第41話「港町に来たなら、魚でしょう」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日歩いた細い路地のことを思い出していた。
中央広場で冬市の準備を手伝って千六百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。夜は五百五十ゴールドまで使っていいつもりだったが、偶然見つけた《曲がり灯》で軽麦酒、炙り角兎、豆と茸の油焼き、それから焼き薄パンまで食べて三百六十ゴールドだったので、宿代三百を引いても九百四十ゴールド残った。
四十軒目だからといって特別なことをするつもりはなかったし、実際に二杯目も頼まなかった。それでも、普段通らない路地へ一本入っただけで、二十年続いている小さな店が普通に見つかったことの方が印象に残っている。
リーベルにはまだ知らない店がいくらでもあり、しかも数日後には冬市が始まって、街の外からも商人や食べ物がやって来るらしい。
「しばらく困らないなぁ」
薄パンに白酪を塗りながら呟いた。
知らない店がなくならないのなら、今日も働いたあとに一軒探せばいい。それくらいの気持ちで朝食を終えた私は、いつものように《銀鈴の宿》を出て冒険者ギルドへ向かった。
だから、その日の夕方にはリーベルではなく海を見ていることになるとは、この時点ではまったく思っていなかった。
ギルドへ入ると、朝から妙に騒がしかった。
依頼板の前に人が多いのは珍しくないが、今日は受付の横にも何人か冒険者が集まり、職員が何度も同じ説明をしている。
「何かあったんですか?」
顔見知りになりつつある受付の女性へ聞くと、彼女は手元の書類から顔を上げた。
三十代半ばくらいで、濃い茶色の髪を後ろで束ね、細い金属枠の眼鏡をかけている。
「セルナ行きの護衛が一人足りなくなりまして」
「セルナ?」
「港町です。南西街道を使って今日中に着けます」
「今日中?」
「朝すぐ出れば、夕刻前後ですね」
セルナという名前は聞いたことがあった。
リーベルから南西へ延びる街道の先にある港町で、魚介や塩、遠方から船で運ばれる品物が集まるらしい。酒場で魚を食べたとき、店主や客が「セルナから来た魚だ」と言っていたことも何度かある。
「何で一人足りないんです?」
「昨夜、予定していた冒険者が熱を出しました」
「それは仕方ない」
「護衛対象は《青帆商会》の荷車三台。積み荷は乾物、冬市向けの布、空樽。護衛は全部で四人の予定でした」
「私が入ったら四人?」
「はい」
「報酬は?」
「三千二百ゴールド。昼食支給。セルナ到着で依頼完了です」
「三千二百」
思わず数字を繰り返す。
街仕事なら千五百前後が最近の目安だったので、一日で三千を超えるならかなりいい。ただし護衛なので、荷運びや棚卸しより危険があるのは当然だった。
「帰りは?」
「別です」
「ですよね」
「セルナで泊まって明日戻る人も多いですし、帰路の護衛依頼を拾う人もいます」
「泊まり代は自分持ち?」
「そうなります」
今日は普通にリーベルで働き、夜になれば知らない居酒屋へ行くつもりだったので、急に別の街へ泊まりで行くことには少し迷った。
けれど、セルナまで今日中に着くなら、一泊して明日戻ることもできる。宿代が三百や四百増えたとしても、三千二百ゴールドの報酬なら十分残る。
それに、セルナは港町だ。
海があり、魚があり、当然そこには酒場もある。
「……行きます」
「即決ですね」
「三千二百なので」
「そっちですか」
「あと魚」
「やっぱりそっちもあるんですね」
受付の女性が笑いながら書類を差し出した。
「では、南門前の《青帆商会》集合です。出発まで半刻もありませんから、必要な物があるなら急いでください」
「装備はいつものので?」
「街道護衛なので十分です。ただし、夕方近くまで歩きますよ」
「分かりました」
受付を離れかけて、ふと思い出す。
「セルナって、宿いくらくらいです?」
「安いところなら三百五十前後。港近くはもう少し高いです」
「居酒屋は?」
「知りません」
「そうですよね」
「そこ聞くと思いました」
私は一度《銀鈴の宿》へ戻り、宿の主人へ今夜は泊まらないことを伝えた。
いつもなら宿代三百ゴールドが固定で出ていくが、今日は部屋を取らないのでその分は不要になる。ただしセルナで新しく宿を探す必要があるため、最終的な出費は少し増えそうだった。
腰の短剣を確認し、水袋と最低限の荷物を持って南門へ急ぐ。
《青帆商会》の荷車はすでに並んでいた。
三台とも二頭引きで、一台目には布包み、二台目には木箱、三台目には空樽が積まれている。
「代わりの護衛?」
声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの男性だった。
日に焼けた顔に短い黒髪、青い袖なし上着を着ている。
「ミサキです」
「俺は商会のドレン。急に悪かったな」
「報酬高いので大丈夫です」
「正直だな」
「急募なら、その分ですよね?」
「そういうこと」
護衛は私を含め四人だった。
一人目は三十代くらいの男性で、槍を持った背の高いベルト。二人目は二十代後半くらいの女性で、弓を背負ったシーラ。三人目は四十代前半くらいの男性で、盾と片手剣を持つゴルム。
三人とも何度か街道護衛を経験しているらしい。
「セルナ初めて?」
シーラが聞いた。
「はい」
「じゃあ海見るの初めて?」
「この世界では」
「この世界では?」
「遠いところでは見たことあります」
「変な言い方」
「よく言われます」
出発したのは、朝の鐘が鳴って間もない頃だった。
リーベルの南門を抜け、街道を南西へ進む。
最初のうちは見慣れた畑や牧草地が続いたが、二刻ほど歩くと地面の色が少し変わり、平らな土地が増えていった。道沿いを走る荷車も、リーベル周辺で見るものとは積み荷が違っている。
「樽多いですね」
前を走る荷車とすれ違いながら言う。
「魚の塩漬け」
ベルトが答える。
「もうセルナから?」
「朝早く出たんだろ。あっちは夜明け前から荷動くから」
「そんな早いんです?」
「港だからな。船が来たら時間関係ない」
「大変そう」
「その代わり朝飯うまいぞ」
「何で?」
「売り物にしにくい小魚とか安く出る」
「それもっと早く言ってください」
「今言っただろ」
「泊まる気が強くなった」
護衛そのものは、午前中かなり平穏だった。
街道は商人の往来が多く、人目もあるので、魔物が出やすい場所ではないらしい。それでも林に近い区間では全員が少し間隔を詰め、荷車から離れすぎないように進んだ。
昼前、一度だけ騒ぎがあった。
道脇の低い草むらから、犬ほどの大きさの獣が二匹飛び出してきたのだ。
「《草噛み》!」
シーラがすぐ弓へ手を伸ばす。
灰色と茶色の混じった毛を持ち、前歯だけ妙に大きい。見た目は大きなネズミと兎の中間のようだった。
一匹が荷車へ寄ろうとしたので、私は短剣を抜いて前へ出る。
「こっち来ないで!」
声が通じるわけではないが、威嚇しながら横から近づくと、獣は少し止まった。
その隙にゴルムが盾で進路を塞ぎ、もう一匹へはシーラが足元近くへ矢を一本射つ。驚いた二匹は草むらへ逃げていった。
「倒さなくていいんです?」
私が聞くと、ベルトが槍を戻しながら答えた。
「あいつら荷の匂い嗅いで寄っただけだ。追えば林まで入ることになる」
「護衛は倒す仕事じゃない?」
「荷を着ける仕事だ」
「前にも似たこと聞いたなぁ」
商隊護衛をしたときも、魔物を追って護衛対象から離れるなと言われた。
敵を倒した数ではなく、荷車が無事に目的地へ着くことが仕事の成果になる。冒険者という言葉から想像していた派手さとはかなり違うが、今ではこういう仕事の方が自分には分かりやすい気もした。
昼は街道沿いの休憩所で取った。
商会から支給されたのは、硬めの丸パンに燻し肉と酢漬け野菜を挟んだもの、それから薄い果実水だった。
「セルナ着いたら何食う?」
ゴルムがパンを食べながら聞く。
「魚です」
「即答だな」
「港町に行って肉食べるのも違うかなって」
「別に肉もあるぞ」
「分かってますけど、最初くらいは」
「なら《銀背》食っとけ」
「何です?」
「魚」
「それは分かる」
「銀色の背中してるから《銀背魚》。セルナじゃ安い」
「リーベルでは?」
「鮮魚で運ぶと高くなる」
「じゃあ現地で食べた方がいいんだ」
シーラが水を飲みながら頷いた。
「港の店なら朝上がったの出すよ。焼きでも煮てもいい」
「刺身みたいなのは?」
「さしみ?」
「生で魚食べたり」
三人が少し考えた。
「食べる店もある」
ゴルムが言う。
「でも何でも生では食わんぞ」
「ですよね」
「《青透魚》とか《細刃魚》は酢と塩で締めて出す店あるけど、港だから全部生って思うと腹壊す」
「それは前の世界でも同じ」
「前の世界?」
「遠いところです」
「またそれか」
昼食を終え、再び出発する。
午後になると、空気が少しずつ変わった。
最初に気づいたのは風で、乾いた畑の匂いではなく、何か湿った匂いが混じっている。
「海近い?」
私が聞くと、シーラが笑う。
「分かる?」
「何となく」
さらに進むと、道沿いに塩を扱う倉庫が増えた。
白っぽい粉が付いた樽や袋を積んだ荷車とすれ違い、遠くにはリーベルでは見ない背の高い鳥が何羽も飛んでいる。
そして、小さな丘を越えたところで、視界の向こうに青い色が広がった。
「うわ」
思わず声が出る。
丘を越えた先に広がっていたのは海で、前の世界でも何度も見たことがあるはずなのに、森の中で目を覚ましてからずっと陸地の街や街道ばかり見てきたせいか、この世界で初めて見る海は少しだけ知らない景色に見えた。
水面には大小の船が浮かび、遠くには白い帆がいくつも見える。
「海だ」
「海だな」
ベルトが普通に答える。
「もう少し感動しないんです?」
「何十回も来てる」
「そういうものか」
道を下り始めると、セルナの街が見えてきた。
リーベルより建物が低く、石壁の色も少し白っぽい。
港に近い一帯には倉庫が並び、その向こうでは無数の帆柱が立っている。
門を抜けた瞬間、一気に音が増えた。
「右寄せろ! 樽通るぞ!」
「三番船、塩樽あと二十!」
「朝魚の残り安くするよ!」
「網直し、今日中なら一本追加!」
商人、漁師、荷運び人、船員らしい人が入り混じり、荷車が何台も行き交っている。
「リーベルより騒がしい」
私が言うと、ドレンが笑った。
「港は夕方でもこれだ」
「朝もっと?」
「もっと」
「すごいなぁ」
《青帆商会》の倉庫まで荷車を護衛し、荷物の確認が終わったところで依頼は完了した。
「助かった」
ドレンが完了票へ印を押す。
「帰りも明日?」
「俺たちは二日後。荷積みがあるからな」
「帰りの護衛探すなら?」
「港のギルド行けばあるだろ」
「分かりました」
「今夜飲むなら、港際は高い店も多いから値段見ろよ」
「何で私が飲むの分かったんです?」
「昼から魚の話しかしてないだろ」
「確かに」
セルナの冒険者ギルドは、港から少し離れた大通り沿いにあった。
建物自体はリーベルのものと似ているが、入口横に大きな船鈴が吊られている。
中へ入り、リーベル側で発行された完了票を出すと、報酬三千二百ゴールドが支払われた。
「よし」
硬貨の重みがいつもより明らかに違う。
ただ、今日はここから宿を取らなければならない。
受付で安い宿を聞くと、港から一本奥へ入ったところに《潮窓の宿》という宿があり、一泊三百五十ゴールド、朝食付きだという。
「三百五十なら大丈夫」
リーベルより五十高いが、港町なら仕方ない。
《潮窓の宿》は三階建ての白い建物だった。
窓枠が青く塗られており、入口には小さな貝殻がいくつも下がっている。
受付の女性へ三百五十ゴールドを払い、荷物を部屋へ置く。
今日の報酬は三千二百ゴールドで、昼食は支給されており、セルナの宿が三百五十なので、今のところ二千八百五十ゴールド残っている。
「今日はちょっと使ってもいいよね」
移動日だったし、初めての街でもある。
だからといって千ゴールド以上使う必要はないが、今夜の予算は八百ゴールドくらいにしても十分だろう。全部使っても二千以上残る。
「八百」
そう決めて、少しだけ部屋で休んだ。
夕方を過ぎても、セルナはまだ騒がしかった。
宿を出て港の方へ向かうと、空は赤く染まり始めているのに、魚市場では片づけと夜営業の準備が同時に進んでいる。
吊るされた灯りの下には、リーベルでは見たことのない魚がいくつも並んでいた。青い尾の細長い魚、平たい黄色の魚、口の周りに短い触手のようなものがある魚、その中には背中が銀色に光るものもある。
「あれが銀背かな」
昼に聞いた名前を思い出す。
一軒目の酒場は港の真正面にあり、品書きを見ると魚料理一皿が四百ゴールドを超えていたので、観光客や船主向けなのかもしれない。二軒目は船員で満員で、三軒目は魚より酒が中心らしく、外から見ただけでもかなり賑やかだった。
そこから一本細い通りへ入ったところで、木籠を逆さにしたような看板が見えた。
《波籠亭》
入口の横には今日の品書きが掛かっている。
《軽麦酒 百ゴールド》
《薄青果実酒 百四十ゴールド》
《塩葉酒 百三十ゴールド》
《銀背魚の皮炙り 百八十ゴールド》
《浜貝の酒蒸し 百六十ゴールド》
《青尾小魚の香草揚げ 百四十ゴールド》
《海豆と白根の煮込み 百二十ゴールド》
《塩藻の和え物 七十ゴールド》
《黒麦薄焼き 六十ゴールド》
「港町っぽい」
魚だけではなく貝や海藻らしい料理まであり、値段も最初に見た店ほど高くない。
「ここにしよう」
扉を開ける。
店内は横に長く、カウンターが十二席ほど、壁際に小さな卓が四つ並んでいた。木の壁には網の切れ端や貝殻が飾られているが、思っていたほど魚臭くはなく、むしろ焼いた香草と酒の匂いの方が強かった。
「いらっしゃい」
店主は四十代くらいの女性だった。
名前はメイラ。日に焼けた肌に濃い紺色の髪を短くまとめ、袖を肘まで折り上げた白い上着を着ている。
「一人です」
「好きなとこ座って」
カウンターの端へ座る。
「初めて見る顔だね」
「今日セルナに来ました」
「旅行?」
「仕事です。リーベルから護衛で」
「ああ。冬市の荷か」
「そうです」
「なら今日は魚食べな」
「そのつもりです」
品書きを見る。
夜予算は八百ゴールドなので、昼に名前を聞いた《銀背魚》から試すことにした。
「軽麦酒と、銀背魚の皮炙りください」
「百と百八十で二百八十」
「お願いします」
軽麦酒が先に出てくる。
色はリーベルでよく飲むものより少し濃く、一口飲んでみると苦味が先に来た。
「苦めですね」
「塩気強い料理多いから」
メイラが答える。
「酒も負けないように?」
「そんな感じ。港の軽麦はだいたい苦め」
「土地で変わるんだ」
「リーベルは軽いんだっけ?」
「店によりますけど、これより軽いの多いです」
「魚に合わせるならそのくらいがいいよ」
少し待つと、《銀背魚の皮炙り》が運ばれてきた。
白い皿の上に、厚めに切った魚が五切れ並んでいる。
身は淡い桃色で、皮だけ強く焼かれて銀色から薄い焦げ茶色へ変わっていた。上には刻んだ青葉と粗い塩、それから黄色い小さな実の汁がかかっている。
「生じゃないんですね」
「何で?」
「港の魚って、生で食べるのかなって」
メイラが少し笑う。
「何でも生で食べると思ってる?」
「昼に注意されました」
「正しいね。銀背は皮炙った方がうまいよ。身は火を通しすぎない」
「半生?」
「そんな感じ」
一切れを箸代わりの細い木串で持ち上げ、口へ入れる。
「おいしい」
最初に皮の香ばしさが来た。
表面は少しぱりっとしているのに、内側の身は柔らかく、水分が残っている。魚そのものには軽い脂があり、粗塩を強めに振っているのに、黄色い実の酸味があるので重く感じない。
前の世界で言えば皮目だけを炙った魚料理や、たたきに少し近いものの、上に乗った青葉の香りだけはまったく覚えのないものだった。
「この葉っぱ何です?」
「《浜青葉》。海風強いとこに生える」
「しょっぱい?」
「葉自体はちょっとだけ。香りが魚に合う」
もう一切れ食べると、青臭さとは違う、少し柑橘にも似た爽やかな香りが魚の脂を切ってくれるのがよく分かった。
「これ、リーベルで食べる魚と全然違う」
「いつ運ばれたかで変わるからね」
「やっぱり新鮮だから?」
「それもある。でも魚の種類が違う」
「種類?」
「リーベルに持ってくなら日持ちする魚が多い。銀背は運べなくはないけど、皮炙りで食べるなら港の方がいい」
「なるほど」
単に「港だから新鮮」というだけではなく、遠くへ運ぶ魚と地元で食べる魚の種類そのものが違うらしい。
私は軽麦酒を一口飲む。
さっき単独で飲んだときは少し苦いと思ったのに、銀背魚の脂と塩を食べたあとでは、その苦味がちょうどよかった。
「本当に魚に合う」
「言っただろ」
「酒って店だけじゃなく街でも変わるんだなぁ」
「そりゃ水も麦も好みも違うからね」
隣の席から声がした。
「港じゃ塩が強いから、甘い酒ばっかりだと口疲れる」
見ると、五十代くらいの男性が座っていた。
顔はかなり日に焼け、短い灰色の髪をしている。太い指には細かな傷が多い。
「漁師さん?」
「網直し」
「漁師じゃないんだ」
「船にも乗るけど、本業は網」
男性はダンと名乗った。
前には《塩葉酒》と《浜貝の酒蒸し》が置かれている。
「それ貝です?」
「浜貝」
「おいしい?」
「港来て貝食わないの?」
「魚食べてます」
「両方食えばいい」
「強いなぁ」
メイラが笑う。
「初日から煽らない」
「港来て一皿だけじゃもったいないだろ」
今は軽麦酒百と銀背魚百八十で二百八十ゴールドなので、八百と決めた夜予算にはまだ五百二十の余裕がある。
「浜貝の酒蒸し、百六十ですよね?」
「そう」
「ください」
「はいよ」
追加して四百四十。
しばらくすると、浅い鉄鍋が出てきた。
小さめの貝が十個ほど入っており、殻は薄い青灰色。底には透明に近い汁が少し溜まっている。
「何の酒で蒸すんです?」
「塩葉酒」
「酒そのものもメニューにあるやつ?」
「そう。海藻と香草入れて作る」
「海藻酒?」
「海藻の味するほど入れないよ」
貝を一つ開く。
中の身は白く、端が少し橙色だった。
口へ入れた瞬間、銀背魚とはまた違う、濃い旨味と塩気が一気に広がった。
「うわ」
「濃いだろ」
ダンが得意そうに言う。
「貝そのものが結構しょっぱい」
「海の中いたからな」
「その説明でいいの?」
「大体合ってる」
メイラが補足する。
「浜貝は塩気強いから、追加の塩ほとんど使わない。酒と青葉で蒸すだけ」
「前の世界の酒蒸しに近いなぁ」
「また遠いところ?」
「はい」
「海ある?」
「ありました」
「なら似た料理あるだろうね」
貝をもう一つ食べる。
汁には貝の旨味が溶け出していて、酒の香りも残っている。強い塩味ではあるものの、飲めないほどではない。
「この汁、パンつけたい」
「黒麦薄焼き六十」
メイラがすぐ言う。
「売るの早い」
「みんな言うから」
「みんな頼む?」
「半分くらい」
予算にはまだ三百六十ゴールドあるので、六十なら問題ない。
「ください」
「はい」
黒麦薄焼きが追加され、合計は五百ゴールドになった。
薄い黒麦パンをちぎり、浜貝の汁を吸わせる。
そのまま食べると少し固く、酸味のある黒麦の香りが強いが、貝の汁を吸うと途端に柔らかくなり、塩気と旨味が麦の酸味に混じった。
「これ、完全に必要ですね」
「何が?」
ダンが聞く。
「パン」
「だろ?」
「最初から付ければいいのに」
「いらないやつもいる」
昨日の《曲がり灯》でも似た話をした気がする。
店が変わっても、必要な人が必要な分だけ追加するという考え方は同じらしい。ただ、今日は昨日より腹が減っており、街道を一日歩いたのだから当然だった。
銀背魚だけでは少し足りなかったが、浜貝と黒麦薄焼きまで食べると、ようやく身体が落ち着いてきた。
「港町って魚の匂いすごいと思ってました」
私は何となく言った。
メイラが首を傾げる。
「市場はするよ」
「店の中は思ったよりしない」
「臭い魚置いたら客来ないだろ」
「それはそう」
「港だから魚臭くて当然って思った?」
「ちょっと」
「海の近くに住んでる方が、魚の匂いにはうるさいよ」
「なるほど」
考えてみれば当然だった。
魚が身近だからこそ、古い匂いや悪い状態には敏感になる。港町だから何でも魚臭いというのは、外から来た人間の勝手な想像だったらしい。
「初めて来る人って、港なら何でも魚だと思うよな」
ダンが言う。
「今日まさにそう思ってました」
「明日になったら肉食ってたりして」
「ありそう」
「港の肉料理もうまいぞ。船乗り腹減るから」
「もう選択肢増やさないでください」
「何で?」
「一日一軒なので」
「何だそれ」
私は少し笑う。
リーベルで四十軒回って、まだ店がなくならないと分かったばかりなのに、別の街へ来た途端、また知らない店と料理が増えてしまった。
「セルナって居酒屋何軒あります?」
「知らん」
ダンとメイラがほぼ同時に答えた。
「またそれだ」
「何?」
「リーベルでも昨日聞いたら、誰も知らなかったんです」
「数えるやついないだろ」
メイラが言う。
「港は船員向けの店もあるし、朝だけ開く店、夜だけの店、船の上で酒出すやつまでいるから」
「船の上?」
「停泊中だけ酒場になる船」
「そんなのあるの?」
「あるよ」
「もう無理だ」
「何が?」
「全部知らなくていいって、昨日納得したばっかりなのに」
「なら問題ないじゃん」
「その通りですね」
銀背魚、浜貝、黒麦薄焼きまでで会計は五百ゴールドなので、八百と決めた夜予算にはまだ三百の余裕があった。
二杯目を飲むなら、軽麦酒百、薄青果実酒百四十、塩葉酒百三十。
魚をもう一皿頼む余裕もあり、品書きの《青尾小魚の香草揚げ》も気になったが、腹は今ちょうどよかった。
街道を長く歩いたせいで最初はかなり空腹だったものの、魚、貝、パンまで食べた今はもう十分だ。
「二杯目どうする?」
メイラが聞く。
「今日はやめます」
「旅疲れ?」
「それもあるし、今ちょうどいいので」
「なら水そこ」
「ありがとうございます」
カウンター端の水差しから、自分で水を注ぐ。
ダンが少し笑った。
「港初日に一杯で止めるの偉いな」
「八百まで使っていいって決めてたんですけど」
「まだ三百余ってるじゃん」
「予算って使い切る額じゃないって、最近やっと分かってきました」
「何歳?」
「二十六です」
「結構かかったな」
「自分でもそう思います」
メイラまで笑った。
水を飲みながら、最後の黒麦薄焼きで貝の汁を拭う。
港町に来たのだから魚を食べようという、かなり単純な理由で入った店だった。
けれど実際に食べてみると、銀背魚はただ新鮮なだけではなく、港で食べるからこそ皮炙りに向く魚で、軽麦酒も魚料理の塩気に合わせてリーベルより苦く作られていた。
浜貝には追加の塩をほとんど使わず、塩葉酒と香草だけで蒸し、その汁を受け止めるには黒麦薄焼きがちょうどいい。
港町だから魚があるのではなく、魚が身近だからこそ、酒もパンも料理の仕方も、それに合わせて少しずつ変わっているらしい。
「港町に来たなら、魚でしょうって思ってましたけど」
「違った?」
メイラが聞く。
「魚で正解でした。でも、魚だけ見てたら駄目なんだなって」
「よく分からん感想だね」
「私には分かってるので大丈夫です」
会計を頼む。
「軽麦百、銀背百八十、浜貝百六十、黒麦六十で五百」
「はい」
硬貨を渡す。
夜予算八百から三百残った。
今日の稼ぎは三千二百ゴールドで、昼食は支給され、セルナの宿代が三百五十、夜が五百なので、差し引きでは二千三百五十ゴールドも残っている。
「結構残った」
「仕事良かった?」
メイラが聞く。
「急募の護衛だったので」
「なら明日帰る?」
「まだ決めてないです」
答えてから、自分でも少し驚いた。
朝の時点では、一泊して明日リーベルへ戻ればいいと思っていた。
帰りの依頼を探してすぐ戻るのが一番手堅いのは分かっているが、セルナのギルドにはセルナの仕事があり、街には見たことのない魚や酒場がある。今日聞いただけでも、朝だけ開く店や船の上の酒場まであるらしい。
「まあ、明日の朝考えます」
「それがいいよ」
メイラが言う。
「港は朝と夜で全然違うから」
「また気になること言う」
「別に泊まれとは言ってない」
「分かってます」
私は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「また港来たらね」
同じ店には戻らないつもりなので、曖昧に笑って店を出す。
外へ出ると、潮の匂いがした。
昼に街へ入ったときより風が強く、遠くで船鈴の音が鳴っている。
港の夜はリーベルとはまったく違っていた。
通りを歩く人の中には仕事を終えた漁師もいれば、これから船へ戻るらしい人もいる。倉庫ではまだ荷物を運んでいるし、路地の奥からは知らない酒場の明かりがいくつも漏れていた。
今朝まで、私はリーベルで四十軒の店を回ったことを考えていた。
街にはまだ知らない店がたくさんあると分かり、それなら明日も仕事をして一軒探せばいいと思っていたのに、一日働いただけで、知らない店どころか知らない街まで来てしまった。
「冒険者って、こういう仕事だったっけ」
魔物を倒すより、最近は働いた先で食べ物のことばかり覚えている気がする。
それでも悪くない。
朝にはリーベルで薄パンを食べていたのに、夜には海のそばで銀背魚を食べている。こういう日がたまに混じるなら、毎日違う仕事を選ぶのも面白い。
港町に来たなら魚でしょう、と私は単純に考えていた。
その考え自体は間違っていなかったと思う。
銀背魚はおいしかったし、浜貝の酒蒸しも、汁を吸わせた黒麦薄焼きもよかった。ただ、港で食べたから分かったのは魚そのものの味だけではなく、どの魚を遠くへ運び、どの魚を港で食べるのか、塩気の強い料理にどんな酒を合わせるのか、貝に余計な塩を使わず海の味をそのまま生かすのはなぜなのかという、その土地で食べる理由の方だった。
土地のものを食べるというのは、単に食材が新鮮だというだけではないらしい。
「明日、どうしようかな」
港沿いの道で立ち止まり、海を見る。
暗くなった水面には、船の灯りがいくつも揺れている。
明日リーベルへ帰りたければ帰ればいいし、セルナでもう一日働きたければ朝にギルドへ行けばいいのだから、どちらを選ぶにしても今夜のうちに決める必要はなかった。
今日は三千二百ゴールドを稼ぎ、初めてセルナへ来て、五百ゴールドで魚と貝と一杯の酒を楽しめたのだから、それだけで十分いい一日だった。
財布の中には二千三百五十ゴールドが残っている。
私は《潮窓の宿》の方向へ歩きながら、明日のことより、さっき食べた銀背魚の焼けた皮の香りをもう一度思い出していた。




