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異世界居酒屋めぐり ~今日の稼ぎで一杯やります~  作者: シロの空


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33/54

第33話「会計を聞くまでが居酒屋なんですね」

 翌朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、昨日の《札皿亭》で見落とした三百二十ゴールドの魚皿が、まだ頭の片隅に引っかかっていた。


 川白魚の香油焼きそのものは間違いなくおいしかったし、《青香実》の爽やかな香りとほろ苦さも気に入った。軽麦酒二杯に赤根酢漬け、予定外で頼んだ《魚皮麦焼き》まで含めて六百五十ゴールドなら、食事全体の値段として極端に高かったわけでもない。


 それでも、夜予算六百と決めた自分にとって、五十ゴールドの超過は妙に記憶へ残っている。


「今日は値段ちゃんと見る」


 朝食の薄パンをちぎりながら、私はかなり真面目にそう決めた。


 昨日学んだのは、安いか高いかということより、値段を知らないまま頼んだ方があとで引っかかりやすいということだった。最初から川白魚が三百二十ゴールドだと知っていれば、それでも食べただろうし、その代わりに二杯目の軽麦酒か《魚皮麦焼き》を外せば予算内にも収められた。


 つまり今日は、注文する前にきちんと値段を確認することさえ守れば、昨日のような失敗はしないはずだった。


 問題があるとすれば、財布にはまだ一昨日の高額依頼で残した分がかなり入っていることで、多少失敗しても払えてしまう安心感が、私の警戒心を少し緩くしていることだった。


 昨日の報酬は千三百ゴールドで、昼食百十、宿代三百、《札皿亭》で六百五十を使い、二百四十ゴールド残した。一昨日に残した三千五百も合わせれば生活費にはかなり余裕があり、ここ数日だけを見ると、転移直後の自分からは想像できないほど財布の中身が安定している。


「だからって使っていいわけじゃないんだけどね」


 そこまで口にしてから、白酪を塗った薄パンを食べる。


 今日は昨日より身体も軽くなっているので、街中の半日仕事にこだわる必要はない。ただし高額依頼を探して無理をする気もなく、千五百から二千ゴールドくらい稼げれば十分だった。


 朝食を終え、《銀鈴の宿》を出て冒険者ギルドへ向かう。


 空は昨日より明るく、薄い雲の隙間から青空が見えていた。通りには朝の荷車が並び、中央市場へ向かう人たちの流れもいつも通りで、急ぎの事件や騒ぎが起きている様子はない。


 ギルドへ入ると、依頼板の前には十人ほどの冒険者が集まっていた。


《西果樹園・落果回収および運搬 報酬千四百ゴールド》

《北外壁・排水溝点検補助 報酬千六百ゴールド》

《東商隊宿・荷車車輪交換補助 報酬千七百ゴールド》

《南薬草園・防虫灰散布および囲い補修 報酬千五百ゴールド》


「車輪交換かぁ」


 私は東商隊宿の依頼票を取った。


 荷車そのものを修理する技術はないが、「補助」と書かれているなら専門職の手伝いが中心だろう。報酬も千七百ゴールドなら悪くなく、昨日の配達所より少し高い。


《東商隊宿・荷車車輪交換補助》

《報酬千七百ゴールド》

《半日から一日》

《内容:車輪二輪交換、車軸周辺清掃、荷台持ち上げ補助》

《修理技術不要》

《作業着汚損注意》

《昼食支給》


「昼食支給」


 そこがかなり大きい。


 受付へ依頼票を持っていくと、今日は灰色がかった茶髪を長めに伸ばした四十代くらいの男性が担当していた。細い目と落ち着いた話し方で、依頼票を受け取るとすぐ帳面を開く。


「《東商隊宿》ですね。昨日到着した荷車の車輪が二つ割れていて、今日中に直したいそうです」


「車輪ってそんな簡単に割れるんですか?」


「積荷が重い状態で道の窪みに入ったらしいですよ。片方は外輪が割れ、もう片方は軸受けまで傷んでいると聞いています」


「結構大変そう」


「職人が二人いますから、指示に従って持ち上げたり支えたりするのが主な仕事です」


「力仕事?」


「それなりに」


「昨日よりは軽いですよね?」


「昨日何を?」


「落石除去の次の日に配達、その次が今日です」


「なら多分大丈夫でしょう」


「多分なんだ」


「人によりますから」


 依頼登録を済ませ、東商隊宿へ向かった。


 街の東側には、旅商人や長距離の荷車が滞在するための大きな宿と厩舎が集まっている。普通の宿屋とは違い、中庭には十台近い荷車を置ける場所があり、馬や荷獣へ水を飲ませるための槽も並んでいた。


 依頼先の《石輪商隊宿》は、その中でもかなり大きな建物だった。


 入口でギルドの札を見せると、中庭へ案内される。


 そこには横倒しになった車輪と、片側を木組みで持ち上げられた大きな荷車が一台あった。


「手伝いか?」


 声をかけてきたのは、四十代後半くらいの大柄な男性だった。


 名前はバレム。黒髪に白いものが少し混じり、頬には古い切り傷がある。厚い革前掛けをつけ、両腕には木屑と黒い油がついていた。


「ミサキです」


「バレムだ。こっちは息子のヨル」


 隣でしゃがんでいた青年が顔を上げる。


 ヨルは二十代前半くらいで、父親と同じ黒髪を短く切り、鼻筋に薄い油汚れがついている。体格は細いが腕はしっかりしており、手には木槌を持っていた。


「よろしく」


「お願いします」


 バレムが割れた車輪を指差す。


「まず壊れた方を外す。荷台の下には絶対入るな。支えがあっても落ちるときは落ちる」


「怖いこと先に言いますね」


「怖いから言う」


「正しい」


 荷車の片側は太い木材と楔で持ち上げられており、壊れた車輪は地面から少し浮いていた。


 最初は車軸を固定している金具を外すため、荷車が揺れないよう反対側から押さえる役だった。


「押すだけ?」


「今はな」


「それなら楽そう」


「そういうこと言うと次が重くなるぞ」


 ヨルが笑う。


「それ、仕事場でよくあるやつ」


「何が?」


「楽って言った直後に重い物来る」


「じゃあ黙っとけ」


「そうします」


 バレムが金具へ工具を当て、ヨルが木槌で叩く。


 乾いた音が何度か響き、固定具が少しずつ抜けていった。


「次、車輪支えるぞ」


「来た」


「何が?」


「重いやつ」


「まだ外すだけだ」


 三人で割れた車輪を支え、軸からゆっくり抜く。


 見た目では木の輪なのでそこまで重くなさそうだったが、外周には鉄帯が巻かれ、中心部も分厚い木材でできているため、持った瞬間に予想よりずっと重かった。


「重っ」


「落とすなよ」


「先に重さ教えてほしかった」


「持てば分かる」


「そういう職人理論嫌いじゃないですけど、今は困る」


 車輪を地面へ寝かせると、腕が少し震えた。昨日は軽い配達だったので身体が回復した気になっていたが、やはり採石道で石を運び続けた疲れが完全に抜けたわけではないらしい。


 古い車輪を外したあとは、車軸周辺へ固まった泥と油を削り取る。


 乾いた泥だけなら簡単だが、油と混ざった場所は黒く粘り、布で拭くだけではなかなか落ちない。専用の木べらでこそぎ取り、最後に植物油を薄く塗り直す。


「これ毎回やるんです?」


「車輪外すたび」


 ヨルが答える。


「面倒ですね」


「やらないと軸削れる」


「後で高くつく?」


「すごく」


「じゃあやるしかない」


「修理って大体それ」


「何が?」


「今面倒なことやるか、後でもっと面倒になるか」


「前の世界でも聞きたかった言葉」


 バレムが鼻で笑う。


「どこでも壊れるもんは同じだ」


「人も?」


「人は知らん」


「そこは専門外ですよね」


 清掃を終えると、新しい車輪を運んでくる。


 こちらは交換用として商隊が積んでいた予備品らしく、壊れたものより少し新しい。三人で軸の高さまで持ち上げ、穴の位置を合わせながら押し込む。


 これが思った以上に難しかった。


 重いので長く持っていられず、穴が少しずれるだけで入らない。


「もう少し右!」


「私から見て?」


「俺から見て右!」


「それ最初に言って!」


「ミサキ側を上!」


「上げてる!」


「あと指一本!」


「指一本が遠い!」


 何度か位置を直し、ようやく軸へ入った瞬間には、三人揃って息を吐いた。


「修理って力より位置合わせですね」


「力だけで直るなら楽なんだけどな」


 バレムが金具を打ち込みながら言う。


「客はよく『車輪一個替えるだけだろ』って言うけどな」


「出た」


「何が?」


「仕事の『だけ』」


「あるだろ?」


「あります。昨日は帳簿の人が『数字一個直すだけ』って言われるの嫌だって愚痴ってました」


「一個で済むなら苦労しねえ」


「やっぱりどこも同じなんだ」


 午前中で一つ目の車輪交換は終わった。


 二つ目は割れているだけではなく、軸受けの木枠まで少し削れていたため、バレムが補修材を削り出す必要があり、その間に私とヨルは外した車輪の鉄帯と使える木材を分ける。


「これ捨てるんじゃないんです?」


「鉄帯は使う。木も割れてないところは楔とか補修材になる」


「結構再利用するんだ」


「木も鉄も金かかるからな」


「酒場の端材料理みたい」


「何の話?」


「昨日、魚の皮と端身を麦に混ぜて焼いたの食べたんです」


「うまそう」


「おいしかったです」


「昼前に食い物の話するなよ」


「自分から聞いたのに」


 ちょうどその頃には腹も減ってきていた。


 昼食は商隊宿の食堂から運ばれてきた。


 大きめの丸パン一つ、豆と刻み肉の濃い煮込み、それから薄切りの酢漬け根菜で、力仕事をする人向けなのか、昨日の配達仕事の日より明らかに量が多い。


 三人で中庭の端へ座り、休憩を取る。


 煮込みは塩と香草が強めで、細かく刻まれた肉から脂が溶け出している。パンをちぎって汁へ浸すとかなり腹にたまり、午前中に車輪を持ち上げた腕にも少し力が戻る気がした。


「商隊宿のご飯、量ありますね」


 私が言うと、ヨルが頷く。


「御者とか荷運び人が食うから」


「普通の宿と違うんだ」


「朝から馬追ってる奴に小さいパン一枚出したら怒るだろ」


「確かに」


 バレムは煮込みを食べながら、午前中に外した車輪を見る。


「午後はあっちの軸受け削って合わせる。昼過ぎには終わると思う」


「じゃあ半日ちょっと?」


「順調ならな」


「報酬千七百で昼までつくならいい仕事かも」


「毎日はないぞ」


「全部の仕事それ言われます」


「楽で高い仕事ばっかりなら誰も困らん」


「ですよねぇ」


 昼食を食べ終える頃、商隊宿の中庭へ一台の荷車が入ってきた。


 その荷車を見たヨルが小さく顔をしかめる。


「またあの人だ」


「誰?」


「荷主」


 降りてきたのは、四十代くらいの細身の男性だった。


 名前はセルド。濃い茶髪を後ろへ撫でつけ、明るい色の上着を着ている。商人らしく身なりは整っているが、荷車へ近づくなり車輪の修理具合を確認し始めた。


「まだ終わってないのか?」


「二つ目の軸受け直してる」


 バレムが答える。


「昼までにはって話だったろ」


「見てから決めるって言った」


「荷が遅れるんだよ」


「壊れたまま走らせたらもっと遅れる」


「少し削れただけじゃないか」


 バレムが無言でこちらを見る。


 私は思わず小声で言った。


「『だけ』来ましたね」


「来たな」


 ヨルまで小さく笑う。


 セルドが怪訝そうにこちらを見る。


「何か?」


「何でもないです」


 バレムは削れた軸受けを見せながら説明する。


「ここが削れたまま新品の輪入れたら、揺れてまた壊れる。急ぐなら職人増やせ」


「追加料金だろ」


「当然だ」


「修理って何でも金取るな」


「壊すのは無料だからな」


 一瞬だけ空気が止まったあと、ヨルが横を向いて笑いをこらえた。


 セルドは何か言い返しかけたが、結局「夕方前には頼むぞ」とだけ言って去っていった。


「強いですね」


「二十年やってるとああなる」


「私なら途中で謝りそう」


「謝ったら壊れた車輪が直るのか?」


「直らないです」


「じゃあ作業する」


「分かりやすい」


 午後の作業は、削れた軸受けへ補修材を合わせるところから始まった。


 バレムが薄く削った硬木を当て、ヨルが形を確認しながら何度も外す。私は工具や木片を渡し、荷台を支える楔が緩んでいないか見る。


 単純に新しい部品へ交換するのではなく、今あるものへ少しずつ合わせていく作業なので時間はかかったが、作業そのものは見ていて面白かった。


「同じ形の部品をいっぱい作って置いとけないんです?」


「荷車ごとに微妙に違う」


「規格がない」


「何だそれ?」


「同じ寸法で作る決まり」


「そんな便利なもんあったら楽だな」


「前の世界、そういうの多かったです」


「全部同じ?」


「全部じゃないですけど、かなり」


「つまらんな」


「そこ?」


「手で合わせる仕事なくなるだろ」


「職人側から見るとそうなるのかぁ」


 補修が終わり、新しい車輪を取り付ける。


 一つ目より慣れた分だけ位置合わせは早く、固定金具を入れ、最後に荷車を下ろして車輪の回り方を確認する。


 バレムが荷台を押すと、車輪は滑らかに一回転した。


「よし」


「終わり?」


「最後に荷を少し積んで見る」


 空荷では問題がなくても、重さがかかった状態で軸が傾くことがあるらしい。


 商隊宿に置かれていた砂袋を六つ荷台へ載せ、三人でゆっくり押すと、車輪から嫌な音はせず、左右へぶれる様子もない。


「大丈夫だな」


 バレムが頷いた。


 作業を終えた頃には、昼をかなり過ぎていたものの、夕方まではまだ時間があった。朝から一日仕事になる可能性も考えていたので、思っていたより早い。


「今日は結構当たりだったかも」


「何が?」


 ヨルが工具を片づけながら聞く。


「報酬千七百、昼食つき、夕方前に終わったので」


「その代わり服真っ黒だけど」


 言われて自分の服を見下ろすと、確かに袖も膝も油と木屑でかなり汚れていた。


「洗えば落ちます?」


「油は残るかも」


「作業着でよかった」


「冒険者の服って全部作業着みたいなもんだろ」


「ちょっと傷つく言い方」


「違うの?」


「……大体合ってる」


 完了印をもらい、ギルドへ戻る。


 報酬千七百ゴールドを受け取った。


 今日は昼食支給なので昼代はかからず、宿代三百を引いても千四百残る。昨日の反省もあるので、夜予算は少し慎重に五百五十ゴールドと決めた。


「今日は絶対値段見る」


 硬貨をしまいながら呟く。


 五百五十使っても八百五十残るのだから、十分だ。


 一度《銀鈴の宿》へ戻り、汚れた服を着替える。


 袖に付いた油染みを濡れ布で拭いてみたが、完全には取れなかった。ヨルの言う通り作業着として使うなら気にするほどでもなく、それより腕と背中に残る疲れを少しでも抜きたかったので、横になって休む。


 夕方になり、街へ出た。


 今日は値段を先に確認するつもりなので、店探しも昨日より慎重だった。


 何軒かの看板を見て回り、一品ごとの値段まできちんと読む。安い店なら百前後、高い店なら二百を超える料理もあるが、予算五百五十なら最初から計算して入れば困らない。


「昨日の私とは違う」


 誰に言うでもなく少し得意になりながら歩いていると、南市場の外れで一軒の酒場が目に入った。


 木製の看板には、大きな丸い皿と、その横へ小さな革袋の絵が描かれている。


《袋勘亭》


「袋?」


 入口の脇には、きちんと品書きが出ていた。


《軽麦酒 八十ゴールド》

《濃麦酒 百十ゴールド》

《薄果実酒 百二十ゴールド》

《香草酒 百三十ゴールド》


《塩焼き角兎 百四十ゴールド》

《豆と燻し肉の煮込み 百二十ゴールド》

《焼き茸 九十ゴールド》

《酢漬け青実 六十ゴールド》

《白根揚げ 百ゴールド》

《麦殻平焼き 七十ゴールド》


 酒も料理も極端に高くなく、軽麦酒八十と塩焼き角兎百四十を頼み、さらに百前後の一品を加えたとしても三百程度なので、二杯目まで飲んでも夜予算五百五十には十分収まりそうだった。


「全部見た。これなら大丈夫」


 昨日より慎重に確認したつもりで、私は安心して店へ入った。


 店内は細長く、左側にカウンターが九席、右側には二人掛けの卓が四つ並んでいる。床には年季が入っているが掃除はされており、客は市場帰りらしい人や小商人が多かった。


「いらっしゃい」


 店主は四十代前半くらいの男性だった。


 名前はガルン。短く刈った黒髪に太い眉、首へ白い布を巻き、腰には小さな革袋をいくつも下げている。


「一人です」


「好きなとこ座って」


 カウンターの中央へ座る。


「店名の袋って、それです?」


 私が腰の革袋を見ると、ガルンが頷いた。


「昔、会計のたびに客ごとの硬貨を小袋へ分けてたんだよ。注文札使う前の名残」


「今は違う?」


「今も大人数は袋使う」


「会計間違えないため?」


「そう。飲んだ奴ほど自分が何頼んだか忘れるからな」


「耳が痛い店が続く」


「何かしたのか?」


「昨日、値段見ずに魚頼みました」


「払ったならいいだろ」


「予算超えたのでよくないです」


「細かいな」


「最近よく言われます」


 今日は同じ失敗をしない。


 品書きで値段はすべて確認してきたつもりだった。


「軽麦酒と塩焼き角兎ください」


「八十と百四十な」


「二百二十」


「計算する客か」


「今日は特に」


「好きにしろ」


 最初の一杯と一皿で二百二十ゴールドなので、夜予算五百五十からはまだ三百三十残る。この時点では、自分でもかなりきれいに計算できていると思っていた。


 軽麦酒は木杯で出てきた。


 色はやや白っぽい金色で、泡は薄い。一口飲むと苦味より麦の甘みが先にあり、あとから少し青い香りが残る。


「これ、ちょっと草っぽい?」


「春芽麦使ってるからな」


「春芽麦?」


「発芽しかけの麦を少し混ぜる。香り軽くなる」


「初めて聞いた」


「安い酒だけど特徴はあるぞ」


「安いって自分で言うんだ」


「八十だからな」


 続いて塩焼き角兎が出てくる。


 骨付きの腿肉を小さめに焼いたもので、表面には粗い塩と乾燥香草が振られていた。皮は薄く焦げ、香ばしい匂いが立っている。


 肉へ歯を入れると、角兎らしい締まった弾力があり、鶏肉より少し赤身が強い。脂は少ないが肉そのものの甘さがあり、塩だけの単純な味つけでも十分食べられる。


「こういうの好き」


「面倒ないからな」


「作る方の理由?」


「食う方もだろ」


「確かに」


 軽麦酒を飲む。


 春芽麦の青い香りが角兎の焼けた香草と重なり、値段の安さから想像していたより相性がいい。


 前の世界でも、高いクラフトビールと凝った料理だけが正解だったわけではなく、安い生ビールと塩焼きの肉が一番うれしい夜もあった。今日みたいに油と木屑の匂いを一日嗅いだあとは、複雑な味より分かりやすい塩味の方が身体に合っている気がする。


「今日はこれくらいでいいなぁ」


「まだ一品だぞ」


 ガルンに言われる。


「昨日ちょっと会計でやらかしたので慎重なんです」


「昨日の魚か」


「覚えてたんだ」


「さっき聞いたばっかだ」


「そうでした」


 角兎を半分ほど食べたところで、二つ隣の席から大きなため息が聞こえた。


 座っているのは、三十代後半くらいの女性だった。短い栗色の髪を布でまとめ、指先には青い染料が薄く残っている。


「今日また『少しだけ濃くして』って言われた」


 誰に言うでもなく呟いたので、ガルンが返す。


「染め物か?」


「そう。少しだけってどれくらいなのよ」


「少しだろ」


「その少しが人によって違うの!」


 女性は木杯を置きながら眉間を揉んだ。


「朝は『空色より少し濃く』って言うから染めたら、昼に来て『思ったより青い』って言うの。じゃあ薄めますって言ったら『でも空色よりは濃く』って」


「面倒ですね」


 思わず口を挟む。


 女性はこちらを見た。


「分かる?」


「今日、職人さんが『車輪一個替えるだけだろ』って客に言われてました」


「ああ、その『だけ』嫌い」


「昨日は帳簿の人が『数字一個直すだけ』って言われてました」


「どこも同じね」


「本当に」


 女性の名前はミナというらしく、南市場の染工房で働いているそうだ。


「結局どうしたんです?」


「三種類染めた」


「それぞれ少しずつ違う?」


「そう。並べて選ばせる」


「強い」


「口で言っても分からない相手には見せるしかないの」


「試飲みたい」


「何それ?」


「一昨日、小さい杯で三種類の酒を比べる店行ったんです」


「それなら色見本と一緒ね」


「確かに」


 比べて初めて分かる違いはある。


 酒も布も、言葉だけで「少し」と言われても、人によって基準が違うのだろう。


 軽麦酒を飲み終える頃、角兎も残り一切れになった。


 ここまで二百二十ゴールドなので、まだ三百三十残っている。品書きをもう一度確認してから、《豆と燻し肉の煮込み 百二十ゴールド》を選んだ。


「豆煮ください」


「百二十」


「これで三百四十」


「ずっと数えるのか?」


「今日は」


「何かの修行か?」


「財布の」


 豆と燻し肉の煮込みは、小さめの深皿で出てきた。


 白豆と茶色い豆が半々に入り、細く切った燻し豚肉と赤根が一緒に煮込まれている。汁は濃く、表面に脂が薄く浮いているが、豆が多いので見た目ほど重そうではない。


 一口食べると、豆は柔らかく、燻し肉の塩気が中まで染みている。赤根にはほんのり甘さがあり、塩味の強い汁を少し和らげてくれた。


「これ、パン欲しくなる」


「麦殻平焼き七十あるぞ」


 ガルンが即座に言う。


「予算的には入る」


「何の相談だ」


「自分の財布です」


 現在は三百四十ゴールドなので、麦殻平焼き七十を加えれば四百十、さらに二杯目の軽麦酒八十を頼んでも四百九十となり、夜予算五百五十から六十残る。


「平焼きと、軽麦もう一杯ください」


「七十と八十な」


「合計四百九十」


「分かったから」


 今日はきちんと値段を確認し、合計も途中で計算したうえ、夜予算の中へ余裕を持って収められている。昨日の失敗をかなり上手く活かせているような気がして、私は少しだけ誇らしくなった。


 麦殻平焼きは、薄く伸ばした生地を鉄板で焼いたものだった。


 表面には細かな麦殻が残り、少しざらついた見た目をしている。ちぎって豆煮の汁へ浸すと、水分を吸って柔らかくなり、燻し肉の脂と塩味まで一緒に持ち上げてくれる。


「こういうのが一番うまい」


 ガルンが言う。


「高い料理じゃないのに?」


「煮汁残す方がもったいないだろ」


「それは分かる」


 前の世界でも、煮込みやアヒージョの最後にパンを追加して、汁まできれいに食べることがあった。料理の本体より、残った汁を吸ったパンの方が妙においしく感じる夜もあり、この世界でもそういう感覚は同じらしい。


 二杯目の軽麦酒を飲みながら、平焼きで皿の底を拭う。


 かなり満足してきた。


 予算残りは六十ゴールドで、この店の料理では酢漬け青実がちょうど六十だった。頼めば夜予算五百五十をきれいに使い切れるものの、今のところ腹も足りている。


「ぴったり使い切れる」


 口に出すと、ミナが横から笑った。


「使い切らなくていいでしょ」


「その通りなんですけど」


「残せば?」


「昨日予算超えたので、今日は逆にぴったりにしたい気持ちが少し」


「それも変じゃない?」


「自分でもそう思います」


 ガルンが空いた皿を下げる。


「酢漬け青実なら六十だぞ」


「店主まで乗せないで」


「売れるなら売る」


「正直だなぁ」


 少し考えたが、結局頼まなかった。


「今日は四百九十で終わります」


「六十残しか」


「残します」


「昨日より成長したな」


「昨日知らないのに」


「聞いた話だけで判断してる」


「それなら合ってます」


 私はかなり満足して財布を取り出した。


 今日の会計は四百九十ゴールドのはずだった。軽麦酒八十が二杯で百六十、塩焼き角兎百四十、豆と燻し肉の煮込み百二十、麦殻平焼き七十と、全部自分で値段を確認し、途中でも合計を計算している。


「お願いします」


 ガルンが注文札を確認する。


「軽麦二、角兎、豆煮、平焼き……それと席代で、五百三十だな」


「……席代?」


 私は財布へ入れかけた手を止めた。


「四十」


「席代あるんです?」


「あるよ」


「品書きに書いてました?」


「入口の下」


「下?」


「酒の札の下に《座席料四十》って」


 頭の中で、店へ入る前に見た品書きを思い出す。


 酒と料理、それぞれの値段まではかなり丁寧に確認したのに、一番下まで読んだ覚えはなかった。


「ちょっと待って。今日、全部の値段見たのに」


「料理はな」


「席にも値段あるの?」


「椅子座ってるだろ」


「そういう問題?」


「うちはそういう店」


 ミナが隣で笑い始めた。


「知らなかったの?」


「知ってたんです?」


「この店来たことあるから」


「先に言ってくださいよ」


「聞かれてないし」


「昨日と同じこと言われてる気がする」


 ガルンが指を折る。


「会計五百三十。予算いくらだった?」


「五百五十」


「なら入ってるじゃねえか」


「……入ってる」


 料理と酒で四百九十、そこへ席代四十を足して五百三十なので、確かに夜予算五百五十からは二十ゴールド残っている。昨日のような予算超過ではないのに、知らなかった金額が最後に加わったせいで、妙に負けたような気分だけが残った。


「会計を聞くまでが居酒屋なんですね」


 思わず呟くと、ガルンが笑った。


「何だそりゃ」


「昨日は料理の値段見なかったんですよ。だから今日は全部確認したんです」


「席代見てないじゃん」


「そうなんです」


「全部じゃないな」


「言わないで」


 入口の品書きを見に行く。


 確かに一番下に、小さく書いてあった。


《座席料 一名四十ゴールド》

《立ち飲み利用時不要》


「立って飲んだら四十いらなかったの?」


「そう」


「最初に教えてくださいよ」


「座りたいって顔してたから」


「そんな顔あります?」


「仕事上がりの客は大体してる」


 今日一日、荷車の車輪を持ち、軸受けを掃除し、油と木屑まみれになっている。確かに店へ入った時点で立って飲む気はなかった。


「四十で椅子買ったと思えば?」


 ミナが言う。


「椅子は持って帰れない」


「座った時間を買ったのよ」


「その言い方されると、ちょっと納得する」


「でしょ?」


 昼間には、車輪修理の客が「少し削れただけ」と言っていた。


 職人にとっては、客から見えにくい手間にも値段がある。夜になれば、料理と酒だけでなく、椅子や場所を使うことにも値段をつける店があるのだと考えれば、席代四十ゴールドそのものはそれほど不思議なものではなかった。


「他にもこういう店あるんです?」


「あるぞ」


 ガルンが答える。


「席代取る店、最初の豆皿が別料金の店、逆に酒代へ全部入ってる店、卓ごとに水代取る店もある」


「水まで?」


「井戸が遠い店ならある」


「怖くなってきた」


「店によって違う」


「じゃあ品書きの料理だけ見ても足りないんだ」


「そういうこと」


 私は五百三十ゴールドを払った。


 今日の報酬千七百から宿代三百、夜五百三十を引けば八百七十残る。昼食は支給だったので、数字だけ見れば昨日よりずっと余裕があるし、夜予算五百五十もきちんと守れている。


 だから損をしたわけではない。


 酒も料理もおいしかったし、角兎の塩焼きは春芽麦の軽麦酒に合い、豆と燻し肉の煮込みへ麦殻平焼きを浸して食べるのもかなり良かった。予定外の料理を勢いで追加したわけでもなく、二杯目まで含めて自分で全部計算したうえで楽しめたのだから、昨日よりは確実にうまく飲めている。


 それでも、最後に四十ゴールド増えたと知った瞬間だけは、心臓が小さく跳ねた。


「昨日は魚で、今日は椅子かぁ」


「明日は何だろうな」


 ガルンが言う。


「縁起でもないこと言わないでください」


「次はちゃんと全部見ろよ」


「そのつもりです」


「床代まで探すなよ」


「あるの?」


「ない」


「やめてくださいよ」


 ミナがまた笑う。


「床に座ったら安いかもね」


「今日はもう会計終わったので、変な制度増やさないで」


 店を出ると、南市場の通りは昼間より静かになっていた。


 露店の多くは布をかけ、残っているのは酒場や夜食を売る店くらいだった。私は少し歩いたところで一度振り返り、《袋勘亭》の看板を見る。


 昨日は値段を見ないまま料理を頼み、予算を五十ゴールド超えた。


 今日は酒も料理も全部値段を確認し、合計まで途中で何度も計算した。その結果、今度は知らなかった席代四十ゴールドが最後に加わった。


「何か一歩ずつずれてるなぁ」


 ただ、昨日とは違って今日は予算内だった。


 五百五十まで使うと決め、実際の会計は五百三十なので二十ゴールド残った。席代があると最初から知っていたなら四百九十で食事を終えたかどうかは分からないし、多分、座ってゆっくり飲みたかった自分なら四十を払って同じ席へ座っていたと思う。


 前の世界にも似たものはあった。


 居酒屋へ入ったら頼んでいない小鉢が出てきて、会計を見ると席料やお通し代が入っている。初めての店なら少し驚くこともあったし、旅行先ではサービス料やチャージという名前の金額がつくこともあった。


 料理の値段だけ足せば会計になるとは限らない。


 知っていたはずなのに、この世界へ来てからは、酒と料理の値段だけで予算を考える癖がついていたらしい。


 その土地、その店には、その店なりの会計の仕組みがある。


「席に座るのも買い物かぁ」


 歩きながら考える。


 四十ゴールドで数時間座れたと考えれば、それほど高くはない。今日のように車輪を持ち上げて働いたあとなら、立ったまま飲んで四十を節約するより、椅子へ座ってゆっくり食べた方がよかったと思う。


 昼間、バレムは壊れた車輪の軸受けを見て、「今面倒なことをするか、後でもっと面倒になるか」と話していた。


 値段も少し似ているのかもしれない。


 最初に聞き、最初に読み、最初に知っておくだけで、あとから思いがけない金額に驚くことはかなり減る。それでも毎回新しい酒場へ行くなら、店ごとに違う仕組みまで最初からすべて知ることはできず、多少驚く夜があるのは仕方ないのだろう。


「会計を聞くまでが居酒屋なんですね」


 もう一度呟いてみる。


 昨日なら、その言葉にはもう少し悔しさが強かった気がするが、今日は予定外の四十ゴールドが増えても、それを含めて五百五十の予算内に収まり、今日の報酬からは八百七十ゴールド残っている。何より、席代があると知ったことで、この街の酒場についてまた一つ知らなかったことを覚えられた。


 次の店で品書きを見るときは、料理の値段だけではなく、一番下まで読もうと思う。それでも何か知らない料金が出てきたなら、そのときはその店の仕組みを一つ覚えたと思えばいい。


 毎回すべて予想通りなら、知らない店へ入る面白さも少し減るのかもしれない。


 私はそう考えながら、昼間に支えた重い車輪よりはずっと軽い財布を上着の内側へ戻し、夜のリーベルをゆっくり歩いていった。


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