第5話「今日はもう肉じゃないと無理」
朝から嫌な予感はしていた。
別に空が曇っていたわけでもなければ、宿の朝食で黒パンを床へ落としたわけでもない。財布の中身だって、ここ数日の中ではかなり余裕がある。それでも、冒険者ギルドの依頼板の前でその紙を見つけた瞬間、私は何となく「今日は楽には終わらないな」と思った。
《北街道・商隊護衛。目的地、ベルド村。片道三時間。荷馬車二台。想定拘束時間七時間。基本報酬三千二百ゴールド》
「三千二百……」
金額だけ見れば、かなり良い。昨日の街道巡回が千百ゴールドだったので、ほぼ三倍である。
その代わり拘束時間も長く、片道三時間と書かれていても、荷馬車の速度や途中の休憩を考えれば実際にはもっとかかる可能性がある。しかも今回は護衛なので、ただ歩いていればいいわけではなく、何か出れば戦う必要があるところも昨日とは違っていた。
「どうしようかなぁ」
依頼票の前で腕を組む。
昨日はかなり平和だった。牙鼠を二匹追い払っただけで、ちゃんと千百ゴールドもらえたし、身体にもそこまで疲れは残っていない。
だったら今日も軽い仕事でいいのではないかと思う一方で、三千二百という数字はかなり魅力的だった。この世界へ来てから、私はだいぶ金額を見る目が変わってきたらしく、最初は千ゴールドでもかなり多く感じたのに、今では宿代三百、昼食百前後、夜に五百から千ほど使うことを自然に考えるようになっている。
報酬千ゴールド前後なら普通の日。
二千を超えると、少し余裕がある日。
三千を超えれば、今日は何か良いものを食べてもいい日。
「慣れって怖いなぁ」
自分で呟きながら、私は依頼票を取った。
今日は少し頑張る。
その代わり、夜はちゃんと使おう。
そう決めて受付へ向かった。
「北街道の商隊護衛ですね」
「はい。荷馬車二台って書いてありますけど、他にも護衛はいますか?」
「います。今回は三名編成です。あなたを含めて前衛二名、後衛一名。商隊側にも御者が二名います」
「三人なら少し安心ですね」
「道中でよく出るのは牙猪や灰爪犬です。群れが大きければ無理をせず、商隊を守りながら撤退を優先してください」
「また数が増える可能性あるんですね」
「野外ですから」
「三匹程度って書いてないだけ安心しました」
受付の女性は、昨日の件を知っていたのか少し笑った。
「今回は『出る可能性あり』としか書いていません」
「その方がいいです。最初から期待しないで済むので」
説明を聞き、護衛する商隊が待つ北門へ向かった。
荷馬車は本当に二台あり、一台目には布袋に詰められた穀物と乾燥豆、二台目には木箱がいくつも積まれていた。御者の一人は五十代くらいの細い男で、もう一人は二十代後半くらいの若者だった。
護衛の残り二人もすでに来ている。
一人は長槍を持った男で、年齢は三十前後。短く刈った黒髪と少し日に焼けた顔をしていて、名前はラウドといった。
もう一人は弓を背負った女性で、二十代半ばくらい。明るい茶髪を後ろで一つに結んでおり、名前はエナだった。
「新人?」
ラウドが私の装備を見て聞いた。
「まだかなり」
「護衛は初めてか」
「ちゃんとした商隊護衛は初めてです」
「じゃあ前に出すぎるな。何か出ても荷馬車から離れない方がいい」
「分かりました」
エナも横から頷く。
「敵を倒すことより、積み荷と人を無事に通す方が仕事だからね。追いかける必要ないから」
「それ、助かります」
「戦いたくない?」
「できれば」
即答すると、二人とも笑った。
「冒険者なのに珍しいな」
ラウドが言う。
「戦わなくても報酬もらえるなら、その方がいいです。戦うと装備も傷むし、服も汚れるし、薬代もかかるので」
「妙に現実的だな」
「生活かかってるので」
実際、大事な話だった。
魔物を倒した方が追加報酬が出る依頼もあるけれど、剣が欠け、革具が裂け、薬を使えばそのぶん出費も増える。稼いだ額だけ見て喜んでいると、結局手元に残らない。
前の世界でいうなら、残業代をもらった日にタクシーで帰って高い夕食を食べ、そのうえ翌朝寝坊してまたタクシーに乗るようなものかもしれない。
「今日は装備壊したくないなぁ」
そんなことを考えながら、私たちは出発した。
北街道は昨日歩いた東街道より少し細いが、それでも荷馬車がすれ違える程度の幅はあり、両側には低い草原と雑木林が交互に続いている。私は一台目と二台目の間を歩き、ラウドが先頭、エナが後方についた。
最初の一時間は平和だった。
荷馬車の車輪が土を踏む音と、御者が馬へ声をかける声くらいしか聞こえない。天気もよく、風も強くなく、これなら今日は本当に歩くだけで三千二百ゴールドもらえるのではないかと、私は少し期待し始めていた。
「護衛って、毎回こんな感じなんですか?」
前を歩くラウドへ聞く。
「何もなきゃな」
「じゃあ結構いい仕事ですね」
「何もなきゃな」
「二回言いましたね」
「大事だからな」
嫌な言い方だった。
でも、その二十分後には理由が分かった。
林の奥から低い鳴き声が聞こえ、ラウドがすぐ足を止める。御者が馬車を止め、エナが弓を構えたのを見て、私も短剣と小盾を用意した。
草が大きく揺れ、そこから出てきたのは猪に似た魔物だった。前の世界の猪より明らかに大きく、背丈は私の腰近くまであり、盛り上がった肩を覆う灰褐色の毛もかなり硬そうに見える。
「牙猪、二」
ラウドが数を確認する。
二匹。
今回は「程度」ではなく、見えているのは本当に二匹だった。
少し安心する。
「右、俺。左、ミサキ。エナは荷馬車守れ」
「分かりました」
私が構えた直後、牙猪の一匹が低く頭を下げ、そのまま地面を蹴った。見た目の重さに反してかなり速く、真正面から受けたら小盾ごと持っていかれそうだったので、私は身体を横へずらしながら進路を外す。
牙がすぐ脇を通り過ぎる。
その瞬間を狙って脇腹へ短剣を振るったが、毛と皮が想像以上に硬く、刃は浅くしか入らなかった。
「硬い!」
「脚狙え!」
ラウドの声が飛ぶ。
牙猪は一度通り過ぎたあと、すぐにこちらへ向き直った。猪らしい動きなのに意外と小回りが利き、もう一度突っ込んでくる。
今度は避けるだけで終わらせず、すれ違う瞬間に前脚の付け根へ短剣を入れた。刃が肉へ入り、牙猪の体勢が少し崩れる。
その隙にもう一度、首の下を狙う。
血が出た。
それでも止まらない。
「しぶといなぁ」
再び走ってきた牙猪を正面から受けるのは避け、小盾の端を牙へ当てながら力を横へ逃がす。それでも腕にはかなりの衝撃が来て、肩まで痺れた。
身体を流されながらも踏ん張り、相手の側面へ回り込む。傷ついている前脚へもう一度短剣を入れると、牙猪がようやく地面へ膝をついた。
その瞬間を逃さず首の下へ刃を深く入れ、動きが止まるまで距離を取らずに押し込んだ。
「……疲れた」
ほんの数分だったはずなのに、息が上がっている。
ラウドの方を見ると、あちらもすでに一匹倒していた。
「怪我ないか?」
「たぶん大丈夫です。腕がちょっと痛いですけど」
「盾で受けすぎるな。牙猪は重いぞ」
「受けないようにしたつもりなんですけどね」
「最初ならそんなもんだ」
エナが周囲を確認してから近づいてくる。
「もういないよ。今のところ二匹だけ」
「本当に?」
「昨日七匹いた人?」
「もう広まってるんですか?」
「ギルドで聞いた」
「最悪だなぁ」
私が顔をしかめると、エナが笑った。
牙猪は討伐部位だけでなく、一部の肉も売れるらしい。
ただし今日は商隊護衛中なので、その場で全部解体する時間はない。ラウドが耳と牙の一部だけを証明用に取り、死体へ簡単な目印をつけた。帰りにまだ荒らされていなければ、食用にできる部分だけ回収するという。
「肉、食べられるんですよね?」
「食えるよ」
エナが答える。
「若い牙猪ならかなり美味い」
「そうなんだ」
さっきまでこちらへ突っ込んできていた相手を、急に食材として見てしまう。
「今、食うこと考えた?」
ラウドに見抜かれた。
「ちょっとだけ」
「切り替え早いな」
「今日結構動いたので」
「まだ午前だぞ」
「だから夜にはもっとお腹空くかなって」
ラウドは呆れたように笑った。
護衛を再開する。
戦闘のあとだからか、最初より身体が重い。
それでも荷馬車は進み、昼前には小さな石造りの休憩所へ着いた。
そこで商隊全体が休憩を取り、私は宿で買っておいた黒パンと硬い乳酪、それから乾燥果実を取り出した。昼食代は合わせて百二十ゴールドで、昨日より少し高いものの、乾燥果実が甘くて思った以上に美味しかった。
「これ何の実ですか?」
エナが同じものを食べていたので聞く。
「赤蜜果。南から来るやつ」
「普通の果物より甘いですね」
「乾かすと甘くなる。高いけど日持ちするから護衛向き」
「なるほど」
前の世界のドライフルーツと似た理由で使われているらしい。
食文化が違っても、保存の都合で似たものが生まれるのは面白い。
「今日、夜何食べるかなぁ」
乾燥果実を噛みながら、私はつい口に出した。
「もう考えてるの?」
エナが笑う。
「だって三千二百ゴールドですよ」
「報酬まだもらってないけど」
「無事に帰ればもらえます」
「前向きだねぇ」
ラウドが水を飲みながら聞いてくる。
「酒好きなのか?」
「好きです」
「毎日飲む?」
「できれば」
「冒険者としてより、飲み代稼ぎに働いてる感じだな」
「かなり近いです」
「そこまで言い切るのも珍しいな」
でも本当にそうだった。
世界を救いたいわけでもないし、強くなって名を上げたいわけでもない。今日働いたぶんで、夜に美味しいものを食べて飲む。それが今のところ、私にとって一番分かりやすい目的だった。
休憩を終え、また街道を進む。
午後は何も出なかった。
ベルド村へ着いたのは、出発から三時間半ほど経ったころだった。木造家屋が二十軒ほど集まった小さな村で、中央には井戸と広場がある。
商隊は穀物と木箱を村の倉庫へ運び込み、代わりに空になった樽や布袋をいくつか積み込んだ。
「これ、帰りも護衛ですよね」
「当然」
ラウドが言う。
「ですよね」
分かっていた。
分かってはいたけれど、すでに脚が疲れていたので、少しだけ帰りたくない。
「七時間って書いてあったの、結構正確だったんだなぁ」
「拘束時間だからな」
「もっと早く終わるかと期待してました」
「護衛でそれはない」
帰り道は午前より静かだった。
行きに倒した牙猪のところまで戻ると、死体の一部は小動物に荒らされていたが、それでも肉の一部は回収できるらしい。ラウドとエナが手早く処理し、持ち運べる分だけ荷馬車へ積んでいく。
「これ、ギルドで売るんですか?」
「肉屋に回す」
「酒場にも?」
「行くんじゃないか?」
「今日それ食べられたりしないかな」
「さすがに今日のは無理だろ」
「ですよね」
少し残念だった。
ただ、その会話をしたせいで頭の中は完全に肉になっていた。
昼は黒パンと乳酪が中心だったし、朝食も軽かった。しかも今日は長く歩いて、牙猪とも戦っている。
「今日はもう肉じゃないと無理」
自分でも分かるくらい、声に力が入った。
「何が無理なんだ」
ラウドが笑う。
「気分です」
「昨日も肉だったんじゃないの?」
エナに聞かれる。
「昨日は骨出汁麺です。その前が魔猪」
「じゃあ一日空いてるね」
「そうなんですよ。だから今日は大丈夫です」
「何が大丈夫なのか分からないけど」
私にも分からない。
でも、肉を食べる理由としては十分だった。
リーベルへ戻ったのは、夕方を少し過ぎたころだった。
北門が見えた瞬間、かなり安心した。何も起きなかった帰り道でも、七時間近く荷馬車に合わせて歩いたせいで脚は完全に重くなっている。
商隊主から受領証をもらい、ラウドとエナと一緒にギルドへ戻る。
受付へ依頼完了を報告すると、書類と討伐証明を確認した職員が硬貨を用意してくれた。
「基本報酬三千二百ゴールド。牙猪二匹分の討伐補助として、一人あたり追加二百ゴールドが出ます。合計三千四百ゴールドです」
「増えた」
思わず声が出た。
「護衛中の危険排除なので、分配されています」
「ありがたいです」
昨日の千百ゴールドと比べれば、かなり大きい。
ただ、そのぶん身体の疲れも明らかに違った。
「報酬三倍、疲れも三倍くらいあるなぁ」
革袋を受け取りながら肩を回す。
今日の仕事中に使ったのは、昼食百二十ゴールドと水の補充二十ゴールドで、合わせて百四十。そこへ宿代三百ゴールドを考えても、かなり余る。
私はギルドを出ると、人通りの少ない場所へ寄って財布を開いた。
「今日は千五百……いや」
少し迷う。
三千四百も稼いだ。
なら千五百くらい使ってもいい。
でも、昨日は六百二十ゴールドしか使っていない。
今日は肉をしっかり食べたいし、できれば酒も二杯くらい飲みたい。
「千三百までにしよう」
少しだけ自制した。
今夜の予算、千三百ゴールド。
普段よりかなり多い。
でも今日は、明確に贅沢していい日だと思う。
小さな布袋へ千三百だけ移し、私は街を歩き始めた。
目当ては肉。
それも今日は、煮込んだものではなく、炭火か鉄板で焼いた肉がいい。できれば見ただけで満足できるくらい厚くて、疲れた身体に「ちゃんと食べた」と分からせてくれるものが欲しい。
職人街へ行けば肉料理の店は多いが、この前入った店とは違う場所を探したかったので、今日は西側の商店街を抜け、そのさらに奥へ向かった。
この辺りは商人や旅人が多いらしく、店の看板も少し派手だった。
一軒目は羊肉専門で、悪くはなかった。
ただ、今の気分とは少し違う。
二軒目は煮込み中心だったので、そのまま通り過ぎた。
三軒目の前で、私は足を止めた。
入口の横に、大きな赤い角が飾ってある。
その下には一枚の木札。
《赤角牛、入荷。今夜限り》
「……限定」
危険な言葉だった。
前の世界でも「期間限定」「本日限定」「残りわずか」は、財布の紐を緩ませるための強力な呪文だった。
「値段見てから」
私は自分に言い聞かせる。
看板には《炭角亭》と書かれていた。
入口横の品書きを見る。
麦酒百七十ゴールド。
赤麦酒二百十ゴールド。
角牛の炭焼き三百八十ゴールド。
赤角牛の厚切り炭焼き六百二十ゴールド。
炙り白根菜百四十ゴールド。
塩豆百ゴールド。
香草汁百二十ゴールド。
焼き平パン九十ゴールド。
「六百二十かぁ」
高い。
でも払える。
今夜の予算は千三百あるので、赤角牛を頼んでもまだ六百八十残る。
「これは入るしかないな」
私は扉を開けた。
中は思ったより広く、四人掛けの卓が五つと長いカウンターがあり、その奥には大きな炭火台が据えられていた。鉄串に刺された肉が何本も焼かれ、脂が炭へ落ちるたびに小さく炎が上がる。
店内には炭と肉の香りが充満していた。
それだけで少し空腹が増す。
「一人?」
声をかけてきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。
赤茶色の髪を短く切り、白い前掛けをつけている。腕がかなりしっかりしていて、店員というより肉屋にも見えた。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
席へ座ると、目の前で赤い肉の塊が焼かれていた。
脂が炭へ落ちるたびに火が上がり、そのたびに香ばしい匂いが強くなる。
「それ、赤角牛ですか?」
「そう。今日入ったばかり」
「見た目からもう強いなぁ」
「食べる?」
「値段見て悩んでます」
「六百二十」
「知ってます」
「じゃあ悩むだけ損じゃない?」
「商売上手ですね」
女性が笑った。
「今日の分なくなったら終わり」
「その言い方やめてください」
「効いた?」
「かなり」
もう駄目だった。
「麦酒と、赤角牛の厚切り炭焼きください」
「あいよ。焼き加減は?」
「おすすめで」
「じゃあ中を少し赤く残すね」
「お願いします」
最初から七百九十ゴールド。
予算は千三百なので、残りは五百十。
かなり使う。
でも今日はいい。
三千四百稼いだし、七時間近く歩き、牙猪とも戦った。
「今日は使う日」
小さく呟いた。
「何?」
「自分を納得させてます」
「大事だね」
「すごく」
先に麦酒が来た。
透明感のある濃い黄金色で、泡は少なめ。香りは穀物っぽいが、今まで飲んだものより少し甘さが強い。
一口飲むと口当たりは柔らかく、苦味はそこまで強くない。その代わり、麦そのものの甘さと香ばしさが舌に長く残った。
「これ、肉に合いそうですね」
「うちは肉が主役だからね。酒もそれに合わせて選んでる」
「店によってそこまで考えてるんだ」
「当たり前でしょ」
また言われた。
前にも似たようなことを聞いている。
この世界の食事を、どこか単純なものとして考えていた自分が少し恥ずかしい。料理を出す人なら、何をどう合わせれば美味しいか考えるのは当然で、異世界だから特別なのではなく、こちらにはこちらで積み重ねられてきた食べ方がある。
そんなことを考えているうちに、赤角牛が来た。
皿を置かれた瞬間、まず香りが来た。
炭。
焼けた脂。
肉の甘い匂い。
黒っぽい香辛料。
それから、少しだけ青い香草の香り。
「大きいなぁ」
六百二十ゴールドするだけある。
厚さは指二本以上あり、表面には濃い焼き目がついている。切れ目から赤い肉汁がにじみ、端には白い塩の結晶と、緑色の粗く刻んだ香草が添えられていた。
「赤角牛って普通の牛と違うんですか?」
「普通の角牛より気性が荒い。山側で育つから肉も締まってる」
「赤い角が生えてる?」
「そう。それで赤角牛」
「分かりやすい」
ナイフを入れる。
少し抵抗がある。
でも硬いわけではない。
切った断面は、外側がしっかり焼けているのに、中は赤みを残している。
一口食べる。
「……うま」
思わず声が小さくなった。
魔猪とも違う。
角豚とも違う。
前の世界の牛肉に一番近い気はする。
ただ、それより赤身の味が強い。
脂は少なめなのに、噛むほど肉の旨味が増し、後味にはわずかな鉄っぽさと強い香りが残る。高級な柔らかい牛肉とは方向が違い、もっと「肉そのものを食べている」という感じが強かった。
「ステーキみたいだけど、もっと肉食べてる感じするなぁ」
「褒めてる?」
女性店員が聞く。
「すごく褒めてます」
「ならよし」
塩をつけると味がはっきりし、次に緑の香草を少し食べてみる。最初は爽やかで、そのあと少し苦く、舌の奥にわずかな辛味が残った。
「これ何ですか?」
「裂葉香。赤身に合う」
肉と一緒に食べると、赤身の濃さを香草が少し軽くしてくれる。脂を切るというより、肉の強さを整えるような役割らしく、そのおかげでまた次の一口が欲しくなる。
「こういう薬味、本当に多いなぁ」
前の世界なら、わさびや柚子胡椒、マスタード、大根おろし。
こちらにも、それぞれ違う役割の香草や種がある。
似ている部分はある。
でも同じではない。
「前の世界ならステーキソースとか欲しくなってたかもしれないけど、これ塩と葉で十分だな」
麦酒を飲む。
甘みのある麦酒が、赤角牛の赤身とよく合う。
苦味が強すぎないので、肉そのものの味を消さない。
「これは危ない」
「何が?」
「飲む量増えそうです」
「うちは酒も売りたいから歓迎」
「正直ですね」
少し離れた席では、商人らしい二人組が話していた。
「北門の荷下ろし、また待たされたぞ」
「何時間?」
「二時間」
「それ仕事じゃなくて待機じゃねぇか」
「待ってる間も働いてる扱いにしてほしいよな」
思わず耳が向いた。
前の世界でも似たようなことはあった。
取引先からの返事待ち。
上司の確認待ち。
会議室が空くのを待つ時間。
何もしていないように見えるけれど、その時間は自由ではなく、勝手に帰ることもできない。あれを「休んでるだけ」と言われると、妙に腹が立つ。
「どこの世界でも待ち時間って嫌われるんだなぁ」
私が呟くと、隣に座っていた細身の男が笑った。
「待つくらいなら運んでる方がまだましだ」
「分かります。終わりが見えますもんね」
「今日なんか商会主が『すぐ積み終わる』って言ったのに、一刻半待った」
「また『すぐ』だ」
「何だ?」
「最近、この世界の『すぐ』は信用しない方がいいと学びまして」
「正しい」
即答された。
私は笑った。
仕事の愚痴は、世界が違っても通じる。
それが少し面白い。
赤角牛を半分ほど食べたところで、店の奥から別の香りがした。
肉ではなく、焦げた小麦と、何か少し甘いもの。
振り向くと、女性店員が平たいパンのようなものを炭火の横で焼いている。
「それ何ですか?」
「焼き平パン」
「メニューにあったやつ」
「肉汁つけて食べる人多いよ」
「それ先に言ってくださいよ」
「聞かれなかったから」
困る。
今のところ七百九十ゴールド。
焼き平パンは九十。
頼んでも八百八十なので、まだ四百二十残る。
「ください」
「あいよ」
予定外の一品が増えた。
でも安い。
九十なら誤差。
「……誤差って考え始めると危ないんだよなぁ」
「何?」
「自戒です」
焼き平パンは、手のひらくらいの大きさだった。薄く丸く焼かれ、表面には炭の焼き目がつき、端だけ少し膨らんでいる。
そのまま食べると素朴な小麦の味があり、後から軽い酸味が出てくる。
「発酵してるんですか?」
「ちょっとだけ。長くは置かない」
「なるほど」
赤角牛の肉汁へつけてみる。
これが良かった。
皿に残っていた肉汁と脂を平パンが吸い、そこへ塩と裂葉香の味まで乗る。
「これ頼んで正解だなぁ」
肉だけ食べていたときとは違う。
炭の香りと赤身の旨味を、今度はパンが受け止める。
前の世界なら、ステーキのソースや肉汁をパンで拭って食べるのに近い。
でも、この平パンはもっと薄く、少し酸味があるので、脂を吸っても重くならない。
ここまでで八百八十ゴールド。
予算千三百に対して、残りは四百二十。
麦酒は百七十なので、二杯目を頼んでも二百五十残る。塩豆なら百、香草汁なら百二十と考えれば、まだ余裕はある。
「今日は余裕あるなぁ」
昨日も似たことを考えた気がする。
でも今日は、本当に余裕がある。
「麦酒もう一杯ください」
「あいよ」
二杯目が来る。
赤角牛の残りと一緒に飲む。
やっぱり合う。
肉の濃さを麦酒の甘さが受け止め、後味を軽い苦味が整えてくれる。そこへ平パンを挟むと、今度は肉汁まで無駄にならず、食べる手が止まらなくなった。
そんなタイミングで、女性店員が小さな皿を一つ置いた。
「これ、何ですか?」
「端肉の炙り。今日赤角牛頼んだ人に少しだけ」
「サービス?」
「端が出たからね」
「え、いいんですか?」
「その代わり酒飲んで」
「もう二杯目です」
「じゃあ十分」
小さな角切り肉が三つ。
厚切りより脂が多い部分らしく、表面が強く焼かれている。
食べてみると、同じ赤角牛なのに味が全然違った。
「脂すごいですね」
「肩の端」
「さっきの厚切りより甘い」
「部位で違う」
「当たり前なんでしょうけど、面白いなぁ」
一頭の中でも味が違う。
前の世界の牛肉だってそうだった。
ヒレ、ロース、バラ。
分かっていたはずなのに、異世界の魔物や家畜になると、つい一種類の食材としてまとめて考えてしまう。
でも当然、同じ生き物でも部位が変われば味も変わる。
「食べるほど、分からないこと増えるなぁ」
「普通逆じゃない?」
「一個知ったら、その隣に知らないものが見えてくるんですよ」
「それは分かる」
女性店員が笑った。
その頃には、朝から七時間近く護衛で歩き、牙猪と戦い、荷馬車の速度に合わせてずっと移動していた疲れも、少しずつ気にならなくなっていた。足の重さや腕の張り自体は消えていないのに、気分まで疲れたままではなく、赤角牛と麦酒を前にしている今はむしろかなり満足している。
「今日、頑張ってよかったな」
小さく呟く。
危険な仕事を毎日やりたいとは思わないし、報酬が高ければ何でもいいとも思わない。それでも、たまにこういう仕事を引き受けた日には、普段なら少し悩む値段の肉を迷わず頼める。
それは少し嬉しい。
赤角牛を最後まで食べ、平パンで皿の肉汁もきれいに拭った。
麦酒もほとんど残っていない。
「会計お願いします」
「千五十ゴールド」
麦酒二杯で三百四十ゴールド。
赤角牛の厚切り炭焼き六百二十ゴールド。
焼き平パン九十ゴールド。
合計千五十ゴールドで、予算千三百に対して二百五十ゴールド残った。
「結構残ったな」
「何が?」
「今日の予算です」
「もっと頼めばよかったのに」
「そういうこと言わないでください」
「塩豆ならまだいけるよ」
「帰ります」
「即答だね」
「今聞いたら絶対頼みそうなので」
女性店員が笑った。
私は硬貨を払い、席を立つ。
「ごちそうさまでした。赤角牛、すごく美味しかったです」
「また入ったら出すよ」
「そのとき別の誰かが食べます」
「変な客だね」
私は笑って店を出た。
外の空気は少し冷えていて、酒場の熱気に慣れていた身体には気持ちがよかった。歩き出せば七時間近く働いた分だけ脚は重く、牙猪を受け流した腕にもまだ軽い張りが残っている。
「明日は軽い仕事にしよう」
昨日も似たようなことを言った気がする。
そして今日、三千二百ゴールドという数字を見て護衛を選んだ。
「学習してないなぁ」
でも、今日の稼ぎは追加分を合わせて三千四百ゴールドだった。昼食と水で百四十ゴールドを使い、夜は千五十ゴールド、さらに宿代三百ゴールドを払っても、まだかなり残る。
こういう日に少しずつ蓄えておけば、毎日その日の稼ぎだけを頼りにしなくても済む。
それくらいは分かっている。
ただ、今日みたいに長く歩いた日の帰り道で、六百二十ゴールドの赤角牛を見つけてしまったら、たぶん私はまた悩んだ末に頼むと思う。
前の世界でも、長く残業した日ほど少し高い店へ入りたくなった。
今日は頑張った。
だからこれくらいはいい。
そうやって自分を納得させるところは、今もあまり変わっていない。
ただし、残業の代わりに商隊を護衛し、取引先とのやり取りの代わりに牙猪と戦い、その日のご褒美として食べるのが赤角牛になったのだから、生活そのものはだいぶ変わっている。
「……やっぱり結構違うな」
夜道を歩きながら、自分で笑う。
それでも、美味しい肉を食べたときの満足感だけは同じだった。
赤角牛の赤身は濃く、裂葉香と合わせると後味が軽くなり、甘みのある麦酒との相性も良かった。予定になかった平パンまで頼んで、皿に残った肉汁を最後まで食べたせいで、今は腹もしっかり満たされている。
朝から何となく嫌な予感はしていたし、実際、仕事は楽ではなかった。
それでも仕事が大変だったからこそ、今夜何を食べたいかだけは迷わなかった。
「今日はもう肉じゃないと無理って思ってたもんなぁ」
そして、本当に肉を食べた。
そのおかげで、朝から抱えていた疲れも不満も、宿へ戻るころにはかなり薄くなっていた。




