第10話「ひとりで飲むのに理由はいらない」
朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、珍しく窓際の席がほとんど埋まっていた。普段なら朝食を済ませてすぐギルドへ向かう冒険者が多い時間なのに、今日は雨が降りそうな曇り空のせいか、皆どこか出足が鈍いらしい。私も空いていた壁際の席へ座り、黒パンと白豆の煮込み、それから薄く焼かれた卵を受け取った。
昨日は尖耳狐を二匹仕留め、夜は《青鍋亭》で平尾魚の腹焼きと羽脚鳥の卵焼きを食べた。財布から七百ゴールドまで使っていいと決めていたのに、結局六百十ゴールドで満足できたので、九十ゴールドを残したまま宿へ戻っている。
「昨日は結構ちゃんと働いたし、今日は軽めでもいいかなぁ」
黒パンを豆の煮汁へ浸しながら、ぼんやりそう考える。もちろん、軽い仕事を選んだからといって夜に飲まないわけではなく、むしろ身体が疲れていない日には店でゆっくり食べる余裕もあるので、それはそれで悪くない。
問題は、私が「軽い仕事」と思って選んだ依頼が、本当に軽いかどうかだった。この世界へ来てから、その辺りの言葉はあまり信用しなくなっている。半日程度と言われて日が傾くまで働いたこともあれば、近くと言われてかなり歩かされたこともあり、三匹程度が七匹だったことまであったので、今では依頼書の一文字一文字を見る癖までついていた。
「今日は説明が具体的なやつにしよう」
朝食を食べ終え、短剣の状態を軽く確かめてから冒険者ギルドへ向かう。
依頼板の前にはすでに何人か集まっていたが、昨日ほど混んではいない。戦闘系の紙を眺めても今日はあまり気持ちが乗らなかったので、私は採取や雑務の欄へ目を移した。
《南倉庫区・積荷台帳照合補助。入荷品の個数確認および倉庫内整理。報酬千四百ゴールド。昼食支給なし。夕刻前終了予定》
「台帳照合……」
前の世界の嫌な記憶を呼び起こす言葉だった。
数字や在庫、個数確認という言葉が並んだ時点で何となく嫌な予感がするし、こういう仕事は大抵どこかで数が合わなくなる。それでも報酬は千四百ゴールドあり、戦う必要も外を長時間歩く必要もないうえ、倉庫仕事なら雨が降っても大丈夫そうだった。
「絶対どこか一個足りないやつじゃん」
そう思いながらも、私はしばらく依頼書を眺めたあと、それを板から剥がした。
「こういう仕事、前にやってました?」
受付へ持っていくと、顔を覚えられている受付嬢が尋ねてきた。
「在庫管理そのものではないですけど、前の仕事で似たような確認作業はありました」
「なら向いてるかもしれません。数字が苦手な人は嫌がる依頼なので」
「得意ではないです」
「でも受けるんですね」
「千四百ゴールドなので」
「分かりやすいですね」
「夜の選択肢が増えます」
受付嬢が少し笑う。
「依頼先は南倉庫区の第三共同倉庫です。荷運びそのものは専門の人がやるので、冒険者側は箱や袋の印を見て、台帳と合っているか確認してください」
「間違ってたら?」
「倉庫側の責任者へ報告です。勝手に数字を直さないでください」
「それ大事ですね」
前の世界でも、合わない数字を勝手にそれらしく直した結果、あとから余計に分からなくなることがあった。何となく嫌な予感を覚えながら、私は依頼票を持って南倉庫区へ向かった。
第三共同倉庫は、以前荷運びの依頼を受けた辺りから少し離れた場所にあった。高い石壁の建物で、正面には二枚の大きな木扉があり、その前を荷車が何台も出入りしている。
入口で依頼票を見せると、倉庫の奥から三十代くらいの男性が出てきた。赤褐色の短い髪に細い顎髭があり、腰には筆記板と何本もの炭筆を下げている。服装は冒険者より商人に近いが、袖を肘まで捲っていて、机仕事だけをしている人には見えなかった。
「ギルドから?」
「はい。ミサキです」
「俺はレド。今日の照合担当やってる。数字読める?」
「読めます」
「足し算は?」
「できます」
「じゃあ助かった」
「そんなところから確認するんですか?」
「前に来たやつが百二十と十二を間違えた」
「それは怖い」
「しかも最後まで気づかなかった」
「もっと怖い」
レドが苦笑しながら、薄い木板を一枚渡してくる。板には品名らしき文字と、その横に数字、さらに赤、青、黄の小さな印が並んでいた。
「今日は朝便と昼便で荷が入る。赤印は東部からの穀物、青印は塩や乾物、黄印は布と革。荷運び連中が運んだあと、お前と俺で数える」
「二人で?」
「別々に数えて、最後に照合する」
「ちゃんとしてる」
「一人でやると間違ってても気づかねぇからな」
すごく分かる。
前の世界でも、数字を扱う仕事は一人で確認しただけでは不安だった。自分が間違えて入力した数字を自分で見直しても、なぜか同じように正しいと思い込んでしまうことがあるので、別の人が見る意味は大きい。
レドについて倉庫へ入ると、中は思っていた以上に広く、高い天井を支える太い梁の下に木箱や麻袋が積み上げられていた。通路ごとに色のついた板が下げられていて、荷物の種類で置き場が分かれている。
「まず赤からな。朝便は麦袋四十八、灰麦袋三十二、豆袋二十四」
「それを全部数えるんですね」
「全部数える」
「ですよね」
楽な仕事だと思った自分を、少しだけ反省する。
戦闘もなく、重い荷物を何十回も運ぶ必要もない代わりに、ひたすら同じような袋や箱についた印と数字を確認する地味な作業なので、身体より先に目と頭が疲れそうだった。
最初は麦袋からだった。
同じような麻袋が四段に積まれていて、一袋ずつ側面の赤い印を確認しながら数えていく。印が見えないものは少し横へ回り、数字を間違えないよう十袋ごとに炭筆で板へ小さな線を入れた。
「十、二十、三十……」
「声出す派?」
「途中で分からなくなるので」
「俺もだ」
少し安心した。
四十八袋を数え終え、自分の板へ記入する。
「四十八です」
「こっちも四十八。次、灰麦」
今度は三十二袋で、こちらも問題なく一致し、豆袋二十四についても同じだった。
「順調ですね」
「今のうちはな」
「その言い方やめません?」
「昼便が本番だよ」
「嫌な予告だなぁ」
朝便の次は青印の乾物を確認する。塩樽十五、乾燥茸の木箱十二、燻製魚の箱九と順番に数えていったが、ここまではすべて台帳と合っていた。
私はだんだん、この仕事は本当に楽なのではないかと思い始めた。
「数字合うと気持ちいいですね」
「倉庫仕事やる?」
「毎日は嫌です」
「即答か」
「合わなかったとき絶対面倒じゃないですか」
「よく分かってるな」
レドが笑う。
午前中はほとんど問題なく進み、途中で一度だけ木箱の印が擦れて読みにくいものがあったものの、帳簿番号と置き場を照らし合わせることで確認できた。
昼前になると、荷運びの人たちが一度作業を止める。
「昼どうする?」
「外で何か買ってきます」
「俺ら何人かで食堂行くけど、来る?」
「どこです?」
「南門通りの《腹鐘亭》。量多いぞ」
少し迷った。
昼食を誰かと食べること自体が嫌なわけではないけれど、量が多いという説明が気になる。夜に飲む予定がある日に、昼で腹いっぱいになるのは避けたかった。
「今日は軽くしておきます」
「夜飲むから?」
「なんで分かるんですか?」
「さっき報酬の話してたとき顔に出てた」
「そんなにです?」
「千四百って聞いて嬉しそうだったから」
「仕事の報酬ですから普通ですよ」
「違う顔だったぞ」
「どんな顔ですか」
「酒代増えたって顔」
「武具屋でも同じようなこと言われたなぁ」
レドは笑いながら、別の倉庫員たちと食堂へ向かった。
私は少し歩いたところにある屋台で、焼いた薄パンへ刻んだ白豆と香草を挟んだものを買い、水の補充と合わせて百十ゴールドを払った。倉庫の外壁に沿って置かれた長椅子へ座って食べてみると、豆にはしっかり塩気があり、細かく刻まれた青い葉から少し苦味が出ていて、温かくはないけれど昼食としては十分だった。
「千四百から百十引いて……千二百九十か」
さらに宿代三百を確保すれば九百九十あるので、夜に七百使っても二百九十は残る。昨日の九十ゴールドもあるし、今日はかなり余裕がある。
「でも、昼の仕事が終わってから考えよう」
午前中が順調だったからこそ、レドの「昼便が本番」という言葉が気になっていた。
そして、その予感は正しかった。
昼食を終えて倉庫へ戻ると、ちょうど昼便の荷車が三台続けて到着したところだった。布と革の黄印を中心に、大きさの違う木箱が次々に運び込まれていく。
「来たな」
戻ってきたレドが言う。
「嫌そうですね」
「今から数が合わなくなる」
「決めつけるんだ」
「毎週どっか合わん」
「それでいいんですか?」
「よくないから数えてんだろ」
「確かに」
まず布箱二十六を二人で別々に数え、結果は二十六で一致した。次の染料箱十四も問題なく合ったので、私が「今日はいけるかもしれませんね」と言うと、レドは縁起でもないことを言うなという顔をした。
「そういうこと言うな」
「縁起悪い?」
「経験上な」
次はなめし革の束が三十八。
私は端から一つずつ確認し、十ごとに印をつけながら数える。
「三十八です」
「……俺、三十七」
「来ましたね」
「来たな」
レドの表情が一気に真面目になった。
「もう一回」
「はい」
今度は立ち位置を入れ替えて数える。
私はさっきレドがいた側から、レドは私がいた側から確認した。
「三十八です」
「俺も今度は三十八」
「じゃあさっきの数え間違い?」
「かもしれん。でも台帳は三十七だ」
「そっちか」
帳簿には確かに三十七と書かれているが、荷札を確認すると三十八束で、到着した荷車の記録にも同じ数が書かれていた。
「台帳だけ違いますね」
「勝手に直すなよ」
「受付で言われました」
「よし」
レドは責任者を呼び、別の記録を確認してもらう。結果として、前日に作成された予定台帳だけが間違っていたらしい。
「一個多いなら得した気分ですけど」
「倉庫じゃ得じゃねぇんだよ」
「ですよね」
「一個多くても一個少なくても、理由分からなきゃ全部探す」
「それ、前の仕事でも同じでした」
「何やってた?」
「書類とか数字とか、いろいろです」
「商会?」
「似たようなものです」
会社員をどう説明すればいいのか分からないので、曖昧にする。
この世界に来てから何度目かのやり取りだった。
その後も革紐の束二十二、厚布箱十六、薄布箱三十四と確認を続け、この辺りは問題なく終わった。ただ、最後に届いた染布の箱で再び数が合わなくなり、今度は台帳が十八なのに、私もレドも十七しか数えられなかった。
「今度は一個足りない」
「こっちは嫌な方ですね」
「嫌じゃない方なんてねぇよ」
荷運びの人へ聞き、荷車を確認し、積み下ろした場所まで見直したものの、それでも一箱は見つからない。
「道中で落とした?」
「箱が落ちたら気づくだろ」
「ですよね」
レドが顎髭を触りながら考える。
「積み元か」
「向こうで載せ忘れ?」
「たぶんな」
念のため隣の区画まで探すことになり、似たような木箱を一つずつ確認していくうちに、視界のどこを見ても箱ばかりになってきた。
前の世界で倉庫の棚卸しをした経験はないけれど、会社で共有フォルダの資料が一個見つからないときとは妙によく似ている。誰かが移動し、名前を変え、別の場所へ入れたはずなのに、確認すると全員が「自分じゃない」と言うところまで含めて、あの頃の面倒な探し物を思い出した。
「こういうの、世界変わっても同じなんだなぁ」
「何が?」
「なくなったもの探す仕事です」
「そりゃどこでも嫌だろ」
「ですよね」
結局、なくなった一箱は倉庫内では見つからなかった。
積み元へ確認を出すことになり、こちらでは「未着一箱」と記録する。
「これでいいんですか?」
「いい。俺らの仕事は数を合わせることじゃなくて、本当の数を出すことだからな」
「……それ、結構大事ですね」
「変に合わせるやつが一番困る」
前の世界の上司に聞かせたいような言葉だった。
数字が合わないからといって帳尻だけ合わせても問題は消えず、むしろ後から誰かがもっと大きな時間を使って直すことになる。今日の仕事では一箱足りないという結果そのものが正しいのなら、それをそのまま残すことが仕事なのだ。
「今日はちゃんと一箱足りなかったって分かったから終わり」
「終わってない気もしますけど」
「俺らの担当は終わり」
「便利な言葉だ」
「仕事なんて担当分終わったら帰れ」
「それも前の世界の人に聞かせたい」
「前いたとこ、そんなひどかったのか?」
「帰ろうとすると仕事増える日がありました」
「何で?」
「帰る直前に『これだけ確認して』って言われるんです」
「断れよ」
「それが簡単にできれば苦労しないんですよ」
レドは理解できないという顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
すべての確認が終わった頃には、朝の曇り空から予想した雨が少しだけ降り始めていた。ただ、本降りになる前に作業を終えられたので、依頼書に書かれていた「夕刻前終了予定」は珍しくその通りだった。
「お疲れ」
「思ったより疲れました」
「荷物持ってねぇのに?」
「目が疲れます」
「分かる」
レドも目元を指で揉んでいる。
「ギルド戻る?」
「はい」
「俺ら何人かでこのあと飲みに行くけど、来る?」
昼にも誘われたが、今度は食事ではなく本当に飲み会らしい。少し先には同じ倉庫で働いていた三人が待っている。
「何人くらいです?」
「俺入れて五人。お前来たら六人」
「どこ行くんですか?」
「《赤壺亭》。安いし、皿でかい」
「ああ……」
悪くない。
むしろ今日一緒に働いた人たちだし、レドともそれなりに話した。知らない人だけの集まりでもないので、行けば行ったで楽しいかもしれない。
「迷ってる?」
「ちょっと」
「無理にとは言わんぞ」
その言葉で、逆に決めやすくなった。
「今日は一人で飲みます」
「そっか」
「すみません」
「何で謝る?」
「誘ってもらったのに断ったので」
「別に。飲みたいやつが来りゃいいだろ」
「そういう感じですか」
「酒飲むのに仕事じゃねぇんだから」
「それいいですね」
レドは肩をすくめる。
「また倉庫来たら誘うわ」
「そのときも一人で飲みたかったら断りますよ」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
それぞれ別の方向へ歩き出してから、私は少しだけ考えた。
前の世界では、仕事のあとに同僚から飲みに誘われることが何度もあり、行けば楽しい日もあったので、誰かと飲むこと自体が嫌いなわけではない。それでも疲れている日に人数の多い飲み会へ参加すると、誰の隣に座るか、何を話すか、誰かのグラスが空いていないか、そろそろ追加を頼むべきか、帰りたそうな人はいないかと、酒を飲みながら細かなことをいくつも気にしてしまい、帰る頃には仕事とは違う種類の疲れが増えていることもあった。
それに比べれば、一人で飲むときに考えるのは、自分の財布と腹具合、それから何を食べたいかくらいでいい。
「今日はそっちの気分」
別に大きな理由はなく、皆と仲が悪いわけでもなければ、何かに落ち込んでいるわけでもない。疲れているから、人付き合いが苦手だから、考え事をしたいから、静かに過ごしたいからと、もっともらしい理由を並べようと思えばいくらでも並べられるけれど、本当のところは一人で飲みたいというだけだった。
ギルドへ戻り、完了印のついた依頼票を出す。
「お疲れさまでした。千四百ゴールドです」
「ありがとうございます」
硬貨の入った袋を受け取る。
「倉庫、どうでした?」
「数字が一個多くて、一個足りなかったです」
「大変でしたね」
「でも、数を無理に合わせるんじゃなくて、本当の数を出す仕事だって言われました」
「倉庫では基本ですね」
「私、ちょっと感動しました」
「そんなにですか?」
「前の仕事で聞きたかった言葉だったので」
受付嬢にはよく分からなかったらしいが、それでも笑ってくれた。
ギルドを出る前に改めて今日の金額を整理すると、報酬は千四百ゴールドで、昼食と水に百十、宿代として三百を確保すれば九百九十残る。昨日使わなかった九十ゴールドもあるので、財布全体にはもう少し余裕があった。
「今日は八百までいいかな」
昨日は七百までと決めて六百十。
今日の方が報酬は少し高く、戦闘で大きく消耗したわけでもない。八百ゴールドあれば店選びでかなり自由が利くので、今日は金額よりも別の条件を優先したかった。
「ただし、一人でゆっくり飲めるところ」
一度宿へ戻り、短剣を部屋へ置く。
雨はまだ細く降っていた。
厚手の外套までは必要ない程度なので、宿で貸してくれる簡単な雨避け布を肩へ掛け、夕方の街へ出る。
今日は賑やかな大通りを避け、レドたちのような仕事帰りの集団が集まりそうな店ではなく、もう少し静かで、一人客が入りやすそうな場所を探した。
西側の古い住宅街まで歩いていくと、店構えの小さな酒場が何軒か見つかった。一軒目は扉の向こうから大きな笑い声が聞こえたので今日は違う気がして見送り、二軒目は客がほとんどいなかったものの品書きが酒中心で料理が少なかったため、そのまま先へ進む。
三軒目は細い路地を曲がったところにあり、丸い木板に一羽の白い鳥が描かれていた。
《止まり木》
「名前、静かそう」
少なくとも《赤炉亭》や《猪火亭》よりは静かな名前だ。
入口に出された小さな品書きを見る。
《麦酒 百四十ゴールド》
《薄果実酒 百二十ゴールド》
《香草白酒 百八十ゴールド》
《小魚の塩焼き 百二十ゴールド》
《白豆と燻肉の煮込み 百六十ゴールド》
《焼き茸の油和え 百三十ゴールド》
《香草チーズ 百五十ゴールド》
《薄焼きパン 五十ゴールド》
《本日の小皿 九十ゴールド》
値段は全体的に手頃で、八百ゴールドあれば二杯飲んで料理を二、三品頼んでも十分収まりそうだった。何より、扉越しに聞こえる店内の音が静かだったので、今日はここが合っている気がする。
「ここにしよう」
扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声が返ってきた。
店内は想像していたより細長く、壁沿いに一人用の小さな席が六つ並び、中央には二人掛けの卓が三つだけ置かれていた。奥には短いカウンターがあり、その内側で四十代半ばくらいの女性が杯を拭いている。
濃い栗色の髪を耳の下でまとめ、淡い灰色の前掛けをつけた女性は、表情こそ柔らかいものの必要以上に愛想を振りまく感じではなく、こちらを一度見ただけで壁際の席を示した。
「お一人なら、好きなところへどうぞ」
「ありがとうございます」
壁沿いの真ん中辺りへ座る。
席は本当に一人分だけの幅で、横には小さな荷物掛けまでついていた。
「一人用なんですね」
「ええ。うちは一人で来る方が多いので」
「珍しい」
「そうですか?」
「居酒屋って、もっと何人かで来る人が多いのかと思ってました」
「大人数なら、もっと広い店へ行きますから」
確かにその通りで、狭い店で団体客を取るより、一人か二人の客を中心にした方がこの造りには合っている。
「麦酒ください」
「はい」
まずは一杯。
店主が木の杯へ麦酒を注いで持ってくる。
色は薄い琥珀色で、泡はそれほど多くない。香りは穏やかで、ここ数日飲んだ麦酒の中では《土鍋屋 ロッカ》のものに少し近い気がした。
一口飲むと苦味は弱めで、麦の甘みが少し残り、飲み込んだあとには乾いた草のような香りがほんのわずかに抜けていく。派手ではないけれど、味を一つずつ分析するより、肩の力を抜いて飲み続けたくなる麦酒だった。
「落ち着くなぁ」
「雨の日は、こういう酒の方がいいでしょう?」
店主が言う。
「日によって変えてるんですか?」
「少しだけ。夏の暑い日はもう少し軽い樽を出しますし、寒くなると黒麦を混ぜます」
「同じ麦酒でも店ごとに全然違いますね」
「仕入れる樽も違いますから」
「最近それを知り始めました」
「前は酒を飲まなかった?」
「飲んでました。前にいたところでは、もう少し種類の分け方が違ったんです」
「遠いところ?」
「かなり」
店主はそれ以上聞かなかった。
こういう距離感もありがたい。話しかけてくれる店も楽しいし、店主とずっと喋る夜も好きだけれど、今日は必要なときだけ会話があるくらいがちょうどいい。
料理を選ぶ。
白豆と燻肉の煮込みが百六十、焼き茸の油和えが百三十で、どちらも気になる。
「白豆と燻肉の煮込みをお願いします」
「はい」
麦酒と合わせて三百ゴールドなので、まだ五百残っている。焦って二品目を決める必要はない。
店内を見回すと、客は私を含めて五人いた。入口近くでは白髪の老人が一人で果実酒を飲みながら小魚を食べ、少し奥には若い女性が本を読み、その横の席では作業着姿の男性が黙って煮込みを食べている。
誰も大声で話していない。
だからといって気まずいほど静かなわけでもなく、杯が置かれる音や奥で鍋を混ぜる音、それに外を通る雨音が程よく混ざっている。
「こういう店もあるんだ」
前の世界で一人飲みを始めたばかりの頃は、少しだけ緊張した。
一人で居酒屋へ入れば、周りから友達がいないと思われるのではないか、店員に変に思われないか、一人で席を使うのは迷惑ではないかと、今思えば誰も気にしていないようなことまで考えていた。
実際にやってみれば、誰もそんなにこちらを見ていなかった。店員は一人客に慣れているし、周りの客も自分の酒と料理で忙しく、何より自分の好きな速度で飲めるのが楽だった。
「お待たせしました」
店主が小さな深皿を置く。
白豆と燻肉の煮込みは、白い豆がとろりと崩れ、その間に細切りの濃い茶色の肉が混じっている。汁は多くなく、煮込みというより柔らかく煮詰めた豆料理に近く、表面には緑の香草と粗く砕いた黒い種が散らされていた。
「この肉、何ですか?」
「《山角羊》です。肩と腹の薄いところを燻したものですね」
「羊なんですね」
「少し癖がありますよ」
「大丈夫です」
一匙すくって口へ運ぶと、白豆はほとんど噛まなくても形が崩れるほど柔らかく、その中へ燻肉の塩気と煙の香りが混ざることで、豆だけなら優しいはずの味が一気に酒向きになった。
「おいしい」
山角羊の肉は細いのに噛み応えがあり、少し獣らしい香りも残っている。ただ、その癖を燻製の煙と黒い種の香りが包んでいるので、嫌な匂いには感じなかった。
「この黒いの、何ですか?」
「《乾鳴種》です。噛むと香りが出ます」
言われた通り黒い粒を一つ噛んでみると、最初に少しだけ舌が痺れるような刺激があり、そのあとから木の皮を焦がしたような香りが広がる。
「胡椒っぽいけど、もっと香ばしい」
「胡椒?」
「前にいたところの香辛料です」
「辛いやつ?」
「種類によりますけど、これは似てます」
完全に同じではない。
それでも豆と燻肉に黒い香辛料を振る組み合わせ自体は前の世界にもありそうで、そこへ山角羊の癖や乾鳴種の焦げたような香りが混ざると、やっぱり味はこの世界のものになった。
麦酒を飲むと、燻製の香りが口へ残ったあとに穏やかな苦味が流れ込み、最後には豆の甘さだけが少し舌へ残る。
「これ、ずっと食べられるな」
量も多すぎない。
一人用の店だけあって、一皿の大きさも一人で食べ切れる程度に調整されているらしい。
「一人分なんですか?」
店主へ聞く。
「大体そうですね。二人なら二、三皿取る人が多いです」
「助かります」
「大皿嫌い?」
「嫌いじゃないですけど、一人だと一皿で終わるので」
「うちは一人で色々食べたい人向けですね」
「すごく助かります」
前の世界でも、一人飲みで一番困るのは量だった。
食べたい料理があっても、一皿が二、三人向けだと、それだけで腹がいっぱいになる。いろいろ食べたいのに一品しか頼めないのは少し寂しいので、この店が最初から一人客を想定しているのはかなりありがたい。
「本日の小皿って何ですか?」
「今日は《雨茸》の酢蒸しです」
「雨茸?」
「雨の前後によく出る茸です。今日たくさん入ったので」
「だから本日なんですね」
「ええ」
「それください」
「はい」
予定していなかった一品だが、九十ゴールドなので、ここまでで三百九十。予算にはまだ四百十も残っている。
「一人だと注文早いですね」
隣の席にいた作業着姿の男性が、突然こちらへ話しかけてきた。
三十代くらいで、袖には細かな木屑がついている。
「そうですか?」
「誰かと来ると、何頼むか相談するだろ」
「ああ」
「俺、あれ苦手なんだよ」
「分かります」
「食いたいの頼めばいいのに、『何でもいい』って言われると一番困る」
「それ、本当に何でもいいわけじゃないこと多いですからね」
「そうなんだよ。肉頼むと今日は魚の気分だったって言われる」
「じゃあ魚って言ってほしい」
「そう!」
少しだけ声が大きくなり、男は自分で笑って声を落とした。
「悪い」
「いえ」
「今日も本当は同僚に誘われたんだけど、一人で来た」
「私もです」
「お」
「今日一緒に仕事した人たちに飲みに誘われたんですけど、断って一人で来ました」
「なんで?」
そう聞かれ、私は少しだけ考えた。
「一人で飲みたかったから?」
「それだけ?」
「それだけです」
「いいじゃん」
男はあまりにもあっさり言ったので、何となく笑ってしまった。
理由を聞かれると、もっと立派な説明が必要な気がしていた。
疲れているとか、人付き合いが苦手だとか、静かに過ごしたいとか、何かしら理由を用意しなければいけない気がしていたけれど、本当は「今日は一人で飲みたい」で十分なのだと思う。
「俺、木工場なんだけどさ」
男が麦酒を飲みながら続ける。
「仕事終わりに月三回くらい皆で飲むんだよ」
「結構ありますね」
「最初は毎回行ってた。断るの悪い気して」
「分かります」
「でも行くと、仕事の話始まるんだよ」
「ああ……」
「昼間ずっと木の話してんのに、夜も木の話」
「それ嫌だなぁ」
「新しい鋸がどうとか、親方がどうとか、明日の板がどうとか」
「仕事終わってないですね」
「だろ?」
男は深く頷く。
「だから最近は半分くらい断ってる」
「何て言って断ります?」
「一人で飲むって言う」
「そのまま?」
「そのまま」
「強い」
「何が?」
「私は今日、ちょっと謝りました」
「何で謝るんだよ」
「誘ってもらったから」
「来たくないやつ無理に連れてってもしょうがねぇだろ」
「ですよね」
「飲みなんだから」
今日二回目だった。
レドにも同じようなことを言われた。
酒を飲むのに仕事ではないというのは、言われてみれば当たり前なのに、妙に納得できる。
「お待たせしました。雨茸の酢蒸しです」
店主が小さな皿を置いた。
薄い灰色の茸が四つ、少し開いた傘を上にして並んでいる。表面には透明な汁がかかり、細かく刻まれた黄色い皮のようなものが散らされていて、湯気はほとんどなく、温度は少しぬるいくらいだった。
「冷たい料理ですか?」
「一度蒸してから冷ましてあります。温かいままだと酢が強く出るので」
「へぇ」
一つ食べてみると、茸は想像していたより柔らかく、噛むと中から少し水分が出た。土っぽい香りへ穏やかな酸味と黄色い皮の爽やかな匂いが重なり、白豆と燻肉を食べたあとの口をきれいにしてくれる。
「この黄色いのは?」
「《灯柑》の皮です」
「柑橘みたい」
「柑橘?」
「前にいたところの果物です」
「酸っぱい?」
「ものによりますけど、皮がこういう香りします」
また似たものを見つけた。
それでも灯柑の香りはレモンや柚子ほど鋭くなく、少し甘いうえに草に近い匂いが混じっている。酢も前の世界の米酢とは違い、もっと穀物の香りが強かった。
「雨の日に合うかも」
こってりした豆煮のあとに食べると、口の中が一度きれいになる。
店の外からは、まだ細い雨音が続いている。
「これ、今日来たから食べられたんですね」
「雨茸は晴れが続くとあまり入らないので」
「いいタイミングだった」
「雨の日に外へ出たご褒美ですね」
「その考え方いいなぁ」
前の世界では雨の日の飲み会は面倒だった。傘を持ち歩き、靴が濡れ、帰りの電車が混み、店を出たあともまた傘を差さなければいけないので、予定がなければそのまま家へ帰りたくなる日も多かった。
でも今日は、雨だったから雨茸がある。
世界が変われば、雨にも別の楽しみ方があるらしい。
「二杯目どうしよう」
品書きを見る。
現在三百九十ゴールドで、予算は八百なのでまだ四百十残っている。麦酒は百四十、薄果実酒は百二十、香草白酒は百八十で、さらに香草チーズ百五十も少し気になっていた。
薄果実酒と香草チーズなら二百七十なので、合わせても六百六十。十分余裕がある。
「薄果実酒って甘いですか?」
店主へ聞く。
「少しだけ。今日のは青梨です」
「青梨?」
「硬いうちに絞る梨ですね。甘さより香りが強いです」
「じゃあそれください」
「はい」
出てきた酒は小さめの透明な杯に入っていて、色はほとんどなく、ほんの少しだけ黄緑に見えた。香りを嗅ぐと確かに梨のような瑞々しい匂いがするものの、甘い果物酒のような重さはない。
一口飲む。
「これ好き」
最初にわずかな酸味があり、そのあとで青い果実の香りが広がる。甘みは弱く、酒としてもかなり軽い。
「これ何杯でもいけそうで危ないやつですね」
「軽い酒はそう言う方が多いですね」
「度数は?」
「麦酒より少し低いです」
「本当に?」
「うちは嘘つきませんよ」
「前に『ちょっとだけ強い』で失敗したことあるので」
「それは店じゃなくて飲み方では?」
「否定できない」
隣の木工職人が笑った。
「一人だと止めるやついないからな」
「そこは自分で止めます」
「偉い」
「昨日も別の人に同じ感じで褒められました」
「じゃあちゃんと止まれてるじゃん」
今日は二杯までにするつもりだったので、薄果実酒を追加した時点で合計五百十ゴールド。まだ二百九十余っている。
香草チーズを頼むか少し迷う。
「チーズってどんなのです?」
「山羊乳の硬いチーズに、三種類の乾燥香草をまぶしたものです」
「塩強い?」
「少し」
「ください」
百五十追加して、合計六百六十。
しばらくして、小さな木皿に薄切りの白いチーズが五枚ほど並んで出てきた。表面には緑や茶色の細かな香草がまぶされていて、香りだけでも少し塩気を感じる。
一切れ食べると、山羊乳らしい独特の香りが最初に来るものの、以前食べたものほど強くない。硬いのに噛むほど少しずつ脂が溶け、そこへ乾燥香草の苦味と甘い香りが重なった。
「果実酒合うなぁ」
麦酒でも合いそうだが、青梨の軽い香りが山羊乳の癖を少し抑えてくれる。
前の世界ならワインとチーズという組み合わせを思い浮かべるところだけれど、この薄果実酒はワインと呼ぶほど重くない。果物を使った酒でも、作り方や飲み方はやっぱりこちら独自らしい。
「何で一人飲み好きなんです?」
木工職人がまた聞いてきた。
「自由だからですかね」
「自由?」
「食べたいものを自分だけで決められるし、飲む速さも、帰る時間も、自分で決められるので」
「分かる」
「別に誰かと飲むのが嫌いなわけじゃないんですけど」
「俺も」
「ただ今日は一人がいい、って日があります」
「あるな」
「それだけでいいんですよね」
「何の許可が要るんだよ」
「前は何となく理由が必要な気がしてたんです」
「変なの」
「そうかも」
店内の端では老人が会計を済ませて帰り、本を読んでいた女性はまだ同じ頁を眺めながら果実酒を少しずつ飲んでいる。誰も他の一人客を気にしていないし、一人で飲んでいるからといって寂しいとも限らない。
誰かと来られなかったわけでもない。
私は今日、ちゃんと誘われたうえで一人を選んだ。
「ひとりで飲むのに理由はいらないんだなぁ」
思わず口へ出す。
隣の男が聞いていた。
「今さら?」
「今さらです」
「まあ、飲みたいように飲めばいいだろ」
「本当にそれですね」
薄果実酒を一口飲む。
外から聞こえる雨音に、小さな鍋の音や店主が杯を拭く音、それから誰かが頁をめくる音が静かに重なっている。誰かとずっと話しているわけではないのに完全な無音でもなく、自分の部屋で一人酒を飲むのとも違う。
周りに人がいるのに、自分の時間は自分のまま。
それが、一人で居酒屋へ入るときの好きなところだった。
「追加、どうします?」
店主に聞かれる。
「今いくらでしたっけ?」
「麦酒百四十、豆煮百六十、雨茸九十、果実酒百二十、香草チーズ百五十で、六百六十ですね」
「あと百四十……」
予算は八百なので、奇しくも麦酒一杯分だけ残っている。
「麦酒もう一杯ぴったりだな」
隣の男が言う。
「今それ考えてました」
「飲む?」
「うーん」
腹はちょうどよく、酔いも軽い。三杯目を飲めないわけではないうえ、頼めば予算まできれいに使い切れるので、かなり危険な条件が揃っている。
「明日仕事するなら、今くらいがちょうどいいですよ」
店主が何気なく言った。
「店側が止めるんですか?」
「無理に一杯売って、次から来なくなるよりいいので」
「商売上手なのか下手なのか分からない」
「長くやってますから」
隣の男が笑う。
「じゃあ俺も今日は終わるかな」
「あなた何杯目です?」
「二杯」
「普通ですね」
「一人だとそんな飲まん」
「分かります」
誰かと飲んでいると周りにつられて追加することがあるけれど、一人なら自分がもう満足していることに気づきやすい。
「今日はやめときます」
「はい」
店主はそれだけ言って、追加を勧めなかった。
予算は八百だったけれど、使ったのは六百六十なので、百四十ゴールド残る。昨日の九十ゴールドと合わせれば二百三十になる。
「なんか最近、ちゃんと残せてる」
「何が?」
隣の男が聞く。
「飲み代です」
「偉いじゃん」
「前は予算内なら使い切ろうとしてたので」
「何で?」
「分かりません」
「変なやつだな」
「自分でもそう思います」
最後のチーズを食べ、薄果実酒を飲み切ると、軽い果実の香りが残ったあとにチーズの塩気が少し戻ってきた。
「ごちそうさまでした」
「六百六十です」
「お願いします」
小袋から支払うと、予定どおり百四十ゴールドが残った。
「いい店でした」
「ありがとうございます」
「一人用の席、すごくいいです」
「一人で来る方って、意外と多いんですよ」
「ですよね」
「誰かと飲む店はいくらでもありますから。ここは一人で静かに飲みたい日に使ってもらえれば」
「なるほど」
店を出ようとすると、隣の木工職人も立ち上がった。
「俺も帰るわ」
「お疲れさまでした」
「そっちも」
「明日も木ですか?」
「明日も木」
「大変ですね」
「そっちは?」
「ギルド行ってから決めます」
「自由でいいな」
「その代わり稼ぎ安定しませんけどね」
「どっちもどっちだな」
「ですね」
店の前で別れる。
雨はほとんど止み、濡れた石畳へ店の灯りが映っていて、歩く人も夕方よりずっと少なくなっていた。
今日の報酬は千四百ゴールドで、昼食と水に百十、夜の飲食に六百六十、宿代に三百使うことになる。今日だけの差し引きなら三百三十ゴールド残り、夜用の予算として用意した八百からも百四十を持ち帰れるので、金額だけを見れば悪くない一日だった。
でも、今日一番残ったのは金の話ではない。
昼にはレドたちから飲みに誘われたものの、一人で飲みたいからと断り、それでも誰かが怒ったり嫌な顔をしたりすることはなかった。夜には同じように一人で飲みに来ていた木工職人と少し話して、彼もまた誰かと飲む日と一人で飲む日を普通に分けていた。
前の世界では、一人で飲むと言うと「寂しくない?」と聞かれたこともあったし、「誘ってくれればいいのに」と言われたこともあった。
でも、誰かと飲みたい日と、一人で飲みたい日は別だ。
今日はただ、自分で料理を決め、自分の速さで酒を飲み、自分が満足したところで終わりたかった。そして、それは誰かへ説明するための特別な理由がなくても、十分選んでいい過ごし方だった。
「ひとりで飲むのに理由はいらない、か」
声に出してみても、やっぱりその通りだと思う。
楽しいから飲む日もあれば、静かにしたくて飲む日もあり、美味しい料理が食べたいから店へ入る日もある。あるいは、理由なんて考えず一杯飲みたいだけの日があってもいい。
濡れた石畳を歩きながら思い出すのは、白豆へ染み込んだ山角羊の燻製香と、雨茸の穏やかな酸味、青梨の軽い果実酒、それから香草をまぶした山羊乳チーズだった。どれも派手な料理ではなかったけれど、静かな店の空気と一緒に食べたことで、今日の気分にはちょうどよく収まっている。
仕事では数が合わない荷物を探し、本当の数へ合わせることの大切さを教えられた。
けれど夜まで、人まで誰かに合わせ続ける必要はないのかもしれない。
「……今日は一人で正解だったな」
そう呟きながら、私は雨上がりの道をゆっくり歩き、《銀鈴の宿》へ戻った。




