第52話「休むつもりだったんですけどね」
セルナで迎える十二度目の朝、目を覚まして最初に感じたのは、昨日までとは違う場所に残った疲れだった。
「……ああ、これ昨日のやつだ」
寝台の上で身体を横へ向けてからゆっくり起き上がると、背中から腰にかけて鈍い張りが残っている。動けないほどではないし、鋭い痛みが走るわけでもないが、昨日ずっとしゃがんで排水溝の泥を掻き出していたことを、身体が律儀に覚えているらしい。
昨日は南住宅区の共同洗濯場で排水溝の泥を掻き出し、床をこすり、洗い台を洗って九百ゴールドを稼いだ。昼食に百ゴールド、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールド、夜は《布灯亭》で軽麦酒を二杯と焼き豆団子、それに予定外で頼んだ塩肉と黄根の小皿を食べて三百三十ゴールド。昨日の稼ぎだけで一日の出費を賄っても、百二十ゴールド残っている。
九百ゴールドという報酬を見たときには、半日仕事なら軽いだろうと思っていたのに、翌朝になって腰がこうなっているのだから、昨日覚えた「安い仕事だから楽とは限らない」という言葉を身体でもう一度確認することになった。
「今日は休もう」
声に出して決める。
財布にはこれまでの蓄えがあるので、今日一日稼がなくても宿代や食事代で困ることはない。それに、身体が動く日に働くことと、疲れが残っている日にまで無理をして働くことは違う。
そう考えながら一階へ下りると、今朝の《潮窓の宿》では、黒麦の薄焼きパン、白豆と青菜の煮込み、それに小さな塩漬け肉が用意されていた。
「今日は休みます」
席へ着くなり宿の女性へ言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
「珍しいね」
「腰が痛いので」
「昨日の洗濯場?」
「昨日の洗濯場です」
「だから言ったでしょ。腰くるって」
「仕事終わってから言われました」
「聞かなかったからね」
「今日は何もしません」
「いいんじゃない。十二日もいるのに、ほとんど毎日働いてたでしょ」
「そうなんですよ」
「観光でもしたら?」
「休むのに歩くんですか?」
「じゃあ寝てれば?」
「それももったいない気がする」
「面倒だねぇ」
「自分でもそう思います」
黒麦パンを白豆の煮込みへ浸して食べる。昨日の《布灯亭》でも豆を食べたので二日続けて白豆だが、味付けが違えばそれほど気にならない。
前の世界でも、休日だからといって朝から予定を詰めるタイプではなく、むしろ何も予定のない休日が好きだった。それなのに、いざ本当に何もしなくていい日になると、せっかくの一日を無駄にしているような気がしてしまう。
会社員だった頃には、休日の夕方になって「今日何もしてない」と少し後悔し、それでも翌朝になれば「もっと休めばよかった」と思っていたのだから、我ながら勝手なものである。
「宿代、先に払います」
「十二泊目ね」
三百五十ゴールドを渡す。
今日は稼ぎがないので、この時点で財布の中身は三百五十ゴールド減ったことになる。それを意識した瞬間、休むと決めたばかりなのに少しだけ落ち着かなくなった。
「今、働こうかなって思った?」
宿の女性が言う。
「何で分かったんです?」
「顔」
「最近みんな顔で分かるって言う」
「分かりやすいんじゃない?」
「嫌だなぁ」
「休むって決めたなら休みな」
「はい」
朝食を終えて部屋へ戻り、寝台へ腰を下ろして何もせずにいると、窓の外から船鈴が聞こえ、少しして荷車の音や通りを歩く人の話し声まで耳に入ってきた。横になってみたものの、十分ほどすると何となく落ち着かなくなり、また身体を起こしてしまう。
「暇だ」
休むとは、そもそも何をすればいいのだろう。寝たり座ったり、腹が減ったら何か食べたりするだけなら、夕方までの時間は思っていたよりずっと長い。
前の世界なら本を読んだり、動画を見たり、何となくスマートフォンを触ったりしているだけで数時間くらい簡単に消えた。こちらにはその全部がないので、何もしないという行為そのものに、意外なくらい慣れていなかった。
「散歩くらいならいいか」
腰が痛いといっても歩けないほどではなく、むしろ同じ姿勢で寝ている方が固まりそうな気もする。
結局、朝食から一時間もしないうちに宿を出た。
今日は仕事ではないので冒険者ギルドの方角へは向かわず、中央通りからまだ入ったことのない住宅区の東側へ歩いていく。仕事の日は目的地へ行くことばかり考えているので、こうして急ぐ必要もなく街を見ると、今まで気づかなかったものがいくつも目に入った。
靴を修理する小さな工房があり、その少し先には窓辺に色布を並べた仕立屋がある。さらに歩けば、子どもたちが文字を書いた板を抱えて建物へ入っていくのが見えた。昨日《丸鍋亭》でラドムが話していた学校だろう。その向かいには、木の動物や小さな荷車を店先へ並べた玩具屋まであった。
「普通に街なんだよね」
港町という言葉に引っ張られて、私はずっと魚や船ばかり見ていた。もちろんセルナにとって港は大きな存在なのだろうが、そこで暮らしている人たちは、毎日船だけを見て生きているわけではない。
しばらく歩くと、小さな広場へ出た。
中央には石造りの水場があり、その周囲には長椅子が置かれている。買い物帰りらしい人や、子どもを遊ばせている親、荷物を横に置いて休んでいる老人もいて、仕事のために通り過ぎていた場所とは時間の流れ方まで違って見えた。
空いている長椅子へ座り、しばらく何もせずに人の行き来を眺める。
「これでいいのか」
誰に聞くでもなく呟く。
仕事の日なら、今頃は何かを運んだり、数えたり、洗ったりしている時間だ。今日は長椅子へ座っているだけなのに、それでも誰かに怒られるわけではない。
十分ほどぼんやりしていると、近くから焼いたパンの匂いが流れてきた。
朝食を食べてからそれほど経っていないのに、匂いだけで少し腹が反応する。前の世界でも休日はそうだった。仕事をしている日は昼休みまで我慢できるのに、家にいると十時くらいから何か食べたくなる。
匂いの元を探すと、広場の端に小さな屋台が出ていた。
《焼き黒麦パン 四十ゴールド》
《甘根焼き 五十ゴールド》
《豆蜜塗りパン 六十ゴールド》
「食べる?」
屋台の男性に聞かれる。
「朝ごはん食べたばっかりなんですよ」
「じゃあ昼にまた来な」
「商売っ気ないですね」
「腹いっぱいの客に売っても、うまいって言わんだろ」
「それは確かに」
四十ゴールドくらいなら財布には何の問題もないが、腹が減っていないのに匂いだけで買うのは違う気がしたので、そのまま屋台を離れた。
広場を出てさらに東へ歩いていくと、そのうち住宅が減り、小さな工房や倉庫が増えてきた。
道の脇では一台の荷車が止まっていて、三十代くらいの男性が車輪の横へしゃがみ込み、何かを確かめている。その脇には小さな木箱が六つ積まれていた。
「あー……参ったな」
男性の困ったような声が聞こえたものの、今日は休みなのだから聞こえなかったことにして通り過ぎようとした。
「一人じゃ無理か」
三歩ほど進んだところで続きが聞こえ、結局、足が止まる。
「……休みなんだけどなぁ」
振り返る。
「どうしました?」
男性が顔を上げた。
「悪い。呼び止めた?」
「いえ、勝手に止まりました」
「車輪が外れかけててね。箱だけ脇へ移したいんだけど、荷車傾いてるから一人だとちょっと怖くて」
「重いです?」
「一箱ならそんなに。乾燥パンだから」
「六箱?」
「六箱」
昨日の疲れが残っている腰を少し動かして確かめる。痛みはあるが、一箱ずつ短い距離を運ぶくらいなら問題はなさそうだった。
「脇へ置くだけですよね」
「そう。すぐそこの軒下」
「じゃあ手伝います」
「助かる」
一箱持ち上げてみると、確かに一人で運べないほどの重さではなかった。ただ、腰を曲げると少し張るので、なるべく膝を使って持ち上げる。
「腰悪い?」
「昨日、掃除で」
「無理しなくていいよ」
「六箱なら大丈夫です」
二人で順番に箱を移し、最後の一つを軒下へ置く。
「ありがとう。助かった」
「いえ」
「冒険者?」
「分かります?」
「腰の剣」
「ああ」
「ギルドに頼むほどでもなかったから困ってたんだ」
「これで依頼出したら手数料の方が高そうですね」
「そうなんだよ」
男性は腰の袋から硬貨を取り出した。
「これ、少ないけど」
「いいですよ」
「いや、仕事させたし」
「仕事じゃないです。今日休みなので」
「休みなのに荷物運ばせたの?」
「そうなりますね」
「余計払わないと駄目じゃない?」
「何で増えるんです?」
男性が笑った。
「じゃあせめてこれ」
渡されたのは硬貨ではなく、小さな乾燥パンだった。
「商品じゃないんです?」
「割れたやつ。売り物にならないから昼に食おうと思ってた」
「それならもらいます」
「そこはもらうんだ」
「食べ物なので」
「正直だな」
男性はヴァルと名乗った。街中のパン工房から食堂や宿へ保存用の乾燥パンを運んでいるらしい。
「港と関係ない仕事です?」
「船にも卸すよ」
「やっぱりつながるんだ」
「何が?」
「最近そういうこと多くて」
「よく分からんけど、ありがとう」
「こちらこそ、パンありがとうございます」
ヴァルと別れ、もらった乾燥パンを手に再び歩き出す。仕事をしたつもりはなく、たった六箱を軒下へ動かしただけなのに、それでも朝から感じていた落ち着かなさは少し消えていた。
「私、働かないと落ち着かなくなってる?」
それは嫌だ。
休みの日まで仕事を探すようになったら、前の世界と何が違うのか分からない。ただ、今のは困っている人を少し手伝っただけなのだから、そういうことにしておこう。
昼近くになると、ようやく腹も空いてきた。
もらった乾燥パンは名前通りかなり硬かったが、噛んでいると黒麦の香ばしさが出てくる。これ一つだけでは昼食として足りないので、通りの屋台で野菜と刻み肉の温かいスープを八十ゴールドで買った。
近くの腰掛けに座り、乾燥パンをスープへ浸す。硬かったパンが汁を吸って柔らかくなり、肉の塩気まで移ると、そのまま齧るよりずっと食べやすかった。
「こうやって食べるものだったのかな」
屋台の女性に聞いてみる。
「乾燥パンってスープに入れるんです?」
「よくやるよ」
「やっぱり」
「そのまま齧る人もいるけどね」
「歯が強い人ですね」
「船に持ってく保存食だから硬いんだよ」
「ここでも船かぁ」
「セルナだからね」
「もう慣れました」
昼食代は八十ゴールドで、今日は稼ぎがないので、その分だけ財布の中身は素直に減っていく。それでも朝に宿代を払ったときほど気にならなくなっていた。
午後は市場を覗いたり、道具屋の店先を眺めたりしながらゆっくり歩いた。何かを買うわけでも、次に行く場所を決めるわけでもなく、疲れたら座って休む。
仕事の日なら「次は何をする」と考えている時間に、今日は何もしなくていい。最初は持て余していた時間も、慣れてしまえばそれほど悪くなかった。
夕方になる前に《潮窓の宿》へ戻る。
「休めた?」
宿の女性に聞かれる。
「たぶん」
「たぶん?」
「途中で荷物運びました」
「仕事したの?」
「六箱だけです」
「報酬は?」
「乾燥パン一個」
「それ仕事って言わないんじゃない?」
「ですよね」
「なら休みでいいでしょ」
「そうします」
部屋へ戻って身体を洗い、しばらく寝台で横になると、腰は朝より少し軽くなっていた。
今日ここまで使ったのは、宿代三百五十ゴールドと昼のスープ八十ゴールドで四百三十ゴールド。稼ぎがない日に使えば全部赤字に見えるが、今日はそもそも休むと決めた日なのだから、宿代も昼食代も生活費でしかない。
財布にはこれまで働いて残した金がある。そのために毎日全部使わず、少しずつ残してきたのではないかと思えば、朝ほど支出を気にする必要もないように思えてきた。
「じゃあ夜予算は……」
少し考える。
昨日は九百ゴールドの稼ぎの中で収めるため四百五十にしたが、今日は稼ぎがゼロだからといって夜までゼロにすれば、休みの日だけ夕食抜きになってしまう。
「五百でいいか」
休みの日の夜予算は五百ゴールド。それ以上の立派な理由は必要ない。
夕暮れになってから宿を出る。
今日は一日ほとんど身体を使っていないので、腹の減り方も仕事の日より穏やかだった。がっつり肉を食べたいわけでも、魚を何皿も頼みたいわけでもなく、少し飲みながら温かいものを食べられれば十分だった。
中央通りから一本北へ入り、まだ歩いたことのない細い道を進んでいくと、小さな木札に椀の絵を描いた店を見つけた。
《夕椀屋》
入口の品書きを確認する。
《軽麦酒 八十ゴールド》
《薄麦酒 七十ゴールド》
《白果実酒 百二十ゴールド》
《豆と青菜の温椀 百ゴールド》
《燻し肉と白根の煮椀 百四十ゴールド》
《黄根の塩焼き 八十ゴールド》
《小麦団子の汁椀 百二十ゴールド》
《酢漬け青菜 六十ゴールド》
《薄焼きパン 四十ゴールド》
「今日はこういうのでいい」
扉を開けると、店内はカウンターが八席だけの細長い造りだった。奥の竈にはいくつもの小鍋がかかっており、湯気と一緒に豆や肉の柔らかな匂いが流れてくる。
「いらっしゃい」
店主は四十代半ばくらいの男性で、短い黒髪に細い顎髭があり、薄茶色の前掛けを着けていた。
「一人です」
「好きなところへどうぞ」
店主はネルドと名乗った。
私は中央より少し端の席へ座り、薄麦酒七十ゴールドと《豆と青菜の温椀》百ゴールドを頼んだ。
「百七十ね」
夜予算五百ゴールドに対して、最初の注文は百七十ゴールド。
薄麦酒は名前通りかなり軽く、色も淡い。苦味はほとんどなく、麦を薄く溶かしたような柔らかな甘さがある。
豆と青菜の温椀は、白豆と刻んだ青菜を薄い肉出汁で煮たものだった。表面には少量の油が浮いているが味はかなり穏やかで、豆を噛むとほくりと崩れる。
「今日はこれくらいがちょうどいいなぁ」
ネルドがこちらを見る。
「疲れてる?」
「休みでした」
「休みなのに疲れてるの?」
「昨日の疲れです」
「なるほど」
「今日はほとんど何もしてません」
「いいじゃない」
「店の人って休みあります?」
「あるよ」
「何してます?」
「寝る」
「やっぱりそれでいいんだ」
「何しようとしてたの?」
「何もしないと、もったいない気がして」
「休みの日に疲れる方がもったいないだろ」
「ああ」
朝から自分でも薄々思っていたことを、簡単に言われた。
「でも、暇じゃないです?」
「暇だよ」
「いいんです?」
「休みだからね」
「強いなぁ」
「何が?」
「休む覚悟が」
「そんな大げさなもんじゃないよ」
隣の席で酒を飲んでいた女性が吹き出した。
三十代後半くらいで、濃い茶色の髪を首の後ろで束ね、袖の長い灰色の服を着ている。腰には細い鍵束が下がっていた。
「休む覚悟って何よ」
「私も今言ってから変だと思いました」
「仕事好きなの?」
「好きというより、働いた後に飲むのが好きです」
「それなら分かる」
女性はイーラと名乗った。住宅区にある貸倉庫の管理をしているらしい。
「今日は仕事帰りです?」
「そう。明日休み」
「何するんです?」
「寝る」
「ここにもいた」
「昼まで寝て、起きたら食べて、また寝る」
「罪悪感ないです?」
「何に謝るの?」
「……誰だろう」
「誰もいないならいいじゃない」
「確かに」
前の世界では、休みの日に何もしないと、なぜか「有意義に過ごせなかった」という気持ちになることがあった。でも休日は誰かに成果を提出する日ではないし、何もしなかったという結果でも困る人はいない。
豆と青菜の温椀を食べ終える頃には、薄麦酒も残り少なくなっていた。
夜予算五百に対して、まだ百七十しか使っていない。燻し肉と白根の煮椀が百四十、小麦団子の汁椀が百二十、黄根の塩焼きなら八十なので、どれを追加してもまだ余裕はある。
昼もスープだったので、夜まで汁物を重ねるつもりはなかったのだが、奥の竈から出てきた小さな椀を見て考えが変わった。
白い団子が三つ、透き通った汁の中に浮いている。
「あれ何です?」
「小麦団子の汁椀」
ネルドが答える。
「品書きの?」
「そう」
「団子って甘くないんですね」
「甘くしても食えるけど、うちは汁」
「じゃあ、それください」
「百二十追加ね」
予定外の《小麦団子の汁椀》を頼み、合計は二百九十ゴールドになった。
運ばれてきた椀には、小麦を練って丸めた団子が三つと、細く切った白根、少量の青菜が入っている。団子を箸代わりの細い木棒で割ると、中までしっかり火が通っていた。
一口食べる。
「もちじゃない」
「モチ?」
「前の世界の食べ物です。もっと伸びるやつ」
「これは小麦だからね」
「ですよね」
食感はもちもちというより、すいとんに近い。少し弾力はあるものの、噛むと簡単に切れ、汁を吸った外側が柔らかい。肉の出汁は薄めなので、白根の甘さもよく分かる。
「これ、仕事の日だと足りないかも」
「量増やせるよ」
ネルドが言う。
「増やせるんです?」
「団子一個三十ゴールド」
「分かりやすい」
「腹減ってる人は五個とか六個入れる」
「今日は三個でいいです」
「休みだから?」
「それもあります」
隣のイーラが笑う。
「休みの日まで腹いっぱいにしなくていいでしょ」
「食べるのは休みでも好きです」
「なら食べれば?」
「どっちなんです?」
「好きにすればいいのよ」
「結局そこか」
汁椀を食べ終えると、腹はちょうどよく満たされた。
まだ夜予算には二百十ゴールド残っているので、もう一杯くらいなら十分飲める。
「軽麦酒もう一杯ください」
「八十ね」
今度は薄麦酒ではなく軽麦酒を頼み、合計は三百七十ゴールドになった。
出てきた軽麦酒は一杯目より色が濃く、苦味も少し強い。仕事終わりならこちらを最初に頼んでいたかもしれないが、身体をほとんど使わなかった今日は、二杯目くらいに飲む方がちょうどよかった。
「休みの日も飲むんだ」
イーラが言う。
「飲みますよ」
「働いた後に飲むのが好きなんじゃなかった?」
「休みの日に飲むのも好きです」
「結局酒が好きなんじゃない」
「食べるのも好きです」
「知ってる」
「今日会ったばかりですよね?」
「見てれば分かる」
ネルドまで笑っている。
軽麦酒を半分ほど飲んだところで、腹はもう十分だった。
夜予算は五百ゴールドで現在三百七十。あと百三十あれば黄根の塩焼きも酢漬け青菜も頼めるが、今日は追加しない。働いていないから節約するというより、単純にもういらなかった。
「今日はここまでにします」
「三百七十ね」
硬貨を渡す。
今日は仕事をしていないので収入はなく、宿代三百五十、昼のスープ八十、夜三百七十で、使った金額は合計八百ゴールドになる。
「八百か」
「何が?」
イーラが聞く。
「今日使ったお金です」
「休みの日まで収支つけてるの?」
「だいたいですけど」
「疲れない?」
「今日はちょっと気になってました」
「何で?」
「稼いでないから」
イーラが自分の杯を置く。
「休むために、働いてる日に残してるんじゃないの?」
「……そうなんですよね」
「全部使ってるなら知らないけど」
「少しずつ残してます」
「なら使えば?」
「簡単に言いますね」
「私の金じゃないからね」
「それ昨日も似たこと言われた」
「知らないよ」
笑ってしまう。
確かに、これまで私は毎日稼いだ金を全部使ってきたわけではない。三百残った日もあれば、千ゴールド以上残った日もあり、大きな報酬をもらった日にはそれ以上残したこともある。
その金は、ただ財布を重くするために残していたわけではない。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
ネルドに礼を言い、イーラにも軽く頭を下げる。
「明日、いっぱい寝てください」
「言われなくても寝る」
「何もしない?」
「何もしない」
「見習います」
「明日仕事行ってたりして」
「否定できない」
店を出ると、夜の空気は少し冷たかった。
今日は朝から休むと決めたのに、一時間もしないうちに暇になって宿を出て、街を歩き、途中で荷箱を六つだけ運んだ。それでも依頼を受けたわけではなく、一日の大半は時間も報酬も気にせず、自分の好きなように過ごしている。
今日の稼ぎはゼロで、宿代と昼食、それに夜の飲食で八百ゴールド使ったのだから、数字だけを見れば財布の中身が減っただけの一日だった。
けれど腰は朝より軽くなったし、普段は通り過ぎるだけの住宅区をゆっくり歩くこともできた。昼にはもらった乾燥パンをスープへ浸して食べ、夜には温かい豆の椀と小麦団子を食べながら、麦酒を二杯飲んだ。
何も稼がなかったからといって、何も残らない日だったわけではない。
これまで働いた日に少しずつ残してきた金があるのなら、それを使って身体を休める日があってもいい。完全に何もしない一日にはならなかったけれど、今日は仕事を探さず、明日のために何かを片づけようともせず、自分の時間として一日を使えた。
「休むつもりだったんですけどね」
朝に決めたことを思い出すと、少しだけ笑ってしまう。
荷箱を六つ運んだくらいなら、今日のところは休んだことにしておこう。
明日のことは、明日起きてから決めればいい。
今日はもう、それで十分だった。




