第42話「朝の魚って、夜に食べても朝の魚なんですか?」
翌朝、《潮窓の宿》の部屋で目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは人の声ではなく、遠くから何度も響いてくる低い鐘の音だった。
昨日まで泊まっていた《銀鈴の宿》なら、朝になると廊下を歩く宿泊客の足音や一階の食堂から上がってくる食器の音で目を覚ますことが多かったが、セルナでは窓の向こうから船鈴の音が届いてくる。眠る前にも何度か聞いたはずなのに、朝の静かな部屋で聞くと妙に大きく感じられた。
「本当に港町なんだなぁ」
寝台の上で身体を起こし、昨日のことを思い返す。
リーベルからセルナまで《青帆商会》の荷車を護衛して三千二百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。セルナで《潮窓の宿》に三百五十ゴールドを払い、夜は《波籠亭》で軽麦酒、銀背魚の皮炙り、浜貝の酒蒸し、それから黒麦薄焼きを食べて五百ゴールドだった。
差し引きで二千三百五十ゴールドも残っており、急募の護衛だったとはいえ、一日分としてはかなり大きな稼ぎだった。
昨日の夜までは、朝になったら帰りの護衛依頼を探してリーベルへ戻ってもいいと思っていたが、宿の窓を開けると、その考えは少しだけ弱くなった。まだ空は完全に明るくなっていないのに、通りではすでに荷車が動き、港の方から人の声が聞こえてくる。
昨日《波籠亭》のメイラが「港は朝と夜で全然違う」と言っていたことを思い出すと、このまま朝食を食べて帰るのは少しもったいない気がした。
「もう一日くらい、いいか」
誰に許可を取る必要もないのに、自分へ言い聞かせるように呟いてから部屋を出て、一階へ下りる。
《潮窓の宿》の朝食は、薄い丸パンと白豆の煮込み、それから小さな焼き魚だった。魚は手のひらより短く、表面へ粗塩を振って焼いただけの簡単なものだったが、皮はぱりっとしていて、身には思っていた以上に脂がある。
「朝から魚なんだ」
私が呟くと、近くで皿を運んでいた宿の女性が笑った。
「港だからね」
「毎日?」
「肉の日もあるよ。でも魚の方が安い日が多い」
「リーベルと逆だ」
「向こうは魚高い?」
「種類によりますけど、こっちよりは」
昨日《波籠亭》で聞いた話と同じで、遠くへ運びやすい魚はリーベルにも届くが、セルナではわざわざ遠方へ出荷しない小魚まで普通の朝食に出てくるらしい。
食べ終えて外へ出ると、朝の港は昨日の夕方とは本当に別の場所のようだった。
夕方には酒場から声が漏れ、仕事を終えた船員や漁師が歩いていた通りを、今は魚籠を抱えた人たちが早足で行き交っている。荷車には魚を詰めた木箱が積まれ、道の端では氷に似た白い冷石を砕いて箱へ入れていた。
「冷石まで使うんだ」
リーベルでも傷みやすい食材を運ぶときに見たことはあるが、ここでは使う量が違う。
港へ近づくにつれて声が大きくなった。
「銀背、二籠!」
「青尾はこっち! 小さいの混ぜるな!」
「細刃、締め用は別箱だ!」
「冷石足りないぞ!」
魚市場の前まで来たところで、私は思わず足を止めた。
昨日の夕方にも魚は並んでいたが、あれは市場の一部しか見ていなかったらしい。朝の今は広い石床の上に何十もの籠が並び、その周囲を買い付け人、料理人、荷運び人、漁師らしい人たちが絶え間なく動いている。
大きな魚を一匹ずつ並べる場所もあれば、小魚を籠ごと量っている場所もあり、貝だけを扱う一角では水の入った桶がいくつも置かれていた。
「見てるだけで一日終わりそう」
そうは言っても、私は観光に来たわけではない。今日もう一日セルナにいると決めた以上、宿代と夜の酒代くらいは今日の仕事で稼ぎたかったので、市場を一回りしたところで冒険者ギルドへ向かった。
セルナのギルドは昨日も立ち寄ったが、朝は雰囲気がかなり違っている。依頼板には港関係の仕事が多く、リーベルではあまり見ない内容が並んでいた。
《第三埠頭・荷揚げ補助 報酬千八百ゴールド》
《東魚市場・選別補助 報酬千六百ゴールド》
《南船渠・船底清掃 報酬二千ゴールド》
《塩倉庫・袋詰め補助 報酬千五百ゴールド》
《港外れ・網干し場警備 報酬千四百ゴールド》
《朝魚便・冷石箱積み替え 報酬千七百ゴールド》
「船底清掃、二千かぁ」
二千ゴールドという金額だけならかなり気になったものの、説明欄を見ると《腰まで入水する場合あり》《貝殻による切創注意》《着替え推奨》と書いてあった。
「今日はやめよう」
昨日一日歩いた翌日に、朝から水へ入る気にはなれない。
第三埠頭の荷揚げも報酬はいいが、今朝の港を見たあとでは《東魚市場・選別補助》の方が気になった。
依頼票を外して読む。
《東魚市場・選別補助》
《報酬千六百ゴールド》
《半日から昼過ぎ》
《昼食支給》
《魚種・大きさ・状態による仕分け》
《冷石箱への移し替え》
《商品への無断接触・持ち帰り禁止》
《魚の名前が分からなくても可》
「最後ありがたい」
セルナへ来て一日しか経っていない私には、ほとんどの魚が知らない種類なので、その一文だけで少し安心できた。
受付へ持っていく。
今日の受付は三十代くらいの男性で、黒髪を短く刈り、片耳に青い石の飾りを付けていた。
「東魚市場ですね。経験は?」
「魚の選別はないです」
「文字読める?」
「読めます」
「なら大丈夫。色札で分けるから」
「魚の名前覚えなくても?」
「全部覚えてたら市場で働けるよ」
「ですよね」
「ただし、分からない魚を勝手に判断しないこと。市場は『似てるから同じ』が一番怒られる」
「そんなに似てるのいるんです?」
「いる。食える場所まで違うのもいる」
「聞きます」
「それが一番」
依頼を受け、東魚市場へ戻る。
仕事場は、朝に見物していた場所からさらに奥にあった。屋根付きの広い作業場に長い木台が並び、港から届いた魚籠が次々に運び込まれている。
「ギルドの補助?」
声をかけてきたのは、四十代後半くらいの女性だった。
濃い灰色の髪を短く切り、厚い革前掛けと肘まである手袋を着けている。
「ミサキです」
「私はバルナ。今日は私の指示で動いて。魚触る前に手袋」
「はい」
「白札は近場売り、青札は街外、赤札は加工、黒札は廃棄か餌。勝手に札変えない」
「近場売りと街外で何が違うんです?」
「魚による。状態いいから外へ出すとは限らないよ」
「え?」
「その話は手動かしながら」
「はい」
最初に任されたのは《青尾小魚》だった。
昨日《波籠亭》の品書きにもあった魚で、細長い銀色の身体に、名前通り青い尾をしている。
大きさによって三つに分け、小さいものは揚げ物や煮込み用、中くらいは焼き物、大きいものは開いて干すことが多いらしい。
「大きい方が高いんです?」
「今日は中が高い」
「何で?」
「焼き用の注文多いから」
「毎日変わる?」
「当然」
バルナは迷うことなく魚を持ち上げ、木台の上へ分けていく。
「魚は大きければ高いってもんじゃないし、新しければ何でも遠くへ出すわけでもない。今日食べた方がうまいやつは、この街で売る」
「昨日もそれ聞きました。銀背魚とか」
「銀背の皮炙り食べた?」
「食べました」
「なら分かるだろ。あれは朝上がったのを夜までに食うのがいい」
「夜まで?」
「遅くてもね」
私は手を止めかけた。
「朝の魚って、夜に食べても朝の魚なんですか?」
バルナがこちらを見る。
「何言ってるの?」
「いや、朝獲れってよく特別そうに言うから、夜まで朝扱いなのかなって」
「朝上がった魚は夜になっても朝上がった魚だよ」
「それはそうなんですけど」
「時間戻らないからね」
「分かってます」
隣で作業していた若い男性が吹き出した。
二十代半ばくらいで、日に焼けた顔に黒い巻き布を頭へ巻いている。
「面白いこと聞くなぁ」
「自分でも聞いたあと変だと思いました」
「俺はケイド。朝魚便やってる」
「朝魚便?」
「市場から宿とか店へ魚運ぶ仕事。朝のうちにね」
「夜まで置く店もある?」
「そりゃあるよ。魚によるけど」
「じゃあ朝獲れって、朝に食べなきゃ意味ないわけじゃないんだ」
ケイドが魚を箱へ入れながら笑った。
「獲った時間だけ見ても仕方ないだろ。すぐ冷やしたか、血抜いたか、どこ運んだか、何の魚かで全然違う」
「急に難しくなった」
「酒だって造った日だけで味決まらないだろ」
「ああ、それなら分かる」
「何で酒なら分かるんだよ」
「よく飲むので」
「なるほど」
午前中は魚を大きさと行き先で分け続けた。
《青尾小魚》の次は、昨日食べた《銀背魚》が運ばれてきた。近くで見ると背中の銀色は思っていた以上に強く、腹側は淡い青白色で、尾に近づくにつれて細くなる。
「これは白札?」
私が聞く。
「その籠は白」
バルナが答える。
「全部セルナで?」
「今日はね。皮炙り用の注文入ってる」
「私が昨日食べたのもこういうのか」
「どこで?」
「《波籠亭》」
「あそこなら市場から直接買ってるよ」
「本当に朝の魚だったんだ」
「嘘だと思ってた?」
「そこまでは」
次に来た魚は銀背魚とかなり似ており、少し身体が細く、背中の色が灰色に近い程度にしか見えなかった。
「これも銀背?」
「違う」
バルナの返事が早い。
「《灰走魚》。腹見て」
裏返すと、腹の近くに小さな黒い点が並んでいる。
「全然気づかなかった」
「銀背より身が固い。焼くより煮る」
「見た目似てるのに」
「だから勝手に判断するなって言っただろ」
「はい」
市場で働き始めて一刻もしないうちに、受付で言われた「似ているからと勝手に判断するな」という注意の意味がよく分かった。日本でも魚の種類を見分ける自信などなかったが、この世界では名前すら知らないものばかりなので余計に難しい。
それでも、札の色と用途を一つずつ聞きながら分けていくと、少しずつ市場の流れが見えてきた。
魚は港へ上がった時点で終わりではなく、そのまま市場で売るもの、街の食堂へ回すもの、冷石箱へ入れてリーベル方面へ運ぶもの、塩漬けや干物へ加工するもの、小さすぎたり傷があったりして別の用途へ回すものに分かれていく。
「これ、傷あるから黒?」
私は一匹の青尾小魚を見せる。
腹側に小さな傷があった。
「赤」
「加工?」
「身は問題ない。形崩れてるだけ」
「捨てないんだ」
「食えるもの捨てたら怒られるよ」
「最近どこ行ってもそれ聞くなぁ」
「当たり前のことだからじゃない?」
「そうかもしれない」
リーベルでも、形の悪い肉や割れた食材を別の料理へ使う店を何度も見てきた。港でも同じで、見た目が売り物にならない魚は干物や煮込み、魚団子の材料へ回されるらしい。
昼前になると、最初の騒がしさが少し落ち着いた。
大きな魚籠の数が減り、今度は仕分けされた箱を各店や倉庫へ運ぶ人たちの方が忙しくなっている。
「飯にするよ」
バルナの声で作業を止める。
市場の裏にある休憩所で支給された昼食は、魚のほぐし身と刻んだ青菜を挟んだ平たいパン、それから白根と海豆の温かい汁物だった。
「また魚だ」
私が言うと、ケイドが隣で笑った。
「嫌になった?」
「まだ全然」
「三日くらい魚市場で働けば変わるぞ」
「毎日食べてる?」
「売り物にならない端とか出るからな」
「贅沢なのか分からない」
「港じゃ普通」
パンに挟まれた魚は《灰走魚》らしく、午前中に見たものと同じだった。細かくほぐして香草と少量の油で和えてあり、銀背魚より脂は少ないが、噛むとしっかりした身の味がある。
「煮るって聞いたけど、こういうのにもするんだ」
「固めだから崩しても食感残る」
ケイドが答える。
「魚って種類で料理変えるんですね」
「肉だって部位で変えるだろ」
「言われてみればそうか」
「港来た人、魚を全部『魚』でまとめるんだよな」
「昨日までかなりまとめてました」
「今日から三種類くらいには増えたな」
「銀背、青尾、灰走」
「あと昼の汁に《潮豆》入ってる」
「魚じゃないじゃん」
「海のもの」
「急に範囲広げないで」
午後は、仕分け済みの冷石箱を倉庫へ移す作業が中心になった。
箱そのものはそこまで大きくないが、魚と砕いた冷石が一緒に入っているので見た目より重い。二人一組で持ち、行き先札ごとに並べていく。
《リーベル》
《北街道》
《内陸西》
《加工場》
《市内東》
リーベル行きの札を見つけ、少しだけ足を止める。
「これ、今日出るんです?」
「夕方」
バルナが答える。
「夜走るの?」
「途中の中継所まで。そこから朝の便に渡す」
「結構大変ですね」
「魚は待ってくれないから」
「人の都合で止められない?」
「止めたら値段下がる」
「分かりやすい」
前の世界なら冷蔵車があり、スーパーへ行けば遠い海で獲れた魚も普通に並んでいた。もちろん運ぶ人や市場の仕事があることは知っていたが、自分が会社帰りに刺身のパックを買うとき、その魚が何時に獲られ、どこで仕分けされ、どれくらいの速さで運ばれたかまで考えることはほとんどなかった。
こちらでは冷石や塩、干す技術はあっても、何でも同じ状態で遠くまで運べるわけではないからこそ、港でしか食べにくいものがあり、リーベルへ運ぶために選ばれる魚もある。
「場所で値段変わるの、当たり前なんだなぁ」
「何が?」
バルナが聞く。
「昨日セルナでは安い魚が、リーベルだと高いって聞いたので」
「運ぶ金もかかるからね」
「魚そのものの値段だけじゃない」
「冷石も箱も人も要るよ」
「飲むときはそこまで考えてなかった」
「普通は考えないよ」
「ですよね」
すべての箱を並べ終えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
最後に木台を水で流し、使った手袋を洗って干す。
「これで終わり」
バルナが完了票へ印を押した。
「助かりました」
「初めてにしてはちゃんと聞いたね」
「勝手にやるなって最初に言われたので」
「聞かずに似た魚混ぜる人いるから」
「それやったら?」
「店から戻ってくる」
「怖い」
「だから聞けばいい」
ギルドへ戻り、報酬千六百ゴールドを受け取った。
今日は昼食が支給されているうえ、昨日から残っている金もかなりあるが、それを理由に使いすぎるつもりはない。セルナでもう一泊するため《潮窓の宿》へ戻り、三百五十ゴールドを払って部屋を確保した。
今日の稼ぎだけで考えれば、千六百から宿代三百五十を引いて千二百五十ゴールド残るので、夜に六百ゴールド使っても六百五十は残せる。
「六百くらいかな」
昨日は初日ということで八百まで使っていいことにしたが、結局五百しか使わなかった。今日は仕事も半日だったので、夜予算は六百に決める。
魚市場で働いたせいか、服を替えて顔と腕を洗っても、鼻の奥にはまだ海と魚の匂いが残っている気がした。
「今日は魚じゃなくてもいいかな」
朝食も魚、昼食も魚だったうえ、昨日の夜も魚と貝を食べているので、さすがに別のものを選んでもいい気がする。
ところが夕方になって宿を出ると、港から流れてくる焼き魚の匂いに普通に腹が反応した。
「まだいけるな」
自分でも少し呆れる。
とはいえ、昨日と同じような皮炙りを食べるつもりはない。せっかく魚の種類によって料理が変わると教わったのだから、今日は別の食べ方を探してみることにした。
港沿いの大通りは昨日歩いたので、今日は魚市場の東側へ伸びる通りへ入る。
一軒目は大きな焼き魚が売りらしい店で、店先から煙がかなり出ている。二軒目は貝料理中心で昨日と少し重なるため見送り、三軒目は酒より食事が中心らしく家族連れが多かった。
さらに一本裏へ入ったところで、小さな青い布看板が見えた。
描かれているのは魚の尾と、丸い木椀。
《尾波屋》
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《潮麦酒 百二十ゴールド》
《薄白果実酒 百三十ゴールド》
《灰走魚の香煮 百五十ゴールド》
《青尾小魚の骨揚げ 百二十ゴールド》
《浜菜と白豆の温和え 九十ゴールド》
《塩魚と黄根の潰し焼き 百十ゴールド》
《魚出汁黒麦椀 百三十ゴールド》
《酢藻 六十ゴールド》
《薄焼き麦パン 五十ゴールド》
「灰走魚」
昼に食べたばかりの名前がある。
ただ、昼はほぐし身をパンへ挟んだものだったので、《香煮》ならかなり違う料理だろう。
「今日はこれかな」
扉を開ける。
店内は昨日の《波籠亭》より小さく、カウンターが八席、二人掛けの卓が三つある。壁は淡い灰色で、天井から乾燥させた香草の束がいくつも吊られていた。
「いらっしゃい」
店主は三十代後半くらいの男性だった。
名前はソイル。明るい茶髪を短く切り、左腕に青い布を巻いている。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
端から二番目へ座る。
「軽麦酒と、灰走魚の香煮ください」
「二百四十」
「お願いします」
夜予算六百に対して最初の注文は二百四十なので、まだ十分余裕がある。
先に出てきた軽麦酒は、昨日の《波籠亭》で飲んだものより色が薄く、一口飲んでみると苦味も弱い代わりに少し酸味があった。
「昨日飲んだセルナの軽麦酒と違う」
「どこで飲んだ?」
「《波籠亭》」
「あそこは苦めだね。うちは煮魚多いから軽くしてる」
「同じ街でも違うんですね」
「そりゃ店ごとに料理違うから」
「昨日、港の酒は魚に合わせて苦めって聞いたばっかりなのに」
「全部そうだと思った?」
「危なかったです」
セルナへ来てから、私は何度も同じことをやっている気がする。港町だから魚がおいしく、港で食べる魚だから新鮮で、港の酒なら苦めなのだと、一つ知るたびにそれが全部へ当てはまるような気になってしまう。
どれも完全に間違いではないが、一つ覚えるたびに、それだけでは足りないと教えられる。
しばらくすると、《灰走魚の香煮》が運ばれてきた。
浅い木椀に、灰色がかった魚の切り身が二つ入っている。汁は薄い茶色で、刻んだ緑の香草と細い白根、それから赤い小さな実が浮いていた。
「朝、市場で灰走魚見ました」
「働いてた?」
「選別してました」
「じゃあ今日の魚、あそこ通ってるかもね」
「本当に?」
「東市場から買ってるから」
「朝見た魚を夜食べてる可能性あるんだ」
「あるね」
「朝の魚って、夜に食べても朝の魚なんですね」
ソイルが一瞬止まる。
「……何?」
「今日それ聞いたら笑われました」
「だろうね」
「自分でも分かってます」
木匙で汁を少し飲むと、魚の出汁はしっかり出ているが、思っていたより塩気は弱く、代わりに香草の青い香りと赤い実の酸味が先に来た。
続けて灰走魚の身を崩して食べてみると、銀背魚より明らかに締まっていて、煮ても身が崩れすぎていない。噛むと繊維がほぐれ、その中に汁が入り込んでいる。
「昼にほぐしたの食べたんですけど、煮ると全然違いますね」
「昼は何だった?」
「平たいパンに香草と一緒に挟んでました」
「市場飯か」
「そうです」
「灰走は身が固いから、ほぐしても煮ても使いやすい。焼くなら薄くした方がいい」
「魚ごとに向いてる料理あるんだ」
「そりゃそうだろ」
日本でも当然そうだったはずなのに、自分は居酒屋で「刺身盛り合わせ」「焼き魚」「煮魚」と料理名から選ぶことが多く、魚そのものの性質まで考えることはあまりなかった。鮭なら焼く、鯖なら味噌煮、鯵ならフライという程度のイメージはあっても、それも料理として覚えていただけで、なぜその調理が合うのかまで説明できる自信はない。
「魚って難しいなぁ」
「食うだけなら難しくないよ」
ソイルが言う。
「店が合うように出すから」
「それ言われると楽」
「客まで市場の人間になる必要ないだろ」
「今日半日だけ市場の人でした」
「じゃあ半人前にも届いてないな」
「一日でそこまで求めてません」
軽麦酒を飲むと、酸味のある軽い酒が香煮の汁によく合った。昨日は塩気と脂に苦味のある酒を合わせたが、今日は香草と酸味のある煮魚に、軽く酸味のある酒が合っている。
同じ港町でも、料理が変われば酒も変わる。当たり前と言えば当たり前なのに、実際に食べ比べると面白い。
「それ何です?」
少し離れた席へ運ばれた料理が目に入った。
丸く焼かれたものが二つ、小皿に乗っている。
「あれ?」
ソイルが見る。
「《塩魚と黄根の潰し焼き》」
「魚?」
「塩漬け魚と黄根を潰して焼く」
「コロッケみたいな感じかな」
「ころ?」
「何でもないです」
前の世界で言えば、魚入りのポテトケーキやコロッケに少し近いのかもしれない。
品書きでは百十ゴールドで、今の会計は二百四十なので追加しても三百五十。夜予算六百には十分収まるが、香煮はまだ半分残っているので、注文する前に一度腹具合を確認する。
「これ食べ終わってから考えよう」
口に出すと、隣から笑い声がした。
「ちゃんと考えるんだな」
隣に座っていたのは、四十代くらいの女性だった。
濃い赤茶色の髪を後ろで束ね、袖口には白い粉が付いている。
「最近やっと」
「前は?」
「予算残ってると追加したくなってました」
「分かるけどね」
女性はミナトと名乗った。
名前だけ聞くと少し懐かしい響きがしたが、本人はセルナ生まれで、港近くの製塩所で働いているらしい。
「塩作るんです?」
「煮詰める方じゃなくて、乾燥棚の管理」
「魚の街だから塩もいっぱい使いますよね」
「魚だけじゃないよ。肉も野菜も保存するし、船にも積む」
「そうか」
「外から来る人は、セルナって言うと魚ばっかり見るからね」
「今日二回目くらいに刺さる言葉です」
「何したの?」
「朝から魚市場で働いて、夜も魚食べてます」
「十分魚見てるね」
「明日は別のものでもいいかも」
「明日もいるの?」
「今のところは」
そう答えてから、昨日よりずっと自然に言えていることに気づいた。セルナへ来た初日は翌朝にはリーベルへ戻るかもしれないと思っていたのに、今日は普通に仕事を探し、宿をもう一泊取り、夜の店まで探している。
別に長く滞在すると決めたわけではないが、急いで戻る理由もなかった。
香煮を食べ終える頃には腹が七分くらいまで満たされていたが、まだ少し食べられそうだったので、さっき気になった料理を試してみることにした。
「《塩魚と黄根の潰し焼き》ください」
「百十」
追加して合計三百五十ゴールド。
出てきたのは、掌の半分ほどの丸い焼き物が二つだった。表面には焼き色が付き、細かな青葉が混ざっている。
一つを割ると中は淡い黄色で、細かくほぐした魚が入っていた。口へ運ぶと、最初に黄根のほくっとした甘さがあり、そのあと塩漬け魚の強い旨味が来る。油で揚げているわけではなく、鉄板へ薄く油を引いて焼いているので重すぎず、外側だけ少し香ばしい。
「これ好き」
「酒のつまみでよく出るよ」
ソイルが言う。
「魚そのまま食べるのと全然違う」
「塩魚はそのままだと塩強いから、黄根で伸ばす」
「伸ばす?」
「量も増えるし、塩も薄まる」
「なるほど」
保存のために強く塩をした魚を、そのまま我慢して食べるのではなく、黄根と混ぜることで別の料理にしている。前の世界でも塩漬けの魚や干物を使った料理はあったが、セルナでは保存の仕方と食べ方がもっと直接つながっているように感じた。
「これ、今日の予定外だったな」
「何が?」
ミナトが聞く。
「最初は香煮だけ食べるつもりだったので」
「いいじゃない。食べたかったなら」
「そうなんですよね」
予算が余っているから頼んだのではなく、隣の席へ運ばれた料理を見て気になり、香煮を食べ終えたあとでも腹に余裕があったから追加した。最近ようやく、この違いが自分の中ではっきりしてきた気がする。
現在の会計は軽麦酒九十、灰走魚の香煮百五十、塩魚と黄根の潰し焼き百十で三百五十ゴールドなので、夜予算六百にはまだ二百五十の余裕がある。
二杯目を頼むなら《潮麦酒》百二十が気になった。
「潮麦酒って何が違うんです?」
ソイルに聞く。
「少し濃い。あと《乾潮草》入れてる」
「海藻?」
「草。浜に生える」
「塩っぽい?」
「香りだけ少し。飲む?」
腹はちょうどよくなっているが、酒ならもう一杯くらい飲めそうだった。今日は半日の仕事だったし、明日の朝も急いで出発する予定はない。
「お願いします」
「百二十ね」
合計四百七十ゴールドになり、夜予算には百三十残る。
《潮麦酒》は軽麦酒より濃い琥珀色で、泡も少し厚い。口へ含むと麦の甘さが先にあり、そのあとに軽い苦味と乾いた草のような香りが残った。名前から想像したほど塩気はなく、むしろ香りの中に海辺らしい青さがある。
「潮って付いてるから、しょっぱいのかと思った」
「塩入れたら酒進みすぎるだろ」
ミナトが横から言う。
「製塩所の人が言うと説得力ある」
「酒にまで塩入れなくていいよ」
「料理にはいっぱい使うのに」
「使い方だよ」
その言葉を聞きながら、今日一日のことを思い出す。
朝、市場で魚を見たときは、獲れたばかりなら全部価値が高いような気がしていたが、実際には大きさ、魚種、状態、行き先、食べ方によって扱いは変わり、朝獲れだから何にしても最高というわけではない。
夜の店でも同じだった。
港の酒は苦いと昨日覚えたばかりなのに、《尾波屋》の軽麦酒は煮魚に合わせて軽く酸味があり、《潮麦酒》も名前ほど塩っぽくない。一つ覚えるとそれが全部に当てはまるような気がしてしまうが、実際には店も魚も酒もそれぞれ違う。
「分かった気になるの早いんだなぁ、私」
「何が?」
ソイルが聞く。
「昨日一日でセルナの魚と酒、ちょっと分かった気になってました」
「一日で分かったら俺が困る」
「何年やってるんです?」
「十二年」
「じゃあ勝てない」
「勝つ必要ある?」
「ないですね」
潮麦酒をゆっくり飲み切る。
料理はもう十分だった。
夜予算には百三十残っているので、《魚出汁黒麦椀》を頼めばちょうど六百になるが、締めを入れたいほど腹は空いていない。数字だけならきれいに使い切れるものの、昨日も予算が残っているからという理由だけでは追加しなかった。
「会計お願いします」
「四百七十」
「はい」
硬貨を渡す。
「黒麦椀いかなかったね」
ソイルが言う。
「今食べたら多分おいしいより苦しいが勝つので」
「なら正解」
「六百ちょうどになるんですけどね」
「何が?」
「今日の予算」
「知らないよ」
「ですよね」
ミナトが笑う。
「予算ぴったりに腹は減らないからね」
「それ、覚えときます」
店を出ると、港の夜風が昼より冷たくなっていた。
今日は千六百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。宿代三百五十と夜の四百七十を引けば、今日の稼ぎから七百八十ゴールド残ったことになる。昨日の分もあるので財布にはまだかなり余裕があるが、今夜いちばん頭に残っているのは金額ではなかった。
朝の市場で、私は「朝の魚って、夜に食べても朝の魚なんですか」と聞いて笑われた。
考えてみれば当然で、朝に獲れた魚は夜になっても朝に獲れた魚だ。ただ、その言葉だけでおいしさが決まるわけではなく、魚の種類も、冷やし方も、運び方も、どんな料理にするかも関わってくる。
今夜食べた灰走魚も、もしかすると朝に自分が仕分けた籠のどこかに入っていた魚かもしれない。
朝には木台の上で「銀背と似ているけれど別の魚」と教えられ、昼にはほぐし身をパンで食べ、夜には香草の効いた煮魚になって出てきた。
一日の中で同じ魚を何度も見たのに、全部違って見えた。
前の世界では、仕事帰りに居酒屋へ入って料理を頼んでも、その食材が朝どこにあったのかなんて考えることはほとんどなかった。こちらでも毎回そこまで考える必要はないと思うが、たまたま仕事で触れたものが夜の皿へつながると、いつもの一杯が少しだけ面白くなる。
「港町、思ってたより奥が深いなぁ」
セルナへ来る前は、魚がおいしくて酒場が多い街くらいに考えていた。
それだけでも十分魅力的なのに、実際に一日働いてみると、魚を運ぶ人、選ぶ人、冷やす人、加工する人がいて、その先に料理する店がある。港で獲れた魚が、そのまま皿へ飛んでくるわけではない。
私は《潮窓の宿》へ向かいながら、明日のことを考える。
リーベルへ戻る依頼を探すこともできるが、今日の私はもう「明日帰るかもしれない」と迷ってはいなかった。せっかくセルナまで来たのだから、もう少しこの街で働いて、まだ知らない食べ方を見てみたい。
ただし明日の仕事まで今夜決める必要はなく、朝になって依頼板を見て、その日の気分と報酬で選べばいい。
「明日は魚以外でもいいけど」
そう呟いた直後、通りの向こうから焼いた小魚らしい香りが流れてきた。
「……絶対とは言わないでおこう」
セルナに来てまだ二日目なのだから、港町の魚を知ったと思うには、どうやら早すぎるらしい。
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