第50話「今日は魚も港も関係ない店にします」
セルナで迎える十度目の朝、目を覚ました私は、窓の向こうから聞こえてきた船鈴の音を聞きながら、すぐには寝台から起き上がらなかった。
最初に《潮窓の宿》へ泊まった夜には、朝からこんな音がする街でちゃんと眠れるのだろうかと思ったはずなのに、今では鐘が鳴っても驚かなくなっている。むしろ何度か聞いてから、そろそろ起きるかと考えるくらいには慣れてしまった。
「十日かぁ」
セルナへ来たのは、《青帆商会》の荷馬車を護衛する仕事を受けたからだった。三台の荷馬車を送り届け、報酬を受け取ったら、港町で魚を食べて一泊か二泊する。そのくらいのつもりだったはずなのに、気づけば十日目である。
昨日は南荷場の交代要員として千七百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールドを払い、夜は《刻椀亭》で夜煮込みと交代皿、それに麦酒を二杯飲んで四百九十ゴールドだった。昨日の稼ぎだけでも八百六十ゴールド残っているうえ、それ以前の分もあるので、財布だけを見れば今日くらい休んでも困らない。
ただ、昨日は重いものをほとんど持たず、歩き回った足も一晩寝たらかなり軽くなっていた。
「今日も働くか」
無理をしているわけではないし、働きたいというほど立派な気持ちでもない。ただ、朝起きて身体が動きそうならギルドへ行き、その日の仕事を一つ選ぶことが、セルナへ来てからすっかり習慣になっている。
前の世界では、会社へ行くことを習慣とは呼んでも、自分で選んでいるとはあまり思わなかった。今は依頼板を見て、今日はこれならできそうだとか、これは報酬がいいけれど大変そうだとか、自分で決められる。その違いだけでも、同じ「働く」なのにずいぶん気分が違う。
一階へ下りると、今朝の《潮窓の宿》は白豆と青菜の煮込み、薄焼きパン、黄根を混ぜた卵焼きだった。海のものが見当たらないことを確認したものの、昨日「もう我慢するのをやめた」と宣言したばかりなので、今日はわざわざ口には出さない。
すると、料理を置いた宿の女性が私を見る。
「今日は言わないの?」
「何をです?」
「魚じゃないって」
「言うと思って待ってました?」
「ちょっと」
「じゃあ言いません」
「もう顔に出てるけどね」
「顔は仕方ないです」
卵焼きには細かく刻んだ黄根が入っていて、噛むとほんのり甘い。白豆の煮込みは塩気が控えめで、薄焼きパンを浸して食べるとちょうどよかった。
「今日も仕事?」
「そのつもりです」
「そろそろセルナに住む?」
「まだそこまでは」
「十泊目だけど」
「数えないでください」
「宿代もらってるから数えるよ」
「それはそうか」
セルナへ残るかリーベルへ戻るかは、そろそろ考えた方がいいのかもしれない。ただ、朝食を食べている最中に決めるようなことでもないので、今日は今日の仕事だけ考えることにした。
宿を出て冒険者ギルドへ向かう。
依頼板には朝からいくつもの札が並んでいた。
《第一埠頭・荷下ろし補助 報酬千七百ゴールド》
《東魚市場・箱洗浄 報酬千四百ゴールド》
《南船渠・板材運搬 報酬千六百ゴールド》
《中央共同厨房・薪割り補助 報酬千三百ゴールド》
《北外れ・香草商倉庫整理 報酬千五百ゴールド》
《西倉庫・塩袋確認 報酬千四百ゴールド》
港へ来てから、魚、船、塩、縄、荷場と、この街らしい仕事をかなり経験した。だからというわけではないが、《北外れ・香草商倉庫整理》という依頼が目に留まった。
「香草商か」
依頼票を取って読む。
《北外れ・ルーザ香草商会。乾燥香草および香辛実の棚卸し、袋詰め、札交換補助。報酬千五百ゴールド。昼食支給。重量物は二人以上で運搬》
魚でも船でも塩でもなく、仕事内容も棚卸しと袋詰めなら今までの倉庫仕事に近いので、今日はこれくらいがちょうどよさそうだった。
「今日はこれ」
受付へ持っていくと、四十代くらいの男性が依頼票を確認した。淡い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、首には青い紐を巻いている。浜菜採取の仕事を受けたときにも対応してくれた受付係だ。
「ルーザ香草商会ですね」
「セルナって香草も多いんですか?」
「港ですから」
「結局港なんだ」
「外から来るものも多いですよ。南方の乾燥香草や東方の香辛実は船便が多いです」
「魚じゃなくても港につながるんですね」
「港で魚しか運んでいなかったら、船主が困ります」
「それもそうか」
「ただし、今日扱うものが全部セルナ産だとは思わないでくださいね」
「最近、先に注意されるようになった気がする」
「質問が多いと聞いています」
「受付同士で話してるんですか?」
「たまに」
「何を?」
「いろいろです」
「怖いなぁ」
依頼票に印をもらい、北外れへ向かった。
港から離れるにつれて潮の匂いが少しずつ弱くなり、代わりに乾いた草や土の匂いが混じり始める。ルーザ香草商会は石造りの大きな倉庫で、入口には葉や実を図案化した緑色の看板が下がっていた。
中へ入った瞬間、甘さのある匂いに苦味や刺激の強い辛さ、乾いた葉の青臭さまで一度に混ざって鼻へ飛び込んできて、思わず入口で足が止まった。
「うわ」
「最初はみんなその顔するよ」
声をかけてきたのは、五十代くらいの女性だった。赤茶色の髪に白いものが混じり、後ろで太く束ねている。袖を肘までまくった作業着を着ており、指先には薄い緑色の粉が付いていた。
「ギルドから来ました。ミサキです」
「私はルーザ。ここは私の倉庫」
「名前そのままなんですね」
「父親の代からね。今日は棚卸しと袋詰め。鼻が痛くなったら外へ出ていいよ」
「そんなに?」
「辛実の袋をひっくり返したら分かる」
「ひっくり返さないようにします」
「それが一番」
もう一人、今日一緒に働く男性を紹介された。
名前はセド。二十代後半くらいで、黒に近い茶髪を短く切り、細身の身体に茶色い前掛けを着けている。
「俺は商会の雇われ。棚は分かる?」
「まだ何も分かりません」
「正直でよろしい」
「昨日、分かったつもりが危ないって仕事したばかりなので」
「何してた?」
「荷車の誘導です」
「じゃあ今日は荷車より動かない」
「助かります」
最初に教えられたのは棚の区分だった。
乾燥した葉を使うもの、実を砕いて使うもの、根を削るもの、樹皮を煮出すものと用途によって分けられており、それぞれ保存方法も違う。湿気を嫌うものもあれば、乾かしすぎると香りが飛んでしまうものもあるらしい。
「全部香草って呼ぶんです?」
「店ではまとめてね。料理人はもっと細かく呼ぶ」
ルーザが小さな袋を持ち上げる。
「これは《赤粒実》。南から来る。肉料理によく使う」
袋の口を少し開けてもらうと、赤黒い小粒が入っていた。匂いを嗅ぐと、鼻の奥がわずかに刺激される。
「胡椒みたい」
「コショウ?」
「前の世界の香辛料です。ちょっと似てます」
「辛い?」
「辛いというか、ぴりっとする感じ」
「なら近いかもね」
次に見せられたのは、細長い茶色の樹皮だった。
「《甘樹皮》。東の山地から来る」
匂いを嗅いだ瞬間、私はもう一度袋へ鼻を近づけた。
「これ、すごく甘い匂いする」
「煮込みや菓子に使うよ」
「シナモンっぽい」
「また前の世界?」
「はい」
「同じもの?」
「たぶん違います。でも匂いはかなり近いです」
前の世界のものに似た食材を見つけると、どうしても知っている名前を当てはめたくなる。ただ、セルナへ来てから何度も、似ているから同じだと思うと外れることを経験しているので、今日は最初から「似ている」で止めておくことにした。
午前中は、古い札と新しい札を照合しながら棚の数を確認した。赤粒実が十二袋、甘樹皮が八束、《青香葉》が十五袋、《黄火種》が六袋、《白眠根》が九束といった具合に、一つずつ数えて記録していく。
単純な作業だと思っていたが、袋の大きさが違ううえ、同じ香草でも産地によって棚が分かれているので意外と気を使う。
「《赤粒実・南乾地》が七、《赤粒実・東丘地》が五……同じ赤粒実なのに分けるんですね」
「香り違うから」
セドが答える。
「そんなに?」
「料理人は気にする」
「普通の人は?」
「俺は分からん」
「正直でよろしい」
「返された」
ルーザが横から笑う。
「南乾地の方が辛味が強い。東丘地は香りが柔らかいから、魚にも使う店があるね」
「結局魚が出てきた」
「セルナで魚を避ける方が難しいよ」
「今日は魚と関係ない仕事だと思ったのに」
「倉庫に魚はいないから安心しな」
「そういう意味じゃないんですけどね」
作業を続けていると、奥の棚から二人がかりで大きな袋を下ろすことになった。
「これは一人で持たない」
ルーザが言う。
「依頼票にも書いてありました」
「読んでるならよし」
セドと両側を持ち、ゆっくり床へ下ろす。
「中身は?」
「《黄火種》」
「名前から辛そう」
「辛いよ」
「落としたら?」
「今日は仕事終わり」
「クビ?」
「全員外へ避難」
「そんなに?」
「粉吸ったら咳止まらない」
袋を扱う手が急に慎重になった。
前の世界でも唐辛子を大量に扱えば大変だっただろうが、仕事で大袋を運んだ経験はない。
「これ、料理にはどのくらい使うんです?」
「ほんの少し」
「この袋一つで?」
「何百皿になるかな」
「すごいな」
「だから一袋こぼすと何百皿分が床になる」
「絶対落とさない」
「その意気」
昼になると、倉庫裏の小さな休憩所で食事が支給された。
今日の昼食は薄焼きパン、白豆と刻み肉の煮込み、それから小さな黄根の焼き物だった。
「香草屋なのに普通ですね」
私が言うと、セドが笑う。
「昼飯まで香草だらけにしたい?」
「ちょっと期待してました」
「仕事中ずっと匂い嗅いでると、飯は普通でいいんだよ」
「そういうもの?」
「魚屋が毎日魚食いたいとは限らんだろ」
「あ、それ最近覚えました」
白豆の煮込みには少量の青香葉が入っていたが、倉庫の中のような強い香りではなく、豆の甘さの後ろに少し爽やかな風味が残る程度だった。
「でも入ってる」
「そりゃ商品だからね」
「普通の量ならこんな感じなんだ」
「倉庫は何百皿分が一部屋にあるから臭いんだよ」
「なるほど」
料理一皿に使う香辛料は少量でも、それを何十袋も集めれば倉庫中が匂う。当たり前のことなのに、実際にその中で働くまで考えたこともなかった。
午後は袋詰めが中心になった。
大袋から小売り用の袋へ移し替え、決められた重さに近づけて口を縛る。秤があるので難しくはないが、《黄火種》だけは粉が舞わないよう、ゆっくり扱わなければならない。
「くしゃみ出そう」
「顔近づけるな」
セドが言う。
「近づけてないです」
「その顔は出る」
「分かるんです?」
「俺も最初そうだった」
鼻の奥がむずむずするので、少し離れて息を整える。
「これ使った料理、食べてみたいな」
「辛いの好き?」
「ほどほどなら」
「港の南側に辛い煮込み出す店あるよ」
「店名は?」
「知らない」
「知らないの?」
「食ったことないから」
「じゃあ何で知ってるんです?」
「荷札」
「香草屋らしい情報だった」
ここで今夜の店を決めることもできたが、私はあえて聞かなかった。
昨日も一昨日も、昼の仕事と夜の店がきれいにつながりすぎていた。仕事で知ったものをその日のうちに食べるのは面白いけれど、そればかりだと毎日が誰かに組まれた献立みたいになってしまう。
今日は仕事が終わってから、そのとき食べたいものを決めよう。
夕方まで袋詰めと札交換を続け、最後に数を確認する。
「赤粒実、南乾地七、東丘地五」
「合ってる」
「甘樹皮八」
「合ってる」
「黄火種六」
「一袋も床にならなかったね」
「そこ褒められるんだ」
「大事だよ」
「確かに」
ルーザから完了票を受け取る。
「香草屋どうだった?」
「お腹空く匂いと、くしゃみ出そうな匂いが一緒にありました」
「だいたい合ってる」
「もっと料理に詳しくなる仕事かと思ってました」
「倉庫仕事だからね。料理したいなら料理屋へ行きな」
「正論ですね」
「でも材料知らない料理人より、知ってる料理人の方がいいよ」
「私は料理人じゃないですけど」
「食べる方も知ってると面白いだろ」
「それはそうですね」
商会を出てギルドへ戻り、完了票を提出すると、報酬千五百ゴールドを受け取った。昼食は支給だったので、今日も仕事中の出費はない。
《潮窓の宿》へ戻り、十泊目の宿代三百五十ゴールドを払う。
「十泊」
宿の女性が言う。
「言わなくていいです」
「記念に何かする?」
「宿代安くなる?」
「ならない」
「じゃあ普通の日でお願いします」
「はいはい」
部屋へ上がり、仕事着を脱ぐと、今日は魚の匂いではなく香草の匂いが服に付いていた。昨日よりはましだと思ったものの、袖を鼻へ近づけると甘樹皮らしい甘い香りの奥に、赤粒実の刺激がまだ残っている。
「これはこれで強いなぁ」
身体を洗い、別の服へ着替えて財布を確認する。
今日の報酬は千五百ゴールド。宿代三百五十を引けば千百五十ゴールド残る。昼食は支給だったので、夜予算は六百五十ゴールドにした。
昨日の七百より五十少ないが、特に立派な理由はない。六百だと少し足りない気がして、七百だと今日は多い気がしたので、その間を取っただけである。
「今日は魚も港も関係ない店にします」
誰もいない部屋で宣言する。
昨日までなら、こう言った直後に魚料理の店へ入っていたかもしれないが、今日は本当に関係ない店を選びたい。できれば香草も関係ない方がいいと思いながら夜の街へ出た。
港側へ向かえば魚や貝の店が多いことは分かっているので、今日は反対に中央通りから東側へ入っていく。一軒目は焼き魚の店だったのでそのまま通り過ぎ、二軒目の塩肉には少し惹かれたものの、今日はもう少し探すことにした。三軒目には《浜香煮込み》と書かれていて、仕事帰りにまで今日の匂いを追いかける必要はないと、その店も見送った。
さらに一本奥の通りへ入ると、今までの港周辺とは少し雰囲気が変わった。住居が多く、店も小さい。
その中で、入口の前に丸い鉄鍋を描いた看板を見つける。
《丸鍋亭》
品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《赤果実酒 百三十ゴールド》
《角兎肉の丸鍋焼き 百八十ゴールド》
《黄根と卵の丸焼き 百二十ゴールド》
《白豆と燻し肉の平焼き 百四十ゴールド》
《焼き白根 九十ゴールド》
《酢青菜 七十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
魚も貝もなく、船や塩場を思わせる料理も見当たらないうえ、香草という文字さえ品書きにはなかった。
「今日はここ」
扉を開ける。
店内はカウンターが七席、二人用の卓が四つあり、中央には大きな丸い鉄板が置かれていた。厨房の中だけではなく、客席側にも小さな丸鉄板がいくつかあり、そこで料理を温め直せるようになっているらしい。
「いらっしゃい」
店主は三十代後半くらいの男性だった。明るい茶色の髪を短く切り、丸い顔に細い目をしている。腕には小さな火傷の跡がいくつもあった。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主の名前はポルドというらしい。
席へ座る。
「軽麦酒と、角兎肉の丸鍋焼きください」
「二百七十」
夜予算六百五十に対して、最初の注文は二百七十ゴールド。
軽麦酒は淡い金色で、泡は薄い。飲んでみると苦味は弱く、麦の甘さが少し残る。
「今日、香草倉庫で働いてたんですけど」
「そうなの?」
「だから香草と関係ないもの食べたくて」
「じゃあ注文変える?」
「え?」
「角兎、香草使ってるよ」
私は思わずポルドを見る。
「使ってるんですか?」
「少し」
「品書きに書いてない」
「全部書いてたら長くなるからね」
「魚も港も香草も関係ない店にするって決めたのに」
「知らないよ」
「ですよね」
ポルドが笑う。
「嫌なら別のにする?」
「いえ、もう食べます。香草が悪いわけじゃないので」
「何と戦ってるの?」
「今日の仕事とのつながりです」
「よく分からないけど、頑張って」
「ありがとうございます」
早くも予定は崩れたが、香草そのものが嫌いなわけではないので、それだけで店を変えるほどのことでもなかった。
しばらくして《角兎肉の丸鍋焼き》が出てきた。
浅い丸鍋の上に、薄く切った角兎肉、黄根、白根、青菜が並び、肉の脂が底で小さく音を立てている。見た目は前の世界で食べた鉄板焼きに少し近い。
肉を一切れ取って食べると、角兎らしい淡白な味のあとに、ほんの少し青い香りが残った。
「これが香草?」
「《青香葉》」
「今日袋詰めしました」
「じゃあ知ってる匂いだ」
「倉庫で嗅いだのと全然違います」
「そりゃ一皿に袋一つ入れないからね」
「昼にも同じこと言われました」
「何て?」
「倉庫は何百皿分が一部屋にあるから匂うって」
「その通りだね」
倉庫では甘い匂いも辛い匂いも全部重なり、鼻が疲れるくらいだった。けれど料理の中にほんの少し入るだけなら、青香葉は肉の匂いを消してしまうのではなく、淡白な角兎の後味を少し軽くする程度にしか感じない。
「同じものなのに全然違うな」
「量で変わるからね」
「多ければ味が強くなるだけじゃないんです?」
「多すぎたらまずくなるよ」
「やっぱり?」
「塩だって同じでしょ」
「ああ」
セルナで塩場の仕事をしたばかりなので、その例えは分かりやすかった。塩がおいしいからといって料理を塩だらけにすればいいわけではなく、香草も必要な量を使って初めて役目を果たすらしい。
角兎肉を食べ進めていると、二席隣に座っていた男性が、何か黄色いものを丸い鉄板から切り分けているのが目に入った。
四十代くらいで、短い黒髪に丸眼鏡をかけ、灰色の上着をきっちり留めている。港の肉体労働者というより、商人か事務仕事の人に見えた。
「それ何です?」
私が聞くと、男性が手元を見る。
「黄根と卵の丸焼き」
品書きにある百二十ゴールドの料理だ。
「甘いです?」
「少し。塩味もある」
「お酒に合います?」
「私は酒飲んでないけど」
「あ」
男性の前にあるのは水だった。
「すみません」
「別にいいよ。たぶん麦酒なら合うんじゃない?」
「たぶん?」
「飲まないから分からない」
「正直ですね」
「知らないことを知ってるふりしても仕方ないだろ」
「最近よく聞く感じの言葉だ」
「何が?」
「こっちの話です」
男性はラドムと名乗った。港から少し離れた商会で帳簿を扱っているらしい。
「港の仕事じゃないんですね」
「商会だから港とも取引はあるけど、私は一日中机だよ」
「セルナにも普通に事務仕事あるんだ」
「当たり前だろ」
「最近、その当たり前をよく言われます」
「君はセルナを何だと思ってるんだ?」
「最初は魚の街だと思ってました」
「間違ってはいないけど、それだけじゃ街にならないよ」
「ですよね」
「パン屋も仕立屋も学校もある」
「学校あるんですか?」
「子どもいるんだからあるだろ」
「それもそうか」
港町という言葉だけで、私はずいぶん港しか見ていなかったらしい。
魚市場、船具工房、塩場、荷場、加工場と、どれもセルナらしい仕事ではあるけれど、そこに住む人全員が港で働いているわけではない。
「その黄根と卵、おいしいです?」
改めて聞く。
「私は好きだよ」
「じゃあください」
ポルドへ注文する。
「黄根と卵の丸焼き一つ」
「百二十追加ね」
予定外の一品を加え、合計は三百九十ゴールドになった。
少しして、小さな丸鉄板に載った《黄根と卵の丸焼き》が出てくる。細く削った黄根を卵でまとめ、両面を焼いた料理らしく、表面には軽く焼き色が付き、切ると中は柔らかい。
一口食べると、黄根の甘さが先に来て、そのあとに卵のまろやかさと少量の塩気が続いた。
「これ好き」
「だろ」
なぜかラドムが答える。
「店主じゃないですよね?」
「勧めた責任があるから」
「じゃあ当たりでした」
「よかった」
軽麦酒を飲むと、黄根の甘さが少し軽くなる。確かに合わない組み合わせではない。
「これ、香草入ってます?」
念のためポルドへ聞く。
「入ってない」
「やった」
「何が?」
「今日初めて香草と関係ない料理です」
「そこまで避けるなら、最初から聞けばよかったのに」
「それは今思いました」
ラドムが笑う。
「君、仕事のあとも仕事のこと考える方?」
「前の世界では考えたくなかったです」
「今は?」
「食べ物につながると考えます」
「便利な仕事だな」
「冒険者なので毎回違いますけどね」
「毎回違う方が大変じゃない?」
「その日の夜に話すことが増えるので」
「誰に?」
「だいたい店の人とか、近くの人に」
「今みたいに?」
「今みたいに」
「なるほど」
角兎肉の丸鍋焼きを食べ終え、黄根と卵の丸焼きも半分ほどになったところで、腹は七分くらいまで満ちていた。軽麦酒もほとんど残っておらず、合計三百九十ゴールドなら夜予算六百五十には二百六十残っている。
「濃麦酒ください」
「百二十ね」
これで五百十ゴールド。
濃麦酒は赤茶色で、軽麦酒より麦の香りが強く、少し焦がしたような苦味がある。黄根と卵の甘さにはこちらの方がよく合い、飲んだあとにもう一口食べたくなる。
「こっちの方が合う」
私が言うと、ポルドが頷いた。
「黄根なら濃い方を頼む人多いよ」
「合わせて置いてるんです?」
「半分くらい」
「半分?」
「濃麦酒を仕入れてるから合う料理を作ることもあるし、料理があるから酒を置くこともある」
「どっちが先って決まってないんだ」
「店なんてそんなもんじゃない?」
「最近、きれいな理由を期待しすぎない方がいいって覚えました」
「何を期待してたの?」
「この酒はこの料理のために選ばれました、みたいな」
「そういうのもあるけどね」
「全部じゃない?」
「全部だったら疲れるよ」
「確かに」
何か一つ理由を見つけると、それが全部に当てはまるような気がしてしまうけれど、実際の店では酒に合わせて料理を考えることもあれば、料理に合わせて酒を置くこともあり、単に仕入れや値段の都合で並んでいるものだってあるのだろう。
全部にきれいな理由がなくても、食べておいしければそれで困ることはない。
黄根と卵の丸焼きを食べ終え、濃麦酒を半分ほど飲んだところで、腹は八分を超えた。会計は五百十ゴールドで、夜予算六百五十には百四十残るので、《白豆と燻し肉の平焼き》ならちょうど頼めるが、さすがに一皿追加するほど腹は空いていない。
「今日はここまで」
ポルドがこちらを見る。
「まだ予算ある?」
「百四十」
「平焼きちょうどだね」
「でも入りません」
「なら頼まない方がいい」
「最近、それ言ってくれる店多いですね」
「無理して食べて嫌いになられても困るから」
「店側にも理由があるんだ」
「何だと思ってたの?」
「私の健康を心配してくれてるのかと」
「それも少しはあるよ」
「少しなんだ」
「商売だからね」
「正直で好きです」
ラドムが隣で小さく笑った。
「君、何でも理由聞くんだな」
「最近そうかもしれません」
「疲れない?」
「聞いて納得できると楽しいです」
「ならいいんじゃない」
「ラドムさんは聞かないんです?」
「帳簿で一日中『何でこの数字になった』って考えてるから、飯くらい何も考えたくない」
「ああ、それ分かる」
前の世界の私も、仕事で数字や文章を追い続けたあとに居酒屋へ行き、料理の原価や仕入れ理由まで考えたいとは思わなかった。今は仕事そのものが毎日違うから、知らないことを聞くのが面白いだけなのかもしれない。
残っていた濃麦酒をゆっくり飲み切り、会計を頼む。
「五百十」
硬貨を渡す。
今日の報酬は千五百ゴールド、宿代が三百五十、夜が五百十で、昼食は支給だった。今日の稼ぎだけでも六百四十ゴールド残り、夜予算からも百四十余っている。
「ごちそうさまでした」
「また……」
ポルドが言いかける。
「あ、旅の人?」
「はい。毎日違う店に入ってます」
「じゃあ、どっかでうまいもん食べて」
「そうします」
それなら、この店へ戻る約束にもならない。
「ラドムさんもありがとうございました」
「何が?」
「黄根と卵」
「私が作ったわけじゃないけど」
「でも聞かなかったら頼まなかったので」
「じゃあどういたしまして」
店を出ると、中央通りから離れたこの辺りは港近くより夜が静かで、潮の匂いも弱く、聞こえてくる船鈴も遠かった。
「今日は魚も港も関係ない店にします、か」
部屋を出る前に自分で宣言した言葉を思い出して、少し笑う。
結局、角兎肉には今日袋詰めした青香葉が使われていたし、店で話したラドムの商会も港と取引があるらしい。完全に関係を切ることはできなかったけれど、それは失敗ではない気がした。
港町にある店だからといって全部が魚を出すわけではなく、そこで暮らす人全員が船や魚を相手に働いているわけでもない。それでも香草商へ届く荷物やラドムの商会の取引をたどれば、遠くに港がつながっている。
街の中では、関係のなさそうなものまで、思っているより緩くつながっているらしい。
それでも今夜、一番おいしかったと思うのは、仕事とは何の関係もなかった《黄根と卵の丸焼き》だった。昼間に触ったものが夜の皿へつながるのも面白いけれど、毎日すべてがきれいにつながる必要まではないのだろう。
そういう一皿が混ざるくらいの方が、たぶん私にはちょうどいい。
セルナへ来て十日目。
港町らしいものを探すのも楽しいけれど、そろそろ「セルナだから」という理由なしに店を選べるくらいには、この街にも慣れてきたのかもしれなかった。




