第4話「二杯目か、締めか。それが問題です」
昨日、ゴブリンを七匹倒した翌朝にしては、目覚めはそこまで悪くなかった。
腕にはまだ少し重さが残っているし、最後の一匹の棍棒を小盾で受け流したときに負担をかけた左肩も、動かすとわずかに張る。それでも痛くて起き上がれないほどではなく、《銀鈴の宿》の食堂まで下りて朝食を食べられる程度には元気だった。
「今日は戦わない仕事にしよう」
焼いた黒パンへ柔らかい白乳酪を塗りながら、私はそう決めた。
昨日は報酬こそ二千七百五十ゴールドとかなり良かったものの、そのぶん仕事の危険度も想定以上だった。依頼票には三匹程度と書かれていたのに、実際に出てきたのは七匹で、しかも途中で撤退しようとした私をわざわざ追いかけてくるという、こちらとしてはかなり迷惑な群れだった。
おかげで夜には分厚い魔猪の肉を食べられたし、濃い麦酒まで二杯飲めたので、一日全体で見れば悪いことばかりではない。ただし、だからといって毎日あれをやりたいとは思わないし、危険な仕事をしたぶんだけ豪華な夕飯が食べられるからといって、身体まで毎日差し出していたら、そのうち酒を飲みに行くどころではなくなる。
「危険手当を酒代に変える生活、長く続けたら絶対どこかで死ぬよね」
口に出してから、自分で嫌な想像をしてしまった。
異世界で冒険者という仕事を始めた以上、まったく危険を避けて生きていくことは難しい。それでも、自分から毎日危険な依頼へ突っ込んでいく必要まではない。
今日は少し軽い仕事をして、そのぶん夜もほどほどに飲む。
そんな日があっていい。
朝食を食べ終えた私は部屋へ戻り、財布の中身を確認した。
昨日の報酬が二千七百五十ゴールドで、夜の《猪火亭》で使ったのが千四十ゴールド。宿代三百ゴールドを払い、それ以外にも水や昼食で少し使っている。それでも手元にはここ数日で一番余裕があり、今なら一日くらい仕事を休んでもすぐ困ることはなさそうだった。
「今のうちにちゃんと残しておかないと」
稼ぎが多かった翌日に財布の紐が緩むのは、前の世界でもよくあることだった。給料日直後だけコンビニで普段買わないデザートを追加したり、昼休みに少し高いランチへ行ったり、ネットで「今月は大丈夫」と思いながら必要かどうか微妙なものを買ったりする。
そして二週間くらい経ってから、カードの利用履歴を見て後悔する。
今はカードこそないけれど、同じ失敗を硬貨でやる可能性は十分ある。
「今日の目標は、稼ぐことより減らさないことかな」
財布を閉じ、私はギルドへ向かった。
朝の冒険者ギルドは、相変わらず混んでいた。依頼板の前には条件の良い仕事を探す人たちが集まっており、昨日「三匹程度」という言葉に痛い目を見たばかりの私は、討伐依頼が並んでいる一角にはできるだけ近づかず、街の外でも比較的安全そうな依頼だけを順番に見ていった。
その中で見つけたのが、東街道の巡回補助だった。
《東街道巡回補助。街道沿いの異常確認、小型魔物の追い払い、道標破損の報告。報酬千百ゴールド》
「これくらいでいいかな」
討伐が目的ではない。
街道を歩き、異常がないか確認する仕事で、小さな魔物が出ても積極的に追いかけて倒す必要はなく、街道から遠ざければいいらしい。昨日の今日なので、この平和そうな文面だけでもありがたかった。
私は依頼票を取り、受付へ向かった。
「東街道の巡回補助ですね」
「はい。今日はできれば平和に終わる仕事がしたくて」
受付担当は、昨日とは違う若い男性だった。細身で眼鏡をかけており、冒険者というより商会の帳簿係に見える。
「巡回なら討伐よりは危険度は低いですよ。ただ、絶対に何も起きないとは言えませんが」
「それ、昨日も似たこと聞いたなぁ」
「何かありましたか?」
「ゴブリン三匹程度って依頼を受けたら七匹いました」
「ああ、その報告なら見ました」
「ギルド内で共有されてるんですか」
「危険度差のあった依頼は記録されますから」
「じゃあ私はしばらく『三匹程度の人』なんですね」
「そういう記録のされ方はしていません」
真面目に返されてしまった。
私は少し笑いながら依頼の説明を受けた。
巡回範囲は、リーベル東門から伸びる街道を約二時間歩いた地点まで。その間に設置されている道標や休憩用の小屋、魔物避けの簡単な柵を確認し、破損や異常があれば紙へ記録する。街道付近へ小型魔物が出た場合は追い払うか、安全に倒せるなら討伐しても構わない。
「往復すると四時間以上ですよね」
「休憩を含めれば五時間くらいですね」
「意外と歩くなぁ」
「巡回ですから」
「まあ、昨日よりはいいか」
「昨日と比較すれば、かなり穏やかだと思います」
受付員はそう言った。
その言葉を、私は信じることにした。
東門を出ると、街道には朝から荷馬車が何台も走っていた。西側の農地とは違い、東街道は交易路として使われているらしく、道幅も広い。固く踏み固められた土の両脇には背の低い草原が広がり、その向こうにはなだらかな丘が続いている。
歩くだけなら、それほど大変ではない。
最初の一時間は本当に何も起きなかった。
道標を確認して紙へ丸をつけ、魔物避けの柵に壊れたところがないか見て回り、休憩小屋では屋根の端が少し欠けているのを見つけて記録する。それだけで、昨日のように何度も短剣を抜く必要もなければ、何かが茂みから飛び出してくるたびに身構えることもない。
「こういうのでいいんだよ、今日は」
誰もいない街道で、私はしみじみ呟いた。
冒険者らしさがあるかどうかは分からない。
でも、一日働いて報酬をもらえるなら、仕事としては十分だ。
昨日みたいに命の危険を感じながら稼ぐ二千七百五十ゴールドと、こうして街道を歩きながら異常を確認する千百ゴールドなら、毎日選ぶとしたら私は後者の方がいいと思う。もちろん、それだけで生活が成り立つならという条件はつくけれど、少なくとも毎晩無事に酒を飲める可能性は高い。
途中の休憩小屋で水を飲み、宿で用意してもらった黒パンと干し肉を食べた。昼食代は九十ゴールドで、今日は仕事の報酬が低めなので、夜のためにも昼は簡単に済ませるつもりだった。
問題は、その干し肉がかなり硬かったことだ。
噛んでも噛んでもなかなか千切れず、味は悪くないのに顎だけが疲れてくる。
「夜は柔らかいもの食べたいな」
そんなことを考えながら干し肉を噛んでいると、夕飯の方向性だけは少しずつ決まっていった。
昼に硬いものを食べたから、夜は柔らかいものがいい。昨日は分厚い肉を食べたので、今日はもう少し軽くてもいい。歩き回って足が疲れそうだから、できれば温かい汁物か煮込みが欲しい。
仕事中から夜のことばかり考えている時点で、冒険者として正しい姿勢なのかは分からない。
でも、私にとって仕事は仕事だ。
仕事のために生きているわけではない。
働いたあとに美味しいものを食べるために働いている。
会社員だったころと、その部分は変わっていなかった。
昼休憩を終えてさらに東へ進むと、二つ目の休憩小屋の近くで草が揺れる音がした。
昨日のことがあるので、私は少しだけ警戒して短剣へ手を伸ばしたが、草の陰から出てきたのは、猫より少し大きい灰色の獣だった。前歯が妙に長く、耳は小さく、身体は丸い。
「……これ、なんだっけ」
講習で見た覚えがある。
たしか《牙鼠》。
畑や街道沿いへ出る小型魔物で、人間を積極的に襲うことは少ないものの、荷袋や食料を齧るので嫌われている。
牙鼠はこちらを見つけると前歯を鳴らすようにして威嚇したが、わざわざ倒す必要はない。今日は討伐依頼ではないし、倒したところで追加報酬が出るわけでもないので、私は道端に落ちていた小石を拾い、相手の少し手前へ投げた。
石が地面へ当たると、牙鼠が一歩下がる。
もう一つ、今度は少し近くへ投げる。
すると相手は何度かこちらを見たあと、ようやく諦めたように草原の奥へ走っていった。
「よし。今日はそれでいい」
さらに三十分ほど歩いたところでもう一匹見つけたが、そちらも同じように街道から遠ざけた。
昨日は七匹のゴブリンを相手にし、今日は牙鼠を二匹追い払っただけ。
それだけの違いで、仕事中に空を見上げる余裕まである。
「平和って素晴らしいなぁ」
しみじみ思った。
折り返し地点へ着いたところで最後の道標を確認し、文字の一部が薄くなっているのを紙へ記録する。あとはリーベルへ戻るだけなので、私は少しだけ肩の力を抜いた。
帰り道も大きな問題は起きなかった。同じ道を歩くので多少退屈ではあるものの、景色を見る余裕があるというだけで昨日とはまるで違う。荷馬車が横を通れば道を譲り、商人らしい人から軽く挨拶されれば返す。
冒険というより散歩に近い。
「これで千百なら、悪くないなぁ」
ただし、一日終わるころには足がかなり重くなっていた。
結局、往復四時間以上歩いている。
戦闘はしていなくても、それなりに疲れる。
ギルドへ戻ったときには、受付へ行く前に一度だけ壁際の長椅子へ腰を下ろしたくなるくらいだった。
「東街道巡回、戻りました」
少し休んでから受付へ報告用紙を渡すと、朝と同じ受付員が内容を順番に確認していく。
「牙鼠を二匹追い払って、休憩小屋の屋根一か所と道標一か所に異常ですね」
「はい。今日は本当にそれだけでした」
「何もないのが一番ですよ」
「昨日のあとだと、心からそう思います」
受付員が書類に問題がないことを確認すると、報酬袋をこちらへ差し出した。
「報酬千百ゴールドです」
「ありがとうございます」
受け取った袋は、昨日よりずっと軽い。
でも、不満はなかった。
今日の昼食が九十ゴールドで、水袋の補充が十ゴールド。仕事のために使ったのは合わせて百ゴールドなので、今日一日だけで考えれば、実質千ゴールドほど手元に増えたことになる。
宿代三百は必要。
道具の修理も今のところ必要ない。
それなら、今夜はどのくらい使えるだろう。
「七百……いや、六百五十くらいかな」
少し考えた末、結局今夜の予算は七百ゴールドにした。
稼ぎが千百なので、半分以上を夕食へ使うことになる。
少し多い。
でも昨日の高報酬分はまだ残っているし、今日は昼も安く済ませた。
「七百まで。超えない」
自分へ言い聞かせるように呟き、小さな布袋へ七百ゴールドだけ移した。
今日は柔らかいものが食べたい。
昼の干し肉が硬かったから。
できれば温かいものがいい。
歩き回って身体が疲れているので、濃い肉料理より、汁物や煮込みの方が今の気分には合っていそうだった。
そんなことを考えながら、私はまだ歩いたことのない北東側の通りへ向かった。
夕方のリーベルは、毎日同じ街なのに、通る場所を少し変えるだけで雰囲気が違う。職人街は炭や鉄の匂いが強かったし、市場周辺は果物や香草の匂いが多かった。今日歩いている北東側には小さな宿や食堂が並び、旅人らしい客の姿も目立つ。
一軒目は入口から香辛料の匂いが強すぎたので今日は見送り、二軒目は中を覗いた時点ですでに満席だった。三軒目は葡萄酒を中心に出す店らしく、予算七百ゴールドでは料理まで十分に楽しめそうになかったので、そのまま通り過ぎる。
「なかなか決まらないなぁ」
でも、店を探す時間そのものは嫌いではない。
前の世界ならスマートフォンを開き、「居酒屋 近く 安い」などと検索して、評価や写真を何枚も見ながら選んでいただろう。
今はそんなものがない。
看板と匂いと値段。
それから、中の雰囲気。
自分の目と鼻だけで決めるしかない。
しばらく歩いたところで、細い路地の入口から妙にいい匂いが漂ってきた。
肉の脂というより、骨を長く煮込んだような匂い。
そこへ香草と焼いた麦の香りが混ざっている。
「……これ、絶対何か煮てる」
私は匂いにつられて路地へ入った。
看板に描かれていたのは、一杯の匙。
その下に《灰匙亭》と書かれている。
入口横の木札を見る。
麦酒百四十ゴールド。
燻し腸詰め二百二十ゴールド。
塩焼き根菜百三十ゴールド。
香草豆百ゴールド。
骨出汁麺二百六十ゴールド。
黒パン五十ゴールド。
「骨出汁麺」
そこで足が止まった。
麺。
この世界へ来てから、まだまともな麺料理を食べたことがない。
しかも骨出汁。
昼に硬い干し肉を食べながら「夜は柔らかいものがいい」と思っていた今の私には、かなり魅力的だった。
「ここにしよう」
扉を開ける。
店内は少し暗かった。
天井から吊るされた魔石灯は橙色で、明るさも控えめ。四人掛けの卓が三つと長いカウンターがあり、客は半分ほど入っている。
騒がしくはない。
それぞれが静かに酒を飲み、ときどき隣の人と話している。
昨日の《猪火亭》が熱気と声で満ちた店だったのに対し、こちらは落ち着いていた。
「一人か」
カウンターの奥から声がした。
店主らしい男は四十代後半くらいで、痩せ型。黒髪には白いものが混じっている。表情は少し無愛想に見えるが、声そのものは穏やかだった。
「はい」
「空いてるとこ座れ」
私はカウンターの端から三番目へ座った。
厨房の奥では、大きな鍋からゆっくり湯気が上がっている。
あれが骨出汁なのだろうか。
「麦酒と、燻し腸詰めください」
「二百六十」
「先払いですか?」
「後だ」
「よかった」
「何がだ」
「昨日、先払いの店だったので、ちょっと混乱してて」
「店による」
「そうですよね」
店主はそれ以上反応せず、注文を厨房へ通した。
少しして出てきた麦酒は、中くらいの濃さの琥珀色だった。昨日の《猪火亭》ほど濃くはないが、一昨日飲んだ薄麦酒ほど軽くもない。香りを嗅ぐと麦の甘さと軽い苦味がほどよく混ざり、一口飲んでみれば、強すぎず弱すぎず、今の疲れた身体にはちょうどいい濃さだった。
「……ちょうどいい」
「何が」
「濃さです。昨日、かなり濃い麦酒飲んだんですよ。その前の日は薄いのを飲んで、最初の日はその中間くらいで」
「麦酒飲み比べでもしてるのか」
「してるつもりはないんですけど、店が変わると全然違うから面白くて」
「造り手が違えば味も違う」
「やっぱりそうなんですね」
「ここのは東側の小さな醸造所だ。肉にも煮込みにも合わせやすい」
店主はそれだけ言うと、腸詰めを焼き始めた。
私は麦酒をもう一口飲んだ。
昨日の濃いものほど苦くないので、単体でもゆっくり飲める。
そこへ燻し腸詰めが運ばれてきた。
太めの腸詰めが二本。
表面には細かな焼き目がつき、皮のところどころが張っている。切り口からは粗く刻んだ肉が見え、油がじわりとにじんでいた。
皿の端には黄色いペーストが添えられている。
「これ、何の肉ですか?」
「岩山羊と角豚。半々だ」
「二種類混ぜてるんですね」
「山羊だけだと硬い。豚だけだと脂が多い」
「なるほど」
理屈としては分かる。
前の世界のソーセージでも、複数の肉を混ぜることはあったと思う。
私はナイフで一切れ切り、口へ入れた。
最初に皮がぱりっと割れ、そのあとから粗挽きの肉が出てくる。角豚らしい脂の甘さがありながら、岩山羊の肉なのか、赤身の部分はしっかりしていて少し野性味がある。
香草もかなり入っている。
鼻へ抜ける爽やかな香りのあとに、燻製の煙っぽさが残った。
「これ、ビール……じゃなくて麦酒にすごく合うなぁ」
慌てて言い直すと、店主がこちらをちらりと見た。
「麦酒は麦酒だろ」
「前の世界では似たような酒をビールって呼んでたんです」
「違うのか」
「似てるんですけど、こっちのは店によって違いすぎて、最近もう別物だと思い始めてます」
「飲めりゃいいだろ」
「それはそうなんですけど」
麦酒を飲む。
肉の脂と煙の香りを、ほどよい苦味がきれいに流してくれる。
次に黄色いペーストを少しだけつけると、舌へ乗った瞬間に酸味が広がり、そのあとから鼻の奥へ抜けるような辛味が来た。
「これ、からしっぽい」
「何だそれ」
「前の世界の調味料です。似たようなのがあって」
「黄刺種を潰して塩と酢で練ったやつだ」
「やっぱり作り方も近いんだ」
ただ、味は完全に同じではない。
前の世界の粒マスタードや練り辛子のどちらとも違い、こちらの方が酸味は強く、辛味は少し遅れて鼻へ抜ける。
でも、役割はよく分かる。
脂のある腸詰めにはぴったりだ。
「こういうの見つけると、ちょっと安心するなぁ」
「何がだ」
「前の世界にも似た食べ方があったので」
「前の世界?」
「ああ、遠いところです」
店主は少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
それが助かる。
この世界へ来た経緯を説明しようとしても、自分自身が何も分かっていない。
しばらくは食事に集中した。
腸詰めを食べ、麦酒を飲む。
黄刺種をつける。
また麦酒。
今日一日、街道を歩き続けていた疲れが少しずつ抜けていく。
足はまだ重い。
でも、座って酒を飲んでいるだけで、「仕事が終わった」という感覚が身体へ入ってくる。
前の世界でも同じだった。
退勤ボタンを押しただけでは、仕事が終わった気になれない日がある。
会社を出ても頭の中にはメールや資料のことが残っていて、明日の段取りまで勝手に考えてしまう。それが居酒屋へ入って一杯飲むと、ようやく一日が終わる。
「やっぱり必要なんだなぁ、これ」
「何が?」
また店主に拾われた。
「仕事と休みの境目です」
「酒が?」
「私の場合は、たぶん」
「面倒な生き方してんな」
「自覚はあります」
そのとき、少し離れた卓から愚痴が聞こえてきた。
「東の荷主、また『すぐそこ』って言ったらしいぞ」
「どこだった?」
「歩いて二時間」
「それはすぐそこじゃねぇだろ」
「商人の『すぐそこ』は信用するな」
私は危うく笑いそうになった。
昨日聞いたばかりの言葉と似ている。
冒険者の「三匹程度」は信用するな。
今日は商人の「すぐそこ」は信用するな。
「この世界、信用しちゃいけない言葉多いなぁ」
小さく呟いたが、今度は店主には聞こえなかったらしい。
私は腸詰めの最後の一切れを食べ、残っている麦酒を見た。
三分の一くらい。
ここで、かなり大事な問題が出てきた。
今夜の予算は七百ゴールド。
現在、麦酒百四十と腸詰め二百二十で、合計三百六十ゴールド。
残りは三百四十。
入口で見た骨出汁麺は二百六十ゴールドなので、それを頼めば残りは八十になる。一方、二杯目の麦酒は百四十ゴールドだから、もう一杯飲めば残りは二百となり、骨出汁麺には六十足りない。
「……困った」
「何が?」
「すごく大事な問題です」
店主が少しだけ眉を上げた。
「二杯目の麦酒を頼むか、骨出汁麺を頼むか」
「好きにしろ」
「それが決められないんですよ」
「腹に聞け」
「財布にも聞いてます」
「じゃあ両方に聞け」
雑な助言だった。
でも、たしかにそうだ。
腹に聞けば、まだ食べられる。
むしろ一日歩き回ったせいか、結構お腹が空いている。厨房の大鍋からずっと漂ってくる匂いも気になるし、昼に硬い干し肉しか食べていないことを思えば、最後に温かいものが欲しい。
では財布はどうか。
今夜の予算は七百ゴールド。
二杯目も骨出汁麺も両方頼めば、合計七百六十ゴールド。
六十ゴールドだけ予算を超える。
払えないわけではない。
本体の財布にはまだ十分な金がある。
「六十くらいなら……」
心の中に、かなり危険な声が出てくる。
たった六十。
昨日は千ゴールド以上使った。
今日だって千百ゴールド稼いでいる。
六十くらい誤差ではないか。
「……いや、その考え方が危ないんだよね」
「ずっと何と話してるんだ?」
「自分の財布です」
「返事すんのか」
「今、だいぶ揉めてます」
店主が初めて少し笑った。
「財布は何て?」
「一個にしろって」
「腹は?」
「両方」
「じゃあ財布が勝つな」
「なんでです?」
「払うのは財布だから」
「正論だなぁ」
私は腕を組み、本気で悩んだ。
二杯目の麦酒は欲しい。
この腸詰めとなら、もう一杯くらい簡単に飲める。
でも、骨出汁麺も食べたい。
あの鍋から立つ匂いをずっと嗅いでいる。
しかも今日は昼に硬い干し肉だけだったので、最後に温かくて柔らかいものを食べたい気持ちが、かなり強い。
「締めだな」
結局、私はそう決めた。
「骨出汁麺ください」
「あいよ」
二杯目は諦める。
少し惜しい。
でも、決めたら不思議とすっきりした。
店主が大鍋の蓋を開ける。
湯気が一気に上がり、骨と肉を長く煮たような濃い香りが店内へ広がった。
そこへ細く平たい灰色がかった麺を入れ、しばらく温める。
「この麺、何から作ってるんですか?」
「灰麦と白根粉」
「灰麦?」
「東の方でよく取れる麦だ。普通の麦より色が濃い」
「だから麺も灰色なんですね」
「そうだ」
数分後、深い木椀が目の前へ置かれた。
薄茶色の澄んだ汁の中に、細く平たい麺と白い根菜、細かく刻まれた肉が入り、表面には緑色の香草が少し浮いている。見た目だけなら素朴なのに、立ち上がる湯気には骨の濃い旨味が混じっていて、さっきまで二杯目を諦めたことを惜しんでいた気持ちが一気に薄くなった。
「いただきます」
まず汁を飲む。
思っていたより、ずっとあっさりしていた。
骨出汁と聞いて、もっと脂の強い濃厚なスープを想像していたけれど、実際は塩味を中心に骨から出た深い旨味が重なり、表面に浮いた脂もそれほど重くない。緑の香草が後味を軽くしているせいか、疲れている身体にもすっと入ってくる。
「ラーメンっぽい……いや、違うなぁ」
最初に浮かんだのはラーメンだった。
骨で出汁を取り、麺を入れる。
構造だけ見れば似ている。
でも、日本のラーメンとはかなり違う。
醤油も味噌もないし、油も少なく、香辛料も控えめだった。どちらかといえば、骨の旨味をしっかり出したスープへ穀物の麺を入れた料理で、ラーメンの代わりと思って食べるより、この骨出汁麺として味わった方がずっとしっくりくる。
麺を啜る。
柔らかい。
でも完全にふにゃふにゃというわけではなく、表面には少しざらつきがあり、噛むと小麦麺より穀物らしい香りと、わずかな甘さが出てくる。
「これ、疲れてる日にいいなぁ」
「よく言われる」
店主が答えた。
「荷運びとか護衛帰りがよく食う」
「分かります」
白い根菜を食べてみると、甘味があり、大根よりも繊維が多い。煮込んでも少し歯応えが残っているので、柔らかい麺の中でちょうどいいアクセントになっていた。
「この肉は?」
「牛鹿」
「牛なのか鹿なのか」
「牛鹿だ」
「そう言われると思いました」
この世界では、似たようなやり取りが増えてきた。
角兎。
灰角羊。
魔猪。
岩山羊。
角豚。
そして牛鹿。
前の世界の動物名に似た言葉がついていても、実際には別の生き物らしい。
牛鹿の肉は細かく刻まれているので食感は柔らかく、味はかなり赤身が強かった。
「骨も牛鹿ですか?」
「いや、岩牛」
「別なんだ」
「牛鹿の骨は出汁が軽い。岩牛の方が濃く出る」
「ちゃんと使い分けてるんですね」
「料理なんだから当たり前だろ」
「ですよね」
少し恥ずかしい。
異世界料理だからといって、全部が大雑把なわけではない。
食材ごとに向いている調理法があって、作る側はそれを知っている。
考えてみれば当然だった。
この世界の人たちにとって、角兎も魔猪も灰麦も珍しい異世界食材ではない。私が米や鶏肉の扱いを当たり前だと思っていたのと同じように、彼らには彼らの積み重ねてきた食べ方がある。
「そういうの、もっと知りたいなぁ」
「何が?」
「こっちの料理です」
「食ってりゃ覚える」
「それが一番楽そう」
「金はかかるぞ」
「そこなんですよねぇ」
私は苦笑した。
残り予算は八十ゴールド。
二杯目はもう無理。
でも、それでいい。
骨出汁麺を食べ進めるうちに、身体の疲れが少しずつ内側からほどけていく感じがした。
熱い汁。
柔らかい麺。
骨の旨味。
昼に硬い干し肉を噛みながら「夜は柔らかいものがいい」と思っていた自分に、そのまま食べさせてやりたいくらいだった。
「こっちにして正解だったな」
最後の汁まで飲み終え、私は椀を置いた。
「会計お願いします」
「六百二十ゴールド」
麦酒百四十。
燻し腸詰め二百二十。
骨出汁麺二百六十。
合計六百二十ゴールドで、予算七百に対して八十ゴールド残し。
「よし」
「またそれか」
「予算内に収まると、ちょっと嬉しいんですよ」
「二杯目はいいのか」
「今聞かないでください」
「飲みたいんだろ」
「飲みたいですけど、今日は締めが勝ちました」
「ならいいだろ」
その通りだった。
二杯目を飲めなかったことは少し惜しい。
でも、骨出汁麺を食べなかった方が、たぶんもっと後悔していた。
硬貨を払い、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
店を出ると、夜風が足元から身体を冷ましてくれた。
今日は東街道を何時間も歩き、牙鼠を二匹追い払い、壊れた休憩小屋と道標を記録しただけで、昨日のような大きな戦闘は一度もなかった。そのぶん報酬は千百ゴールドと昨日の半分にも届かなかったけれど、危険な目に遭わず戻ってきた今日の私には、それで十分だった。
今夜使ったのは六百二十ゴールド。
酒は一杯だけだった。
でも、燻した腸詰めを食べ、黄刺種の辛味を知り、初めて骨出汁麺を食べた。
それでかなり満足している。
「二杯目じゃなくて締めにしたの、珍しいな」
自分で少し笑う。
前の世界なら、たぶん逆だった日も多かった。
会社帰りに「締めは太るからやめよう」と言いながら、ビールだけ追加して、そのあと家へ帰ってから結局何か食べる。
今思えば、あれは何も節約できていなかった。
「成長したってことにしよう」
たった一回我慢しただけで成長と言っていいのかは分からない。
でも、誰かに評価されるわけではないので、好きに決めればいい。
宿へ向かいながら、私は今日一日のことを思い返した。
昨日みたいに予定外の魔物が増えたわけでもなければ、命の危険を感じるような戦いをしたわけでもない。ただ街道を歩いて、足を疲れさせて、千百ゴールドを受け取っただけだった。
それでも仕事のあとに一杯飲めば麦酒はちゃんと美味しかったし、昼に硬い干し肉を食べたからこそ、最後に飲んだ骨出汁の温かさが余計にありがたく感じられた。
大変な日だから酒が美味しいわけではないらしい。
平和に終わった日にも、その日に合った一杯と一皿がある。
今日の私は、二杯目の麦酒より骨出汁麺を選んだ。
たぶん、それでよかった。
「……まあ、二杯目も飲めたらもっと良かったけど」
そこだけは、どうしても否定できなかった。




