第2話「薬草って、見つからない日は本当に見つからない」
朝食を食べ終えた私は、《銀鈴の宿》の食堂の隅で財布代わりの革袋を開き、昨夜から何度目になるか分からない所持金の確認をしていた。
昨日、初めて一人でスライムを十七匹倒して千ゴールドを稼ぎ、そのうち五百八十ゴールドを居酒屋で使った。麦酒を二杯、角兎の炙り串を二本、それから灰角羊と根菜の煮込みまで食べて、かなり満足した夜だったので使ったこと自体に後悔はない。ただ、そのあと宿代として三百ゴールドを払い、もともと持っていた少しばかりの蓄えと合わせて計算すると、現在の全財産は六百二十ゴールドしかない。
「……昨日は幸せだったんだけどなぁ」
硬貨を一枚ずつ数えながら呟くと、向かいの席で朝食を食べていた年配の商人が一度だけこちらを見た。知らない人に財布の中身を聞かせる趣味はないので、それ以上の独り言は飲み込み、革袋の口をしっかり縛る。
昨夜は間違っていなかった。そこは本当にそう思う。
異世界へ来て初めて自分一人の力で稼いだ金で、初めて入る居酒屋へ行き、知らない酒と知らない料理を腹いっぱい楽しんだ。一日の終わりとしては文句のつけようがないし、あれを「節約すればよかった」と後悔するくらいなら、最初から飲みに行かない方がいい。
問題は、幸せな夜の翌朝にも生活が続くことである。
会社員だったころなら給料日は月に一度で、多少使いすぎた翌日でも口座残高を見ながら次の給料日までどう配分するか考えればよかった。しかし、今の私は冒険者で、基本的には働いた日に働いた分だけ金が入る。仕事をしなければ収入はゼロなので、昨日の余韻に浸って昼まで寝ていれば、今夜使える金も増えない。
「今日も働かないと飲めない、と」
言葉にしてみると、非常に分かりやすい。
私は席を立ち、宿の主人へ朝食の礼を言って外へ出た。
朝の《リーベル》は、夕方とはまるで違う顔をしている。荷車が石畳を鳴らしながら市場へ向かい、パン屋から焼きたての匂いが流れ、冒険者ギルドの前には仕事を探す人間がすでに何人も集まっていた。昨日の私は、この時間から南の草原へ向かってスライムを探し回ったわけだが、今日はできれば粘液を浴びない仕事がいい。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前はすでに混み合っていた。
「朝、混みすぎじゃない?」
思わず漏れた愚痴に反応したのか、隣で依頼票を見ていた若い男が小さく笑う。
「いい依頼は早い者勝ちだからな」
「その仕組み、もう少しどうにかなりません?」
「ギルドに言えよ」
「昨日から何でもギルドに言えって言われるんですけど」
「冒険者だからな」
何の説明にもなっていない気がする。
私は人の肩越しに依頼票を確認し、討伐系の依頼をいくつか見送った。昨日十七匹もスライムを相手にしたばかりで、今日は朝から積極的に魔物と戦いたい気分ではない。そんな中、依頼板の少し下の方に、採取系の札が一枚残っているのを見つけた。
《青露草の採取。十五束以上。一束六十ゴールド。品質不良品は買い取り対象外》
場所はリーベル北西の草地と、その先にある林の縁。
「十五束なら九百ゴールドか」
十五という数字だけを見ると、昨日のスライム十七匹より楽そうに思える。青露草という名前も聞いたことがあり、初心者向けの採取依頼で何度か扱われる植物らしい。薬や湿布に使う草で、朝露が乾いたあとでも葉の表面が青白く光るのが特徴だと、以前の講習で教わった記憶がある。
戦闘なし。粘液なし。見つけて摘むだけ。
「今日はこれでいいかな」
依頼票を取り、受付へ持っていった。
担当してくれたのは昨日とは別の受付嬢で、明るい茶色の髪を肩口で切り揃えた、まだ若そうな女性だった。
「青露草の採取ですね。十五束で依頼達成となりますが、それ以上持ち込まれた分も同じ単価で買い取ります」
「じゃあ二十束取れば千二百ゴールド?」
「品質に問題がなければそうなります。ただ、街の近くは最近かなり採られているので、数を集めるなら少し奥まで行った方がいいと思いますよ」
「少し奥って、どれくらいです?」
「北西門から歩いて一時間くらいですね」
一時間。
そのくらいなら許容範囲だと思った。
「分かりました。二十束くらい目標にしてきます」
「無理に数を増やそうとして遅くならないようにしてくださいね。林へ深く入りすぎると小型魔物も出ますから」
「戦いたくないので、そこは大丈夫です」
今日は本当にそのつもりだった。
受付で採取用の小さな麻袋を借り、私は北西門から街の外へ出た。
天気はよく、雲も少ない。朝の空気にはまだ涼しさが残っていて、歩き始めたころは今日は楽な仕事になりそうだと思っていた。道の両側には背の低い草が広がり、ところどころに白や黄色の小さな花が咲いている。
青露草の特徴は分かっている。
細長い葉が根元から五、六枚伸び、表面に薄い青色の光沢がある。茎は柔らかく、根元近くを切ると独特の甘い匂いがする。
一束は、根元をまとめて手のひらで握れる程度。
見つけさえすれば難しくない。
そう思っていた。
「……ないんだけど」
街を出て三十分ほど歩いたところで、私は道端へしゃがみ込みながら眉を寄せた。
草は大量に生えている。
似た形の植物も山ほどある。
しかし肝心の青露草が見つからない。
最初の十分くらいは、まだ街に近いから採られたのだろうと思っていた。ところが二十分歩いても見つからず、三十分を過ぎても、収穫できたのはたった二束だった。
「昨日の受付の人じゃないけど、こういうときこそ採取手当とか欲しいなぁ」
誰もいないので、今日は気兼ねなく愚痴を言える。
足元に生えていた細長い葉を摘み、光にかざしてみる。
「これ……青い?」
一瞬だけそう見えたが、葉を傾けるとただの灰緑色だった。
「違うか」
捨てる。
そのすぐ横に、少しだけ青みを帯びた葉があった。
「今度こそ」
摘んで匂いを嗅ぐ。
青露草なら甘い香りがするはずなのに、鼻へ届いたのは青臭さと、少し土っぽい匂いだけだった。
「これも違う」
見た目が似た草ばかりで、地味に腹が立つ。
前の世界で言えば、資料の中から必要な数字だけを探す仕事に少し似ていた。最初は簡単そうに見えるのに、似たような項目や古いデータが大量に混ざっていて、気づけば一時間くらい経っている。そのうえ、途中で「こっちの資料じゃなくて最新版を見て」と言われたりすると、全部投げ出したくなる。
「異世界に来てまで間違い探しみたいな仕事するとは思わなかったなぁ」
私は立ち上がり、さらに北西へ歩いた。
受付嬢が言っていた「一時間くらい」の地点まで来ると、たしかに状況は少し変わった。街へ近い草地より人の踏み跡が減り、道から離れた斜面には青露草らしい光沢を持つ葉がちらほら見えるようになる。
「お、いた」
ようやく見つけた一株へ駆け寄り、根元を傷つけないように必要な葉だけを切る。採取依頼では根を残すよう言われているので、勢い余って引き抜かないよう注意しなければならない。
一束。
二束。
少し離れたところにもう一株。
「これならいける」
気分が上向いたのも束の間、そのあとが続かなかった。
一か所に群生しているわけではなく、見つけたと思えば数十歩歩き、またしゃがみ込み、似た草を確認し、違えば立ち上がる。その繰り返しで、腰と太腿がじわじわ疲れてくる。
戦っていないのに疲れる。
「採取依頼って楽な仕事じゃなかったっけ?」
もちろん、誰もそんなことは言っていない。私が勝手に「魔物と戦わないから楽」と決めつけていただけだ。
昼前の時点で、集まった青露草は九束。
目標は二十束だったが、最低条件の十五束すらまだ遠い。
私は道から少し外れた木陰へ座り、朝に宿で包んでもらった黒パンと干した果実を取り出した。宿の朝食は料金に含まれているものの、昼食は別なので、今日はできるだけ出費を減らすために簡単なものを用意してもらった。黒パンと干し果実で八十ゴールド、水袋への補充が二十ゴールド。今日すでに百ゴールド使っている。
予定では二十束集めて千二百ゴールドを稼ぎ、今夜は六百ゴールドくらい使うつもりだった。
しかし現在九束。
「このままだと五百四十ゴールド……いや、十五束以下はそもそも依頼失敗か」
黒パンを齧りながら、青露草の入った袋を見る。
九束という数字が妙に心細い。
会社員時代なら、仕事が進まなければ残業という最悪の解決方法があった。しかし今は日が暮れれば採取そのものが難しくなるうえ、林の近くでは魔物も出ると言われている。暗くなるまで粘る気はない。
「午後で六束。最低でも六束」
私は自分へ言い聞かせ、残りの黒パンを食べきった。
昼を過ぎてからは、道沿いだけを見るのをやめた。
危険のない範囲で少し斜面を上がり、低木の間や、日当たりの悪い窪地を探してみる。すると、青露草は乾いた場所より、少し湿った土の周辺に多いことに気づいた。
「そういうの、先に教えてくれてもよくない?」
講習で聞き逃した可能性もあるので強くは言えないが、愚痴るだけなら自由である。
小さな水溜まりの近くで二束、その先の倒木の陰で一束。さらに林の手前を歩き回り、午後の半ばには十四束まで増えた。
あと一束。
最低条件まであと一束なのに、こういうときに限って見つからない。
私はしゃがんだ姿勢から立ち上がり、腰を叩いた。
「薬草って、見つからない日は本当に見つからないなぁ」
たった一束が遠い。
周囲には草しかないのに、その中に欲しい草だけが存在しないような気さえしてくる。
十分ほど探し続けて、ようやく小さな沢の脇に青白く光る葉を見つけたときには、思わず声が出た。
「あった!」
誰もいない草地で、一人で喜んでいる二十六歳。
少し冷静になると恥ずかしいけれど、今日はもう気にしない。
十五束目を袋へ収め、私はその場に腰を下ろした。
これで最低九百ゴールド。
本当なら二十束まで頑張りたい。
しかし太陽はすでに西へ傾き始めていて、ここから街まで一時間以上歩く。あと五束を探すためにどれだけ時間が必要か分からないし、林の近くまで来ていることを考えると、欲張って遅くなるのは危険だ。
「九百かぁ」
昨日より百ゴールド少ない。
でも今日は粘液を浴びていない。
それだけでも十分だと思うことにした。
帰り道は、行きより長く感じた。
何度もしゃがんだせいで腿が重く、腰も少し痛い。手には草の青い匂いが染みついていて、魔物を倒していないのに、きちんと一日働いた疲れが身体へ残っている。
ギルドへ戻ったころには、夕方の受付が少し落ち着き始めていた。
「青露草十五束ですね。品質を確認します」
朝と同じ受付嬢が、私の麻袋から草を取り出して一束ずつ確認していく。
葉の色、傷み、茎の長さ。思った以上に細かく見られるので少し緊張したが、しばらくして彼女は十五束すべてを横へ揃えた。
「問題ありません。十五束で九百ゴールドです」
「全部大丈夫?」
「はい。根もきちんと残して採ってありますね」
「よかったぁ」
思わず深く息を吐いた。
「二十束取るつもりだったんですけど、全然見つからなくて」
「やっぱり近場は少なかったですか?」
「一時間くらい歩いてからやっと増えました。十五束目なんて、あと一束なのに二十分近く探しましたよ」
「もう少し北東側まで行くと湿地が多いので、青露草も見つけやすいですよ」
「それ、朝に聞きたかったです」
受付嬢が申し訳なさそうに笑う。
「次回はぜひ」
「次回があれば覚えておきます」
九百ゴールドを受け取り、革袋へ入れる。
朝の所持金が六百二十ゴールド。
昼食と水に百ゴールド使ったので五百二十ゴールド。
そこへ今日の報酬九百ゴールドが加わって、現在は千四百二十ゴールド。
今夜の宿代三百を差し引いても千百二十残る。
昨日ほど切迫してはいない。
「今日は……四百までかな」
昨夜は六百ゴールドを使った。
今日は稼ぎも少なかったし、採取だけとはいえ身体はかなり疲れている。豪華に食べるより、安くて落ち着ける店で軽く飲みたい気分だった。
今夜の居酒屋予算、四百ゴールド。
私は硬貨を分け、四百ゴールドだけを小さな布袋へ移した。
こうしておけば、酔った勢いで「あと一品くらい」と財布の本体へ手を出しにくい。前の世界でも現金しか使えない店へ行くときには似たことをしていたが、まさか異世界で同じ方法を使うことになるとは思わなかった。
ギルドを出ると、夕方の大通りにはすでに食事時の匂いが広がっていた。
昨日入ったのは路地奥の小さな店だったので、今日は別の方向へ歩いてみる。せっかく知らない世界にいるのだから、一度入った店へ戻るより、その日ごとに違う店を見つけた方が面白い。
とはいえ、予算は四百。
店選びに自由があるようで、それほどない。
最初に見つけた店は、入口に大きな葡萄酒の樽が飾られていて、麦酒一杯だけで二百ゴールドを超えていたので諦めた。次の店は料理が美味しそうだったものの、肉料理が三百ゴールドからで、酒を頼めば予算がほとんど残らない。
「今日の私は高級店の客じゃないなぁ」
そう呟きながら市場通りを抜けたところで、少し騒がしい一角へ出た。
倉庫で働いていたらしい男たちや、荷車を引いていた職人が集まっており、その中心に屋根だけを深く張り出した細長い店がある。壁の半分ほどが外へ開いていて、中には椅子がほとんど見当たらない。
客は皆、長い木製カウンターの前に立ったまま飲んでいる。
「……立ち飲み?」
思わず足を止めた。
前の世界では珍しくもなかった。仕事帰りに少しだけ飲みたいとき、駅の近くにある立ち飲み屋へ寄ったことも何度かある。長居を前提にしていないから一人でも入りやすく、酒もつまみも安い。
まさか、この世界にも同じ発想の店があるとは思わなかった。
店の正面に掛けられた木札を見る。
《夕樽》
薄麦酒八十ゴールド。豆の塩煮六十ゴールド。焼き茸七十ゴールド。干し肉九十ゴールド。塩串六十ゴールド。黒パン四十ゴールド。
「安い」
思わず声に出た。
昨日の店よりさらに安い。
もちろん「薄麦酒」という名前が少し気になるが、八十ゴールドなら失敗しても諦めがつく。四百ゴールドあれば、酒を二杯飲んでも料理を二、三品頼める。
店内へ入ると、カウンターの向こうから丸顔の男が大きな声を飛ばしてきた。
「空いてるとこ使いな! 注文は先払いだ!」
年齢は四十代くらいで、短い茶色の髪に、太い眉。腹は少し出ているが動きは早く、片手で杯を洗いながらもう片方の手で別の客から硬貨を受け取っている。
店というより、仕事帰りの人間を次々さばく場所という雰囲気だった。
私はカウンターの端へ入り、改めて壁の木札を見る。
「薄麦酒って、普通の麦酒と違うんですか?」
「水を多めにして軽くしてある。仕事帰りに何杯か飲むやつだな。濃いのが欲しいなら別の店へ行った方がいい」
「正直ですね」
「安いもんを高そうに言ってどうする」
嫌いではない。
「じゃあ薄麦酒一杯と、豆の塩煮をください」
「百四十」
私は小さな布袋から硬貨を出して渡した。
今夜の予算四百ゴールド。
最初の注文で百四十。
残り二百六十。
店主が樽の栓を開き、細長い木杯へ淡い色の酒を注ぐ。その横では、小さな鍋から豆をすくい、木皿へ盛って塩と刻んだ香草を振った。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
まずは薄麦酒から飲む。
色は昨日飲んだ麦酒よりさらに明るく、淡い黄色に近い。泡も少なく、香りを嗅いでも麦の匂いはかなり弱かった。
一口含むと、たしかに軽い。
昨日の麦酒にあった穀物の甘さや苦味が薄く、さらりと喉を通っていく。炭酸のような刺激もほとんどないので、かなり飲みやすい反面、最初は少し物足りなく感じる。
「発泡酒……とも違うなぁ」
前の世界で、安く飲みたい日に選んでいた発泡酒を思い出した。しかし、あちらはビールに近づける方向の飲み物だったのに対し、これは最初から軽く飲むために作っている感じがする。
薄いビールというより、麦の酒を水で伸ばして食事中に飲み続けやすくしたものに近い。
「どうだ?」
店主が聞いてきた。
「思ったより薄いです」
「薄麦酒だからな」
「名前に偽りがなさすぎる」
「八十ゴールドだから文句言うな」
「文句じゃないですよ。これはこれでありです」
もう一口飲むと、一口目より良く感じた。
今日の私は、濃い酒をじっくり味わいたいというより、疲れた身体を休めながら何か口にしたい気分だった。その意味では、この軽さがちょうどいい。
次に豆の塩煮へ手を伸ばす。
親指の先ほどの丸い豆が、皮の一部が割れるくらい柔らかく煮込まれている。色は薄い茶色で、表面には細かな塩と緑の香草が付いていた。
一粒食べると、ほくっと崩れた。
「枝豆……ではないな」
豆というだけで最初に枝豆を思い浮かべたが、味も食感もかなり違う。枝豆より粉っぽく、ひよこ豆に少し近い気もするが、後味にほんのり甘さがある。
「これ、何て豆ですか?」
「丸灯豆」
「丸灯豆」
「乾かしたやつを戻して塩で煮る。腹にも溜まるし安いから、ここじゃよく出る」
「なるほど」
一粒食べて、薄麦酒を一口。
濃い料理ではないのに、不思議と合う。
豆の塩気が口に残ったところへ軽い酒を流し込むと、もう一粒食べたくなる。派手さはないが、何も考えず繰り返せる組み合わせだった。
「こういうのでいい日、あるんだよねぇ」
「何だ?」
「今日は朝から薬草探してたんですよ」
「冒険者か」
「一応そうです。でも今日は戦ってません。青露草を十五束集める仕事で、簡単そうだと思って受けたら全然見つからなくて」
「ああ、あれは最近近場じゃ減ってるぞ」
店主が何でもないことのように言う。
「みんな知ってるんですか、それ?」
「この辺で採取してる連中ならな」
「私、今日初めて知りました」
「新人か」
「はい。朝は二十束取って千二百ゴールド稼ぐ気満々だったんですけど、昼の時点で九束しかなくて、午後はあと六束、あと六束ってずっと草ばっかり見てました」
そこまで言ったところで、私の二人隣にいた年配の男が笑った。
日に焼けた顔に、使い込まれた革の上着。腰には短い鉈のような刃物を下げている。
「青露草なら北東の湿地際だ。北西側は今の時期、若いのが先に取り尽くす」
「ギルドの受付でも帰ってから同じこと言われました」
「先に聞いとけよ」
「私もそう思います」
「新人はみんな一回やる」
男は笑いながら自分の杯を傾けた。
「俺も昔、半日かけて十束しか取れなかった」
「ちょっと安心しました」
「でも次からは湿った場所探せ。青露草は乾いた場所じゃ育ちにくい」
「今日の午後にようやく気づきました。朝の私に教えてほしかった」
「朝のお前を知らんから無理だな」
「それはそうですね」
知らない客と話すつもりで入ったわけではないが、こういう短いやり取りなら悪くない。
前の世界の立ち飲み屋でも、隣の客が店員へ話しているのを聞いて、気づけば少し会話へ混ざっていたことがあった。名前も知らないし、二度と会わないかもしれない。それでも、その場だけ仕事の愚痴を共有する。
その距離感は、この世界でもあまり変わらないらしい。
豆を半分ほど食べ終えたところで、私は次の注文を考えた。
残り予算は二百六十ゴールド。
薄麦酒をもう一杯なら八十。
料理は焼き茸七十、干し肉九十、塩串六十。
全部頼んでも三百になるので無理だが、二杯目と料理二品なら組み合わせ次第でいける。
「焼き茸って何の茸ですか?」
「今日のは森笠茸。北の林で取れるやつだ」
「七十ですよね」
「ああ」
「じゃあ、それと薄麦酒もう一杯ください」
「百五十」
これで合計二百九十ゴールド。
残り百十。
まだ干し肉九十も頼める。
「……危ないな」
「何が?」
「予算です」
店主が少し笑った。
「あと百十あるなら干し肉いけるぞ」
「誘惑しないでください」
「売る側だからな」
「正しいけど困る」
二杯目の薄麦酒と一緒に出てきた焼き茸は、傘が大きく開いた茶色い茸を厚めに切り、鉄板で焼いたものだった。表面には薄く油が塗られ、粗い塩と、黄色い皮のようなものを細かく削った香草が散らされている。
箸代わりの細い木棒で一切れ持ち上げると、まだ熱く、湯気と一緒に土と木を思わせる濃い香りが上がってきた。
口に入れた瞬間、思った以上の水分が出る。
「熱っ」
「焼きたてだからな」
「見れば分かるんですけど、待てなかったんですよ」
少し冷ましてもう一度食べる。
食感は椎茸に近い。しかし傘の部分はもっと肉厚で、噛むとじゅわっと汁が出てくる。味そのものは茸らしい土っぽさが強いが、上に振られた黄色い香草から柑橘のような香りが立ち、後味を軽くしていた。
「これ、醤油欲しくなるなぁ」
焼いた茸を見ると、どうしても前の世界の味を思い出す。
バター醤油。網焼きした椎茸へ醤油を一滴。居酒屋なら、きのこのホイル焼きでもいい。
でも、今食べている森笠茸にはバターも醤油も使われていない。
油と塩、それから柑橘に似た香草だけ。
それでも十分美味しい。
「その黄色いのって何ですか?」
「香黄皮。乾かして削ると香りが出る。魚にも使うぞ」
「柑橘みたいですね」
「カンキツ?」
「前の世界の……似たような香りの果物です」
「へえ」
店主はそれ以上深く聞かなかった。
私は焼き茸を食べ、薄麦酒を飲む。
濃い酒だったら茸の香りを消してしまうかもしれないが、この薄麦酒なら邪魔をしない。最初は物足りないと思ったのに、料理と合わせてみると軽さにちゃんと意味がある。
「安いから薄いだけじゃないんだなぁ」
「ん?」
「この酒です。最初は安いから薄めてるだけかと思ったんですけど、こういう軽い料理とは合いますね」
「そりゃそうだ。ここは荷運びや職人が仕事帰りに二、三杯飲んで帰る店だ。腹いっぱい食うなら食堂へ行けばいい」
「なるほど」
店には店の使い方がある。
昨日の居酒屋では腰を落ち着けて串と煮込みを食べた。今日は立ったまま、軽い麦酒と塩味のつまみを少しずつ食べている。
どちらが上という話ではない。
その日に欲しいものが違うだけだ。
私は小さな布袋を確認した。
残り百十ゴールド。
干し肉は九十。
頼える。
でも今のところ、豆も少し残っているし、焼き茸もあと二切れある。酒もまだ半分以上残っている。
今日は二杯飲めれば十分な気もする。
「干し肉、九十かぁ」
「まだ悩んでるのか」
「あと百十しかないんですよ」
「二十残るだろ」
「そういう考え方すると、絶対いつか破産しますよ」
二人隣の男がまた笑った。
「冒険者でそこまで細かく計算してるやつ珍しいぞ」
「だから生き残るんですよ、たぶん」
「酒飲みに来て言う台詞じゃねぇな」
「飲むために計算してるんです」
自分で言ってから、たしかに少しおかしい気はした。
でも間違ってはいない。
明日の宿代を使ってまで今日飲みたいわけではない。今夜を楽しんだあとで、翌朝財布を見て絶望したら意味がない。
私は干し肉の札をもう一度見て、結局首を横へ振った。
「今日はやめときます」
「珍しいな。酒飲みが我慢した」
「昨日より稼いでないので」
「九百だったか?」
「はい」
「じゃあ十分飲んだろ」
「ですよね」
残していた丸灯豆を一粒食べる。
塩味と、ほくほくした食感。
次に森笠茸を一切れ。
土っぽい香りと、香黄皮の爽やかさ。
そして薄麦酒。
派手な料理はない。
昨日食べた角兎の串みたいに「これ絶対また食べたい」と強烈に思うものでもない。それでも、朝からずっと草ばかり見て、腰を痛めながら十五束目を探し回った今日には、このくらいの食事が妙にちょうどよかった。
「仕事って、戦わなくても疲れるんですね」
ぽつりと言うと、店主が鼻で笑った。
「当たり前だろ。ここに来る客の半分は剣なんか持ってねぇぞ」
改めて周りを見る。
革の前掛けをつけた職人。荷運びらしい太い腕の男。市場帰りと思われる女性。冒険者らしい装備の客もいるが、たしかに全員ではない。
「冒険者になったら、もっと毎日こう……魔物倒したり、洞窟入ったりするのかと思ってました」
「新人はそう思うんだよな。けど街ん中の仕事も外の仕事も、誰かがやらなきゃ回らん。荷物運ぶのも、草取るのも、護衛するのも仕事だ」
「夢があるような、ないような」
「夢で酒代は払えん」
「それは本当にそう」
私は思わず笑った。
前の世界と違うことは山ほどある。
魔物がいる。魔法らしいものもある。通貨も違うし、料理に使われる食材の名前もほとんど知らない。
でも、仕事をして疲れ、給料をもらい、その一部を使って帰りに飲む。
そこだけ切り取れば、驚くほど似ている。
ただ一つ違うとすれば、会社員だったころの給料は月単位だったのに対し、今は今日の頑張りがそのまま今夜の財布へ入ることだろう。
朝には六百二十ゴールドしかなかった。
昼食と水で百ゴールド使った。
青露草十五束で九百ゴールド稼いだ。
今夜の飲み代は、薄麦酒二杯で百六十、丸灯豆の塩煮が六十、焼き茸が七十。
合計二百九十ゴールド。
千四百二十ゴールドあった所持金から二百九十を引けば、千百三十ゴールド。さらに宿代三百を払っても、八百三十ゴールド残る。
「昨日よりお金増えてる」
「何だ?」
「いえ、今日の成果を確認してました」
昨日は豪快に使った。
今日は安く飲んだ。
どちらもちゃんと楽しい。
それが少し嬉しかった。
酒を飲むなら、毎回高い肉や珍しい料理が必要なのだと思っていたわけではない。それでも異世界へ来たばかりの今は、知らないものを食べるならせっかくだから豪華な方が面白いのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。
実際は違った。
八十ゴールドの薄麦酒にも、この店で飲む理由がある。
六十ゴールドの豆にも、この店で食べる理由がある。
それで一日分の疲れが少し軽くなるなら、十分に立派なご褒美だった。
最後の焼き茸を食べ終え、残っていた薄麦酒を飲み干す。
「ごちそうさまでした」
「二百九十、もうもらってるぞ」
「先払いなの、まだ慣れないなぁ」
「食い逃げされなくて楽だ」
「合理的ですね」
「明日も青露草か?」
「うーん……しばらく草は見たくないです」
二人隣の男が笑いながら言った。
「北東なら楽だぞ」
「それを聞いても、明日は別の仕事探します」
「新人らしいな」
「飽きっぽいだけかもしれません」
店を出ると、すっかり暗くなった通りには夜風が流れていた。
座っていないのに、不思議と休んだ気がする。
立ったまま二杯飲んで、豆と茸を食べて、薬草探しの愚痴を少し吐いただけなのに、朝からずっと身体へ残っていた面倒臭さが薄れていた。
今日の稼ぎは九百ゴールド。
昨日より少なかった。
予定していた二十束にも届かなかったし、楽な仕事だと思って選んだ採取依頼は、思っていたよりずっと腰にきた。
それでも依頼はきちんと達成した。
そして二百九十ゴールドで、知らない立ち飲み屋に入り、知らない薄麦酒を二杯飲んだ。
前の世界の発泡酒ともビールとも違う酒だったし、丸灯豆は枝豆ではなかった。森笠茸も椎茸に少し似ているだけで、香黄皮という知らない香草を振ったあの味は、私の知っている居酒屋料理にはなかった。
それでも、仕事帰りに立ったまま一杯飲んでいる感覚だけは懐かしかった。
私は夜の通りを宿へ向かいながら、腰を軽く叩いた。
「今日は九百稼いで、二百九十使ったか」
悪くない。
むしろかなりいい。
豪華な夜ではなかったけれど、豪華じゃないから足りなかったとも思わない。
朝には、青露草を二十束集められなかったことを少し悔しく思っていた。けれど今になれば、十五束でもちゃんと今日一日を終えられたのだから、それで十分だった気がする。
知らない世界で暮らす以上、毎日うまくいくとは限らない。
予定より稼げない日もあれば、簡単だと思った仕事に手こずる日もある。
そんな日は、その日の財布に合う店を探せばいい。
六百ゴールド使える日には六百ゴールドの楽しみ方があって、三百ゴールドしか使えない日には三百ゴールドの楽しみ方がある。
少なくとも今日、私はそれを知った。
「……二百九十ゴールドでも、ちゃんと飲めるんだなぁ」
そう呟いたときには、朝からずっと頭に残っていた青露草のことを、もうほとんど考えていなかった。




