第43話「魚以外にするって言ったの、誰でしたっけ」
セルナで迎える三度目の朝、私は《潮窓の宿》の食堂で白豆の煮込みを薄い丸パンですくいながら、昨夜「明日は魚以外でもいい」と口にしたことを思い出していた。
別に魚に飽きたわけではなく、むしろ好きだからこそよく食べている。セルナへ来た初日の夜には《波籠亭》で銀背魚の皮炙りと浜貝の酒蒸しを食べ、昨日は朝食から焼き魚、昼には灰走魚を挟んだ平たいパン、夜には《尾波屋》で灰走魚の香煮と塩魚と黄根の潰し焼きを食べた。港町へ来たのだから魚を楽しむのは当然だと思っていたが、さすがに二日続けてここまで魚が重なると、今日は肉や豆を選んでもいい気がする。
幸い、今朝の宿の朝食には魚がなく、白豆の煮込みには細かく刻んだ根菜と燻し肉が少し入り、丸パンには白酪を塗って食べる。
「今日は魚じゃない」
誰に聞かせるでもなく呟くと、近くで食器を片づけていた宿の女性がこちらを見た。
「魚嫌いになった?」
「逆です。好きだから食べすぎてます」
「港にいるとそうなる人いるね」
「地元の人は毎日食べないんです?」
「食べる人は食べるけど、肉も豆も卵もあるよ。セルナを何だと思ってるの」
「魚の街」
「間違ってはいないけど、それだけじゃないね」
昨日《尾波屋》でも似たようなことを言われたばかりだった。外から来た人はセルナというと魚ばかり見るらしいが、せっかくもう一日いることにしたのだから、今日は魚以外のセルナを見てみるのも悪くない。
朝食を終えて宿を出ると、昨日までと同じように港の方から人の声と船鈴の音が聞こえてきた。ただ、三日目になると最初ほど珍しく感じなくなっている自分に気づく。初日は荷車が通るたびに立ち止まり、魚籠が見えれば中を覗き、船が見えれば帆を眺めていたのに、今日は荷車を避けながら普通にギルドへ向かっていた。
「慣れるの早いなぁ」
もっとも、途中で道を一本間違えて塩倉庫の前へ出てしまったので、街そのものにはまだ全然慣れていないらしい。
少し遠回りしてセルナの冒険者ギルドへ入り、依頼板の前へ立つ。
《西塩倉庫・袋詰め補助 報酬千五百ゴールド》
《第二埠頭・空箱回収 報酬千四百ゴールド》
《北船具工房・縄束運搬 報酬千六百ゴールド》
《東干し場・海鳥追い 報酬千三百ゴールド》
《南貝加工場・殻運び 報酬千七百ゴールド》
《港外れ・薪炭荷下ろし 報酬千五百ゴールド》
「海鳥追い……」
仕事内容が気になって説明を読むと、干している魚や海藻を狙う海鳥を追い払い、破損した干し網を確認する仕事らしい。
「結局魚に近いな」
今日は魚以外を見るつもりなので依頼票を戻し、貝加工場も同じ理由で候補から外した。そのまま少し考えて《北船具工房・縄束運搬》を選ぶ。船具なら港町らしさはありそうだが、少なくとも魚そのものからは離れられそうだった。
報酬は千六百ゴールドで一日仕事、昼食支給。昨日と同じ稼ぎで昼食代もかからないなら悪くない。
「これにしよう」
依頼票を受付へ持っていく。
昨日とは別の受付で、二十代後半くらいの女性だった。淡い金色の髪を首の後ろで束ね、袖口に小さな船錨の刺繍が入ったギルド制服を着ている。
「北船具工房ですね。重い物は大丈夫ですか?」
「荷運びは何度か」
「縄束は見た目より重いですよ。濡らして締めたものもありますから」
「一人で持つんです?」
「大束は二人。小束は一人です。それから、油縄を触ったあとに顔をこすらないでください」
「何で?」
「臭いが取れません」
「危険じゃなくて臭い?」
「目にも入れない方がいいです」
「それ先に言ってください」
受付の女性が少し笑った。
「工房長の指示を聞けば大丈夫です」
北船具工房は、港の中心から少し北へ離れた場所にあった。
魚市場周辺とは匂いがまったく違い、潮の匂いは残っているものの、それより強いのは乾いた植物繊維と木、それから何か油のような重い匂いだった。広い敷地には太い縄が何本も張られ、職人たちが撚りを確認したり、表面へ油を塗ったりしている。
「ギルドの人?」
入口で声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの男性だった。
濃い茶色の髪を短く刈り、顎に少し白いものが混じっている。腕は太く、手のひらには縄を扱う仕事らしい硬い皮ができていた。
「ミサキです」
「工房長のガレス。今日は縄束の移動と仕分け。分からない印があったら聞いてくれ」
「色で分けるんです?」
「色もあるが、結び目を見る」
「結び目?」
ガレスが足元にあった縄束を一つ指すと、束の端には細い紐が結ばれていた。
「一つ結びは荷縄、二つは船内用、三つは係留用。赤紐は油処理済み、白は乾燥のみ、青は水締め」
「昨日の魚市場も札で分けてました」
「港は間違えると面倒だからな」
「どこも同じですね」
「魚と縄を一緒にするなよ」
「しません」
最初に運んだのは乾燥した荷縄の小束だったが、見た目はそれほど重くなさそうなのに、持ち上げると腕へずっしりと重さがかかった。
「重っ」
「一本一本は軽いんだけどな」
一緒に持っていた若い男性が笑った。
二十代前半くらいで、赤茶色の髪を短く切り、左頬に小さなほくろがある。
「まとめると急に重くなるんですね」
「縄は長いから。俺はティル」
「ミサキです」
「リーベルから来たって?」
「一昨日」
「観光?」
「仕事で来て、そのまま少し滞在してます」
「セルナどう?」
「魚がおいしい」
「やっぱり最初それか」
「今日もう二回くらい言われてます」
ティルと二人で束を運びながら、決められた印ごとに積んでいく。荷縄は比較的細く、船内用は少し柔らかいが、係留用は太さがまるで違い、大人の腕ほどあるものまであった。
「これも縄って呼ぶんだ」
「縄だよ」
「もう綱じゃない?」
「何が違うんだ?」
「……分からない」
「なら縄でいいだろ」
「そうします」
係留用の大束は木棒を中央へ通して四人で運び、前後で歩幅を合わせる。誰か一人だけが早く歩くと重さが偏るので、ガレスからは何度も「勝手に早く歩くな」と注意が飛んでいた。
以前の私なら、重いものを持つ仕事では早く終わらせようとして無意識に速度を上げていたかもしれない。けれど、リーベルで倉庫仕事をしたときにハルドから「持てるのと、一日持たせるのは別だ」と言われたことを思い出すと、こういう作業では最初から無理をしない方がいい。
「ミサキ、そっち速い」
「あ、すみません」
「謝るより合わせろ」
ガレスに言われ、歩幅を落とす。
「はい」
ティルが前で笑った。
「真面目だな」
「怒られたくないので」
「そこ?」
「あと腰痛めたくない」
「そっちは大事」
午前の後半は油処理された縄を別棟へ移したが、受付で言われた通り、こちらはかなり臭った。油と樹脂を混ぜたような重い匂いで、船で水を被っても傷みにくくするための処理らしい。
「これ、何の油です?」
「《黒殻樹脂》と魚油」
ガレスが答える。
「魚油……結局魚出てきた」
「何の話だ?」
「今日は魚以外の日にしようと思ってたんです」
「知らんよ」
「ですよね」
魚そのものを食べたり運んだりしていなくても、港では船具にまで魚由来の油が使われているらしい。ただし食用にする魚油とは処理が違い、樹脂や防腐用の香草を混ぜるので絶対に口へ入れるなと言われた。
「入れません」
「新人で一回、手についたまま昼飯食ったやつがいてな」
「どうなりました?」
「午後ずっと魚臭いって言ってた」
「命に関わらない話でよかった」
昼になると作業を止め、工房裏の休憩所へ移った。
支給された昼食は、厚めの黒麦パンに燻し肉と白豆の潰し煮を挟んだもの、それから根菜の温かい汁だった。
「魚じゃない」
思わず言うと、隣に座ったティルが眉を上げた。
「そんなに魚嫌だった?」
「違います。昨日、朝も昼も夜も魚だったので、今日は別のものにしようかなって」
「セルナでそれ言うと面倒だぞ」
「何で?」
「魚嫌いだと思われる」
「好きです」
「じゃあ食えばいい」
「好きだから毎食食べる必要はないでしょう」
「それもそうか」
黒麦パンを一口食べると、燻し肉は塩気が強めで、白豆の潰し煮がそれを和らげている。昨日まで魚の味ばかり気にしていたせいか、肉の脂と燻した香りが妙に新鮮に感じられた。
「肉おいしい」
「セルナにも肉あるからな」
「それ、今朝も言われました」
「外から来たやつ、魚しかないと思いすぎなんだよ」
「反省してます」
午後は新しく届いた縄の長さを確認し、傷んだ束を分ける作業を手伝った。見た目では問題なさそうでも、一部の撚りが緩んでいたり、表面が毛羽立ちすぎていたりするものは船用から外されるが、捨てるわけではなく、短く切って荷物の固定や工房内の作業縄へ回すらしい。
「ここでも捨てないんですね」
「何が?」
ガレスが聞く。
「昨日魚市場で、形が悪い魚でも加工に回してたので」
「使える縄捨てる理由ないだろ」
「そうですよね」
「船に使えないのと、何にも使えないのは別だ」
「それ覚えやすい」
「当たり前の話だぞ」
この世界へ来てから、当たり前と言われることをずいぶん覚えた気がする。前の世界でも規格から外れたものを別用途へ回すことはあったはずだが、会社員だった頃の私は完成した商品やサービスを使う側にいることが多く、その前にどんな選別や使い分けがあったのかまで考える機会は少なかった。
夕方前、最後の大束を倉庫へ入れたところで作業は終わり、腕より腰の方に少し重さが残っていた。
「明日筋肉痛かな」
腰を伸ばしながら言うと、ティルが笑った。
「今日来るかもよ」
「それは嫌だなぁ」
「若いんだから寝れば治る」
「その言葉、どこの世界でも言われるんだなぁ」
「どこの世界?」
「遠いところです」
「また変な言い方するな」
ガレスから完了票を受け取り、ギルドへ戻る。
報酬は予定通り千六百ゴールドだった。
昼食は支給されているので、今日も食費は夜だけでいい。《潮窓の宿》へもう一泊するなら三百五十ゴールドかかるが、それでも今日の稼ぎから千二百五十ゴールド残る。
宿へ戻って受付で三百五十ゴールドを払い、これでセルナでは三泊目になった。最初は一泊のつもりだったのに帰る日はまだ決めておらず、自分でも思っていた以上に滞在が延びている。
「延びてるなぁ」
昨日は夜予算六百に対して四百七十ゴールドだった。今日は一日仕事で身体も使ったので少し増やし、六百五十ゴールドまで使っていいことにする。全部使ったとしても、今日の稼ぎから六百ゴールドは残る計算だ。
部屋で手と顔を洗い、油縄の匂いが服に残っていないことを確認してから外へ出た。今夜の方針はすでに決まっており、魚以外、それもできれば肉を食べたい。
昨日まで港の東側を歩いたので、今日は宿から北へ向かう。魚市場から離れるほど魚を焼く匂いは薄くなり、代わりに煮込みや炭火、香辛料の匂いが増えてきた。
最初に見つけた串焼き中心の店は満席で、次の豆料理が多い店も悪くはなかったものの、今日は肉の気分だったので見送った。さらに歩いた先では店頭の大きな鉄板で厚い肉を焼いている店も見つけたが、一皿三百五十ゴールドからと少し高かった。
「セルナでも肉は普通にあるんだなぁ」
当たり前のことに感心しながら歩いていると、通りの角に赤茶色の小さな看板が見えた。
丸い鍋と一本の骨が描かれた看板の下には、《潮骨亭》と書かれている。
「潮って付いてるけど、骨か」
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《黒麦酒 百二十ゴールド》
《赤果実酒 百三十ゴールド》
《塩豚と白豆の煮込み 百七十ゴールド》
《骨付き角兎の香草焼き 二百ゴールド》
《燻し肉と黄根の鉄板焼き 百五十ゴールド》
《骨出汁根菜椀 百二十ゴールド》
《浜菜の酢和え 七十ゴールド》
《薄焼き黒麦パン 五十ゴールド》
「よし、肉」
今日は迷わず扉を開けた。
店内は細長く、カウンターが十席ほどと、奥に四人掛けの卓が二つある。壁には大きな鍋や木匙が掛けられ、港の店らしい網や貝殻の飾りはほとんどない。
「いらっしゃい」
店主は四十代前半くらいの男性だった。
名前はラグ。濃い赤茶色の髪を短く切り、灰色の前掛けを着けている。
「一人です」
「空いてるとこどうぞ」
カウンターの中央より少し端へ座る。
「軽麦酒と、塩豚と白豆の煮込みください」
「二百六十」
「お願いします」
今日の夜予算は六百五十ゴールドなので、最初の注文としてはかなり余裕がある。
「魚じゃなくていいんだ」
ラグが言った。
「え?」
「外から来た人だろ。港来たばっかりの人、だいたい最初は魚頼むから」
「昨日まで十分食べました」
「何日目?」
「三日目」
「ならそろそろ肉食いたくなる頃だな」
「そういうものなんです?」
「人による」
「ですよね」
先に出てきた軽麦酒を飲むと、昨日の《尾波屋》よりさらに癖が少なく、苦味も酸味も控えめだった。麦の甘さが少し残るものの、喉を通ったあとに強い香りは残らない。
「ここの軽麦酒、かなり軽いですね」
「煮込み濃いから」
「セルナの酒、店ごとに違いすぎる」
「同じの出してもつまらんだろ」
「昨日まで港の酒って一種類みたいに考えてました」
「何で?」
「港だから」
「雑だな」
「自分でも最近そう思います」
少し待つと、《塩豚と白豆の煮込み》が運ばれてきた。
深めの木椀に白豆と角切りの肉がたっぷり入り、薄茶色の汁の表面には刻んだ緑の葉と黒い香辛料が浮いている。
「塩豚って保存肉です?」
「そう。港じゃ船に積むからよく作る」
「船?」
「魚だけ食って航海するわけじゃないからな」
「確かに」
また一つ、セルナを魚だけで考えていた自分の雑さが見つかった気がしながら、匙で白豆と塩豚を一緒にすくって口へ運ぶ。
白豆は形が残っているものと少し崩れたものが混ざり、汁に自然なとろみを付けている。塩豚は指先ほどの角切りで、噛むと肉の繊維がほどけ、そのあとに強めの塩気と脂が広がった。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「結構しょっぱいけど、豆と一緒だとちょうどいい」
「塩豚だけで食うもんじゃないからな」
「黄根とかでも?」
「やる。豆の方が船じゃ保存しやすい」
塩漬けにした肉をそのまま食べるのではなく、豆や根菜と合わせて塩気を分散させる。昨日《尾波屋》で食べた《塩魚と黄根の潰し焼き》と考え方が似ている。
「魚じゃなくても同じなんだ」
「何が?」
「保存食をそのまま食べるんじゃなくて、別のものと合わせるところ」
「塩強いまま食ったら酒ばっかり減るだろ」
「それはそれで店としては」
「飯まずいって言われる方が困る」
「なるほど」
前の世界で言えば、塩豚と豆の煮込みはポークビーンズに少し似ている。ただしトマトのような強い酸味はなく、肉と豆の味が中心で、黒い香辛料が後から少し舌に残る。
軽麦酒を飲むと煮込みの塩気と脂が流れ、また豆の甘さが欲しくなった。
「肉もいいなぁ」
「魚嫌いなの?」
隣から声がした。
見ると、五十代くらいの男性が座っていた。
頭髪はかなり短く、日に焼けた首に太い布を巻いている。前には黒麦酒と骨出汁根菜椀が置かれていた。
「好きです」
「じゃあ食えばいいじゃん」
「昨日いっぱい食べたので」
「なら今日は肉でいいじゃん」
「今まさにそうしてます」
「何の話?」
「自分でも分からなくなってきました」
男性はヴァルドと名乗った。
港で荷車を引く仕事をしており、魚市場にも塩倉庫にも船具工房にも荷を運ぶらしい。
「今日、北船具工房いました」
「ガレスんとこ?」
「知ってるんです?」
「縄運ぶよ」
「セルナ狭い?」
「港で仕事してりゃ顔くらい知る」
「リーベルよりつながり近いなぁ」
「何運んだ?」
「係留用の大きい縄とか、油縄とか」
「臭かったろ」
「魚油入ってるって聞いて、今日も結局魚から逃げられませんでした」
ヴァルドが笑う。
「港で魚から完全に離れるのは無理だぞ」
「やっぱり?」
「畑にも魚肥使うとこあるしな」
「もう諦めます」
煮込みを半分ほど食べたところで、店の奥から肉の焼ける香ばしい匂いに、少し甘い香草の香りが混じって流れてきた。
視線を向けると、奥の卓へ《骨付き角兎の香草焼き》が運ばれている。骨付きの肉が二本、木皿に乗っており、一皿二百ゴールドだった。
現在の会計は軽麦酒九十と煮込み百七十で二百六十なので、追加しても四百六十。夜予算六百五十には十分収まるが、煮込みはまだ半分残っている。
「まずこれ食べよう」
昨日も予定外の一品を頼む前に腹具合を確認したので、白豆と塩豚をゆっくり食べる。汁まで飲み終えると腹は六分から七分くらいで、朝から縄束を運び続けたせいか、昨日より明らかに腹が減っていた。
「骨付き角兎、量どのくらいです?」
ラグに聞く。
「今見たくらい」
「二本?」
「小さい脚二本」
「一人でも?」
「普通に食う」
「じゃあください」
「はいよ」
今日の予定外の一品は《骨付き角兎の香草焼き》になり、会計は合計四百六十ゴールドになった。
焼き上がるまで軽麦酒を少しずつ飲む。
「角兎ってリーベルでも食べますけど、セルナでも普通なんですね」
「入ってくるからな」
「どこから?」
「北の草地。船じゃなく陸路」
「港町だからって全部海から来るわけじゃないか」
「当たり前だろ」
「今日それ何回言われるんだろう」
やがて運ばれてきた《骨付き角兎の香草焼き》は、遠目で見たときより少し小さく、骨付きの脚肉が二本並んでいた。表面には細かく刻んだ緑と黄色の香草が付き、焼き色は強めで、骨の周りには少し脂が残っている。
一本を持ち上げてかじると、表面は香ばしく、中の肉は思ったより柔らかい。角兎はリーベルでも何度か食べたことがあるが、今日のものは香草の味がかなり強かった。
「これ、何の香草です?」
「《潮黄草》と《乾青葉》」
「また潮」
「《潮黄草》は海沿いで育つから」
「しょっぱくはない?」
「少し苦い」
確かに噛んでいると、肉の甘さのあとに軽い苦味が残る。魚に合わせる浜青葉とは違い、こちらは肉の脂を軽くするために使うらしい。
「海沿いの草って魚専用じゃないんだ」
「草に魚か肉かなんて分からんだろ」
「それはそう」
一本目を食べ終えて軽麦酒を飲みながら考える。
魚以外を食べるつもりで入った店なのに、結局は船用の塩豚や海沿いの香草が出てきた。魚料理ではないのに、それでも間違いなくセルナで生まれた料理なのだと思えた。
「港町の料理って、魚料理だけじゃないんですね」
私が言うと、ラグが手を動かしながら答えた。
「そりゃそうだ。船乗るやつも荷運ぶやつも毎日働くんだから、腹に入るもん何でも食うよ」
「外から来ると魚ばっかり見ちゃうんですよ」
「分かりやすいからな」
「分かりやすい?」
「海見えて、魚市場あって、店先に魚並んでる。港らしいだろ」
「確かに」
「でも港らしいもんが、魚だけとは限らん」
その言葉は今日一日に妙によく合った。
朝、魚以外の日にしようと思って選んだ船具工房では、船を守る油縄に魚油が使われていた。昼には魚ではなく燻し肉と豆を食べ、夜も肉料理の店を選んだのに、塩豚は船の保存食として作られ、角兎には海沿いで育つ香草が使われている。
セルナらしさから離れようとしたわけではないが、魚から離れたことで、逆に魚以外の港町が少し見えた気がした。
「魚以外にするって言ったの、誰でしたっけ」
私が呟く。
「知らん」
ヴァルドが即答した。
「私です」
「じゃあ自分で覚えとけ」
「魚料理は食べてないんですけどね」
「なら達成してるだろ」
「でも一日中、結局魚の話してた気がする」
「ここセルナだぞ」
「そうでした」
二本目の角兎を食べ終える頃には腹はかなり満たされており、会計は四百六十ゴールド。夜予算六百五十には百九十残っているので、二杯目なら黒麦酒百二十か赤果実酒百三十を頼める。
「黒麦酒、煮込みに合いました?」
ヴァルドへ聞く。
「俺は好き」
「角兎には?」
「飲んでみりゃいいじゃん」
「雑だなぁ」
「百二十だろ。予算あるなら試せ」
「何で予算あるって分かるんです?」
「さっきから値段見て計算してる顔してる」
「そんな顔ある?」
「ある」
少し考えてみると、腹は十分だが酒ならもう一杯飲めそうだった。今日は一日働いたし、明日の朝に早い予定もない。
「黒麦酒ください」
「百二十」
これで合計五百八十ゴールドとなり、六百五十の夜予算には七十残る。
黒麦酒は名前通りかなり濃い茶色で、泡にも少し色が付いていた。口へ含むと最初に麦を焦がしたような香りが来て、そのあとに軽い甘さと苦味が続く。軽麦酒より重いが、強い酒ではない。
角兎の骨の周りに残った肉を少し食べてから飲むと、香草の苦味と黒麦酒の焦げた香りが重なった。
「これも合う」
「だろ」
ヴァルドが言う。
「セルナって魚と酒だけじゃないんですね」
「だから何で魚と酒だけだと思ってたんだよ」
「港町だから」
「雑だな」
「今日二回目」
黒麦酒をゆっくり飲みながら品書きをもう一度見ると、残り予算は七十ゴールドで、《浜菜の酢和え》ならちょうど頼める。
少し前の自分なら、七十残っていて七十の料理があるならちょうどいいと考えていたかもしれない。けれど今は腹が十分に満たされており、酢和えそのものは気になるものの、今食べたいかと聞かれれば、そこまでではなかった。
「会計お願いします」
「五百八十」
「はい」
ラグへ硬貨を渡す。
「七十残った」
「何が?」
「今日の予算」
「知らんよ」
「最近これ、どの店でも言われるなぁ」
「客の予算まで店が管理するのか?」
「しないですよね」
「食いたいときに食える分頼めばいい」
「それが一番難しかったんです」
「今できてるならいいだろ」
「そうですね」
今日は千六百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。宿代三百五十と夜の五百八十を引けば、今日の稼ぎから六百七十ゴールド残ったことになる。
セルナへ来てから三日続けて仕事をしているので、最初の護衛で稼いだ分も含めれば財布にはかなり余裕があった。それでも、余裕があることと毎晩使い切ることは別だと、ようやく自然に考えられるようになってきた気がする。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
「また魚食いたくなったら市場側行きな」
ラグが言う。
「明日はまだ決めてません」
「肉でも豆でも食えばいい」
「そうします」
店を出ると、昼間より潮の匂いが強く感じられた。《潮骨亭》は魚市場から少し離れているのに風は港の方から吹いており、遠くには船の灯りが見え、荷車の車輪が石畳を通る音もまだ聞こえている。
今日は魚以外のものを食べようと思って一日を始め、実際に朝食には魚がなく、昼は燻し肉と白豆、夜も塩豚と白豆の煮込みに骨付き角兎の香草焼きを食べたので、食事だけを見ればきちんと達成している。
それでも船具工房では油縄に魚油が使われ、夜の塩豚は船の保存食で、角兎には海沿いで育つ《潮黄草》が使われていた。港町らしさは、どうやら魚の皿だけに乗っているわけではないらしい。
魚を獲る船があり、その船をつなぐ縄があり、長く海へ出る人のための保存肉があり、海風の中で育つ草を肉へ合わせる料理がある。魚を一度も食べなかった日でも、セルナで暮らす人たちの食事や仕事には海が普通に入り込んでいた。
前の世界でも、旅先へ行けば名物料理ばかり探していたことを思い出す。海辺なら海鮮、山なら山のものと、分かりやすい名物を食べればその土地を知った気になっていたが、そこで毎日暮らしている人が三食すべて名物だけを食べているはずもない。
セルナで魚を食べることは、もちろん間違いではない。銀背魚も灰走魚も、ここへ来なければ知らなかった味や食べ方を教えてくれたが、魚以外を選んだ今日になって初めて見えたものもあった。
「魚以外にするって言ったの、私だったなぁ」
今度は誰も答えない夜道で呟く。
魚料理を避けたこと自体には成功したのだから、別に約束を破ったわけではない。それでも、魚から離れようとするほど港の暮らしの中に魚や海が入り込んでいることが分かったのは、少し面白かった。
《潮窓の宿》へ向かう途中、肉を焼く店の前を通り、その次には魚を揚げる店、その先には豆の煮込みを売る屋台が見えた。セルナが魚の街であることは間違いないが、もちろんそれだけではない。
三日目にしてようやくそのことを少し理解した私は、明日は何を食べようかと考えかけてから、今決める必要はないと思い直した。明日の仕事も、明日の一杯も、朝になってから決めればいい。
今日は肉を食べたかったから肉を食べ、それがおいしかったのだから、今夜はそれだけで十分だった。




