第48話「捨てるところって、本当にないんですか?」
セルナで迎える八度目の朝、目を覚ました私は寝台の上で身体を伸ばそうとして、背中に残っていた鈍い重さに途中で動きを止めた。
「来たかぁ」
昨日、西の塩場で水を含んだ結晶籠を何度も運んだせいだろう。ネイラには筋肉痛になるかもしれないと言われ、南の塩浜で働くドーグからは翌日に腰へ来るとまで予告されていたが、幸い腰そのものは痛くない。ただ、肩甲骨の辺りと腕が、今日は重いものを持ちたくないとかなり分かりやすく主張している。
昨日は塩場の仕事で千五百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールドを払い、夜の《淡潮亭》では白根と豆の淡煮、塩抜き肉と青菜の温皿、それに麦酒を二杯飲んで四百七十ゴールドだった。昨日の稼ぎだけでも六百八十ゴールド残っているので、財布のことだけを考えるなら、今日は休んでも問題ない。
「でも、休むほどじゃないんだよね」
腕を回してみると、少し張ってはいるものの動かせないわけではない。重い荷物を一日運ぶ仕事は避けるとしても、軽作業なら十分できそうだった。
前の世界でも、身体が少しだるいだけで会社を休むかどうかはかなり迷ったものだ。もっとも、あの頃は身体よりも「今日は会社へ行きたくない」という気分の方が強かった日も多かったので、今と比べるのは少し違う気がする。
「今日は軽いの。本当に軽いやつ」
昨日も似たようなことを考えていた気がするので、今回は依頼票に書いてある内容をよく読もうと決めてから一階へ下りた。
《潮窓の宿》の朝食は、薄焼きパンと黄根の煮込み、それから細かく刻んだ燻し肉を混ぜた卵焼きだった。昨日は朝から干し魚だったが、今日の皿には海のものが一つもなく、そう思ったところで最近は朝食を見るたびに魚かどうかを確認している自分に気づいて、何となく負けたような気分になる。
「今日は何も言わないんだね」
宿の女性が先に言った。
「今、魚じゃないなって思ってました」
「結局考えてるじゃない」
「口に出さなかったので私の勝ちです」
「何に勝ったの?」
「分かりません」
卵焼きには燻し肉の塩気がしっかり入っていた。昨日の夜が薄味だったせいか、今朝はこのくらい味がある方がおいしく感じる。
「昨日、塩場行ったんでしょ」
「手を見ただけで分かるんですか?」
「昨日帰ってきたとき自分で言ってたじゃない」
「あ、そうだった」
「塩で頭まで乾いた?」
「そこまで働いてません」
パンをちぎりながら、今日の予定を考える。
「重いもの持たない仕事ってありますかね」
「私に聞かれても知らないよ」
「ですよね」
「市場の札書きとか、店の手伝いとかなら軽いんじゃない?」
「店の手伝い」
「食べ物って聞いたから今反応したね」
「してません」
「した」
どうやら顔に出る癖は簡単には直らないらしい。
朝食を終えて宿を出ると、今日は風が弱く、港から聞こえてくる声や荷車の音がいつもより近く感じられた。
冒険者ギルドへ着き、依頼板の前に立つ。
《第二埠頭・荷車積み込み 報酬千七百ゴールド》
《南市場・空籠回収 報酬千三百ゴールド》
《北船具倉庫・縄束整理 報酬千四百ゴールド》
《東加工場・魚あら選別補助 報酬千四百ゴールド》
《中央食材倉庫・帳票確認 報酬千二百ゴールド》
《西樽工房・完成樽運搬 報酬千六百ゴールド》
重そうな仕事を順番に除外していくと、荷車積み込みは駄目で、縄束も以前の経験から見た目ほど軽くないことを知っている。完成樽運搬も名前からして絶対に重そうなので、今日は避けた方がいい。
中央食材倉庫の帳票確認が一番身体には楽そうだったが、その隣にある《東加工場・魚あら選別補助》という文字が気になった。
「魚あら?」
魚を洗う仕事だろうか。
依頼票には午前から夕方まで、昼食支給、重量物の運搬は原則なしと書いてある。
「これなら軽そう」
魚関係だから選んだわけではなく、重量物なしだからであると自分へ言い聞かせながら依頼票を取った。
受付へ持っていくと、今日は三十代くらいの短い黒髪に青い石の耳飾りを付けた男性が座っていた。魚市場の選別と小舟の係留確認を受けたときにも対応してくれた人だ。
「東加工場ですね」
「魚あらって何です?」
「魚を捌いたあとに残る頭、骨、皮、内臓などですね」
「あらの方か」
「洗う方だと思いました?」
「ちょっと」
「選別なので、種類ごとに分ける仕事です。重い箱は加工場の人が運びます」
「本当に重いもの持ちません?」
「昨日、塩場でしたね」
「何で知ってるんです?」
「完了票見ましたから」
「背中がちょっと重くて」
「ならちょうどいいと思います。ただ、匂いはかなり付きます」
「セルナ来てから、その注意多くないですか?」
「魚の街ですから」
「納得したくないけど納得しました」
依頼票に印をもらい、東加工場へ向かった。
魚市場よりさらに東側、海へ近い場所に加工場はあり、大きな平屋の建物が三棟並んでいた。その周囲には水を流すための細い溝が何本も掘られ、建物へ近づくにつれて、干し場とは比べものにならないほど強い魚の匂いが鼻へ入ってくる。
「これは付くなぁ」
入口でギルドの依頼票を見せると、奥から三十代後半くらいの男性が出てきた。短い黒髪に白い布を頭へ巻き、袖のない厚手の作業着を着ている。右腕には魚の鱗が何枚か貼り付いていた。
「ギルドから?」
「ミサキです」
「俺はガウ。今日は選別場な。捌く方じゃないから刃物は使わない」
「助かります」
「刃物苦手?」
「知らない魚を捌く自信がないです」
「魚屋でも最初からできるやつはいないよ」
ガウに案内されて建物の奥へ進むと、手前の広い作業台では何人もの職人が魚を次々と捌いていた。頭を落とし、腹を開き、身を切り分けていく速度はかなり速く、その横には大きな桶がいくつも並んでいる。
頭、骨、皮、内臓、それから細かな切れ端まで、市場で見ていた魚がここでは部位ごとに別のものへ変わっていた。
「これ、全部捨てるやつです?」
私が聞くと、ガウが怪訝そうな顔をした。
「何で捨てるんだ?」
「え?」
「使うから分けてるんだけど」
「ああ、そういう選別なんだ」
「捨てるだけなら一緒の桶でいいだろ」
「確かに」
言われてみれば、その通りだった。
今日の仕事は、職人たちが捌いたあとに出る部位を用途別の桶へ分けることだった。ただし頭なら全部同じ桶というわけではなく、《銀背魚》の頭は出汁用、《灰走魚》の頭は煮込み用、《青尾小魚》の頭と骨はまとめて乾燥加工へ回す。《平尾魚》の皮は焼いて食べる店へ売られることがあり、《赤腹小魚》は小さいため、そもそも骨まで使うことが多いらしい。
「覚えること多くないです?」
「札あるから読め」
「よかった」
桶の前には魚の絵と用途を書いた木札が立っている。
今日一緒に選別するのは四十代くらいの女性で、名前はマルナ。濃い茶色の髪を後ろで丸くまとめ、厚手の前掛けを着けていた。
「分からなかったら入れないで聞いて」
「違う桶に入れたら?」
「探すの面倒」
「怒られます?」
「私が嫌な顔する」
「それは避けたい」
「じゃあ聞きな」
「はい」
最初に流れてきたのは《銀背魚》だった。
身は料理屋や市場へ回り、頭は出汁、骨も出汁や煮込み、皮は状態が良ければ炙り用、傷んだ部分は別の加工へ回る。
「傷んだら捨てる?」
「程度による」
「また程度による」
「何?」
「最近、何でも一つの答えじゃないなと思って」
「そりゃそうでしょ」
「セルナの人、みんなそれ言いますね」
「当たり前のこと聞くからじゃない?」
「それは否定できないです」
作業そのものは重くなく、桶から小さな籠へ部位を移したり、木札を確認したり、台の上へ落ちた細かな骨や皮を集めたりする程度なので、昨日使った腕と背中にはありがたかった。ただ、その代わり魚の匂いはかなり強く、仕事を始めてそれほど経たないうちに、服へしっかり染みついているのが自分でも分かる。
「これ、服洗って取れます?」
マルナへ聞く。
「何回か洗えば」
「一回じゃ駄目?」
「たぶん魚の勝ち」
「今日の夜、大丈夫かな」
「酒場なら誰も気にしないよ」
「この街、その辺だけすごく助かる」
午前中の半ば、見慣れない灰色の塊が桶へ入ってきた。
「これ何です?」
「《平尾魚》の肝」
「食べる?」
「食べる」
「内臓も?」
「物によるよ」
「やっぱり」
平尾魚の肝は苦味が少なく、香草と一緒に潰して焼き物へ塗ったり、酒を混ぜて煮たりするらしい。ただし傷みやすいため、近場の店にしか回らない。
「リーベルには?」
「ほとんど行かないね」
「運べない?」
「運べるけど、そこまでして売るほどじゃない。こっちで食べる」
港町だから新鮮な魚があるというだけではなく、運ぶ価値の低い部位が地元に残ることもあるらしい。
「地元でしか食べない理由って、味だけじゃないんだ」
「何が?」
「珍しいから残してるんじゃなくて、わざわざ遠くまで運ばないからここで食べるものもあるんですね」
「そりゃあるよ。運ぶのだって金かかるからね」
魚市場で冷石箱を運んだときにも似た話を聞いた。何をどこへ運ぶかには、味だけではなく日持ちや値段、箱、冷石、人手まで関わってくるが、加工場ではそれが魚の部位単位で起きているらしい。
しばらく作業を続けていると、今度はかなり大きな骨が出てきた。
「これは?」
「《大潮魚》の中骨」
「出汁?」
「それもあるけど、今日は肥料屋」
「肥料?」
「砕いて畑に入れる」
「魚の骨を?」
「乾かして粉にするんだよ」
「食べない使い方もあるんだ」
「そりゃある」
隣でガウが笑う。
「食べることしか考えてなかった?」
「ちょっと」
「顔に出てた」
「この街の人、顔読むの得意すぎません?」
「お前が分かりやすいんじゃないか?」
最近それを否定する材料がなくなってきた。
昼になると加工場の裏手にある休憩所へ移り、薄焼きパンに白豆と青菜を挟んだもの、それから魚の出汁で煮た黄根と白根の汁物が支給された。
「やっぱり魚の出汁なんですね」
私が言うと、ガウが向かいに座る。
「骨余るからな」
「今日選別したやつ?」
「昨日のだろ。今日のは今から煮ても間に合わん」
「それもそうか」
汁を一口飲んでみると、透明に近い見た目なのに旨味はしっかりあり、根菜の甘さが後から来る。魚の身は一切入っていないが、骨から取った出汁だけで十分に魚料理のような味がした。
「骨って、結構味出るんですね」
「だから売れるんだよ」
「捨てるところ、本当にないんですか?」
ガウは少し考えてから、パンを一口かじった。
「あるよ」
「あ、あるんだ」
「腐ってるとこ、病気のとこ、汚れがひどいの。何でも使うわけじゃない」
「全部使うのかと思った」
「使えるもんを使うんだよ。捨てないために無理して使って腹壊したら意味ないだろ」
「それもそうですね」
「骨だって売れなきゃ捨てることあるしな」
「使えるから残すんじゃなくて、使い道があるから残す?」
「まあ、そんなとこだ」
その答えは、私が勝手に想像していた「港町の人は魚を一匹残さず大切に使います」というきれいな話より、ずっと現実的だった。
使えるものは使い、食べられるものは食べる。それでも危ないものや、どうしても使い道のないものまで無理に残すわけではない。
前の世界でも、野菜の皮や魚の骨を出汁に使うことはあったし、逆に何でも食べればいいというものでもなかった。もったいないという言葉と、安全に食べられるという話は別だったはずだ。
午後は《灰走魚》と《平尾魚》が多くなった。
灰走魚は身がしっかりしているため煮込み用に回されることが多く、頭と骨も濃い出汁が取れる。一方、平尾魚は皮が比較的高く売れるため、破らないよう別の籠へ入れなければならない。
作業に慣れてきた頃、私は平尾魚の皮をうっかり骨用の桶へ入れかけ、マルナに止められた。
「そっちじゃない」
「あっ」
「危ない危ない」
「すみません」
「入れる前に止まったからいいよ」
「慣れた頃が一番危ないですね」
「そう。最初はみんな札見るからね」
「前の仕事でも言われた気がする」
「何の仕事?」
「前の世界で、数字をいっぱい扱う仕事です」
「魚より面倒?」
「間違えたときは魚より面倒でした」
「じゃあ札見な」
「はい」
それからは分かっているつもりの魚でも一度木札を見ることにし、夕方近くになる頃にはその日の加工量も落ち着いて、桶の数も少しずつ減っていった。
最後に作業台の周りを水で流し、空の籠を重ねる。重量物は加工場の人が運んでくれたので、昨日から残っていた背中の張りも悪化していない。
「今日は助かった」
ガウが完了票を渡してくる。
「こっちも助かりました。重いのなかったので」
「昨日塩場だったんだって?」
「はい」
「そりゃ今日は軽い方がいいな」
「自分でも学習しました」
「明日は?」
「明日の身体と相談します」
「酒とは相談しないのか?」
「夜は財布と相談します」
「忙しいな」
貸してもらった前掛けを外したが、自分の服にもかなり魚の匂いが付いていた。
「やっぱり魚の勝ちですね」
マルナが笑う。
「言ったでしょ」
「宿で洗います」
「湯に少し酢入れると取れやすいよ」
「本当です?」
「少しね。入れすぎると今度は酢臭くなるから」
「魚か酢か選ぶことになる」
「ちゃんと少しにしな」
「覚えときます」
加工場を出てギルドへ戻り、完了票を提出すると、報酬は予定通り千四百ゴールドだった。昼食は支給だったので、今日の出費はまだない。
《潮窓の宿》へ戻ると、宿の女性が私を見るより先に鼻を少し動かした。
「加工場?」
「もう何も言ってないのに」
「分かるよ」
「そんなに?」
「結構」
「夜までにどうにかなります?」
「服替えな」
「それだけ?」
「身体も洗いな」
「それはもちろん」
「酢使う?」
「マルナさんにも言われました」
「じゃあ少し持ってく?」
「お願いします」
八泊目の宿代三百五十ゴールドを払い、少量の酢を分けてもらって部屋へ上がった。
仕事着をぬるい湯で洗い、教わった通り酢をほんの少し入れてみる。完全に匂いが消えたかどうかは自分では分からないが、少なくとも加工場を出た直後よりはましになった気がした。
自分の身体も洗い、別の服へ着替えてから今日の財布を確認する。
報酬千四百ゴールドから宿代三百五十を引けば千五十。昼食は支給だったので、夜予算は六百ゴールドにした。昨日より仕事は軽かったし、六百あればセルナでは酒を二杯と料理を二品くらい楽しめる店も多いので、全部使うことを考えず、今夜も腹と相談すればいい。
「今日は魚以外……とは言わないでおこう」
何度か言って失敗している。
魚加工場で一日働いたのだから肉が食べたい気分ではあるが、最初から決めつけると、なぜか魚の店へ入ることになる。
少し休んでから外へ出ると、夜のセルナは今日も港側の通りが賑やかで、仕事を終えた人たちが次々と店へ吸い込まれていた。
一軒目は焼き魚中心なので、気にはなったものの今日は通り過ぎる。二軒目は貝料理で、これも今の気分とは少し違った。
三軒目の前まで来たところで、肉を焼く香ばしい匂いが流れてきた。
「今日はこっち」
看板を見る。
《端皿亭》
変わった名前だった。
入口横の品書きには肉料理だけではなく、魚や野菜も並んでいる。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《焦麦酒 百二十ゴールド》
《赤果実酒 百三十ゴールド》
《端肉と白豆の鉄皿焼き 百五十ゴールド》
《魚皮の香草焼き 百十ゴールド》
《骨際肉の煮込み 百六十ゴールド》
《根菜端の油焼き 九十ゴールド》
《青菜芯の酢漬け 七十ゴールド》
《黒麦薄焼き 五十ゴールド》
「端ばっかり」
店名の意味が何となく分かった。
加工場で一日、頭や骨や皮を分けていた日に見つける店としては出来すぎている気もするが、肉を食べたいという今の気分には合っている。
「入ろう」
扉を開けると、店内は広くなく、カウンターが八席、壁際に二人用の卓が三つだけだった。奥には平たい鉄板があり、肉と豆を焼く香ばしい匂いが漂っている。
「いらっしゃい」
店主は四十代後半くらいの男性で、焦げ茶色の髪を短く刈り、右頬に小さな火傷の跡があった。厚手の前掛けを着け、鉄板の上の肉を木べらで返している。
「一人です」
「空いてるとこどうぞ」
店主の名前はジオというらしい。
カウンターへ座り、品書きをもう一度見る。
「軽麦酒と、端肉と白豆の鉄皿焼きください」
「二百四十」
夜予算六百に対して、最初の注文は二百四十ゴールド。
軽麦酒は淡い金色で、飲んでみると苦味は弱めだった。麦の香りもそれほど強くなく、鉄板料理の脂を流すにはちょうどよさそうな軽さがある。
少しして《端肉と白豆の鉄皿焼き》が出てきた。
小さな鉄皿の上で、細かく切った肉と白豆、刻んだ青菜がまだ音を立てている。肉は形が揃っておらず、大きいものでも親指の先ほどしかない。
「端肉って、切れ端です?」
「そう。大きく切れないところ」
「安い部位?」
「部位っていうか、整えた残り」
「捨てないんですね」
「食える肉捨ててどうする」
今日、加工場でも聞いたような答えだった。
木匙で肉と白豆を一緒にすくって口へ運ぶと、肉は小さいものの、脂のある部分と赤身の部分が混ざっているので一口ごとに食感が少し違う。白豆が肉の脂を吸い、青菜の苦味が後味を軽くしてくれた。
「これ、切れ端だから味が悪いとか全然ないですね」
「形が揃わないだけだからな」
「料理屋だと困る?」
「大きな焼き肉にはできない。こうして刻んで焼けば関係ない」
「なるほど」
前の世界でも、形が悪い野菜や肉の切れ端を使った料理は普通にあった。家で食べるなら形が揃っているかどうかなんて気にしないし、炒め物や煮込みならなおさらだった。
それでも店で出てくる料理を見ると、完成した形ばかり見てしまう。
「今日、魚加工場で働いてたんです」
「東の?」
「はい」
「じゃあ匂い落とすの大変だったろ」
「分かります?」
「今はそんなにしない」
「よかった」
「昼なら分かったかもな」
「危なかった」
ジオが鉄板へ別の肉を置く。
「加工場なら皮とか骨とか分けただろ」
「分けました。頭も内臓も」
「うちも魚皮買ってるよ」
「品書きにありますね」
「平尾魚の皮が多い」
「今日分けました」
「じゃあお前が分けたの来るかもな」
「今日のが?」
「今日は来ない。早くても明日以降」
「ですよね」
昼食の魚出汁でも同じ勘違いをしかけたので、少し学習した。
端肉と白豆の鉄皿焼きを半分ほど食べたところで、隣の席にいた男性が注文した料理が目に入った。
年齢は三十代後半くらいで、短い赤茶色の髪に、左手の指先が黒く汚れている。仕事帰りらしく、厚い革の上着を椅子の背に掛けていた。
その前に置かれたのは、茶色い煮込みだった。
「それ、何です?」
思わず聞く。
男性が木匙を止める。
「これ? 骨際肉」
「骨際肉?」
「骨から削った肉」
品書きにある《骨際肉の煮込み》百六十ゴールドだ。
「おいしいです?」
「今から食うとこ」
「あ、すみません」
「待ってろ」
男性は一口食べ、少し考えてから頷いた。
「今日もうまい」
「じゃあ私もください」
ジオが笑う。
「人の一口待って決める客、珍しいな」
「ちゃんと感想聞いてからの方がいいかなって」
「百六十追加な」
予定外の一品を加えて、会計は四百ゴールドになった。夜予算六百には二百残る。
男性はカイルと名乗り、港の荷車の車輪や金具を直す修理工らしい。
「骨際肉って、わざわざ削るんです?」
私が聞く。
「肉屋が削るんじゃない?」
カイルがジオを見る。
「うちのは肉屋からまとめて買う。骨の周りは形取れないけど味は濃いからな」
ジオが答えた。
「骨は?」
「出汁屋に行く」
「その骨から肉を取って、肉はここ、骨は出汁屋?」
「そういうのもある」
「今日そればっかり見てる」
「何を?」
「一つのものが、使い道ごとに分かれていくところ」
「普通だろ」
カイルが言う。
「修理屋もそう?」
「壊れた車輪の金具は使えるなら外す。木は薪になることもある。全部じゃないけどな」
「魚だけじゃないんだ」
「魚の街だからって何でも魚だけだと思うなよ」
「それ、最近よく怒られるところです」
運ばれてきた《骨際肉の煮込み》は、濃い茶色の汁に小さな肉と黄根、白根が入っていた。
木匙で肉をすくって食べると、端肉の鉄皿焼きより柔らかく、細かな筋はあるものの長く煮込まれているため簡単にほどけた。汁にも肉の旨味がかなり出ている。
「こっちは煮込み向きなんだ」
「形悪いからね」
ジオが言う。
「でも味は濃い」
「骨の近くはうまいよ」
「だったら高く売れそうなのに」
「手間かかるし、量も揃わない。毎日同じだけ取れるわけじゃない」
「安い理由って、味だけじゃないんですね」
「高い理由だって味だけじゃないだろ」
「ああ」
その言葉を聞いて、前の世界でも同じようなことはいくらでもあったはずだと思う。値段には味だけではなく、形、量、手間、保存しやすさ、運びやすさ、見た目、需要まで関わっている。
高いものがおいしくないという話ではないし、安いものが必ず得という話でもない。ただ、値段だけを見て味まで決めつけるのは違うらしい。
「焦麦酒って、これに合います?」
「肉煮込みなら軽麦よりそっちかな」
ジオが答える。
「百二十ですよね」
「そう」
頼めば合計五百二十ゴールドとなり、夜予算六百には八十残る。
「ください」
焦麦酒は赤みのある濃い茶色で、口へ含むと麦を焦がしたような香ばしさがあり、そのあとに少し強めの苦味が来た。
骨際肉の煮込みを食べてから飲むと、口に残った脂と濃い汁の味が軽くなり、また肉へ戻りたくなる。
「これは合う」
「だろ」
ジオが短く答える。
「こっちは料理に合わせて選んでる酒?」
「そうだよ」
「最近、それ聞くようにしてます」
「何で?」
「何でも料理に合わせてると思ったら、ただ安定して安く入るからって店もあったので」
「それも大事だろ」
「そうなんですよね」
「安くてうまくて合えば一番だ」
「全部欲しい」
「客はそう言う」
「店は?」
「無理言うなって思う」
カイルが横で笑った。
端肉と白豆の鉄皿焼きを食べ終え、骨際肉の煮込みも残りわずかになる。焦麦酒も半分ほど残っているが、腹は八分を少し超えたくらいだった。
会計は五百二十ゴールドで、夜予算六百には八十残っている。《青菜芯の酢漬け》なら七十ゴールドで頼めるが、今からもう一皿食べたいほどではない。
「今日はここまで」
私が言うと、ジオが品書きを見た。
「あと八十くらい?」
「何で分かるんです?」
「さっき予算六百って独り言で言ってた」
「声出てました?」
「出てた」
「気をつけよう」
「酢漬け七十だぞ」
「入るけど、今はいらないです」
「じゃあ頼まなくていい」
「最近それができるようになりました」
「何歳だ?」
「二十六です」
「もっと前に覚えとけ」
「お酒に関しては成長が遅くて」
「そこ自慢するところじゃないだろ」
カイルが笑いながら焦麦酒を飲んでいる。
私も残っていた分をゆっくり飲み切った。
「会計お願いします」
「五百二十」
硬貨を渡す。
今日の報酬は千四百ゴールド、宿代が三百五十、夜が五百二十で、昼食は支給だった。今日の稼ぎだけで五百三十ゴールド残り、夜予算からも八十ゴールド余っている。
「軽い仕事だったのに結構残った」
「軽い?」
カイルが聞く。
「魚の頭とか骨とか分ける仕事です」
「匂いは軽くなさそうだな」
「そこはかなり重かったです」
「うまいこと言ったつもり?」
「ちょっとだけ」
「六十点」
「厳しい」
店を出る前に、ジオへ一つだけ聞いてみた。
「この店って、安い材料を使うための店なんです?」
「違うな」
「じゃあ、捨てるものを使う店?」
「それも違う」
「じゃあ何です?」
ジオは鉄板を布で拭きながら答えた。
「うまく食えるもんを、うまく出す店だよ」
「ああ」
「端っこかどうかなんて、皿に乗ったら客には関係ないだろ。まずかったら安くても頼まれないしな」
「それ、今日一番分かりやすいです」
「なら覚えとけ」
「覚えます」
「ごちそうさまでした」
「おう。気をつけてな」
店を出ると、夜の通りには港から戻ってきた人たちが増えていた。酒場へ入る人、屋台で食べ物を買う人、家へ向かうらしい人が行き交い、少し離れたところから荷車の車輪が石畳を転がる音も聞こえる。
今日は一日、魚の頭や骨、皮、内臓を分けていた。最初は身を取ったあとに残るものだから全部捨てる部分なのだと思っていたのに、実際には出汁になり、煮込みになり、炙り物になり、食べない骨まで肥料へ回ることがある。
だからといって、何でも残すわけではない。傷んだものや危ないものは捨てるし、使い道がなければ残らないこともある。無理に捨てないことが大事なのではなく、使えるものにちゃんと使い道があるという方が近いのだろう。
前の世界でも、家で作る炒め物なら肉の形なんて気にしなかったし、野菜の端だって普通に鍋へ入れていた。完成した料理ばかり見ていると、その前に何が切られ、どんな形で残り、どこへ回っていったのかを考えなくなるだけなのかもしれない。
今日の昼に飲んだ魚骨の出汁も、夜に食べた骨際肉の煮込みも、最初から主役になるための形ではなかった。
それでも、食べておいしければ、私にとっては十分に一皿の主役だった。
港の灯りを眺めながら、昼にガウへ聞いたことを思い出す。捨てるところは本当にないのかと聞いた私に、彼はあっさり「ある」と答えた。
たぶん、それでいいのだと思う。
何でも残すのではなく、使えるものを使える形で食べる。
何より今夜の端肉も骨際肉も、安い切れ端だから頼んだわけではない。もう一度食べてもいいと思うくらいには、ちゃんとおいしかった。




