第34話「今日は本当に貯金する。たぶん」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂で朝食を取りながら、私は財布の中身を一度全部出して数え直した。
昨日は《石輪商隊宿》で荷車の車輪交換を手伝い、千七百ゴールドを稼いだ。昼食は支給され、《袋勘亭》では軽麦酒二杯に塩焼き角兎、豆と燻し肉の煮込み、麦殻平焼きを食べ、最後に予想していなかった席代四十ゴールドまで加わって、夜の支払いは五百三十ゴールドだった。
それでも最初に決めた五百五十ゴールドの夜予算には収まり、昨日の稼ぎから宿代三百を引いても八百七十ゴールド残っている。一昨日までに残していた金も合わせると、今の財布には四千ゴールドをかなり超える額が入っていた。
「増えたなぁ」
薄パンの横へ硬貨を積みながら呟く。
転移して間もない頃は、一晩の宿代三百ゴールドを先に取り分けるだけでも少し緊張していた。それが今では、何日か働けなくてもすぐには困らない程度の金が手元にあり、仕事を選ぶときも「今日食べるために絶対これを受けなければ」という焦りは減っている。
もちろん財布に余裕ができたこと自体は良いのだが、その一方で、自分の注文も少しずつ緩くなっている気がしていた。
一杯だけのつもりが二杯になり、気になる小皿があれば追加し、昨日のように席代が増えても「まあ払えるし」と思えてしまう。一回一回は小さな金額でも、この調子で毎日使えば、せっかく増えた金も気づかないうちに減っていくだろう。
「今日は本当に貯金する。たぶん」
そう口にした瞬間、自分でも最後の二文字が余計だと思った。
隣の席で朝食を食べていた年配の男性が、こちらを見て少し笑う。
「たぶんが付くと弱いな」
「自分でもそう思いました」
「貯める気はあるのか?」
「あります。かなり」
「なら最初から使わなきゃいい」
「それができたら苦労してないんですよ」
男性は声を立てて笑い、私は硬貨をもう一度財布へ戻した。
今日の目標は単純で、できれば千五百ゴールド以上稼ぎ、夜は四百ゴールド以内に抑える。宿代を払ったあとでも、少なくとも八百ゴールド以上は増やしたい。
ここ数日、少し高い料理や変わった酒を楽しむ日が続いたので、一度きちんと財布を増やす日にしておいた方がいい。
朝食を終え、《銀鈴の宿》を出た。
リーベルの空はよく晴れており、朝の光が石畳を白く照らしている。ここ数日より少し風が強く、店先へ吊るされた布看板がぱたぱたと鳴っていた。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前はいつもより空いていた。
《北倉庫街・空樽洗浄および乾燥棚運搬 報酬千三百ゴールド》
《西牧草地・囲い杭交換補助 報酬千六百ゴールド》
《中央市場・計量所補助 報酬千四百ゴールド》
《東外縁・共同菜園収穫および荷積み 報酬千八百ゴールド 昼食支給》
「千八百、昼食支給」
今日の目的を考えれば、かなり魅力的だった。
仕事の内容も魔物討伐ではなく、菜園での収穫と荷積みなら危険は少なそうだ。ここ数日、落石除去に車輪交換と腕を使う仕事が続いているので、多少身体を動かすとしても畑仕事ならまだ気楽だろう。
私は《東外縁・共同菜園》の依頼票を取った。
《東外縁・共同菜園収穫および荷積み》
《報酬千八百ゴールド》
《一日予定》
《内容:黄葉菜、丸根、青豆莢の収穫および選別》
《収穫箱の荷積み補助あり》
《昼食支給》
《傷み品は別箱へ》
《食用と種取り用を混同しないこと》
「野菜なら平和そう」
受付へ持っていくと、今日は以前にも何度か見た短い栗色の髪の女性職員が担当だった。
「共同菜園ですね。収穫量が多いので、今日はギルドから四人入る予定です」
「魔物は?」
「街の外縁ですが、柵の内側です。小動物が入ることはありますけど、戦闘依頼ではありません」
「それなら今日は平和だ」
「昨日何してたんです?」
「荷車の車輪交換」
「その前は?」
「配達所」
「その前は?」
「採石道の落石除去」
受付嬢が少し考える。
「結構働いてますね」
「飲み代が必要なので」
「そこに戻るんですね」
「生活費でもあります」
「順番が逆に聞こえました」
「気のせいです」
登録を済ませ、東門から共同菜園へ向かった。
街の外へ出て十五分ほど歩くと、低い木柵に囲まれた広い畑が見えてくる。森や牧草地とは違い、畝がきれいに並び、黄色い葉を広げる野菜や、土から丸い頭を出している根菜が一面に植えられていた。
入口では、すでに三人のギルド雇いらしい人が待っている。
一人は三十代くらいの男性で、茶色い髪を短く刈り、日に焼けた顔に細い顎髭がある。名前はデイル。
もう一人は二十代半ばくらいの女性で、明るい茶髪を肩の高さで縛り、革手袋を腰へ挟んでいる。名前はリーナ。
最後は私より少し年下に見える男性で、癖のある黒髪と丸い眼鏡が特徴的だった。名前はモルトで、普段は薬草採取や書類仕事を選ぶことが多く、畑仕事は初めてらしい。
「これで四人だな」
畑の奥から声が飛んできた。
歩いてきたのは、五十代前半くらいの女性だった。
名前はカナ。灰色の混じった黒髪を頭の後ろでまとめ、袖を肘までまくった薄茶色の作業着を着ている。背は高くないが腕は太く、腰には小型の鎌と縄が下がっていた。
「今日は黄葉菜、丸根、青豆莢の三つ。食用と種取り用を分けるから、分からないのは勝手に入れずに聞いて」
「見分け方あるんです?」
私が聞く。
「ある。説明する」
カナは近くの黄葉菜を二株引き抜いて見せた。
一つは葉が柔らかく、色も淡い黄色をしている。もう一つは葉が少し硬く、中心から細い茎が伸びていた。
「こっちが食用。こっちは種取り」
「茎が出てる方?」
「そう。種取り用は食べられないわけじゃないけど、葉が硬いから売り物にはしない」
「丸根は?」
「大きすぎるのは種取り。割れてるのと虫食いは傷み箱」
「青豆莢は?」
「莢が柔らかいのは食用。乾いて硬くなってるのは種取り」
「意外と分けること多いですね」
「収穫なんて抜けば終わりだと思ってた?」
「ちょっと思ってました」
「みんな最初はそう言う」
カナが笑う。
「抜くより、売れる物と残す物を分ける方が大事だからね」
昨日の荷車修理でも、「車輪一個替えるだけ」と言った荷主がいた。今日もまた、外から見れば単純に見える仕事の中に、実際には細かな判断がいくつもあるらしい。
「最近『だけ』に騙される仕事ばっかりだなぁ」
「何か言った?」
「何でもないです」
最初は黄葉菜の収穫から始まった。
根元を小さな鎌で切り、外側の傷んだ葉を落としてから食用箱へ入れる。中心部から茎が伸び始めている株は種取り用の別箱へ分け、虫に食われて穴だらけのものは傷み箱へ入れる。
作業自体は難しくないものの、中腰になる時間が長いため、十株ほど切ったところで早くも腰のあたりがじわじわ重くなってきた。
「腰が来る」
隣の畝で作業していたデイルが笑った。
「畑仕事なめてた?」
「なめてました」
「俺も最初そうだった」
「普段何してるんです?」
「荷運びとか護衛とか。今日は剣振るより楽だと思って来た」
「同じ理由だ」
「腰は剣よりきついぞ」
「もう感じてます」
黄葉菜を十株ほど切ったところで、一度腰を伸ばす。
見渡せば畑はまだまだ続いていた。
前の世界でオフィスにいた頃は、長時間椅子へ座りっぱなしで腰が痛くなり、「身体を動かす仕事なら健康そう」と思ったことがある。
実際に身体を動かす仕事をするようになった今なら、その考えがかなり雑だったと分かる。座り続けても腰は痛いし、中腰で野菜を切り続けても腰は痛い。
「結局どこでも腰なんだなぁ」
「また何か言った?」
デイルが聞く。
「前の仕事でも腰痛かったなって」
「何してた?」
「ずっと座ってました」
「楽そうじゃん」
「そう思うでしょう?」
「違うのか?」
「ずっと座るのも意外ときついんですよ」
「贅沢な悩みに聞こえるな」
「私も昔はそう思ってました」
午前の後半は丸根の収穫へ移った。
土から少しだけ頭を出した丸根を、葉の付け根を持って真上へ引く。小さいものは片手で抜けるが、大きいものは周りの土を少し崩さないと抜けない。
抜いた丸根は、拳より少し大きいものを食用へ、両手で包むほど大きく育ったものを種取り用へ分け、ひび割れたものや虫穴のあるものは傷み箱へ入れていく。
「でかい方が売れそうなのに」
モルトが巨大な丸根を持ち上げながら言う。
カナが首を振る。
「大きすぎると中が硬い。煮ても筋が残る」
「見た目だけじゃ分からないんだ」
「だから選別するんだよ」
「大きい方が得ってわけじゃないのかぁ」
私はその会話を聞きながら、自分の財布を少し思い出した。
金は多い方がいい。それは間違っていないが、多く持っているからといって、多く使わなければならないわけでもない。
昨日までの自分は、財布に余裕があると「今日は少し高いものでもいいか」と考えることが増えていた。別に悪いことではないが、金があることと金を使う理由は本来別なのだろう。
「今日こそ貯める」
小声で呟きながら丸根を箱へ入れる。
昼前になると、食用箱が十箱ほど並んだ。
それらを畑の端にある荷車まで運ぶ。
一箱は持てないほどではないが、野菜がぎっしり入っているのでそれなりに重い。二人一組で運ぶほどではなく、一人一箱を抱えて何度も往復する。
「結局最後は荷運びになるんですね」
私が言うと、カナが笑った。
「収穫したら勝手に市場まで歩いていくと思った?」
「それならすごく便利」
「その野菜怖いわ」
十箱運び終えた頃には、背中に汗が浮いていた。
昼食は菜園の休憩小屋で支給された。
大きめの薄焼きパンに、今日採れた黄葉菜と塩漬け肉を挟んだもの。それに丸根と豆を煮た薄い汁物がついている。
「採ったものすぐ食べるんですね」
「これは昨日の収穫分」
カナが言う。
「今日のはまだ選別も終わってないからね」
「さすがにその場で売り物食べないか」
「傷み箱のやつは昼に回すことあるけど」
「それなら合理的」
薄焼きパンへ挟まれた黄葉菜は、火を通していないのに苦味が少なく、噛むとわずかに甘い水分が出てきた。塩漬け肉の強い塩気を葉が和らげてくれるので、単純な組み合わせなのにかなり食べやすい。
汁物の丸根は、朝に抜いたものより小ぶりだった。
煮込まれた身は柔らかく、味は前の世界の蕪と大根の中間に近い。豆の煮汁を吸っているので、野菜だけでもそれなりに腹にたまる。
「今日、夜いらないくらい食べたら貯金できるんだけどなぁ」
何気なく呟くと、向かいに座っていたリーナが笑った。
「じゃあ二杯食べれば?」
「夜飲みたいので」
「貯めるんじゃないの?」
「飲まないとは言ってない」
「それ貯金?」
「夜予算を下げます」
「どのくらい?」
「四百」
「十分飲むじゃん」
「普段より少ないです」
「普段いくら?」
「最近五百とか六百とか」
「それなら確かに減らしてるけど」
デイルがパンを食べながら会話へ入ってくる。
「貯金したいなら、一日飲まなきゃいいだろ」
「それは最後の手段です」
「何と戦ってんだよ」
「日々の楽しみを守りながら貯金する方法」
「難しいことしてんな」
「全部我慢すると続かないんですよ」
これは前の世界でも同じだった。
給料日前に金を使いすぎたからと、突然すべての外食や買い物を禁止すると、数日後には反動で余計なものまで買ってしまう。自分の場合、完全に飲まない日を無理やり作るより、予算を下げて安い店で一杯楽しむ方が長く続く気がした。
「今日は四百まで。それで貯金したことにします」
「基準が自分ならいいんじゃない?」
リーナが言う。
「そういうことにします」
午後は青豆莢の収穫だった。
腰の高さほどある蔓から、まだ柔らかい青い莢だけを選んで取る。乾燥して硬くなった莢は種取り用なので別の籠へ入れ、虫食いのあるものは傷み箱へ分ける。
黄葉菜より立って作業できるので腰は楽だったが、今度は一つ一つの莢を見分けるために目が疲れる。
モルトが種取り用の硬い莢を折って中を見せてもらっていた。
「豆、色違うんですね」
中には淡い青ではなく、黒っぽい豆が並んでいる。
カナが答える。
「乾くと濃くなる。これを来季蒔く」
「食べられる?」
「煮れば食べられるけど硬いよ。市場では乾燥豆として別に売ることもある」
「同じ豆でも使い方違うんだ」
「育ち方でね」
食べ頃の柔らかい莢は、そのまま煮込みや炒め物へ使い、乾かしたものは種にするか、時間をかけて煮る乾燥豆として使う。同じ畑で採れた同じ植物でも、収穫する時期によって別の食材になるのが面白かった。
「酒も発酵させ方で変わるし、食べ物って忙しいなぁ」
「食べ物が忙しいんじゃなくて、作る人が忙しいんだよ」
カナに言われる。
「確かに」
午後の後半は、収穫箱を荷車へ積む作業になった。
黄葉菜、丸根、青豆莢を種類ごとに積み、重い丸根箱を下へ、軽い葉物を上へ載せていく。
「葉物を下にすると潰れるからね」
「当たり前だけど、考えること多いですね」
「野菜は市場に並ぶまでが商品だから」
「採ったら終わりじゃないんだ」
「農家が一番嫌いな言葉だね、それ」
「また『だけ』と同じやつ」
「そう。『畑から採るだけだろ』って言う人は、一日やらせれば大体黙る」
「今日はもう黙れます」
最後の箱を積み終えた頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
予定より少し早く作業が終わったらしく、カナは四人分の作業札へ完了印を押してくれた。
「助かったよ。今日は量多かったからね」
「腰は疲れたけど、平和でした」
「畑仕事は平和に見えるだけで、毎日あると大変だよ」
「今日だけで十分分かりました」
「また人足足りないときは依頼出すから」
「そのときの腰と相談します」
ギルドへ戻り、報酬千八百ゴールドを受け取る。
昼食は支給だったので、今日使った金はまだゼロだった。宿代三百を引けば千五百残り、ここから夜予算四百を使ったとしても今日だけで千百ゴールド増やせる。
「千百貯金」
その数字を頭の中で繰り返す。
千百ゴールドあれば、今の《銀鈴の宿》なら三泊しても二百残る。安い短剣なら修理費の一部にもなるし、靴や防具が傷んだときにも役立つ。
毎日千ゴールドずつ貯められるわけではないが、こういう日にきちんと残しておけば、稼げない日が来ても焦らなくて済む。
「今日は本当に四百まで」
今度は「たぶん」を付けなかった。
一度宿へ戻り、土の付いた靴と服を軽く掃除する。
畑仕事なので油汚れはないが、膝と裾には乾いた土がかなり付いていた。顔を洗い、少し横になって腰を伸ばしてから、夕方になって街へ出る。
今日は四百ゴールド以内に抑え、できればその四百さえ全部使わずに帰るつもりだった。
そう決めているので、高そうな店には近づかないことにした。
中央広場や北側の商店街を避け、東門から少し南へ下った細い通りを歩く。ここは畑や外壁仕事から戻る人がよく使う道らしく、泥の付いた靴や作業着のまま入れる酒場が何軒か並んでいた。
一軒目は軽麦酒百十。
料理も百五十前後で、予算四百でも入れなくはないが二品頼むと余裕が少ない。
二軒目は酒が安いものの、肉料理が二百を超えている。
三軒目の前で、私は足を止めた。
小さな木札に、丸い銅貨が一枚と、小さな椀が描かれている。
《残り銭》
「店名が今日の私向けすぎる」
入口には短い品書きがあった。
《軽麦酒 七十ゴールド》
《薄麦酒 六十ゴールド》
《豆酒 八十ゴールド》
《青豆莢塩炒め 七十ゴールド》
《丸根豆醤煮 八十ゴールド》
《黄葉菜と燻し肉 九十ゴールド》
《焼き薄パン 五十ゴールド》
《塩豆 四十ゴールド》
《日替わり小椀 百ゴールド》
昨日の失敗もあるので、下までしっかり読む。
《席料なし》
《水無料》
「親切」
思わず声に出た。
これなら軽麦酒七十と料理を二つ頼んでも二百五十前後で済み、二杯飲んだとしても三百を少し超える程度なので、今日の四百予算にはかなり余裕がある。
私は迷わず中へ入った。
「いらっしゃい」
店内は小さかった。
カウンターが八席、壁際に二人掛けの卓が三つだけで、豪華な飾りはほとんどない。木の壁には使い込まれた棚があり、酒壺と小皿が整然と並んでいる。
店主は六十歳前後の小柄な男性だった。
名前はヘルド。短い白髪に太い白眉、鼻の横に大きなほくろがあり、薄茶色の前掛けを腰へ巻いている。
「一人?」
「はい。席料ないですよね?」
「ないよ」
「最初に確認しておこうと思って」
「何かあったのか?」
「昨日ありました」
「じゃあ水も無料だ」
「書いてありました」
「ちゃんと見てるな」
「今日はかなり」
カウンターの端へ座る。
「軽麦酒と、黄葉菜と燻し肉ください」
「七十と九十で百六十」
「安い」
「高いのが好きなら向こうの大通り行きな」
「今日は安いのが好きです」
軽麦酒が先に出てきた。
透明感のある淡い金色で、泡は薄い。一口飲むと麦の甘さは控えめで、かなり軽く、最後に少しだけ苦味が残る。
最近飲んだ熟成麦酒や春芽麦の軽麦酒と比べれば特徴は弱いが、仕事終わりに何も考えず飲むには十分だった。
「これ、かなり軽いですね」
「水多めだからな」
「言っちゃうんだ」
「七十で濃い酒出せって方が無理だ」
「それもそうか」
「畑帰りとか壁仕事の連中は、濃いのよりこれ二杯飲む」
「今日まさに畑帰りです」
「じゃあ合ってる」
続いて《黄葉菜と燻し肉》が出てきた。
昼にも食べた黄葉菜が、夜は細く切られて軽く炒められ、その上に小さく刻んだ燻し豚肉が散らしてある。味つけは塩と少量の香草だけらしく、見た目はかなり素朴だった。
一口食べると、昼の生の黄葉菜とは印象が変わった。
火を通したことで葉の甘さが強くなり、外側には少しだけ焦げた香ばしさがある。燻し肉は量こそ少ないが塩気と脂が強く、葉と一緒に食べれば肉が少なくても物足りなさは感じない。
「昼も黄葉菜だったのに、全然違う」
「どこで食った?」
「東の共同菜園。今日そこで収穫してました」
「じゃあそれ、同じ畑かもしれんな」
「本当に?」
「うちは東市場から仕入れてるから」
「今日採ったやつ?」
「今日のは明日か明後日だろ。これは昨日か一昨日」
「昼も同じこと言われました」
畑で見た黄葉菜が、数日後にはこうやって酒場の皿になる。
当たり前のことなのに、自分で収穫作業をしたあとだと少し不思議だった。
根元を切り、外葉を落とし、食用と種取り用を分け、箱へ詰め、荷車へ載せる。その先に市場があり、さらに店があり、ようやく自分の前の皿へ来る。
「九十ゴールドの中に結構仕事入ってるなぁ」
「何だ急に」
「今日、採るだけじゃないって知ったので」
「農家やったのか」
「一日だけです」
「一日で全部分かった顔するなよ」
「しません。腰が痛いことだけは分かりました」
ヘルドが笑った。
そのとき、二席隣に座っていた男性が杯を置いた。
四十代半ばくらいで、短い灰色の髪に日焼けした顔をしている。袖をまくった腕には細かな土汚れが残り、足元には泥の乾いた長靴が置かれていた。
「畑は腰じゃない。天気だ」
急に会話へ入ってくる。
「天気?」
「雨降らなきゃ育たん。降りすぎても腐る。晴れたら晴れたで水やり増える」
「農家の人です?」
「近郊で豆と麦作ってる。ガドだ」
「ミサキです」
「一日収穫しただけで腰痛いって?」
「朝からずっと中腰だったので」
「収穫だけならまだいい」
「それ今日も言われました」
「種蒔いて、虫見て、水見て、風見て、最後に市場値見て、それで安いって言われるんだぞ」
「最後が一番つらそう」
「今年なんか青豆が豊作で値段下がった」
「いっぱい採れたのに?」
「いっぱい採れたからだ」
「難しいなぁ」
ガドは軽麦酒を飲む。
「豊作なら喜べって言われるけど、売値下がったら喜んでばっかもいられん」
「多くあれば得ってわけじゃないんですね」
「倉庫も無限じゃないしな」
午前中、モルトが大きな丸根を見て「でかい方が売れそう」と言い、カナから大きすぎるものは硬いと教えられていた。
今度は収穫量そのものも、多ければ必ず良いわけではないらしい。
何となく、朝に数えた自分の硬貨を思い出す。
もちろん金は腐らないし、豊作みたいに相場が下がるわけでもないが、「多くあるから多く使える」という考えだけで動いていれば結局残らないのだから、持っている額と今日使う額は別に考えた方がよさそうだった。
「今日は貯金する日なんです」
私が言うと、ガドがこちらを見る。
「酒飲んでるのに?」
「完全に使わない日じゃなくて、いつもより残す日です」
「都合いい貯金だな」
「続く方法が大事なので」
「まあ、畑も続けられなきゃ意味ないしな」
「ほら、同じです」
「同じか?」
「ちょっと違うかも」
黄葉菜を食べ終え、軽麦酒も半分ほどになった。
ここまで百六十ゴールドなので、夜予算四百からはまだ二百四十残っている。
品書きを見れば、丸根豆醤煮八十、青豆莢塩炒め七十、焼き薄パン五十と、追加しても大きくは増えない。
ただ、今日は「安いから頼む」ではなく、「本当に食べたいか」で決めたかった。
「丸根豆醤煮って、この豆醤はどんな味です?」
「豆を塩で発酵させた調味料だ」
ヘルドが答える。
「味噌に近いのかな」
「ミソって何だ?」
「あ、前にいたところの調味料です」
「知らんが、豆なら似てるかもしれんな」
「それなら食べたい。ください」
「八十」
予定外ではあるが、最初から品書きを見て気になっていたものなので、完全な衝動注文ではない。
運ばれてきたのは、小さな木椀に入った茶色い煮物だった。
丸根は一口大に切られ、濃い茶色の汁を吸っている。表面には刻んだ青葱に似た香草が散らされ、湯気からは豆と塩、それから少し焦がしたような香りがした。
一口食べる。
「……味噌ではないけど、かなり近い」
「だから何なんだ、そのミソって」
「前にいたところの調味料です」
「豆なら似るんじゃないか?」
「かもしれない」
豆醤は味噌より塩気が強く、発酵の香りも少し鋭い。ただ、丸根の甘さと一緒になると角が取れ、白いご飯が欲しくなるような味だった。
前の世界なら大根の味噌煮や、味噌田楽に近い安心感がある。
けれど、豆醤には麦の皮を焦がして混ぜるらしく、そのせいで後味にほんの少し煙っぽさが残る。似ていると思った直後に、やはり同じではないと分かるところが、この世界の料理らしかった。
「これ八十ならいいなぁ」
「安いだろ」
「安いです」
「形悪い丸根使ってるからな」
「傷み品?」
「傷んではない。市場に出すには曲がってたり小さすぎたりするやつ」
「今日それ分けました」
「じゃあ仲間食ってるぞ」
「言い方」
「お前が採った畑かもしれんぞ」
「急に愛着出るからやめてください」
少し曲がっただけ、小さいだけで市場の見栄えから外れる丸根も、煮込めば味はほとんど変わらないらしい。昼間は傷み箱と食用箱と種取り用を分けていたが、その間にも市場向けではないものがあり、それがこうして安い料理として酒場へ回ってくるのだろう。
「見た目悪い方が安い?」
「仕入れはな」
「味同じ?」
「煮ればほぼ分からん」
「それ、すごく貯金向き」
「客に仕入れ値気にされる店も珍しいな」
「今日はそういう日なんです」
ガドが笑った。
「こいつ本当に貯めたいらしい」
「四百までです」
「今いくら?」
「二百四十」
軽麦酒七十、黄葉菜と燻し肉九十、丸根豆醤煮八十で二百四十なので、まだ百六十ゴールド残っている。もう一杯軽麦酒を頼んでも三百十で、さらに青豆莢塩炒め七十を追加しても三百八十に収まり、数字だけ見ればどちらも十分に頼める範囲だった。
「二杯目?」
ヘルドが空きかけた杯を見て聞く。
「うーん」
まだ飲めるし予算にも入るうえ、腹にも少し余裕があるので、普段ならこの条件が揃った時点でほぼ頼んでいたと思う。
けれど、今日は最初から貯金する日と決めていた。
「水ください」
「無料の?」
「無料の」
「はいよ」
木杯に水が注がれる。
ガドがこちらを見る。
「本気だな」
「今日は」
「七十残すだけだろ?」
「七十でも七日で四百九十です」
「急に商人みたいなこと言うな」
「自分で言ってちょっと驚きました」
冷たい水を飲む。
酒のあとだから味気なく感じるかと思ったが、豆醤煮の塩気が強かったせいか、思ったよりおいしい。
しかも無料である。
「水ってこんなにおいしかったんだ」
「金取ろうか?」
「やめて」
ヘルドが笑う。
結局、青豆莢塩炒めも頼まなかった。
腹は七分から八分くらいで、もう少し食べられそうではあるが、昼にしっかり食べているので困るほど空腹ではない。二杯目を飲まなくても一杯目はきちんと楽しめたうえ、使わなかった金がそのまま残ると思うと、今日はそれが少し気持ちよかった。
「会計お願いします」
「軽麦七十、黄葉菜九十、丸根八十で二百四十」
「本当に二百四十?」
「何だその疑い方」
「昨日、席代あったので」
「うちはないって最初に言っただろ」
「確認です」
「二百四十。水もただ」
「よし」
夜予算四百に対して二百四十なので、百六十ゴールド残せた。今日の報酬千八百から宿代三百と夜の二百四十を引けば、昼食は支給だったため、今日だけで千二百六十ゴールド残ることになる。
最初は千百残せれば十分だと思っていたので、それより百六十多い。
「千二百六十」
「何が?」
ガドが聞く。
「今日残る金です」
「そんなに嬉しいのか」
「ちょっと」
「じゃあ飲まなきゃもっと残っただろ」
「それは違うんですよ」
「何が?」
「今日の一杯までなくすと、貯金した日じゃなくて我慢した日になるので」
言ってから、自分でも妙に納得した。
私は金を貯めるためだけに働いているわけではない。
食べるためでもあり、宿に泊まるためでもあり、武器や靴を直すためでもあり、その日の仕事を終えたあとに一杯飲むためでもある。全部使うのは困るが、全部残すことだけが正解でもなく、今日の自分には七十ゴールドの軽麦酒一杯と、安い二皿で十分だった。
「その理屈なら続くかもな」
ガドが言う。
「でしょう?」
「明日も同じならな」
「そこなんですよね」
「結局たぶんじゃねえか」
「朝の話聞いてました?」
「聞いてない」
「なら何で分かるんだろう」
ヘルドまで笑った。
店を出ると、東側の通りには涼しい風が吹いていた。
畑から戻る人の姿はもう少なく、夜営業の店から漏れる明かりが石畳へ細長く伸びている。
私は歩きながら財布へ手を触れた。
今日は千八百ゴールドを稼ぎ、宿代を払い、夜もきちんと飲んで食べたうえで、それでも千二百六十ゴールド残った。
昨日までは、予算内に収まったかどうかを気にすることが多かったが、今日は少し違う。予算四百以内だっただけではなく、「使えるのに使わなかった金」が百六十ゴールドあった。
たった百六十と思えば小さく見えるものの、薄麦酒なら二杯以上飲めるし、安い小皿なら二つ買える。宿代の半分を超える額だと思えば、決して小さな金額ではない。
前の世界でも、貯金は大きな節約だけでするものではなかった。
コンビニへ寄らなかった日、なんとなく頼む二杯目をやめた日、使わないものを買わなかった日。そういう小さい金額が月末に残っていれば、それがいつの間にかまとまった額になっていた。
もちろん逆に、一回くらいならいいと思って使う小さな金額が毎日積み重なれば、給料日前に「何に使ったんだろう」と首を傾げることになる。
「異世界でも同じかぁ」
通りの向こうから、酒場の笑い声が聞こえてくる。
もう一軒入ろうと思えば入れるし、財布にも金はあるうえ、時間だってまだ早い。
けれど、今日は《残り銭》で飲んだ軽麦酒一杯と、黄葉菜の甘さ、それから豆醤で煮た丸根の味で十分だった。
昼間の共同菜園では、大きければ良いわけではない丸根を分け、収穫量が多すぎても売値が下がるという話を聞いた。夜になってみれば、自分の財布も「あるだけ使えばいい」というものではないと、当たり前のことを少し実感できた気がする。
金がある日に高いものを食べたり、稼ぎの良かった日に少し贅沢したりするのは悪くないが、それを毎回やらなければならない理由はない。
「今日は本当に貯金できた」
朝には最後へ「たぶん」を付けたが、今度は付けずに言えた。
明日の自分が同じようにできるかは分からない。限定料理が目の前に出てきたら簡単に崩れるかもしれないし、ものすごくおいしそうな匂いの店を見つければ、夜予算を少し上げる可能性だってある。
それでも今日は、飲むことも食べることもやめず、そのうえで金を残せたのだから、毎日完璧に節約するより、こういう日を何度か作る方が自分には向いているのだろう。
財布の中で硬貨が小さく鳴る。
朝より増えたその重さを確かめながら、私は夜風の通るリーベルの道をゆっくり歩いていった。




