第47話「塩って、作る方は全然しょっぱくないんですね」
セルナで迎える七度目の朝、窓の外から聞こえてきた船鈴の音で目を覚ました私は、寝台の上でしばらく天井を眺めながら、とうとう一週間近くいるなと思った。
護衛仕事でこの街へ着いた日の私は、魚を食べて一泊か二泊すればリーベルへ戻るくらいに考えていた。それが魚市場で働き、船具工房で縄を運び、浜菜を採り、小舟の係留を確認し、昨日は干し場で魚まで干している。
観光で来たつもりは最初からないけれど、だからといってセルナで暮らし始めたつもりもない。
「こういうの、いつまで滞在って言うんだろ」
誰に聞くでもなく呟きながら身体を起こす。
昨日は《東干し場》で魚棚の入れ替えを手伝い、千四百ゴールドを稼いだ。昼食は支給、《潮窓の宿》の宿代が三百五十ゴールド、夜は《乾波亭》で細刃魚の炙りや赤腹小魚と豆の香草炒めを食べ、麦酒を二杯飲んで四百六十ゴールドだったので、昨日の稼ぎだけでも五百九十ゴールド残っている。
財布にはそれ以前の残りもあるため、今日くらい完全に休んでも困らない。それでも身体は軽く、もう一日寝て過ごしたいほどの疲れも残っていなかった。
「休む理由がないんだよなぁ」
前の世界で会社員をしていた頃なら、休めると言われれば喜んで寝ていた気がする。それなのに今は、昼まで寝ていても特にやることがなく、結局夕方になれば居酒屋を探しに出るのだろう。
それなら昼間は働いていた方が、夜の一杯にも理由ができる。
「理由なくても飲むけど」
そこは大事なので、自分で訂正しておいた。
一階の食堂へ下りると、今朝の朝食は薄焼きパン、白豆と刻んだ青菜の煮込み、それから茹で卵だった。昨日は朝から干し魚だったので、今日は海のものが何もなく、最近の私は朝食に魚があるかどうかを確認する癖がついている気がする。
「今日は魚じゃないんですね」
宿の女性へ言うと、パンの籠を置きながらこちらを見る。
「魚じゃなかったら言うし、魚でも言うね」
「セルナの朝食調査です」
「誰に頼まれたの?」
「私に」
「暇なの?」
「これから仕事探します」
「じゃあ暇じゃないでしょ」
「確かに」
茹で卵には小さな木皿の塩を付けて食べるらしい。殻を剥いて半分に割り、ほんの少し塩を付けてみると、黄身はやや硬めで何の変哲もない茹で卵なのに、それだけで味がはっきりした。
「この塩、セルナで作ってるんです?」
「ほとんどは西の塩場か南の塩浜じゃない?」
「近い?」
「歩けば行けるよ。西の方が近い」
「塩場かぁ」
「仕事あるかもね」
「何で分かったんです?」
「顔」
「私そんなに分かりやすい?」
「食べ物の話してるときはね」
昨日も似たようなことを言われたので、どうやら私は自分で思っている以上に食べ物関係の仕事へ反応しているらしい。
朝食を食べ終えて《潮窓の宿》を出ると、空は晴れているものの、海から吹いてくる風には少し冷たさがあった。セルナへ来たばかりの頃より季節が急に進んだわけではないので、単に朝だからだろう。
冒険者ギルドへ着いて依頼板を見ると、ちょうど目につく位置に目的のものがあった。
《西塩場・結晶籠運搬 報酬千五百ゴールド》
《第三埠頭・荷札確認 報酬千四百ゴールド》
《南市場・根菜荷下ろし 報酬千三百ゴールド》
《北樽工房・木材整理 報酬千四百ゴールド》
《東加工場・魚箱洗浄 報酬千五百ゴールド》
《西倉庫・塩袋積み替え 報酬千六百ゴールド》
「塩場ある」
朝食で話した直後なので、少し出来すぎている気もする。
《西塩場・結晶籠運搬》は一日仕事で千五百ゴールド、昼食支給。仕事内容は塩を作る場所で使う籠や木箱の移動と、結晶を乾燥小屋へ運ぶ補助らしく、重労働とまでは書かれていない。
昨日は昼過ぎまでの仕事だったし、今日は身体も軽いので問題ないだろう。
依頼票を持って受付へ向かうと、今日の受付は四十代くらいの男性で、淡い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、首には青い紐を巻いていた。西外浜の浜菜採取を受けた日にも対応してくれた人だ。
「西塩場ですね」
「はい。塩運ぶんです?」
「結晶籠が中心です。塩水の桶を運ぶこともあります」
「重い?」
「重いです」
「聞かなきゃよかった」
「別の依頼にします?」
「いえ、やります」
「足元が滑りやすいので気をつけてください。あと、傷があるなら塩水に触れない方がいいですよ」
「痛いやつですね」
「かなり」
自分の手を見る。昨日の干し場仕事で傷を作った覚えはないし、一昨日の縄仕事でも手袋を使っていたので、大丈夫そうだ。
「たぶん平気です」
「痛かったらすぐ分かります」
「確認方法が嫌だなぁ」
依頼票に印をもらい、西門から塩場へ向かった。
街を出てしばらく歩くと、海沿いの景色が少しずつ変わってきた。港の周辺では倉庫や船ばかり目に入っていたが、西へ進むにつれて建物が減り、代わりに低い土壁で区切られた浅い池のようなものがいくつも見えてくる。
水面は海よりずっと静かで、場所によって色が違っていた。
「これ全部、塩?」
思わず立ち止まったところで、向こうから歩いてきた女性に声をかけられた。
「ギルドの手伝い?」
「あ、はい。ミサキです」
「私はネイラ。今日あんたを見ることになってる」
ネイラは四十代前半くらいで、日に焼けた肌に濃い赤茶色の髪を短くまとめていた。膝下まである厚手の作業着を着ており、足には革靴ではなく、表面を油で処理したらしい丈の短い作業靴を履いている。
「そこ、まだ塩じゃないよ」
「海水?」
「濃くしてる途中」
「池に入れて置いとくだけ?」
「それでできたら楽なんだけどね」
「違うんですね」
「来な。見ながら説明する」
塩場は想像していたよりずっと広かった。
海側から取り込んだ水を最初の大きな区画へ入れ、そこから少しずつ別の浅い区画へ移していくらしい。日差しと風で水分を減らし、濃くなったものをさらに次へ送っていき、最後に近い区画まで来ると、水面の端に白いものが薄く浮き始めている。
「あれが塩?」
「やっとね」
「時間かかるんだ」
「天気良ければ早い。湿ってたら遅い。雨降ればもっと面倒」
昨日の干し魚と同じような話だった。
「風と天気、ここでも大事なんですね」
「外で作ってるからね」
「昨日、魚干してたんです」
「じゃあ似たようなもんだと思っとけばいい」
「魚と塩が?」
「天気に振り回されるところが」
「なるほど」
今日一緒に働くのはネイラだけではなく、塩場には十人ほどの作業員がいた。そのうち私と同じ運搬をするのは三人で、一人は三十代くらいの大柄な男性のバルク、もう一人は二十歳前後くらいで、黒い髪を肩の辺りで切り揃えたセナという女性だった。
「冒険者?」
バルクが聞く。
「はい」
「塩場初めて?」
「初めてです」
「腰で持てよ」
「昨日までは魚干してました」
「関係ないな」
「ですよね」
最初の仕事は乾燥小屋から空の籠を運ぶことで、両手で抱えられる大きさの籠は空なら軽い。それを結晶ができ始めている区画の横へ何十個か並べると、作業員が木製の道具で白い結晶を集めて籠へ入れていく。
いっぱいになった籠を二人で持ち、乾燥小屋まで運ぶのが私たちの仕事だった。
最初の一籠を持ち上げた瞬間、想像していた重さとの違いに思わず声が出た。
「重っ」
「塩だからね」
セナが反対側を持ちながら笑う。
「見た目より重くない?」
「水残ってるから」
「これ全部塩じゃないの?」
「塩と水」
「なるほど……だから重いんだ」
「乾かしたら少し軽くなるよ」
足元には白い粒が散っており、ところどころ湿っている。受付で言われた通り滑りやすいので、急いで歩く方が危なかった。
「ゆっくりでいいよ」
セナが言う。
「こういう仕事でそれ言われると助かります」
「落とした方が面倒だから」
「塩駄目になる?」
「土入ったら売り物にならない」
「それはゆっくり行きます」
乾燥小屋の中には低い木台が何列も並び、運んできた結晶は薄く広げてさらに水分を飛ばしていた。そこから粒の大きさや色を見て分け、食用、加工用、保存用などに回されるらしい。
「塩にも種類あるんです?」
ネイラに聞く。
「細かいの、粗いの、少し湿ってるの、しっかり乾かしたの。使う方が違う」
「味も違う?」
「違うって言う料理人はいるね」
「ネイラさんは?」
「塩は塩」
「急に大ざっぱ」
「毎日見てるからね」
毎日扱っている人だからこそ出てくる大ざっぱな答えが妙に生活者らしく、私は少し笑ってしまった。
午前中は結晶籠を運び、空になった籠を戻す作業を繰り返した。単純ではあるが楽ではなく、湿った塩は見た目以上に重いので、腕だけで持とうとするとすぐに疲れる。
何度目かの運搬で、バルクから声をかけられた。
「腕伸ばしすぎ」
「え?」
「籠、身体に寄せろ。離すと腰来るぞ」
「こう?」
「そう。歩幅小さく」
言われた通りにすると確かに少し楽になった。
「ありがとうございます」
「腰やったら夜飲めないぞ」
「何で飲むって分かったんです?」
「セルナ来て塩場選ぶ冒険者なんて、だいたい夜の飯代稼ぎだろ」
「偏見じゃないです?」
「違う?」
「私は違わないです」
「だろ」
夜の飯代を稼ぐためだと言われれば、実際その通りなので否定できなかった。
乾燥小屋へ籠を置いたところで、ネイラが小さな木匙を持ってきた。
「舐める?」
「塩を?」
「出来たて」
「そのまま?」
「そのまま」
木匙の先にほんの少しだけ白い粒を乗せてもらい、舌へ触れた瞬間、当然ながら強い塩気が広がった。
「しょっぱい」
「塩だからね」
「知ってたけど、やっぱりしょっぱい」
「何を期待してたの?」
「もう少し特別な味とか」
「料理人なら何か言うんじゃない?」
「私には塩です」
「正しいよ」
水を一口飲む。
塩を作る場所だからといって、作業中に塩を味見し続けるわけではない。当たり前だが、周りの人たちは普通に水を飲み、汗を拭き、黙々と籠を運んでいる。
「塩って、作る方は全然しょっぱくないんですね」
私が言うと、ネイラが眉を上げた。
「どういう意味?」
「いや、もっと塩舐めたりするのかなって」
「そんなことしてたら喉渇くよ」
「ですよね」
「料理人じゃないんだから、必要なときだけ確かめる」
「食べ物作ってる場所だからって、ずっと食べてるわけじゃないか」
「当たり前でしょ」
言われてみれば当然なのだが、朝から塩のことばかり考えていたせいで、私は塩場で働く人まで塩を味わいながら仕事をしているような想像をしていたらしい。
昼になると作業小屋の裏にある休憩所へ移り、厚い黒麦パンに燻し肉と白豆を挟んだものと、野菜の薄い汁が支給された。
塩場だから味が濃いのではないかと少しだけ思っていたが、むしろ汁物はかなり薄味だった。
「薄い」
口に出すと、隣に座っていたセナが笑う。
「塩足す?」
「いや、これでいいです」
「汗かくから濃くてもいいんだけど、毎日塩見てると薄いの食べたくなる人多いよ」
「そういうものなんだ」
「私は普通に濃いのも好き」
「人による?」
「人による」
「最近、その答えばっかり聞いてる気がする」
「便利だからね」
昨日も同じことを言われた。
黒麦パンをかじりながら塩場を眺める。朝食の茹で卵にはほんの少し付けるだけで味が変わり、居酒屋でも魚や肉、煮込み、漬物と、ほとんど毎日のように何かしら塩を使った料理を食べている。
それなのに、その塩ができるまでにこれだけ水を動かし、天気を見て、重い籠を運び、乾かして分けていることは考えたことがなかった。
「調味料って、完成したところしか見ないもんなぁ」
「何?」
セナが聞く。
「塩って、料理に入ってるときしか考えたことなかったなって」
「塩だけ食べないしね」
「さっき食べましたけど」
「それは味見」
「しょっぱかった」
「だから塩だって」
午後は結晶籠の運搬だけでなく、乾燥した塩を木箱へ移す作業も手伝った。
粗い粒のものは保存食用、細かなものは食卓や料理用に回ることが多いらしい。ただし絶対ではなく、店や加工場によって注文が違うという。
「また絶対じゃない」
私が呟くと、ネイラが振り返った。
「何が?」
「何でも店によるんだなって」
「そりゃ使う人が決めるでしょ」
「正論」
「塩場が全部決めてどうすんの」
確かにその通りだった。作る側には作る側の都合と基準があり、使う側には使う側の好みがある。干し魚でもそうだったし、酒でもそうだった。
夕方近くになると、腕と背中がほどよく重くなっていた。最後の空籠を乾燥小屋の壁際へ積み終えると、ネイラが完了票を持ってくる。
「今日はここまで」
「思ったより疲れた」
「結晶重いからね」
「塩って小さいのに」
「集めれば重い」
「当たり前なんだけど、納得したくない」
「明日筋肉痛かもね」
「それは困る」
「飲めば治るんじゃない?」
「そんな治療法あります?」
「知らない」
「ですよね」
借りていた作業着を返し、手と腕を水で洗うと、塩の粉が少し付いていたらしく、指先の小さな傷がぴりっと痛んだ。
「痛っ」
受付の男性が言っていた通りだった。
「傷あった?」
ネイラが聞く。
「自分でも知らないくらいのが」
「塩は見つけるからね」
「嫌な見つけ方」
「洗っときな」
よく水で流してから塩場を出た。
ギルドへ戻る頃には、腕にしっかり仕事をした感覚が残っていた。完了票を提出して予定通り千五百ゴールドを受け取り、昼食は支給だったので、今日の稼ぎはそのまま財布へ入る。
《潮窓の宿》へ戻って七泊目の三百五十ゴールドを払うと、宿の女性が少し驚いたような顔をした。
「一週間いるね」
「言わないでください」
「何で?」
「そろそろ自分でも気づいてるので」
「帰るの?」
「まだ決めてません」
「じゃあ明日の朝もご飯いる?」
「お願いします」
「帰る気ないじゃん」
「朝ごはんは大事です」
部屋へ戻って塩の粉が付いていそうな服を着替え、手をもう一度洗ってから寝台へ腰を下ろすと、背中に少し疲れを感じた。
今日の報酬は千五百ゴールド、宿代は三百五十。昼食は支給だったので、今のところ千百五十ゴールド残っている。
夜予算は六百五十ゴールドにした。
一日かけて重い結晶籠を運んだのだから、昨日より五十ゴールドくらい増やしてもいいだろう。こういう細かな増額を積み重ねると危ない気もするが、今日は今日である。
少し休んでから外へ出ると、昼間より風が弱くなっていた。今日は一日塩場で働いたのだから、しょっぱいものを食べたくなりそうなものだが、今の気分はむしろ逆だった。
「薄味がいいかも」
昼に食べた薄い野菜汁が意外とおいしかったので、今夜も味の強すぎないものがいい。
港の西側から中央へ戻りながら店を探す。
一軒目は塩漬け肉が看板料理だったので今日は通り過ぎ、二軒目は焼き魚の香りがかなり強く、これも今の気分とは少し違った。
細い横道へ入ったところで、湯気の出ている椀を描いた看板を見つける。
《淡潮亭》
「名前から薄そう」
入口横の品書きを確認する。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《白麦酒 百十ゴールド》
《薄青果実酒 百二十ゴールド》
《白根と豆の淡煮 百二十ゴールド》
《蒸し浜鳥 香草添え 百七十ゴールド》
《黄根と卵の柔焼き 百三十ゴールド》
《塩抜き肉と青菜の温皿 百五十ゴールド》
《浜菜の酢和え 七十ゴールド》
《薄焼き麦パン 五十ゴールド》
「塩抜き肉?」
塩漬けした肉を、わざわざ塩抜きして食べるのだろうか。
今朝から塩のことばかり考えている日に見つける店としては、ちょうどいい気がする。
「ここにしよう」
扉を開けると、店内は白っぽい木材を使った明るい造りで、カウンター七席と四人掛けの卓が三つ並んでいた。奥には大鍋が二つ置かれ、強い焼き物の匂いより、温かい出汁と野菜の香りが漂っている。
「いらっしゃい」
店主は五十歳前後くらいの女性だった。淡い灰色の髪を後ろで一つにまとめ、白い前掛けを着けている。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主はモーナと名乗った。
席へ座り、まずは品書きの一番上を見る。
「軽麦酒と、白根と豆の淡煮ください」
「二百十ね」
夜予算六百五十に対して、最初の注文は二百十ゴールド。
軽麦酒は薄い金色で泡も少なく、飲んでみると苦味は弱く、麦の香りも穏やかで、名前通り軽い。
続いて出てきた《白根と豆の淡煮》は、浅い木椀に白い根菜と白豆が入り、透明に近い汁が張られていた。上には細かく刻んだ緑の香草が少しだけ浮いている。
木匙ですくって口へ入れる。
「薄い」
思わず言う。
「薄いよ」
モーナが当然のように答える。
「でも、おいしい」
「ならよかった」
塩気はかなり控えめだが、白根そのものの甘さと豆の柔らかな味が分かる。汁には何かの骨で取ったらしい弱い旨味があり、飲み込んだあとに香草の青い香りだけが残った。
「塩、少ないですよね」
「少ない」
「わざと?」
「うちの料理はね」
「薄味の店なんです?」
「薄いのが食べたい人が来る店」
「そんな専門あるんだ」
「濃い味の店があるなら、薄い店もあっていいでしょ」
「確かに」
セルナの居酒屋といえば魚や貝、塩漬け肉のような味の強いものを想像していたが、毎日そればかり食べたい人だけではない。港で働く人たちが毎晩しょっぱい料理を欲しがると考える方がおかしいのだろう。
「今日、塩場で働いてたんです」
「ああ、それで」
「分かります?」
「手」
見ると、爪の周りが少し白く乾いている。
「洗ったんですけど」
「塩仕事の人はもっと荒れるよ」
「毎日だと大変そう」
「だからうち来る人もいる」
「塩作って、夜は薄味?」
「そういう人もいるね」
昼にセナから聞いた話と同じだった。作っているものと、その本人が夜に食べたいものは別らしい。
白根と豆の淡煮を半分ほど食べたところで、隣に一人の男性が座った。
五十代半ばくらいで、短い白髪と日に焼けた顔をしている。厚手の上着を脱ぐと、前腕には細かな白い跡が残っていた。
「いつもの?」
モーナが聞く。
「白麦と塩抜き」
「はいよ」
男性がこちらを見る。
「見ない顔だな」
「リーベルから来ました」
「仕事?」
「今日は西の塩場です」
「どこ?」
「ネイラさんのところ」
「ああ。結晶運んだ?」
「ずっと運んでました」
「腰来るだろ」
「腕と背中が来てます」
「明日腰だな」
「嫌な予告しないでください」
男性はドーグという名前で、南側の塩浜で二十年以上働いているらしい。
「塩場の人なんですね」
「そう」
「やっぱり薄味食べるんだ」
「何がやっぱり?」
「昼にも、毎日塩見てると薄いもの食べたくなる人がいるって聞いて」
「俺は昔から薄いの好きなだけ」
「また人による」
「何の話だ?」
「最近、何を聞いても最後そこに戻るので」
「人間の話ならそうなるだろ」
「すごく納得した」
モーナが《塩抜き肉と青菜の温皿》をドーグの前へ置いた。湯気の立つ皿には薄切りの肉と青菜、それから白い根菜が盛られている。
「それ、塩漬け肉なんです?」
「そうだよ」
ドーグが答える。
「塩漬けにしたのに、塩抜くんですか?」
「保存するために塩入れる。食うとき全部その塩欲しいわけじゃない」
「ああ」
保存するために必要な塩と、料理として食べたい塩加減は同じではない。言われてみれば単純な話なのに、今日一日塩を運んでいたからこそ、その違いが妙に気になった。
「それください」
気づいたときにはモーナへ言っていた。
「塩抜き肉?」
「はい」
「百五十ね」
予定外の一品を追加し、会計は三百六十ゴールドになった。夜予算六百五十にはまだ二百九十残っている。
運ばれてきた《塩抜き肉と青菜の温皿》は、見た目だけなら茹で肉と野菜の盛り合わせに近い。肉を一切れ食べてみると、保存肉らしい旨味はきちんと残っているのに、これまで食べたものほど塩気が強くなく、青菜の少し苦い味と合わせるとちょうどよかった。
「ちゃんと味ある」
「全部抜くわけじゃないからね」
モーナが言う。
塩を抜いたというより、強すぎる部分だけを水へ逃がしたような感じだ。
「保存するときの味と、食べるときの味は別なんですね」
「保存肉そのままかじる人もいるけどね」
ドーグが言う。
「お酒飲むときとか?」
「仕事中」
「しょっぱくないです?」
「水飲む」
「力技だ」
「腹減ってりゃうまいよ」
同じ保存肉でも、仕事中にそのまま食べる人がいれば、酒場で塩を抜いて温かい料理にする人もいる。塩場で作られた塩も粒の大きさや乾かし方で行き先が違っていたのだから、一つの使い方だけを想像していた方がおかしいのだろう。
「白麦酒ってどんな感じです?」
モーナに聞く。
「軽麦より柔らかいよ。少し甘い」
「塩抜き肉に合います?」
「私は合うと思う」
「じゃあください」
「百十ね」
これで合計四百七十ゴールドとなり、夜予算には百八十残る。
白麦酒は名前通り少し白く濁り、泡も軽麦酒より細かかった。一口飲むと苦味はかなり弱く、穀物の柔らかな甘さが先に来る。
塩抜き肉を食べたあとに飲むと、残った塩気を流すというより、肉の味をそのまま丸くしてくれる感じがした。
「これ好きかも」
「薄いの好き?」
ドーグが聞く。
「普段は濃いのも好きです」
「じゃあ何でもいいんじゃないか」
「その日の気分です」
「それが一番だ」
「今日一番納得する答えかもしれない」
白根と豆の淡煮を食べ終え、塩抜き肉と青菜もゆっくり片づけていく。白麦酒を半分ほど飲んだところで腹は八分くらいまで満ち、会計は四百七十ゴールドなので、まだ百八十ゴールド分の余裕があった。
黄根と卵の柔焼き百三十も頼めるし、浜菜の酢和え七十ならさらに軽いが、今はどちらも必要ない。
「今日はここまでにします」
「まだ予算ある顔してるね」
モーナが言う。
「そんな顔まで分かるんです?」
「さっきから値段見てるから」
「百八十残ってます」
「じゃあ何か頼む?」
「いえ。お腹はちょうどいいので」
「なら頼まなくていいね」
「はい」
以前なら、予算が余っていることを「まだ頼める」と考えていた。最近は「残せる」と考えることが少しずつ増えているし、飲み物も食べ物も、入るかどうかではなく今ほしいかどうかで決めればいい。
残っていた白麦酒を飲み切り、会計を頼んだ。
「四百七十」
モーナへ硬貨を渡す。
今日の報酬は千五百ゴールド、宿代が三百五十、夜が四百七十で、昼食は支給だった。今日の稼ぎだけでも六百八十ゴールド残り、夜予算六百五十からも百八十余っている。
「今日も残った」
「貯めてるの?」
ドーグが聞く。
「特に目的はないです」
「じゃあ装備買えば?」
「どうしてみんなそこに行くんです?」
「冒険者だからだろ」
「正しいんですけど」
短剣の手入れ代もあるし、靴もいつか替えなければならない。財布に余裕があるうちに少し装備へ回した方がいいのは分かっている。
「そのうち考えます」
「そのうち壊すなよ」
「気をつけます」
「酒代より先にな」
「そこは相談で」
「何と相談するんだ」
「財布です」
モーナが笑った。
「ごちそうさまでした」
「はい。また――」
モーナはそこまで言ってから、言葉を変えた。
「気をつけて帰りな」
「ありがとうございます」
店を出ると、夜の風が頬に当たり、海の匂いに混じってどこかから焼き魚の香りが流れてきた。少し前ならそれだけで次の店まで気になったかもしれないが、今日は白根と豆の淡煮と塩抜き肉、それに麦酒二杯で十分満足している。
朝は茹で卵へ塩を付け、昼間はその塩が作られる場所で重い結晶籠を運び、夜には保存のために使われた塩をわざわざ抜いた肉を食べた。一日中塩に関わっていたのに、夜になって一番印象に残っているのは、強い塩味ではなく、白根の甘さや白豆の柔らかさ、青菜の苦味、それから塩気を落とした肉の旨味だった。
前の世界でも、塩はあまりに普通に台所にあったので、袋の中へ入るまでのことを考えた覚えはほとんどない。今日一日働いただけで塩作りの全部が分かったわけではないけれど、次に料理へ塩を振るときには、朝の茹で卵だけではなく、あの水を含んだ重い籠や、指先の小さな傷に走った痛みくらいは思い出しそうだった。
港へ続く夜道を歩きながら、指先に残った小さな傷を親指で触ってみる。塩水に触れたときはあんなに痛かったのに、今はもう何ともない。
今日の塩は、しょっぱい味より重さと痛さの方をよく覚えている。
それでも夜の料理には、ちゃんと少しだけ入っているくらいが一番おいしかった。




