第44話「貝って、開かなかったらどうするんですか?」
セルナで迎える四度目の朝、目を覚ました私は寝台の上で身体を起こしながら、腰のあたりに残っている鈍い重さを確かめた。
昨日は《北船具工房》で一日中縄束を運び、報酬は千六百ゴールド。昼食は支給され、《潮窓の宿》の宿代三百五十ゴールドを払い、夜は《潮骨亭》で塩豚と白豆の煮込み、骨付き角兎の香草焼き、軽麦酒と黒麦酒を楽しんで五百八十ゴールドだったので、昨日の稼ぎだけでも六百七十ゴールド残っている。
最初にセルナまで来た護衛の報酬もまだかなり残っているため、財布の中身だけを考えるなら今日は休んでも困らない。それでも何もせず一日を過ごして夜だけ飲みに行くと、たぶん私は夕方になってから「今日何もしてないのに飲んでいいのかな」と余計なことを考える。
「働いたあとの方がおいしいんだよね」
別に酒を飲むために労働が必要なわけではないが、自分の場合はその方が一杯目に理由を付けやすい。
寝台から降りて腰を伸ばすと、痛いというほどではないものの、昨日の縄束がきちんと身体に残っている。
「今日は軽めにしよう」
そう決めて一階へ下りると、今朝の《潮窓の宿》の朝食は、薄焼きパンと白豆、それから細かく刻んだ貝と青菜を卵でまとめた焼き物だった。
「貝かぁ」
昨日は魚以外を選ぼうとして一日を過ごしたが、今日は特に海のものを避ける理由もない。魚ではなく貝ならちょうどいいと思いながら一口食べてみると、卵は少し固めに焼かれ、刻んだ貝には弾力があり、噛むたびに塩気のある旨味が出てきた。
「これ、何の貝です?」
近くを通った宿の女性に聞く。
「《平浜貝》。朝市場で安かったから」
「毎日朝に買うんです?」
「魚と貝はだいたいね。野菜と肉はまとめて買うこともあるけど」
「宿の朝食まで市場の値段で変わるんだ」
「安くておいしいもの使った方がいいでしょ」
「それはそう」
昨日は港町らしさが魚料理だけではないと知ったばかりだが、魚や貝が安い日には宿の普通の朝食にも自然に入ってくる。名物だから出しているというより、近くで手に入りやすく、その日に安く買えるから使っているという方が正しいのかもしれない。
朝食を食べ終えて宿を出ると、港から吹いてくる風は昨日より少し強かった。空は晴れているものの海の方には細い雲が流れ、通りを歩く人たちの服も少し厚く、荷車に掛けられた布が風を受けてばたばたと音を立てている。
冒険者ギルドへ着き、いつものように依頼板を見る。
《南貝加工場・殻運び 報酬千七百ゴールド》
《東干し場・海鳥追い 報酬千三百ゴールド》
《第三埠頭・積荷確認補助 報酬千五百ゴールド》
《北倉庫・空樽洗浄 報酬千四百ゴールド》
《西外浜・浜菜採取 報酬千二百ゴールド》
《中央荷場・荷札交換 報酬千四百ゴールド》
「まだある」
昨日見送った《南貝加工場・殻運び》が残っている。
報酬は千七百ゴールドなので悪くないが、腰に昨日の疲れが残っている日に「殻運び」という言葉は少し怖い。大きな袋を何十個も担ぐ仕事だったら、軽めにするという朝の決意が数分で消えることになる。
代わりに気になったのが《西外浜・浜菜採取》だった。
《西外浜・浜菜採取》
《報酬千二百ゴールド》
《半日》
《昼食なし》
《指定された三種のみ採取》
《潮位変化に注意》
《濡れてもよい靴推奨》
「半日で千二百なら十分かな」
宿代三百五十を払い、昼に百ゴールド前後、夜に五百から六百使ったとしても、今日の稼ぎだけで大きな赤字にはならないうえ、腰を休ませたい日にも半日仕事ならちょうどよさそうだった。
依頼票を受付へ持っていく。
今日の受付は四十代くらいの男性で、淡い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、首元に青い紐を巻いている。
「浜菜採取ですね。経験は?」
「薬草採取ならあります」
「それなら見本をよく見れば大丈夫です。ただし、薬草より場所に気をつけてください」
「場所?」
「潮が上がります」
「どのくらい?」
「作業場所によりますが、帰る道が消えるところもあります」
「それ先に大きく書いた方がよくないです?」
「《潮位変化に注意》と書いてあります」
「注意で済む感じじゃないですよね」
「案内役が付きますから、勝手に離れなければ大丈夫です」
「離れません」
受付で採取用の小さな籠と、三種類の見本札を渡された。
《浜青葉》
《潮黄草》
《白節菜》
最初の二つは、この数日で料理として名前を聞いたことがある。《浜青葉》は《波籠亭》の銀背魚の皮炙りに使われ、《潮黄草》は昨日《潮骨亭》で食べた角兎の香草焼きに使われていたので、自分がすでに食べたものを今日は採りに行くのだと思うと、少し面白くなってきた。
西外浜は、セルナの中心から歩いて半刻ほどの場所にあった。
港のように石で整備されておらず、低い岩場と砂地が続き、その間に緑の植物がまとまって生えている。海はすぐ近くまで来ており、波が引くたびに濡れた岩が光った。
「ギルドから来た人?」
案内役は三十代前半くらいの女性だった。
日に焼けた肌に短い黒髪で、膝下まである革靴を履き、腰には小さな刃物と縄を下げている。
「ミサキです」
「私はレナ。今日は浜青葉、潮黄草、白節菜。見本持ってる?」
「はい」
「じゃあ最初に一回、本物見るよ」
レナは岩の間へしゃがみ込み、細長い緑の葉を一本摘んだ。
「これが浜青葉。根元から抜かない。外側の葉だけ二枚か三枚」
「全部取らないんです?」
「また生えるから」
次に見せてもらった《潮黄草》は、昨日肉に付いていたものと同じ黄色がかった細い葉をしている。香りを嗅ぐと、青臭さの中に少し苦そうな匂いがあった。
「これ、昨日食べました」
「何に?」
「角兎」
「肉に合うね」
「魚にも?」
「使うよ。脂多い魚とか」
「昨日、肉用みたいに聞いたんですけど」
「料理する人次第じゃない?」
「また一つの使い方で覚えるところだった」
「何の話?」
「最近よくあるんです」
三つ目の《白節菜》は、岩の陰にまとまって生える白っぽい茎の植物だった。節の部分から折ると簡単に取れ、塩気のある汁が少し出る。
「これは生でも?」
「若いのは食べられる。太いのは煮る」
「どんな味?」
「薄い塩味。少しぬるっとする」
「海藻みたい」
「海藻じゃないよ。陸の草」
「海のすぐ横だけど」
「根は土にあるから」
見分け方を教わったあと、数人に分かれて採取を始めた。
薬草採取と似ている部分もあるが、足場はまるで違う。森なら根や石に注意するところを、ここでは濡れた岩と波を見なければならない。
少し沖側の岩へ浜青葉を取りに行こうとしたところで、レナから声が飛んだ。
「そこ、あと半刻で戻れなくなるよ!」
「そんな早く?」
「今日は上がるの早い!」
レナの声に慌てて安全な岩場まで戻り、少し前まで立っていた場所と海面を見比べる。
「海怖いなぁ」
「海は普通だよ。知らない人が怖い動きするだけ」
「耳が痛い」
「何かした?」
「今しそうでした」
浜青葉は必要な外葉だけを摘み、潮黄草は黄色が濃くなりすぎていない若いものを選ぶ。白節菜は太さごとに用途が違うため、指定された指二本分ほどのものだけを採った。
一緒に作業していたのは、五十代くらいの男性だった。名前はオルクといい、セルナの食堂や酒場へ野菜を卸す仕事をしているらしい。
「これ、居酒屋にも行くんです?」
「ほとんどな。浜青葉は魚屋、潮黄草は肉屋も買う。白節菜は汁物が多い」
「セルナで毎日使うんだ」
「毎日ってほどでもないけど、浜の味にはなるな」
「浜の味?」
「街の外で育てようとしても、同じ味にならん」
「土が違う?」
「土も風も。塩気もあるんじゃないかって言われてる」
同じ植物を別の場所で育てても、香りや苦味が弱くなるらしい。
前の世界でも、同じ野菜や果物でも産地で味が違うという話はよく聞いた。会社帰りにスーパーで野菜を買うとき、産地表示を見ることはあっても、その土地の風や土まで考えたことはほとんどない。
こちらでも何でも魔法で説明されるわけではなく、海風や土、水の違いが普通に料理の味へつながっているらしい。
「遠い土地でも、やっぱり産地ってあるんだなぁ」
「何?」
「こっちの話です」
「変なやつだな」
「最近よく言われます」
作業を続けているうちに、海面が少しずつ近づいてきた。
最初は歩いて渡れた岩の間に水が入り、細い流れができている。レナが時間を確認し、まだ籠がいっぱいになっていない人にも戻るよう声をかけた。
「足りなくても戻るよ! 欲張って残る方が損だから!」
その声を聞き、私は手にしていた潮黄草を籠へ入れて立ち上がった。
「あと少しでいっぱいなのに」
隣のオルクが言う。
「海に置いてかれるぞ」
「戻ります」
「それがいい」
ほんの少し前なら、報酬が決まっている仕事で籠の上まできっちり埋めた方が得だと思ったかもしれないが、帰り道が水に沈むなら話は別だ。採取量より無事に戻ることの方が大事なのは、考えるまでもない。
高い場所まで戻って振り返ると、さっきまで歩いていた岩の一部がすでに波の下へ隠れていた。
「本当に道消えた」
「言ったでしょ」
レナが笑う。
「注意って言葉じゃ足りないと思います」
「慣れれば分かるよ」
「慣れるまでが怖いんですよ」
集めた浜菜を種類ごとにまとめ、傷んだ葉や違う植物が混ざっていないか確認する。量も十分だったらしく、レナから完了票を受け取った。
「初めてなら上出来」
「途中で海に負けましたけど」
「勝とうとしなくていい」
「それ覚えときます」
セルナへ戻ってギルドへ完了票を出し、千二百ゴールドを受け取った。
まだ昼を少し過ぎた程度だったので、近くの露店で昼食を探す。朝から浜菜を摘んでいたせいか、今度は逆に葉っぱ以外のものが食べたかった。
見つけたのは、焼いた薄パンに豆と細かい燻し肉を包んだもので、一つ百ゴールドだったので、それを買って港の見える低い石壁に腰掛ける。
薄パンは端が少し焦げ、白豆の潰し煮には刻んだ赤根が混ざっている。燻し肉は少量だが香りが強く、半日の仕事のあとには十分満足できた。
「千二百稼いで、昼百か」
《潮窓の宿》の宿代三百五十を引けば残りは七百五十で、夜に五百ゴールド使っても二百五十残る。今日は半日仕事なので、夜予算は昨日より百ゴールド少ない五百五十ゴールドに決めた。
昼食を食べ終えたあと、《潮窓の宿》へ戻って宿代を払い、部屋で少し休む。朝に重かった腰もかなり楽になっており、半日だけの浜菜採取にしたのは正解だったようだ。
夕方になって外へ出ると、朝より風は弱くなっていた。
昨日は肉だった。魚はその前にかなり食べた。朝には貝を少し食べたものの、それだけで一日分の貝を食べた気にはならない。
「貝、ありだな」
セルナへ来た初日の《波籠亭》で浜貝の酒蒸しを食べたが、あれは予定外の一品だった。貝そのものを中心に店を選んだことはまだないので、今夜は貝料理を目当てに歩いてみることにした。
今日は港の南側へ向かう。
魚市場の周辺ほど騒がしくはないが、船員向けらしい食堂や小さな酒場が並んでいる。最初に見つけた店は焼き魚中心で、次の店は酒の種類が多い代わりに料理が少なく、その次は貝料理が多かったものの、店内がほぼ満席だった。
もう少し歩いた先で、木の板に白い貝殻を三つ並べた看板を見つけた。
《殻灯屋》
入口の横に小さな品書きがある。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《浜麦酒 百十ゴールド》
《白果実酒 百三十ゴールド》
《浜貝の炭焼き 百五十ゴールド》
《丸殻貝の香草煮 百六十ゴールド》
《小青貝と白豆の油焼き 百二十ゴールド》
《貝出汁黄根椀 百十ゴールド》
《浜青葉の酢和え 七十ゴールド》
《黒麦薄焼き 五十ゴールド》
「今日採ったのもある」
《浜青葉の酢和え》も気になったが、まずは貝を食べたいので扉を開ける。
店内はカウンターが七席と小さな卓が三つあり、壁際には洗った貝殻が飾られ、奥の炭台では殻付きの貝が焼かれている。
「いらっしゃい」
店主は五十代くらいの女性だった。
短い灰色の髪に濃い青の布を頭へ巻いている。腕は細いが動きが速く、炭台の貝を確認しながらこちらを見た。
「一人です」
「カウンター空いてるよ」
店主はハナラというらしい。
席へ座り、品書きをもう一度見る。
「軽麦酒と、浜貝の炭焼きください」
「二百四十」
「お願いします」
夜予算五百五十に対して、最初は二百四十ゴールド。
先に出てきた軽麦酒は淡い金色で泡は少なめだった。一口飲むと、苦味より麦の香りが強く、あとにわずかな酸味が残る。
「貝に合わせてるんです?」
この数日で、酒の違いを見るとすぐ料理との組み合わせを考える癖が付いてきた。
ハナラが笑う。
「何で?」
「セルナの店、料理で酒変えてるところ多いので」
「うちはたまたまこれが安く入るだけ」
「あ、そういう理由もあるんだ」
「何でも難しく考えなくていいよ」
「最近考えすぎてました」
「うまけりゃ飲めばいい」
「それもそうですね」
全部に意味があると思い始めていた自分に少し笑ってしまう。もちろん料理との相性を考えて酒を選ぶ店もあるのだろうが、仕入れや値段、店主の好みで決まることだってある。当たり前の話なのに、何か一つ学ぶとすぐ全部へ当てはめたくなるのは昨日までと変わっていない。
炭台の上では、注文した浜貝が三つ並んでいた。
殻は青灰色で、掌より少し小さい。熱が入るにつれて殻の隙間から汁が泡立ち、一つ、二つと口が開いていく。
私は軽麦酒を飲みながら何となく眺めていたが、三つ目だけがなかなか開かない。
「一個、開かないですね」
「たまにあるよ」
「貝って、開かなかったらどうするんですか?」
「開ける」
「開けるんだ」
「死んでるやつは最初に分けてるからね」
ハナラは細い道具を殻の隙間へ差し込み、慣れた手つきで開いた。
「前の世界では、加熱しても開かなかった貝は食べない方がいい、みたいな話を聞いた覚えがあるんですけど」
「どこの話か知らないけど、こっちは仕入れたときに生きてるか見てる。火で開くかどうかだけじゃ決めないよ」
「なるほど」
「変な匂いしたら出さないし」
「そこを見るんだ」
「食べ物なんだから、最後は状態見るしかないでしょ」
また一つ、自分が持っていた知識をそのまま当てはめそうになった。前の世界で覚えたことが全部間違っているわけではないが、こちらの食材が同じ性質を持っているとは限らないし、扱い方や確認方法も違う。
やがて《浜貝の炭焼き》が皿に乗って出てきた。
三つの殻の中に乳白色の身があり、上から刻んだ浜青葉と黄色い小さな実の汁がかけられている。
「浜青葉、今日採りました」
「西浜?」
「はい」
「じゃあこれ、今日のかもしれないね」
「本当に?」
「西浜から昼過ぎに来た束だから」
私は思わず皿の上の緑を見る。
もちろん、自分が摘んだ葉かどうかは分からない。それでも朝に岩場で外葉だけを選んで摘んだものと同じ浜青葉が、数時間後には酒場の皿へ乗っている。
「一昨日も似たようなことあったなぁ」
「何が?」
「仕事で見た食材を夜食べるの。灰走魚を仕分けして、その日の夜に食べました」
「この街じゃ珍しくないよ」
「働く場所と食べる場所が近いんですね」
「港は特にね」
まず一つ目の浜貝を殻から外して食べる。
酒蒸しで食べたときより身が締まっており、表面には炭の香りが付いている。噛んだ瞬間に貝の濃い旨味と塩気が出て、そのあと浜青葉の青い香りと黄色い実の酸味が重なった。
「焼くと全然違う」
「酒蒸し食べた?」
「来た初日に」
「蒸すと汁がうまい。焼くと身がうまい」
「分かりやすい」
二つ目を食べて軽麦酒を飲むと、酒自体は特別貝に合わせて造られたものではないらしいが、軽い味なので貝の旨味を邪魔しない。
理由を聞かなければ、私は勝手に「貝のために軽く造っている」と納得していたかもしれない。
「聞いてよかった」
「何が?」
「酒のこと」
「安いからって話?」
「はい」
「夢なくなった?」
「むしろ店っぽいです」
「変な客だね」
隣の席から笑い声がした。
四十代くらいの男性で、濃い青の上着を着ている。指先には細かな傷が多く、前には《丸殻貝の香草煮》と浜麦酒が置かれていた。
「店なんて全部に立派な理由あるわけじゃないぞ」
「最近それを忘れかけてました」
「セルナ来たばっか?」
「四日目です」
「四日で考えすぎだろ」
「自分でもそう思います」
男性はノルと名乗り、貝籠の修理をしているらしい。
「貝籠?」
「海に沈めるやつ。貝取る籠もあるし、小魚用もある」
「それも直すんです?」
「網と枠をな」
「今日、浜菜採ってました」
「西?」
「はい」
「潮上がるの早かったろ」
「道なくなりました」
「残らなくてよかったな」
「本当に」
浜貝を食べ終えた時点で会計は二百四十ゴールドなので、夜予算五百五十まであと三百十ある。腹もまだ半分くらいで、品書きの中では《小青貝と白豆の油焼き》百二十ゴールドが気になっていた。
貝と豆という組み合わせは朝にも少し近いが、油焼きなら味はかなり違いそうだ。
「小青貝と白豆の油焼きください」
「百二十ね」
これで三百六十ゴールドになり、予定外の一品としては十分予算内に収まる。
出てきた料理は、小さな青い貝の身と白豆を浅い鉄皿で焼いたものだった。表面には細かな香草と黒い粒が振られ、油がまだ小さく音を立てている。
「熱いから気をつけて」
「はい」
木匙ですくい、少し冷ましてから食べる。
小青貝は浜貝よりずっと小さいが、その分味が濃い。白豆のほくっとした甘さと一緒に食べると塩気がちょうどよくなり、油の香ばしさが全体をまとめている。
「これ、おいしい」
「パン入れる人多いよ」
ハナラが言う。
「黒麦薄焼き?」
「油残るから」
五十ゴールドなら、現在の三百六十へ追加しても四百十。腹にもまだ余裕があり、何より鉄皿に残った貝の旨味を含んだ油を見ていると試してみたくなった。
「ください」
「はいよ」
薄い黒麦パンが一枚出てきた。
端をちぎって鉄皿に残った油と白豆をすくうと、黒麦の少し酸味のある香りに貝の旨味が染み込み、そのまま食べるより味が丸くなる。
「こういうの弱いなぁ」
「何が?」
ノルが聞く。
「残った汁とか油をパンで食べるやつ」
「うまいからな」
「頼む予定なかったのに」
「五十だろ」
「値段だけじゃないんです。最近、予算が残ってるからって頼まないようにしてるので」
「食いたかった?」
「食べたかったです」
「じゃあいいじゃん」
「そうなんですよね」
予算を守ることと、追加注文をしないことは同じではない。食べたいものを考えたうえで頼み、それでも決めた範囲に収めるなら何も問題はなく、残金だけを見て我慢するのも少し違う気がする。
黒麦薄焼きを食べ終えたところで、腹は八分ほどまで満たされた。
会計は四百十ゴールドなので、夜予算五百五十まで百四十残っている。《浜麦酒》なら百十、《白果実酒》なら百三十なので、どちらも頼める。
「浜麦酒ってどんな味です?」
「軽麦より苦い。少し香草入ってる」
ハナラが答える。
「貝用?」
「それは貝にも合うように選んでる」
「今度はちゃんと理由あるんだ」
「全部たまたまだと思った?」
「さっき全部に理由あるわけじゃないって教わったので」
「極端だねぇ」
ノルが笑った。
「お前、一個聞くたび全部そっちに行くな」
「今日それを直してるところです」
「四日じゃ無理だろ」
「長い目で見てください」
浜麦酒を頼むと合計五百二十ゴールドとなり、夜予算五百五十には三十ゴールド残る。
浜麦酒は軽麦酒より色が濃く、香りにも少し青さがあった。口へ含むと苦味は確かに強いが、《波籠亭》で飲んだ軽麦酒ほど鋭くはなく、あとに乾いた香草の香りが残る。
小青貝の塩気が口に残っているところへ飲むと、苦味が少し柔らかく感じられた。
「合う」
「だから置いてる」
「今度は信じます」
「最初から疑ってた?」
「そういうわけじゃないです」
浜麦酒をゆっくり飲みながら今日の仕事を思い返すと、朝は浜菜を摘み、必要な分だけ葉を取り、潮が上がる前に戻った。もう少し採れそうだからと残っていたら、帰る道がなくなっていたかもしれない。
夜も少し似ている。
予算はあと三十ゴールド残っているが、三十で頼めるものはない。仮にちょうど三十ゴールドの料理があったとしても、今の腹具合なら頼まなくていいと思える。
籠も予算も腹も、いっぱいまで埋めればいいというものではないらしい。
「会計お願いします」
「五百二十」
ハナラへ硬貨を渡す。
「今日は千二百稼いで、昼百、宿三百五十、夜五百二十……」
「ここで計算するの?」
「癖なんです」
「二百三十残るね」
「早い」
「店やってるからね」
「負けた」
「何と戦ってるの」
今日の稼ぎからは二百三十ゴールド残る。
昨日までと比べれば少ないが、今日は半日しか働いていない。腰を休ませながら千二百ゴールド稼ぎ、昼も夜も食べて宿代まで払ったうえで残るなら十分だった。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「貝、開かなかったら開けるんですね」
「まだ気にしてたの?」
「前の世界と違ったので」
「その前の世界って、よく出てくるね」
「遠いところです」
「そこの貝は開けないの?」
「私も詳しくはないです」
「じゃあ余計に気にしなくていいんじゃない?」
「確かに」
店を出ると、風の中に潮の匂いが混じっていた。
昼間に浜菜を採った西外浜とは反対側にいるのに、海は街のどこからでも近い。朝に食べた貝、昼まで採っていた浜青葉、夜に食べた浜貝と小青貝を思い返すと、昨日は魚を食べないことでセルナの別の顔を知ったのに対し、今日は海のものを食べながら、それまでとはまた違うことを知った一日だった。
貝が開かなかったら必ず駄目だと思っていたことも、軽麦酒が貝に合わせて選ばれていると思ったことも、浜青葉には決まった使い道があると思いかけたことも、一つだけ知ってそれを全部へ当てはめようとしたから出てきた勘違いだった。
前の世界でも、同じ野菜や果物で産地によって味が変わることは知っていたのだから、知らない土地の食材や料理なら、なおさら一つの答えだけで決めつけない方がいいのだろう。
それでも、何も覚えられなかったわけではない。
浜菜を採るときには籠をいっぱいにするより、潮が上がる前に戻る方が大事だった。夜の居酒屋でも予算を使い切ることより、自分が食べたいものを食べ、満足したところで止める方がいい。
必要なところで止まり、分からないことは聞けばいい。それくらいなら、今の私でも覚えておけそうだった。
「まあ、一回で全部分からなくてもいいか」
四日目のセルナでそう呟くと、昨日までより少しだけ気楽に思えた。
明日もセルナにいるのか、そろそろリーベルへ戻るのかは、今夜のうちに決めなくてもいい。朝になって依頼板を見て、やりたい仕事があれば働き、帰りたくなったら帰ればいい。
今夜は貝がおいしく、朝に自分が摘んだものと同じ浜青葉が皿へ乗っていたかもしれないことも少し嬉しかった。
籠も予算も腹もいっぱいまで埋めなくていいのなら、一日の終わりだって、これくらい満たされていれば十分だった。




