第3話「三匹って聞いてたんですけど」
冒険者ギルドの依頼板の前で、私は一枚の依頼票を三回ほど読み直していた。文字を読み間違えているわけではないし、この世界の文章にも少しずつ慣れてきたので、そこに書かれている内容そのものは理解できている。それでも何度も確認してしまったのは、最後に添えられている曖昧な一言が、妙に気になったからだった。
《リーベル西部・小麦畑周辺に出没するゴブリンの討伐。確認数、三匹程度。基本報酬千二百ゴールド。討伐一匹につき追加百五十ゴールド》
「三匹程度、ねぇ」
前の世界でも、「少しだけお願い」と言われて引き受けた仕事が、気づけば二時間以上かかっていたことがある。「簡単な修正です」と書かれた資料ほど直す場所が多かったし、「五分だけ打ち合わせしよう」と声をかけられて、本当に五分で解放された記憶もほとんどない。
だからなのか、この世界へ来てまだそれほど経っていないのに、私はすでに「程度」「少し」「簡単」といった言葉に対して、それなりの警戒心を持つようになっていた。
とはいえ、依頼そのものは悪くない。
三匹倒せば、基本報酬千二百ゴールドに追加四百五十ゴールドが加わり、合計千六百五十ゴールドになる。昨日の青露草採取が九百ゴールドだったことを考えると、かなりいい金額だった。もちろん今回は魔物討伐なので危険はあるが、ゴブリンについては訓練場で一度だけ模擬戦形式の講習を受けており、単独なら初心者でも十分対処できると教えられている。
問題があるとすれば、「三匹程度」の程度が、どの程度まで含むのかということくらいだった。
「まあ、三匹ならいけるかな」
私は依頼票を取り、受付へ向かった。
「西部のゴブリン討伐ですね」
今日の受付担当は、肩まで伸ばした焦げ茶色の髪を後ろで束ねた女性だった。年齢は三十前後だろうか。私が依頼票を置くと、彼女は内容を一通り確認してから顔を上げた。
「現在確認されているのは三匹ですが、ゴブリンは複数で行動することがあります。五匹以上いた場合は、無理に戦わず戻ってきてください」
「五匹以上なら撤退ですね」
「はい。特に一人の場合は数を相手にすると危険です。討伐証明は右耳になりますので、倒した個体から回収してください」
「三匹くらいなら大丈夫ですか?」
「装備と経験次第ですが、今のあなたなら慎重に戦えば問題ないと思います」
「その言い方、ちょっと怖いんですけど」
「絶対安全な討伐依頼はありませんから」
「そこはもう少し優しい嘘でもいいですよ」
受付嬢は困ったように笑ったが、訂正はしなかった。
正しい。
冒険者の仕事なのだから、危険があるのは当然だ。昨日みたいな採取依頼ばかり選んでいても生活はできるかもしれないが、少しでも稼ぎを増やそうと思えば、多少危険な依頼にも手を出す必要がある。
そして、報酬が増えれば、その日の夜に使える予算も増やせる。
私にとっては、その部分がかなり重要だった。
「ちなみに、この依頼って今日中に終われば報酬出ますよね?」
「もちろんです」
「よし」
「そこだけ急にやる気が出ましたね」
「今日の夕飯に関わるので」
「なるほど」
納得されてしまった。
それでいいのか冒険者ギルド、と少し思いながらも、私は受付嬢から西部の農地までの簡単な地図を受け取り、街を出た。
リーベル西門から目的地までは、歩いて一時間ほどだった。昨日の青露草採取でもかなり歩いているので、二日続けて徒歩一時間と聞くと少し気が重い。ただ、今日は薬草を探して何度もしゃがみ込む必要はないし、道もほとんど平坦だった。
街を離れるにつれて建物が減り、その代わりに広い畑が増えていく。小麦らしい黄金色の穂が風に揺れ、その間を細い農道が何本も伸びていた。前の世界でも田畑そのものは見たことがあるけれど、機械の音がまったくせず、遠くで農具を振るう人の姿しかない景色は、やはりどこか異世界らしい。
依頼人の農家は、畑の端に建つ大きな木造家屋にいた。
「あんたがギルドから来た冒険者か」
声をかけてきたのは、日に焼けた顔に深い皺のある男だった。五十代くらいで、腕は太く、腰には小さな鎌を差している。名前はボルド。依頼票に書かれていた農場主と同じ名前だった。
「ミサキです。ゴブリンが三匹出たって聞きました」
「ああ。昨日の夕方、あっちの林際で三匹見た。麦袋を一つ持っていかれて、鶏も二羽やられた」
「三匹で間違いないですか?」
念のため確認すると、ボルドは少し考えてから頷いた。
「俺が見たのは三匹だ」
「その言い方、ちょっと気になるなぁ」
「何だ?」
「いえ、確認です」
私が見たのは三匹。
つまり、三匹しかいないとは言っていない。
また前の世界の仕事みたいな話になってきたと思ったものの、この時点ではまだ、それほど深刻には考えていなかった。
ボルドに案内されて畑の西端まで行くと、その先に小さな林がある。林といっても深い森ではなく、少し先まで見通せる程度の木立だった。ゴブリンはそこを拠点にしているらしく、畑へ出てきては食料を盗んでいるという。
「麦はまだしも、鶏を持ってかれるのが困る。今朝から女房がずっと怒ってる」
「それは怖いですね」
「ゴブリンよりな」
「分かります」
何となく分かってしまう自分が悲しい。
私は短剣を抜き、革の小盾を左腕へ固定してから林へ入った。
ゴブリンを実際に見るのは、これが初めてだった。
訓練では絵や木製人形を使って特徴を教わっている。背丈は大人の腰から胸くらいまでで、緑がかった灰色の皮膚を持ち、簡単な武器を使う。知能はそれなりにあるが、人間と会話できるほどではなく、複数になると連携するため、初心者が油断すると危険らしい。
林へ入って十分ほど歩いたところで、最初の一匹を見つけた。
木の根元へしゃがみ込み、何かを食べている。手には干した麦の穂らしいものを握っており、腰には錆びた小刀を差していた。
「本当にいるんだ」
思わず小さく呟く。
スライムを初めて見たときにも思ったが、知識として存在を聞いているのと、実際に目の前で動いているところを見るのとでは印象がまるで違う。
ゲームや漫画に出てくるゴブリンなら何度も見たことがある。けれど、現実の林の中で、こちらに背中を向けて麦を噛んでいる姿を見ると、急に生き物としての存在感が増す。
できれば正面から突っ込みたくはない。
私は近くに落ちていた小石を拾い、少し離れた茂みへ投げた。葉が揺れて音がすると、ゴブリンはすぐに顔を上げ、何かを警戒するように首を巡らせてから、音のした方向へ身体を向ける。
その瞬間を待って、私は横から一気に距離を詰めた。
訓練で何度も言われたことを思い出す。小柄な魔物だからといって、いきなり首や胸を狙えば、外したときにこちらが危険になる。まず武器を持つ腕か脚を傷つけ、動きを止めてから確実に仕留める。
右腕を狙って短剣を振るうと、刃は浅く入り、ゴブリンが驚いたような声を上げた。相手が慌てて小刀を抜こうとしたところへ小盾を押しつけるようにぶつけ、体勢を崩した瞬間を逃さず首元へ短剣を突き込む。
思っていたより抵抗があった。
肉を切る感覚と、手に伝わる重さ。
スライムとはまったく違う。
数秒後、ゴブリンの身体から力が抜けた。
「……慣れないなぁ」
スライムには、ここまで生き物を殺している感覚がなかった。
だからといって、今さら依頼を放棄する気はない。畑を荒らし、人の食料を奪う魔物だと理解しているし、襲われればこちらも危ない。それでも、何も感じなくなるよりは、このくらいの引っかかりが残っている方がいいのかもしれない。
私は少し呼吸を整えてから、討伐証明として右耳を切り取った。
「これで追加百五十ゴールドか」
金額に置き換えてみると、急に現実的になる。
「いや、生々しいな、この考え方」
誰も聞いていないので、自分で突っ込んだ。
最初の一匹を倒してから、さらに林の奥へ進むと、今度は二匹が一緒にいた。
一匹は短い棍棒を持ち、もう一匹は石を括りつけたような粗末な槍を持っている。二対一になるが、ここまでは依頼内容の範囲内だった。
私はすぐには近づかず、木の陰に身を寄せながらしばらく様子を見る。二匹ともこちらには気づいていないようなので、できれば片方だけを引き離したい。
先ほどと同じように石を投げれば、今度は二匹とも動く可能性がある。そこで少し大きめの枝を拾い、なるべく遠くの茂みへ投げ込んでみると、派手な音に二匹とも振り向いたものの、棍棒を持った方だけが様子を見に歩き出した。
「よし」
小さく息を吐き、十分に距離が開いたところで背後から近づく。
ただ、完全な不意打ちにはならなかった。足元の枝を踏み、乾いた音を鳴らしてしまった瞬間、棍棒持ちのゴブリンが振り返り、こちらへ向かって武器を振り下ろしてきた。
小盾で受けようとして、すぐにやめる。
小盾は何でも受け止める道具ではない。
重い一撃は逸らすか、そもそも当たらない位置へ動け。
訓練で繰り返された言葉を思い出し、身体を横へずらすと、棍棒は肩先をかすめて地面へ落ちた。その隙に相手の太腿へ短剣を入れ、動きを鈍らせる。
当然ながら、その叫び声を聞いたもう一匹もこちらへ向かってきた。
「やっぱりそうなるよね」
私は最初の一匹を急いで仕留めると、すぐに槍持ちへ意識を切り替えた。
突き出された粗末な槍を小盾で横へ払い、棒の部分へぶつけるようにして軌道を外す。そのまま距離を詰め、武器を持つ腕を切りつけてから、二度目の踏み込みで胸元へ短剣を突き込んだ。
二匹目の身体も地面へ崩れる。
私はしばらくその場から動かず、荒くなった呼吸を落ち着かせた。
これで三匹。
依頼票に書かれていた数だけなら、もう終わりである。
討伐証明を回収して布袋へ入れながら、頭の中で金額を計算する。基本報酬千二百ゴールドに、三匹分の追加四百五十ゴールドで、合計千六百五十ゴールド。
「今日は結構飲めるなぁ」
昨日の九百ゴールドよりかなり多い。
宿代や昼食を引いても、いつもより少し良い店に入れそうだった。
そんなことを考えながら林を出ようとしたところで、左側の茂みが大きく揺れた。
現れたのは、また一匹のゴブリンだった。
「……四匹目?」
右手には細い木の棒を持ち、こちらを見つけるなり威嚇するような声を上げている。受付嬢から言われた撤退基準にはまだ届いていないし、一匹だけなら対処できるだろうと判断して、私は短剣を構え直した。
四匹目は、先ほどまでの戦いで少し慣れてきたこともあり、それほど苦労せず倒せた。
予定より一匹増えたことで追加報酬も百五十ゴールド増える。
「まあ、このくらいなら」
そう思った直後だった。
木の向こうから、さらに二つの影が現れた。
今度は同時だった。
これまで倒した数を合わせれば、確認したゴブリンは六匹になる。
その瞬間、受付嬢の言葉が頭へ浮かんだ。
五匹以上確認した場合は、無理に戦わず戻ってきてください。
私は迷わず撤退を選んだ。
倒した証明はすでに四匹分あるし、依頼としては十分だ。予定より二匹多い相手へわざわざ一人で突っ込む理由はない。
問題は、こちらが帰るつもりでも、ゴブリン側まで同じ意見とは限らないことだった。
林の出口へ向かって走り始めると、すぐ後ろから複数の足音が追ってくる。振り返れば、二匹とも諦めずに追跡しており、そのうち一匹は距離を少しずつ詰めていた。
「いや、追ってこなくていいから!」
当然ながら通じない。
林の地面には木の根が張り出していて、全力で走れば転ぶ危険がある。このまま背中を見せ続ける方が危ないと判断し、私は太い木の脇まで走ったところで急に方向を変えた。
先頭を走っていたゴブリンが反応しきれず身体を流したところへ、小盾を横からぶつける。体勢を崩して地面へ倒れた相手を短剣で仕留め、立ち上がるより早く、もう一匹へ視線を向けた。
二匹目は石斧のような武器を持っている。
横薙ぎの一撃を後ろへ下がって避け、続けて振り下ろされた攻撃を身体ごと横へ逃がす。その直後、伸びきった腕へ短剣を入れ、痛みで動きが止まったところへ腹から身体を押し込むように蹴りを入れた。
相手が大きくよろめいたところで首元へ刃を突き込む。
ようやく静かになった。
これで六匹。
息はかなり荒くなっていた。
もう十分だと思った。
本当に、今度こそ帰る。
私は急いで二匹分の討伐証明だけを回収し、林の出口へ向かった。少し先には畑の明るさが見えており、あと少しで安全な場所へ出られる。
そこで、右側の低木がまた大きく揺れた。
嫌な予感がした。
そして、その予感は当たった。
一匹のゴブリンが、ほとんど飛び出すような勢いで茂みから現れた。
「まだいるの!?」
七匹目だった。
もはや驚くより腹が立った。
相手は棍棒を振り上げ、こちらへ向かって勢いよく距離を詰めてくる。私は振り下ろされた一撃を小盾の端で横へ流し、そのまま脇へ回り込んで短剣を振った。
一撃目は浅い。
ゴブリンが振り返り、再び棍棒を振るう。
今度は盾で正面から受けず、身体を半歩ずらしながら端へ当てるようにして力を逃がした。それでも腕にはかなりの衝撃が残り、指先まで痺れる。
「三匹って聞いてたんですけど!」
ゴブリンに文句を言っても仕方がない。
分かっている。
それでも、今日一番言いたかった言葉が、とうとう口から出た。
相手が勢いのまま踏み込んできたところを横へかわし、脇腹へ短剣を入れる。身体が前のめりになった瞬間に背後へ回り、首元へ刃を押し込むと、ようやく七匹目の動きも止まった。
林の中が静かになった。
私はしばらくその場に立ったまま、息を整えることしかできなかった。
「……三匹程度って、何なんだろう」
当然、答えてくれる人はいない。
七匹分の討伐証明を袋へ入れ、今度こそ林から出た。
畑まで戻ると、ボルドがこちらへ駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「七匹いました」
「七?」
「七匹です」
「そんなにいたのか」
「三匹って聞いてたんですけど」
「俺が見たのは三匹だったからな」
「やっぱりそういう意味だったんですね」
依頼人が嘘をついていたわけではない。
ただ、納得しやすいかどうかは別だった。
ボルドは申し訳なさそうな顔をしながら、私が持っている袋へ目を落とした。
「全部倒したのか?」
「結果的には。でも途中でちゃんと帰ろうとしたんですよ。追ってきたので、戦うことになっただけです」
「助かった。これでしばらく畑には出ないだろう」
「そうだといいです。次に来たとき八匹とかいたら、私はもう信用しませんからね」
ボルドは苦笑しながら、何度も礼を言った。
鶏も麦も盗まれなくなるなら、それ自体は良いことだ。
私としても、無事に戻れた以上、追加報酬が増えるのはありがたい。
帰り道では、腕の痛みを気にしながら何度も金額を計算した。
基本報酬千二百ゴールド。
七匹分の追加が千五十ゴールド。
合計二千二百五十ゴールド。
「二千超えたなぁ」
昨日の九百ゴールドの倍以上。
かなり大きい。
ただ、最後に盾へ衝撃を受けた腕が少し痛む。怪我というほどではないものの、明日は軽い仕事にした方が良さそうだった。
その代わり、今日は食べたいものがはっきりしている。
「肉だな」
七匹も相手にしたのだ。
今日くらい、豆や茸ではなく、厚い肉を食べたい。
できれば見ただけで「今日は頑張った」と思えるくらい、大きいやつがいい。
リーベルへ戻ったころには、空が赤く染まり始めていた。
私はそのままギルドへ向かい、受付台の前へ立った。
「討伐依頼の報告です」
「お疲れさまでした。三匹は確認できましたか?」
「七匹いました」
受付嬢の手が止まった。
「……七匹ですか?」
「七匹です」
「一人で?」
「途中で撤退しようとはしたんですけど、追ってきたので結果的に全部倒しました」
私は布袋から討伐証明を取り出し、一つずつ受付台へ並べていく。三つを置いたところでもまだ袋には残っており、四つ目、五つ目と数が増えるたびに受付嬢の表情が少しずつ固くなった。
最後の七つ目を置いたところで、私は改めて彼女を見た。
「三匹って聞いてたんですけど」
「申し訳ありません。依頼人からの確認報告が三匹だったため、ギルド側もその数で掲載していました」
「嘘じゃないのは分かるんです。でも、三と七ってだいぶ違いません?」
「違いますね」
「でしょう?」
受付嬢が真剣な顔で頷いたので、少しだけ救われた気がした。
「群れが想定より大きかったことと、単独依頼だったことを考慮して、緊急追加報酬を申請できます。少々お待ちください」
「追加?」
「はい。危険度が掲載内容を大きく上回っていた場合、ギルド判断で補填が出ることがあります」
これはありがたい。
少し待っていると、受付嬢が奥から戻ってきた。
「基本報酬千二百ゴールド、討伐追加七匹分で千五十ゴールド、それから危険度差による特別追加で五百ゴールド。合計二千七百五十ゴールドです」
「二千七百五十?」
「はい」
思わず聞き返した。
受付台に置かれた革袋は、明らかに昨日より重そうだった。
「……七匹でもいいかも」
「さっきまで怒ってませんでした?」
「報酬を聞く前と後では感情が違います」
「分かりやすいですね」
「大事ですよ、お金」
受付嬢が笑った。
「でも次に同じ状況になったら、本当に無理せず戻ってくださいね」
「今回はちゃんと戻ろうとしたんですよ」
「結果として七匹倒しています」
「そこだけ聞くと、私が欲張ったみたいだからやめてください」
私は革袋を腰へしまった。
今日の稼ぎ、二千七百五十ゴールド。
かなり良い。
だからといって全部を飲み代にするほど無計画ではない。
ギルドを出たところで、私は人通りの邪魔にならない場所へ寄り、今夜使う金だけを小さな布袋へ移した。
「千二百まで」
普段よりかなり多い。
宿代三百ゴールドは別。
明日の生活費も別。
今夜だけで使える金は千二百ゴールド。
七匹分の疲労には、それくらい使ってもいいと思う。
今日は肉を食べる。
そこだけは譲らない。
昨日は安い立ち飲み屋だったので、今日はしっかり座って食べられる店がいい。できれば肉料理が中心で、酒も少し濃いものが飲みたい。
大通りを一本外れ、職人街の方へ進む。夕方のこの辺りは、仕事を終えた鍛冶職人や革職人が多く歩いていて、市場周辺とは少し違う賑わいがあった。
一軒目は魚料理が中心だったので見送った。
美味しそうではあったが、今日は魚ではない。
二軒目は煮込み料理が売りらしく、入口から肉の匂いも漂ってきた。それでも、今日欲しいのはもっと直接的に焼いた肉だった。
三軒目の前で、私は足を止めた。
炭の匂いがする。
それも、かなり強い。
店先には赤く焼けた鉄板が置かれ、その上で大きな肉の塊がじゅうじゅうと音を立てていた。脂が落ちるたびに煙が上がり、その中に焦げた肉の香ばしさと、少し刺激のある香辛料の匂いが混ざっている。
看板には《猪火亭》と書いてあった。
「ここだな」
ほとんど迷わなかった。
入口横の木札を見る。
麦酒百六十ゴールド。
魔猪の厚切り炙り四百八十ゴールド。
角豚の脂焼き三百ゴールド。
燻し骨肉二百六十ゴールド。
焼き根菜百四十ゴールド。
酸味菜百ゴールド。
黒麦パン六十ゴールド。
「今日は払える」
少し嬉しい。
昨日までなら四百八十ゴールドの肉料理を見た時点で諦めていたかもしれない。しかし、今日の予算は千二百ゴールドある。
厚切り炙りを頼んでも余裕がある。
店へ入ると、すぐに熱気が顔へ当たった。
広さはそれほどでもないが、客席はほぼ埋まっている。職人風の男たちと冒険者が半々くらいで、皆よく食べ、よく飲んでいた。壁には大きな肉切り包丁や使い込まれた鉄串が飾られ、奥には炭火台と厚い鉄板が並んでいる。
「一人?」
声をかけてきたのは、二十代くらいの若い男だった。黄褐色の髪を布で押さえ、袖を肘までまくっている。
「一人です」
「カウンター空いてるよ。奥から二つ目」
「ありがとうございます」
言われた席へ座ると、目の前ではちょうど鉄板の上で肉が焼かれていた。
大きい。
あれが何の肉かは分からないが、私の手のひらより大きな一枚肉を豪快に焼いている。
「何にする?」
「麦酒と、魔猪の厚切り炙り。それから焼き根菜ください」
「麦酒一、魔猪一、根菜一!」
店員が奥へ声を飛ばした。
合計七百八十ゴールド。
まだ四百二十残る。
余裕だ。
「……いいなぁ、今日」
思わず小さく笑った。
「景気いいね」
隣の席から声がした。
見ると、大きな斧を背負った男が座っていた。四十前後だろうか。肩幅が広く、腕も私の倍くらいある。
「今日だけです。ゴブリン七匹倒したので」
「七匹?」
「三匹って聞いてたんですけど」
「それは災難だったな」
「そうなんですよ」
初対面なのに、その一言だけで少し気持ちが軽くなる。
「でもその分、報酬が増えたので今日は肉です」
「分かりやすくていいな」
「働いた分くらい食べてもいいでしょう」
「その考え方は好きだ」
男は自分の杯を上げた。
私はまだ酒が来ていなかったので、何となく空の手を上げて返した。
少しして、麦酒が置かれた。
昨日の薄麦酒とは全然違う。
赤みのある濃い琥珀色で、泡もしっかり立っている。香りを嗅ぐと、麦の甘さより先に、少し焦がしたような香ばしさが鼻へ入った。
一口飲んでみると、最初に感じたのはしっかりした苦味だった。ただ苦いだけではなく、焦がした麦のような香ばしさと軽い甘みが先にあり、そのあとから舌へ苦味が残る。
「肉用って感じだなぁ」
「うちの麦酒は濃いぞ」
店員が言った。
「分かります。昨日飲んだのと全然違う」
「昨日どこで?」
「立ち飲みの店で薄麦酒」
「ああ、それなら真逆だな」
「同じ麦酒って名前なのに、こんな違うんですね」
「造ってる工房も麦も違うからな」
なるほど。
前の世界でも、ビールにはいろいろあった。
ラガーもあればエールもあり、黒ビールも白ビールもある。この世界でも、「麦酒」という一つの言葉の中に、かなり幅があるらしい。
そこへ焼き根菜が運ばれてきた。
黄色、白、緑の三種類が厚めに切られ、油と塩、それから赤い香辛料で焼かれている。黄色い根は甘く、栗に少し似ているが、もっと水分があった。白い根は噛むと汁が出て、ほんのり辛味があり、緑の茎のような野菜にはしっかりした苦味がある。
「これだけでも酒進むなぁ」
麦酒を飲む。
濃い苦味が、油の残った口をきれいにしてくれる。
そして、待っていたものが来た。
「魔猪の厚切り炙り!」
皿を見て、私は一瞬言葉を失った。
名前通り、本当に厚い。
肉は少なくとも指二本分ほどの厚さがあり、表面には濃い焼き目がついている。中心近くにはわずかに赤みが残り、粗い塩と黒い粒状の香辛料が散らされていた。
横には、濃い緑色の葉が添えられている。
「魔猪って、猪ですか?」
「山にいる魔物。普通の猪よりでかいし、牙も硬い」
「今日戦ったゴブリンより強そう」
「比べもんにならんね」
「じゃあ私は、しばらく会わない方がいいですね」
「絶対そうした方がいい」
店員が笑った。
私はナイフで肉を切る。
もっと力が必要かと思ったが、意外にすっと刃が入った。
一口食べる。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
豚肉に近い。
でも、それだけではない。
脂は甘く、しっかり存在感があるのに、思ったほどしつこくない。赤身の部分は豚より少し硬く、噛むほど肉そのものの味が濃くなっていく。
猪肉に近いのかもしれない。
前の世界で一度食べた猪より、さらに赤身の味が強く、後味には少し鉄っぽさも残る。そこへ炭火の香りが重なり、野性味まで料理の一部になっていた。
「これ、今日の正解だ」
「何が?」
隣の男が聞く。
「七匹倒したあとに食べる肉として正解です」
「そりゃ良かった」
「これなら七匹でも……いや、やっぱり依頼は三匹がいいな」
「そこは変わらんか」
「危ないのは嫌なので」
私はもう一切れ食べた。
塩だけでも十分美味しい。
そこへ添えてあった緑の葉を少し噛んでみると、思っていた以上に強い苦味と青い香りが広がった。
「これ、かなり苦いですね」
「山清葉だ。脂の多い肉と一緒に食べる」
店員に言われた通り、今度は肉と一緒に口へ入れる。
たしかに違う。
葉の苦味と爽やかな香りが脂を切り、口の中を一度軽くしてくれる。そのおかげで、また次の一口が欲しくなる。
「なるほどなぁ」
前の世界なら、大根おろしやわさび、柚子胡椒みたいな役割に近いのかもしれない。ただ、味そのものはまったく違う。
山清葉はもっと青く、少し薬草に近い香りがある。
「何かに似てるんだけどなぁ」
考えてみる。
でも、しっくり来ない。
結局、今日も同じ結論になった。
「まあ、似てなくてもいいか」
私は肉を食べ、麦酒を飲んだ。
その組み合わせがあまりに良くて、途中から前の世界の料理を思い出すこと自体がどうでもよくなっていた。
しばらく食べていると、隣の男が口を開いた。
「ゴブリン七匹って、一人でやったのか?」
「結果的には」
「初心者だろ?」
「たぶん、まだかなり」
「よく生きて帰ったな」
「受付にも似たようなこと言われました」
「五匹以上なら逃げろって習うだろ」
「逃げました」
「七匹倒したんだろ?」
「逃げたら追ってきたんです」
「最悪だな」
「そうなんです」
ようやく分かってくれる人がいた。
「しかも依頼人が見たのは三匹だったから、依頼票も三匹程度って書いてあって」
「冒険者の『三匹程度』は信用するな」
「そんな格言あるんですか?」
「今作った」
「やめてくださいよ」
男は豪快に笑った。
「まあ、次からは群れの跡見つけたら数を決めつけるな。糞とか足跡とか見りゃ、大体何匹いるか分かる」
「そういうの、講習で教えてほしい」
「たぶん教えてるぞ」
「じゃあ聞いてなかったかも」
「新人あるあるだな」
少し悔しい。
でも、覚えておこう。
今日七匹と戦った経験を、ただの災難で終わらせるのはもったいない。
「魔物って、食べられるの多いんですか?」
ふと、目の前の魔猪を見ながら聞いた。
「多いな」
男が答える。
「牙猪も若いのなら食える。角兎、火鶏、沼牛、砂走鳥。食えるやつは結構いる」
「ゴブリンは?」
「食わん」
「よかった」
「何がよかったんだ」
「今日の夕飯に出てきたら、ちょっと嫌だなって」
想像してしまった。
さすがに食欲が落ちる。
「冒険者って、倒した魔物を持って帰るんですか?」
「金になるならな。でかいのは解体屋呼ぶ」
「一人だと大変そう」
「だから狩り専門は仲間組むやつが多い」
なるほど。
今日のゴブリン七匹だけでも討伐証明を持ち帰るので精一杯だった。魔猪みたいな大きな魔物を倒して、その肉まで運ぶとなれば、一人では難しい。
「食べるために倒すのも大変なんですね」
「普通、先に金になるか考えるけどな」
「私は食べられるかから考えます」
「変わってるな」
「自覚はあります」
肉はどんどん減っていった。
最初に見たときは量が多いと思ったのに、酒と一緒だと意外に食べられる。気づけば麦酒も空になりかけていた。
私は小さな布袋の中身を思い出しながら、頭の中で計算する。
今のところ七百八十ゴールド。
残り四百二十。
二杯目の麦酒が百六十。
酸味菜が百。
両方頼んでも二百六十で、まだ百六十残る。
「今日は余裕あるなぁ」
この感覚は危ない。
前の世界でも、給料日直後だけ財布の紐が緩むことがあった。
でも今日は、本当に頑張った。
「麦酒もう一杯と、酸味菜ください」
「あいよ!」
二杯目の麦酒と一緒に出てきた酸味菜は、細切りにした赤紫色の野菜を、酢のような液体と香草で和えた料理だった。
一口食べると、かなり酸っぱい。
でも、その酸味が肉のあとにはちょうどいい。
「これ、漬物みたいな感じだな」
正確には違う。
日本の酢の物にも近いし、ピクルスにも近い。ただ、香草の香りが強く、甘味がほとんどない。
脂の多い肉の合間に食べると、一度口の中がきれいになる。
「順番って大事だなぁ」
肉を食べる。
酸味菜を挟む。
麦酒を飲む。
そして、また肉へ戻る。
気づけばその流れが完全にできていた。
店の中は相変わらず賑やかだった。
少し離れた席から、職人らしい男の愚痴が聞こえてくる。
「納期が明日とか聞いてねぇぞ」
「親方は三日前から言ってたぞ」
「聞いてねぇ」
「お前が聞いてなかっただけだ」
私は思わず笑ってしまった。
今日の自分と少し似ている。
三匹って聞いていた。
でも実際は七匹いた。
ただ、あちらは本人が聞いていなかっただけらしい。
「どこの世界でも、仕事って予定通りいかないなぁ」
「何か言った?」
店員が聞く。
「仕事の話です」
「ここじゃみんなしてるよ」
「ですよね」
この店では、誰も世界の危機について話していない。
明日の納期。
今日の給料。
壊れた道具。
安い宿。
最近値上がりした麦。
そういう話ばかりだった。
冒険者も職人も、結局は働いて生活している。
当たり前のことなのに、異世界へ来たばかりのころの私は、ここにはもっと大きな冒険しかないような気がしていた。
でも実際には、今日みたいな日がほとんどなのかもしれない。
予定より魔物が多かった。
ちょっと危なかった。
その分報酬が増えた。
だから夜に肉を食べる。
それで一日は終わる。
「……悪くないな」
私は残っていた麦酒を飲んだ。
最初の一口では少し強いと感じた苦味が、今ではずいぶん美味しく思える。魔猪の脂を何口も食べたせいなのか、この酒がどういう料理と合うのか、少しだけ分かってきたからなのかもしれない。
昨日の薄麦酒には、豆と茸がちょうどよかった。
今日の濃い麦酒には、魔猪の厚い肉がよく合う。
店によって酒も料理も違えば、飲み方まで変わる。
それを一軒ずつ知っていくのは、思っていた以上に楽しい。
食べ終わるころには、腹もかなり満たされていた。
「会計お願いします」
「千四十ゴールド」
麦酒二杯で三百二十。
魔猪の厚切り炙り四百八十。
焼き根菜百四十。
酸味菜百。
合計千四十ゴールド。
予算千二百に対して、百六十ゴールド残し。
「よし」
「何が?」
「予算内です」
「今日は景気よかったのに、ちゃんと計算してたんだ」
「そこは大事です」
「冒険者向いてるかもな」
「戦いじゃなくて財布管理で評価されたくないんですけど」
「生き残るには大事だぞ」
それは少し納得した。
私は硬貨を払い、席を立った。
隣の男へ軽く会釈すると、彼は杯を上げた。
「次は三匹で済むといいな」
「本当にそう思います」
「でも七匹ならまた肉食えるぞ」
「危ない仕事しないと肉食べられないみたいに言わないでください」
「違うのか?」
「……否定しづらいなぁ」
店を出る。
夜の空気は、店内の熱気を浴びたあとだと少し冷たく感じた。
腹はいっぱい。
腕はまだ少し痛い。
でも、林を出た直後ほどの疲れは残っていない。
今日の稼ぎは二千七百五十ゴールド。
そのうち千四十ゴールドを、初めて入った酒場で使った。
魔猪の厚切り炙りは、前の世界で食べた豚とも猪とも少し違っていた。脂は甘く、赤身は濃く、山清葉の苦味と合わせると何度でも次の一口が欲しくなった。
濃い麦酒も、昨日の薄麦酒とはまるで別物だった。
同じ世界の同じ街なのに、一軒店が変わるだけで、こんなに違う。
私は腰の革袋へ手を置いた。
今日の報酬はまだ十分残っている。
宿代を払っても余裕があるし、少しくらい貯金も増やせそうだ。
大変だった。
できればもうやりたくない。
でも、今日食べた肉は美味しかった。
その二つは両立する。
嫌な仕事だったから、美味しいものを食べて全部帳消しになったわけではない。七匹いたことは今でも腹が立つし、次に同じ依頼票を見たら、「三匹程度」の横へ小さく「本当に?」と書き足したいくらいには疑っている。
それでも、一日の終わりに今日のことを愚痴りながら酒を飲み、分厚い肉を食べたら、腹立たしさが少しだけ笑い話へ変わった。
前の世界でも、そういう夜はあった。
上司に振り回された日。
予定外の仕事が増えた日。
帰る直前に修正を頼まれた日。
その日は絶対に許さないと思っていたのに、居酒屋で一杯飲みながら誰かに愚痴ると、翌朝には少しだけ気持ちが軽くなっていた。
違うのは、今の愚痴の内容が「資料の修正が増えた」ではなく、「ゴブリンが四匹多かった」ことくらいだ。
「だいぶ違うけどね」
自分で考えて、自分で突っ込む。
それでも、少し笑えた。
宿へ向かう道を歩きながら、私は今日の依頼票に書かれていた文字をもう一度思い出した。
三匹程度。
「……次から『程度』は信用しない」
七匹分働いた日の結論としては、それで十分だった。




