第40話「この街、居酒屋何軒あるんですか?」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日《匙止め》で食べた《角鶏と豆の温煮》のことを思い出していた。
中央共同倉庫で備品の棚卸しをして千五百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。夜は五百五十ゴールドまで使っていいと考えていたものの、軽麦酒と温煮、それから《本日の匙皿》を食べたところで十分満足し、二杯目は水にしたため、会計は三百七十ゴールドだった。宿代三百を引いても八百三十ゴールド残ったので、ここ数日の中でもかなり財布が増えた一日だったと思う。
ただ、昨日は節約しようとして安く済ませたわけではない。
食べたいと思った匙皿は追加したし、二杯目は予算がなかったから諦めたのではなく、そのとき本当に欲しいと思わなかったから頼まなかった。夜予算を百八十ゴールドも残したのに、「あと一杯飲めたのに」と惜しい気持ちがほとんどなかったことの方が、自分としては少し意外だった。
「慣れてきたのかなぁ」
薄パンをちぎりながら呟く。
この世界へ来たばかりの頃は、千ゴールドを稼ぐこと自体が一日分の大きな成果だった。仕事を取るにも緊張したし、スライム一匹倒すだけでも余計な力を使い、酒場へ入れば値段と財布を何度も見比べていた。それでも一日の終わりに酒を一杯飲めれば、「今日もどうにか生きた」と思えたものだ。
今は千五百前後の仕事を選べる日が増え、仕事先で知り合いもでき、街の大体の方角も分かるようになった。高い料理に驚くことはあっても支払いそのものに怯えることは減っていて、気づけばこの街で暮らすこと自体にかなり慣れている。
「結構暮らしてるな、私」
日本にいた頃の生活とは何もかも違うのに、《銀鈴の宿》で朝食を取り、ギルドへ仕事を探しに行き、終われば知らない居酒屋を探す流れが、いつの間にか特別な出来事ではなくなっていた。
だからといって、今日から急に何かを変える理由もない。今日も働いて、その金の中から宿代を払い、夜に一杯やればいい。
「よし」
朝食を終え、私は《銀鈴の宿》を出た。
空は薄い青色で雲は少なく、朝の冷え込みは昨日より少し強かった。吐く息が白くなるほどではないものの、日陰を歩くと手を袖の中へ入れたくなる程度には寒い。
冒険者ギルドへ着くと、依頼板の前は普段より混んでいた。
入口近くで聞こえた話によれば、郊外へ向かう商隊が何組か重なっているらしく、護衛依頼を探す冒険者が多いらしい。報酬は魅力的だったが日帰りで済まない可能性があり、今はわざわざ遠くへ出たい気分でもなかったので、今日は護衛ではなく街仕事を探すことにした。
《中央広場・冬市準備補助 報酬千六百ゴールド》
《西工房街・炭袋運搬 報酬千四百ゴールド》
《東商業区・共同看板清掃 報酬千三百ゴールド》
《北倉庫街・空箱回収 報酬千二百ゴールド》
《南門前・露店区画線引き 報酬千五百ゴールド》
「冬市準備」
中央広場では季節ごとに大きな市が開かれる。
私はまだ本格的な冬市を見たことがないが、最近街を歩いていると、厚手の服や乾燥食材、暖房用の炭を並べる店が少しずつ増えていた。
依頼票を外して読む。
《中央広場・冬市準備補助》
《報酬千六百ゴールド》
《一日予定》
《内容:露店位置札設置、仮設卓搬入、通路幅確認、案内板設置》
《昼食支給》
《重量物あり》
《商人の独自移動は禁止》
《区画責任者の指示を優先すること》
「商人の独自移動は禁止」
また何かあったのだろう。
受付へ持っていくと、今日の担当は三十代後半くらいの女性だった。暗い金髪を肩の後ろでまとめ、細い眉が少し上がっている。
「中央広場ですね」
「最後の注意、何があったんです?」
「去年、場所が気に入らない商人が勝手に卓を二歩動かしました」
「二歩くらいならよさそうですけど」
「隣も二歩動かして、その隣も動かして、最終的に通路が半分になりました」
「ああ」
「なので今年は一歩でも動かすなら責任者へ」
「了解です」
「あと、飲食露店の位置札を見て、お腹を空かせすぎないように」
「そんな注意あります?」
「私からの個人的な注意です」
「経験者だ」
「去年、仕事終わるまでずっと焼き肉の絵札が目に入りまして」
「それはつらい」
受付を終え、中央広場へ向かった。
普段の中央広場は人の行き来こそ多いが、真ん中にはかなり広い空間がある。その場所が今日は、木材、折り畳み卓、縄束、番号札で埋まり始めていた。
「ギルドの人はこっち!」
大きな声がする。
手を上げていたのは、四十代半ばくらいの女性だった。
名前はジーナ。短い黒髪に赤い布を巻き、厚手の灰色上着の上から黄色い腕章を付けている。
「ミサキです」
「ジーナ。今日は区画作り。まずこの札、番号順に東側へ置いて」
渡された木札には、《東一》《東二》《東三》といった番号と、小さな絵が描かれていた。
「この絵は店の種類?」
「そう。杯が酒、肉串が焼き物、袋が乾物、靴が革物、針が衣類」
「酒の露店もあるんだ」
「冬市だからね。温めた酒出す店も来るよ」
「それ、仕事中に聞きたくなかった」
ジーナが笑う。
「飲むのは終わってから」
「もちろんです」
今日の作業員は全部で六人だった。
ギルドから来たのが私を含め三人、市場組合の若い職員が二人、それから荷運び専門らしい大柄な男性が一人いる。
その大柄な男性はカロスという名前で、三十代半ばくらい。頭を短く刈り、厚い革手袋をしている。
「東一から八まで持ってくぞ」
「はい」
最初は位置札を並べるだけなので楽だった。
広場の石畳には小さな印が刻まれており、その印へ木札を立てていく。ただし番号通りに置けば終わりというわけではなく、今年の配置に合わせて少しずつ位置を変える必要があった。
「東三、そこじゃない」
ジーナが遠くから声をかける。
「印ここですけど?」
「今年は通路広げるから半歩外」
「毎年同じじゃないんだ」
「店増えたからね」
「増えた?」
「去年より十二軒多い」
「十二?」
「冬市全体でね」
私は手元の木札を見る。
ただでさえ中央広場いっぱいに区画を作っているのに、去年よりさらに十二軒増えるらしい。
「全部で何軒くらい出るんです?」
「広場だけで七十ちょい。周辺通りまで入れたら百近いんじゃない?」
「百」
「期間中入れ替わる店もあるから、延べならもっと」
「すごいな」
「リーベルは商人多いからね」
午前中の前半は、ひたすら位置札を置いていった。
東側は食べ物と酒が多く、西側は衣類や革製品、南側は日用品と雑貨、北側は遠方商人の品物が中心らしい。食べ物の絵札だけでもかなり種類があり、肉串、魚、煮込み鍋、焼き菓子、乳製品、果実、酒、香辛料料理と分かれている。
「こんなに食べ物いる?」
私が言うと、隣で札を置いていた若い男性が笑った。
二十代前半くらいで、癖のある薄茶色の髪をしている。市場組合の職員で、名前はティム。
「市って食いに来る人も多いから」
「買い物じゃなくて?」
「両方。家族で来て、服買って、鍋食って、酒飲んで帰る」
「それ楽しそう」
「冬市初めて?」
「はい」
「なら期間中来れば?」
「仕事じゃなく?」
「客で」
「それはちょっと考えます」
「飲み歩き好きなら絶対好きだと思う」
「何で知ってるんです?」
「さっき酒の札だけやたら見てた」
「そんな分かりやすかった?」
「かなり」
否定できなかった。
位置札が終わると、次は仮設卓の搬入になった。
折り畳み式とはいえ、太い木材で作られた卓はかなり重い。
カロスと二人で一台を持ち上げる。
「せーの」
「重っ」
「腰で持つなよ」
「分かってます」
「腕だけでも持つな」
「じゃあどこで?」
「全部」
「雑だなぁ」
「全部使えって意味だ」
東側の飲食区画へ卓を運ぶ。
一台置いたところで、ジーナが位置を確認する。
「もう指一本右」
「指一本?」
「そう」
カロスと顔を見合わせる。
「持ち上げる?」
「引けばいける」
二人で少しずらす。
「そこ」
「こんな細かいんですね」
私が言うと、ジーナが頷いた。
「十二軒増えてるからね。少しずつ詰めないと入らない。でも詰めすぎると客が通れない」
「増やせばいいって話でもないんだ」
「広場は広がらないからね」
昨日の共同倉庫で「何でも残しておけばいいわけではない」と聞いたのを思い出した。市場も似たようなもので、店が増えるのは嬉しくても、通路まで潰して詰め込めば客が歩けなくなる。
「昨日も似た話聞いたなぁ」
「何?」
「物を全部残したら倉庫が死ぬって」
「市場も店全部入れたら客が死ぬよ」
「そこまで?」
「冬市の日に来れば分かる」
卓を並べる作業は昼まで続いた。
途中、出店予定の商人たちが何人か様子を見に来る。
「俺の店、ここ?」
「東十七です」
「去年は十三だったぞ」
「今年は区画変更です」
「角がいいんだけど」
「動かさないでください」
「半歩くらい」
「駄目です」
ジーナが一切迷わず答える。
別の商人は、自分の隣が酒の露店だと知って喜んでいた。
「酒の隣なら肉売れるな」
「そっちは焼き根菜屋です」
「根菜でも酒飲むだろ」
「飲みますね」
「だろ?」
私が返事をすると、ジーナに見られた。
「何で手伝ってるの」
「つい」
「商人側に入らない」
「はい」
昼食は市場組合の詰所で支給された。
大きな丸パンに燻し肉と薄切り黄根を挟んだもの、それから温かい玉葱に似た野菜のスープだった。
「冬市って何日やるんです?」
食べながらティムへ聞く。
「本番は五日。その前後に小さい店が残るから、だいたい一週間くらい賑やか」
「毎日同じ店?」
「ほとんどはそうだけど、二日だけとか三日だけの遠方商人もいる」
「全部見るの無理そう」
「全部見る人いないよ」
「でも食べ物だけなら」
「もっと無理」
「何で?」
「飲食だけでも三十以上来るから」
「三十」
「あと広場外の店も冬市向けの料理出すし」
私はパンを持ったまま止まった。
「広場外の店も?」
「そりゃ出すよ。客増えるんだから」
「リーベルって、そんな店あるんだ」
「何軒あると思ってたの?」
「ちゃんと数えたことないです」
「普通数えない」
「私は毎晩違う居酒屋入ってるので」
ティムがこちらを見る。
「毎晩?」
「大体」
「同じ店行かないの?」
「今のところは」
「何軒行った?」
私は少し考える。
最初の《麦穂亭》から昨日の《匙止め》まで、三十九軒も回っているのだから、自分ではかなり街の店を知ったつもりになっていた。
「三十九軒」
「……三十九?」
「多い?」
「多いけど、この街ならまだあるよ」
「どのくらい?」
「知らない」
「市場組合なのに?」
「組合に入ってない小さい店もあるし、酒場登録でも食堂寄りとか宿の一階とか色々あるから」
「じゃあ誰も分からない?」
「税務の人ならある程度分かるかも。でも開いて閉じてするからなぁ」
「そんなに?」
「店なんて増えるし減るよ」
その話が妙に頭へ残った。
一度入った店へ戻るより、まだ知らない店へ行く方が面白くて続けてきただけなのに、気づけば三十九軒になっていた。それでも夜の街を歩けば、見たことのない看板はいくらでも見つかるらしい。
「この街、居酒屋何軒あるんですか?」
私が本気で聞くと、ティムは笑った。
「知らないって」
「怖いなぁ」
「何が?」
「終わりが見えない」
「全部行くつもりなの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
言いかけて、自分でも少し考えた。
全部行くと決めた覚えはないし、最後の一軒まで探す必要もない。ただ、一度入った店へ戻るよりまだ知らない店へ行く方が面白くて、それを繰り返しているうちに三十九軒になっただけだ。
「まあ、なくなるまで行けば?」
ティムが軽く言う。
「なくならないって今聞いたんですけど」
「じゃあ困らないじゃん」
「それはそうなんだけど」
昼休憩が終わり、午後は通路幅の確認から始まった。
長い縄を二本張り、その間を人がすれ違える幅に保つ。仮設卓の角が少し出ていれば戻し、案内板が通路を塞ぎそうなら位置を変える。
午後になると見物に来る商人がさらに増え、何度も同じ説明をすることになった。
「ここ、もうちょっと前出せない?」
「通路なので駄目です」
「隣より引っ込んでる」
「隣もあとで下げます」
「酒屋の隣にしたい」
「区画変更は責任者へ」
「責任者どこ?」
「赤い布巻いてる人」
「ありがとう」
商人がジーナの方へ向かっていく。
「絶対断られるだろうなぁ」
私が呟くと、カロスが笑った。
「分かってて教えたのか?」
「責任者へって言われてるので」
「正しい」
午後の後半は案内板を立てた。
《飲食区画 東》
《衣類・革 西》
《雑貨・日用品 南》
《遠方商人 北》
さらに飲食区画の中にも小さな案内が付く。
《温食》
《焼物》
《酒》
《菓子》
「酒だけ独立なんだ」
「混むから」
ティムが答える。
「そんなに?」
「温酒の店は寒い日すごいよ」
「絶対行きたい」
「仕事終わってからね」
「今日はまだ開いてないでしょう」
「準備中に飲もうとする人もいるから」
「私そこまでじゃないです」
「本当に?」
「多分」
「多分か」
すべての案内板を立て終える頃には、広場の景色が朝とはかなり変わっていた。
何もなかった石畳の上に何十もの区画ができ、仮設卓が並び、通路まで形になっている。まだ商品も客もいないのに、どこに人が集まり、どこから匂いが流れてくるのかまで想像できそうだった。
「これ全部埋まるんだ」
私が言うと、ジーナが横に立つ。
「本番はもっと狭く見えるよ」
「店増えたら大変ですね」
「大変。でも店が増えるのは悪いことじゃない」
「お客が来るってことですもんね」
「そう。減って困る年もあるから」
「なるほど」
「広場に入らなきゃ周りで店出す人もいるしね」
「さらに増えるんだ」
「街なんてそんなもんだよ」
その言葉を聞きながら、私は並んだ卓を眺めた。
人が住んで働いて食べて飲む街なら、新しい店ができることもあれば、なくなる店もある。自分が知らない場所で、今日も誰かが新しい料理を出し始めているのかもしれない。
仕事が終わったのは夕方前だった。
ジーナに完了票へ印をもらう。
「助かった。冬市来るなら、人多いから財布気をつけて」
「食べ物じゃなく?」
「そっちも気をつければ?」
「予算ですね」
「知らないけど」
「最近そこは少し上手くなりました」
「ならいいんじゃない」
ギルドへ戻って、報酬千六百ゴールドを受け取った。
今日は昼食支給なので、宿代三百を引いても千三百残る。夜に五百五十使ったとしても七百五十ゴールド残せるので、財布の流れとしても悪くない。
「今日は普通に使っても大丈夫」
硬貨をしまい、一度《銀鈴の宿》へ戻った。
一日中、卓や案内板を運んでいたので腕と肩に疲れはあるが、数日前の採石道ほどではない。顔を洗い、少し横になってから、日が落ち始めた頃にまた街へ出る。
中央広場を通ると、昼に並べた卓が夕闇の中へきれいに並んでいた。
準備を続けている人もまだいる。
数日後には、ここへ百近い店が集まる。
「三十九軒回って、まだこれかぁ」
少し笑ってしまう。
もちろん冬市の店すべてが居酒屋ではない。それでも今日初めて、「自分がかなり回った」という感覚より、「この街にはまだ知らない店の方がずっと多い」という感覚の方が強くなった。
今夜も、そのうちの一軒を探せばいい。
今日は中央広場から北東の通りへ歩いてみる。
普段あまり通らない細い道だった。
一軒目は宿の一階にある食堂で、酒も出しているようだったが今日はかなり混んでいる。二軒目は外から見ても高そうな果実酒専門店で、三軒目は看板が小さすぎて危うく通り過ぎるところだった。
木板に描かれているのは、小さな路地と、その先に一つだけ灯る丸い明かり。
《曲がり灯》
「こんなところにもあるんだ」
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 八十ゴールド》
《濃麦酒 百十ゴールド》
《香草酒 百三十ゴールド》
《炙り角兎 百三十ゴールド》
《豆と茸の油焼き 百ゴールド》
《白根塩煮 九十ゴールド》
《燻し魚ほぐし 百二十ゴールド》
《焼き薄パン 五十ゴールド》
《刻み青菜 六十ゴールド》
値段は全体的にかなり安く、看板も小さければ店構えも目立たない。もし今日、冬市の話を聞かずに大通りだけ歩いていたら、見つけなかったかもしれない。
「入ってみよう」
扉を開ける。
店内はかなり小さかった。
カウンターが六席だけで、奥には二人掛けの卓が二つある。天井も低く、壁には小さな油灯が三つだけ掛けられている。
「いらっしゃい」
店主は五十代半ばくらいの男性だった。
名前はネイル。白髪の混じった短い茶髪に、細い目。深緑色の上着の上から黒い前掛けを着けている。
「一人です」
「どこでも」
カウンターの端へ座る。
「この店、看板小さいですね」
「大きくする場所ないから」
「道から見えにくい」
「見つけたやつが来ればいい」
「商売として大丈夫なんです?」
「二十年やってる」
「強い」
ネイルは少しだけ笑った。
「何飲む?」
「軽麦酒と、炙り角兎ください」
「二百十」
「お願いします」
今日の夜予算は五百五十なので、最初の注文で二百十ならかなり余裕がある。
軽麦酒は薄い金色で泡も少なく、一口飲んでみると名前通りかなり軽い口当たりだった。麦の甘さが最初に少しあり、苦味はほとんどなく、最後に青い香草のような香りがほんの少し残る。
「これ、何か入ってます?」
「《細葉》」
「香草?」
「樽に一束入れる」
「何で?」
「古い麦の匂い消す」
「安い麦使ってる?」
「そう」
「正直ですね」
「八十で高い麦使えるか」
「それもそうか」
以前の《残り銭》でも安い酒には安いなりの工夫があったが、ここでは質の少し落ちる麦を使い、その香りを《細葉》で整えているらしい。安いから雑なのではなく、安く出すために別の手間を使っている。
少し待つと、《炙り角兎》が出てきた。
薄く切った肉が五枚ほど、小さな木皿へ並んでいる。
表面はしっかり焼かれており、粗塩と砕いた乾燥葉が振られていた。
一枚食べると、角兎らしい締まった肉質で脂は少なく、噛むほど肉の味が強くなったあとに乾燥葉のほろ苦さが来た。
「これ百三十ならいいですね」
「脚の端使ってるから」
「端?」
「形悪いとこ。薄く切れば同じ」
「また使い切る話だ」
「何?」
「最近そういう料理よく見るなって」
「普通だろ。食える肉捨てない」
「ですよね」
少し離れた席に、一人の男性が座っていた。
四十代くらいで、茶色い髪を耳の上で短く切り、首から細い革紐を何本か下げている。服の袖には赤や青の小さな染みがあった。
「初めて見る人だな」
男性がこちらへ言う。
「初めてです」
「よく見つけたな」
「そんなに見つけにくい?」
「大通りから看板見えないし」
「今日、たまたまこっち歩いて」
男性はラズと名乗った。
革紐や小物を染める職人らしい。
「ここ長いんです?」
「俺が知ってるだけで十五年」
「店主は二十年って」
「その前知らんから」
「この辺の人が来る店?」
「多いね。工房帰りとか、北側住んでるやつとか」
「観光客みたいな人は?」
「何の観光?」
「そういうのないか」
「冬市の商人はたまに来る」
そこで昼の話を思い出す。
「今日、冬市の準備してたんです」
「もうそんな時期か」
「店、百近く出るって聞いてびっくりしました」
「周り入れればもっとだろ」
「やっぱり?」
「冬市だけ屋台出す家もあるし」
「この街、本当に店多いですね」
「そうか?」
「毎晩違う居酒屋に入ってるんですけど、今日で四十軒目なんです」
ラズが杯を止めた。
「四十?」
「はい」
「同じとこ行かず?」
「今のところ」
「変な飲み方するなぁ」
「よく言われます」
ネイルが角兎の皿を拭きながら言う。
「四十くらいじゃ終わらんだろ」
「やっぱり?」
「酒出すだけなら何軒あるか知らん」
「市場の人にも同じこと言われました」
「宿、食堂、酒場、立ち飲み、屋台。線引きできんからな」
「そうなんですよね」
「全部行く気か?」
「全部って言われると、そこまでは……」
そこで言葉が止まる。
今朝までなら、「全部行く」と言うのは大げさだと思っていた。
でも、全部行く必要はないし、終わりを決める必要もない。仕事をした夜に、そのとき見つけた一軒へ入ればいい。それを続けていたら四十軒になっただけで、これから五十軒になろうが百軒になろうが、別に困ることではなかった。
「終わらなくてもいいのか」
「何が?」
ラズが聞く。
「いや、店巡り」
「趣味に終わり要る?」
「……いらないか」
「酒飲むのやめる日までやれば?」
「それ、かなり先かも」
「なら店も足りるだろ」
「足りそうなのが怖い」
二人が笑った。
軽麦酒を飲み、残った角兎を食べる。
現在の会計は二百十で、夜予算は五百五十なのでまだ三百四十使える。
「豆と茸の油焼きください」
「百」
追加して三百十。
しばらくすると、小さな鉄皿が出てきた。
白豆と薄切りの茸が油で焼かれ、細かな青菜が混ぜられている。
香りはかなり強い。
「何の油です?」
「《実油》」
「木の実?」
「そう。北丘のやつ」
一匙食べると最初に茸の香りが立ち、そのあと豆の甘さと実油の香ばしさが広がった。塩味は控えめだが、油の香りが強いので薄く感じない。
「これ、パン欲しくなるな」
「五十」
「商売上手」
「メニューにある」
「それはそう」
焼き薄パンを追加すれば三百六十ゴールドになる。
腹にはまだ余裕があり、油焼きの残った油をそのままにするのも少し惜しい。
「焼き薄パンもください」
「はい」
最初は頼むつもりのなかった薄パンを追加し、薄く焼いた麦パンをちぎって鉄皿に残った実油を吸わせて食べると、茸と木の実の香りまで一緒に染み込み、そのまま食べるよりずっと満足感が増した。
「これいい」
「みんなそうする」
ネイルが言う。
「最初から付けたらいいのに」
「いらないやつもいる」
「必要な人だけ頼めばいい?」
「そう」
「昨日の店みたいなこと言うなぁ」
「知らん」
会計は軽麦酒八十、炙り角兎百三十、豆と茸の油焼き百、焼き薄パン五十で、合計三百六十ゴールド。
まだ夜予算から百九十残る。
二杯目も頼めるが、今日は店そのものを見つけた満足感の方が強く、酒を追加したい気持ちはそこまで大きくなかった。
「水もらえます?」
「そこ」
カウンターの端に水差しがある。
自分で木杯へ注ぐ。
ラズが笑った。
「四十軒目で水?」
「一杯は飲みました」
「記念に二杯とかしないの?」
「記念だったんですか?」
「四十って切りいいだろ」
「十ごとに記念してたら大変ですよ」
「じゃあ百」
「そこまで行ったら考えます」
「行く気あるじゃん」
「今ちょっと思いました」
自分でも笑ってしまう。
今日の《曲がり灯》で四十軒目になり、数字だけなら確かに区切りはいい。それでも今夜この店へ入ったのは四十軒目だからではなく、たまたま今日歩いた路地にあった知らない店が気になったからで、それで十分だった。
「会計お願いします」
「三百六十」
「はい」
硬貨を渡す。
「安かった」
「足りなかった?」
ネイルが聞く。
「逆です。十分でした」
「ならいい」
「また来い、とは言わないんですね」
「来るやつは来るし、来ないやつは来ない」
「私、同じ店行かないんです」
「聞こえてた」
「じゃあ今日だけですね」
「今日食ったなら、それでいいだろ」
その言い方が妙に気に入った。
「はい。それでいいです」
店を出ると、外はかなり暗くなっていた。
細い路地を抜けると、少し先に大通りの灯りが見える。
今日の稼ぎは千六百ゴールドで、昼食は支給、宿代三百、夜は三百六十なので、差し引きで九百四十ゴールド残る。
節約しようとしたわけでもないのに、昨日よりさらに多く残った。
炙り角兎を食べ、豆と茸の油焼きを追加し、薄パンまで頼んでいるので、我慢した感覚もない。その日の腹と気分に合わせて頼んだ結果、今日は三百六十だっただけだ。
財布の中の硬貨が増えているのは嬉しい。
けれど、今夜はそれより別のことの方が頭に残っていた。
三十九軒回ったあとでも、《曲がり灯》のような店が、普段通らない路地に普通に残っていた。昼には冬市の準備をしながら、期間中だけで百近い店が中央広場と周辺に集まると聞き、市場組合のティムにも店主のネイルにも、リーベルに酒を出す店が何軒あるのか正確には分からないと言われた。
「この街、居酒屋何軒あるんですか?」
朝から何度目か分からない問いを、今度は誰もいない夜道で口にする。
当然、答えは返ってこない。
でも、もうそれでいい気がした。
この世界へ来たばかりの頃は、一日分の稼ぎと一晩の宿、それから今夜何を食べられるかだけで精一杯だった。あの頃の私は、リーベルがどれだけ大きい街なのかも知らなかったし、酒場の数を気にする余裕もなかった。
それが今は、この路地の先には何があるのか、まだ入ったことのない店がどこにあるのかを考えながら歩いている。
強い冒険者になったわけでも、大金持ちになったわけでもない。それでも、この街で働いて、一杯飲んで帰る生活にはかなり慣れた。
三十九軒回っても終わらないなら四十軒目へ行けばよく、その次にまた知らない看板を見つけたら、そのとき入るかどうか考えればいい。全部回る必要もなければ、最後の一軒を探す必要もないのだろう。
知らない店がまだあるというだけで、明日働く理由が少し増える。
「まあ、なくならないなら困らないか」
昼にティムから言われたことを思い出し、今度は自分で言ってみる。
仕事をすれば金が入り、その日の予算を決められ、その金があればまだ知らない店の扉を一つ開けられる。そこが当たりかどうかは、実際に入って食べてみなければ分からない。
それくらいの先の楽しみなら、私にはちょうどいい。
今夜使わなかった百九十ゴールドと、今日一日で残った九百四十ゴールドが財布の中で鳴る。
私は中央広場の方を見る。
数日後には、昼に並べた何十もの卓へ酒や料理が並び、今以上に知らない味が街へ増えるのだろう。全部を食べることなんてできないのだから、その日に気になった一つを選べばいい。
「四十一軒目も、普通に見つかりそうだなぁ」
少しだけ笑いながら、私はまだ歩いたことのない脇道を横目で確認し、その場所を明日の約束にすることもなく、そのまま夜のリーベルをゆっくり歩いていった。




