第54話「近いって言った人、どこから測ったんですか?」
セルナで迎える十四度目の朝、目を覚まして腕を伸ばすと、昨日ひたすら薪束を持っていたせいか、指の付け根から前腕にかけて軽い張りが残っていた。
共同洗濯場の翌朝ほどではなく、身体を動かせばすぐにほぐれそうな程度なので、今日は休む必要もなさそうだった。昨日は西外縁でセナと一緒に薪束を運び、千六百ゴールドを稼いだ。昼食は支給され、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールド、《二火亭》で角兎肉の二面焼きと予定外だった白豆の焦がし焼き、それに麦酒を二杯飲んで四百八十ゴールド使ったので、昨日の稼ぎからは七百七十ゴールド残っている。
「昨日はちゃんと残ったし、今日は千ゴールドくらいでもいいかな」
報酬だけを見て仕事を選ぶ必要はない。
そう考えながら一階へ下りると、今朝の《潮窓の宿》では、薄焼きパンに白豆と刻んだ塩肉の煮込み、それに青菜を混ぜた小さな卵焼きが出ていた。
「今日は腕?」
宿の女性が聞いてくる。
「何で分かるんです?」
「昨日薪運んだって言ってたでしょ」
「覚えてたんですね」
「十三泊もしてる客が毎日違うところ痛いって言ってたら覚えるよ」
「そんなに毎日痛がってませんよ」
「腰、腕、脚」
「冒険者なら普通じゃないです?」
「知らないよ。冒険者じゃないから」
「正しい」
白豆の煮込みを薄焼きパンに載せて食べながら、今日の仕事を考える。昨日はそれなりに身体を使ったので、できれば今日は重いものを運ぶ仕事を避けたいが、昨日休んだばかりなので完全な休養日にするほどでもない。
「今日は軽いやつ探します」
「依頼票に『軽いです』って書いてあるの?」
「ないです」
「じゃあ気をつけな」
「何に?」
「軽そうに見える仕事」
「最近それに何度もやられてるんですよね」
「なら学びなよ」
「今日は学んだところを見せます」
「期待してる」
その言い方が少し嫌だった。
朝食を終えて冒険者ギルドへ向かい、依頼板の前では、まず運搬系の仕事を候補から外していく。東魚市場の箱運び、西船渠の板材運び、北倉庫区の麻袋積み替えは仕事内容を読んだ時点でやめておき、そのほかの依頼を見比べた。
《中央商店街・帳札整理補助 報酬千ゴールド 半日》
《南住宅区・共同庭園草取り 報酬九百ゴールド 半日》
《北外れ・薬草畑仕分け補助 報酬千二百ゴールド 昼食支給》
《東街道沿い・道標確認 報酬千三百ゴールド 半日程度》
《西外縁・家畜柵点検 報酬千四百ゴールド 昼食支給》
「道標確認……」
依頼票を外して内容を読む。
セルナ東門から街道を進み、三か所の道標が倒れていないか、文字が読めるか、周囲の草で隠れていないかを確認する仕事らしい。問題がなければ木札へ印を付け、異常があれば状態を書いて持ち帰ればよく、修理までは求められていない。重い荷物を持つ必要もなく、街道沿いなので危険も低いと書かれていた。
何より目を引いたのは、依頼票の端に書かれた一文だった。
《東門より近距離》
「これだ」
昨日は薪を運んだのだから、今日は歩いて確認するだけでいい。報酬千三百ゴールドなら十分だし、半日程度なら午後もゆっくりできる。
受付へ依頼票を持っていくと、今日も短い黒髪に青い石の耳飾りを付けた男性がいた。
「東街道の道標確認ですね」
「はい」
「三か所確認して、こちらの木札へ状態を記録してください。文字が薄い程度ならその旨を、倒れていたり破損していたりした場合は場所が分かるようにお願いします」
「修理はしなくていいんですよね?」
「必要ありません」
「重いものも?」
「持ちません」
「戦闘は?」
「通常ならありません。ただし街の外なので、念のため装備は持っていってください」
「分かりました。……近いんですよね?」
「東門からなら近いですよ」
「三か所全部?」
「はい」
「どのくらい?」
受付係が少し考えた。
「最後の道標までなら、普通に歩いて一刻半ほどでしょうか」
「……片道?」
「はい」
「一刻半?」
「はい」
「近い?」
「街道の仕事としては」
最後に付いた言葉が嫌だった。
「依頼票に『東門より近距離』って」
「近距離ですね」
「片道一刻半で?」
「遠い街道依頼だと、現地まで一日かかりますから」
「基準が違う」
「街の中の仕事ではありませんので」
「それ先に書いてほしいなぁ」
「受けますか?」
依頼票を見る。もうここまで話を聞いたのだから、今さら戻すのも少し悔しい。
「……受けます」
「お気をつけて」
「今ちょっと笑いました?」
「いいえ」
「絶対笑った」
記録用の木札三枚と、道標の位置が描かれた簡単な地図を受け取った。
東門を出る前に水筒を確認し、昼食支給はないので、門近くの屋台で黒麦パンに白豆と刻み肉を挟んだものを百ゴールドで買って布へ包んでもらう。
半日程度なら昼には戻れるかもしれないが、受付係の言う一刻半が最後の道標までの片道なら、確認時間と帰りを合わせれば昼を越える可能性は高い。最近ようやく、「半日程度」という言葉をそのまま信じない程度には学習していた。
東門を抜けると、街道は緩やかな上り坂になっていた。
セルナの東側には低い丘が続いており、振り返れば街壁の向こうに港の帆柱が何本も見える。海から吹く風が街道まで届いているので歩きやすいが、上り坂が続くと昨日使った脚にも少し疲れが戻ってきた。
「確認するだけって言ったよね」
もちろん、誰も「歩かなくていい」とは言っていない。それでも依頼票を見たときの私は、街道を少し歩けば三本の道標が順番に立っているくらいに考えていた。
一つ目の道標は、東門を出て三十分ほどで見つかった。
腰ほどの高さがある太い木柱で、先端に二枚の案内板が付いている。
《東 ミルナ村》
《南東 塩浜旧道》
文字は問題なく読め、柱も傾いておらず、根元に少し草が伸びている程度だった。
「一個目、異常なし」
木札へ印を付けて地図を確認すると、二つ目はここからさらに東へ進んだ場所にあるらしい。最初の三十分程度なら確かに近いと言えなくもないので、この時点ではまだ余裕があった。
街道を進んでいくと、何台かの荷馬車が横を通り過ぎ、途中ではセルナへ向かう商人らしい一団ともすれ違った。道の左右には少しずつ畑が増え、ところどころに小さな農家も見えてくる。
前の世界なら、三十分歩くと言われた時点で電車かバスを探していただろう。会社員だった頃は駅から徒歩十五分でも遠いと思っていたのに、この世界へ来てから距離感がずいぶん変わった。
それでも、近いという言葉の意味まで変えたつもりはない。
二つ目の道標へ着いたのは、一つ目からさらに四十分ほど歩いた頃だった。
「……これで二個目か」
道標そのものは見つかったが、近づいてみると、南側を指す案内板の文字が半分ほど消えている。
《南 白……農……》
「読めないなぁ」
木札へ《南向き案内板、文字薄れ。再塗装必要》と書き込む。
修理まで頼まれていないのは助かった。これで塗料や交換用の板まで持って歩けと言われたら、報酬千三百ゴールドでは受けなかったと思う。
周囲を一周してほかに問題がないことを確かめ、地図で三つ目の場所を見ると、紙の上では指一本分ほどしか離れていない。
「ここから……まだ四十分?」
地図の縮尺が妙に腹立たしい。
昼が近づくにつれて腹が減り、持ってきた黒麦パンのことを何度か考えながら歩いていると、街道脇の畑で作業している男性が見えたので、念のため場所を聞いてみる。
「すみません、この先の三つ目の道標って、まだ遠いです?」
男性は鍬を止めた。
「三つ目?」
「ミルナ村との分かれ道の手前にあるやつです」
「ああ、近いよ」
嫌な予感がした。
「何分くらいです?」
「歩いて半刻もないんじゃないか」
「半刻」
「若いならもっと早いだろ」
「その『近い』って、どこから測ってます?」
「ここから」
「ですよね」
「何だ?」
「いえ、今日二回目なので」
男性は不思議そうな顔をしていた。
そこからさらに三十分ほど歩き、ようやく三つ目の道標が見えたときには、依頼票に書かれていた「近距離」という三文字へ文句を言いたい気持ちでいっぱいだった。
「近いって言った人、どこから測ったんですか?」
道標の前で、誰もいない街道に向かって言う。
セルナの東門から測っていることは分かっているし、街道仕事の基準では近いという説明も受けた。それでも、一時間以上歩いてきた身としては納得しきれない。
三つ目の道標は少し傾いていた。
根元の土が雨で流れたらしく、東側へわずかに倒れかけている。すぐに倒れるほどではないが、放置すれば危なそうだったので、木札へ《柱、東側へ傾きあり。根元の土流れ。補修推奨》と書き込んだ。
これで今日頼まれていた三か所の確認はすべて終わったのだが、達成感より先に、ここから同じ距離を戻るという事実が頭へ浮かぶ。
「帰るのかぁ」
道標の近くには大きな木が一本あり、その下にちょうど座れそうな平たい石があったので、そこで昼食にすることにした。
朝買った黒麦パンを開くと、中には潰した白豆と細かい塩肉、それに刻んだ青菜が挟まっている。昨日の支給昼食にも白豆が入っていたので最近よく食べている気がするが、安くて腹持ちがよく、保存もしやすいのなら働く人の食事に出てくるのも当然なのだろう。
一口食べ、水筒の水を飲む。
「こういうところで食べると、ちょっと遠足っぽいな」
仕事で来ているので遠足ではない。それでも、街の外の木陰で昼食を食べていると、前の世界で休日にどこかへ出かけたときのことを少し思い出す。
ただし、帰りも一時間半歩く遠足なら、当時の私はたぶん参加していない。
黒麦パンを半分ほど食べたところで、街道をセルナ方面から歩いてきた女性が道標の前で立ち止まった。三十代くらいで、大きな布袋を背負い、麦わら色の帽子を被っている。
「ギルドの人?」
「はい。道標の確認です」
「やっぱり。これ傾いてるでしょ」
「書きました」
「去年も直したんだけどね」
「またですか?」
「ここ、雨降ると水流れるから」
女性は近くの農家で働いているらしく、名前をメルサといった。
「道標って、結構壊れるんですね」
「立ってるだけだからね」
「立ってるだけって言うと簡単そうなのに」
「立ち続けるのが仕事でしょ」
「ああ」
妙に納得した。
「文字が消えたやつもありました」
「二つ目?」
「知ってるんです?」
「毎日通るから」
「じゃあギルドに言ってくれれば」
「言ったよ」
「え?」
「だから確認に来たんじゃない?」
「なるほど」
誰かから壊れていると報告が来ても、そのまま修理人を送るのではなく、まず状態を確認する。どの道標にどんな修理が必要なのかを見てから、材料や人員を用意するのだと考えれば、「確認するだけ」に見えた今日の仕事にもちゃんと役割がある。
「確認するだけの仕事って、必要なんですね」
「確認しないで直しに来て、板だけ持ってきたのに柱が腐ってたら困るでしょ」
「確かに」
「今日は柱の方だけど」
「土も必要そうです」
「そうそう」
メルサは道標を一度見てから、東へ歩いていった。
「じゃあ頑張って」
「帰るだけです」
「セルナまで?」
「はい」
「近い近い」
「それ今日もう聞きたくないです」
笑われた。
昼食を食べ終えて帰路につく。
来るときは道標を探しながら歩いていたので距離を意識しない時間もあったが、帰りは目的地がセルナだけなので、ひたすら同じ街道を戻ることになる。途中で二つ目、一つ目の道標を順番に通り過ぎ、ようやく遠くに東門が見えた頃には、朝に感じていた腕の張りより脚の疲れの方が強くなっていた。
「軽い仕事とは」
荷物は持っておらず、掃除も戦闘もしていない。ただ歩いて三か所を確認しただけなのに、身体は十分に疲れている。
ギルドへ戻った頃には昼をかなり過ぎており、受付の男性へ三枚の木札を渡した。
「お疲れさまでした」
「近かったです」
「そうでしょう?」
「褒めてないです」
「一つ目は異常なし、二つ目は文字薄れ、三つ目は傾きですね」
「はい。三つ目は根元の土が流れてます。近くの農家の人も去年直したって言ってました」
「分かりました。補修依頼へ回します」
「こういう確認って、先に誰かから報告があるんです?」
「今回は二件報告がありました。ただ、修理内容が分からなかったので確認依頼を出しています」
「やっぱり」
「何か?」
「現地で教えてもらいました」
「それなら話が早いですね」
受付係は完了の印を押し、千三百ゴールドを渡してくれた。
「次から依頼票に距離を書いてくれません?」
「検討しておきます」
「絶対やらない言い方」
「東門より近距離、で間違ってはいませんよ」
「基準も書いてください」
「街道基準?」
「それです」
結局、笑われた。
ギルドを出て《潮窓の宿》へ戻り、十四泊目の宿代三百五十ゴールドを払う。
「どうだった?」
宿の女性が聞く。
「軽い仕事でした」
「よかったじゃない」
「片道一時間半歩きました」
「それ軽いの?」
「荷物は軽かったです。持ってないので」
「じゃあ脚だけ疲れた?」
「はい」
「昨日は腕、今日は脚」
「明日は何でしょうね」
「休めば?」
「昨日休んだばっかりです」
「もう一昨日でしょ」
「……そうか」
日付の進み方が早い。
部屋で身体を洗ってから寝台へ腰を下ろし、今日の収支を考える。稼ぎは千三百ゴールドで、昼食に百ゴールド、宿代に三百五十ゴールド使ったので、ここまでで八百五十ゴールド残っている。
「六百かな」
夜予算は六百ゴールドにした。千三百稼いだ日に七百使えば残りが少なくなるし、かといって五百まで絞る必要もない。それに今日は、長く歩いた分だけ腹も減っている。
少し身体を休めてから外へ出た。
昨日は鉄板料理だったので、今日は焼き物より煮たものが食べたい。魚でも肉でも構わないが、できれば塩気が強すぎず、歩き疲れた身体に温かいものがよかった。
宿から南へ進み、住宅区と商店街の境目あたりを歩く。夕食時が近いので通りには仕事帰りの人が増えており、何軒か店先の品書きを眺めながら歩いていると、細い路地の入口に小さな木札が出ているのを見つけた。
《道椀亭》
「道?」
木札には一本の道と、その横に椀の絵が描かれている。今日の仕事を思い出して少し嫌な予感がしたものの、品書きを確認してみる。
《軽麦酒 八十ゴールド》
《麦香酒 百ゴールド》
《白果実酒 百二十ゴールド》
《旅肉と白豆の煮込み 百五十ゴールド》
《黄根と塩肉の温椀 百二十ゴールド》
《青菜と小鳥肉の汁煮 百三十ゴールド》
《焼き黒麦パン 五十ゴールド》
《白根の酢漬け 七十ゴールド》
《豆団子の香草焼き 九十ゴールド》
品書きの中でも《旅肉と白豆の煮込み》という名前が気になり、旅肉とは何なのだろうと思いながら扉を開けた。
「いらっしゃい」
店内はカウンター六席と小さな卓が三つあり、壁には古い道標らしい木板が何枚か飾られている。
店主は五十代前半くらいの男性で、短い灰色の髪に口髭があり、濃い緑色の前掛けを着けていた。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主はドナスと名乗った。
席へ座り、さっそく気になっていたことを聞く。
「旅肉って何です?」
「保存肉だよ」
「種類じゃない?」
「今日は角豚。塩漬けして乾かしたやつを水で戻して煮てる」
「何で旅肉?」
「昔、街道歩く連中が持ってたから」
「なるほど」
軽麦酒八十ゴールドと《旅肉と白豆の煮込み》百五十ゴールドを頼む。最初の注文は二百三十ゴールドなので、夜予算六百にはまだ余裕がある。
先に出てきた軽麦酒を一口飲むと、苦味は弱く、少し酸味があり、今日のように長く歩いた日の最初の一杯としては飲みやすかった。
「今日、街道歩いたんですよ」
私が言うと、ドナスが煮込みを椀へよそいながら答えた。
「どこまで?」
「東の三つ目の道標まで」
「近いな」
「ここにもいた」
「何が?」
「近いって言う人」
「遠くないだろ」
「片道一時間半ですよ」
「歩きならそんなもんだろ」
「セルナの人、距離感おかしくないです?」
「旅商人に聞いたらもっとおかしいぞ」
「聞かないようにします」
出てきた《旅肉と白豆の煮込み》は、白豆の中に濃い茶色の肉がいくつも入り、赤茶色の汁には刻んだ青香葉と細かな黄根が混ざっていた。
まず肉を一切れ口へ運ぶと、塩漬けなので味が強いだろうと思っていた予想に反して、塩気はそれほどきつくない。水で戻して長く煮てあるからだろうが、その代わりに肉そのものの旨味が凝縮されていて、噛むと繊維の間から濃い味が出てきた。
「保存肉なのに柔らかい」
「そのままじゃ硬いよ」
「どれくらい煮るんです?」
「朝から」
「そんなに?」
「急ぐ料理じゃないからな」
白豆にも肉の味が染み込んでいる。
前の世界なら、コンビーフや塩漬け肉を使った煮込みに少し近いのかもしれない。ただ、この肉には乾燥させた香りが残っていて、生肉から作る煮込みとは明らかに違った。
「昔は本当に旅人がこれ持ってたんです?」
「今も持つ奴いるよ。乾燥パンと塩肉は定番だ」
「昨日、乾燥パンもらいました」
「旅に出るのか?」
「出ません」
「じゃあ何で?」
「荷物六箱運んだ報酬です」
「安く使われたな」
「休みの日だったので」
「余計分からん」
ドナスが笑った。
そのとき、二席隣に座っていた男性が口を挟んだ。
「東街道なら三つ目の先からが遠いんだよ」
四十代くらいで、日に焼けた顔に短い黒髪、厚い布の上着を着ている。足元には使い込まれた革靴が見え、かなり歩く仕事らしい。
「やっぱり三つ目までは近い扱いなんです?」
「セルナから日帰りできるだろ」
「日帰りできたら近い?」
「俺なら」
「基準が広い」
男性はベイドと名乗り、近隣の村へ手紙や小荷物を運ぶ配達人だという。
「一日どれくらい歩くんです?」
「日によるな。近場なら往復四刻くらい」
「それ近場なんです?」
「近場だな」
「もう聞かない方がいい気がしてきた」
「遠いと泊まりだから」
「受付の人と同じこと言ってる」
どうやらセルナの人がおかしいのではなく、街道を仕事にする人たちの距離感が私と違うらしい。
旅肉の煮込みを半分ほど食べたところで、ベイドの前に《焼き黒麦パン》が置かれた。
ただ焼いただけのパンかと思ったが、表面には何か透明な油が薄く塗られている。
「それ何塗ってるんです?」
ベイドではなくドナスへ聞く。
「香草油」
「品書きには焼き黒麦パンって」
「焼くとき塗るよ」
「それ先に知りたかった」
「頼む?」
煮込みだけでも腹はかなり落ち着いてきているが、椀の底にはまだ汁が残っている。焼いた黒麦パンを浸したら絶対に合うと思い、そのまま追加することにした。
「ください」
予定していなかった《焼き黒麦パン》を五十ゴールドで追加し、合計は二百八十ゴールドになった。
届いたパンは外側が薄く焼け、表面に塗られた香草油から青い葉の匂いがする。端をちぎって煮込みの汁へ浸すと、白豆と旅肉の味を吸い込み、香草油の香りまで混ざった。
「これ、パンだけで食べるより煮込みと一緒の方がいいですね」
「だから置いてる」
「最初から頼ませようとしてません?」
「好きに食えばいいよ」
「そう言われると弱いなぁ」
パンを食べながら軽麦酒を飲み切ったところで、使った金額は二百八十ゴールド。夜予算六百からはまだ三百二十残っているので、今日はかなり歩いたこともあり、二杯目くらいは飲みたかった。
「麦香酒ください」
「百ね」
合計三百八十ゴールド。
麦香酒は軽麦酒より色が濃く、香ばしさも強い。苦味はそれほどでもないが、後味に少しだけ甘さが残る。
「歩いた後って、麦酒おいしいですよね」
ベイドに言う。
「毎日歩けば毎日うまいぞ」
「そのために毎日歩くのは嫌です」
「冒険者だろ?」
「冒険者にも選ぶ権利はあります」
「俺も配達先は選びたい」
「選べないんです?」
「仕事だからな」
「冒険者でよかった」
「その代わり収入安定しないだろ」
「そこなんですよね」
どちらがいいのかは分からない。
前の世界では毎月決まった給料が入ったが、その代わり、今日は働きたくないから別の仕事にしよう、という選び方はできなかった。今は報酬も仕事量も毎日違うが、朝になってからその日の仕事を選べる。
「結局、どっちも良いところと悪いところありますね」
「何の話だ?」
「働き方です」
「酒飲みながら考えることか?」
「飲んでるときくらいしか考えません」
「じゃあ大した悩みじゃないな」
「そうかもしれません」
煮込みもパンも食べ終え、麦香酒をゆっくり飲む。
夜予算は六百ゴールドで、使ったのは三百八十。あと二百二十あるが、今日はもう十分だった。
「追加は?」
ドナスが聞く。
「やめときます」
「黄根と塩肉の温椀なら入るぞ」
「汁物二つになります」
「豆団子は?」
「お腹いっぱいです」
「ならやめとけ」
「引き止めないんですね」
「腹いっぱいの客に売ってもしょうがない」
「昨日似たようなこと言う屋台の人いました」
「まともな商売人なんだろ」
「商売って難しいなぁ」
三百八十ゴールドを払い、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「また――」
ドナスがそこまで言って、少し考えた。
「いや、どっかでうまいもん食え」
「何で言い直したんです?」
「旅人っぽいから」
「今のところ十三日いますけどね」
「十分長いな」
「私もそう思います」
ベイドにも軽く頭を下げる。
「明日も歩くのか?」
「できれば歩かない仕事にします」
「近場なら紹介できるぞ」
「あなたの近場は信用しません」
「残念だ」
店を出ると、脚に残っていた疲れは昼よりかなり軽くなっていた。
今日の稼ぎは千三百ゴールド。昼食に百、宿代三百五十、《道椀亭》で三百八十使ったので、今日の稼ぎからは四百七十ゴールド残った。
朝の私は「歩いて確認するだけなら軽い仕事だろう」と考えていたし、依頼票に書かれていた「東門より近距離」という説明も、街道仕事の基準なら間違ってはいなかったらしい。
問題は、私の考える「近い」と、街道を歩く人たちの「近い」が同じではなかったことだ。
「次から距離は時間で聞こう」
近いか遠いかではなく、何分、あるいは何刻歩くのかを聞けばいい。
それなら少なくとも、依頼票の「近距離」という三文字を見ただけで、午後はゆっくりできそうだと思い込むことはなくなるだろう。
夜のセルナを歩きながら、明日はできればあまり歩かない仕事にしようと考える。
ただ、その仕事が本当に「あまり歩かない」のかどうかだけは、受付でちゃんと時間まで聞いてから決めることにした。




