第45話「船に乗らない仕事って聞いたんですけど」
セルナで迎える五度目の朝、目を覚ました私は窓の外から聞こえてくる船鈴の音を聞きながら、そろそろこの音にも慣れてきたなと思った。
初日に《潮窓の宿》へ泊まったときは、朝から鳴る鐘のような音が気になって窓を開け、どの船が鳴らしているのか探した覚えがある。それが五日目ともなると、目覚まし時計ほどではないにしても、鳴っていること自体を不思議に思わなくなっていた。
昨日は西外浜で浜菜を採り、半日の仕事で千二百ゴールドを稼いだ。昼食に百ゴールド、《潮窓の宿》の宿代に三百五十ゴールド、夜は《殻灯屋》で浜貝の炭焼きや小青貝と白豆の油焼きを食べて五百二十ゴールドだったので、昨日の稼ぎだけでも二百三十ゴールド残っている。それ以前の稼ぎも財布には残っているため、セルナへ来た当初よりむしろ余裕は増えていた。
「五日いるとは思わなかったなぁ」
最初は護衛仕事で来ただけだった。
魚がおいしそうだから一泊くらいしてもいいと思い、《波籠亭》へ入り、翌日は魚市場で働いた。その次は船具工房、昨日は浜菜採取と続き、気づけば四泊している。
リーベルへ戻る理由がないわけではない。《銀鈴の宿》には荷物を少し預けているし、冒険者としての拠点もあちらだ。それでも今日すぐ帰らなければならない用事があるわけではなく、財布にも余裕がある。
「今日一日くらいなら、まだいいか」
この台詞を何日続けるつもりなのかは自分でも分からないが、とりあえず今日のところはセルナで働くことにして、寝台から降りる。昨日より軽くなった腰を伸ばしてから一階の食堂へ向かった。
今朝の朝食は、黒麦の薄焼きパン、黄根と白豆の温かい煮込み、それから小さな燻し肉が二切れだった。昨日の朝は平浜貝が出てきたが、今日は海のものが一つもない。
「毎日魚じゃないんですね」
料理を運んできた宿の女性へ言うと、呆れたように見られた。
「まだ言ってるの?」
「確認です」
「市場で肉が安かったから今日は肉」
「本当に普通なんだなぁ」
「何が?」
「港町の朝ごはん」
「普通じゃなかったら毎日困るよ」
「観光で来る人と住んでる人って違いますね」
「あなた、観光なの?」
「仕事です」
「じゃあ働きな」
「はい」
まったくその通りだったので、朝食を食べ終えると《潮窓の宿》を出た。
昨日ほど風は強くなく、空も晴れている。通りでは魚籠を積んだ荷車と木箱を積んだ荷車がすれ違い、その横を朝食用らしいパンを抱えた子どもが走っていった。
セルナの冒険者ギルドへ着くと、依頼板の前にはすでに何人か集まっていた。
今日は身体の疲れもかなり抜けているので、半日仕事に限定する必要はない。ただ、昨日まで海辺や船具工房の仕事をしてきたので、できれば少し違うものを選びたい。
《第二埠頭・荷車誘導 報酬千五百ゴールド》
《北倉庫・空樽洗浄 報酬千四百ゴールド》
《西塩倉庫・袋詰め補助 報酬千五百ゴールド》
《南船渠・清掃補助 報酬千六百ゴールド》
《東魚市場・冷石箱運搬 報酬千七百ゴールド》
《港内小舟・係留確認補助 報酬千八百ゴールド》
一番下にある《港内小舟・係留確認補助》が少し気になった。報酬は千八百ゴールドで、仕事内容は港内に係留されている小型船の縄と札を確認し、必要なら指定されたものを交換する補助作業らしい。
船具工房で縄は見たが、実際に船へ使われているところはまだ見ていない。ただし、一つだけ確認しておきたいことがあった。
「これ、船乗ります?」
依頼票を持って受付へ向かう。
今日の受付は、三十代くらいの男性だった。短い黒髪に青い石の耳飾りを付けているので、魚市場の依頼を受けた二日目にも対応してくれた人だ。
「港内小舟ですか?」
「はい。船に乗ります?」
「基本的には岸からの確認です。一部、浮き桟橋を使います」
「船には?」
「乗らない予定です」
「予定」
「何かあれば乗ることもあります」
「その言い方怖いなぁ」
「船酔いします?」
「分かりません」
「乗ったことない?」
「ちゃんとした船はないです」
「港の中だけなら大きく揺れませんよ」
「じゃあ、これにします」
「千八百ゴールド。一日仕事、昼食支給です」
「お願いします」
受付の男性が依頼票へ印を押したあと、濡れる可能性があるので替えの靴下を持っていくと便利だと教えてくれた。雨の予定はないらしいが、「海ですから」と言われれば、何となく納得するしかない。
一度宿へ戻るほどではなかったので、近くの雑貨屋で安い布靴下を一足買った。一足四十ゴールドだったので仕事前の出費としては少し痛いものの、一日濡れた靴下で歩き回るよりはいい。
指定された集合場所は、港の中央より少し西側にある管理小屋だった。
近づくにつれて船の数が増え、大型の商船だけではなく、二、三人で扱うような小舟も多く見える。岸には太い係留縄が何本も張られ、その間を港の作業員が行き来していた。
「ギルドから?」
管理小屋の前で声をかけてきたのは、四十代後半くらいの男性だった。
短い灰茶色の髪に日に焼けた顔、左耳の下には古い切り傷がある。身体は細いが、前腕だけが妙に太かった。
「ミサキです」
「俺はハイゼ。今日は港内の小舟を見て回る。勝手に縄触るなよ」
「見る仕事じゃないんです?」
「見る。悪いのがあったら交換する。でも、どれが悪いか俺が決める」
「分かりました」
「縄知ってる?」
「一昨日、北船具工房で運びました」
「ガレスんとこか」
「セルナ、みんな知り合いですね」
「港で働いてりゃな」
昨日も似たようなことを聞いた気がする。
ハイゼのほかに、もう一人作業員がいた。二十代後半くらいの女性で、日に焼けた頬にそばかすがあり、黒髪を頭の高い位置で束ねている。
「私はフィナ。落ちそうになったら私じゃなくて手すり掴んでね」
「助けてくれないんです?」
「一緒に落ちたら二人濡れるじゃん」
「合理的」
「泳げる?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「最後に泳いだの、かなり前なので」
「落ちないでね」
「そうします」
最初に確認したのは、岸へ直接つながれている小舟だった。
船首から伸びる縄を見て、表面の毛羽立ちや油の抜け具合、結び目の位置を確認する。一昨日までの私なら、縄を見ても太いか細いかくらいしか分からなかっただろう。それが船具工房で一日働いただけで、赤い処理紐が付いた油縄や、係留用の三つ結びが自然と目に入る。
「これ、三つ結び」
思わず言う。
ハイゼが振り返った。
「知ってるじゃん」
「運んだだけですけど」
「運んだなら見てるだろ」
「そのときは、こんなにすぐ役に立つと思ってませんでした」
「仕事なんてそんなもんだ」
一本目と二本目には特に問題がなく、三本目へ移ったところで、表面の一部が白く毛羽立った縄が見つかった。
「これ駄目です?」
「まだ使える」
「結構傷んで見えますけど」
「外側だけだ。中まで切れてない」
「見ただけで分かるんです?」
「触れ」
ハイゼに言われ、縄の毛羽立った部分を指で押す。表面はざらついているが、芯の部分にはしっかり硬さが残っていた。
「本当に中は固い」
「毛羽立ったら全部捨ててたら金なくなるぞ」
「船具工房でも似た話聞きました」
「使えるもんは使う」
「セルナの人、物を捨てないですね」
「どこの街でもそうだろ」
「確かに」
前の世界でも、仕事道具を傷一つで全部交換する会社ばかりではなかったはずだ。知らない土地へ来ると何でもその土地特有の文化に見えてしまうが、よく考えれば単に普通の生活の工夫ということも多い。
午前の半ばまでは順調だったが、浮き桟橋へ移ってから少し事情が変わった。
岸から木板を渡って浮き桟橋へ下りる。足元は思ったより安定していたので、これなら大丈夫そうだと思った直後、横を大きな船が通り、少し遅れて波がやってきた。
「うわっ」
ほんの少しなのに、地面そのものが上下する感覚は想像以上に気持ち悪い。
「これ、揺れてますよね?」
私が手すりを掴むと、フィナが笑った。
「浮いてるからね」
「船じゃないですよね?」
「桟橋」
「船みたいに揺れるんですけど」
「浮いてるから」
「同じ答え二回言った」
そのまま数歩進んだところで、また波が来た。
「待って」
「酔った?」
「まだ分からない」
「顔ちょっと白いよ」
「気のせいです」
「無理すんなよ」
ハイゼが言う。
「大丈夫です」
「大丈夫なやつは手すりそんな握らん」
自分でもそう思ったので、少し足を止めて遠くの倉庫や船の帆を見る。前の世界で、乗り物酔いしたときは近くを見続けない方がいいと聞いた覚えがあり、正しいかどうかは分からないが、少なくとも足元ばかり見ているときよりは楽だった。
「ちょっと平気になった」
「じゃあゆっくり行くぞ」
浮き桟橋の先には小舟が六艘つながれており、一艘ずつ札と縄を確認していく。
四艘目の係留縄は、表面だけでなく一部が潰れて細くなっていた。
「これは?」
「交換」
ハイゼが即答した。
「違い分かる?」
「さっきのは毛羽立ってても中が固かった。これは……」
触ってみると、先ほどの縄とは違って芯の部分まで少し柔らかい。
「中まで柔らかい?」
「芯が傷んでる」
「なるほど」
古い縄を外し、新しいものへ交換することになり、私は新しい縄束を持ってフィナのところまで運んだ。
「じゃ、乗って」
「え?」
「船側の輪に通すから」
「船に乗らない仕事って聞いたんですけど」
「予定ではね」
「受付の人と同じこと言ってる!」
「三歩だけ」
「三歩でも船は船ですよね?」
「嫌なら私やるよ」
フィナが言う。
別に嫌というわけではない。ただ、人生で初めてまともに船へ乗るのが、観光でも移動でもなく係留縄の交換作業になるとは思っていなかった。
「やります」
「じゃあ足元見て」
小舟の縁を跨いで片足を乗せた瞬間、船が少し沈み、そのままもう片方の足を入れると浮き桟橋よりさらに大きく揺れた。
「動いた」
「そりゃ動くよ」
「分かってるけど」
「もう乗ってるから、次は縄」
「はい」
フィナから縄を受け取り、指定された輪へ通す。作業自体は難しくないが、足元が動いているだけで普段より余計に集中力を使う。
「通しました」
「戻っていいよ」
「本当に三歩くらいだった」
「嘘じゃなかったでしょ」
「船に乗らないは嘘だった」
「予定だったから」
浮き桟橋へ戻った瞬間、そちらが地面のように安定して感じられた。実際にはまだ揺れているのだから、人間の感覚はかなり適当らしい。
昼前までに予定していた半分を確認し、管理小屋へ戻った。
支給された昼食は、丸い黒麦パンに燻し肉と浜菜を挟んだもの、それから薄い豆汁だった。
「魚じゃない」
私が言うと、フィナが首を傾げた。
「何?」
「セルナ来たばっかりの頃、港町なら毎食魚みたいなイメージあったんです」
「毎日魚でも私は困らないけど」
「好きなんです?」
「好き。でも肉も食べる」
「普通ですね」
「何だと思ってたの?」
「港町の人」
「だから普通だよ」
このやり取りも、もう何度目か分からない。
黒麦パンを食べながら、ハイゼが午後の作業について説明する。
「午後は南側。風出たら途中で切る」
「雨じゃなくても?」
「風強いと小舟動くからな」
「依頼全部終わらなくても?」
「事故るよりいい」
昨日、西外浜でレナから「足りなくても戻る」と言われたばかりだった。
「セルナの仕事、途中でやめる判断多いですね」
「海相手なら普通だ」
「リーベルだと、仕事って終わるまでやる感じだったので」
「倉庫の箱は逃げないだろ」
「海は?」
「待ってくれない」
その言い方は分かりやすかった。
前の世界でも、雨天中止や強風中止になる仕事はあった。会社員だった私は天候で仕事そのものを止める経験が少なかっただけで、外で働く人にとっては当たり前の判断なのだろう。
午後は南側の係留場所を回った。
昼前より風が少し出ていたため浮き桟橋は朝より揺れていたが、最初ほど怖くはない。午前中の経験がある分、足を少し広めに置き、膝を軽く曲げて立つとずいぶん楽だった。
「上手くなったじゃん」
フィナが言う。
「今日の朝よりは」
「明日には船乗り?」
「ならない」
「即答」
「私は冒険者です」
「似たようなもんじゃない?」
「全然違います」
五艘目を確認したところで、ハイゼが海の方を見た。
「ここまで」
「まだ三艘ありますよ」
「風上がる」
私には少し風が強くなった程度にしか感じられなかったが、ハイゼに言われて沖側の倉庫に立っている細長い旗を見ると、午前より大きく横へ流れている。水面にも細かな波が増えていた。
「戻るぞ」
「依頼は?」
「明日に回す」
「報酬減ります?」
「今日は予定分やった。減らん」
「なら戻ります」
「報酬減ったら残る気だった?」
「ちょっと考えたかも」
「残るな」
「はい」
昨日と同じことを言われている気がする。
籠をいっぱいにする必要はないと思った翌日に、今度は依頼を全部終わらせなくてもいいと言われるとは思わなかった。ただし、これは手を抜く話ではなく、その日の安全なところまできちんと働き、危なくなる前に切り上げるというだけだ。
管理小屋へ戻って使った縄と道具を片づける。買っておいた替えの靴下は結局使わなかったが、濡れなかったのだから、それはそれでいい。
「濡れなかった」
「残念?」
フィナが聞く。
「全然」
「せっかく買ったのに」
「四十ゴールドしたんですよ」
「次使えばいいじゃん」
「次?」
「またこういう仕事するかもしれないでしょ」
「仕事はするかもしれないけど、明日は分かりません」
「冒険者っぽいな」
「一応そうなので」
ハイゼから完了票を受け取り、ギルドへ戻ると、報酬は予定通り千八百ゴールドだった。
朝に靴下を四十ゴールドで買ったので、今日の仕事に関係する出費を引けば千七百六十ゴールド。昼食は支給されているため、あとは宿と夜の食事だけでいい。
《潮窓の宿》へ戻り、もう一泊分の三百五十ゴールドを払う。
「五泊目かぁ」
宿の女性がこちらを見る。
「まだいるの?」
「今日も言われた」
「いつ帰るの?」
「決めてません」
「部屋空いてるからいいけど」
「追い出さないでください」
「払ってるうちは追い出さないよ」
「安心しました」
今日の稼ぎから靴下代と宿代を引いても千四百十ゴールド残っているので、夜予算は七百ゴールドにした。一日仕事で、初めて船にも三歩だけ乗ったのだから、これくらい使ってもいいだろう。
部屋で少し休んでから外へ出る。
今日の夕飯を何にするかは、まだ決めていない。魚、肉、貝と続いたので何か違うものでもいいが、無理に違うものを探す必要もなく、歩いていて食べたくなったものにすればいい。
港の中央から少し西へ向かうと、仕事中にも通った辺りなのに、夕方になっただけで雰囲気がかなり変わっていた。昼は縄や木箱を運んでいた人たちが、今は酒場の前で立ち話をしている。
最初に見つけた店は魚の煮込みが中心で、次は肉串が多かった。どちらも悪くなさそうだったが、もう少し歩いてみる。
角を曲がったところで、焼いた穀物のような香ばしい匂いに、少し甘さの混じった香りが流れてきた。
「何だろ」
匂いを追っていくと、小さな店があった。
看板には、丸い鉄板の上に何か平たいものが描かれている。
《帆皿亭》
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《青果実酒 百三十ゴールド》
《船焼き 百四十ゴールド》
《塩肉船焼き 百八十ゴールド》
《小貝船焼き 百七十ゴールド》
《白豆と浜菜の温和え 九十ゴールド》
《骨出汁椀 百十ゴールド》
《酢根菜 六十ゴールド》
「船焼き?」
料理名だけでは何なのか分からないが、今日は船に乗った日でもあるので、名前だけで少し気になった。
「ここにしよう」
扉を開ける。
店内はカウンター八席と、小さな二人掛けの卓が三つ。奥には大きな丸い鉄板があり、薄い生地のようなものが何枚か焼かれている。
「いらっしゃい」
店主は三十代後半くらいの女性だった。
明るい茶色の髪を肩の上でまとめ、右腕には細い革紐を何本か巻いている。
「一人です」
「好きなとこ座って」
店主はユラと名乗った。
カウンターへ座り、品書きを指す。
「船焼きって何です?」
「見たまま」
「まだ見てないです」
「じゃあ頼んでみる?」
「商売上手」
「百四十だよ」
夜予算は七百ゴールドある。
「じゃあ軽麦酒と船焼きください」
「二百三十ね」
先に出てきた軽麦酒は淡い金色で泡は薄く、一口飲むと苦味はかなり弱い代わりに麦の甘さが少し強かった。
「甘めですね」
「鉄板もの塩強いからね」
「これは料理に合わせて?」
「半分」
「半分?」
「安定して入るのがこれ。ついでに合う」
「最近そういう答え好きです」
「何の話?」
「店の事情です」
全部が料理のために計算されているわけでもなく、全部が偶然でもない。仕入れや値段の都合があり、その中で店に合うものを選ぶという話は、昨日《殻灯屋》で聞いたことにも通じている。
やがて鉄板の上で焼かれていたものが皿へ乗せられた。
丸く薄い生地を半分に折った料理で、表面には焼き色が付き、中から白豆と刻んだ野菜が少し見えている。
「これが船焼き?」
「そう」
「何で船?」
「昔、船の上で焼いてたから」
「船で鉄板使うんです?」
「小さい焼き板。火が使える船だけだけどね」
「なるほど」
木匙ではなく手で食べるらしいので、端を持ってかじる。
外側の生地は薄いが、焼かれた部分は少し硬く、内側は柔らかい。中には潰した白豆、細かく刻んだ浜菜、それから黄根が入り、塩と香草で味が付けられている。
「おいしい」
「でしょ」
「思ったより普通の味」
「何期待してたの?」
「船って付いてるから、もっと魚とか入ってるのかと」
「入れたいなら小貝の頼めばいい」
「船の料理だから魚って考えるの、まだ抜けてないなぁ」
「何?」
「こっちの話です」
前の世界で言えば、薄いお好み焼きとクレープの間のようにも見えるが、味はどちらとも違う。生地そのものは麦の香りが強く、中の白豆が腹にたまり、野菜の甘さが後から来る。
船の上で片手でも食べやすく、余った豆や野菜を包める料理として広がったらしい。
「今は陸でも食べるんですね」
「むしろ陸の方が多いよ」
「船料理なのに?」
「昔の名前だけ残ってる料理なんていっぱいあるでしょ」
「前の世界にもありそう」
「また遠いとこの話?」
「そうです」
船焼きをもう一口食べてから軽麦酒を飲むと、麦の甘さが白豆や野菜の素朴な味を邪魔せず、思った以上に相性がいい。
隣の席へ、同じ船焼きでも表面から肉の香りがする料理が運ばれてきた。
「それ、塩肉船焼きです?」
思わず聞くと、隣に座っていた四十代くらいの男性がこちらを見た。肩幅が広く、濃い灰色の作業着を着ている。
「そうだけど」
「おいしいです?」
「今来たばっかだよ」
「あ、すみません」
「一口目待て」
「はい」
男性がかじり、数回噛んでから頷いた。
「うまい」
「ありがとうございます」
「何で俺が感想言わされてんだ」
「気になったので」
「頼めばいいじゃん」
「今考えてます」
店主のユラが笑っている。
男性はロドという名前で、港の帆を修理する職人らしい。
「今日、船の係留確認してました」
「ハイゼのとこ?」
「本当にみんな知り合いだ」
「港狭いからな」
「船にも乗りました」
「そりゃ港だから」
「乗らない予定だったんです」
「落ちた?」
「落ちてません」
「ならいいじゃん」
「三歩だけですけど」
「乗船は乗船だな」
「ですよね」
一枚目の船焼きを食べ終えたところで腹具合を確かめると、まだ六分ほどで、もう一品なら無理なく入りそうだった。
現在の会計は二百三十ゴールドなので、塩肉船焼き百八十を追加しても四百十。夜予算七百には十分収まる。
「塩肉船焼きください」
「はいよ」
今日の予定外の一品が決まった。
今度の船焼きは先ほどより少し厚く、中には細かく裂いた塩肉と白豆、刻んだ黄根が入っている。
一口食べると、最初に塩肉の強い旨味が来た。
「こっちは酒進む」
「だから軽麦甘めでも合うでしょ」
ユラが言う。
「本当だ」
塩気を麦の甘さが少し和らげてくれる。
塩肉だけでは強すぎる味を白豆と生地が受け止めているところは、以前食べた塩豚と白豆の煮込みにも少し似ている。ただし煮込みでは汁へ溶けていた塩気が、こちらでは噛んだ瞬間にはっきり来る。
「船の上って、こういうの食べるんです?」
「昔はね。今はもっと保存の利くもの持ってく船も多いよ」
「じゃあこれも昔の港料理?」
「元はね」
「今の人は?」
「仕事帰りに食べる」
ロドが自分の船焼きを持ち上げた。
「俺、船乗らんし」
「帆を直すのに?」
「陸で直す」
「港の仕事って船に乗らない人の方が多いのかな」
「数えたことない」
「ですよね」
朝、自分も「船に乗らない仕事」だと思って依頼を選んだ。
実際には三歩だけ乗ることになったが、港で働いているからといって全員が船乗りというわけではない。魚市場で働く人、縄を作る人、浜菜を採る人、帆を直す人、荷車を引く人、酒場で船焼きを作る人がいて、海のそばで暮らしているというだけで仕事まで一種類になるはずがない。
「濃麦酒ください」
塩肉船焼きを半分ほど食べたところで注文した。
「百二十ね」
これで合計五百三十ゴールドとなり、夜予算七百には百七十残る。
濃麦酒は黒に近い茶色ではなく、赤みのある濃い琥珀色だった。香りは軽麦酒より強く、口へ含むと麦の甘さのあとに少し焦がしたような苦味が来る。
塩肉船焼きと合わせると、肉の塩気に負けず、後味だけを少し苦く切ってくれた。
「これもいい」
「今日はよく食うね」
ユラが言う。
「一日仕事だったので」
「何したの?」
「小舟の係留確認」
「じゃあ腹減るか」
「船にも乗りました。三歩」
「三歩?」
「重要です」
「何が?」
「初乗船です」
「それで船焼き二枚食べてるの?」
「言われてみれば船ばっかりだ」
ロドが笑う。
「船乗りになる日だったんじゃないか?」
「なりません」
「即答だな」
「今日だけで十分です」
塩肉船焼きを食べ終えたところで腹は八分を少し超えており、これ以上料理を追加しなくても十分満足できそうだった。
会計は五百三十ゴールドで、予算には百七十残っている。《白豆と浜菜の温和え》九十、《骨出汁椀》百十、《酢根菜》六十ならどれも頼えるが、船焼きを二枚食べ、麦酒も二杯飲んでいる。
「今日はここまでかな」
「何が?」
ロドが聞く。
「予算余ってるけど、お腹いっぱいなので」
「そりゃ食わなくていいだろ」
「最近それ覚えました」
「覚えるほどのことか?」
「私には必要だったんです」
残っていた濃麦酒をゆっくり飲み切ってから会計を頼む。
「五百三十」
ユラへ硬貨を渡す。
夜予算七百からは百七十ゴールド残った。今日は千八百ゴールドを稼ぎ、仕事用の靴下に四十ゴールド、宿代に三百五十ゴールド、夜に五百三十ゴールド。昼食は支給だったので、今日の稼ぎだけを見ても八百八十ゴールド残る。
「結構残った」
「何が?」
「今日の稼ぎ」
「いいことじゃない」
「はい。明日休んでも飲めます」
「そこ?」
「大事です」
「冒険者ってもっと装備とかに使うんじゃないの?」
「それも大事です」
「今ちょっと間があったぞ」
「気のせいです」
ロドがまた笑った。
「装備壊れてから泣くなよ」
「経験あります」
「あるのかよ」
以前、短剣の修理代を払って夜予算が三百ゴールドになった日のことを思い出す。あれ以来、装備の手入れ代まで全部飲み代へ回すことはしていない。たぶん。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「船焼き、おいしかったです」
「船乗りになったらまた食べな」
「なりません」
「そこだけは固いね」
店を出ると、夜の港から吹いてくる風は昼よりかなり弱くなっていた。仕事を切り上げたときには横へ大きく流れていた倉庫の旗も、今は少し揺れている程度だった。
今日の仕事では南側に三艘の小舟を残したまま確認を終えたが、それでも報酬は予定通り支払われた。最初は少し不思議だったものの、考えてみれば依頼の目的は「今日中に何が何でも全艘確認すること」ではなく、安全に港の船を管理することなのだろう。
前の世界で会社員をしていた頃は、途中までの仕事を残して帰ると妙に落ち着かなかった。メールを一通だけ返しておこう、資料のこのページまで直しておこうと続けているうちに、気づけば帰る時間が遅くなったこともある。
けれど、海の仕事では「あと少しだから」と無理をすることが事故につながる場合もある。
仕事を最後までやることと、無理をして最後まで残ることは同じではない。今日の居酒屋だって、七百ゴールドまで使えるからといって七百ゴールド使う必要はなく、船焼きを二枚食べ、麦酒を二杯飲んで満足したなら、そこで終わればいい。
それで仕事が中途半端になったわけでも、夕飯が物足りなくなったわけでもなかった。
港の方から船鈴が一度だけ鳴った。
朝にはもう慣れたと思った音なのに、夜に聞くと少し違って聞こえる。
船に乗らない仕事だと思っていたのに三歩だけ船へ乗り、その日の夜には船の上から生まれた料理を二枚も食べた。予定通りではなかったけれど、悪くない一日だった。
少なくとも、初めての乗船で海へ落ちず、船酔いもしなかったことだけは素直に喜んでおこうと思った。




