へ向かう途中から何度も自分へ言い聞かせていた。
「昨日も同じこと言ってた気がするけど、今日は本当に軽い仕事にする」
朝食の黒パンをちぎりながら呟く。
昨日は「今日は軽く」と思ってギルドへ行ったのに、三千二百ゴールドという報酬を見た瞬間に商隊護衛へ心変わりし、結局は七時間近く歩いて牙猪まで相手にした。おかげで夜には赤角牛の厚切り炭焼きを食べられたし、麦酒も二杯飲めたので後悔しているわけではないが、毎日あの調子で働けば身体の方が先に音を上げる。
財布には、ここ数日の稼ぎのおかげでまだ余裕がある。それなら今日は無理に高報酬を狙う必要もなく、八百ゴールド前後を稼げれば十分だろうと思っていた。
以前の自分なら、八百ゴールドという数字を見て「少ない」と感じること自体なかったと思う。最初のころは千ゴールドの報酬だけでもかなり嬉しかったのに、今では宿代三百ゴールドを引き、昼食や水で百前後使い、さらに夜にどのくらい飲めるかまで頭の中で自然に計算するようになっている。
「慣れって怖いなぁ」
便利になったのか、欲深くなったのかは分からないけれど、少なくとも一日にどれくらい稼げば安心できるかという感覚は、この世界で暮らし始めたころとはかなり変わった。
「まあ、今日は八百前後で探そう」
そう決めて朝食を終え、私はギルドへ向かった。
依頼板の前では、いつものように冒険者たちが条件のいい仕事を探していた。今日は討伐依頼には近づかず、長距離護衛も見ないことにする。
採取なら悪くないと思ったものの、「北西丘陵・往復約四時間」と書かれているのを見た瞬間、昨日から残っている脚の疲れが抗議してきたような気がしたので、それもやめておいた。
そのまま板の端まで見ていくと、ようやく今の自分に合いそうな依頼を見つけた。
《南倉庫区・荷運び補助。穀物袋および木箱の移動。半日。報酬八百ゴールド。昼食支給なし》
「これかな」
戦闘はなく、仕事場所も街の中で、報酬は八百ゴールド。しかも拘束時間は半日なので、今日の私が探していた条件にはかなり近い。
ただし、「荷運び」という部分だけが少し気になった。
「どのくらい重いんだろう」
紙にはそこまで書かれていない。
前の世界でも、求人票や仕事の引き継ぎに書かれた「簡単な作業です」という一文ほど信用できないものはなかった。それでも今日は、街の外を何時間も歩くよりはましだろうと思い、私は依頼票を取った。
受付で内容を確認してもらう。
「南倉庫区の荷運びですね。集合は二刻目の半ばまで、場所は第三倉庫です」
「重さってどのくらいですか?」
「穀物袋が一袋二十五から三十斤ほどです。木箱は中身によりますが、重いものは二人で運びます」
「一人で全部持たされるわけじゃないんですね」
「当然です」
「よかった」
受付嬢が少し不思議そうな顔をする。
「荷運びは初めてですか?」
「ちゃんとした倉庫仕事は初めてです」
「冒険者の中では、かなり人気のない依頼ですよ」
「どうしてです?」
「地味で、疲れて、追加報酬が出にくいので」
「なるほど」
魔物を倒せば討伐追加が出ることがあるし、採取なら多めに集めればそのぶん報酬が増える場合もある。けれど、倉庫で決められた荷物を決められた場所へ運ぶ仕事は、頑張ったからといって突然報酬が二倍になるわけではない。
「でも今日はそれでいいです」
「珍しいですね」
「昨日かなり歩いたので、外に行きたくなくて」
「荷運びも脚は使いますよ」
「……聞かなかったことにしていいですか?」
「無理です」
受付嬢に笑われながら依頼票を返してもらい、私は南倉庫区へ向かった。
リーベルの南側には、商人向けの大きな倉庫がいくつも並んでいる。市場で売られる穀物や乾物、酒、布、道具類が一度ここへ集められ、それぞれの店や商会へ運ばれていくらしい。
朝の倉庫区は思っていた以上に賑やかで、荷車が何台も行き来し、あちこちから人の声と木箱を置く音が聞こえていた。第三倉庫の前へ行くと、すでに十人近い人が集まっている。
冒険者らしい格好をした者もいれば、最初から倉庫で働いていそうな男たちもいた。
「ギルドからか?」
入口のところで帳簿を持っていた男に声をかけられる。
五十代くらいで、濃い茶色の髪には白いものが混じり、袖を肩近くまでまくっている。腹は少し出ているが、腕は太かった。
「はい。ミサキです」
「俺はハルド。今日は俺の指示で動いてくれ。倉庫の西側にある穀物袋を南の荷車へ、木箱は印ごとに分ける。赤印が一番奥、青印が中央、黄印は入口側だ」
「分かりました」
「無理に一人で持つなよ。落として中身駄目にしたら、そっちの方が面倒だからな」
「それ聞いて安心しました」
「何だ、無茶させられると思ってたのか?」
「ちょっとだけ」
「若いんだから持てるだろって言うやつもいるけどな。持てるのと、一日持たせるのは別だ」
その言葉だけで、この人のところなら何とかなる気がした。
前の世界でも、仕事を始める前に「無理なら言って」と言う人と、「これくらい普通だから」と言う人では安心感がまるで違った。
「じゃあ始めるぞ。まず穀物袋から」
仕事が始まり、最初の一袋を持ち上げた瞬間、私は少しだけ今日の選択を後悔した。
「……重い」
持てないほどではない。
けれど、二十五から三十斤という数字を聞いたときに想像していたより、ずっと身体へくる。袋は柔らかいので抱えやすい反面、中の穀物が動くたびに重心がずれ、歩くたびに腕と腰へじわじわ負担がかかる。
私は両腕で抱え込み、倉庫の西側から外の荷車まで運んだ。
一袋目を置いて戻り、二袋目を運び、さらに三袋目へ取りかかる。最初のうちは何袋目か数えていたものの、十を超えたあたりからどうでもよくなり、ひたすら同じ場所を往復することだけに意識を向けるようになった。
歩く距離そのものは短いのに、袋を抱えているだけで息が上がる。
「昨日より楽な仕事を選んだはずなんだけどなぁ」
小さく呟く。
隣で別の袋を持ち上げていた男が笑った。
「初めてか?」
「はい」
相手は二十代後半くらいで、短い金髪と日に焼けた肌をしていた。腰には剣を差しているので、おそらく冒険者だ。
「俺も最初そう思った。戦わないから楽だろって」
「違いました?」
「魔物は倒したら終わるけど、袋は倒しても次が来る」
「嫌なこと言いますね」
「あと三十袋くらいあるぞ」
「聞きたくなかった」
倉庫の奥を見ると、本当にまだかなり残っている。
「これ、毎日やってる人すごいなぁ」
「俺らはたまにだからな。倉庫の連中は朝から夕方までやってる」
「尊敬します」
本気だった。
前の世界で事務仕事をしていたころは、身体を使う仕事をどこか別世界のことのように感じていた。パソコンの前で肩が凝った、目が疲れたと文句を言っていたけれど、三十分も重い袋を運んでいると、あれとはまったく違う種類の疲れが全身へ溜まっていく。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
袋を持ち上げて運び、決められた場所へ置けば、それで一つの仕事が確実に終わる。メールを送ったら返事待ち、資料を出したら修正待ち、確認を頼んだら上司待ちということがなく、終わった分だけ倉庫の床が少しずつ空いていくのは分かりやすかった。
「終わった数が見えるのはいいな」
「何が?」
金髪の男に聞かれた。
「前の仕事だと、終わったと思ったら戻ってくることが多かったので」
「荷物もたまに戻ってくるぞ」
「やめてください」
「積み先間違えたらな」
「それは自分が悪い」
笑いながら、また袋を持ち上げる。
午前の半ばには、腕より先に腰が疲れてきた。
ハルドが休憩を入れてくれたので、倉庫の外の日陰へ座り、水を飲む。
「どうだ?」
「八百ゴールドって、ちゃんと働く額だったんですね」
私が答えると、ハルドが声を出して笑った。
「楽してもらえると思ったか」
「少しだけ」
「半日で八百なら悪くないだろ」
「悪くはないです。でも明日筋肉痛になりそう」
「若いんだから寝りゃ治る」
「それ、前の世界でも聞いたなぁ」
「何だ?」
「いえ、こっちの話です」
休憩後は木箱の仕分けだった。
穀物袋より一つ一つは軽いものが多かったものの、箱には赤、青、黄の印があり、間違えずに決められた場所へ置かなければならない。
単純作業に見えて、疲れてくると妙に判断が雑になる。
「赤は奥、青は中央、黄は入口」
何度も頭の中で繰り返しながら箱を運んでいたのに、途中で赤印の箱を中央へ置きそうになり、私は慌てて足を止めた。
「危ない。疲れてきたなぁ」
仕事というのは、身体が疲れると頭まで雑になる。
前の世界でも、夕方になると数字の入力ミスが増えたり、送信前に確認したはずのメールに誤字を見つけたりした。世界が変わっても、疲労の仕組みまで変わってくれるわけではないらしい。
昼前になるころ、ようやく最後の木箱を置き終えた。
ハルドが帳簿を確認し、倉庫の中を一度見回す。
「よし。終わりだ」
「終わった……」
思わず肩の力が抜けた。
今日は討伐も護衛もしていないし、街の外へすら出ていない。それなのに腕と腰にはしっかり疲れが残っていて、戦闘がない仕事だからといって楽とは限らないのだと、身をもって理解することになった。
「ご苦労。ギルドに完了票出しとく」
「ありがとうございます」
「また人足足りない日に出すから、暇なら来い」
「筋肉痛じゃなかったら考えます」
「冒険者のくせに弱気だな」
「戦う筋肉と荷物運ぶ筋肉、たぶん違いますよ」
「全部身体だろ」
「雑だなぁ」
ハルドに笑われながら、私は倉庫を出た。
仕事は半日で終わったので、時間はまだ昼を少し過ぎたくらいだった。
朝から動きっぱなしだったせいで腹はかなり減っていたため、近くの露店で薄い平パンに豆のペーストと刻んだ野菜を挟んだものを買い、水も補充した。合わせて百十ゴールドだった。
平パンは少し硬めだったが、塩気のある豆と酸味の強い葉野菜のおかげで食べやすく、空腹のせいもあってあっという間になくなった。
「夜まで持つかな」
まだ昼過ぎなので、宿へ戻れば時間はある。
今日はもう仕事を追加する気はなかった。
八百ゴールド前後を稼ぐと決めて、そのぶんだけ働いたのだから十分だ。前の世界では、定時に帰れそうな日に限って「まだ時間あるから、これもお願い」と仕事を増やされたことが何度もある。
だから今、自分で「今日はここまで」と決められることが少し嬉しかった。
ギルドへ戻ると、依頼完了はすでに届いていた。
「南倉庫区の荷運び、完了確認できています。報酬八百ゴールドです」
「ありがとうございます」
受付から受け取った革袋は、昨日の三千四百ゴールドと比べればかなり軽かった。ただ、今日は高い報酬を狙わずに選んだ仕事なので、このくらいの重さでちょうどいい気もする。
昼食と水で百十ゴールド使っているため、今日増えた分だけ見れば六百九十ゴールド。そこから宿代三百を考えれば、夜に使える金額はそれほど多くない。
「今日は高い店じゃないな」
財布全体には余裕がある。
昨日までの蓄えを使えば、また六百ゴールドの肉を食べることもできる。
でも、それでは「今日の稼ぎで飲む」という自分の感覚から少し外れる。
今日は八百ゴールドの仕事だった。
だったら八百ゴールドの日らしい飲み方をしたい。
「夜は四百……いや、三百五十くらいかな」
少し迷って、三百五十ゴールドに決めた。
昼食が百十ゴールド、宿代が三百ゴールド、夜に三百五十ゴールドと考えると、今日だけで大きく金が増えるわけではない。それでも上限を決めておけば、昨日の高報酬分まで何となく使ってしまうことはない。
「三百五十。今日はこれで探そう」
宿へ戻り、一度部屋で横になった。
たぶん一時間くらい寝たと思う。
目を覚ましたときには夕方になっていて、腕の疲れは少し増していた。筋肉痛の入口みたいな重さがあり、明日の朝はもっと来るかもしれないと思うと少し嫌になる。
腹もまた空いていた。
ただ、昨日ほど「肉が食べたい」という強い欲求はない。
今日は身体を使ったので塩気のあるものは欲しいし、酒は軽いものがいい。座ってゆっくり何皿も食べるより、何となく気軽に一杯飲んで帰りたい気分だった。
私は三百五十ゴールドを入れた小袋だけ持ち、宿を出た。
まだ歩いていない通りを選び、中央市場の南側へ向かう。
この辺りは倉庫区から帰る人や職人が多いらしく、夕方になると仕事帰りらしい格好の人が増えていた。立ち止まって長く飲むというより、一杯だけ飲んで帰る人も多いようで、小さな酒場がいくつも並んでいる。
一軒目はかなり混んでいたので見送り、二軒目は料理がほとんどなく酒だけの店らしかったため通り過ぎた。三軒目は入口から中を覗くと椅子が一つも見えず、私はいったん前を通過してから二歩ほど戻った。
「……立ち飲みか」
入口は広く開いていて、中には腰くらいの高さの細長い台がいくつも並んでいる。客は皆そこへ肘を置き、立ったまま杯を持っていた。
以前入った《夕樽》も立ち飲みだったが、あちらは狭いカウンター中心の店だった。こちらはもっと開放的で、倉庫や工房からそのまま来たような客が何人も、短い時間で食べて飲んでは入れ替わっている。
看板には《風桶》と書かれていた。
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 七十ゴールド》
《砂走鳥の塩串 九十ゴールド》
《潰し豆と香草 六十ゴールド》
《酢漬け根菜 五十ゴールド》
《焼き薄パン 四十ゴールド》
《燻し小魚 八十ゴールド》
「安い」
今日の予算にはかなり合っている。
立ちっぱなしの仕事をした日に、さらに立ち飲みへ入るのはどうなんだろうとも思ったけれど、不思議と店の雰囲気には惹かれた。長居する必要がなく、一杯飲んで串を二本くらい食べ、それで帰ってもよさそうな気軽さがある。
「今日はこういう店かな」
私は《風桶》へ入った。
「空いてる台使って!」
奥から大きな声が飛んできた。
店主らしいのは四十代くらいの女性で、濃い栗色の髪を頭の上で雑にまとめ、腕まくりしたシャツの上から濃茶色の前掛けをつけている。声は大きいが動きも速く、注文を聞きながら同時に串を返していた。
私は壁側の細長い台へ立つ。
「注文は?」
「軽麦酒と、砂走鳥の塩串一本ください」
「百六十!」
「先払いですか?」
「そう!」
百六十ゴールドを渡す。
予算三百五十ゴールドに対して、残りは百九十。
軽麦酒が先に出てくる。
色はかなり薄い黄金色で、泡も少ない。一口飲んでみると、以前飲んだ薄麦酒よりさらに軽く、水っぽいとまではいかないものの、強い苦味も炭酸もほとんどなく、麦の香りだけがふわりと残った。
「かなり軽いですね」
「仕事帰り用だよ!」
店主が串を焼きながら答える。
「濃いの飲んで帰ると動けなくなるやつ多いからね。ここのは麦を軽くして、香りだけ残してる」
「なるほど」
言われてみれば、今日の自分にはちょうどよかった。口へ入れると麦の香りが少しだけ残り、そのあとすぐ喉を通っていく。
前の世界でいうなら、仕事帰りに飲む軽いビールや低アルコールのものを思い出す。ただ、味はもっと素朴で、冷たさも控えめだった。
「いっぱい飲むためというより、疲れたときに飲みやすくしてる感じですか?」
「そうそう。倉庫の連中なんか濃いの一杯で寝るからね」
「今日まさに倉庫だったんですけど」
「じゃあ合ってるよ!」
確かに合っている。
そこへ砂走鳥の塩串が来た。
大きめの肉が四切れ刺さっていて、表面にはしっかり焼き目がつき、粗い塩と細かな緑の香草が振られている。
「砂走鳥って鳥なんですか?」
「鳥だよ。南の乾いた土地を走るやつ。飛ばないけど速い」
「大きい?」
「人の胸くらいまであるね」
「思ったより大きいな」
串から一切れ外し、食べてみる。
最初に感じたのは、思っていたより締まった食感だった。鶏肉より弾力があり、噛むほど少し甘みが出てくる。脂は少なめなのに肉そのものの香りは強く、見た目よりしっかり食べ応えがある。
「鶏というより、もっと赤身っぽいなぁ」
「脚の肉だからね」
「なるほど」
前の世界で食べた鶏のもも肉より硬く、七面鳥よりもさらに締まっているような気がする。かといって牛や豚ほど重くはなく、塩だけで食べても十分味があった。
そこへ軽麦酒を飲む。
濃い肉を強い苦味で流すというより、乾いた口へ水分と麦の香りを足す感じだった。
「これ、今日すごく合うなぁ」
午前中ずっと穀物袋と木箱を運んでいたので、身体が塩気を欲しがっているのかもしれない。串の塩が妙に美味しく、緑の香草には少し青臭さがあるのに、後から柑橘に似た香りが出てくる。
「この葉は?」
「風葉。乾いた土地で育つやつ。砂走鳥にはよく使うよ」
「同じ地方のもの同士なんですね」
「そりゃ昔から一緒に食べてるからね」
その言い方が少し面白かった。
料理の組み合わせには、味だけではなく、その土地で何が取れるかという理由もある。砂走鳥がいる土地に風葉が育ち、そこに住む人たちが長く一緒に食べてきた結果、今では定番の組み合わせになっている。
前の世界でも、そういう料理はたくさんあった。
その土地の魚に、その土地の柑橘。
その土地の酒に、その土地の保存食。
「食べ物って、ちゃんと場所とつながってるんだなぁ」
「何難しい顔してんの?」
隣から声がした。
見ると、作業着を着た大柄な男が軽麦酒を飲んでいた。腕には木屑がついており、腰には小さな金槌が下がっている。
「この肉と香草、同じ地方のものなんだなって思って」
「そんなこと考えながら串食ってんの?」
「たまに考えます」
「変わってんなぁ」
「よく言われます」
男は笑い、自分の皿から焼き薄パンをちぎった。
「倉庫帰り?」
「分かります?」
「腕の動かし方が、今日初めて重い荷物持ったやつ」
「そんなの分かるんですか」
「俺も材木運んだ日はそうなる」
私は思わず左腕を少し動かした。
確かに重い。
「若いんだから持てるだろって言われません?」
「言われるよ。今日も言われた」
「やっぱり」
「若いのと、腰が壊れないのは別なのにな」
「それです」
思わず強く頷いた。
「今日の人は無理させない人だったんですけど、それでも重いものは重くて」
「倉庫仕事なんてそんなもんだ。袋はこっちの都合で軽くならんからな」
「魔物の方がまだ避けられますね」
「魔物と比べるなよ」
「でも今日、本気で思いました」
男が声を上げて笑った。
周りを見ると、似たような会話をしている人が多い。
工房で親方に怒られた話や、荷車の車輪が壊れた話、商会から急に追加の荷物を頼まれた話、それから明日は朝が早いという愚痴まで、誰も大声で盛り上がっているわけではないのに、小さな不満だけが店の中をゆっくり行き交っている。
それが妙に落ち着いた。
私は壁にもたれず、自分の足で立ったまま麦酒を飲んでいる。椅子はなく、長居もしにくいうえ、並んでいる料理だって決して豪華ではない。それなのに、昨日の肉料理の店とはまったく別の意味で居心地がよかった。
「立って飲むだけなのに、なんで落ち着くんだろう」
「仕事が終わってるからじゃない?」
店主がすぐ返した。
「聞こえてました?」
「声出てたよ」
「恥ずかしいなぁ」
「ここ来るやつ、大体同じ顔してるからね。仕事終わって、一杯飲んで、ちょっと文句言って帰る。それで十分なんだよ」
「すごく分かります」
会社員だったころも、ちゃんと座れる店だけに行っていたわけではない。駅の近くで短く飲んだ日もあったし、疲れすぎて料理を何品も選ぶ気力すらなく、とりあえず一杯と何か一つだけ頼んだ夜もある。
そういう日は豪華な食事より、「仕事はもう終わった」と自分に分からせることの方が大事だった。
今もたぶん同じなのだろう。
場所は異世界で、仕事は倉庫で穀物袋を運ぶことになり、飲んでいるのは軽麦酒で、食べているのは砂走鳥になった。それでも、一杯目を半分ほど飲んだころには、朝から身体に残っていた仕事の感覚が少しずつ遠くなっていた。
私は残り予算を考える。
最初の注文が百六十ゴールドなので、予算三百五十に対してまだ百九十残っている。軽麦酒をもう一杯なら七十ゴールド、串をもう一本なら九十ゴールドで、両方頼んでも追加百六十。
「これならいけるな」
今日は迷う必要がなかった。
「軽麦酒もう一杯と、砂走鳥の塩串もう一本ください」
「はいよ、百六十!」
追加分を払う。
これで合計三百二十ゴールド。
予算内で、残りは三十ゴールド。
二杯目の軽麦酒が来る。
さっきより喉が慣れたのか、一口目よりさらに飲みやすく感じた。
「これ、危険ですね」
「何が?」
「軽いから普通に二杯目いける」
「そのための酒でもあるよ」
「商売上手だなぁ」
「三杯目もあるよ」
「予算がないです」
「じゃあ今日は終わり」
店主があっさり引いた。
それもありがたい。
二本目の串を待っていると、炭火台の横から別の匂いが漂ってきた。肉の脂とは違う酸っぱい香りに、少し甘さのある匂いが混じっている。
店主が大きな鉢から赤白二色の根菜をすくい、小皿へ盛っていた。
「それ、酢漬け根菜ですよね?」
「そう。五十」
「……残り三十なんですよね」
「じゃあ無理だね」
「そうなんです」
諦めるしかない。
ところが、その皿を受け取った先ほどの大柄な男が一口食べてから、私を見た。
「肉のあとにこれ食うといいぞ」
「今すすめないでください。予算足りないので」
「二十くらい出せば?」
「それをやり始めると、毎回予算が意味なくなるんですよ」
「真面目だなぁ」
「財布には真面目です」
そう答えたところで、店主が串を一本持ってきた。
「はい、二本目」
「ありがとうございます」
「あと、これ」
その横へ、小さな欠けた器が置かれた。
赤白の根菜が、ほんの二切れずつ入っている。
「え?」
「余った端。商品で出すほどじゃないから味見」
「いいんですか?」
「その顔でずっと見られる方が気になる」
「そんなに見てました?」
「見てた」
予定になかった一品が、予算を使わずに来た。
「ありがとうございます」
まず白い方を食べてみる。
しゃきっとした歯応えがあり、かなり強い酸味と塩気が最初に来たあと、遅れて少し甘さが残る。赤い方はさらに硬く、噛むとわずかに土っぽい香りが出てきた。
「全然違いますね」
「白いのは雪根。赤いのは土珠根」
「一緒に漬けてるんですか?」
「白だけだと軽いし、赤だけだと癖が強いから」
「なるほど」
二本目の砂走鳥を食べたあと、酢漬け根菜を一切れ挟む。
口の中に残っていた塩気と肉の香りが一度きれいに切れ、そこへ軽麦酒を流し込むと、また最初から串を食べられそうな気がする。
「これ五十ゴールドなら、最初から頼めばよかったなぁ」
「次から予算増やしな」
「それは違う気がする」
私は笑った。
豪華な料理は一つもないし、どれも一品百ゴールド前後だった。それでも、今の私にはちょうどよかった。
朝から重い袋を何度も持ち上げ、木箱を運び、赤印と青印を間違えそうになりながら働いて、今日の報酬は八百ゴールドだった。昨日の高額護衛と比べればかなり少ないけれど、その日の稼ぎが少なければ、夜もそれに合わせればいい。
三千ゴールド以上稼いだ日にしか楽しめないものもある。
でも三百ゴールド前後でも、ちゃんと美味しく飲める場所はある。
二杯目を飲み終えるころには、肩の重さも腰の疲れも消えてはいなかったが、「今日は大変だった」という気持ちはずいぶん薄れ、代わりに砂走鳥の塩気と風葉の香り、それから軽麦酒の淡い麦の味が口の中に残っていた。
大柄な男が先に飲み終え、空の杯を台へ置いた。
「じゃ、お先」
「お疲れさまでした」
「あんたも腰冷やすなよ。明日来るぞ」
「やっぱり筋肉痛来ます?」
「来る」
「嫌だなぁ」
「若いから大丈夫だろ」
「それ今日何回目だろう」
男は笑いながら店を出ていった。
私は最後の一口を飲んだ。
「会計……は、もう払ってるんでしたね」
「全部先払い。合計三百二十」
「予算三百五十だから、三十残りました」
「細かいねぇ」
「この三十が積み重なるんですよ」
「三十じゃ何も飲めないけどね」
「それは言わないでください」
店主が笑った。
私は小袋に残った三十ゴールドを確かめてから、《風桶》を出た。
座っていなかったので立ち上がる必要もなく、そのまま外へ一歩出ると、夕方から夜へ変わった通りには、まだ仕事帰りの人が何人も歩いていた。どこかの工房からは金属を叩く音が聞こえ、別の店からは焼いた肉の匂いが流れてくる。
今日は八百ゴールド稼ぎ、昼食と水に百十ゴールド、夜に三百二十ゴールドを使った。ここから宿代三百ゴールドを払えば、今日だけで見て大きく金が残るわけではない。
それでも、軽麦酒を二杯飲み、砂走鳥の串を二本食べ、最後には酢漬け根菜まで少し味わえたのだから、今の私は思っていた以上に満足していた。
昨日みたいに高い肉を食べる夜も好きだ。
けれど、毎日それでは財布も身体も続かない。今日みたいに地味な仕事を半日して、その稼ぎに合った小さな店へ入り、短い時間だけ飲んで帰る夜もちゃんといい。
前の世界でも、豪華な居酒屋へ行く日ばかりではなかった。残業がなくて少し早く帰れた日に、駅前で一杯だけ飲んで帰ったことがある。カウンターに長居するわけでも、料理を何皿も頼むわけでもないのに、帰るころには妙に気持ちが軽くなっていた。
今日の《風桶》も、それに少し似ていた。
椅子すらない店だったのに、不思議と落ち着いたのは、たぶん座れるかどうかが大事なのではなかったからだ。仕事が終わったあとに杯を持ち、自分と同じように今日一日働いた人たちの愚痴をぼんやり聞きながら、「もう今日は働かなくていい」と思える時間があれば、それだけで気持ちはちゃんと切り替わる。
「立って飲むだけなのに、なんで落ち着くんだろうって思ったけど……たぶん、そういうことなんだろうなぁ」
答えが合っているかは分からない。
でも今は、仕事へ戻れと言われても絶対に戻らない程度には気持ちが切り替わっている。それなら十分だと思いながら、私はまだ少し重い腕を回し、《銀鈴の宿》へ向かって歩き出した。




