第39話「必要でした」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日《蜜杯屋》で食べた《黒殻菓子》と樽香酒の組み合わせを思い出していた。
中央市場の《白房菓子商会》で材料運びをして千五百ゴールドを稼ぎ、昼には屋台の焼き薄パンへ九十ゴールド。夜は五百五十ゴールドまでと決めていたところ、《蜜杯屋》で樽香酒、黒殻菓子、燻し肉薄切り、それから火蜜酒を使った《酒香果実煮》まで試して四百六十ゴールドだったので、宿代三百を引いても六百五十ゴールド残った。
予算内に収まったことも嬉しいが、昨日はそれ以上に、今まで自分から選ばなかったものを一つ知ることができたのがよかった。
甘いものと酒なんて別々でいいと思っていたのに、酒に合わせることを考えて作られた菓子なら、甘さや苦味、塩気まで含めてちゃんとつまみになる。全部の菓子を酒と一緒に食べたいとは思わないし、今でも焼き鳥と麦酒を出されたらそちらへ手を伸ばす気はするが、「自分が普段選ばない」と「合わない」は同じではないと分かった。
「最近、食べるたびに何か勉強してる気がするなぁ」
朝食の薄パンをちぎり、豆と刻み野菜の煮込みへ浸す。
冒険者として強くなるための勉強より、酒場で何をどれだけ頼むかについての知識ばかり増えている気もするが、それで困っているわけではない。むしろ今の生活ではかなり重要で、仕事をして宿代を払い、食べて飲み、それでも少しずつ金を残していく毎日だからこそ、何に使うかを考えられるようになるのは悪くない。
「今日は何しよう」
ここ数日は食材や厨房に関係する仕事が多かったので、今日は本当に別の仕事にしたい。
荷運びそのものは嫌いではないが、卵、保存食、菓子材料と続けば、さすがに違う景色が見たくなる。
今日も千五百ゴールド前後稼げれば十分だ。夜は五百から六百くらい使っても構わないし、今の財布なら多少予定がずれても問題はない。
そう考えながら朝食を終え、《銀鈴の宿》を出た。
空はよく晴れていた。
朝の空気は冷たいが、日差しが出ているぶん昨日より歩きやすい。通りでは商人が店先の布を広げ、荷車を引く人たちが声を掛け合っている。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前には十人ほど集まっていた。
《東外縁・排水溝清掃 報酬千三百ゴールド》
《西工房街・木材寸法確認補助 報酬千四百ゴールド》
《北門外・街道標識交換 報酬千六百ゴールド》
《中央共同倉庫・備品棚卸し 報酬千五百ゴールド》
《南市場・天幕縄交換 報酬千二百ゴールド》
「備品棚卸し」
その言葉に目が止まった。
食べ物関係ではなく、しかも報酬は千五百ゴールドなので、今日の希望にはちょうどよかった。
《中央共同倉庫・備品棚卸し》
《報酬千五百ゴールド》
《一日予定》
《内容:共同備品の数量確認、破損確認、用途別仕分け》
《重量物少数》
《昼食支給》
《廃棄判断は管理者が行うこと》
《使用可否を勝手に決めないこと》
「最後の二行、何かあったな」
依頼票を外し、受付へ持っていく。
今日の受付は三十代くらいの男性で、黒髪を短く刈り、右眉の上に小さな傷があった。
「共同倉庫ですね」
「これ、廃棄判断を勝手にするなって強調されてますけど」
「先月、古い縄をまとめて捨てた人がいまして」
「使えなかったんじゃなくて?」
「短く切って荷締め用にする予定だったそうです」
「ああ」
「逆に、壊れた手押し車を《まだ押せます》と言って残した人もいました」
「押せるけど使えないやつ?」
「車輪が外れかけてました」
「それは怖い」
「なので今日は、数える、状態を見る、分けるまでです。必要か不要かは管理者に聞いてください」
「了解です」
手続きを済ませ、中央共同倉庫へ向かう。
リーベルの中央市場から少し北へ外れた場所に、大きな灰色の石造りの建物があった。冒険者ギルドや市場組合、街壁の補修班などが共同で使う備品を置いているらしい。
入口には荷車が何台か止まっている。
中へ入ると、木材、縄、油壺、工具箱、布、折り畳み式の天幕骨組みなど、種類の違う物が高い棚へ大量に並んでいた。
「ギルドの手伝いか?」
奥から声がする。
出てきたのは、五十代前半くらいの男性だった。
名前はハイゼン。濃い灰色の髪を短く整え、厚い革の作業着を着ている。左手には小さな木板、右手には炭筆を持っていた。
「ミサキです」
「ハイゼン。今日は三番棚から七番棚まで確認する。勝手に捨てるな、勝手に残すな、分からなかったら聞け」
「受付でもかなり念押しされました」
「前にやらかしたやつがいるからな」
「縄捨てた人?」
「それ以外にもいる」
「複数なんだ」
「人は物を捨てたがるやつと、何でも取っとくやつに分かれる」
「極端ですね」
「倉庫やってると分かる」
今日一緒に作業するのは、私のほかに二人いた。
一人は二十代後半くらいの男性で、赤茶色の髪を短く切り、細身ながら腕はしっかりしている。名前はヴェン。
もう一人は四十代くらいの女性で、肩までの黒髪を布でまとめ、腰に小さな金槌を下げていた。名前はマロ。普段は街壁補修の仕事をしているらしい。
「最初は三番棚。縄と固定具」
ハイゼンに案内され、作業が始まった。
棚には太さも長さも違う縄が大量に積まれており、新品に近い長い縄から、泥で汚れたもの、途中で切れた短いもの、端だけほつれたものまで混じっている。
「これ、見た目だけなら捨てたくなるなぁ」
短い縄を持ち上げる。
「だから捨てるな」
ハイゼンがすぐ言う。
「まだ捨ててません」
「それは荷車の荷止め用」
「こんな短くても?」
「長い縄で小箱一つ縛る方が無駄だろ」
「確かに」
短い縄には小箱を固定する使い道がある一方、長くても繊維が傷んでいれば、人や重い荷物を支える用途には使えないらしい。
「長い方が価値あると思ってました」
「物は長さだけじゃ決まらん」
マロが横から言った。
「壁の補修でもそうだよ。小さい石が必要な隙間にでかい石持ってきても入らない」
「大きければいいわけじゃないの、最近何度も聞いてる気がする」
「最近何してたの?」
「大きい卵を運んだり、大盛りは得じゃないって聞いたり」
「何の仕事?」
「冒険者です」
「本当に?」
「本当です」
マロが笑う。
三番棚では縄を太さごとに分け、長さを確認し、ほつれや湿気による傷みを木札へ記録していく。
四番棚は金具だった。
荷車や天幕に使う留め具、鎖、釘、輪金具が箱ごとに入っている。
「錆びてるの多いですね」
「表面だけなら磨けば使える」
ハイゼンが答える。
「これは?」
私は赤茶色に錆びた大きな輪金具を持ち上げる。
ハイゼンが受け取り、指で少し叩いて音を聞いたあと、金槌で軽く打った。
「これは駄目」
「違い分かるんです?」
「錆びが中まで入ってる。荷車に使ったら割れる」
「見た目似てるのに」
「だから勝手に判断するなって書いてある」
「納得しました」
隣でヴェンが小さな留め金を数えている。
「こっち五十七」
「札は六十になってるぞ」
ハイゼンが帳面を見る。
「三つ足りない」
「使われたのかな」
「貸出記録見る」
倉庫の仕事は物を数えれば終わりというわけではなく、帳面の数と実物が合わなければ、貸出中なのか、破損で処分されたのか、単に記録漏れなのかまで確認しなければならない。
「棚卸しって前の世界でも面倒だったなぁ」
「何だ?」
ヴェンが聞く。
「在庫数える仕事です。店とか会社でやる」
「どこも同じか」
「合わないと原因探すところまで同じ」
「数え直すの一番嫌だよな」
「本当に」
五番棚は工具類だった。
木槌、鉄槌、釘抜き、短い鋸、削り具、手斧、革手袋などが並んでいる。
その中に、柄の半分が割れて布で巻かれた木槌があった。
「これは捨ててもよさそう」
私が言う。
「まだ使う」
マロが答えた。
「本当に?」
「頭は無事だから、柄を交換する」
「修理前なんだ」
「そう。壊れてると要らないは違うよ」
その言葉が少し引っかかり、私は修理待ちの木槌を見ながら聞いた。
「壊れてるけど必要?」
「修理すればね」
「なるほど」
私は木槌を修理待ちの箱へ入れる。
逆に、一見きれいな革手袋でも内側が裂けているものは、作業中に手を守れないので使用不可だった。外から見て古いか新しいかだけでは判断できず、必要か不要かも見た目だけで決まるわけではないらしい。
昼前には三番から五番棚まで終わった。
昼食は倉庫の休憩所で支給された。
今日の献立は、大きめの薄パンに燻し肉と刻み野菜を挟んだもの、それから温かい豆のスープだった。
「結構ちゃんとしてる」
私が言うと、ハイゼンがスープを飲みながら鼻を鳴らした。
「一日仕事で昼飯まで薄かったら午後動かんだろ」
「必要な分は出すんですね」
「当たり前だ」
「今日その言葉多いな」
「何が?」
「必要とか、使えるとか」
「倉庫なんだからそうなる」
マロが薄パンを半分ほど食べたところで、ため息をつく。
「必要って言葉も難しいけどね」
「何で?」
「補修班だと、《これ必要だから買って》って出しても、事務方に《去年買っただろ》って言われる」
「去年のは?」
「使った」
「じゃあ必要じゃないですか」
「そうなんだけど、《どこに使った》って全部書かないと通らない」
「前の会社みたいだ」
「何?」
「何でもありません」
前の世界でも、仕事で必要だから買うと言っているのに、なぜ必要なのかを何枚も書類に書かされたことがあった。新しい椅子が欲しいわけではなく、壊れた椅子の代わりが必要なのに、「本当に必要ですか」と聞かれるたび、必要だから申請しているのにと思ったものだ。
「でも、何でも必要って言えば通ったら倉庫いっぱいになるよ」
ヴェンが言う。
「それも分かる」
「だから面倒なんだよ」
「必要って、本人にとっては簡単なのにね」
「外から見ると分からんからな」
ハイゼンが答えた。
「使うかどうか、代わりがあるか、直せるか、次にいつ要るか。その辺見ないと判断できん」
「結構考えるんですね」
「倉庫は物置じゃないぞ」
「今日それ覚えて帰ります」
午後は六番棚から始めた。
ここには布類と天幕部品が置かれている。
厚手の防水布、補修用の小さな布片、紐、木製の支柱、金具が種類ごとに積まれていた。
「この布片、小さすぎません?」
手のひらくらいの防水布を持ち上げる。
「穴塞ぐのに使う」
「また小さい物が必要になる」
「新品の大きい布切って塞ぐ方がもったいないからな」
ハイゼンが言う。
「余った端を取っとく」
「でも全部取っといたら増えません?」
「増える。だから大きさ決めて、それ以下は捨てる」
「基準があるんだ」
「基準なしで《いつか使う》は倉庫が死ぬ」
そう言われて周囲を見ると、小さな布片にもすべて大きさ別の札が付いていた。何でも残しているわけではなく、必要になる可能性と保管する手間の間にきちんと線を引いているらしい。
「それ耳が痛い人多そう」
「お前は何か溜めてるのか?」
「今は荷物少ないですけど、前の世界では紙袋とか空き箱をちょっと」
「使った?」
「……あんまり」
「捨てろ」
「もう前の世界に置いてきました」
「なら解決だ」
マロが隣で笑っている。
七番棚は少し変わっていて、中には古い食器、杯、鍋、簡易調理器具、小さな木皿などが入っていた。
「倉庫で食器?」
「街の行事や炊き出し用」
「なるほど」
数を確認していると、一枚だけ縁が欠けた木皿があった。
「これは?」
「廃棄」
ハイゼンが即答する。
「木なら削れないんです?」
「削ったら他と大きさ変わる。炊き出しで同じ量盛れなくなる」
「そういう理由か」
「家で使うなら構わんが、共同備品は揃ってた方がいい」
「用途で判断が変わるんだ」
「ずっとそれ言ってるだろ」
「やっと分かってきました」
さらに奥には、柄が少し曲がった大きな木匙があった。
「これは使える」
「曲がってるのに?」
「鍋の底を混ぜるだけなら問題ない」
「さっきの皿は少し欠けただけで駄目なのに」
「用途が違う」
「難しい」
「何でも同じ基準で見ようとするからだ」
その言葉で、最近の自分の夜の注文まで思い出した。
値段が安いから、限定だから、予算内だからという理由で頼んだり、甘いから酒には合わないと思い込んだりと、私は分かりやすい一つの基準で決めたがるところがあるのかもしれない。
でも、物も料理も、そのとき何に使うかで価値が変わる。
午後の終わり頃、棚の一番下から大きな革袋が三つ出てきた。
「これ何です?」
かなり古く、表面には擦れた跡があり、一つは口紐も交換されている。
ハイゼンが札を見る。
「水袋」
「こんな大きいの?」
「街壁補修班用。夏場にまとめて水持っていく」
「今使ってないから奥に?」
「今は秋だからな」
「じゃあ来年?」
「そう」
ヴェンが袋を持ち上げる。
「でも一つ結構傷んでるぞ」
底の縫い目から、細い糸が何本か出ている。
ハイゼンが確認し、水を少し入れてみると、縫い目のところからじわりと水が染みた。
「これは修理」
「今使わないなら、来年までに直せばいいんですね」
「そういうこと」
「今必要じゃなくても、必要になるの分かってる物もあるんだ」
「当たり前だろ」
「今日は当たり前をいっぱい教わるなぁ」
作業は夕方前に終わった。
三番から七番棚までの数量を帳面と照らし合わせ、使用可、修理、廃棄確認の三つへ分類していく。
ハイゼンが最後の木札へ数字を書き込んだ。
「終わり。助かった」
「思ったより頭使いました」
「物数えるだけだと思ってた?」
「ちょっと」
「みんな最初はそう言う」
「今日一番覚えたの、壊れてると要らないは違う、かもしれない」
「まあ覚えとけ」
「必要かどうかも用途次第」
「そう」
「倉庫って意外と深い」
「酒場みたいに言うな」
「最近何でも酒場につながるので」
「知らん」
完了票へ印をもらい、ギルドへ戻った。
報酬は千五百ゴールド。
今日は昼食が支給されているので、宿代三百を引けば千二百ゴールド残る。夜は五百五十くらいまで使うつもりだったので、全部使ったとしても六百五十残る計算だ。
「昨日と同じくらい残せるな」
報酬を財布へ入れ、一度《銀鈴の宿》へ戻る。
棚卸しは一日仕事だったが、荷物を運び続けたわけではないので身体の疲れはそこまで強くなかった。むしろ細かな数を確認したせいで、目と頭の方が少し疲れている。
部屋で少し横になり、夕方になってから再び外へ出た。
今日は何が食べたいかを考える。
昨日は甘いものと酒で、一昨日は甘辛い肉、その前は卵だったが、今日は珍しく具体的な料理が浮かばず、肉でも魚でも構わないし、温かいものがあれば嬉しく、一杯飲めればなおいいという程度の気分だった。
「今日は……普通にお腹減った」
中央から東へ向かう通りを歩く。
一軒目は魚料理が中心だったが少し値段が高く、二軒目はかなり混んでいて立って待つ人までいる。その先にあった三軒目は小さな店で、入口から温かな湯気と煮込みの匂いが流れていた。
看板には、丸い木鉢と一本の匙が描かれている。
《匙止め》
「変わった名前」
入口に品書きがある。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《薄白果実酒 百三十ゴールド》
《角鶏と豆の温煮 百五十ゴールド》
《白根と燻し肉の焼き皿 百二十ゴールド》
《茸塩炒め 九十ゴールド》
《麦薄焼き 六十ゴールド》
《根菜酢漬け 七十ゴールド》
《本日の匙皿 百三十ゴールド》
「匙皿?」
何だろう。
値段は全体的に手頃で、今日は温かいものが食べたかったこともあり、《角鶏と豆の温煮》が少し気になった。
私は店へ入った。
店内は細長く、カウンターが十席ほどあり、奥に二人掛けの卓が三つある。壁には大小さまざまな木匙が飾られていた。
「いらっしゃい」
店主は四十代後半くらいの男性だった。
名前はオウル。短い黒髪に白いものが少し混じり、顎には薄い無精髭がある。生成り色のシャツに焦げ茶色の前掛けを着けていた。
「一人です」
「空いてるとこどうぞ」
カウンターの中央に座る。
「店名って何で《匙止め》なんです?」
「腹いっぱいになったら匙止まるだろ」
「そのままですね」
「昔、煮込みだけ出してた頃に客がそう呼び始めた」
「なるほど」
「今は焼き物もあるけど名前だけ残った」
私は品書きを見る。
「軽麦酒と、角鶏と豆の温煮ください」
「九十と百五十で二百四十」
「お願いします」
最初の注文は二百四十ゴールドなので、夜予算五百五十からは三百十残る。
軽麦酒は淡い金色で、泡は控えめだった。
一口飲むと麦の香ばしさより先に軽い酸味が来て、後味に苦味は残るものの短い。温かい煮込みと合わせても腹に重くなりすぎなさそうな酒だった。
「さっぱりしてますね」
「煮込み多いからな」
オウルが答える。
「濃い酒だと腹膨れる」
「店ごとに酒もちゃんと合わせてるんですね」
「合わない物置いても売れん」
「それもそうか」
少し待つと、大きめの木鉢が出てきた。
《角鶏と豆の温煮》は、白い豆と角鶏の肉、黄根、緑の葉を淡い茶色の汁で煮込んだものだった。
湯気からは肉の香りと、少し香草の匂いがする。
木匙ですくい、口へ入れる。
「おいしい」
豆は柔らかいが形は残っており、噛むと粉っぽさより甘みが出る。角鶏は腿肉らしく少し脂があり、煮込まれているのに噛み応えも残っていた。
汁は薄い塩味で最初はかなり優しいが、飲み込んだあとに香草と焼いた麦のような香りが残る。
「これ、何入ってるんです?」
「《焦麦粉》少し」
「麦粉?」
「乾煎りして、汁に溶く」
「とろみ?」
「それもあるし、香り付け」
「シチューっぽいけど全然重くない」
「しちゅー?」
「前の世界の煮込みです」
「似たのあるなら、どこでも考えること同じだな」
最近このやり取りも増えた気がするが、前の世界に似た料理はあってもまったく同じではなく、その違いを探すこと自体が、この世界で食べる楽しみになりつつあった。
温煮を半分ほど食べたところで、隣に一人の女性が座った。
三十代後半くらいで、暗い赤色の髪を短く切り、厚手の灰色の服を着ている。袖口には白い粉のようなものが付いていた。
「濃麦と匙皿」
「今日はそれ?」
オウルが聞く。
「昼が遅かったから」
「軽く?」
「軽く」
女性は私の方を見る。
「それ温煮?」
「はい」
「腹減ってるなら正解」
「結構量ありますね」
「ここ、見た目より入るよ」
名前はミレナ。
近くの石工房で、石材の仕上げや細かな研磨をしているらしい。
「袖の白いの、石です?」
「粉」
「一日中?」
「一日中。鼻の中まで白くなる」
「嫌だ」
「風呂入ると湯が灰色になるよ」
「もっと嫌だ」
「慣れる」
「慣れたくないなぁ」
ミレナの《本日の匙皿》が出てくる。
小さめの木鉢に、刻んだ茸と豆、細かな燻し肉が入っていた。
「それが匙皿?」
「今日は茸豆」
「日替わりなんですね」
オウルが頷く。
「残った半端食材を合わせる」
「残り物?」
「言い方悪いな」
「端材?」
「食材だから端材って言うな」
ミレナが笑う。
「使い切るための皿だよ」
「なるほど」
今日の倉庫仕事を思い出した。
短い縄や小さな防水布、修理待ちの木槌に使い道があったように、大きな料理には使いづらい食材でも、小さな一皿ならきちんと役目を持てるのかもしれない。
「それ、毎日内容違うんです?」
「仕込み次第」
オウルが答える。
「茸が余れば茸、肉端出れば肉、豆が半端なら豆」
「安いのはそのせい?」
「そう。食えない物使ってるわけじゃないぞ」
「分かってます」
「たまにそういう顔する客いるからな」
「余り物って聞くと、ちょっと」
「使えるのに捨てる方がもったいないだろ」
「今日、一日それみたいな話してました」
「倉庫?」
「何で分かるんです?」
「服に木粉付いてる」
「見てるなぁ」
私は自分の袖を見る。
棚を動かしたときの細かな埃がまだ少し残っていた。
「今日、共同倉庫で棚卸しだったんです。短い縄とか、破れた布とか、壊れた木槌とか見て」
「捨てた?」
「勝手に捨てるなって最初に言われました」
「正しい」
「使い道があるなら残すし、修理できるなら直すし、見た目がきれいでも使えないなら処分するって」
「料理も同じようなもんだよ」
オウルが鍋を混ぜながら言う。
「見た目悪い根菜でも煮込みなら使える。逆に見た目きれいでも傷んでたら使えん」
「結局、何に使うかなんですね」
「そういうこと」
私は温煮をもう一匙食べる。
朝から何となく食べたいものが決まらなかったのに、今はこの温かい煮込みがかなりちょうどよかった。身体が特別冷えていたわけでも、昨日食べ過ぎたわけでもないのに、一日倉庫で細かな確認を続けたあとには、こういう考えなくても匙を運べる温かいものが妙に落ち着く。
「何か今日、これ必要だったかも」
「煮込み?」
ミレナが聞く。
「はい」
「腹減ってたんでしょ」
「それだけじゃなくて」
「じゃあ何?」
聞かれて少し考えたが、すぐにはうまく説明できなかった。
「分かんないです」
「分かんないのに必要?」
「食べたら分かった感じ」
「変なの」
「自分でもそう思います」
オウルが笑った。
「必要なんて、なくなってから分かることもあるぞ」
「どういうこと?」
ミレナが聞く。
「匙」
「匙?」
「客が一本落として割れた日に、予備ないと困る」
「木匙って割れる?」
「安いやつはな」
「なるほど」
「普段は棚で邪魔でも、必要になった瞬間ないと困る」
倉庫の水袋と同じだった。
今は秋なので使わなくても、夏になれば必要になる。そのときまで残して、傷んでいれば直しておく。
「必要って、今すぐ使うものだけじゃないんですね」
「そりゃそうだ」
「今日は当たり前を何回聞くんだろ」
軽麦酒を飲む。
温煮のあとに口へ含むと、さっきより酸味が少し強く感じられた。
会計は今のところ二百四十ゴールドで、まだ三百十使えるので、もう一皿頼んでもいいし、二杯目も十分いける。
「匙皿、今日のやつ何でしたっけ?」
「茸豆と燻し肉」
「百三十?」
「そう」
追加すれば三百七十で、夜予算五百五十からは百八十残る。
私は少し考えた。
量だけなら温煮でかなり満たされているが、今日の仕事と妙につながる《本日の匙皿》は食べてみたい。余ったものや半端なものでも、使い道を変えれば一皿になるという考え方を、頭で納得するだけではなく自分の舌でも確かめてみたかった。
これは単に「気になる」だけなのか、それとも「食べたい」のかと考えながら木鉢を見ると、温煮はあと少し残っているものの腹にはまだ余裕がある。
「匙皿ください」
「はいよ」
今回は、予算が余っているからではない。
今日一日見てきたものと似た考え方が料理になるなら、自分で食べてみたかった。
少しして運ばれてきた《本日の匙皿》は、名前通り小さな木鉢に入っていた。
茶色い茸、白豆、細かく刻まれた燻し肉が、薄い油と香草で和えられている。
一匙すくって食べると、最初に茸の旨味があり、次に豆の甘さ、最後に燻し肉の塩気と煙の香りが来た。
「これ、ちゃんと一皿ですね」
「何だと思ってた」
「余ったもの集めただけになるのかなって」
「集めるだけじゃまずい」
「ですよね」
「味見て、油と塩と香草足してる」
「必要な分だけ」
「そう」
またその言葉が出た。
余り物だから何でも全部入れるのではなく、残っている食材を見て、味を整えるために必要なものを足す。倉庫でも、残っている物を全部抱え込むのではなく、使える物、直す物、捨てる物を分けていたのだから、残すこと自体が正しいわけでも、使うこと自体が正しいわけでもないのだろう。
「今日のテーマ、しつこいなぁ」
「何?」
ミレナが聞く。
「必要かどうか」
「何で?」
「朝からずっとその話ばっかり」
「そんな日ある?」
「最近よくあります」
「変な冒険者」
「自覚あります」
匙皿を半分ほど食べたところで、軽麦酒がなくなった。
今の合計は三百七十ゴールドで、残り予算は百八十ある。軽麦酒をもう一杯頼めば四百六十、薄白果実酒なら五百、濃麦酒でも四百九十なので、どれを選んでも予算には収まる。
「二杯目どうする?」
オウルが聞く。
「ちょっと考えます」
喉はそこまで渇いておらず、酔いもまだ軽い。酒を飲みたい気持ちはなくはないが、今ここでどうしてももう一杯欲しいというほどでもなかった。
「水あります?」
「あるよ」
「じゃあ水ください」
オウルが木杯へ水を入れる。
ミレナが横を見る。
「二杯目飲まないの?」
「今はいらないかなって」
「予算ない?」
「あります」
「じゃあ何で?」
「……必要じゃないから?」
「酒場で言うことかそれ」
「自分でも思いました」
三人で笑った。
水を飲むと、口の中に残っていた燻し肉の塩気が落ち着く。
不思議なことに、二杯目を我慢したという感じはなかった。飲みたいのに節約のため止めたのではなく、今は別に欲しくなかっただけで、昨日も予算が残っているからという理由だけで軽麦酒を追加するのをやめたが、今日はさらに一歩進んで、注文する前に欲しいかどうかを考えた結果、水でいいと思えた。
「これでいいな」
小さく呟く。
「何が?」
オウルが聞く。
「水」
「水は水だぞ」
「分かってます」
匙皿を食べ終える頃には、腹は十分に満たされていた。
温かい煮込みと小さな匙皿、それに一杯の酒という派手ではない組み合わせなのに、今日はこれでかなり満足している。
「会計お願いします」
「軽麦九十、温煮百五十、匙皿百三十。三百七十」
「はい」
夜予算五百五十に対して、百八十ゴールド残った。
昨日よりさらに大きく余ったが、安く済んだから嬉しいという感じでもない。食べたいと思った匙皿は追加し、二杯目は欲しくなかったので頼まず、結果として三百七十になっただけだった。
財布から硬貨を出していると、ミレナが言う。
「今日、何が必要だったか分かった?」
「何の話?」
「さっき煮込み必要だったって言ってたでしょ」
「ああ」
私は少し考える。
温かいものを食べること、仕事のあとに座って一息つく時間、一杯の酒、それから気になった匙皿まで、どれか一つだけではなく全部が少しずつ必要だったのかもしれない。
「全部少しずつ、かも」
「欲張り」
「でも、二杯目はいらなかったです」
「そこだけはっきりしてるんだ」
「はい」
オウルが硬貨を数えながら言った。
「必要なもん全部説明できるやつなんていないだろ」
「そういうものです?」
「腹減ったから飯食う、寒いから火に当たる、それくらいなら分かる。でも、何となく温かいもん食いたいとか、今日は一人で飲みたいとか、そういうのまで理由つける必要あるか?」
「ないかも」
「必要だったなら、食ったあと分かるだろ」
「……それ、いいですね」
「何が?」
「今日の答えっぽい」
「知らんよ」
最近、店主に同じ反応をされることが増えた。
私は三百七十ゴールドを払い、席を立つ。
今日の稼ぎは千五百ゴールドで、昼食は支給、宿代三百、夜が三百七十なので、差し引きで八百三十ゴールド残る。昨日は六百五十だったので百八十多いが、今日は最初から節約するつもりで飲んだわけではなかった。
むしろ夜予算は五百五十用意していて、使おうと思えば使えた。それでも必要だと思ったものだけを頼んだ結果、百八十残った。
《匙止め》を出ると、外の空気は昼よりかなり冷えていた。
私は上着の前を少し合わせ、夜の通りを歩き始める。
今日一日、何度も「必要」という言葉を聞いた。
短い縄は大きな荷物には使えなくても小箱を固定するには必要で、柄が割れた木槌も、そのままでは使えなくても柄を交換すれば必要な道具へ戻る。夏用の大きな水袋は今すぐ出番がなくても季節が変われば必要になる一方で、見た目がきれいな物でも役目を果たせないなら残しておく意味はない。
必要か不要かは、その物だけを見ても決まらないのだろう。
何に使うのか、いつ使うのか、代わりがあるのか、直せるのか、そして自分が本当に欲しいのかまで考えて、初めて必要かどうかが見えてくるのかもしれない。
酒場の注文にそこまで大げさな話を持ち込む必要はないのかもしれないが、最近の私には意外と大事なことだった。
限定だから、安いから、予算が残っているからという理由で頼んだり、逆に知らないからというだけで避けたりしていると、自分が本当に何を食べたいのかを見落とすことがある。
今日は《本日の匙皿》を追加した。
予算を減らすだけなら頼まなくてもよかった一皿だが、食べてみたかったし、実際に食べてよかった。一方で二杯目の酒は、予算内には余裕で入ったのに今はいらなかったので頼まなかった。
「必要でした」
歩きながら、小さく言う。
何がと聞かれれば、たぶん温煮も、軽麦酒も、匙皿も、今日の自分には必要だったのだと思う。
それは生活するために絶対必要という意味ではなく、水や宿ほど大事でもなければ、食べなければ困るわけでもない。それでも、一日働いたあとに「ああ、おいしかった」と思って帰るためには必要だった。
逆に二杯目は、今日は必要なかった。
その違いを自分で分かっていれば、財布にいくら入っているかだけで注文を決めなくて済む。
前の世界では、仕事帰りにコンビニへ寄って、何となく菓子や飲み物を買うことがあった。家に帰ってから「別にこれ欲しかったわけじゃないな」と思うこともあれば、疲れた日に買った小さなプリン一つで妙に機嫌が直る日もあった。
値段だけでは、その違いは分からない。
必要かどうかも、誰かに決めてもらうものではないのだろう。
夜予算から残った百八十ゴールドが財布の中で軽く鳴る。
以前なら「あと一杯飲めた」と考えていたかもしれないが、今日はそうは思わない。飲まなかった一杯を惜しいとも感じず、食べた匙皿を余計だったとも思わないのなら、今日の金の使い方はかなり自分に合っていたのだろう。
私は《匙止め》で食べた温かい豆の煮込みを思い出しながら、冷え始めたリーベルの夜道をゆっくり歩いていった。




