第1話「千ゴールドあれば飲めるよね」
「十七個、確認しました。スライムの魔石十七個で、報酬は千ゴールドになります」
冒険者ギルドの受付台の向こうで、栗色の髪をひとつにまとめた受付嬢がそう言いながら、小さな革袋をこちらへ押し出した。中で硬貨同士が触れ合う乾いた音がして、私は反射的に袋を持ち上げ、その重さを確かめるように手のひらの上で一度だけ上下させてから、目の前に置かれた討伐証明用の魔石へ視線を戻した。
薄い青色をした丸い石が十七個。どれも親指の先ほどの大きさしかなく、これだけ並べても宝石というより、河原で拾った少し綺麗な小石くらいにしか見えない。しかし、その小石を手に入れるために、私は今日一日、街の南に広がる草原を歩き回ってスライムを十七匹も相手にしたのだ。
「……千ゴールドかぁ」
「何か問題がありましたか?」
「いや、問題ってほどじゃないんですけど、今日、三回くらい粘液を浴びたので、そのぶん洗濯代を上乗せしてもらえたりしないのかなって」
受付嬢は一瞬だけ私の服を見た。ギルドへ戻る途中で川の水を使って簡単に洗ったものの、革の胸当ての端やズボンの膝には、半透明の粘液が乾いた跡がまだ薄く残っている。幸い、スライムの粘液そのものには毒も腐食性もないらしいが、乾くと妙にべたつくうえに、独特の青臭さまで残るので、できれば宿へ戻る前に洗濯屋へ寄りたいところだった。
「討伐報酬には洗濯費は含まれていませんね」
「ですよねぇ」
「ただ、初心者向けのスライム討伐依頼としては、十七匹ならかなり多い方ですよ。今日は南草原に多かったんですね」
「多かったというか、三匹目くらいまでは私も『意外と楽じゃん』って思ってたんです。でも、そう思った直後に草むらの陰から二匹同時に出てきて、そのあと倒したと思ったら足元の泥の中にも一匹いて、最後の方はもう石を拾うために戦ってるのか、粘液を浴びるために戦ってるのか分からなくなってました」
私がそこまで言うと、受付嬢は口元を少しだけ緩めた。たぶん笑われたのだと思うけれど、今日の私には反論するだけの元気がなかったので、革袋を腰の小物入れへしまいながら、小さく息を吐いた。
この世界へ来てから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、目を覚ましたときに森の中で倒れていて、財布もスマートフォンもなく、通りかかった商人の荷馬車に拾われた日のことは、すでに少し遠い出来事のように感じられていた。
私はミサキ。二十六歳。少なくとも、前の世界ではそうだった。
東京でも大阪でもない、日本のそこそこ大きな街で会社員をしていて、朝は目覚ましに追い立てられ、満員電車に揺られ、昼休みにはコンビニか近所の定食屋で適当に済ませ、夕方になると上司から届く「これ今日中にできる?」という言葉を見なかったことにしたくなりながら働く、ごく普通の社会人だった。
そんな私にも毎日ひとつだけ楽しみがあって、それが仕事帰りの一杯だった。
高級な店に行くわけではない。駅前の居酒屋でも、細い路地にある焼き鳥屋でも、カウンターしかない小さな店でもよかった。一日働いて、今日はもう何もしたくないと思いながら暖簾をくぐり、冷たいビールと適当なつまみを頼んで、誰に聞かせるでもなく仕事の愚痴を心の中で並べる。その時間があったから、たぶん私は会社員を続けられていたのだと思う。
そして異世界へ来てみれば、会社もなければ通勤電車もなく、当然ながら社内チャットで夜になってから仕事を投げてくる上司もいない。
その代わり、スライムがいた。
「どっちがいいんだろうなぁ……」
「何がですか?」
「いえ、こっちの話です」
受付嬢に首を傾げられ、私は慌てて首を振った。
少なくとも、今のところ元の世界へ帰る方法は分からない。森で目を覚ました理由も、この世界へ来た理由も、神様らしい存在に会った記憶もなければ、「世界を救ってください」と頼まれた覚えもない。
商人の荷馬車で連れてきてもらったこの街で、私はまず生きるための仕事を探した。身元を証明するものが何ひとつない私を雇ってくれる場所は少なかったが、冒険者ギルドだけは、名前と年齢らしいものを書いて、最低限の確認を受ければ登録を認めてくれた。
最初の数日は倉庫掃除や荷物運び、薬草集めばかりだった。それで少しずつ金を貯め、初心者用の安い短剣と革の胸当てを買い、ギルドの訓練場で基本的な動き方を教えてもらい、ようやく今日、初めて一人でスライム討伐へ出た。
その結果が十七匹と千ゴールドである。
命懸けだった、とまでは言わない。スライムは初心者向けと言われるだけあって動きは遅く、飛びかかってくる瞬間さえ見極めれば大きな危険はない。ただし、こっちの都合よく一匹ずつ現れてくれるわけではないし、草の陰に隠れていると見つけづらいうえ、短剣を突き込んだ拍子に中身が弾けると粘液を浴びる。
会社員時代も面倒な仕事はいくらでもあったけれど、少なくともコピー機のトナーを交換していて青い粘液を頭から被ることはなかった。
「次もスライム討伐を受けるなら、明日は東側の草原の方が少ないと思いますよ」
「少ない方を勧めてくれるんですか?」
「初心者のうちは無理をしない方がいいですから」
「ありがたいけど、少ないと報酬も減りますよね」
「まあ、それはそうですね」
結局そこなのである。
私は千ゴールドの入った袋を腰へしまい直し、受付嬢へ礼を言ってギルドを出た。
外へ出ると、夕方のリーベルには昼間とは違う匂いが広がり始めていた。石造りの建物が並ぶ大通りを、仕事を終えた職人や商人、鎧姿の冒険者たちが行き交い、どこかの食堂から焼いた肉の香りが流れてくる。その少し先では、露店の主人が油の入った鉄鍋で何かを揚げており、香ばしい匂いに混じって、前の世界では嗅いだことのない少し青い香草の香りが鼻へ届いた。
そこで私は、足を止めた。
「……千ゴールドあれば、飲めるよね」
誰に言うでもなく呟き、腰の革袋へ手を当てる。
今日の稼ぎは千ゴールド。
ここ数日泊まっている《銀鈴の宿》は一泊三百ゴールドで、朝食までついている。今夜も泊まるなら三百ゴールドは絶対に残しておかなければならないし、明日の昼食や水代、道具の消耗を考えれば、全部を使ってしまうわけにもいかない。
私は通りの端へ寄り、邪魔にならない場所で袋から硬貨を取り出した。
「宿代が三百。明日のことを考えるなら、百くらいは残したい。でも、今日は初めて自分で魔物を倒して稼いだ日だし……六百くらいなら、まあ」
六百ゴールド。
その数字を頭の中でもう一度確認する。
前の世界なら、六百円で飲みに行こうとすればかなり厳しい。発泡酒一缶とコンビニの惣菜くらいならどうにかなるかもしれないが、居酒屋で一杯飲んで何品か食べる金額ではない。しかし、この世界の金銭感覚はいまだによく分かっておらず、宿が三百ゴールドで泊まれるなら、六百あれば夕食くらいはどうにかなる気がする。
「問題は、どこで飲むかなんだよねぇ」
私は再び歩き始めた。
リーベルには酒場が多い。冒険者が集まる街だからなのか、それともこの世界では単純に外で酒を飲む習慣が一般的なのか、大通りを少し歩くだけでも酒瓶や木製の杯を描いた看板が何枚も目に入る。
ただ、初めての店に入るというのは、前の世界でも少し勇気が必要だった。
外から値段が分からない店は怖い。妙に立派な扉がついている店も怖いし、屈強な冒険者ばかりが大声で笑っている店も、一人で入るには少し勇気がいる。反対に、安そうすぎる店もそれはそれで不安になる。
「異世界まで来ても、店選びでやってること変わらないなぁ」
前の世界でも、知らない駅で飲もうとした日は同じだった。店先のメニューを見て、値段を確認し、中の客層をなんとなく覗き、入れそうなら入る。口コミサイトも地図アプリもないぶん、今の方が純粋に自分の目だけを頼りにしなければならない。
一軒目は入口に立派な角のついた魔獣の頭蓋骨が飾られており、中から聞こえてくる声も大きかったのでやめた。二軒目は葡萄酒らしき瓶がずらりと並ぶ洒落た店だったが、入口の黒板に書かれた料理が軒並み三百ゴールドを超えていたため、今夜の私には少し贅沢すぎる。
三軒目へ向かおうとして細い脇道へ入ったところで、炭火で肉が焼ける香りが漂ってきた。
足が勝手に止まった。
「……これはずるいでしょう」
焼いた脂が炭へ落ちる匂いに、香草の青い香りが混じっている。その匂いを辿るように路地の奥へ進むと、古びた二階建ての建物の一階に、小さな木の看板が下がっていた。
麦の穂を束ねた絵の下に、《麦穂亭》と書かれている。
扉は開け放たれており、中を覗けば四人掛けの卓が三つと、奥へ伸びる長いカウンターがあるだけの小さな店だった。壁も床も年季の入った木造で、決して綺麗な店ではないけれど、カウンターの上にはよく磨かれた木の杯が並べられ、厨房らしい奥の空間からは肉を焼く音と煮込みの匂いが絶えず流れてくる。
客は七、八人ほどで、仕事帰りらしい職人風の男や、革鎧姿の冒険者が多かった。一人で飲んでいる客もいる。
これなら入れそうだ。
何より、入口横に掛けられた木札に値段が書いてある。
麦酒百二十ゴールド。角兎の炙り串八十ゴールド。豆と香草の塩煮百ゴールド。本日の煮込み百八十ゴールド。黒パン五十ゴールド。燻製肉百五十ゴールド。焼き茸九十ゴールド。
「……いける」
思わず小声で呟いた。
麦酒一杯に串二本、煮込みまで頼んでも四百六十ゴールド。二杯飲んだとしても五百八十ゴールドで、今夜の予算六百に収まる。
素晴らしい。
扉をくぐると、カウンターの中にいた男がこちらを見た。
年齢は四十代後半くらいだろうか。日に焼けた顔に短く刈った黒髪、太い腕には古い火傷の跡があり、一見すると料理人というより鍛冶屋か元冒険者のようにも見える。しかし、こちらを見る目つきは意外に穏やかだった。
「一人か?」
「はい」
「好きなとこ座れ。卓でもいいが、一人ならカウンターの方が楽だろ」
「じゃあ、カウンターで」
奥から二番目の席へ腰を下ろすと、店主らしい男が木の板を一枚置いた。入口にもあった料理の一覧が、同じ文字で書かれている。
「初めて見る顔だな」
「この街に来て、まだそんなに経ってないんです」
「冒険者か?」
「一応。今日初めて一人でスライムを倒してきました」
「そりゃご苦労さん」
それ以上、店主は詳しく聞かなかった。その距離感が妙にありがたかった。
「麦酒ください。それから角兎の炙り串を二本」
「味は?」
「味?」
「塩と香草辛子」
なるほど、同じ串でも味付けが違うらしい。
「じゃあ一本ずつで」
「分かった」
店主が奥へ声をかけ、私はカウンターへ肘をつかないよう気をつけながら、店内を眺めた。
派手な装飾はない。壁には麦の束と古い酒樽の蓋が飾られ、厨房の脇には大きな樽が三つ並んでいる。客たちは大声で騒ぐというほどではないが、あちこちから仕事の話が聞こえてきた。
「だから俺は、最初から車輪が怪しいって言ったんだよ」
「言っただけで直してねぇだろ」
「直すのは荷主の仕事だろうが」
斜め後ろの卓からそんな会話が聞こえ、私は少しだけ笑った。
異世界でも、仕事帰りに自分の責任ではないことを主張する人はいるらしい。
「麦酒」
目の前に木の杯が置かれた。
淡い琥珀色の液体で、表面には薄く泡が浮いている。触れた杯は冷たかったが、前の世界の居酒屋で出てきた生ビールほど冷え切ってはいない。
私は杯を持ち上げ、香りを確かめた。
麦っぽい香りがする。パンを焼く前の穀物と、軽く焦がした麦芽のような香りが混ざっていて、少しだけ甘さを感じる匂いだった。
「……いただきます」
一口飲む。
まず感じたのは、思っていたより炭酸が弱いことだった。口の中で細かい泡が弾ける感覚はあるけれど、冷えたビールを喉へ流し込んだときのような強い刺激はない。その代わり、麦そのものの味がはっきりしていて、軽い苦味のあとから穀物の甘さがじわりと残る。
「ビールっぽいけど、ビールじゃないなぁ」
「何か言ったか?」
「あ、いえ。美味しいです」
「そうか」
店主は特に気にした様子もなく、串を焼く作業へ戻った。
私はもう一度、今度は少しゆっくり飲んだ。
最初の一口では炭酸の弱さが気になったけれど、二口目になると、それほど悪くないと思えた。むしろ、苦味が強すぎないぶん、仕事で疲れた身体へすっと入ってくる。
前の世界のラガービールと同じものだと思って飲むと違和感がある。しかし、これはこれで、一日の終わりに飲む酒としては十分に美味しい。
「……今日、三回粘液かぶったしね」
つい口から出た。
「スライムか?」
店主が串を返しながら聞いてくる。
「そうです。十七匹倒したんですけど、最初は簡単だと思ったんですよ。動きも遅いし、これなら私でもいけるなって。でも、一回油断すると草の陰から出てくるし、刺したら弾けるし、最後なんて靴の中まで粘液が入って」
「十七なら上出来だろ」
「報酬千ゴールドでした」
「初心者ならそんなもんだ」
「分かってはいるんですけど、三回粘液を浴びた人には洗濯手当くらいあってもいいと思いません?」
店主の口元が少し動いた。
「ギルドに言え」
「言いました」
「駄目だったか」
「含まれてませんって」
「そりゃそうだろ」
「みんな冷たいなぁ」
そんな話をしている間に、串が焼き上がった。
皿に二本並べられた肉は、思っていたよりずっと大きかった。一口サイズの肉が二つ三つ刺さっている程度を想像していたのだが、親指より一回り大きな肉の塊が四つずつ串に刺さっている。
片方には粗い塩が振られ、もう片方には緑色の刻んだ香草と、赤茶色の粉が薄くまぶされていた。
「これが角兎ですか?」
「そうだ。今日のは若いのだから柔らかいぞ」
「兎……なんですよね?」
「角兎だ」
店主は当然のように答える。
この世界へ来て何度か耳にした名前だ。普通の兎より大きく、額に短い角が生えている魔物で、畑を荒らすため害獣として狩られることが多いらしい。
まずは塩の串から齧った。
表面にはしっかり焼き目がついていて、炭火の香ばしさが鼻へ抜ける。噛むと肉は思ったほど硬くなく、むしろ弾力がありながらも歯切れがよく、内側からじわりと肉汁が出てきた。
「……あ、美味しい」
兎肉と聞いて、もっと淡白なものを想像していた。しかし実際には脂の甘さがあり、鶏肉よりもしっかりした旨味がある。豚ほど脂っこくはないが、鶏より少し濃く、どちらかというと焼き鳥と豚串の中間に近いような気もする。
けれど、やっぱりどちらとも違う。
少しだけ野性味のある香りがあり、それが炭火とよく合っている。
「これ、日本にあったら絶対ビール頼むやつだ」
そこまで言ってから、手にしている杯を見た。
「……今も麦酒頼んでるけど」
「何言ってるんだ、お前」
「独り言です」
「多いな」
「仕事のあとって増えるんですよ」
会社員時代もそうだった。居酒屋で一人飲みをしていると、頭の中で上司や同僚への文句を並べているうちに、小さな声で口に出してしまうことがあった。幸い、今のところ誰にも怪しまれてはいない。
次に香草辛子の串を食べてみる。
最初に青い香りが広がった。パセリとも大葉とも違う、少し柑橘に近い爽やかな香草で、その直後に赤茶色の粉の辛味が追いかけてくる。
「ん……あ、ちょっと痺れる」
「辛いか?」
「辛いっていうより、舌が少し痺れますね。でも美味しい」
「赤痺実だ。肉の脂と合う」
山椒に少し似ていると思った。ただ、香りはもっと土っぽく、刺激も舌の先ではなく口全体へじわじわ広がる。
そこへ麦酒を飲む。
さっきまで穏やかに感じていた麦の甘さが、辛味のあとだとはっきり分かった。刺激を洗い流してくれるほど炭酸は強くないが、穀物の甘みが舌の痺れをやわらげてくれる。
「……なるほど」
私は串をもう一口食べ、そのまま麦酒を飲んだ。
こういう瞬間が好きだった。
料理だけでも美味しい。酒だけでも美味しい。しかし、一緒に口へ入れたときに、それぞれ単独では気づかなかった味が突然分かることがある。
それは前の世界でも、この世界でも変わらないらしい。
ふと気づけば、一杯目の麦酒が半分以下になっていた。
まだ串も残っている。
私は入口で確認した値段を頭の中に並べ直した。
麦酒百二十ゴールド。串二本で百六十。ここまで二百八十ゴールド。
予算は六百。
残り三百二十。
もう一杯なら百二十。本日の煮込みは百八十。
「……両方いけるな」
「何がだ?」
また店主に拾われた。
「予算の話です」
「酒飲むときまで金勘定するのか」
「しますよ。むしろ飲むときほどします。酔ってから考えると絶対ろくなことにならないので」
「しっかりしてるんだか、酒飲みなんだか分からんな」
「両方です」
私は少しだけ胸を張り、「本日の煮込みって何ですか?」と聞いた。
「灰角羊の肩肉と根菜だ」
「灰角羊」
「羊知らんのか?」
「羊は知ってます。灰角羊を知らなくて」
「山にいるやつだ。普通の羊よりでかくて、角が灰色。若い雄は気が荒い」
説明を聞く限り、やはり魔物か、この世界特有の動物なのだろう。
「じゃあ、それください。あと麦酒をもう一杯」
「あいよ」
これでちょうど五百八十ゴールド。
六百ゴールドの予算内に二十ゴールドだけ残る。
この二十ゴールドに何ができるのかは分からないけれど、予算を超えなかったという事実だけで少し気分がいい。
しばらくすると、深めの木皿に入った煮込みが運ばれてきた。
茶色がかった透き通る汁の中に、角切りの肉と、白や黄色の根菜がごろごろ入っている。表面には細かく刻んだ緑の香草が散らされ、湯気と一緒に肉の旨味を含んだ匂いが立ち上った。
「なんとなく肉じゃがっぽい……いや、違うな」
醤油の匂いがまったくしない。
スプーンで汁を一口飲んでみると、塩味は思ったより控えめで、肉から出た旨味と根菜の甘さが中心だった。そこへ、知らない香草の少し苦く爽やかな香りが加わっている。
肉を食べてみれば、肩肉らしく繊維はしっかりしているものの、長く煮込まれているのか簡単にほどけた。羊肉に似た独特の香りはあるが、前の世界で食べたラムより少し濃く、噛んだあとに獣肉らしい深い味が残る。
「美味しいけど、何かに似てるって言うの難しいなぁ」
煮込み料理だから、シチューや肉じゃがを連想する。しかし、味付けはどちらとも違う。醤油も味噌もコンソメもなく、肉と野菜と塩と香草だけで作ったような味なのに、不思議と物足りなくない。
黄色い根菜は栗と芋の中間のようにほくほくしており、白い根菜は大根より甘く、煮込んでも少し繊維が残る。
「これ、何の野菜ですか?」
「黄色いのは地栗根。白いのは白紐根」
「……名前を聞いても全然分からない」
「食えりゃいいだろ」
「それはそうなんですけど」
店主の言うことは乱暴だが、たしかにそうだった。
私は二杯目の麦酒を飲みながら、もう一度煮込みを食べた。
さっきまでは、これは何に似ているのかと考えていた。しかし、比べようとするほど分からなくなる。
だったら、無理に名前をつけなくてもいいのかもしれない。
灰角羊の煮込みは、灰角羊の煮込みだ。
もちろん、まだ前の世界の食べ物を思い出す。今だって、白いご飯があれば合うだろうかとか、醤油を少し垂らしたらどうなるだろうとか、そんなことを考えている。
日本の居酒屋も好きだったし、焼き鳥も唐揚げも刺身も、仕事帰りの生ビールも恋しい。
でも、この味がその代用品かと言われれば、たぶん違う。
「……これも悪くないな」
声に出してから、少し考え直した。
「というか、美味しい」
「今さらか」
「確認してたんです」
「何を?」
「いろいろです」
店主はよく分からないという顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
周囲では相変わらず仕事帰りの客たちが話している。
「明日も東門だってよ」
「またか。朝が早いんだよ、あそこ」
「嫌なら断れ」
「断ったら酒代がなくなる」
思わず吹き出しそうになった。
どこの世界でも似たようなことを言う人はいるらしい。
働きたくない。でも金は欲しい。
金が欲しい理由は人それぞれだろうが、少なくともこの店にいる人たちの何人かは、明日の酒代を稼ぐために働いている。
それなら私も、それほど変ではない。
皿の底に残った汁までスプーンですくい、最後の串肉を食べきったころには、二杯目の麦酒もほとんどなくなっていた。
腹は満たされている。
少しだけ頬も熱い。
そして何より、ギルドを出たときに感じていた疲れがずいぶん遠くなっていた。
朝から草原を歩き回って、スライムの粘液を三度も浴び、千ゴールドしかもらえないのかと少し不満に思っていた。
でも、その千ゴールドの中から五百八十ゴールドを使って、初めて入る酒場で酒を二杯飲み、角兎の串を二本食べ、知らない羊と知らない根菜の煮込みを腹いっぱい食べた。
残りは四百二十ゴールド。
宿代三百を払っても百二十残る。
「……ちゃんと残った」
「何が?」
「お金です」
「そりゃ良かったな」
「もっと褒めてくれてもいいんですよ。初めて一人で討伐して、ちゃんと予算内で飲んだんですから」
「知らん」
「冷たいなぁ」
そう言いながらも、私は笑っていた。
「ごちそうさまでした。五百八十ですよね?」
「ああ」
硬貨を数えて渡すと、店主は慣れた手つきで確認し、頷いた。
「またどっかで飲みすぎるなよ、新人」
「今日ちゃんと予算守った人に言う台詞ですか、それ」
「酒飲みはみんな最初そう言う」
「偏見ですよ」
言い返しながら立ち上がり、私は店を出た。
夜のリーベルは、来たばかりのころより少しだけ怖くなくなっていた。
石畳を照らす魔石灯の淡い光。通りを歩く冒険者たちの鎧の音。知らない料理の匂い。聞いたことのない楽器の音が、遠くの酒場から流れてくる。
前の世界とは何もかも違う。
駅もない。電車もない。コンビニもないし、仕事帰りにスマートフォンで店を探すこともできない。
その代わり、今日倒した魔物の数がそのまま袋の中の金になり、その金を握って路地を歩けば、知らない酒と料理に出会える。
銀鈴の宿へ向かいながら、私は腰の小物入れを軽く叩いた。
四百二十ゴールド。
これから宿代を払えば百二十ゴールドしか残らない。
決して余裕のある生活ではないし、明日も何か仕事をしなければならない。
それでも、今日は悪くなかった。
朝には名前しか知らなかったスライムを十七匹倒し、自分で稼いだ千ゴールドを持って初めての居酒屋へ入り、この世界の麦酒を二杯飲んだ。角兎は思っていたより脂が甘く、赤痺実は舌が少し痺れるほど辛く、灰角羊の煮込みは肉じゃがでもシチューでもなかったけれど、最後の汁まで飲みたくなるくらい美味しかった。
仕事そのものが楽しかったかと聞かれれば、たぶん違う。明日もスライムの粘液を浴びたいかと聞かれれば、それは絶対に嫌だ。
けれど、一日働いたあとに、知らない店へ入って、酒を飲みながら「今日の仕事、本当に面倒だった」と愚痴をこぼし、美味しいものを食べたら少しだけ機嫌が直る。
その感じだけは、前の世界とそれほど変わらなかった。
宿の看板が見えてきたところで、私は口元を緩めた。
「千ゴールドかぁ」
ギルドで受け取ったときには少ないと思った金額だった。
でも今日の私を、ちゃんと一晩分くらいは幸せにしてくれた。
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