第49話「昼ごはん食べる時間、みんな同じじゃないんですね」
セルナで迎える九度目の朝、目を覚ました私は寝台の上で腕を伸ばし、昨日まで残っていた背中の張りがほとんど消えていることを確かめた。
塩場で重い結晶籠を運んだ翌日は、魚加工場で頭や骨や皮を分ける軽作業を選んだ。その判断が良かったのか、今日は肩も腰も普通に動く。二十六歳なのだからこのくらいで安心するのは早い気もするが、冒険者になってからは、朝起きて身体のどこも痛くないだけで少し得をしたような気分になるようになった。
「今日は普通に働けそう」
そう呟いてから寝台を降りる。
昨日は《東加工場》の魚あら選別で千四百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給、《潮窓の宿》の宿代が三百五十ゴールド、夜は《端皿亭》で端肉と白豆の鉄皿焼き、骨際肉の煮込み、それに麦酒を二杯飲んで五百二十ゴールドだった。昨日の稼ぎだけでも五百三十ゴールド残り、財布にはそれ以前の分もあるので、セルナへ来た初日に比べれば金銭的にはかなり余裕ができている。
それなのに朝になると、今日も仕事を探しに行くつもりでいる自分に気づいた。
「私、こんなに働く人だったっけ」
前の世界の自分を思い出してみたが、少なくとも休日の朝から自分で仕事を探しに行くような人間ではなかった。今は働かなければ生きていけないという事情もあるものの、財布に余裕がある今日までギルドへ行こうとしているのだから、それだけでは説明がつかない。
結局、昼間に身体を動かし、夜にその日の稼ぎを数えながら店を探す生活が、自分には思った以上に合っているのだろう。
「まあ、嫌になったら休めばいいか」
会社と違って、今日は働かないと自分で決めても上司から連絡が来るわけではない。その自由があるだけで、働くということへの気分は前の世界とはずいぶん違っていた。
一階へ下りると、《潮窓の宿》の食堂にはいつもより客が少なかった。朝食は白豆と刻んだ青菜の温かい煮込み、薄焼きパン、それから小さな焼き魚が一尾で、ここ数日の経験からするとかなりセルナらしい組み合わせに思える。
「今日は魚ですね」
席へ料理を運んできた宿の女性へ言う。
「今日は言ったね」
「もう我慢するのやめました」
「何を我慢してたの?」
「朝ごはんが魚かどうか確認するの」
「好きにしなよ」
小さな焼き魚は《青尾小魚》だった。皮に薄く塩が振られ、頭を外せば骨ごと食べられるくらい小さい。昨日なら、この頭と骨が加工場でどの桶へ入るのか考えていたかもしれないが、今朝は余計なことを考えず、焼きたてのうちに普通に食べることにした。
「そういえば、今日は静かですね」
食堂を見回す。
いつもなら仕事へ出るらしい客が何人かいる時間なのに、今朝は私を含めて三人しかいない。
「早番の人はもう出たし、遅番の人はまだ寝てるからね」
「早番と遅番?」
「港で働く人。船に合わせる仕事は時間ばらばらだよ」
「朝から夕方じゃないんだ」
「船が全部朝から夕方に来てくれたら楽だろうね」
「ああ」
考えてみれば当然だった。
港へ入ってくる船が会社員の勤務時間に合わせてくれるわけではない。潮や風、出発地からの距離によって到着時間が変わるなら、荷下ろしや倉庫の仕事もそれに合わせる必要がある。
「夜働く人も?」
「いるよ。夜着く船もあるから」
「じゃあ今から寝る人もいる?」
「いるんじゃない?」
同じ街に暮らしていても、一日の始まりが全員同じとは限らないらしい。
前の世界でも夜勤の人はいたし、飲食店や病院、工場のように働く時間が違う仕事はいくらでもあった。それなのに、自分が朝に出勤して昼に休み、夕方から夜に帰る生活をしていたせいで、無意識にそれを一日の標準だと思っていた気がする。
朝食を食べ終えて宿を出ると、今日は身体に問題がないので、依頼板では報酬と仕事内容の両方を見て選ぶことにした。
《第一埠頭・午前荷下ろし 報酬千六百ゴールド》
《中央市場・木箱整理 報酬千四百ゴールド》
《北倉庫・乾物確認 報酬千三百ゴールド》
《南荷場・交代要員 報酬千七百ゴールド》
《西船渠・資材記録補助 報酬千四百ゴールド》
《第三埠頭・午後荷受け補助 報酬千五百ゴールド》
その中で気になったのは《南荷場・交代要員》だった。
「交代要員?」
依頼票を取って読む。
《南荷場・荷車誘導および積荷確認補助。交代勤務。開始刻・第十刻。終了予定・第十七刻。休憩は荷量に応じて順次。昼食支給》
仕事開始が普通より遅く、その分、終わるのも遅いらしい。報酬は千七百ゴールドと悪くないうえ、朝食のときに勤務時間の話を聞いたばかりなので、少し興味もあった。
「これにしようかな」
依頼票を受付へ持っていくと、今日は二十代後半くらいの女性が座っていた。淡い金色の髪を首の後ろでまとめ、胸元には小さな錨の刺繍がある。船具工房の仕事を受けたときにも対応してくれた人だ。
「南荷場の交代要員ですね」
「十刻からなんですよね」
「はい。午前組と夕方組の間を埋める仕事です」
「昼休みは?」
「決まっていません」
「決まってない?」
「荷量を見て順番に取ります。忙しい時間に全員で休んだら荷場が止まるので」
「なるほど」
「昼食は支給されますが、十二刻に食べられるとは思わない方がいいですよ」
「お腹空きそう」
「朝食は?」
「食べました」
「なら大丈夫でしょう」
「そういう問題?」
「空腹で働けないなら携帯食を買っておく人もいます」
少し考えたものの、今は朝食を食べたばかりなので腹は十分に満ちている。それに仕事開始までまだ時間がある。
「とりあえず大丈夫です」
「分かりました。南荷場で責任者にこれを渡してください」
依頼票へ印をもらい、十刻までは少し時間があったので港近くの通りを歩いてから南荷場へ向かった。
仕事場は第三埠頭より少し内側にあり、船から降ろされた荷を一度集め、街の各倉庫や商店へ向かう荷車へ振り分ける場所だった。
責任者は四十代半ばくらいの女性で、名前はリゼナ。黒に近い濃紺の髪を短く切り、腰には何本もの色札を下げている。
「ギルドからの交代要員?」
「ミサキです」
「荷場仕事は?」
「荷運びと荷札確認ならあります」
「なら話早いね。今日は運ぶより確認と誘導が多い。色札読める?」
「赤、青、黄くらいなら」
「色じゃなくて文字」
「あ、そっち」
「読める?」
「読めます」
「よし」
リゼナに渡されたのは、荷札の一覧と短い木棒だった。
南荷場では、船から降ろされた荷物を荷車へ積む前に、行き先ごとの区画へ一度まとめる。赤い札は市場方面、青は港内倉庫、黄色は街北部、白はその場で商人が引き取る荷物らしい。
「荷車来たら番号と札を確認。違ってたら積ませない。迷ったら私か向こうのエルドに聞いて」
「はい」
「荷物自体は持たなくていい。人を止めたり動かしたりする方」
「今日は腕が楽そう」
「昨日何してた?」
「魚の頭と骨を分けてました」
「それよりは歩くよ」
「それくらいなら大丈夫です」
もう一人の担当、エルドは三十代前半くらいの男性で、日に焼けた顔に短い茶髪、右腕には青い布を巻いていた。
「新人?」
「今日だけです」
「じゃあ昼飯、最後かもな」
「え?」
「新人は流れ分かるまで抜ける時間読めないから」
「受付でも時間決まってないって言われました」
「腹減ったら言え。倒れられるよりいい」
「倒れる前には言います」
「その前に言え」
「はい」
仕事が始まると、重いものを持つことはほとんどなかったが、その代わり思っていた以上に歩き回ることになった。
「市場行き、赤札三番!」
「三番こっち!」
「青札七番の荷車まだ来てない!」
「白札二番、商人待ち!」
あちこちから声が飛び、私は荷札と一覧を見比べながら、来た荷車を指定された区画へ誘導していく。
同じような木箱でも行き先は違う。干し魚の箱が市場へ行くこともあれば、商人が直接引き取ることもあり、塩袋も港内倉庫へ入るものと街北部へ運ばれるものがあった。
「見た目で決めない!」
リゼナの声が飛ぶ。
「札見る!」
「はい!」
昨日の加工場でも似たようなことを言われた気がする。
慣れたつもりで判断するより、書いてあるものを確認した方が早い。
十一刻を過ぎる頃には朝食がかなり消化され、少し腹が空き始めていた。それでも周囲に昼食へ向かう様子はなく、十二刻近くになれば誰かが声をかけるだろうと思っていたが、荷車はむしろ増えていった。
「赤札五番、先に通して!」
「青二番待って!」
「黄色四番、北側空いた!」
木棒を振って荷車を止めたり進ませたりしているうちに、自分の腹が小さく鳴った。
「お腹空いた」
隣にいたエルドが笑う。
「まだ早い」
「もう昼じゃないです?」
「俺らの昼はまだ」
「時計の昼とお腹の昼が合ってない」
「港じゃよくある」
「みんな何時に食べるんです?」
「順番。今日は一組目がもうすぐ」
「一組目?」
「全員一緒に抜けないって言ったろ」
荷量が少し落ち着いたところで、リゼナが二人の作業員を呼んだ。
「ハイル、ネマ、飯行って。戻ったら次」
「はい」
二人が休憩所へ向かう。
「二人ずつ?」
私が聞く。
「今日はね」
「私何番目です?」
「今のところ四組目」
「何時?」
「知らない」
「知らないんだ」
「荷物に聞いて」
「答えてくれそうにない」
「じゃあ待ちな」
会社員時代の昼休みを思い出した。
十二時になれば、よほどのことがない限り昼休みだった。混んでいる店を避けるために少し時間をずらすことはあっても、基本的には時計が昼食の時間を決めていた。
ここでは時計ではなく、荷物の流れが昼食の時間を決めるらしい。
十二刻を少し過ぎて二組目が休憩へ入っても、私はまだ荷場に残っていた。朝食からかなり時間が経ち、さっきまでは少し空いた程度だった腹も、今では何か入れておきたいとはっきり思うくらいになっている。
「朝、携帯食買えばよかった」
呟くと、エルドが腰の袋から小さな黒麦の固焼きを取り出した。
「食う?」
「いいんです?」
「半分なら」
「お金払います」
「いらん。明日誰かにやれ」
「その仕組みなんです?」
「今決めた」
「じゃあ遠慮なく」
半分に割った黒麦の固焼きを受け取り、荷車が途切れたところで急いでかじる。硬くて水分は少ないが、少し塩が入っているだけで空腹には十分ありがたかった。
「おいしい」
「腹減ってるからだろ」
「それも味のうちです」
「便利な考えだな」
「居酒屋でも使えます」
「何でも酒につなげるな」
十三刻を過ぎた頃、ようやくリゼナがこちらを向いた。
「ミサキ、エルド、飯行って!」
「やっと!」
「走るな。転ぶよ」
「はい!」
休憩所へ向かうと、支給された昼食が木箱の中に残されていた。
黒麦パン、燻し肉と白豆の潰し和え、酢漬け根菜、それから蓋付きの小さな木椀に温かい根菜汁が入っている。
「まだ温かい」
「交代用に順番で温め直してる」
エルドが答える。
「全員分を一度に作って置いてるんじゃないんだ」
「最後のやつが冷たい飯になるだろ」
「なるほど」
黒麦パンに白豆と燻し肉を挟んで食べると、空腹だったせいもあるだろうが、特別珍しい料理ではないのにかなりおいしい。
「昼ごはん食べる時間、みんな同じじゃないんですね」
私が言うと、エルドが根菜汁を飲みながらこちらを見る。
「そりゃ仕事違えば違うだろ」
「分かってたつもりなんですけど、自分が十三刻まで食べないと実感なかったです」
「俺らはまだいい方だぞ。船の荷下ろしだと終わるまで食えない日もある」
「何時になるんです?」
「知らん。船に聞け」
「今日二回目だ、それ」
「港だからな」
休憩はそれほど長くなく、食べ終わるとすぐ荷場へ戻った。今度は先ほどまで働いていた別の二人が休憩へ入り、自分が食べている間も仕事は止まっていなかったのだと改めて分かる。
全員で同じ時間に席を立つ会社とは違うが、誰かが食べている間を別の誰かが埋め、戻ってきたら次の誰かが抜けるという仕組みは、これはこれで分かりやすかった。
午後は午前より荷量が少し落ち着いたものの、夕方が近づくにつれて今度は倉庫へ入る荷物が増えてきた。
十五刻を過ぎた頃、朝から働いていた作業員の一人が帰り、入れ替わるように別の男性がやってくる。
「今から?」
思わず聞くと、リゼナが頷いた。
「夕方組」
「私は?」
「十七刻まで」
「この人は?」
「夜まで」
「じゃあこの人にとっては今が朝みたいなもの?」
「朝飯は食ってきた」
来たばかりの男性が笑った。
名前はボルというらしい。四十代くらいで、眠そうどころか妙に元気だった。
「何時に起きたんです?」
「昼前」
「昼前まで寝てたんだ」
「昨日は夜番だったからな」
「生活が全然違う」
「慣れれば普通だよ」
自分の普通は、別の人にとっては普通ではない。当たり前のことなのに、港ではそれが仕事の交代という目に見える形で現れるので、これまでよりずっと分かりやすかった。
十七刻が近づく頃には、足にかなり疲れが溜まっていた。重いものはほとんど持っていないのに、一日中歩き回り、立ったまま荷札を確認していたせいだろう。
「ミサキ、今日は上がっていいよ」
リゼナが声をかけてくる。
「荷物まだありますけど」
「夕方組いるから」
「途中で帰る感じする」
「交代仕事なんだから帰って」
「はい」
「明日まで残る気?」
「それは嫌です」
「なら帰りな」
完了票を受け取る。
「どうだった?」
「昼ごはんが遠かったです」
「そこ?」
「仕事は面白かったです。でも十二刻になったら昼だと思ってたので」
「港じゃ時計より荷物だね」
「覚えました」
「あと、携帯食持っとくと楽だよ」
「それも覚えました」
ギルドへ戻ると、外はすでに夕方の色になり始めていた。
完了票を提出し、報酬千七百ゴールドを受け取る。今日は昼食支給だったので仕事中の出費はなく、エルドから黒麦の固焼きを半分もらっただけだった。今度似たような仕事をするときは、自分でも何か持っていこうと思う。
《潮窓の宿》へ戻り、九泊目の宿代三百五十ゴールドを払った。
「今日は遅かったね」
宿の女性が言う。
「昼ごはんが十三刻でした」
「南荷場?」
「何で分かるんです?」
「時間ずれる仕事って言ったら、あの辺多いから」
「朝聞いた話を今日そのまま体験しました」
「じゃあ勉強になったね」
「お腹で覚えました」
「それが一番忘れないよ」
部屋へ上がって靴を脱ぐと、足の裏がじんわり重かった。
今日の報酬は千七百ゴールド、宿代が三百五十で、昼食は支給だったので千三百五十ゴールド残っている。夜予算は七百ゴールドにした。
昨日より稼ぎが三百多く、今日は一日中歩き回ったのだから百ゴールド増額してもいい、ということにしておく。
「こういう理由付けだけ上手くなるなぁ」
自分で言いながら財布をしまった。
少し休んでから夜の街へ出る。
いつもなら仕事を終えた人が酒場へ向かう時間だと思っていたが、今日一日交代勤務を見たあとでは、目に入る人たちが全員仕事帰りとは思えなくなっていた。
これから働く人もいるかもしれないし、今が昼食に近い人もいるかもしれない。逆に朝から働いて、とっくに寝ている人だっているだろう。
「居酒屋って夜だけじゃない店もあるって言ってたな」
セルナへ来た初日、《波籠亭》で港には朝だけ開く店や、船そのものを店にしているところまであると聞いた。
今日は遅めの時間でもしっかり食べられる店がいい。
中央通りから少し南へ入ったところで、開け放した扉から湯気と煮込みの匂いが流れてくる店を見つけた。
看板には《刻椀亭》と書かれている。
「時間の刻?」
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《白果実酒 百三十ゴールド》
《夜煮込み 百六十ゴールド》
《交代皿 百四十ゴールド》
《燻し肉と豆の温椀 百三十ゴールド》
《焼き黄根と卵 百二十ゴールド》
《酢漬け青菜 七十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
《交代皿》という名前は気になったが、今日の仕事と店名が妙に合っているから選んだわけではなく、開け放した扉から流れてくる煮込みの匂いが単純においしそうだった。
「ここにしよう」
店へ入ると、カウンターが六席と四人掛けの卓が四つあり、今まで入ったセルナの居酒屋より少し食堂に近い雰囲気だった。客も仕事帰りらしい人だけではなく、これから働くのか、酒を飲まずに食事だけしている人もいる。
「いらっしゃい。飲み? 飯?」
店主らしい女性が聞いてくる。
四十代前半くらいで、濃い茶色の髪を太い三つ編みにし、腰には白い布を巻いていた。
「両方です」
「じゃあカウンター空いてるよ」
店主の名前はサラナというらしい。
席へ座り、品書きを見る。
「軽麦酒と、夜煮込みください」
「二百五十ね」
夜予算七百ゴールドに対して、最初の注文は二百五十。
軽麦酒は淡い金色で、泡はやや粗い。口に含むと麦の香りが先に来て、苦味は弱く、仕事で乾いた喉にはちょうどよかった。
「うまい」
「仕事帰り?」
サラナが聞く。
「はい。南荷場です」
「じゃあ遅番寄りか」
「十刻から十七刻でした」
「昼は?」
「十三刻過ぎ」
「普通だね」
「普通なんだ」
「南荷場ならね」
今日一日驚いていたことを、あっさり普通と言われてしまった。
少しして《夜煮込み》が出てくる。
深めの木椀に、角切りの燻し肉、白豆、黄根、青菜が入り、茶色がかった汁から湯気が立っている。
「夜煮込みって、夜しか出さないんです?」
「名前だけ。昼でもあるよ」
「じゃあ何で夜?」
「昔、夜番向けに作ってたから」
「今は?」
「朝でも昼でも夜でも出る」
「名前だけ残ったんだ」
木匙で汁をすくって口へ運ぶと、肉の旨味と豆の甘さがしっかり出ていた。味は少し濃いめだが塩辛いほどではなく、燻し肉の香りが根菜に移っている。
「これ、夜勤の人が食べるには重くないです?」
「仕事前ならパン減らす。仕事後なら多めにする人もいる」
「量変えられる?」
「少しくらいなら」
「同じ料理でも食べる時間で変えるんだ」
「腹減ってる量が違うからね」
セルナへ来てから、何度も似たようなことを聞いている気がする。魚も酒も塩も食べ方も、結局は使う人や食べる人によって変わるのだろう。
ただ今日は、そこを深く考えるより腹を満たしたかった。
夜煮込みを食べ進めていると、二つ隣の席へ三十代くらいの女性が座った。黒い髪を短く切り、濃い青色の上着を着ている。腰には小さな工具袋が下がっていた。
「サラナ、交代皿。酒なし」
「これから?」
「十九刻から」
「じゃあ豆多めにする?」
「頼む」
私は品書きを見る。
《交代皿 百四十ゴールド》
気になっていた料理だ。
「交代皿って何です?」
女性がこちらを見る。
「知らないでこの店入ったの?」
「匂いで入りました」
「正しい」
サラナが笑う。
「交代勤務の人が、仕事前でも仕事後でも食べやすいように出し始めた皿だよ。中身は日によって変わる」
「今日は?」
「白豆の潰し焼き、燻し肉、酢青菜、薄焼きパン」
「定食みたいなもの?」
「そのテイショクってのは知らないけど、一皿で腹に入るものをまとめてる」
「なるほど」
隣の女性の前へ皿が置かれる。
白豆を平たく固めて焼いたものが二枚、燻し肉が数切れ、酢漬けの青菜、それに折り畳んだ薄焼きパンが載っている。豪華ではないが、仕事前に食べるにはかなり良さそうだった。
「それ、おいしいです?」
女性が白豆の潰し焼きを一口食べる。
「普通」
「普通?」
「仕事前の飯に毎回感動してたら疲れるでしょ」
「それもそうか」
「でもまずかったら来ない」
「すごく分かりやすい」
女性はティナと名乗り、港の夜間倉庫で荷札と在庫を確認する仕事をしているらしい。
「十九刻から何時までです?」
「明け方前まで」
「じゃあ今が夕飯?」
「私には朝飯みたいなもん」
「ああ、本当にそうなるんだ」
「何が?」
「今日、昼ごはんが十三刻だったんです。それで食事の時間って人によって違うんだなって」
「今さら?」
「今さらです」
「腹減ったら飯。仕事終わったら酒。それでいいでしょ」
「でも仕事前は?」
「酒飲まない」
「ちゃんとしてる」
「当たり前」
ティナが呆れた顔をする。
「冒険者は仕事前に飲むの?」
「私は飲みませんよ」
「今ちょっと考えたでしょ」
「考えてません」
「顔に出てた」
「セルナの人、本当にそれ言うなぁ」
夜煮込みを食べ終える頃には、腹は六分から七分ほどになっていた。会計はまだ二百五十ゴールドで、夜予算七百にはかなり余裕がある。
「交代皿ください」
結局、気になっていたものを頼むことにした。
「全部食べられる?」
サラナが聞く。
「たぶん」
「夜煮込み食べたあとだから、パン半分にしとく?」
「あ、それお願いします」
「値段は百二十でいいよ」
「減らした分安くなるんだ」
「うちは食堂寄りだからね」
予定外の一品、《交代皿》の小盛りが百二十ゴールド。これで合計三百七十ゴールドになった。
出てきた皿には、白豆の潰し焼きが一枚、燻し肉が二切れ、酢漬け青菜、薄焼きパンが半枚載っている。
まず白豆の潰し焼きを食べると、外側は鉄板で薄く焼け、中は柔らかい。細かく刻んだ黄根が混ざっているため、豆だけより少し甘さがある。
燻し肉を少し乗せれば塩気が足され、酢青菜を挟むと今度は後味が軽くなった。一皿の中で組み合わせを変えられるので、単純な料理なのに食べ飽きにくい。
「一皿で調整できるんだ」
「だから交代皿」
サラナが言う。
「仕事前なら肉少なめ、豆とパン多め。仕事後なら肉増やす人もいる。酒飲む人なら酢青菜多くしたりね」
「決まった料理じゃないんですね」
「だいたいの形はあるけど、毎日同じじゃないよ」
「それで百四十?」
「基本はね」
料理の豪華さより、食べる人の時間や腹具合に合わせている店なのだろう。
私は軽麦酒を飲み切り、品書きの《濃麦酒》を見る。
百二十ゴールド。
今の合計は三百七十なので、頼んでも四百九十。予算には二百十残る。
「濃麦酒ください」
「はいよ」
運ばれてきた濃麦酒は赤茶色で、軽麦酒より泡が細かい。口へ含むと麦の甘さが強く、そのあとに香ばしい苦味がゆっくり残った。
白豆の潰し焼きと合わせると少し重いが、燻し肉とはよく合う。
「仕事前ならこれは飲めないなぁ」
私が言うと、ティナが呆れたようにこちらを見る。
「当たり前でしょ」
「仕事後だからおいしいっていうのもあるんですね」
「私は仕事終わったら朝だから飲まない日もあるよ」
「朝に酒はちょっと迷う」
「寝る前なら夜みたいなもんだけどね」
「分からなくなってきた」
「時計で考えるからでしょ」
ティナは残っていた交代皿を食べ終え、水を飲んで立ち上がった。
「じゃ、仕事行ってくる」
「今からなんですよね」
「そう」
「頑張ってください」
「そっちは?」
「私はもう飲んで帰ります」
「いいなぁ」
「仕事終わったので」
「明け方の私も同じこと言ってるよ」
「その時間に開いてる店あるんです?」
「あるよ」
「やっぱりあるんだ」
セルナの居酒屋を全部回ろうとしたら、本当に時間帯まで変えなければならないらしい。もちろん全部回るつもりはないのだが、そう考えた直後に「たぶん」と付け足したくなったので、それ以上考えないことにした。
ティナが店を出たあと、私は濃麦酒をゆっくり飲みながら残っていた交代皿を食べた。腹はもう十分に満たされており、合計四百九十ゴールドなら夜予算七百に対して二百十ゴールド残っている。
焼き黄根と卵が百二十、酢漬け青菜が七十なので、まだ何か頼むことはできるが、今日は必要ない。
「会計お願いします」
「四百九十ね」
硬貨を渡す。
「予算余った?」
サラナが聞く。
「何で分かるんです?」
「さっき品書きと財布を交互に見てたから」
「二百十残りました」
「じゃあ明日の飯代にしな」
「宿代にもできます」
「そっちの方が大事だね」
「お酒より?」
「宿屋で寝てるならね」
「正論」
今日の報酬は千七百ゴールド、宿代が三百五十、夜が四百九十で、昼食は支給だった。今日の稼ぎだけでも八百六十ゴールド残り、夜予算からも二百十余った。
「ごちそうさまでした」
「はい。気をつけて」
店を出ると、セルナの夜はまだかなり賑やかだった。
私にとっては仕事を終えて二杯飲み、一日を締める時間なのに、さっきのティナはこれから仕事を始める。南荷場でも、私が昼食を食べている間は別の誰かが働き、私が帰る頃には夕方組が仕事を引き継いでいた。
前の世界では十二時になれば昼休み、夕方になれば退勤という自分の生活を、ずいぶん当たり前だと思っていたけれど、港では船も荷物も人の腹も、同じ時計では動いていない。
十三刻に食べた黒麦パンも、夜の《交代皿》も、特別に豪華な料理だったわけではない。それでも腹を空かせた時間や、これから働くのか仕事を終えたのかによって、一皿のありがたさは少しずつ変わるらしい。
石畳を歩いている横を、仕事着姿の男性が二人、港の方へ向かっていった。今から仕事なのか、それとも別の用事なのかは分からない。
私はもう十分働いて、十分食べて、ちゃんと二杯飲んだので、今日のところはここで終わりでいい。
明日の朝、私が起きる頃に仕事を終える人もいるのだと思うと、セルナの船鈴が少し違う音に聞こえそうだった。




