第32話「値段を見ないで頼んだ私が悪いんですけど」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、身体のあちこちに昨日の採石道仕事の名残が残っていた。
腕を上げれば肩が重く、椅子へ座ると太腿の奥に鈍い張りがある。大きな怪我をしたわけではないし、歩けないほどでもないが、何十個もの石を抱えて運んだ一日は、寝ただけできれいになかったことにはしてくれないらしい。
それでも、昨日は四千八百ゴールドを稼ぎ、《金匙亭》で普段より少し贅沢をしながら夜予算千二百を使い切らず、最終的に三千五百ゴールドを残せた。身体には疲れが残っているものの、財布まで重くなったと思えば気分は悪くなかった。
「昨日の私はかなり優秀だったと思う」
薄パンへ白酪を塗りながら呟くと、向かいの卓で朝食を食べていた旅商人らしい男性が一瞬こちらを見た。最近、こうやって自分の金遣いを声に出して評価する癖がついてきた気もするが、誰かに聞かせているわけではないので気にしないことにする。
財布に余裕がある朝というのは、それだけで少し気持ちが軽い。
だからといって、今日も四千だ五千だという高額依頼を狙う必要はない。昨日は危険手当込みで報酬が高かっただけで、同じような仕事を毎日続ければ、酒代より先に身体の修理代が必要になりそうだった。
「今日は千五百くらいで、軽めがいいなぁ」
筋肉痛の脚をさすりながら、私は今日の方針を決めた。
朝食を終えて外へ出ると、リーベルの空は薄く雲が広がっていたものの、雨が降るような重さはなく、風も穏やかだった。市場へ向かう荷車の数はいつも通りで、通り沿いの店では朝一番の仕入れ品を運び込む声があちこちから聞こえてくる。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前はそれほど混んでいなかった。
昨日のような高額依頼でも出ていないか一応確認したが、目立つものはなく、並んでいるのは街中の手伝いや近郊の採取仕事が中心だった。
《北市場・乾燥香草袋詰め 報酬千二百ゴールド》
《西染工房・布干しおよび染桶運搬 報酬千四百ゴールド》
《南共同厩舎・飼料運搬および馬房清掃 報酬千五百ゴールド》
《中央配達所・荷札整理および近隣配達補助 報酬千三百ゴールド》
「馬房は腰に来そうだなぁ」
昨日の疲れが残る今の身体には少しつらそうなので馬房仕事は外し、染桶運搬も名前を見るだけで重さが想像できた。乾燥香草なら身体は楽そうだが、袋詰めだけを半日続けるのも単調そうで、結局、私は中央配達所の依頼票を取った。
《中央配達所・荷札整理および近隣配達補助》
《報酬千三百ゴールド》
《半日予定》
《重量物少数》
《誤配注意》
《荷札の紐色を必ず確認すること》
「また札」
最近、本当に札ばかり見ている。
酒樽でも酒器でも荷札があり、今度は配達所そのものだ。異世界へ来ても、人が物を大量に扱い始めれば結局分類と確認から逃げられないらしい。
受付へ持っていくと、今日は短い赤褐色の髪をした若い男性が担当だった。年齢は二十代半ばくらいで、まだ少し新人らしく、依頼票を確認すると帳面の場所を探すために何度か頁をめくっている。
「中央配達所ですね。赤紐が商店、青紐が宿屋、黄紐が個人宅です」
「色で分けるんだ」
「はい。ただ、同じ通りに同じ姓の家があるので、名前まで必ず見てください」
「色だけ覚えればいいわけじゃないんですね」
「誤配すると探し直しになります」
「それ一番面倒なやつ」
「以前、宿屋に届けるはずの燻製肉が革工房へ行って、その間に保存箱から汁が漏れたことがあるそうです」
「嫌な事故」
「革工房の方はかなり怒ったらしいです」
「そりゃそうだ」
登録を済ませ、中央配達所へ向かった。
建物は中央市場の北側にあり、表から見れば普通の倉庫のようだったが、入口の横には大小さまざまな木札が何十枚も吊るされ、荷車が二台、朝の荷物を降ろしている最中だった。
中へ入ると、荷物より先に人の声が多い。
「青紐二十三番、西宿通り!」
「赤十二、香料屋!」
「黄七、名前読めないぞ!」
「読めないなら勝手に持っていくな!」
朝からかなり忙しいらしい。
「ギルドの手伝いです!」
少し大きな声で言うと、奥から丸眼鏡をかけた女性が出てきた。
名前はエルネ。四十歳前後で、くすんだ金髪を頭の後ろで小さくまとめ、灰色の上着の袖を肘までまくっている。細身だが声はよく通り、話しながらも片手で荷札の束をめくっていた。
「ミサキね。今日は最初に仕分け、そのあと近場を何件か持っていってもらうわ」
「分かりました」
「字は読める?」
「普通のなら」
「崩してあるのは?」
「多分無理です」
「正直でよろしい。分からないものは聞いて。勝手に想像して届ける方が困るから」
「会社でもありましたね、分からないのに確認しない人」
「会社?」
「前にいた職場です」
「どこでも同じなのね」
「多分」
最初の仕事は、荷札の紐色ごとに荷物を分けることだった。
赤紐は商店、青紐は宿屋や食堂、黄紐は個人宅。それぞれの中でも通りごとに置き場が分かれており、箱の大きさではなく宛先で並べなければならない。
荷物自体は昨日の石に比べれば驚くほど軽く、乾燥果実、布包み、薬草束、瓶詰め、靴、手紙箱、小さな木工品などが多い。たまに酒樽のような重いものも混じるが、それでも昨日の落石除去を経験したあとでは、持ち上げるたびに身体が楽だと感じてしまう。
「身体が楽」
思わず口から出る。
近くで仕分けをしていた青年が笑った。
「昨日何やったの?」
「採石道の落石除去です」
「それの次にここ来たら何でも軽く感じるよ」
青年の名前はフェル。二十代後半で、黒に近い茶髪を短く切り、鼻の頭に薄いそばかすがある。中央配達所で三年働いているそうで、荷札を一目見ただけで置き場所を判断していた。
「一日にどれくらい来るんです?」
「少ない日で百ちょい、多い日は二百超える」
「全部見るの?」
「誰かは見る」
「大変」
「しかも送り主って、自分の字は全員読めると思ってるからな」
「分かる」
「昨日なんか『北通り、赤い扉の家』だけで送ってきた奴いたぞ」
「住所じゃない」
「赤い扉、北通りに十一軒あった」
「探したんです?」
「探したよ。仕事だから」
「それは愚痴りたくなる」
「今まさに愚痴ってる」
フェルは笑いながら、次の荷物へ手を伸ばした。
その後一時間ほど仕分けを続け、今度は近隣の配達へ回ることになった。
私が持つのは六件分で、最初は中央市場の香辛料店へ小瓶三本、その次は衣料品店へ染め紐の束、西宿通りの小さな宿へ帳面と封書、個人宅二件へ布包み、最後に料理店へ乾燥茸の箱を届ける。
エルネが順番まで書いた簡単な地図を渡してくれた。
「近い順にしてあるから、この通り行けば戻ってこられる」
「親切」
「新人に好きな順で回らせると、だいたい最後が一番遠くなるの」
「私もやりそう」
「でしょ?」
「否定できない」
最初の香辛料店までは問題なかった。
二件目の衣料品店もすぐ見つかり、三件目の宿では受付に荷物を渡して受領札へ印をもらう。ここまでは順調だったが、四件目の個人宅で少し迷った。
黄紐の荷札には《石橋通り・三番路地・アルノ家》と書かれている。
三番路地までは見つかったものの、その先には家が十軒ほど並んでいるのに、表札らしいものがほとんどない。
「アルノ家どれ?」
何軒か扉を見ても分からないので、仕方なく通りの端で洗濯物を干していた女性に聞いた。
「すみません、アルノさんの家ってどこですか?」
「どのアルノ?」
「どの?」
「親のアルノ? 息子のアルノ?」
「荷札にはアルノ家だけです」
「ああ、それなら多分親の方。青い鉢置いてある家」
「ありがとうございます」
案内された家へ行き、念のため名前を確認してから荷物を渡した。
配達所へ戻ったら、「同じ姓がある」という注意書きの意味をもう少し真剣に受け止めようと思う。
五件目はすぐ終わり、最後は料理店だった。
店名は《香鍋食堂》。
乾燥茸の箱を厨房へ渡すと、店主らしい大柄な女性が中身を確認して受領札へ印を押した。
「はい、ご苦労さん」
「ありがとうございます」
「配達所の子?」
「今日はギルドの手伝いです」
「じゃあ昼まだ?」
「戻ったら食べようかと」
「余ってる煮豆あるけど食べる?」
一瞬迷う。
依頼に昼食支給とは書いていなかった。
「いくらです?」
「配達のお駄賃。半椀だけ」
「じゃあ、いただきます」
店先の端へ座らせてもらい、小さな木椀を受け取る。
中身は白豆と刻んだ青菜を塩味の出汁で煮たものだった。派手さはないが温かく、歩き回った身体にはちょうどよいうえ、何より無料という事実がいつもより少しおいしく感じさせている気がする。
「おいしい」
「ならよかった」
「こういうの毎回もらえるなら配達仕事人気出そう」
「毎回は出さないよ」
「ですよね」
半椀を食べ終え、礼を言って配達所へ戻る。
六件すべての受領札を確認したエルネが頷いた。
「誤配なし。優秀」
「途中でアルノさんが二人いるって知りました」
「石橋通り?」
「そうです」
「あそこは親子で同じ名前なの」
「名字じゃなくて?」
「名前」
「何で?」
「知らない」
「配達する側だけ困るやつ」
「本当にね」
昼休憩になり、私は市場近くの屋台で、薄焼きパンに塩豆と刻み野菜を挟んだものを百十ゴールドで買った。
さっき豆煮を少し食べているので、それくらいで十分だった。
配達所の裏手にある木箱へ座って食べていると、フェルも隣へ来た。彼の昼食は黒パンと燻し肉、それから小さな酸果実が二つだった。
「誤配した?」
「してないです」
「じゃあ今日は当たり」
「誤配そんなにある?」
「新人より、慣れたやつがやる」
「意外」
「慣れると荷札ちゃんと見なくなるからな。『いつもの店だろ』って持ってくと違ったりする」
「耳が痛い」
「何かやった?」
「まだです。でも酒場で『大体このくらいだろ』って値段見ないことはあります」
「それは俺もやる」
「危なくない?」
「酒飲んでから品書き読む方が危ない」
「確かに」
その話をしながら、私は何となく財布へ手を触れた。
今日は昨日の残りもあり、さらに報酬千三百ゴールドから昼食百十と宿代三百を引けば八百九十が残る。財布そのものにはかなり余裕があるので、夜予算を六百前後にしても問題はない。
「今日は六百かなぁ」
「何が?」
「夜の飲み代」
「毎日決めてるの?」
「決めないと使うので」
「じゃあ値段見る癖つけた方がいいぞ」
「今その話しましたね」
「人に言われると面倒だろ?」
「ちょっと」
午後は配達ではなく、戻ってきた空箱と受領札の整理をした。
午前に出した荷物の控え札と受領札を組み合わせ、届け終わったものは帳面へ印をつける。力仕事ではないが、似たような番号が並ぶので、適当にやればすぐ間違いそうだった。
「赤三十二、受領あり」
「帳面つけて」
「青十四、受領あり」
「青十四はまだ戻ってない」
「これ青四十一だ」
「ほらな」
「危なかった」
「数字もちゃんと見ろ」
「フェルさん、昼の話をすぐ回収しないで」
「確認は大事」
「分かってます」
そう言いながら、少し前の自分なら「四十一と十四くらいなら見間違えることもある」と軽く考えていたかもしれない。
でも配達では、数字一つで荷物が別の場所へ行く。
値段だって同じで、百と百八十なら八十違い、二百と三百なら安い小皿一つ分くらい変わる。数字を見ないまま「大体このくらい」と思い込むのは、荷札を読まずに「多分ここ」と届けるのとあまり変わらないのかもしれない。
そんなことを考えたのは、この時点ではほんの一瞬だった。
まさか数時間後、自分で同じことをやるとは思っていなかった。
作業は予定通り半日を少し過ぎた頃に終わった。
エルネが完了印を押しながら言う。
「助かったわ。今日は荷物多かったから」
「配達って思ったより確認ばっかりですね」
「運ぶだけなら誰でもできるからね。間違えずに届ける方が仕事」
「耳に残りそう」
「何かあった?」
「何もないです」
ギルドへ戻り、報酬千三百ゴールドを受け取る。
昼食百十と宿代三百を引けば、今日の新しい稼ぎから使えるのは八百九十。昨日残した三千五百もあるが、それはなるべく貯めておきたいので、夜は今日の分の中だけで済ませることにした。
「予算六百」
六百使っても二百九十残るのだから、昨日は千ゴールド使ったことを考えても、今日はこのくらいで十分だろう。
一度《銀鈴の宿》へ戻り、少し休んでから夕方に街へ出た。
昨日は北側の少し値段が高い区画だったので、今日は南東の商人通りを歩くことにする。ここは市場帰りの商人や店員が多く、職人通りほど荒っぽくなく、中央広場ほど高級でもない。
何軒か覗いたあと、細い路地へ入ったところで、小さな酒場を見つけた。
看板には、丸い木皿の上へ一枚の紙札らしきものが描かれている。
《札皿亭》
「今日、札ばっかりだなぁ」
思わず笑う。
ただ、店名が気になった。
入口横には品書きが出ていたが、文字が多く、しかも酒と料理が小さな板へびっしり書かれている。立ったまま全部読むのも面倒だったので、私は大体の価格帯だけ確認した。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《濃麦酒 百二十ゴールド》
《白果実酒 百四十ゴールド》
《赤果実酒 百四十ゴールド》
料理は八十から二百ゴールドくらいのものが多く、六百あれば酒二杯と何品か頼めそうだった。
「これなら六百でいける」
そう判断して中へ入った。
「いらっしゃい」
店内は思ったより広かった。
壁際に四人掛けの卓が五つ、中央に長卓が二本、奥には短いカウンターもある。客は商人や市場帰りの店員らしい人が多く、仕事の話をしながら飲んでいる。
店主は五十歳前後の女性だった。
名前はナナリ。暗い赤毛を短く切り、丸い顔に細い銀縁眼鏡をかけ、腰には何枚もの小さな木札を束ねて下げている。
「一人?」
「はい」
「カウンター空いてるよ」
案内された席へ座る。
目の前には紙の品書きではなく、細長い木札が何十枚も並べられていた。それぞれに料理名と値段が書かれており、注文されたものは札を裏返す仕組みらしい。
「店名って、この札からですか?」
「そう。昔は紙が高かったから、全部これでやってたの」
「今も?」
「慣れてるからね」
「面白い」
まず軽麦酒九十ゴールドを頼む。
「食べ物は?」
ナナリに聞かれ、木札を眺める。
《炙り豆腐 二百ゴールド》
《角鶏香草焼き 百五十ゴールド》
《赤根酢漬け 七十ゴールド》
《茸油煮 百三十ゴールド》
《豚脂焼きパン 百十ゴールド》
《今日の魚皿――》
そこまで見たところで、隣の席に料理が運ばれてきた。
大きめの平皿に、白い身の魚と薄切りの黄色い根菜、それから緑色の香草が盛られている。魚の表面には軽く焼き色があり、上から透明な油のようなものがかかっていて、湯気と一緒に柑橘に似た香りが漂ってきた。
「それ何です?」
思わず隣の男性へ聞く。
四十代くらいの男性で、茶色い髪を後ろへ撫でつけ、袖口にインクの染みがついている。
「今日の魚皿」
「おいしそう」
「うまいよ。川白魚の香油焼き」
川白魚はまだ一度も食べたことがなく、隣から漂ってくる香りまで良かったせいで、一気に興味を引かれた。
木札には《今日の魚皿》の文字が見えるものの、隣の札と重なっていて値段の部分だけが少し隠れている。重なっている札を持ち上げて確認すれば、それだけで済む話だった。
「私もそれください」
けれど、確認するより先に口が動いた。
「今日の魚皿ね」
ナナリが札を裏返す。
「はい」
軽麦酒と魚皿。
この店の料理はだいたい百から二百くらいだったし、魚皿でも二百前後だろうと、私は勝手に決めてしまっていた。昨日なら少し高い料理を食べているし、財布にも余裕があるうえ、何より隣から漂ってくる匂いがかなり良かった。
軽麦酒が先に来た。
色は淡く、泡も控えめで、一口飲むと麦の甘さより軽い苦味が先に立つ。昨日の熟成麦酒ほど複雑ではないが、仕事終わりに最初の一杯として飲むならこちらの方が気楽だった。
「今日はこっちだなぁ」
身体の疲れも昨日ほどではなく、配達と仕分けが中心だったので、重い酒をじっくり飲むより軽い麦酒を口へ流し込む方が合っている。
しばらくして、魚皿が運ばれてきた。
「お待たせ。川白魚の香油焼き」
「おお」
近くで見ると、隣の皿よりさらにおいしそうだった。
白身魚は一匹を半分に開き、皮側を強めに焼いてある。上には《青香実》という小さな緑色の果実を搾った油がかけられ、細く切った黄根と紫色の葉野菜が添えられていた。
「青香実って?」
「南東で採れる小さい果実。油に香り移すの」
「柑橘っぽい」
「似てるけど、そのまま食べるとかなり苦いよ」
「油にするんだ」
「魚にはよく合う」
身を一口分切り取る。
皮は薄くぱりっとしており、中の身は驚くほど柔らかい。川魚なのに泥臭さはほとんどなく、淡白な白身へ青香実の爽やかな香りと、少し苦味のある油が重なる。
「これ、おいしい」
「でしょ」
隣の男性が満足そうに言った。
「私が作ったわけじゃないけど」
「勧めてもらったみたいになってますね」
「勝手に聞いたの君だけどね」
「そうだった」
軽麦酒を一口飲むと、魚の油を麦酒が洗い流し、青香実の香りだけが口に残る。白身の淡さと軽麦酒の弱い苦味も相性がよく、最初の組み合わせとしてかなり当たりだった。
前の世界なら、白身魚のムニエルや香草焼きにレモンを搾る感覚に近いかもしれない。ただしこちらは果汁ではなく、苦味のある果実から香りを移した油を使うところが少し違う。
「これなら二百ちょっとでも満足だなぁ」
何となく口にすると、ナナリがこちらを見た。
「何が?」
「魚皿」
「ああ」
それだけ言って、別の客の注文へ向かう。
私は特に気にしなかった。
魚皿を半分ほど食べたところで、隣の男性が小さくため息をついた。
「今日もまた書き直しだ」
「何かあったんです?」
「帳簿仕事。商会の人が『数字だけ少し直して』って言うから、一行かと思うだろ?」
「嫌な予感する」
「一箇所変えると合計も税も在庫も全部変わる」
「分かる」
「なのに『数字一個でしょ』って言うんだぞ」
「前の職場で聞いたことある感じ」
「どこの仕事も同じか」
男性の名前はルガというらしく、商人向けの帳簿や契約書を清書する仕事をしているという。
「一文字だけ直して、って言われるのも嫌だぞ」
「全部書き直し?」
「紙ならまだいい。正式帳簿は消して書き直せないからな」
「それはつらい」
「だから今日は魚」
「どうつながるんです?」
「細かい字見た日は、でかい皿食いたくなる」
「理由としては好きです」
ルガは笑いながら酒を飲んだ。
私も魚を食べ続ける。
この時点で頭の中では、軽麦酒九十と魚皿が二百前後なので、およそ三百程度だと思い込んでいた。夜予算六百ならまだ半分ほど残っている計算になり、追加するならもう一杯と小皿一つくらいは入る。
そう考えながら木札を見ると、《赤根酢漬け 七十ゴールド》が目に入った。
魚の油が少し口に残っていたこともあり、さっぱりしたものが欲しい。
「赤根酢漬けください」
「はい、七十」
軽麦酒をもう一杯頼むかは、そのあと考えることにした。
赤根酢漬けは薄切りの赤い根菜を酢と香草へ漬けたもので、見た目はかなり鮮やかだった。一口食べると最初に強い酸味が来るが、そのあと根菜そのものの甘さがじわりと出てくる。
「酸っぱ」
「魚のあといいでしょ」
ナナリが言う。
「すごく合う」
「今日の魚、油使うからね」
魚を一口、酢漬けを一枚、そのあと軽麦酒という順番がかなりよく、予想以上に箸代わりの木具も杯も進んだ。皿が空く頃には、軽麦酒も残り少なくなっている。
「二杯目どうする?」
ナナリに聞かれる。
「うーん」
頭の中では、軽麦酒九十、魚皿が二百か二百二十、赤根酢漬け七十と見積もっていた。仮に魚皿が二百二十でも合計三百八十なので、もう一杯軽麦酒を頼めば四百七十となり、まだ百三十は残る。
「もう一杯ください」
「軽麦で?」
「はい」
二杯目が出る。
今日は昨日より酒が軽いこともあり、一杯目を飲み終えても酔いはほとんど感じない。二杯目もゆっくり飲めば問題なさそうだった。
そのとき、厨房から香ばしい匂いが流れてきた。
焼いたパンに近い匂いの先を見ると、ナナリが小さな皿へ焦げ目のついた平たいものを載せている。
「それ何です?」
「《魚皮麦焼き》。今日の魚の皮と端身を刻んで麦生地に混ぜて焼いたやつ」
「メニューにありました?」
「ないよ。魚皿出た日だけ作る。八十ゴールド」
予定外の一品だった。
夜予算六百で考えると、自分の見積もりでは今が四百七十前後なので、八十足しても五百五十ほどに収まる。
「ください」
「はい」
小さな円形の焼き物が出てきた。
表面には魚皮の細かな焼け目があり、麦生地の間から青い香草も見える。一口かじると外側は少し硬く、中はもちっとしていて、魚皮の脂と塩気が麦へ染み込んでいた。
「おつまみだ」
「完全につまみ」
「こういうの好き」
「余り物使ってるだけだけどね」
「余り物っておいしいですよね」
「分かる」
前の世界でも、魚の端や皮、野菜の切れ端を使ったまかない的な料理に妙に惹かれた。高級な部位ではなくても、店側が普段から扱っている食材を無駄なく使う料理には、その店の暮らし方まで少し見える気がする。
魚皮麦焼きと二杯目の軽麦酒はかなり相性がよかった。
塩気が強いので一口食べるたびに酒が欲しくなるが、今日は予算六百の範囲で終えるつもりなのだから、これ以上増やさない方がいい。
「今日はこれで終わり」
自分へ言い聞かせるように呟くと、ナナリがこちらを見る。
「お会計?」
「お願いします」
「はいよ」
私は財布を出しながら、頭の中で最後の計算をした。
軽麦酒九十が二杯で百八十、赤根酢漬け七十、魚皮麦焼き八十なので、魚皿を除けば三百三十。魚皿が二百なら合計五百三十、二百二十でも五百五十で、多少予想より高かったとしても六百には収まるはずだった。
ナナリが裏返した木札を確認していく。
「軽麦二杯で百八十、赤根七十、魚皮麦焼き八十、それから今日の川白魚が三百二十」
「……はい?」
「合計六百五十ゴールド」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「六百五十?」
「そう」
「魚、三百二十?」
「三百二十」
「二百じゃなくて?」
「今日は大きい川白魚だからね」
私は入口側にある木札を見る。
《今日の魚皿》の札は裏返されている。
「値段、三百二十だったんです?」
「うん」
「見てなかった」
「そうみたいね」
「六百五十……」
夜予算は六百なので、五十ゴールド超えている。
もちろん払えないわけではなく、財布には昨日からの残りもあるし、今日だけでも宿代と昼食を引いたあと八百九十使える。問題は金が足りないことではなく、自分で六百と決めたのに、値段を確認しないまま勝手な見積もりで注文を重ねていたことだった。
「値段を見ないで頼んだ私が悪いんですけど」
思わず額へ手を当てる。
ナナリが少し笑う。
「隣の皿見てすぐ頼んでたもんね」
「だっておいしそうだったから」
「実際おいしかったでしょ?」
「すごくおいしかったです。それが余計に文句言えない」
「文句言われても値段は変わらないけど」
「正しい」
ルガが横で笑っている。
「帳簿の数字は見ろって話だな」
「今日ずっと数字見てたんですよ」
「じゃあ夜くらい見たくなかったんだろ」
「それ、ちょっとあるかも」
朝から荷札を確認し、番号を読み、受領札を照合していた。
午後には十四と四十一を見間違えかけ、フェルから「数字もちゃんと見ろ」と言われたばかりなのに、夜になったら「他の料理が二百前後だから、これもそのくらいだろう」と勝手に決めて、魚皿の値段だけ確認していなかった。
「完全に今日の仕事の教訓を夜に捨ててる」
「何の仕事だったの?」
ナナリに聞かれる。
「配達所で荷札確認してました」
「それは駄目ね」
「店の人にまで言われた」
「札皿亭で札見なかったんだからね」
「店名まで刺さってくる」
仕方なく六百五十ゴールドを支払う。
予算六百からは五十オーバーだが、今日の稼ぎから宿代三百、昼食百十、夜六百五十を引いても二百四十ゴールドは残る。財布全体から見れば大した痛手ではないものの、自分で決めた数字を超えたという事実だけが妙に悔しかった。
「魚皿、いつも三百二十なんです?」
会計を終えてから聞く。
「違うよ。魚の仕入れで変わる。小さい日は二百四十くらい」
「だから『今日の魚皿』なんだ」
「そう。値段も毎日書き直す」
「なるほど」
ナナリは裏返していた札を戻し、こちらから見えるよう少し持ち上げた。
《今日の魚皿 川白魚香油焼き 三百二十ゴールド》
ちゃんと書いてあるし、文字も読める。誰も隠していなければ、値段を尋ねても嫌な顔をされるような雰囲気でもなかったのだから、本当に私が確認しなかっただけだった。
「これは何も言えない」
「値段聞いてから頼む人も多いよ」
「次からそうします」
「うちは次ないんでしょ?」
一瞬、私は顔を上げた。
どうやら店へ入ったときの雑談で、毎回新しい店を探していることを話していたらしい。
「そうでした」
「じゃあ別の店で気をつけな」
「そうします」
ルガが隣から口を挟む。
「でもその魚、三百二十の価値はあったろ?」
「ありました」
「ならいいじゃん」
「よくはないです。予算超えたので」
「五十だろ」
「五十でも超過は超過です」
「細かいなぁ」
「帳簿の人に言われたくない」
「確かに」
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
商人通りでは店じまいを始めるところもあり、荷車の音は昼より少ない。私は財布を一度開き、今日使った分を頭の中で整理しながら歩いた。
報酬千三百ゴールドから昼食百十、宿代三百、《札皿亭》で六百五十を使ったので、今日の報酬から残ったのは二百四十ゴールド。昨日の三千五百があるため生活に困ることはないし、夕食の内容も軽麦酒二杯に川白魚の香油焼き、赤根酢漬け、予定外の《魚皮麦焼き》までついて六百五十なら、金額そのものが極端に高いわけでもない。
それでも、今日は少し負けた気がする。
理由は六百五十使ったことではなく、六百で収めるつもりだったのに、値段を見ないまま自分で「二百くらいだろう」と決めつけたことだった。
前の世界でも似たことはあった。
居酒屋で「本日のおすすめ」とだけ書かれている刺身や、黒板に大きく料理名だけ出ている季節料理を見て、まあ千円くらいだろうと頼んだら、会計で思っていたより高かったことがある。もちろん値段を聞けば済む話なのに、聞かなかったのは自分のくせに会計の瞬間だけ驚くところまで、こちらへ来てもあまり変わっていない。
「変わってないなぁ」
思わず苦笑する。
昼間、フェルは「慣れたやつほど荷札をちゃんと見なくなる」と言っていた。
いつもの店ではないのに、私はこの世界の酒場の価格帯へ少し慣れてきて、「このくらいの料理なら大体この値段」と勝手に判断した。それは、荷札を確認せずに「いつもの宛先だろう」と届けるのと、思っていた以上によく似ている。
しかも今日は、《札皿亭》という名前の店で札を見落としているのだから、あまりにも出来すぎていた。
「今日の教訓、そのまますぎるでしょ」
誰に言うでもなく呟いた。
ただ、川白魚は本当においしかった。
皮はぱりっとして、中は柔らかく、《青香実》の香りを移した油には普通の果汁とは違う爽やかさとほろ苦さがあった。軽麦酒との相性もよく、最初から三百二十ゴールドだと知っていたとしても、多分私は頼んでいたと思う。
だから後悔しているのは、料理を注文したことではない。
値段を確認しなかったことだ。
もし最初から三百二十だと分かっていたなら、その時点で残りの夜予算を計算し、二杯目の軽麦酒か《魚皮麦焼き》のどちらかをやめていたかもしれない。それなら同じ川白魚を楽しみながら、六百以内にも収められた。
「結局、確認って大事なんだなぁ」
朝から何度聞いたか分からない言葉が、夜になってようやく自分の財布へ刺さった気がする。
値段を見ずに注文してはいけない、とまで堅苦しく考えるつもりはない。たまには値段より食べたい気持ちを優先する夜があってもいいし、今日のように財布に余裕があるなら、五十ゴールドくらいの超過で生活が崩れるわけでもない。
ただ、自分で予算を決めたのなら、その中で何を選ぶか考えるためにも値段は見た方がいい。知らずに使うのと、分かったうえで使うのでは、たとえ同じ六百五十ゴールドでも食後の気分がずいぶん違う。
「値段を見ないで頼んだ私が悪いんですけど……次からおすすめほど先に値段見よう」
夜の通りを歩きながらそう決める。
今日の夕食は十分おいしく、酒も二杯飲めたうえ、予定外で頼んだ《魚皮麦焼き》まで当たりだった。それなのに最後に一番強く印象へ残ったのが「魚皿三百二十」という数字なのだから、財布というものは食後まで妙に仕事熱心だと思う。
それでも、会計で驚いたあとに「高かったから失敗」とだけ思わなかったのは、少しよかった。
三百二十ゴールドの川白魚には、それだけ払っても食べたいと思えるおいしさがあり、次に似た料理を見つけてもきっと興味は持つだろう。ただし今度は、食べるかどうかを決める前にきちんと値段を知っておきたい。
私は昼間に何十枚も見た荷札と、《札皿亭》で見落とした一枚の木札を思い返しながら、夜風の通るリーベルの道をゆっくり歩いていった。




