第35話「限定って書かれると弱いんですよ」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は昨日より少し重くなった財布を何度か指先で確かめていた。
共同菜園の収穫仕事で千八百ゴールドを稼ぎ、昼食は支給。《残り銭》では軽麦酒一杯と黄葉菜と燻し肉、それから丸根豆醤煮だけで止めたので、夜の支払いは二百四十ゴールドだった。宿代三百を引いても千二百六十ゴールド残り、朝に「今日は本当に貯金する。たぶん」と言っていたわりには、かなりきれいに目標を達成できたと思う。
しかも昨日は、二杯目も追加の青豆莢炒めも頼めるだけの予算が残っていたのに、水で終わらせた。
「やればできるじゃん、私」
薄パンをちぎりながら、少しだけ誇らしくなる。
使える金があるのに全部は使わず、それでも酒と料理を楽しめた経験が一度あるだけで、次も同じようにできそうな気がしてくる。昨日みたいな日を何回か作れば、宿代や修理代を気にせず動ける余裕がもっと増えるだろうし、突然数日仕事が取れなくなっても慌てずに済むので、こういう成功体験は意外と大事なのかもしれない。
最近は討伐より街仕事を選ぶ日も多く、収入もそこまで悪くない。だから今のうちに少しずつ貯めておくのは間違っていないし、今日も無理に高いものを食べる必要はない。
そう思いながら白酪を塗ったパンを口へ入れたところで、昨日の《残り銭》でヘルドに言われた言葉を思い出した。
「明日も同じならな」
「……同じにできるでしょう」
自分で自分へ言い聞かせる。
ただし、今日は昨日ほど極端に節約するつもりはなかった。毎日二百ゴールド台で済ませる必要はないし、貯金すること自体が目的になって、夜の楽しみまで小さくしてしまうのも違う。
今日の仕事で千五百前後稼げたなら、宿代を除いた残りの中から四百五十ゴールドくらいを夜予算にして、その範囲で飲めば十分だろう。昨日より少しだけ予算を緩める程度なら、まだ貯金の流れを壊すほどではないはずだった。
朝食を終え、冒険者ギルドへ向かう。
今日は空に薄い雲が広がっていて、日差しはあるものの昨日ほど眩しくない。朝の通りを歩く人たちも少し厚めの上着を着ており、季節がゆっくり変わっていることを感じた。
ギルドの依頼板には、街仕事と郊外仕事が半々くらい並んでいる。
《西工房街・薪束運搬 報酬千三百ゴールド》
《中央市場・荷籠修繕補助 報酬千四百ゴールド》
《北牧場・飼料袋仕分け 報酬千五百ゴールド》
《南外縁・角兎被害確認および追い払い 報酬千九百ゴールド》
《東林道・倒木枝払い補助 報酬千六百ゴールド》
「角兎かぁ」
千九百ゴールドという数字には少し惹かれたが、「追い払い」と書いてある依頼は意外と面倒なことがある。
倒せば終わりではなく、生け捕りや追い払いを求められれば、相手の動きを見ながら加減しなければならない。昨日の畑仕事で腰がまだ少し重いこともあり、今日は素直に街仕事を選ぶことにした。
《北牧場・飼料袋仕分け》
《報酬千五百ゴールド》
《半日予定》
《内容:麦殻、乾草、豆粕、根菜屑の仕分けおよび配分》
《飼料袋運搬あり》
《家畜への直接給餌は職員指示時のみ》
《昼食なし》
「半日で千五百なら悪くない」
依頼票を外して受付へ持っていく。
担当は、少し長めの金髪を横へ流した二十代後半くらいの男性だった。眠そうな目をしているが手元は早く、依頼票を受け取るとすぐに帳面をめくる。
「北牧場ですね。主に飼料の仕分けですが、袋はそこそこ重いですよ」
「昨日野菜箱運んだので、まあ大丈夫だと思います」
「豆粕袋はかなり詰まってます」
「どのくらい?」
「持てば分かります」
「昨日も聞いたような答え」
「牧場側の人がそう言ってました」
「職人と同じだ」
受付を済ませ、北門の外にある牧場へ向かった。
リーベルの北側は南や東より開けており、街壁を出ると緩やかな草地が広がっている。少し進むと木柵で囲われた大きな牧場が見え、その中では白角山羊や小型の荷獣、それに角の短い牛に似た動物が歩いていた。
入口の小屋でギルド札を見せると、奥の倉庫へ案内される。
「ギルドの人?」
声をかけてきたのは、三十代後半くらいの女性だった。
名前はネラ。赤茶色の髪を高い位置で結び、色褪せた緑の作業着を着ている。手には細長い木札を何枚か持っていた。
「ミサキです」
「ネラ。今日は飼料分けてもらうから、最初に種類説明するね」
「お願いします」
倉庫の中には、大きな麻袋が積み上がっていた。
同じような袋に見えるが、口元へ付けられた紐の色が違う。
「赤紐が麦殻、青が乾草粉、黄が豆粕、白が根菜屑。今日はこれを家畜ごとの配分に分け直す」
「全部混ぜるんです?」
「混ぜるけど割合が違う」
「動物によって?」
「そう。白角山羊は乾草多め、荷獣は麦殻と豆粕、乳牛は豆粕増やして根菜も入れる」
「結構細かい」
「全部同じもの食わせたら楽なんだけどね」
ネラは壁に掛けてある木札を一枚取る。
《白角山羊 一袋》
《乾草粉六》
《麦殻二》
《豆粕一》
《根菜屑一》
「数字は割合?」
「そう」
「一袋の中を十に分ける感じ?」
「大体ね。量り桶があるから、それで合わせる」
「配合飼料だ」
「何それ?」
「前の世界でも似たようなのありました」
「動物いるならどこでも考えるんじゃない?」
「確かに」
作業は、空の大袋を台へ載せ、指定された量の飼料を順番に入れていくことから始まった。
乾草粉は桶いっぱいに入れても軽く、麦殻もそこまで重くなかったのだが、問題は黄紐の袋に詰められた豆粕だった。
「重っ」
「言ったでしょ」
ネラが笑う。
「これ、一桶で?」
「それ一杯で一割」
「豆って重いんだ」
「油取った後の搾り粕だから詰まってる」
「見た目より全然ある」
豆粕は細かな粒状になっており、袋を開けると少し香ばしい匂いがする。
「これ、人間も食べられるんです?」
「食べようと思えば食べられるけど、固いし味ないよ」
「おからみたいなものかな」
「何それ?」
「また前の世界の食べ物です」
「何でも似たものあるのね」
「似てるけど同じじゃないんです」
午前中は白角山羊用の飼料を十二袋、荷獣用を八袋作った。
量り桶で指定された杯数を入れるだけなので単純そうに見えるが、途中で話しかけられたり、別の袋を持ってきたりすると、自分が何杯目まで入れたのか分からなくなりやすい。
「今、乾草五だっけ六だっけ」
隣で作業していた男性が手を止める。
四十代くらいで、髪を短く刈り、首に汗拭き布を巻いた人だった。名前はロド。
「木札置いとけって言ったでしょ」
ネラが言う。
「置いたけど蹴った」
「じゃあ最初からやり直し」
「えぇ」
「配合間違えた方が面倒」
「一杯くらい違っても食うだろ」
「食べるけど、毎日それやったら太ったり乳減ったりする」
「一杯だけなのに」
「その一杯を毎日やるなって話」
私は思わず笑った。
「何?」
ロドがこちらを見る。
「昨日、七十ゴールド使わなかっただけでも、一週間なら四百九十って話したので」
「何の話だよ」
「小さい差も積み重なるってことです」
「俺の一杯と酒代一緒にするな」
「でも似てないです?」
ネラが頷く。
「まあ似てる。毎日少しずつ間違えるのが一番分かりにくいからね」
「ほら」
「味方増やすなよ」
しばらくして、乳牛用の配合へ移る。
こちらは豆粕が多めで、根菜屑も入る。
根菜屑といっても腐ったものではなく、市場へ出せないほど小さいものや、切り落とした端の部分を乾燥させたものらしい。
「昨日食べた丸根も形悪いの使ってたなぁ」
「酒場?」
「はい」
「人間用に回るやつもあるし、家畜用に回るやつもあるよ」
「無駄少ないですね」
「餌代高いからね」
ネラが根菜屑の袋を閉じながら言う。
「飼料って家畜育てる金の中でかなり大きいから、使える物は使う」
「なるほど」
「高い餌使えば絶対いいわけでもないし」
「それも?」
「乳を増やしたいから豆粕だけ増やせばいいって話でもない。腹壊したら意味ないし」
「何でもバランスなんですね」
「そういうこと」
昨日は自分の財布について適量を考え、今日は家畜の餌を量っているのに、最近は何をしていても最終的に「使えるから全部使うのではなく、必要な量を使う」という話へ戻ってくる気がする。
それが一番分かりやすそうで、実際には一番難しいのかもしれない。
昼前には予定していた袋のほとんどが完成した。
最後に出来上がった飼料袋を家畜小屋ごとの荷車へ積む。
乾草中心の袋はまだ軽いが、豆粕の多い乳牛用はかなり重い。
「これ毎日運ぶんです?」
「朝夕」
ロドが答える。
「腕太くなりそう」
「腰から先にやられる」
「また腰」
「仕事は大体腰だ」
「昨日も同じ結論になりました」
半日予定だったこともあり、作業は昼を少し過ぎたところで終わった。
ネラが完了札へ印を押しながら言う。
「助かった。今日はこれで終わり」
「昼食なしでしたよね」
「ないね。牧場の売店なら何かあるけど」
「売店?」
「乳とか乳脂パンとか、余り物売ってる」
「聞かなかったことにしたい」
「何で?」
「今日も貯金したいので」
「じゃあ見ない方がいいね」
「そうします」
そう言ったのに、牧場を出る途中で売店の前を通ってしまった。
《白角山羊乳 五十ゴールド》
《乳脂薄パン 七十ゴールド》
《豆粕焼き菓子 六十ゴールド》
《本日分 乳脂蜜巻き 残り四》
最後の一行に目が止まり、私は思わず「残り四」と小声で読み上げた。
乳脂蜜巻きが何なのかはまだ分からないのに、《本日分》と《残り四》という二つの言葉が並んでいるだけで、見なかったことにするのが急に難しくなる。
「いや、昼ご飯だから」
これは酒場ではない。
仕事も終わったうえ、今日は昼食なしの依頼なのだから、何か食べること自体は必要経費と言っていい。
私は売店の女性に聞いた。
「乳脂蜜巻きって何です?」
「薄い麦生地に山羊乳脂と樹蜜塗って巻いたやつ。一本百二十」
「百二十かぁ」
「今日の乳脂が良かったから作っただけ。毎日は出ないよ」
「毎日は出ない」
「残り四本」
「言わなくていいです」
「買う?」
昼食として百二十ゴールドなら高すぎるわけではないものの、甘いものだけでは腹が足りない。
「乳脂薄パンと、それください」
「七十と百二十で百九十」
「……まあ、昼だから」
昨日なら昼食支給だったのでゼロだったが、今日は元々昼食なしの仕事なのだから、百九十ゴールド使うこと自体は問題ない。
そう自分へ説明しながら、売店横の木椅子へ座る。
乳脂薄パンは、丸く焼いた薄いパンへ白角山羊の乳脂を薄く塗ったもので、ほんの少し塩が振られている。乳脂は牛のバターほど重くなく、少し酸味があり、温かいパンへ溶けるとかなり食べやすかった。
問題の乳脂蜜巻きは、細長く巻かれた薄い生地の表面に、透明な蜜が薄く塗られていた。
一口かじると、最初に樹蜜の甘さが来たあと、山羊乳脂の軽い酸味と塩気が追いかけてきて、単純に甘いだけではない。
「これ、危ないやつだ」
前の世界なら、バターとはちみつを塗ったクレープに少し塩を加えたような感じに近い。ただし、生地には麦殻が少し混ざっていて香ばしく、山羊乳脂には独特の酸味があるので、完全に同じものではなかった。
一本百二十ゴールドなら安いとは言えないものの、食べてしまえば値段に納得できる程度にはおいしい。
「限定って書かれると弱いんですよ」
誰も聞いていないのに、私は小さく言った。
昼食を終え、ギルドへ戻って千五百ゴールドを受け取る。
今日の稼ぎ千五百から昼食百九十と宿代三百を引けば、この時点で千十ゴールド残る。夜に予定通り四百五十使ったとしても五百六十ゴールド残る計算なので、昨日ほどではないにしても十分に財布は増やせる。
「夜四百五十まで」
財布へ報酬を入れながら確認する。
昨日は千二百六十残したのだから、今日まで同じ水準で節約する必要はない。それでも昼に予定していなかった乳脂蜜巻きを買った以上、夜は最初に決めた四百五十をきちんと守りたい。
「今日は限定に負けない」
そう決めて、一度宿へ戻った。
半日仕事だったので身体の疲れはそこまで強くない。飼料袋を持った腕に少し張りがある程度で、昨日の畑仕事よりは楽だった。
顔と手を洗い、少し休んだあと、夕方になって街へ出る。
今日の夜予算は四百五十ゴールドで、昨日より二百以上高いのだから、普通に一杯と二皿くらいは楽しめるはずだった。
東側は昨日歩いたので、今日は西の工房街から南へ抜ける道を選ぶ。
鍛冶屋や木工所が並ぶ通りは夕方になると仕事帰りの人が多く、酒場も労働者向けの店が中心だった。一軒目は軽麦酒九十で料理も百前後だったが、二軒目は酒こそ安いものの揚げ物中心で少し重そうで、三軒目は入口まで立ち客が出るほど混んでいる。
その先で、赤茶色の小さな布が風に揺れている店を見つけた。
看板には肉切り包丁と、小さな鐘の絵が描かれている。
《暮れ鐘屋》
「鐘?」
入口横に品書きがある。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《薄赤果実酒 百三十ゴールド》
《角鶏胸肉香草焼き 百二十ゴールド》
《燻し豆煮 九十ゴールド》
《焼き根菜 八十ゴールド》
《麦薄焼き 六十ゴールド》
《塩茸 七十ゴールド》
ここまでなら安い。
そして一番下に、小さな別札が掛かっていた。
《本日限定》
《夕暮れ猪の炙り 数量六皿》
《一皿 二百八十ゴールド》
そこで私は足を止めた。
「……限定」
昼にも見たばかりだ。
あの乳脂蜜巻きも、《本日分》《残り四》という言葉に負けて買ってしまった。
今度は夕暮れ猪で、しかも用意されたのは六皿だけらしい。現在何皿残っているのかまでは書いていない。
「見なかったことにしよう」
軽麦酒九十と角鶏胸肉百二十、それに燻し豆煮九十を頼めば三百ゴールドで済み、もう一杯追加したとしても三百九十なので、夜予算四百五十にはきれいに収まる。
わざわざ二百八十ゴールドの限定肉を頼む必要などない。
そう自分に言い聞かせながら、私は店へ入った。
「いらっしゃい」
店内は思っていたより広く、長いカウンターが十席ほど、奥には四人掛けの卓が五つある。壁には小さな鐘がいくつも吊られており、店名通り、どこを見ても鐘が目に入った。
店主は四十代半ばくらいの女性だった。
名前はサナ。黒髪を短く切り、紺色のシャツの上から赤茶色の前掛けを着けている。右手には細長い金属製の串を持っていた。
「一人?」
「はい」
「カウンター空いてるよ」
端から三席目へ座る。
「店名って鐘が多いからです?」
「昔、工房の終業鐘が鳴る頃に開けてたから。《暮れ鐘屋》」
「今も?」
「今は昼も少し仕込みしてるけど、客入れるのは夕方から」
「仕事終わりの店なんですね」
「そういうこと」
品書きをもう一度見る。
限定札もカウンター横に置かれていた。
《夕暮れ猪の炙り 二百八十》
《残り二皿》
「減ってる」
思わず声が出た。
サナがこちらを見る。
「猪?」
「いや、何でもないです」
「今朝入ったやつ。脂きれいだよ」
「聞いてないです」
「聞こえるように独り言言うから」
「それはそうなんですけど」
「どうする?」
「軽麦酒と……角鶏胸肉香草焼きください」
「猪じゃなくて?」
「今日は貯金する日なので」
「じゃあ百二十の方で」
「はい」
少なくとも最初の注文だけを見るなら、私は限定札の誘惑に勝てていた。
軽麦酒九十と角鶏百二十で二百十ゴールドなので、残り予算は二百四十ある。このまま燻し豆煮九十を足し、二杯目を飲んでも三百九十で終われるため、昨日と同じように予算を守って帰ることは十分できる。
軽麦酒は透明感のある金色で、香りは穏やかだった。
一口飲むと、昨日の《残り銭》より麦の味がしっかりしている。苦味は弱いが、後味に香ばしさがあり、工房仕事のあとに飲む客が多い店らしい少し濃いめの造りだった。
「これ九十ならいいですね」
「近所の醸造所から樽で取ってるからね」
「安い?」
「運ぶ距離短いから」
「なるほど」
角鶏胸肉香草焼きもすぐに出てきた。
厚めに切った胸肉を鉄板で焼き、表面には刻んだ香草と黒い粒状の香辛料が散らしてある。
胸肉なので脂は少なく、噛むと締まった弾力がある。少し淡白だが、香草の香りが強く、黒い粒を噛むと舌に軽い刺激が残る。
「この黒いの何です?」
「《黒実》」
「胡椒っぽい」
「何?」
「前の世界の香辛料です」
「辛いやつ?」
「似てます。でももう少し香り強かったかな」
「黒実は乾かして潰すと香り出る」
この世界では香辛料が高いことも多いが、《黒実》は西側の丘陵地でも育つため、リーベルでは比較的使いやすいらしい。
角鶏を食べながら軽麦酒を飲む。
昼に甘い乳脂蜜巻きを食べたせいか、塩気と香草の強い肉がちょうどよかった。
「やっぱり普通ので十分なんだよね」
「猪まだあるよ」
サナが言う。
「何で今言うんです?」
「一皿出たから残り一皿」
「実況しなくていいです」
「早い者勝ち」
「その言葉が一番駄目なんですよ」
隣の席から笑い声がした。
座っていたのは、三十代後半くらいの大柄な男性だった。肩幅が広く、腕には細かい火傷痕がいくつもある。作業着の胸元には黒い煤が薄く付いていた。
「限定に弱いのか?」
「今日の昼にも負けたばっかりです」
「何買った?」
「乳脂蜜巻き」
「ああ、北牧場のやつ?」
「知ってるんです?」
「去年食った。うまい」
「やっぱり毎日ないんだ」
「乳脂の出来いい日だけだろ」
「それ聞くと買ってよかった気もする」
「じゃあ猪も食えばいいじゃん」
「それは別です」
男性は笑いながら杯を持ち上げる。
「俺はボルグ。鍛冶屋」
「ミサキです」
「今日も限定に悩んでるなら食っとけ。明日ないぞ」
「明日ない、が強いんですよ」
「本当だろ」
「本当だから困るんです」
ボルグの前には濃麦酒と、何か赤い肉の皿がある。
「それ、猪?」
「そう」
「もう食べてる人いた」
「俺が一皿取った」
「じゃあ残り一皿って本当なんだ」
「うまいぞ」
「感想いらないです」
私は角鶏を一口食べる。
百二十ゴールドの角鶏だけでも十分おいしく、現時点では満足できている。それでも限定の猪を追加すれば二百八十ゴールド増え、合計四百九十となって夜予算四百五十を四十超えることになる。
払えない額ではなく、今日の報酬から見ても生活に困るような出費ではないが、昨日せっかく「使えるのに使わなかった金」を残せたのに、今日は昼も夜も限定という言葉に反応している。
「どうしよう」
「食えば?」
ボルグが言う。
「鍛冶屋さんって貯金しないんですか?」
「するよ」
「じゃあ何で勧めるの」
「俺の金じゃないから」
「最悪だ」
サナが笑った。
「でも猪は今日だけ」
「店主まで」
「仕入れたの私だから売りたい」
「正直ですね」
「商売だから」
しばらく迷っていると、入口の扉が開いた。
二人組の客が入ってくる。
私は反射的に限定札を見る。
《残り一皿》
別に頼むと決めたわけでもないのに、他の誰かにその一皿を取られるかもしれないと思った途端、急に惜しくなった。
「……猪ください」
ほとんど反射で口から出た。
サナがすぐに札を裏返す。
《本日終了》
「はい、最後」
「やった……いや、やってない」
「どっちだよ」
ボルグが笑う。
「注文した瞬間は勝った感じしたんですけど、予算には負けました」
「四十くらいだろ?」
「その四十を軽く見ると駄目なんですよ」
「細かいなぁ」
「最近そこを勉強してるんです」
注文した以上、今さら後悔しても仕方ない。
それに、食べると決めたならきちんと味わいたい。
少し待つと、炙った肉の香りが厨房から漂ってきた。
角鶏とは明らかに違い、脂の焼ける甘い匂いが強く、そこへ木のような香りが混ざっている。
「何の匂いだろ」
「《赤葉木》で炙ってる」
サナが答える。
「炭じゃないんだ」
「最後に香り付けるだけ。猪の脂強いから」
運ばれてきた《夕暮れ猪の炙り》は、厚めに切った肉が五枚ほど並び、その横に焼いた赤根と緑の葉が添えられていた。
肉の表面にはしっかり焼き色が付いているが、切り口の中心はわずかに赤みが残っている。上からは粗い塩と砕いた《黒実》が振られていた。
一枚持ち上げ、口へ入れる。
最初に驚いたのは脂だった。
角猪系の肉は何度か食べたことがあるが、この夕暮れ猪は脂が柔らかく、口へ入れた瞬間にすっと溶ける。
「うわ」
「どう?」
「これは……頼む人いるわ」
「だから限定になる」
肉自体には少し野性味があり、前の世界の豚肉より香りが強く、脂にも獣らしい濃さがある。ただ、《赤葉木》の煙がその匂いをうまく包んでいるので嫌な癖にはならず、むしろ噛むほど肉の甘みが出てくる。
「これ、猪なのに脂軽いですね」
「夕暮れ猪は秋前になると実をよく食うから、その頃だけ脂質変わる」
「季節物?」
「今の時期だけ」
「さらに限定感増やさないでください」
「もう頼んだあとだからいいだろ」
「それはそうですけど」
夕暮れ猪は、日暮れ前後に林の端へ出て木の実を食べることが多いため、その名前が付いているらしい。
この時期は《赤殻実》という脂の多い木の実をよく食べるため肉の脂が柔らかくなるが、毎日捕れるわけではなく、猟師が仕留めた日にしか市場へ出ない。
つまり、本当に今日だけだった可能性はかなり高い。
「食べてよかった気もする」
「だろ?」
ボルグが得意そうに言う。
「でも予算超えてます」
「まだ言うか」
「大事です」
二杯目を頼むか迷ったが、そこはやめた。
現在の合計は軽麦酒九十、角鶏百二十、夕暮れ猪二百八十で四百九十ゴールドとなり、すでに夜予算四百五十を四十超えている。ここから二杯目まで頼めば五百八十になるので、増えた分をさらに広げる必要はない。
「水もらえます?」
「無料」
「助かります」
「猪食ってる客がそこ節約するんだ」
「ここからです」
サナが水を出してくれる。
ボルグは濃麦酒を飲みながら笑う。
「限定食って水って、変な飲み方だな」
「予算超えたから調整してるんです」
「最初から猪だけにすればよかったじゃん」
「それは今だから言える」
「店入る前に限定見たんだろ?」
「見たけど、頼まないつもりだったんです」
「なら意思弱いな」
「分かってます」
その言葉が少し刺さった。
今日は朝から、昨日みたいに貯金できると思っていたのに、昼には限定の乳脂蜜巻きを買い、夜には限定の夕暮れ猪を頼んでいる。どちらもおいしかったので、金を払ったこと自体に後悔はないが、自分で決めた予定を二回とも「今日だけ」に押されて曲げたのは事実だった。
「鍛冶屋さんって限定って言われたら買います?」
私が聞く。
「物による」
「ですよね」
「珍しい鉄とかなら買う」
「使う予定なくても?」
「安かったら」
「同じだ」
「でも酒は飲まない日もある」
「そこは強い」
「仕事で火使うから、飲みすぎると翌日危ない」
「理由があると止めやすいのかな」
「理由なきゃ止めなくていいだろ」
「それも強い」
ボルグは少し考えてから、手元の濃麦酒を見る。
「でも限定だからって全部買ってたら金なくなるぞ」
「急に正論」
「俺も昔やったからな」
「何買ったんです?」
「珍しい鉱石」
「いくら?」
「半年分の貯金」
「規模が違った」
「しかも使わなかった」
「最悪じゃないですか」
「だから今は、使うかどうか先に考える」
「食べ物は食べるから全部使うんですよね」
「じゃあ腹に必要か考えろ」
「……それだ」
食べ物は食べてしまえば「買ったのに使わなかった」という失敗は起きにくいが、本当にそのとき必要だったかどうかなら考えられる。
今日の夕暮れ猪は、空腹だから絶対に追加しなければならなかったわけではなく、角鶏だけでも十分満足していた。それでも「最後の一皿」「今日だけ」という言葉に押されて頼んだのだから、欲しかったのは肉そのものだけではなく、逃したくないという気持ちもかなり大きかったのだろう。
「限定って、食べ物だけじゃなくて焦りも売ってるんですね」
「何だそれ」
サナが笑う。
「最後の一皿って書いてあると急に欲しくなる」
「本当に最後だからね」
「嘘じゃないのが余計強い」
「じゃあ書かない方がいい?」
「店としては書いた方が売れますよね」
「そりゃそう」
「完全に負けてる」
夕暮れ猪を最後まで食べる。
脂は最後まで重くならず、赤根の甘さと合わせるとかなり相性がよかったうえ、二百八十ゴールドという値段にも納得できるほどおいしかった。
だからこそ、自分の予定を限定という言葉に押されて曲げたことだけが少し悔しい。
値段が高すぎて後悔したのなら分かりやすい。
けれど、ちゃんとおいしく、ちゃんと値段分の価値があり、それでも予算だけは守れていないというのが、何とも判断しづらかった。
会計は四百九十ゴールド。
サナへ硬貨を渡す。
「軽麦九十、角鶏百二十、猪二百八十。四百九十ね」
「はい」
「予算四百五十だっけ?」
「覚えてたんです?」
「さっきずっと言ってたから」
「四十オーバー」
「払える?」
「余裕で払えます」
「じゃあいいじゃない」
「そこじゃないんですよ」
「面倒な客だなぁ」
「自分でもそう思います」
今日の稼ぎ千五百から昼食百九十、宿代三百、夜四百九十を引けば、五百二十ゴールド残る。
昨日の千二百六十には遠く及ばないが、それでも赤字ではなく、財布全体としてはちゃんと増えているので、数字だけを見れば大きな問題はなかった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
工房街の多くはすでに閉まり、遠くで最後の作業音が何度か響いている。
《暮れ鐘屋》の扉が閉まると、店内に吊られていた小さな鐘が軽く鳴った。
私は通りを歩きながら、今日の支出をもう一度考える。
昼の乳脂蜜巻きは百二十、夜の夕暮れ猪は二百八十で、どちらも限定だった。どちらもおいしかったし、買わなければあとで少し気になっていた可能性も高い。
だから限定そのものが悪いわけではなく、今日しか食べられないものを楽しむのは、知らない店を回る自分にとってむしろ大事な楽しみでもある。
問題になるのは、「限定だから食べる」のか、それとも「食べたいものがたまたま限定だった」のか、その順番なのだろう。
今日の夕暮れ猪は、食べ終えた今なら頼んでよかったと思える。
けれど注文する直前の自分は、味も知らない肉そのものがどうしても食べたかったというより、他の客に最後の一皿を取られたくないと焦っていた。
「限定って書かれると弱いんですよ」
昼と同じ言葉を、今度は少し苦笑しながら口にする。
昨日は、使える金を使わずに残せたことが嬉しかったのに、今日は使う予定のなかった金を「今しかない」という言葉に押されて使った。
どちらも自分なのだから、節約できる日があれば限定に負ける日があってもおかしくはない。
それでも、一度四十ゴールド予算を超えたところで「もう今日はいいや」と二杯目や追加料理まで頼まず、水へ切り替えられたことは、昨日の経験がまったく無駄ではなかった証拠かもしれない。
全部守れなくても、崩れたところから戻すことはできる。
それなら今日も、完全な失敗ではないだろう。
財布へ手を当てると、昨日ほど大きく増えたわけではないものの、朝よりはまだ少し重くなっている。
夕暮れ猪の柔らかな脂と《赤葉木》の香りを思い出すと、口元が少し緩んだ。
「……でも、あれは食べてよかったな」
そう認めてしまうあたり、次にまた《本日限定》と書かれた札を見つけたとき、自分がどこまで強くいられるかはかなり怪しい。
それでも次は、《残り一皿》という文字に焦る前に、自分が本当にそれを食べたいのかどうかを一度だけ考えてみようと思う。
その一回の間で注文を止められるか、それともやっぱり頼んでしまうかは分からないが、今日は少なくとも、限定に負けたあとで財布まで全部投げ出さずに済んだ。
そんな少し頼りない結論でも、昨日より自分の金の使い方を一つ知れたのなら十分だろう。
私は《暮れ鐘屋》の鐘の音を背中に残しながら、静かになり始めた夜の工房街をゆっくり歩いていった。




