第37話「甘いのかしょっぱいのか、先に決めてほしい」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日の《殻籠亭》で食べた岩脚卵の小蒸しを思い出していた。
北養鳥場での仕事は報酬千五百ゴールドで、昼食は百ゴールド。夜は五百ゴールドまで使っていいと決めていたものの、軽麦酒と岩脚卵の小蒸し、それから薄白果実酒まで楽しんで会計は四百ゴールドだったので、宿代三百を引いても七百ゴールド残った。
前々日は限定に負けて予算を少し超えたのに、昨日は逆にまだ百ゴールド使える状態で店を出ることができたうえ、二杯目を我慢したわけでもなく、飲みたかった薄白果実酒はきちんと頼い、腹がいっぱいだったから燻し豆を追加しなかっただけだ。
「昨日は結構よかったんじゃない?」
薄い豆のスープを匙ですくいながら、自分で自分を褒める。
予算を守るために欲しいものまで全部我慢するのではなく、飲みたいものには金を使い、いらないものには使わない。言葉にすると当たり前なのだが、最近の私は《限定》《残り一皿》《あと七十ゴールドで予算ぴったり》といった数字や言葉に引っ張られていたので、自分の腹具合で注文を止められたことは意外と大きかった。
だから今日は、財布についてはそこまで難しく考えなくてもいい気がする。
「普通に働いて、普通に食べて、普通に飲む」
昨日も同じようなことを言った気がするが、普通というのは思っているより難しい。それでも朝から予算のことばかり考えていては、せっかく飲みに行くのに疲れてしまうので、今日は千五百前後稼げる仕事を探し、夜は五百五十ゴールドくらいまでにして、使い切っても残っても構わないくらいの気持ちでいこうと決めた。
朝食を終えて外へ出ると、風が少し冷たかった。
空は晴れているが、通りの端に積もった落ち葉が風に転がされている。季節が進んでいるらしく、朝だけなら薄い上着が欲しくなるくらいだった。
冒険者ギルドへ着くと、依頼板の前にはいつも通り何人かが集まっている。
《中央市場・乾果実選別 報酬千三百ゴールド》
《西工房街・染布運搬補助 報酬千五百ゴールド》
《南共同厨房・保存食仕込み補助 報酬千六百ゴールド》
《北水路・落葉除去 報酬千二百ゴールド》
《東商業区・香辛料棚卸し 報酬千四百ゴールド》
「保存食」
少し気になって依頼票を取る。
《南共同厨房・保存食仕込み補助》
《報酬千六百ゴールド》
《一日予定》
《内容:根菜下処理、肉塩漬け補助、果実煮詰め、保存瓶洗浄》
《昼食支給》
《香辛料使用あり》
《作業着貸与》
料理そのものを作る仕事ではないだろうが、共同厨房なら食材を扱う機会は多そうだった。
しかも昼食支給。
「これにしよう」
受付へ持っていく。
今日の担当は、二十代前半くらいの小柄な女性だった。明るい茶色の髪を短く切り、受付台の横には分厚い帳面が積まれている。
「南共同厨房ですね」
「はい」
「香辛料で目や鼻に来ることがあります」
「辛いやつ?」
「それもありますし、甘い香りも強いです」
「甘い香りで鼻に来る?」
「煮詰めるので」
「なるほど」
「あと、味見を勝手にしないでください」
「しませんよ」
「昨日一人いました」
「冒険者が?」
「はい。《確認です》って言って三回食べました」
「それは確認じゃない」
「厨房長も同じこと言ってました」
手続きを終え、南側の共同厨房へ向かう。
南市場を少し外れた場所にある大きな石造りの建物で、煙突が三本立っている。入口を開けた瞬間、肉を煮る濃い匂いと焼いた麦の香ばしさ、酢の鋭い酸味が一度に押し寄せ、その奥から果物を煮詰めたような甘い香りまで混じってきた。
「情報量多いな」
「初めて?」
入口近くで木箱を運んでいた女性に声をかけられた。
三十代後半くらいで、明るい赤毛を頭の上でまとめ、白い作業着の袖を肘までまくっている。名前はマルカで、今日の作業を仕切る副料理長らしい。
「ギルドから来ました。ミサキです」
「マルカ。今日は手が足りないから助かる。作業着そこ」
貸し出された生成り色の上着と前掛けを身につける。
「何作ってるんです?」
「秋口の保存食まとめて。街壁の詰所、商隊宿、共同倉庫に回す分」
「結構な量?」
「かなり」
マルカが厨房の奥を指す。
長い作業台には、根菜が山のように積まれていた。
「最初は《黄根》と《赤根》の泥落とし。皮は全部剥かなくていい。傷んだところだけ落として」
「皮残すんですね」
「煮る分は残す。剥くと崩れやすいし、保存するとき香りも抜ける」
「何でも全部きれいにすればいいわけじゃないんだ」
「料理ってそういうもんだよ」
最近よく聞く答えだった。
私は桶の水で根菜を洗い、土を落としていく。
黄根は前にも何度か食べたことがあるが、こうして大量に並ぶと色の違いがよく分かる。表面が明るい黄色のものもあれば、少し白っぽいものや先端だけ赤みを帯びたものもあり、同じ名前の野菜でも見た目は一つではなかった。
「これ、全部同じ黄根なんです?」
「畑違うからね」
「味も違う?」
「甘い畑と、土っぽい畑はある」
「畑でそんな変わるんだ」
「変わるよ。水多いところは柔らかいし、乾いた畑は味濃いし」
隣で作業していた男性が口を挟む。
四十代くらいで、短い灰色の髪に細い口髭があり、前掛けには赤い汁が点々と付いていた。名前はダル。
「今年の西畑の黄根は甘いぞ」
「食べたんです?」
「仕事だからな」
「さっき味見勝手にするなって言われましたけど」
「俺は厨房の人間」
「ずるい」
「働けば食える」
「今働いてます」
「終わるまで待て」
洗い終えた根菜は大きさごとに用途が分かれ、大きいものは煮込み、中くらいは酢漬け、小さいものは細かく刻んで肉の保存煮へ回すらしい。
「同じ野菜なのに行き先違うんですね」
「大きさで火の入り方違うから」
マルカが答える。
「大きいのを酢漬けにすると中まで味入るの遅いし、小さいのを煮込みにすると崩れる」
「昨日の卵も用途で分けてたなぁ」
「卵?」
「養鳥場で仕事してたので」
「最近食材関係ばっかり?」
「そう言われるとそうかも」
根菜が終わると、次は肉の塩漬け補助へ回された。
角豚の肩肉を大きな桶へ並べ、粗塩と乾燥香草をすり込んでいく。
「塩すごい量ですね」
「保存するから」
「食べるときしょっぱくない?」
「水で戻すか、薄い味の煮込みに入れる」
「そのまま食べないんだ」
「そのまま食べる人もいるけど酒が進みすぎる」
「それはちょっと気になる」
「仕事中」
「分かってます」
塩をすり込んだ肉は層になるよう桶へ詰め、その間に《乾青葉》という香草を挟んでいく。香りは前の世界のローリエに少し似ているものの、もっと青臭く、指で揉むと柑橘の皮のような匂いまで立った。
「保存食って、ただ塩辛くするだけじゃないんですね」
「塩だけだと飽きるから」
ダルが言う。
「商隊なんか十日も同じ保存肉食うことあるし」
「十日」
「香り変えないとつらい」
「前の世界の弁当でも同じおかず続くと嫌だったなぁ」
「毎日弁当あったのか?」
「売ってる店も多かったし、自分で買ってました」
「便利だな」
「便利でしたよ」
午前中の後半になると、厨房の中で甘い香りが一気に強くなった。
「何これ、すごく甘い」
「果実煮詰め始めた」
マルカが奥の釜を指す。
大きな鍋の中では、赤紫色の果実が熱で形を失いながら、どろりとした液体へ変わりつつあった。
「《赤蜜実》」
「名前から甘そう」
「実はそのままだと酸っぱいよ」
「え?」
「煮ると甘くなる」
「砂糖入れてるんじゃなくて?」
「樹蜜少しは入ってるけど、実そのものも火入れると甘み出る」
湯気だけを嗅げば完全に甘い菓子の匂いなのに、マルカが小皿へ少し取り、仕事として味を確認した途端にわずかに顔をしかめた。
「まだ酸っぱい」
「その匂いで?」
「匂いと味は別」
「怖いなぁ」
「何が?」
「甘いと思って食べたら酸っぱいの、結構びっくりする」
「逆もあるよ」
「逆?」
「しょっぱそうで甘いとか」
「それはもっと嫌かも」
マルカが笑った。
「嫌なの?」
「心の準備が」
「味なんて食べるまで分からないだろ」
「見た目と匂いから予想するじゃないですか」
「それで外れるのも面白いんじゃない?」
「食べる側はそうですけど、最初の一口びっくりしますよ」
このときの私は、その会話をそこまで深く考えていなかった。
昼食は共同厨房の職員と一緒に、作業場の隣にある休憩室で取った。
大きな鍋から配られたのは、白豆と角鶏の煮込み、それに黒麦パン、酢漬けの根菜だった。
「保存食じゃないんですね」
「作ってる物毎日食べたくないから」
ダルが答える。
「それはそうか」
「塩漬け肉なんか今食っても塩辛いだけだし」
「まだ完成じゃないんだ」
「保存して、それを料理して完成」
白豆の煮込みは優しい味で、朝から塩や香辛料の匂いに囲まれていた舌にはちょうどよかった。
向かいに座ったマルカが、黒麦パンをちぎりながらため息をつく。
「午後、瓶が百二十本」
「何の?」
「赤蜜実の煮詰め」
「全部詰めるんです?」
「洗って、熱湯かけて、乾かして、詰めて、封する」
「瓶だけで大仕事」
「保存食は中身より容器で疲れる日あるよ」
「何か分かる気がする」
「何が?」
「前の世界でも、中身作るより書類の形式整える方が時間かかることありました」
「何それ」
「同じ内容なのに、この枠に入れて、こっちは別の形式で出してって」
「食えない分、そっちの方が嫌だな」
「本当にそうです」
午後は本当に瓶だった。
木箱に入った空瓶を洗い、欠けやひびがないか確認し、熱湯を通してから逆さにして乾燥棚へ並べる。赤蜜実の煮詰めが十分に濃くなる頃には、厨房中に甘酸っぱい香りが満ちていた。
マルカが完成した煮詰めを少しだけ匙の先に取り、私たちにも味を確認させてくれた。
「これなら仕事として味見していい」
「やっと」
舐めてみると、最初に酸味が舌をきゅっと縮め、そのあとから煮詰められた果実と樹蜜の濃い甘さがゆっくり広がってくる。
「酸っぱ……あ、甘い」
「順番逆だと思ってた」
「匂いは甘いからね」
「これパンにつけるんです?」
「パンにも。肉にも使う」
「肉?」
「塩漬け肉焼いたやつに少し添える」
「甘いのを?」
「甘酸っぱいから合うよ」
「本当かなぁ」
「また疑ってる」
「甘いものは甘いところで食べたい派なんですよ」
「食べたら変わるかもよ」
作業は夕方より少し前に終わった。
完成した瓶を木箱へ詰め、塩漬け肉の桶へ日付札を付け、根菜の下処理分を翌日の棚へ移す。
マルカが完了票へ印を押す。
「今日は助かった」
「瓶百二十は結構きました」
「明日は二百」
「明日じゃなくてよかった」
「来てもいいよ」
「別の仕事探します」
「正直だね」
ギルドへ戻り、報酬千六百ゴールドを受け取る。
今日は昼食支給なので、宿代三百を引いても千三百残る。朝に決めた夜予算は五百五十ゴールドだったので、全部使ったとしても七百五十残り、昨日とほぼ同じくらいは財布へ残せる計算だった。
「十分だな」
一度《銀鈴の宿》へ戻って、共同厨房の作業着についた甘い果実と香辛料の匂いを落とす。
服を着替えても、鼻の奥にはまだ赤蜜実の甘い香りが残っているような気がした。
「今日は甘いもの以外がいいな」
一日中甘い匂いの中にいたせいか、夜は塩気のある料理が食べたい。
軽く飲んで、肉か魚を一皿くらいがちょうどいいだろうと思いながら、今日は南側の市場裏から西へ向かって歩くことにした。
日が沈み始めた通りには仕事を終えた人たちが増え、屋台から焼き肉の匂いが流れ、遠くでは樽を転がす音が聞こえている。一軒目は煮込み中心で少し重く、二軒目は魚料理が多かったものの満席で、三軒目は入口から甘い焼き菓子の匂いが漂っていたので今日は避けた。
その先で、小さな橙色の布看板を見つけた。
看板には、二つに割った丸い実と、その横に小さな塩壺の絵が描かれている。
《甘塩亭》
「店名からして嫌な予感するんだけど」
入口の品書きを確認する。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《香麦酒 百二十ゴールド》
《赤果実酒 百三十ゴールド》
《白果実酒 百三十ゴールド》
《塩焼き角鶏 百四十ゴールド》
《赤根と燻し肉の炒め 百二十ゴールド》
《蜜焼き黄根 百ゴールド》
《塩蜜豆 八十ゴールド》
《香辛果実肉 百六十ゴールド》
《焼き薄パン 六十ゴールド》
「塩蜜豆」
嫌な予感がさらに増したが、値段は全体的に安い。軽麦酒九十と塩焼き角鶏百四十なら二百三十で済み、何か一皿追加しても五百五十には十分収まりそうだった。
「名前だけで逃げるのも違うか」
私は店へ入った。
店内は明るく、壁や柱が薄い橙色に塗られている。カウンターは八席、奥には小さな卓が四つあり、客層は若い職人や市場帰りらしい人が多かった。
「いらっしゃい」
店主は三十代後半くらいの男性だった。
名前はエト。焦げ茶色の髪を短く整え、右耳に小さな木の輪飾りを付けている。白いシャツの袖を肘までまくり、腰には細長い布を差していた。
「一人です」
「カウンター空いてるよ」
座りながら、もう一度品書きを見る。
「店名って、甘いのとしょっぱいの両方出すから?」
「それもあるけど、うちの料理は両方使うのが多い」
「両方?」
「塩だけ、蜜だけじゃなくて」
「やっぱりそうなんだ」
「苦手?」
「苦手というか、最初にどっちか教えてほしい」
「メニューに書いてるよ」
「塩蜜豆って書いてありますね」
「親切だろ?」
「逃げ道ないなぁ」
エトが笑う。
「何飲む?」
「軽麦酒と、塩焼き角鶏ください」
「九十と百四十で二百三十」
「お願いします」
今日はまず安全にいくつもりで、名前通りなら確実に塩味だろう角鶏の塩焼きを選んだ。
軽麦酒は透明感のある淡い金色で、泡は薄い。
一口飲むと麦の甘さは控えめで、すぐに軽い苦味が来る。後味は短く、料理に合わせやすそうな酒だった。
「これ、結構さっぱりですね」
「うちは甘い味付けも多いから、酒まで甘いと重い」
「なるほど」
少し待つと、角鶏の塩焼きが出てきた。
皮付きの腿肉を薄く切り、表面をしっかり焼いたものに粗塩と乾燥香草が振ってある。
「これは普通だ」
「失礼だな」
「安心したって意味です」
皮はぱりっとしており、中の肉は柔らかい。塩気は強すぎず、香草の青い香りが脂を軽くしているので、さっぱりした軽麦酒ともよく合った。
「今日はこういうのでいいんですよ」
「今日は?」
「昼間ずっと甘い匂いの中で仕事してたので」
「菓子屋?」
「共同厨房。赤蜜実煮詰めてました」
「ああ、あれならうちも使うよ」
私は動きを止めた。
「何に?」
エトが品書きを指す。
「《香辛果実肉》」
「肉に?」
「肉に」
「昼も同じこと言われた」
「合うよ」
「みんなそう言う」
「食べたことないのに疑うなよ」
「甘い肉って、ちょっと身構えるんですよ」
「甘いだけじゃない」
「そう言われました」
その会話を聞いていた隣の客が笑った。
三十代前半くらいの女性で、黒髪を肩の辺りで切り揃え、袖口に細かな木屑が付いている。手は小さいが、指の節が太い。
「最初みんなそう言うよ」
「やっぱり?」
「私も甘い肉なんて嫌だって言った」
「今は?」
「毎回頼む」
「説得力が強い」
女性はナティと名乗った。
小箱や装飾棚を作る木工職人で、この辺りの工房に勤めているらしい。
「今日もそれ?」
私が皿を見る。
赤茶色の肉に、艶のある濃い色のたれが絡んでいる。
「香辛果実肉」
「甘いです?」
「甘いし、しょっぱいし、辛い」
「情報が多い」
「食べたら分かる」
「みんなそれ言うなぁ」
角鶏を食べながら、私は品書きを見る。
《香辛果実肉》は百六十ゴールドで、今の合計二百三十へ追加しても三百九十にしかならず、夜予算五百五十からはまだ百六十余る。
「予算には入る」
「食べる?」
エトが聞く。
「まだ迷ってます」
「迷うほどの値段じゃないだろ」
「値段じゃなくて味です」
「気に入らなかったら、次から頼まなきゃいい」
「次は別の店行くんです」
「じゃあ今日しか試せないな」
「そういう言い方ずるい」
限定でも残り一皿でもないのだから、昨日までのように焦って注文する必要はない。それでも、知らない味を一度試してみたいという気持ちなら、限定という言葉に押されて頼むのとは少し違う気がした。
「じゃあ、香辛果実肉ください」
「はいよ」
追加しても会計は三百九十ゴールドなので、夜予算五百五十からはまだ余裕がある。
少し待つと、小さめの鉄皿が出てきた。
薄切りの赤角豚らしい肉に濃い赤褐色のたれが絡み、上には細かく砕いた黒い香辛料と緑の葉が散っている。
匂いを嗅ぐ。
「甘い」
「赤蜜実入ってるから」
「でも辛そうな匂いもする」
「《黒実》と《火種》」
「火種?」
「赤い辛い実」
「名前そのままだ」
肉を一切れ取る。
「甘いのかしょっぱいのか、先に決めてほしい」
「食えば決まる」
エトが笑う。
口へ入れると、最初に来たのは意外にも塩気だった。肉そのものにしっかり下味が付いており、そのあとから赤蜜実の甘酸っぱさが広がり、最後に《火種》の辛さと《黒実》の香りが追いかけてくる。
「……あれ」
「どう?」
「おいしい」
「だろ」
「でも何味って言えばいいんだろ」
「香辛果実味」
「そのままじゃないですか」
もう一切れ食べる。
今度はどんな味が来るか分かっているので、さっきよりも一つ一つを落ち着いて感じられた。甘みは確かにあるものの菓子のような甘さではなく、酸味と塩気が一緒にあるため、肉の脂を重くしない程度に余韻だけが残る。
「前の世界にも、甘辛い肉料理はありました」
「あるんじゃん」
「照り焼きとか、甘い醤油味とか。でもこれはもっと果物っぽい」
「赤蜜実だからね」
「昼に煮詰めたやつ、肉に本当に合うんだ」
「何でそんな驚く」
「匂いが完全にお菓子だったので」
「匂いで決めつけてたんだな」
エトに言われ、昼間のマルカの言葉を思い出す。
《匂いと味は別》
確かにその通りだった。
煮詰めている赤蜜実は甘い香りだったのに、舐めれば最初に酸味が来た。今目の前にある肉も甘い香りがするのに、食べて最初に感じたのは塩気で、そのあとに甘さと辛さが続いている。
隣のナティが杯を置く。
「仕事でもあるよね、見た目で決めつけるやつ」
「木工で?」
「注文客が《小さい箱だから安いだろ》って言う」
「ああ」
「小さいほど細かい作業増えることあるのに」
「それは嫌だ」
「昨日、指二本分しかない留め具を八個作った」
「細かそう」
「大きい棚作るより目疲れた」
「小さいから簡単とは限らないか」
「そういうこと」
最近、どこへ行っても似たようなことを教えられている気がする。卵一個だから簡単とは限らず、大盛りだから得とも限らないし、限定だから必ず頼むべきでもなければ、甘い匂いだから甘い味とも限らない。
分かりやすい名前や数字に頼れば判断は楽になるのだが、実際の中身はそれほど単純ではないらしい。
「でも、注文するときは名前で判断するしかなくないです?」
私は聞いた。
「聞けばいい」
エトが即答する。
「店の人に?」
「そう。甘い? 辛い? 量多い? 何入ってる? って」
「確かに」
「聞かずに想像して外れて文句言われても困る」
「耳が痛い」
「何かやった?」
「値段見ないで魚頼んだり」
「それは聞く以前の問題だな」
「最近いろいろ勉強してるんです」
「酒場で?」
「主に酒場で」
ナティが笑う。
「いい勉強じゃない」
「金かかりますけどね」
「授業料」
「その言い方すると追加注文したくなるのでやめてください」
香辛果実肉を半分ほど食べたところで、軽麦酒がなくなった。
夜予算五百五十に対して今の合計は三百九十なので、残りは百六十ある。軽麦酒をもう一杯頼めば四百八十、赤果実酒百三十でも五百二十に収まるが、赤蜜実を使った料理へ赤果実酒を合わせると果実の甘さが重なりすぎる気もした。
「この肉なら何飲むのが合います?」
エトへ聞く。
「軽麦か、白果実」
「赤じゃないんだ」
「赤でも悪くないけど、甘さ重なる」
「じゃあ白果実」
「百三十」
これで合計五百二十。
予算五百五十から三十ゴールド残る。
白果実酒は淡い黄色で、香りは青い果物と花の間くらいだった。
一口飲むと酸味が強めで、甘さはほとんどない。
香辛果実肉を食べ、そのあと白果実酒を口に含む。
「あ、こっちの方が肉の甘さ分かる」
「だろ」
「酒が甘くないからか」
「そう」
ナティが言う。
「赤だとおいしいけど、最後ちょっと甘く感じるんだよね」
「なるほど」
昨日の《殻籠亭》でも、料理に合わせて酒を変える話を聞いた。
食べ物を単体で好きか嫌いかと決めるだけではなく、何と一緒に口へ入れるかによって印象は変わる。そう考えると、甘い料理が苦手だと思っていた自分も、実際には甘いもの全般が嫌なのではなく、「甘いだけの料理」が苦手なだけなのかもしれない。
「塩蜜豆もそんな感じです?」
私が品書きを指すと、エトが頷く。
「豆を樹蜜で軽く煮て、最後に塩振る」
「甘い豆?」
「甘いけど酒のつまみ」
「八十か」
今頼めば六百になり、夜予算は五十ゴールド超える。
払えない金額ではないが、香辛果実肉でかなり満足しており、白果実酒もまだ残っている。
「気になるけど今日はやめます」
「予算?」
「それもあるけど、今ちょうどいいので」
「じゃあそれがいい」
エトはあっさり言った。
「勧めないんですね」
「食いたくなったら頼めばいい。気になるだけなら無理しなくていいだろ」
「店主なのに」
「腹いっぱいの客に押し込んでも、うまいって思わないからな」
「それは確かに」
少し前なら、八十ゴールドくらいなら予算を少し超えてもいいと考えたかもしれないし、昨日までなら予算内かどうかだけで追加料理を考えていたかもしれない。
けれど今日は、「気になる」と「今食べたい」は同じではないことを、自分でも少し分かるようになってきた気がする。
香辛果実肉を最後まで食べ、白果実酒を飲み切る。
会計は軽麦酒九十、塩焼き角鶏百四十、香辛果実肉百六十、白果実酒百三十で、合計五百二十ゴールドだった。
「五百二十ね」
「はい」
「塩蜜豆、次来たら食べれば?」
ナティが言う。
私は思わず首を振る。
「次は来ないんです」
「何で?」
「まだ入ったことない店を回ってるので」
「変わってるね」
「よく言われます」
エトが笑う。
「じゃあ、別の店で甘じょっぱいもの見つけたら、最初から嫌がらずに一回聞いてみな」
「そうします」
「食べるかは聞いてから決めればいい」
「それならできそう」
今日の稼ぎは千六百ゴールドで、昼食は支給、宿代が三百、夜が五百二十なので、差し引きで七百八十ゴールド残る。昨日より八十多く、夜予算五百五十からも三十残ったので、金額だけを見ればかなりきれいな一日だった。
けれど、それ以上に今日は、自分が最初から避けようとしていた味を一つ知れたことの方が印象に残った。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
南市場の裏道は昼より静かで、店じまいを始めた商人たちが木箱を片づけている。
昼間の共同厨房で、私は赤蜜実の甘い匂いを嗅いだだけで、それを「甘いもの」と決めつけていた。けれど夜には同じ赤蜜実を使った肉料理を食べ、最初に感じたのは塩気で、そのあとから甘酸っぱさと辛さが重なってきた。
味というのは、思っているより一つの言葉では決められないらしい。
甘いのかしょっぱいのか、辛いのか酸っぱいのか、肉なのか果実なのかと、どちらか一つに分けられれば注文は簡単なのだろうが、実際にはいくつもの味や食材が重なった料理の方が多いのかもしれない。
「甘いのかしょっぱいのか、先に決めてほしいって思ったけど」
歩きながら、私は少し笑う。
先に決めてもらう必要はなかったのだ。
分からなければ聞けばいいし、気になれば自分が本当に食べたいかを考えてから一度試してみればいい。それで合わなければ、別の店では選ばなければいいだけだった。
前の世界でも、新しい店へ入ったときに知らない料理名を見て、何となく安全そうなものばかり頼む日があった。
けれど、この世界へ来てからは知らない食材や料理の方が圧倒的に多いのだから、毎回安全そうな味だけを選んでいたら、これまで食べてきた夕暮れ猪も、岩脚卵も、赤蜜実を使った肉も知らないままだっただろう。
もちろん、何でも頼めばいいわけではないし、財布と腹具合を見ることも忘れたくない。
それでも「知らないからやめる」のではなく、「知らないなら聞いて、それから決める」くらいなら自分にもできる。
今日はそれが分かっただけで十分だった。
白果実酒の酸味と、赤蜜実を使った肉の甘辛い余韻がまだ口の中に少し残っている。
私は夜の風に肩をすくめながら、次に知らない料理を見つけたときは、せめて名前や匂いだけで味を決めつけず、一度くらい店の人へ聞いてみようと思いながら、静かになり始めたリーベルの通りを歩いていった。




