第36話「卵一個って聞いてたんですけど」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日の《暮れ鐘屋》で食べた夕暮れ猪のことを思い出していた。
仕事は北牧場での飼料袋の仕分けで、報酬は千五百ゴールド。昼には牧場の売店で乳脂薄パンと、《本日分・残り四》という言葉に負けて乳脂蜜巻きを買い、百九十ゴールドを使った。夜は四百五十ゴールドまでと決めていたのに、《暮れ鐘屋》で最後の一皿だった夕暮れ猪の炙りを追加した結果、会計は四百九十ゴールドになった。
昼も夜も限定商品に手を伸ばしたのだから、結果だけ見れば昨日は「限定」という二文字にきれいに二回負けた一日だった。
「でも、おいしかったんだよねぇ」
そこが一番困る。
夕暮れ猪は二百八十ゴールドという値段に納得できるくらいおいしく、《赤葉木》で付けた香りも、あの時期だけ柔らかくなる脂も、食べなければ知ることはできなかった。財布には五百二十ゴールド残っているので生活が苦しくなったわけでもなく、完全な失敗と言うほどでもない。
それでも、自分で決めた予算を《残り一皿》という言葉に押されて曲げたのは事実だった。
「今日は普通にしよう」
薄パンへ白酪を塗りながら呟く。
限定や高額料理を追わず、普通に働いて普通に一杯飲むくらいが、昨日までの流れを考えれば今日は一番安全な気がした。
財布の中には、一昨日までに貯めた分もまだかなり残っている。今日無理に高額依頼を選ぶ必要はないので、千二百から千五百ゴールドくらいの仕事を探し、夜も五百前後に収めれば十分だろう。
朝食を終えて《銀鈴の宿》を出ると、空は昨日より明るかった。
薄い雲は残っているものの雨の気配はなく、通りには朝の荷車や市場へ向かう人が増え始めている。昨日より腰も軽く、牧場で豆粕袋を運んだ腕に少し張りがある程度なので、今日なら多少身体を使う仕事でも問題なさそうだった。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前には十人ほどが集まっていた。
《西水路・石蓋交換補助 報酬千四百ゴールド》
《中央市場・穀粉袋検量 報酬千二百ゴールド》
《北養鳥場・巣箱清掃および卵回収補助 報酬千五百ゴールド》
《東林縁・薬草畑囲い補修 報酬千三百ゴールド》
《南倉庫区・木箱積み替え 報酬千六百ゴールド》
「養鳥場」
少し気になって依頼票を取る。
《北養鳥場・巣箱清掃および卵回収補助》
《報酬千五百ゴールド》
《半日予定》
《内容:巣藁交換、卵回収、餌槽清掃》
《大型種区画あり》
《卵の取り扱い注意》
《昼食支給なし》
「大型種って何だろ」
鶏のような鳥なら、それほど大変な仕事には見えない。
卵回収なら荷運びより腰にも優しそうだと思い、そのまま受付へ持っていった。
今日の受付は、三十代半ばくらいの女性だった。濃い茶色の髪を耳の下でまとめ、細い金属枠の眼鏡をかけている。
「北養鳥場ですね」
「大型種って書いてあるんですけど、鳥が大きいんです?」
「大きいですよ」
「どのくらい?」
「行けば分かります」
「最近その答え多くないですか?」
「説明するより早いので」
「嫌な予感するなぁ」
「攻撃性の強い種類ではないです。ただ、卵は両手で持ってください」
「卵を?」
「落とすと弁償です」
「いくら?」
受付嬢が帳面を見る。
「種類によりますが、大型種なら一個二百から三百ゴールドほどです」
「一個で?」
「食用だけじゃなく孵化用もありますから。札をよく見てください」
「今日、絶対落とさない」
「それがいいです」
登録を済ませ、北門から養鳥場へ向かった。
昨日の牧場より少し東へ外れた場所に、長い木柵と低い建物がいくつも並んでいる。近づくにつれて、聞き慣れない鳥の鳴き声が増えてきた。
前の世界で聞き慣れていた鶏の鳴き声とはかなり違い、低く喉を鳴らすような音に、笛を吹いたような高い声まで混じっている。
「鳥、多いなぁ」
入口でギルド札を見せると、奥から一人の男性が歩いてきた。
四十代前半くらいで、黒に近い茶髪を短く切り、首から細い木札を何枚も下げている。作業着の袖には白い羽毛が何本も付いていた。
「ギルドの手伝い?」
「ミサキです」
「俺はレム。今日は巣箱掃除と卵回収。鳥に餌やるのは最後だけ手伝ってもらう」
「卵ってそんなに大きいんです?」
「普通の区画は片手。大型は両手」
「受付でも言われました」
「大型は割ると泣くぞ」
「私が?」
「俺も」
「それは落とせない」
レムに案内され、最初の飼育棟へ入る。
そこには、私の知っている鶏にかなり近い鳥が二十羽ほどいた。ただし羽の色は青灰色で、尾羽が長い。
「《青尾鶏》。卵は普通に食用」
「これなら知ってる大きさ」
「朝の分を回収して、巣藁替える。汚れてない藁は全部捨てなくていいから、湿ったところだけ取って足して」
「全部交換じゃないんですね」
「藁代もただじゃない」
「最近どこ行っても無駄にしない話を聞く」
「余裕ある農場なら全部替えるところもあるけど、うちは必要な分だけ」
「なるほど」
作業は思っていたより細かかった。
巣箱から卵を取る前に、まず木札を確認する。白札は食用、赤札は孵化用、黄札は検査待ちで、孵化用は向きを変えすぎないよう専用の籠へ入れるらしい。
「同じ卵なのに扱い違うんですね」
「中身の目的が違うからな」
「食べるか、育てるか」
「そう」
白札の食用卵は掌に収まるくらいで、殻は薄い青色をしていた。
「青い」
「殻だけ。中は普通」
「味も?」
「少し濃いって言う人いるけど、俺は分からん」
「毎日食べてると分からなくなりそう」
「毎日は食わない。売り物だから」
「ちゃんとしてる」
卵を籠へ移したあとは、巣箱の湿った藁や汚れを取り除いて新しい藁を少し足し、殻の粉や麦粒が残った餌槽も一度掻き出してから拭いていく。作業だけ見れば単純な掃除に近いのだが、すぐ横に割れやすい卵が並んでいるせいで、腕を動かすたび自然と慎重になった。
掃除のために腕を伸ばした先で、青尾鶏が突然こちらへ寄ってきた。
「うわ」
「餌ないぞ」
レムが笑う。
「噛みます?」
「つつく」
「それ結構嫌なんですけど」
「手袋しとけば痛くない」
鳥は私の袖を一度つつき、食べ物ではないと分かるとあっさり離れていった。
「期待させてごめん」
「鳥に謝るのか」
「つつかれたので」
「変なやつだな」
青尾鶏の区画が終わると、次の建物へ移る。
こちらの鳥は一回り大きく、脚が太い。
羽は茶色で、頭の横に白い飾り羽がある。
「《白耳鳥》。こっちは肉と卵両方」
「さっきより強そう」
「臆病だから、急に動くな」
「こっちが?」
「鳥も」
「両方か」
白耳鳥の卵は青尾鶏より一回り大きく、殻は薄い茶色で表面に細かな斑点がある。
食用の籠へ入れながら、私は卵一個の値段を聞いてみた。
「これいくらくらいです?」
「市場なら一個三十から四十」
「思ったよりする」
「青尾鶏より餌食うからな」
「餌代が値段に乗るんだ」
「当たり前だろ」
昨日、北牧場で飼料を量ったばかりなので、その話は妙に実感できた。
乾草、麦殻、豆粕、根菜屑を少しずつ配合し、間違えないよう一袋ずつ作っていた。あれが家畜の値段や乳の値段につながるのなら、鳥の卵に餌代が含まれているのも当然だった。
「食べ物って、皿に来るまで本当に長いなぁ」
「急にどうした?」
「昨日、家畜の餌作ってたので」
「今日は卵か」
「そのうち全部つながりそう」
「畑もやってるなら大体つながってるぞ」
「畑も一昨日やりました」
「何してんだお前」
「冒険者です」
「農場の季節雇いじゃなくて?」
「違います」
レムが声を上げて笑った。
午前の後半、いよいよ《大型種区画》へ向かうことになった。
建物の入口からして大きく、扉も高ければ柵も胸の高さまである。
「何がいるんです?」
「《岩脚鳥》」
「名前からして強そう」
「飛べない。走るのは速い」
「それ、前にも似た鳥食べた気がする」
「砂走鳥なら別種」
「ああ、違うんだ」
柵の向こうには、背丈が私の胸くらいまである大きな鳥が五羽いた。
長い脚に丸い胴体、首はそこまで長くないが頭は小さい。羽は灰褐色で、脚の鱗が妙に頑丈そうに見える。
「大きい」
「だから大型種」
「説明そのままだった」
「分かりやすいだろ」
「卵も?」
「見れば分かる」
巣箱というより、藁を敷いた大きな囲いの隅に、それはあった。
「……大きい」
思わずもう一度言う。
卵は両手で抱えるくらいあり、殻は淡い灰色だった。
前の世界で見たダチョウの卵を思い出すが、それより少し小さいくらいだろうか。
「これ一個?」
「一個」
「何人分です?」
「料理次第だけど、六人から八人」
「卵一個で?」
「だから両手」
レムが専用の藁籠を持ってくる。
「白札は食用。赤札は孵化用だから触るな。今日は白札三個回収」
「三個でも結構な量」
「市場じゃ一個二百四十前後」
「受付の話、本当だった」
「嘘言わねえだろ」
私は両手で岩脚鳥の卵を持ち上げた。
見た目から予想していた以上にずっしりとした重さが腕へかかる。
「重い」
「中身多いからな」
「当たり前なんだけど、卵でこの重さ変な感じ」
「落とすなよ」
「言わないで」
一個ずつ両手で抱え、籠の中へ慎重に下ろしていく。二個目、三個目と無事に収め、最後の卵から手を離したところで、私はようやく肩の力を抜いた。
「これ、店で一人で頼んだら大変ですね」
「一人用にはしないだろ」
「ですよね」
「たまに酒場が買ってくけど、蒸し物とか焼き物にする」
「蒸す?」
「器に割って、肉とか野菜入れて蒸す」
「茶碗蒸しみたいなものかな」
「何だそれ?」
「前の世界の卵料理です」
「知らんけど、多分似てるんじゃないか」
その言葉が妙に頭へ残った。
巨大な卵で作る蒸し料理なら、さすがに一人分ではないと思うのだが、だからこそ少し気になる。
「今日、普通に飲む日だったんだけどなぁ」
「何の話?」
「何でもないです」
大型種区画では、巣の周りの藁を整え、割れた殻を片づけ、最後に水槽も洗った。
岩脚鳥は見た目ほど荒くなく、こちらが近づいても少し離れて様子を見るくらいだったが、一羽だけ妙に好奇心が強く、私が掃除をするたび背後から覗き込んでくる。
「近い近い」
振り返ると、丸い目がすぐそこにある。
「それ若い雄」
「つつきます?」
「髪飾りとかは取る」
「何も付けてなくてよかった」
「その紐は?」
レムに言われ、自分の腰を見る。
小さな布袋を留めている紐が垂れていた。
「これ?」
次の瞬間、岩脚鳥が素早く首を伸ばした。
「ちょっ」
紐の先をくわえられる。
「待って待って、それ財布!」
「引っ張るな!」
「向こうが引っ張ってる!」
レムが餌桶を叩くと、岩脚鳥はすぐ興味をそちらへ移し、紐を離した。
「危なかった……」
「光る物と揺れる物好きなんだよ」
「先に言ってください」
「今分かったろ」
「その教え方多くないですか?」
「覚えるだろ?」
「覚えますけど」
財布を確認すると、紐に少し唾液が付いているだけで、袋自体は無事だった。
「鳥に財布取られるところだった」
「貯金したいなら気をつけろ」
「何で知ってるんです?」
「さっき普通に飲む日とか言ってたから」
「そこから分かる?」
「知らん」
「適当だ」
大型区画の作業が終わる頃には、昼を少し過ぎていた。
最後は各区画の餌槽へ指定量の餌を入れる。
青尾鶏には麦粒を中心に、白耳鳥には麦と乾燥豆を混ぜ、岩脚鳥には粗く砕いた穀物と刻んだ根菜を入れていく。
「岩脚鳥って結構食べるんですね」
「でかいからな」
「卵二百四十の理由分かってきた」
「餌だけじゃない。場所も取るし、柵も丈夫なのいるし」
「一個の値段だけ見ても分からないか」
「まあな」
作業完了の札へ印をもらって養鳥場を出た頃には昼を少し回っていたが、半日仕事なので昼食は支給されず、帰り道の屋台で焼き薄パンに刻んだ豆と葉野菜を挟んだものを百ゴールドで買った。
岩脚鳥の巨大卵を見たあとだと、普通の昼食が妙に小さく感じる。
「卵一個で六人分かぁ」
歩きながら思い出す。
前の世界で卵を買うときは、十個入りを一パックとして考えていた。特売なら安い店を探したり、冷蔵庫にまだ何個残っていたか考えたりしていたが、一個を両手で抱えて運ぶ日が来るとは思わなかった。
しかも、それが酒場で蒸し料理になるらしい。
「いや、今日は普通でいい」
自分へ言い聞かせながら、薄パンを食べた。
ギルドへ戻って報酬千五百ゴールドを受け取る。
昼食百ゴールドと宿代三百を引けば、今日の稼ぎから自由に使えるのは千百ゴールドになる。昨日は限定に負けたので、今日は夜予算を五百ゴールドと決め、そこまで使ったとしても六百残るなら十分だと考えた。
「今日は限定じゃなくて普通」
報酬を財布へしまう。
養鳥場で聞いた卵蒸しのことは、考えないことにした。
一度《銀鈴の宿》へ戻り、服に付いた細かな羽毛と藁を払う。手を洗うと、卵の殻や藁を触ったせいか指先が少し乾いていた。
半日仕事だったので身体は楽で、少し休んだだけで夕方には十分元気になった。
街へ出る。
今日の予算は五百ゴールドなので、酒一杯と料理二皿くらいなら、店を選べば余裕がある。
私は北側から中央へ向かう通りを歩き、まだ入ったことのない店を探した。一軒目は小さな魚料理屋で、二軒目は串焼き中心、三軒目は酒の種類こそ多そうだったものの料理が少し高い。
さらに一本裏道へ入ったところで、変わった看板が目に入った。
丸い大きな卵の上に、湯気の線が三本描かれている。
《殻籠亭》
「……嫌な予感」
入口の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《香麦酒 百二十ゴールド》
《薄白果実酒 百三十ゴールド》
《岩脚卵の小蒸し 百八十ゴールド》
《青尾卵と茸の焼き皿 百二十ゴールド》
《角鶏と黄根の塩煮 百四十ゴールド》
《燻し豆 七十ゴールド》
《麦薄焼き 六十ゴールド》
私は《岩脚卵の小蒸し》という文字をじっと見る。
「小蒸し」
今日、養鳥場で見た岩脚鳥の卵なら、一個で六人から八人分だと言っていた。
小蒸しなら、さすがに一人前だろう。
限定料理ではなく値段も百八十ゴールドなので、夜予算五百の範囲には十分収まる。
「これならいいか」
私は安心して店へ入った。
店内は落ち着いた雰囲気だった。
カウンターが七席、奥には四人掛けの卓が三つあり、棚の上にはさまざまな大きさの卵殻が飾られている。普通の鶏卵くらいの小さな殻から、両手で抱えるほど大きな灰色の殻まで並んでいた。
「いらっしゃい」
店主は五十代くらいの女性だった。
名前はトワ。灰色がかった黒髪を首の後ろでまとめ、生成り色の上着に茶色い前掛けを着けている。頬は少し丸く、声は落ち着いていた。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
中央の席へ座る。
目の前の棚にも、大きな岩脚鳥の卵殻がある。
「それ、本物ですよね?」
「岩脚卵?」
「はい」
「本物。今日も入ってるよ」
「今日それ回収してました」
「養鳥場で?」
「北のところ」
「じゃあ、うちに来る卵触ってたかもしれないね」
「本当に?」
「午前の仕入れ、北養鳥場だから」
またつながった。
一昨日は畑で採った野菜に近いものを夜の店で食べ、今日は自分が両手で運んだかもしれない卵が店に届いている。
「変な感じ」
「何が?」
「昼まで商品になる前の姿見てたので」
「なら値段高い理由も分かるでしょ」
「かなり」
私は品書きを指す。
「岩脚卵の小蒸しって、一人分です?」
「一人分」
「よかった」
「何だと思ったの?」
「卵一個丸ごと出てくるのかと」
トワが笑う。
「一人に一個出したら食べきれないよ。一個で小蒸し七、八皿取れるから」
「ですよね」
「大皿なら一個使うけど」
「大皿?」
「三人以上で頼むやつ。今日はもう予約で一つ入ってる」
「なるほど」
それなら安心して頼める。
「軽麦酒と、小蒸しください」
「九十と百八十で二百七十」
「お願いします」
今日の夜予算は五百なので、最初の注文は二百七十ゴールドとなり、残りは二百三十ある。追加で一皿頼んでも、二杯目を飲んでも組み合わせ次第では十分予算内に収められるので、昨日よりかなり安全な注文だった。
軽麦酒は淡い琥珀色で、泡は細かい。
一口飲むと、麦の香ばしさより少し甘さが強く、最後に穏やかな苦味が残る。
「卵料理向け?」
私が聞くと、トワが頷いた。
「脂少ない酒だからね。蒸し卵に強い酒合わせると香り消える」
「店で合わせてるんだ」
「卵屋みたいな店だから」
「卵屋」
「半分はそう」
厨房から、蒸気の音が聞こえてくる。
少し待つと、深めの陶器椀が運ばれてきた。
「熱いから気をつけて」
《岩脚卵の小蒸し》は、見た目だけなら前の世界の茶碗蒸しによく似ていた。
表面は淡い黄色でつるりとしているが、器は茶碗蒸しより大きく、中には角鶏の細切れ、薄く切った茸、緑色の葉、それから赤い小さな実が入っていた。
「うわ、懐かしい見た目」
「食べたことあるの?」
「似た料理を」
木匙ですくう。
表面を割ると、中から透明に近い汁が少し出てきた。
口へ運ぶ。
「……おいしい」
卵自体の味がかなり濃い。
前の世界の鶏卵より黄身の甘さが強いように感じられ、出汁の代わりに使われているらしい角鶏の煮汁と茸の香りが重なっている。
食感は茶碗蒸しより少ししっかりしていて、柔らかいのに匙を入れてもすぐ崩れず、形を保つ程度の弾力があった。
「岩脚鳥の卵って、普通の卵より固いんです?」
「白身が強い」
トワが答える。
「蒸すと締まりやすいから、山羊乳少し混ぜてる」
「乳入ってるんだ」
「そのままだと固くなるからね」
「なるほど」
表面の優しい黄色からは想像できないくらい、作り方には細かな調整が入っている。
「卵一個が大きいから、料理も大雑把かと思ってました」
「逆。大きいから毎回同じじゃない」
「同じじゃない?」
「季節と餌で中身の濃さが変わる。水分多い日は乳減らすし、白身強い日は増やす」
「一個ずつ?」
「割って見て決める」
「大変だ」
「料理なんてそんなもんでしょ」
昼間、養鳥場では白札と赤札を分け、食用と孵化用で扱いを変えていた。今度は酒場で、同じ食用卵でも中身を見ながら配合を変えているのだから、卵という一つの食材が自分の皿へ届くまでには、思っていた以上に多くの判断が積み重なっているらしい。
「卵一個って聞くと簡単そうなのに」
「一個がでかいからね」
「そういう意味じゃなくて」
トワが笑った。
小蒸しの中から、赤い小さな実を一つ食べる。
噛むと酸味が広がった。
「これ何です?」
「《酸灯実》」
「酸っぱい」
「卵だけだと重くなるから途中に入れてる」
「梅っぽい役割かな」
「また前の世界?」
「はい」
前の世界の茶碗蒸しなら銀杏や三つ葉が入っていたが、こちらでは酸味のある実を入れて味を切るらしい。前の世界の料理に似ているところはあっても完全に同じではなく、その違いが分かるたび、この世界で食べることが少しずつ楽しくなる。
半分ほど食べたところで、隣の席に一人の男性が座った。
四十代後半くらいで、薄い茶髪を後ろへ撫でつけ、灰色の上着を着ている。指先には白い粉が付いていた。
「軽麦と小蒸し」
「いつもの?」
トワが聞く。
「今日は普通ので」
「普通じゃないの何です?」
思わず聞くと、男性がこちらを見る。
「大蒸し」
「大蒸し?」
「三人用」
「一人で?」
「前にやった」
「食べたんです?」
「半分で後悔した」
男性の名前はカイル。
石膏細工を作る職人で、この店には仕事帰りに時々来るらしい。
「何で三人用を一人で頼んだんです?」
「値段見たら四百八十だったから」
「安いと思った?」
「小蒸し百八十だろ。三倍なら五百四十。大蒸し四百八十なら得だと思って」
「分かる気がする」
「分かるな。罠だぞ」
トワが笑う。
「別に罠じゃないよ。三人で食べるなら安い」
「一人で食うと途中から修行になる」
「何で止めなかったの?」
「言ったよ」
「店主に?」
「聞かなかった」
カイルが軽く肩をすくめる。
「量が多い方が得だと思ってたんだよ」
その言葉には、少し覚えがあった。
前の世界でも、大盛り無料やセットの方がお得という言葉に弱い時期があり、百円足せば量が倍になるなら頼んだ方が得だと思って注文し、食べ終わる頃には苦しくなっていることがあった。
価格だけ見れば得でも、自分が食べきれなければ意味がない。
「昨日まで私、安いとか限定とかに振り回されてたんですよね」
「今日は?」
「今日は普通にする日です」
「小蒸しなら普通だな」
「ですよね」
そのとき、店の奥の卓へ三人組が座った。
しばらくして、厨房から大きな蓋付きの器が運ばれてくる。
「あれが大蒸し?」
「そう」
思わず見る。
器というより、かなり鍋に近い大きさだった。
「でかっ」
「岩脚卵一個分」
トワが答える。
「本当に一個使うんだ」
「具も多いよ」
三人組が蓋を開けると、湯気が一気に上がる。
遠くからでも卵と茸の香りが分かる。
「一人であれ食べたんです?」
「若かった」
カイルが言う。
「何年前?」
「二年前」
「最近じゃないですか」
「若かったんだよ」
「便利な言葉だなぁ」
自分の小蒸しを見る。
最初は「小」と書いてあるから量が少ないのかと思ったが、一人で食べるなら十分すぎるくらい入っている。角鶏も茸もあるので、これ一皿でかなり腹にたまる。
軽麦酒を飲むと、卵の濃さを洗い流すように軽い苦味が入り、また一匙食べたくなる。
「この組み合わせいいな」
「だから軽麦にしてる」
トワが言う。
「白果実酒でも合うけど、最初なら軽麦の方が分かりやすい」
「二杯目を白にする人いる?」
「いるね」
品書きを見る。
薄白果実酒は百三十ゴールドで、今の会計二百七十に追加しても四百なので、夜予算五百からはまだ百ゴールド残る。
「……入るな」
「何が?」
カイルが聞く。
「予算」
「飲めば?」
「そういうこと言う人、昨日もいました」
「知らんよ」
小蒸しはまだ残っているし、白果実酒と合わせてみたい気持ちもある。昨日なら限定肉に負けたあとで水へ切り替えたが、今日は最初から五百ゴールドまで使っていい日で、追加しても四百なら無理に我慢する理由はなかった。
「薄白果実酒ください」
「百三十ね」
運ばれてきた酒は、かなり淡い黄色だった。
香りは花より果実の皮に近く、口へ入れると酸味が先に来る。
小蒸しを一匙食べ、そのあと白果実酒を飲む。
「こっちもいい」
軽麦酒より口の中がさっぱりする。
特に《酸灯実》を食べたあとだと、酒の酸味が不思議と強く感じない。
「酸っぱいもの同士なのに喧嘩しない」
「酒の方が丸いからね」
トワが言う。
「卵が濃い日は白果実も出る」
「料理によって注文変わるんだ」
「そりゃ変わるよ」
カイルが横から言う。
「俺なんか大蒸しの時、途中から水だった」
「量の問題ですよね?」
「完全に量の問題」
しばらく三人で笑った。
小蒸しを食べ終える頃には、腹はかなり満たされていた。
会計は軽麦酒九十、岩脚卵の小蒸し百八十、薄白果実酒百三十で四百ゴールドとなり、夜予算五百からはまだ百残っている。
品書きには燻し豆七十もあり、頼んでも四百七十で予算内には収まるのだが、腹はもう十分だった。
少し前の自分なら、「あと七十なら入る」と予算の余白だけを理由に頼んでいたかもしれない。
私は品書きを一度見てから、杯に残った白果実酒を飲む。
「今日はこれで終わりにします」
トワが頷く。
「四百ね」
「はい」
カイルがこちらを見る。
「豆食わないの?」
「お腹いっぱいなので」
「それが普通だよ」
「大蒸し一人で頼んだ人に言われたくない」
「だから学んだんだよ」
「説得力あるような、ないような」
「あるだろ」
私は四百ゴールドを払った。
今日は仕事で千五百稼ぎ、昼食が百、宿代が三百、夜が四百なので、差し引きで七百ゴールド残る。
昨日の五百二十より増やせたうえ、飲みたかった二杯目は無理に我慢せず、腹がいっぱいなのに予算が残っているという理由だけで追加料理を頼むこともしなかった。その違いは、自分の中では意外と大きい気がした。
「卵一個って聞いてたんですけど」
店を出る前、大きな殻を見上げながら言う。
「何?」
トワが聞く。
「今日、養鳥場で卵一個持ったときは、ただ大きいだけだと思ってたんです。でも一個で七、八皿になって、店だと中身見ながら乳の量まで変えるんですね」
「食材は一個でも、使い方は一個じゃないからね」
「それ、いいですね」
「何が?」
「何か今日の答えっぽい」
「知らないよ」
トワが笑った。
外へ出ると、夜の空気は少し冷たくなっていた。
店の看板には、大きな卵から三本の湯気が上がっている。
昼間までなら、岩脚鳥の卵は一個二百四十ゴールドという値段と、落としたら弁償という緊張の方が強かった。それが夜になってみれば、その一個から七、八人分の料理が取れ、中身の状態によって山羊乳の量まで調整されることを知った。
同じ「一個」でも、その中に入っている量や価値はものによって違うし、同じ五百ゴールドの予算でも、最後まで使い切ることが正解とは限らない。値段だけなら得に見える大盛りだって、自分で食べきれなければ得とは言えない。
最近の自分は、数字だけを見て考えることが少し多かったのかもしれない。
安いか高いか、残り一皿なのか、予算があと百ゴールドあるのかといった数字は分かりやすいけれど、自分の腹がどれくらい満たされているかまでは教えてくれない。
今日は五百ゴールド使っていい日だったのに、結果として四百で十分だった。一方で、二杯目の薄白果実酒は百三十使ってでも飲んでみたかったので頼んだ。
使わなかった百ゴールドと、自分で選んで使った百三十ゴールド。
どちらも、自分が納得して決められたならそれでいいのだろう。
「普通に飲むって、意外と難しいなぁ」
私は小さく笑った。
高いものを避けることでも、安いものだけを選ぶことでも、予算をぴったり使い切ることでもなく、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで、もう十分ならそこで止める。
言葉にすると簡単なのに、限定やお得や残り予算が目に入ると、途端に難しくなる。
それでも今日は、岩脚鳥の巨大な卵を見て驚き、その卵を使った一人分の小蒸しを食べ、飲みたかった酒も一杯追加したうえで、腹が満たされたところで席を立つことができた。
それなら昨日より少しくらい、自分の腹と財布の両方を見ながら飲めたと思ってもいいだろう。
遠くで夜の鐘が鳴り始める。
私は昼間に両手で抱えた大きな卵の重さを思い出しながら、今夜使わずに残した百ゴールドよりもずっと軽い足取りで、リーベルの通りを歩いていった。




