第51話「安い仕事だから楽だとは限らないんですね」
セルナで迎える十一度目の朝、目を覚ました私は、寝台の上で身体を伸ばしながら、昨日の香草倉庫で嗅いだ匂いがまだ鼻の奥に残っているような気がしていた。
もちろん実際には部屋の中まで《赤粒実》や《甘樹皮》の香りが漂っているわけではない。昨日は仕事を終えてから身体を洗い、服も着替えて《丸鍋亭》へ行ったのだから、残っているとしても仕事着くらいだろう。それでも強い匂いの中で一日働いたせいか、思い出すだけで鼻の奥が少しむずむずする。
「今日は匂いの弱い仕事がいいなぁ」
そう言いながら起き上がる。
昨日は《ルーザ香草商会》で棚卸しと袋詰めをして千五百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールドを払い、夜は《丸鍋亭》で角兎肉の丸鍋焼きと黄根と卵の丸焼き、それに麦酒を二杯飲んで五百十ゴールドだった。昨日の稼ぎだけでも六百四十ゴールド残っている。
財布には余裕があるし、身体にも大きな疲れはない。だから今日も働くつもりではいるものの、十一日目ともなると、セルナへ来たばかりの頃のように「港町だから港らしい仕事をしてみたい」という気持ちはかなり薄れていた。
魚市場にも船具工房にも行き、浜や塩場、加工場、荷場まで経験したうえ、昨日は港から少し離れた香草商会でも働いたのだから、今日はセルナらしさにこだわらず、報酬と仕事内容だけを見て普通に選べばいい。
一階へ下りると、《潮窓の宿》の食堂には湯気の立つ木椀と薄焼きパンが並べられていた。今日の煮込みには白豆、黄根、青菜、それに細かく刻んだ燻し肉が入っている。
「魚じゃない」
思わず口にすると、料理を運んできた宿の女性が笑った。
「昨日は言わなかったのに」
「今日は勝手に出ました」
「もう癖だね」
「魚が嫌いなわけじゃないんですけどね」
「十日以上いる人が言っても説得力ないよ」
「十日以上いるからこそですよ」
薄焼きパンを煮込みへ浸して食べる。燻し肉から出た塩気が白豆に移っていて、朝から重すぎない程度に味が濃い。
「今日も仕事?」
「行きます」
「よく働くね」
「夜に使う理由が欲しいので」
「酒を飲む理由?」
「ご飯も含めてください」
「はいはい」
食べ終えて宿を出ると、そのまま冒険者ギルドへ向かった。
依頼板の前にはすでに何人かの冒険者が集まっていた。セルナに滞在して十一日目ともなると、どの辺りに港仕事が貼られ、どの辺りに街中の雑用が貼られるのかも少し分かるようになっている。
今日並んでいた依頼は、
《第一埠頭・荷揚げ補助 報酬千八百ゴールド》
《東魚市場・魚箱運搬 報酬千六百ゴールド》
《北倉庫・麻袋補修 報酬千二百ゴールド》
《中央共同井戸・水路清掃 報酬千百ゴールド》
《西船渠・板材整理 報酬千五百ゴールド》
《南住宅区・共同洗濯場清掃 報酬九百ゴールド》
というものだった。
「九百か」
このところ千四百から千七百ゴールドくらいの仕事が続いていたので、九百ゴールドを見るとかなり安く感じる。
けれど依頼内容を読むと、《南住宅区・共同洗濯場。排水溝の泥除去、床洗浄、洗い台清掃。半日程度。昼食支給なし》と書かれていた。
半日程度なら九百ゴールドでも悪くない。午前中で終われば午後は休めるし、最近は一日仕事が多かったので、たまには早く終わる仕事を選ぶのもよさそうだった。
「今日はこれでいいかな」
依頼票を持って受付へ向かう。
今日の受付は、短い黒髪に青い石の耳飾りを付けた三十代くらいの男性だった。魚加工場の依頼を受けたときにも対応してくれた人だ。
「南住宅区の共同洗濯場ですね」
「半日で九百ですよね」
「予定では」
「予定?」
「汚れ具合によります」
「その言い方、ちょっと嫌なんですけど」
「依頼票にも《半日程度》と書いてあります」
「程度が怖いなぁ」
「早ければ昼前に終わりますよ」
「遅かったら?」
「昼を過ぎます」
「何時くらい?」
「汚れ具合によります」
「二回目」
受付係が少し笑う。
「重い荷物を運ぶ仕事ではありません。ただ、水を使うので濡れてもいい服で行ってください」
「着替え必要です?」
「靴下くらいはあってもいいかもしれません」
「船に乗らない仕事で替えの靴下買ったことあります」
「では経験済みですね」
「洗濯場でも必要になるとは思わなかった」
依頼票へ印をもらい、南住宅区へ向かう。
港から離れた住宅区は、朝から市場へ向かう人や子どもを連れた人が行き交っていた。海沿いほど潮の匂いは強くなく、家々の間には洗った布や衣服が干されている。
共同洗濯場は住宅区の端を流れる細い水路沿いにあった。
石造りの長い建物で、屋根はあるものの壁の上半分が開いており、中には水を溜めた細長い槽と、石の洗い台が何列も並んでいる。朝の利用時間が終わったところなのか、入口から何人かの女性が濡れた布籠を抱えて出てきた。
「ギルドの人?」
声をかけてきたのは、四十代後半くらいの女性だった。灰色がかった茶髪を短く切り、膝まである濃い青色の前掛けを着けている。
「ミサキです。清掃の依頼で来ました」
「私はハンナ。ここを管理してる。今日はよろしくね」
「どこからやります?」
「まず排水溝」
ハンナが建物の奥を指さす。
洗濯槽から流れた水は、床の端にある細い溝へ入り、そこから外の水路へ流れるようになっている。
近づいて中を見る。
「……これ全部?」
「全部」
溝には泥、糸くず、細かな布片、髪の毛らしいもの、石鹸代わりに使う洗い粉の残りが混ざり、灰色の塊になって詰まっていた。
「九百ゴールド」
「何?」
「いえ、報酬を思い出してました」
「嫌なら今から帰る?」
「やります」
「よし」
ハンナから木べらと小さな桶を渡される。
「大きいゴミを取って、泥を掻き出して、最後に水流す。素手でやらないこと」
「はい」
「針が落ちてることもあるから」
「針?」
「洗濯物から抜ける」
「先に聞けてよかった」
安い仕事だから簡単なのだろうと、依頼板の前でどこか勝手に思っていた。実際、魔物と戦うわけではないし、重い荷物を何時間も運ぶわけでもないが、だからといって楽とは限らないらしい。
木べらを排水溝へ入れ、灰色の泥を掻き出す。
「重っ」
水を含んだ泥は見た目以上に重く、桶へ入れるたびにべちゃりと音がして、洗い粉の匂いと湿った布のような匂いが上がってくる。魚加工場ほど強烈でも、香草倉庫ほど鼻を刺激するわけでもないが、少なくともいい匂いとは言えなかった。
「匂いの弱い仕事がいいって言ったのに」
誰に頼まれたわけでもない自分の朝の発言へ文句を言いながら泥を掻き出していると、隣で別の排水溝を掃除していた若い女性が笑った。
「初めて?」
「分かります?」
「顔」
「最近、顔で全部分かるって言われる」
女性は二十代前半くらいで、明るい茶色の髪を頭の上でまとめ、袖を肩近くまでまくっていた。
「私はミナ。洗濯場で働いてる」
「ここって管理する人いるんですね」
「洗い台の割り振りとか、詰まり見たり、揉め事止めたり」
「揉め事?」
「場所取り」
「洗濯場で?」
「朝は戦場だよ」
「そんなに?」
「空いてる台に籠置いて場所取る人とか、終わってるのに喋ってどかない人とか」
「どこでも似たようなことあるんだなぁ」
前の世界でも、共有の洗濯機や休憩室の席、会社の冷蔵庫など、みんなで使う場所には独自の揉め事があった。
「一番困るのはね」
ミナが木べらを動かしながら続ける。
「洗い粉入れすぎる人」
「多い方がきれいになりそうだから?」
「そう。それで流れ悪くなる」
「今日のこれにも?」
「かなり入ってる」
「犯人分かってるんです?」
「何人か」
「注意しないんです?」
「するよ。でも『汚れがひどかったから』って言う」
「言い訳まで前の世界っぽい」
「前の世界?」
「気にしないでください」
そのまま泥を掻き出し続け、最初の一本を終えた頃には腕より腰が疲れていた。しゃがんだ姿勢で作業を続けるので、立ち上がると腰が伸びにくい。
「これ、荷物運びと違うところが痛くなる」
「掃除仕事なめた?」
ハンナが通りがかりに言う。
「少し」
「正直でよろしい」
「昨日も言われたな、それ」
「何?」
「こっちの話です」
排水溝を三本掃除したところで、今度は水を流す。
大きな木桶で水を運び、一気に溝へ流すと、さっきまで濁っていた水が勢いよく外へ抜けていった。
「おお」
「詰まり取れると気持ちいいでしょ」
ミナが言う。
「これは気持ちいい」
「掃除のいいところ」
「でも、また詰まるんですよね」
「明日からまた使うからね」
「終わりがないなぁ」
「洗濯する人がいる限りね」
前の世界の仕事でも、片づけたと思ったら翌日にはまた増えているものがいくらでもあった。メールも書類も問い合わせもそうだったし、家の洗濯物だって、一度全部洗ったからといって二度と増えないわけではない。
それでも、泥を掻き出したばかりの排水溝をきれいな水が勢いよく流れていくのを見ると、今日やったことが目に見える分だけ気持ちがいい。
「こういうのは嫌いじゃないかも」
「じゃあ毎日来る?」
「それは別です」
「だと思った」
排水溝が終わった時点でかなり仕事をした気になっていたのだが、ハンナが次に渡してきたのは大きな柄付きブラシだった。
「次、床ね」
「まだあるんだった」
「依頼票読んだ?」
「読みました」
「なら知ってるね」
「知ってました。忘れたかっただけです」
床には洗い粉や泥が薄く残り、濡れると滑りやすくなっている。水を撒き、ブラシで石床をこすると、白っぽい泡と灰色の水が排水溝へ流れていった。
掃除したばかりの溝へ汚れた水を流すことに一瞬ためらったが、ミナに「そのための溝だから」と言われて納得する。
午前の終わりが近づく頃には、背中まで汗をかいていた。
「半日仕事って聞いてたんですけど」
ブラシを動かしながら言う。
「まだ昼前だよ」
ハンナが答える。
「終わりそうです?」
「床終われば洗い台」
「洗い台あった」
「依頼票読んだ?」
「三回目ですね、それ」
「忘れるからだよ」
結局、昼前には終わらなかった。
昼食支給はないので一度休憩を取り、近くの露店へ食べ物を買いに行くことになった。
「何分くらい?」
「三十分で戻ってくれればいいよ」
ハンナに言われ、住宅区の通りへ出る。
近くの露店で、薄焼きパンに潰した白豆と刻み肉を挟んだものが百ゴールドで売られていたので、それを一つ買った。飲み水は洗濯場の飲用水場を使えるらしい。
石壁の脇に座り、薄焼きパンを食べながら今日の稼ぎを頭の中で計算する。九百ゴールドから昼食の百を引けば八百、そこから宿代三百五十を払えば四百五十なので、夜に飲めば今日の稼ぎはほとんど残らないかもしれない。
このところ千五百ゴールド前後の仕事が続いていたので、九百という金額を久しぶりに現実的に感じた。
「まあ、こういう日もあるよね」
毎日高い仕事を選ぶ必要はないし、今日の仕事だって依頼板から自分で選んだのだから、文句を言う相手もいない。
昼食を終えて洗濯場へ戻ると、最後の洗い台清掃に入った。
石の台には白い洗い粉がこびりついている部分があり、水をかけただけでは落ちない。小さなブラシで端をこすり、溝に詰まった糸くずを取り、表面を何度も水で流していく。
「安い仕事だから楽だとは限らないんですね」
思わず言うと、隣で作業していたミナが笑った。
「報酬と楽さは別でしょ」
「高い仕事は大変じゃないんです?」
「危ないとか、技術いるとか、人が足りないとか、いろいろあるんじゃない?」
「じゃあこれは?」
「危なくないし、誰でも覚えられる」
「でも大変」
「だから私らが毎日やってる」
「なるほど」
九百ゴールドという報酬は、「簡単だから」ではなく、「特別な技術や戦闘力が必要ないから」なのかもしれない。もちろん依頼の値段が全部その理屈で決まっているわけではないだろうが、少なくとも今日の仕事については納得できた。
午後の早い時間になって、ようやくすべての洗い台を洗い終えると、ハンナが排水溝、床、洗い台を順番に確認した。
「うん。いいよ」
「終わり?」
「終わり」
「半日より長かった」
「半日程度」
「その『程度』便利ですね」
「依頼出す側にはね」
「冒険者側には怖い言葉です」
ハンナから完了票を受け取る。
「助かったよ。明日の朝は流れ良くなる」
「明日にはまた汚れるんですよね」
「そりゃね。でも今日きれいにしなかったら、明日はもっと汚い」
「ああ」
「掃除ってそういうもんだよ」
永久にきれいにしておく仕事ではなく、明日また普通に使える状態へ戻す仕事だと思えば、同じ場所を何度も掃除することにも意味はあるのだろう。
ギルドへ戻って完了票を提出し、九百ゴールドを受け取った。
時刻は午後の中頃で、一日仕事よりは確かに早い。身体は思っていた以上に疲れているものの、まだ夜まではかなり時間がある。
《潮窓の宿》へ戻り、十一泊目の宿代三百五十ゴールドを払う。
「今日は早いね」
宿の女性が言う。
「半日仕事でした」
「楽だった?」
「その質問、今日一番刺さります」
「何したの?」
「共同洗濯場の掃除」
「ああ。腰くるでしょ」
「先に言ってください」
「朝聞かれなかったから」
「聞けばよかった」
部屋へ上がると、まず濡れた靴下を脱いだ。受付で言われた通り替えを持っていって正解だった。裾も少し濡れているし、腕には洗い粉の白い跡が付いている。
身体を洗って着替えたあと、寝台へ腰を下ろして財布を確認する。
今日の報酬は九百ゴールド。昼食が百ゴールド、宿代が三百五十なので、残りは四百五十ゴールドになる。
財布全体には昨日までの蓄えがあるので、夜に五百や六百使っても困らない。けれど今日は、なるべく今日の稼ぎの中で飲みたい気分だった。
「夜予算、四百五十」
昼食と宿代を引いた残りを、そのまま夜の上限にした。全部使えば今日の稼ぎはきれいにゼロになるが、別に使い切る必要はない。
まだ夕方まで時間があったので少しだけ休むつもりで寝台へ横になったのだが、思ったより長く眠ってしまい、目を覚ました頃には窓の外が夕方の色になっていた。
「半日仕事なのに、昼寝までしてる」
それでも一日仕事よりは身体が軽い。
着替えを整えて夜の街へ出た。
今日は洗濯場の掃除だったので、仕事とつながる料理など思いつかないし、探すつもりもない。それより、夜予算四百五十ゴールドでどこまで楽しめるかの方が大事だった。
「安い店、安い店」
中央通りから住宅区寄りの道を歩きながら、高そうな店構えのところは最初から避け、入口に値段が書かれている店を見ていく。二軒ほど覗いたものの、どちらも酒が百三十ゴールド以上だったので見送り、細い路地へ入ったところで小さな木札を掲げた店を見つけた。
《布灯亭》
「布?」
今日の仕事を思い出しかけたが、店名だけで決めつけても仕方がないので、そのまま入口の品書きを見る。
《軽麦酒 七十ゴールド》
《麦香酒 九十ゴールド》
《薄果実酒 百ゴールド》
《焼き豆団子 八十ゴールド》
《塩肉と黄根の小皿 百十ゴールド》
《白根の油焼き 九十ゴールド》
《青菜と卵の平焼き 百ゴールド》
《酢漬け豆 六十ゴールド》
《薄焼きパン 四十ゴールド》
「安い」
これなら四百五十ゴールドでも十分飲めると思い、扉を開けた。
店内はカウンター六席と、小さな二人卓が三つだけだった。壁には布を張った小さな灯りがいくつも下がっていて、炎が直接見えないため店内の明かりが柔らかい。
「いらっしゃい」
店主は五十代くらいの女性で、灰色の髪を後ろでまとめ、細い縁の眼鏡をかけていた。袖の短い茶色の服の上から、生成り色の前掛けを着けている。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主の名前はエマルというらしい。
席へ座り、まず軽麦酒七十ゴールドと焼き豆団子八十ゴールドを頼んだ。
「百五十ね」
最初の注文は合計百五十ゴールドなので、夜予算四百五十からはまだ三百残っている。
軽麦酒はかなり色が薄く、口に含むと苦味より麦の甘さが先に来た。香りも強くないので、喉が渇いている日に勢いよく飲むにはちょうどよさそうだ。
焼き豆団子は、小さく丸めた潰し豆を鉄板で焼いたものだった。表面には薄く焼き色が付き、中には刻んだ青菜と少量の燻し肉が混ざっている。
一口食べると、豆の柔らかな甘さのあとに燻し肉の塩気が来る。派手な味ではないが、七十ゴールドの軽麦酒にはよく合った。
「これ八十ゴールドなんですね」
「そうだよ」
エマルが答える。
「安い」
「豆だからね」
「肉も入ってる」
「端を少し」
「それでも」
「高くした方がいい?」
「それは困ります」
「じゃあ八十で食べな」
「はい」
二つ目の豆団子を食べていると、隣の席に座っていた男性が笑った。
三十代半ばくらいで、短い茶髪に、指先が少し荒れている。着ている上着には糸くずがいくつも付いていた。
「値段聞いて喜ぶ客、久しぶりに見た」
「今日は予算少ないんです」
「いくら?」
「四百五十」
「十分じゃない?」
「そうなんです?」
「ここならね」
男性はオルクと名乗った。住宅区にある染物工房で働いているらしい。
「染物?」
「布染める仕事」
「今日、洗濯場で働いてました」
「掃除?」
「何で分かるんです?」
「その時期、ギルドに依頼出るから」
「有名なんだ」
「洗濯場詰まると、うちも困るし」
「染物工房も使うんです?」
「共同の方は使わない。でも排水路つながってる場所あるからね」
「なるほど」
同じ住宅区で働いていれば、まったく別の仕事でもどこかで影響し合うことくらいはあるのだろう。それ以上考えるより、今日は目の前の酒と豆団子を楽しむことにした。
「染物って大変です?」
私が聞く。
「何と比べて?」
「洗濯場の掃除」
「知らんよ」
「ですよね」
「でも手は荒れる」
オルクが自分の指を見せる。
「冬は特にひび割れるし、染め液が爪の間に残る。家帰って洗っても色落ちない日あるし」
「それ嫌ですね」
「酒飲む頃には気にしないけどな」
「仕事終わりのお酒って便利」
「何でも解決するみたいに言うな」
「解決はしません。気にしなくなるだけです」
「それもどうなんだ」
エマルがこちらを見て笑っている。
軽麦酒を飲み切る頃には豆団子もなくなり、最初に頼んだ分だけでも軽く飲むには十分だった。
今日はあと一皿くらい食べて、二杯目を飲めればいい。そう思って品書きを見ていると、厨房から鉄板に脂が落ちる音がして、少し遅れて焼けた肉の匂いが流れてきた。
「それ、何です?」
思わず厨房の方を見る。
「塩肉と黄根」
エマルが小皿を持ち上げる。
「向こうの卓の分」
細切りの肉と黄色い根菜が同じ皿に盛られ、表面には薄く脂が光っていた。最初は豆団子だけで様子を見るつもりだったのに、匂いを嗅いだ途端に腹がもう一皿を要求し始める。
「……それください」
「百十ね」
「予定外だ」
「やめる?」
「やめません」
塩肉と黄根の小皿を追加し、会計は二百六十ゴールドになった。
運ばれてきた小皿を見ると、細切りの塩漬け肉と一口大に切った黄根が載っている。黄根は肉から出た脂で焼かれているらしく、表面が薄く艶を帯びていた。
一口食べると塩肉はかなり塩気が強かったが、甘い黄根と一緒に食べると、肉の強い塩味を根菜の甘さが受け止めてちょうどよくなる。
「これ、肉だけだとしょっぱいですね」
「だから黄根と出してる」
エマルが言う。
「最初から一緒に食べる料理なんだ」
「肉だけ食べる人もいるけどね」
「お酒進みそう」
「それ狙いでもある」
「正直ですね」
「酒場だからね」
軽麦酒をもう一杯頼むか迷った。
七十ゴールドなので、頼めば合計三百三十。夜予算四百五十からは、まだ百二十残る。
「もう一杯ください」
「軽麦酒?」
「はい」
同じ軽麦酒を二杯目として頼む。今日は高い酒を試すより、安い一杯をゆっくり飲みたい気分だった。
「四百五十って言ってたよね」
オルクが聞く。
「はい」
「あと百二十?」
「計算早いですね」
「染料の量間違えると全部駄目になるから」
「なるほど」
「百二十なら青菜と卵いける」
「勧めないでください」
「白根もいける」
「だから」
「酢豆なら六十残る」
「予算使い切らせようとしてません?」
「人の財布だと楽しい」
「自分のでやってください」
笑いながら二杯目の軽麦酒を飲む。
塩肉と黄根を食べ終えると腹はもうかなり満たされ、予算は百二十残っている。青菜と卵の平焼きならちょうど百ゴールドだが、今の腹具合なら頼まなくてもいい。
「今日はこれで終わり」
私が言うと、オルクが少し残念そうな顔をした。
「使い切らないの?」
「私の予算なので」
「正論」
「昼間、九百ゴールド稼いだんですよ」
「へえ」
「昼ごはん百、宿三百五十、夜が今三百三十」
「残り百二十?」
「はい」
「ちゃんと残ったな」
「最初から残すつもりではなかったんですけどね」
今日の稼ぎだけで考えれば、九百ゴールドから昼食百、宿代三百五十、夜三百三十を引いて百二十ゴールド残る。
報酬九百を見たときには安いと思ったし、実際、排水溝の泥を掻き出しながら何度も金額を思い出した。それでも昼食を食べ、今夜の宿代を払い、麦酒を二杯飲んで料理を二皿食べても、少しだけ残った。
「九百でも飲めるんだなぁ」
「何の話?」
エマルが聞く。
「今日の稼ぎです」
「九百?」
「はい」
「それで宿泊まり?」
「三百五十」
「なら贅沢しなきゃ飲めるでしょ」
「そうなんですよね」
「稼いだ額より使い方だよ」
「耳が痛い」
「何か使った?」
「昔から食べ物には弱いです」
「じゃあ治らないね」
「治すつもりもないです」
会計三百三十ゴールドを払い、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
オルクにも軽く頭を下げる。
「仕事頑張ってください」
「明日も布染めてるよ」
「手、大事にしてくださいね」
「そっちも腰な」
「もう痛いです」
「掃除なめたからだ」
「今日二回目」
店を出ると、夜風が少しだけ湿っていた。
昼間掃除した共同洗濯場では、明日の朝になればまた床が水で濡れ、洗い粉が流れ、少しずつ汚れが溜まっていくのだろう。それでも今日泥を掻き出したから、明日は昨日より流れのいい排水溝を使える。そのくらいで、掃除という仕事の意味は十分なのかもしれない。
それより今夜の私にとって大事なのは、依頼板の前で「九百か」と少し安く見えた仕事が、実際にやってみれば腰に来るくらい大変だったことと、その九百ゴールドでも一日の暮らしをちゃんと賄えたことだった。
昼食に百ゴールド、宿に三百五十、夜に三百三十。麦酒を二杯飲んで料理を二皿食べても、百二十ゴールド残っている。
高い仕事なら満足できるわけでもなければ、安い仕事だから楽なわけでもない。
今日は九百ゴールド分働いて、その中からちゃんと一日の終わりを買えた。
それなら、悪くない日だったと思う。




