第46話「干した魚って、焼かなくても食べられるんですか?」
セルナで迎える六度目の朝、目を覚ました私は、窓の外から聞こえてきた船鈴の音に反応することもなく寝返りを打ち、そのままもう少し眠ろうとしてから、ようやく目を開けた。
初日は珍しくて窓まで見に行き、数日前までは目覚まし代わりだと思っていた音なのに、今では普通に聞き流している。人間は慣れるものだと思いながら寝台の上で身体を起こすと、昨日の係留確認で使った脚に少しだけ重さが残っていた。
昨日は港内の小舟を確認する仕事で千八百ゴールドを稼ぎ、仕事用に替えの靴下を四十ゴールドで買った。昼食は支給され、《潮窓の宿》へ三百五十ゴールド、夜の《帆皿亭》で船焼きや塩肉船焼き、それに麦酒を二杯飲んで五百三十ゴールドだったので、昨日の稼ぎだけでも八百八十ゴールド残っている。
セルナへ来てからの残金を合わせれば、今すぐ稼がなくても何日かは普通に過ごせる。
「今日は休んでもいいんだけどなぁ」
そう呟きながら寝台から降りたものの、休みたいほど疲れているわけでもなく、昼間から酒を飲みたいわけでもない。何より仕事をせずに夕方まで過ごすと、たぶん途中から暇になる。
「軽い仕事あったら、それでいいか」
毎日必ず高い依頼を受ける必要もない。宿代と食事代が出て、少し残れば十分な日もある。
一階へ下りると、今朝の朝食は白豆を潰したものを塗った薄焼きパンと、刻んだ黄根の温かいスープ、それから細く裂いた干し魚だった。
「また魚だ」
思わず言うと、料理を並べていた宿の女性がこちらを見る。
「昨日は肉だったでしょ」
「文句じゃないです」
「じゃあ食べな」
「はい」
細く裂かれた魚は、焼き魚の残りという感じではなかった。表面は乾いて薄茶色になっており、触ると少し硬い。
「これ、何です?」
「《細刃魚》の干し身」
「焼いてある?」
「干しただけ」
「そのまま食べるんです?」
「そのままでも食べるし、汁にも入れる」
一本つまんで口へ入れてみると、最初は硬いものの、噛んでいるうちに少しずつ繊維がほどけ、塩気と魚の旨味が強く出てきた。日本で食べていた干物というより、魚を使った硬めの珍味に近い。
「お酒欲しくなる味」
「朝から飲まないでよ」
「飲みません」
「今ちょっと考えたでしょ」
「考えただけです」
白豆を塗ったパンと一緒に食べると、豆の甘さが魚の塩気を弱めてくれる。朝食としては少し味が濃い気もするが、身体を動かす人にはこれくらいでもいいのだろう。
「これって、干したら何日くらい持つんです?」
「物によるよ。細刃魚ならちゃんと干せば二十日くらい。もっと干せば長くなるけど硬くなる」
「船にも持っていく?」
「持ってくよ。街の人も食べるけどね」
「また船だけの食べ物だと思うところだった」
「朝から何の反省してるの?」
「最近よく間違えるので」
「知らないなら間違えて普通でしょ」
「それもそうですね」
朝食を食べ終えて宿を出ると、空には薄い雲が広がっていたものの、雨が降りそうな感じではなかった。昨日の午後に強くなった風も収まり、港へ向かう荷車の布はほとんど揺れていない。
冒険者ギルドへ着き、依頼板を見る。
《東干し場・魚棚入れ替え 報酬千四百ゴールド》
《北倉庫・樽札確認 報酬千三百ゴールド》
《第二埠頭・空箱回収 報酬千四百ゴールド》
《西塩倉庫・袋詰め補助 報酬千五百ゴールド》
《南市場・野菜荷下ろし 報酬千三百ゴールド》
《港外れ・薪割り補助 報酬千二百ゴールド》
朝に干し魚を食べた直後なので、《東干し場・魚棚入れ替え》が気になった。報酬は千四百ゴールドで、一日仕事ではなく朝から昼を少し過ぎる程度まで、昼食も支給されるらしいので、軽めの仕事にしようと決めていた今日にはちょうどいい。
依頼票を持って受付へ向かうと、今日は淡い金色の髪を後ろでまとめた二十代後半くらいの女性が座っていた。船具工房の仕事を受けた日に対応してくれた人だ。
「東干し場ですね」
「魚を干すところです?」
「そうです。今日は棚の入れ替えが中心ですね」
「魚触ります?」
「触ります」
「匂いつきます?」
「つきます」
「やっぱり」
「嫌なら別の依頼にします?」
「いえ。朝食べた魚がどう作られてるのか気になったので」
「食べてから働きに行くんですか」
「逆よりいいかなって」
「どうでしょうね」
受付の女性は依頼票へ印を押し、作業用の上着は現地で借りられることと、干し具合を自分で判断して棚を動かさないよう注意してくれた。見れば分かるものではないのかと聞くと、それを判断する人がちゃんといるらしい。
ギルドを出て東側の干し場へ向かうと、魚市場よりさらに海寄りの一角に、背の低い建物と広い空き地が並んでいた。近づくにつれて魚の匂いが強くなっていくが、市場の生魚とは少し違い、塩と乾いた海藻を混ぜたような匂いがする。
干し場には木で組まれた長い棚が何列もあり、細長い魚や開いた魚が一定の間隔で並べられている。棚の一部には布屋根が付き、別の場所には壁のある小屋もあった。
「ギルドの人?」
声をかけてきたのは、四十代くらいの女性だった。
濃い茶色の髪を短く切り、腰には小さな木札を何枚も下げている。腕まくりした袖から見える肌は日に焼けていた。
「ミサキです」
「私はサーナ。今日は棚替えと選別の補助。魚を勝手に食べないでね」
「食べませんよ」
「前にいたんだよ」
「いたんだ……」
「干してる途中のやつを味見だって」
「お腹壊しそう」
「壊した」
「でしょうね」
サーナの隣には、十代後半くらいの少年がいた。明るい茶色の髪を短く刈り、鼻の上にそばかすがある。
「リク。ここの見習い」
「よろしくお願いします」
「冒険者なのに魚干すの?」
「冒険者だから何でもやるんです」
「魔物倒すんじゃないの?」
「毎日倒してたら疲れます」
「そうなんだ」
「そうなんです」
貸してもらった薄い作業着を普段の服の上から着て、最初に今日扱う魚の説明を受けた。
種類は《細刃魚》《平尾魚》《赤腹小魚》の三つで、朝に食べた細刃魚は頭と内臓を取ったあと塩水へ短時間漬け、細い棒へ何匹かずつ通して干す。《平尾魚》は以前腹焼きを食べた魚と同じ種類で、こちらは開いてから塩を振り、《赤腹小魚》は手のひらより小さいものを丸のまま乾かして出汁や酒のつまみにするという。
「同じ干し魚でも全然違うんですね」
「魚が違うからね」
サーナが答える。
「全部しっかり乾かせば長持ちするんじゃないんです?」
「長持ちはするよ。味は落ちるけど」
「乾かしすぎも駄目?」
「何に使うか次第。船に長く積むなら乾かす。街ですぐ食べるなら少し柔らかい方がうまい」
「保存食だから、とにかく長持ちすればいいわけじゃないんだ」
「売るものだからね。まずいの作ってどうするの」
「もっともです」
最初の仕事は、朝まで小屋の中に入れてあった棚を外へ出すことだった。
棚そのものはそれほど重くないが、魚が並んでいるので傾けないよう二人で運ばなければならない。私はリクと組み、木枠の両端を持った。
「ゆっくりね」
「はい」
「落としたら怒られる」
「それは分かります」
「俺、一回落とした」
「怒られました?」
「すごく」
「じゃあ慎重に行こう」
「うん」
空き地へ棚を並べると、サーナが一枚ずつ木札を確認していく。
木札には魚の種類、塩へ漬けた時間、干し始めた日、それから用途を示す印が付いていた。青は街売り、赤は船積み、白は料理屋向けで、料理屋の中には干し具合まで指定して注文する店があるらしい。
「そんな細かいんだ」
「酒場とか食堂は味にうるさいからね」
「食べる側としてはありがたいです」
「飲むの?」
「好きです」
「顔に出てる」
「どこに?」
「料理屋って聞いたとき」
料理屋と聞いただけで反応していたらしいので、否定はできなかった。
午前中は棚を出し、干し具合を確認した魚を別の場所へ移していく。私たちは判断をせず、サーナが「こっち」「まだ」「小屋」と指示したものを動かすだけだが、何度も見ているうちに、同じ細刃魚でも表面の色や身の硬さが少しずつ違うことに気づいた。
「これ、こっちの方が乾いてますよね?」
二つの棚を見比べて聞く。
「そうだね」
「同じ日に干したって札ですけど」
「場所違ったから」
「場所?」
「昨日、こっちは風がよく通った。そっちは昼から日陰」
「そんなに変わるんだ」
「変わるよ。だから日数だけじゃ決めない」
魚市場で「朝に獲れた魚だから全部同じではない」と教わったときと少し似ている。時間だけで決めず、その間にどう扱われたかを見るらしい。
「また同じようなこと教わってる気がする」
「何?」
「時間だけ見ても駄目って話です」
「そりゃそうでしょ」
「こっちの人には普通なんですよね」
「干し場ではね」
近くではリクが《赤腹小魚》の棚を確認していた。表面だけを見て「もういい」と言ったところ、サーナから腹の部分も触るよう言われ、まだ柔らかいことに気づいて棚を戻している。
自分が干し魚の出来を判断する機会が今後どれだけあるのかは分からないが、少なくとも見た目だけで決めないということくらいは覚えておいて損はなさそうだった。
昼前になると風向きが少し変わり、サーナが空を見てから、いくつかの棚を布屋根の下へ移すよう指示した。
「雨です?」
「降らないと思うけど、湿った風来てる」
「湿気も駄目なんだ」
「乾かしてるんだからね」
「それはそうか」
午前中に外へ出した棚の一部を、今度はまた屋根の下へ戻す。
「せっかく出したのに」
私が言うと、リクが笑った。
「よくあるよ」
「仕事が戻ってる感じする」
「魚が戻ってるだけ」
「うまいこと言った?」
「別に」
前の世界で、完成したと思った資料に修正が入って作業が戻ってきたときはかなり嫌だったが、これは少し違う。魚を乾かすことが目的なので、外へ出し続けること自体には意味がなく、湿った風が来るなら戻す方が正しい。
手順を最後まで進めることより、目的に合った状態へ持っていく方が大事なのだろう。
「最近、仕事から真面目なことばっかり教わってるなぁ」
「何か言った?」
「独り言です」
昼になると干し場の裏にある休憩小屋へ移り、厚めの薄焼きパンに白豆と刻んだ浜菜を挟んだものと、《赤腹小魚》で出汁を取った根菜の汁物が支給された。
「干し魚そのものじゃないんだ」
汁を一口飲むと、魚の姿はほとんど残っていないのに、かなりしっかりした旨味がある。塩味は薄く、黄根と白根の甘さが出ていた。
「赤腹は出汁にする店多いよ」
サーナが向かいに座る。
「朝は細刃魚そのまま食べました」
「それも普通」
「焼かなくても食べられるんですね」
「干す前に塩入ってるし、食べられるように作ったやつならね」
「全部?」
「全部なわけないでしょ」
「ですよね」
「干し方も魚も違うんだから、分からなかったら聞きな」
「昨日も似たようなこと言われました」
「誰に?」
「酒場の人」
「酒場で何聞いてるの?」
「貝の話です」
「よく食べてるね」
「働いてますから」
「理由になってる?」
「私の中では」
干した魚なら何でもそのまま食べられるわけではない。考えてみれば当たり前なのに、朝食で一種類そのまま食べた途端、全部そうなのかと考えてしまった。
セルナへ来てから何度も「一つ覚えて全部に当てはめない」と思っているのに、癖というものは簡単には直らないらしい。
昼食のあと、もう一度だけ棚を確認して今日の仕事は終わった。湿った風が残っているため午後は干し場の人たちだけで細かな調整をするらしく、サーナから完了票を受け取る。
「これで終わり?」
「終わり。ギルドにこれ出して」
「千四百ゴールドですよね」
「そう」
「思ったより早かった」
「今日は風変わったからね」
「早く終わっても減らない?」
「決められた棚替え終わってるから減らないよ」
「昨日も同じようなことあったなぁ」
「何?」
「仕事って時間いっぱいまでやればいいわけじゃないんだなって」
「当たり前じゃない?」
「会社員だった頃は時間までいるのも仕事みたいなところあったので」
「カイシャイン?」
「昔の仕事です」
「変な仕事だね」
「否定できません」
借りていた作業着を返すと、自分の服にも少し魚と塩の匂いが移っていた。
「やっぱり匂いついた」
「言ったでしょ」
「夜までに取れるかな」
「取れなかったら魚屋だと思ってもらえば?」
「冒険者です」
「今日は魚干してたじゃん」
「それもそうか」
ギルドへ戻って完了票を提出し、千四百ゴールドを受け取った。昼食は支給だったので、今のところ今日の出費はない。
《潮窓の宿》へ戻って六泊目となる宿代三百五十ゴールドを払うと、宿の女性が硬貨を受け取りながら私の服へ鼻を近づけるようにした。
「干し場?」
「分かります?」
「分かる」
「そんなに?」
「慣れてるから」
「夜、酒場で嫌がられないかな」
「そのくらいなら平気でしょ。港だよ」
「便利な街だ」
「褒めてる?」
「かなり」
部屋へ戻って服を替え、仕事着代わりにしている服を水で軽く洗う。完全に匂いが消えたかは分からないが、少なくとも朝から着続けるよりはましだろう。
今日の報酬千四百ゴールドから宿代三百五十を引けば千五十残る。昼食代はかかっていないので、夜予算は六百ゴールドにした。昨日より報酬は低いものの、仕事も昼過ぎまでで終わっているし、六百使っても四百五十残るなら十分だった。
少し休んでから外へ出ることにしたが、今日は朝から干し魚を食べ、仕事でもずっと干し魚を見て、昼の汁にも干し魚の出汁が使われていたので、夜くらい魚以外でもいい気がする。
「夜くらい魚以外にしようかな」
そう思いながら歩き始めたものの、絶対に魚を避けると決めるつもりはなかった。数日前にも似たようなことをして、結局どこかで魚とつながったのだから、今夜も食べたいものを見つけたらそれにすればいい。
干し場から少し離れた東側の通りを歩く。
一軒目は魚串中心だったので通り過ぎ、二軒目はかなり混んでいた。三軒目は煮込みの匂いが良かったが、品書きの値段が少し高く、六百ゴールドでは酒と二品を頼むと厳しそうだった。
さらに一本細い通りへ入ったところで、細長い魚と酒杯が描かれた小さな木札を見つける。
《乾波亭》
「干し魚かぁ」
夜くらい別のものにしようと思った直後なのに、今日一日をそのまま続けるような店を見つけてしまった。
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《乾麦酒 百二十ゴールド》
《白果実酒 百三十ゴールド》
《細刃魚の炙り 百二十ゴールド》
《赤腹小魚と豆の香草炒め 百三十ゴールド》
《平尾魚の干し身ほぐし 百四十ゴールド》
《燻し肉と白根の温皿 百五十ゴールド》
《黄根と浜菜の酢和え 七十ゴールド》
《黒麦薄焼き 五十ゴールド》
「肉もある」
干し魚専門というわけではなさそうだ。
何より《細刃魚の炙り》が気になった。朝にそのまま食べたものを、夜には炙って食べる。同じ食材の違いを比べるのも悪くない。
「今日はそういう日ってことで」
扉を開けると、店内は細長く、カウンターが九席と壁際に小さな卓が二つあった。天井からは乾燥させた香草が束になって下がり、奥の小さな炭台から香ばしい匂いがしている。
「いらっしゃい」
店主は四十代半ばくらいの男性だった。薄い茶色の髪を短く刈り、顎に少しだけ髭がある。左手には厚い布手袋を着け、炭台の魚を返していた。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主はケルドというらしい。
席へ座り、もう一度品書きを見る。
「軽麦酒と、細刃魚の炙りください」
「二百十ね」
夜予算六百に対して、最初の注文は二百十ゴールド。
軽麦酒は淡い黄色で泡は少なめだった。一口飲むと苦味は弱く、少し酸味があり、これまでセルナで飲んだ軽麦酒の中でもかなりさっぱりしている。
「干し魚に合わせて軽いんです?」
聞いてから、自分で少し笑ってしまった。
「何?」
ケルドがこちらを見る。
「最近、酒の味に理由を求めすぎるなって言われたので」
「これは干し魚に合わせてるよ」
「今日は当たった」
「何と勝負してるの?」
「自分です」
「面倒な客だな」
「すみません」
「別にいいけど」
ケルドによると、干し魚は塩気が強いものが多いため、この軽麦酒は苦味を抑え、酸味を少し残したものを選んでいるらしい。
「店で造ってるんじゃないんですね」
「酒屋から買ってる。何種類か試して決めた」
「それも合わせるって言うんだ」
「料理屋が全部酒造ってたら大変だろ」
「確かに」
少しして、《細刃魚の炙り》が出てきた。
朝に食べたものより大きく、一本をそのまま炭火で炙ってから斜めに切ってある。表面には軽く焦げ目が付き、横には黄色い実が半分添えられていた。
「その実、絞る?」
「最初そのまま食べてから決めます」
「好きにどうぞ」
一切れつまんで口へ入れると、朝の干し身とはかなり印象が違った。朝のものは硬く、噛んでいるうちに味が出てきたのに対し、炙った細刃魚は表面が少し柔らかくなり、温められた脂の香りが強く出ている。
「全然違う」
「朝も食べたの?」
「宿で」
「そのまま?」
「はい」
「朝ならその方が楽だな」
「夜は?」
「酒飲むなら炙った方が香り出る」
「なるほど」
黄色い実を少し絞ってもう一切れ食べると、酸味で塩気が軽くなった。そこへ軽麦酒を飲めば、魚の脂と塩が一度流れ、また次を食べたくなる。
前の世界でも、干物を焼いたときの匂いは食欲を誘った。けれどこちらの細刃魚は日本で食べていた開き干しとは違い、細長い身をそのまま乾かしているため、噛み応えも塩気もかなり強い。
「朝、そのまま食べられるって聞いて驚いたんです」
「食べられるよ」
「干した魚って、焼かなくても食べられるんですか?」
「物による」
「今日それ何回目だろう」
「何が?」
「物によるって答え」
「便利だからな」
「便利というか、たぶん正しいんですよね」
隣の席から笑い声がした。
座っていたのは五十代くらいの女性で、濃い緑色の上着を着ている。髪は黒に近い灰色で、後ろに低くまとめられていた。
「魚なんて種類多いんだから、全部同じなわけないでしょ」
「今日、干し場でも言われました」
「東?」
「はい」
「サーナのとこ?」
「また知り合いだ」
「私は魚運んでるからね」
女性はエダと名乗った。朝に港へ入った魚を市場や加工場、干し場へ運ぶ荷車の仕事をしているらしい。
「今日、細刃魚運んだよ」
「もしかしたら見てるかも」
「見てても分からんでしょ」
「分からないですね」
「じゃあ同じだ」
「何が?」
「見たかどうかなんて」
「確かに」
細刃魚の炙りを半分ほど食べたところで、会計はまだ二百十ゴールド、腹も五分ほどなので、もう一品は無理なく入る。
品書きの《赤腹小魚と豆の香草炒め》百三十ゴールドが気になった。昼に出汁として食べた赤腹小魚を、今度は身ごと食べる料理らしい。
「赤腹小魚と豆の香草炒めください」
「はいよ」
これで三百四十ゴールドとなり、夜予算六百には二百六十残る。
今日の予定外の一品が運ばれてくると、浅い木皿の上に小さな赤腹魚と白豆が混ざり、細かく刻んだ緑の香草がたっぷり振られていた。
「骨あります?」
「ある。丸ごと食える」
「硬くない?」
「しっかり干した小さいやつだから大丈夫」
木匙ですくい、白豆と一緒に食べてみる。
赤腹小魚は表面が少しぱりっとしているが、噛むと骨まで簡単に崩れた。魚の味は細刃魚より強く、白豆の甘さと香草の青い匂いが加わることで、塩気の強さはそれほど気にならない。
「昼はこれの出汁でした」
「じゃあ今日は赤腹の日だな」
エダが言う。
「朝は細刃魚だったので、干し魚の日かもしれません」
「夜も干し魚の店選んでるし」
「別のもの食べようと思ってたんですけど」
「自分で入ったんでしょ」
「そうなんですよね」
朝に干し魚を食べたから仕事を選び、仕事で干し魚を見たから夜は違うものにしようと思い、それなのに結局《乾波亭》へ入っている。嫌なら避ければいいのだから、たぶん私は普通に干し魚が気に入っているのだろう。
「乾麦酒ってどんなのです?」
ケルドに聞く。
「麦の香り強め。少し甘い。干し魚の炒め物なら合うよ」
「百二十ですよね」
「そう」
頼めば合計四百六十ゴールドとなり、予算には百四十残る。
「ください」
出てきた乾麦酒は軽麦酒より濃い琥珀色で、泡は細かく、香りを嗅ぐと焼いた麦のような甘さがある。一口飲めば最初に麦の甘味が来て、そのあとに軽い苦味が残った。
「これ、濃いけど重くない」
「干し物は噛むからね。酒まで重いと疲れるって客が多い」
「噛むから酒を軽くするんだ」
「そういう店もある」
「また全部の店に当てはめないようにします」
「誰もそこまで言ってない」
「最近の課題なんです」
エダが横で笑っている。
赤腹小魚と豆の香草炒めを食べ終える頃には腹は八分ほどまで満たされ、会計は四百六十ゴールド。夜予算六百には百四十残っているので、《黄根と浜菜の酢和え》七十、《黒麦薄焼き》五十、白果実酒百三十のどれを頼んでも予算内だが、もう一皿食べたいというほどではない。
「今日はここまでにします」
「まだ飲めそうだけど」
エダが言う。
「飲めるのと飲みたいのは違うので」
「若いのにちゃんとしてるね」
「最近覚えました」
「前は?」
「予算余ってたら何か頼もうかなって考えてました」
「今も品書き見てたじゃん」
「見るのは無料です」
「それはそうだ」
残っていた乾麦酒をゆっくり飲み切ってから会計を頼む。
「四百六十」
ケルドへ硬貨を渡した。
今日の報酬は千四百ゴールドで、宿代が三百五十、夜が四百六十、昼は支給だったので五百九十ゴールド残る。六百ゴールドまで使うつもりだった夜予算も百四十余った。
「今日は結構残ったな」
「何の話?」
ケルドが聞く。
「今日の稼ぎです」
「毎日計算してるの?」
「しないと飲みすぎそうなので」
「酒の量?」
「お金の方です」
「そっちか」
「酒も気をつけてます」
「今、付け足したでしょ」
「気のせいです」
店を出ると、昼に感じた湿った風は消え、乾いた海風が細い通りを抜けていた。
朝はそのままの細刃魚を食べ、昼には赤腹小魚の出汁を飲み、夜は細刃魚を炙り、赤腹小魚を豆と炒めて食べた。同じ「干し魚」でも、種類や干し方、使い道が違えば、味も食感も食べ方も変わる。
前の世界にいた頃の私は、干物と聞けば焼いて食べるものを最初に思い浮かべていた。それが間違いだったわけではなく、単に私が知っていた食べ方が一つだっただけなのだろう。
干し場でも、何日干したかだけではなく、風や日差し、魚の種類、最後にどう食べるのかまで見ていた。何でも一つの決まりにまとめて覚えるより、細刃魚はこう、赤腹小魚ならこう、と少しずつ具体的に知っていく方が、私には合っているのかもしれない。
港へ続く通りを歩きながら、朝に食べた細刃魚の硬さと、夜に炙って食べたときの香りを思い出す。
セルナへ来て六日目になっても、まだ知らない食べ方はいくらでもある。
それでも、朝に食べた干し魚を夜には酒のつまみとしてもう一度楽しめたのだから、今日覚える分としては、それくらいで十分だった。




