第31話「四千八百ゴールドもあると、逆に何頼めばいいか分からない」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、窓から差し込む朝日が昨日より少しだけ強く、木の卓へ細長い光を落としていた。
昨日は《杯棚商会》で酒器を運び、夜には《三雫亭》で三種類の試し杯を飲み比べた。報酬千三百ゴールドから昼食百、宿代三百、夜に五百二十を使い、三百八十ゴールドを残せたので、最近の自分としてはかなり堅実な一日だったと思う。
問題があるとすれば、試し杯のせいで「少しずつなら種類を増やしてもいい」という新しい言い訳を覚えてしまったことくらいだった。
「五種は頼まなかった。そこは偉い」
焼いた薄パンへ豆の煮込みをのせながら小さく呟き、私は昨日の自分をもう一度だけ褒めておいた。
ただ、今日は昨日のような軽い半日仕事ではなく、そろそろ少し稼げる依頼を選びたい。
宿代は毎日三百ゴールドかかるし、短剣の手入れや靴底の補修など、飲食以外にも少しずつ金は出ていく。以前より高い報酬の依頼を選べるようになったとはいえ、毎晩の酒代まで一緒に増やしてしまえば生活が楽になるわけではないので、たまには一日の稼ぎを大きく残しておく必要もある。
「二千くらいの依頼があればいいなぁ」
朝の段階では、本当にそのくらいのつもりだった。
朝食を終えて《銀鈴の宿》を出ると、大通りでは商人たちが店先の覆いを上げ、荷車が市場へ向かって動き始めていた。空はよく晴れ、風も弱く、街の外へ出る仕事をするにも悪くない天気だった。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前にはいつもより人が多かった。
どうやら朝一番で少し報酬の高い依頼が追加されたらしく、何人かの冒険者が板の中央を覗き込みながら相談している。私も空いている隙間へ入り、上から順番に内容を確認した。
《西農区・灌漑溝清掃 報酬千四百ゴールド》
《南街道・荷車護衛 報酬二千百ゴールド》
《北丘陵・角兎駆除 報酬千八百ゴールド》
《東採石道・落石除去および安全確認 報酬四千八百ゴールド》
「四千八百?」
見間違いかと思って、もう一度読んだ。
《東採石道・落石除去および安全確認》
《報酬四千八百ゴールド》
《予定:一日》
《人数:三名以上推奨》
《内容:昨夜発生した斜面崩落により、採石場へ向かう旧道の一部が閉塞。小規模魔物の潜伏可能性あり》
《追加危険手当込み》
《昼食支給》
《早期復旧時も報酬減額なし》
「高いなぁ」
四千八百ゴールドあれば、《銀鈴の宿》に十六泊できるし、昨日の《三雫亭》なら九回行っても少し余る。そう考えると急に金額の大きさが実感できたが、当然ながらそこまで高いのには理由もあるはずで、落石除去だけではなく魔物の潜伏可能性と一日仕事になる点が危険手当として乗っているのだろう。
依頼票へ手を伸ばしかけたところで、隣から低い声がした。
「それ、一人で行くつもりならやめとけ」
振り向くと、三十代半ばくらいの男性冒険者が立っていた。
名前はグレン。濃い茶色の髪を短く刈り、左眉の上に細い傷がある。背負っているのは幅広の片刃剣で、革鎧の上から太い縄を巻いていた。
「三人以上推奨って書いてありますね」
「俺たち二人で取ろうと思ってる」
「二人?」
グレンが顎で示した先には、もう一人女性がいた。
名前はマーヤ。二十代後半くらいで、灰褐色の髪を後ろで束ね、腰には短い槍と小さな手斧を下げている。彼女は依頼票を覗き込みながら、こちらを見て軽く片手を上げた。
「荷運びできる?」
「倉庫仕事なら何度も」
「魔物は?」
「スライムとか角兎とか、小さいのなら」
「十分。崩れた石をどかす方が多分きつい」
「じゃあ三人?」
「報酬は一人四千八百」
「えっ」
思わずグレンを見る。
「依頼全体で四千八百じゃないんです?」
「危険手当込みの個別報酬。採石場側が急いでる」
「急にやる気出てきた」
「分かりやすいな」
「四千八百ですよ?」
「だから俺らも見てた」
三人で受付へ持っていくと、担当は以前酒樽の依頼でも話した、薄茶色の髪をした細身の男性受付員だった。彼は依頼票と私たち三人を順番に見てから、いつもより少し真面目な顔になる。
「東採石道ですね。昨夜、斜面の一部が崩れました。採石場の作業員が朝確認したところ、岩陰に《岩鼠》らしい痕跡があったため、単なる土木作業ではなく冒険者依頼へ切り替えています」
「岩鼠って大きい?」
私が聞くと、マーヤが先に答えた。
「普通の鼠よりずっと大きい。犬くらい」
「それ鼠って呼んでいいの?」
「尻尾見れば鼠」
「そこなの?」
受付員は話を続ける。
「単体ならそれほど強くありません。ただし崩落地では足場が悪いので、追いかけないでください。石を動かした下から出る可能性もあります」
「一番嫌な出方」
「採石場側から作業員二名も来ます。大岩はそちらの道具で処理しますので、皆さんは人力で動かせる石の除去、安全確認、それから魔物が出た場合の対処をお願いします」
「昼食支給って何出ます?」
グレンとマーヤが同時に私を見た。
「いや、一日仕事なら大事ですよ」
受付員は特に驚かず帳面を見る。
「採石場の賄いです。黒パン、塩肉、豆煮の予定ですね」
「十分」
「そこは即決なんだな」
グレンが笑った。
登録を済ませ、三人で東門へ向かう。
東採石道はリーベルから徒歩で一時間弱のところにあり、市街地を抜けると徐々に地面が硬くなり、周囲には低い丘と灰色の岩肌が増えていった。街道の途中では採石場へ向かう空の荷車が何台か止められており、予定外の通行止めで御者たちが困った顔をしている。
「これ今日中に開けないと大変そう」
私が言うと、マーヤが頷いた。
「採石場の石、街の工事で毎日使うからね」
「だから一人四千八百か」
「急ぎは高い」
「会社でもあったなぁ」
「何が?」
「急ぎでって言われた仕事、大体最初から予定立てるの失敗してるんですよ」
「会社?」
「前にいたところの仕事です」
「こっちの崩落は予定できないでしょ」
「今日は斜面に謝ります」
旧道へ到着すると、確かに道の半分以上が石と土砂で塞がれていた。
崖が丸ごと落ちたような大規模崩落ではないものの、大人の頭ほどある石が何十個も転がり、その間を細かな砂利と湿った土が埋めている。完全に道を開けるにはかなりの時間がかかりそうで、朝のうちに終わるような仕事ではないことだけはすぐ分かった。
現場では採石場の作業員二人が待っていた。
一人は責任者のデグラという四十代後半の男性で、短い灰色の髪に分厚い革手袋をつけている。もう一人は若い作業員のトーノで、二十代前半くらい、黒髪を短く刈り込み、肩には長い鉄棒を担いでいた。
「ギルドの三人か」
「はい」
グレンが代表して答える。
「ありがたい。午前中に小石と中石をどかして、午後に大岩を割る。先に魔物の痕跡だけ見てくれ」
地面には細い足跡が残っていた。
私にはよく分からなかったが、マーヤがしゃがんで確認する。
「二、三匹かな。崩れたあとに入った感じ」
「住み着く前なら楽なんだがな」
デグラが言う。
「巣になってると増える?」
「岩鼠は隙間好きだからな。放っとくと餌持ち込むし、道の下まで掘る」
「道まで壊すんだ」
「だから早く追い出したい」
最初の一時間は、比較的小さな石を道の脇へ移す作業になった。
両手で持てるものは抱えて運び、重いものは二人で持ち、丸い石は転がす。倉庫仕事とはまた違う重さで、石には木箱のような持ち手がないぶん、同じ重量でも腕だけでなく指や腰にまで負担がかかる。
「腰から持てよ」
デグラが言う。
「それ昨日も似たようなこと聞いた気がする」
「何?」
「何でもないです」
一つ目の石を持ち上げた瞬間から腕へずしりと重さがかかり、次の石も当然のように重かったが、それでも運んだ分だけ道から石が減り、目の前に空いた場所が増えていくので、作業の進み具合だけは分かりやすかった。
前の世界の仕事では、朝から何十通もメールを処理しても昼にはまた増えていることがあった。こういう作業は身体にはきついが、石を一個動かせば確実に一個減り、誰かがその場所へ新しい石を置いていくこともないという点だけはありがたい。
「こういう仕事、終わりが見えるのいいなぁ」
「まだ始まったばっかりだぞ」
グレンに言われる。
「現実に戻さないで」
「報酬四千八百思い出せ」
「元気出た」
「本当に分かりやすいな」
十個ほど石を運んだところで、マーヤが手を上げた。
「止まって」
全員の動きが止まる。
彼女が槍の先で、岩と土の隙間を軽く突くと、中から低い鳴き声がした。
「いる」
「岩鼠?」
「多分」
グレンが剣を抜く。
私は短剣を構え、デグラとトーノが少し後ろへ下がった。
マーヤがもう一度岩の横を突くと、灰褐色の塊が勢いよく飛び出してきた。
「大きっ」
本当に犬くらいあった。
細長い鼻、丸い耳、太い前歯、身体と同じくらい長い尾。見た目だけなら鼠なのだが、大きさのせいで可愛さより先に怖さが来る。
岩鼠は近くの斜面へ逃げようとしたが、グレンが道を塞ぐ。
「追うな、こっち来させろ!」
マーヤが槍の石突きで地面を叩き、逃げ道を限定する。
岩鼠が方向を変え、今度はこちらへ走ってきた。
「私!?」
「横へ!」
言われる前に身体をずらす。
岩鼠が足元を抜けようとした瞬間、短剣を振るより先にマーヤの槍が横から入り、肩口を打った。転がったところへグレンが一歩踏み込み、剣の背で首元を強く叩くと、一匹目の岩鼠はその場で動かなくなった。
「倒した?」
「気絶してる」
「殺さないの?」
「道から離して追い払えるならその方が楽」
「意外と優しい」
「肉まずいし、素材も安い」
「理由が現実的」
グレンは岩鼠の後ろ脚を掴み、道から離れた草地へ運んでいった。
「起きたら戻ってきません?」
「こっちに餌なきゃ多分来ない」
「多分なんだ」
「絶対って言うやつは信用するな」
「仕事でも同じですね」
石を除けると、その下からさらに二匹出てきた。
今度は分かっていたので慌てず、グレンとマーヤが前を抑え、私は横へ回り込んで逃げ道を狭めた。一匹がこちらへ飛びかかってきたときだけ短剣の腹で鼻先を払ったが、思った以上に衝撃が強く、手首までしびれる。
「鼠って力じゃない」
「だから犬くらいって言ったでしょ」
「犬もこんな飛んでこない」
どうにか三匹とも追い払い、もう一度周囲を確認する。
巣らしい穴はなく、崩落後に岩陰へ入り込んだだけだったようで、それ以上の気配はなかった。
「これで魔物手当分は働いたな」
グレンが言う。
「じゃあ残りは石手当?」
「報酬を勝手に分解するな」
「四千八百って考えないと腰が負けそうなので」
「まだ午前だぞ」
「だから現実に戻さないでください」
作業は昼まで続いた。
石を運び、土を掻き、転がりそうな岩へ木の楔を打ち込み、崩れた斜面の端へ近づかないよう印をつける。少しずつ道幅が戻っていき、最初は人一人が通るのも難しかった場所に、ようやく荷車一台分ほどの空間が見え始めた。
昼になると、採石場から弁当が届いた。
厚い黒パンが二枚、塩漬け肉、豆と根菜の煮込み、それから小さな酢漬け葉が入っており、朝に昼食を買わずに済んだだけでも少し得した気分になる。道脇の平たい岩へ座り、全員で食べ始めると、塩漬け肉はかなり塩が強かったが、午前中ずっと汗をかいた身体にはむしろちょうどよかった。
「採石場のご飯、いいですね」
私が言うと、トーノが笑った。
「腹減るからな」
「毎日これ?」
「似たようなもん。肉ない日もある」
「今日ちょっと豪華?」
「道塞がってみんな機嫌悪いから」
「ご飯でなだめるやつだ」
「食わないと午後動けないし」
グレンが黒パンをちぎりながら言う。
「報酬何に使う?」
「いきなりですね」
「四千八百だぞ。考えるだろ」
マーヤは迷わず答えた。
「槍の穂先直す。あと革靴」
「堅実」
「グレンは?」
「半分貯める。半分飲む」
「半分って二千四百ですよ?」
「一晩で全部じゃねえよ」
「びっくりした」
「お前は?」
「私は……」
口にしかけて止まる。
今日の報酬は四千八百ゴールドで、昼食は支給だから追加の出費はなく、宿代三百を引いても四千五百残る。普段なら夜予算を五百から八百くらいにしているが、今日はそれを倍にしてもまだかなり残る。
「ちょっといい店には行きたいかも」
「じゃあ行けば」
「でも四千八百あると思うと、逆に何頼めばいいか分からなくなりそう」
「金あるなら高いの食えばいいだろ」
「その発想で使うと危ないんですよ」
「面倒くさいな」
「自覚あります」
午後は大岩の処理が中心になった。
デグラとトーノが鉄の楔を打ち込み、ひびを入れたところを四人で少しずつ動かす。私たちは道の外へ石片を運び、斜面側へ積まないよう谷側の指定場所へ寄せていった。
午前より一段きつくなり、腕より先に腰と太腿が疲れてくるうえ、昼食をしっかり食べた直後なので最初の三十分ほどは身体まで重く感じた。
「食べすぎた」
「さっきうまいって喜んでたじゃん」
マーヤが言う。
「おいしいのと、午後動ける量かは別です」
「一枚残せばよかったのに」
「出された黒パン残す選択肢が思いつかなかった」
「冒険者向いてると思う」
「褒められてる?」
「食べられるの大事」
午後三時を過ぎた頃には、ようやく荷車一台が通れる道幅が確保できた。
ただしそれで終わりではなく、最後に斜面から落ちそうな石がないかを確認しなければならない。デグラが長い棒で斜面を突き、グレンとマーヤが少し離れた位置から上を見る。
「右上、あれ危なくない?」
マーヤが指差す。
拳二つ分くらいの石が、土から半分浮いている。
「落とすぞ。下空けろ!」
全員が離れ、デグラが棒で押す。
石は最初動かなかったが、二度目に強く押すと突然外れ、数回跳ねながら道へ落ちてきた。
「うわっ」
思っていたより速い。
そのまま谷側へ転がり、先ほど積んだ石の手前で止まった。
「これ、作業中に落ちてきてたら怖いですね」
「だから最後に見る」
「報酬高い理由、朝より分かってきた」
「四千八百は命代じゃないぞ」
デグラが言う。
「分かってます」
「怪我して治療費で消したら意味ない」
「それ一番嫌です」
最後に通行確認として、止めてあった空荷の荷車を一台ゆっくり通す。
車輪が大きな石へ引っかからないか、道幅は足りているか、斜面側へ寄りすぎないかを確認しながら進めると、無事に崩落区間を抜けた。
御者が向こう側から親指を立てる。
「通れる!」
その声を聞いた瞬間、全員から同時に力が抜けた。
「終わったぁ」
思わず腰へ手を当てる。
朝から何十個石を運んだのか、もう数える気にもならないほど腕も腰も重かったが、振り返れば朝にはほとんど塞がっていた道がきちんと一本の道へ戻っている。疲労は強いものの、自分たちが何を終わらせたのか一目で分かるぶん、仕事を終えた実感もかなり大きかった。
デグラが完了証へ印を押す。
「助かった。明日まで止まってたら荷が詰まるところだった」
「毎日そんなに石運ぶんです?」
「街は建ってるだけで石食うからな」
「街が石食べる」
「道、壁、家、補修。壊れりゃまた使う」
「人より大食いですね」
「だから採石場は休めん」
帰り道では、朝より三人とも静かだった。
話す元気がないわけではないが、身体を使った一日仕事のあとに無駄な会話を続ける気力が減っている。途中でグレンが「四千八百」と呟いたときだけ、私とマーヤが同時に「それだけで歩ける」と返し、その後またしばらく足音だけが続いた。
リーベルへ戻り、ギルドへ完了証を出す。
受付員が帳面を確認し、硬貨を数え始めた。
「一、二、三、四……四千八百ゴールドです」
机の上へ積まれた硬貨を見ると、依頼票で数字を読んだときよりも報酬の大きさがずっと現実的に感じられた。
「本当に四千八百」
「依頼票に書いてありましたよ」
「見ると違いますね」
「危険手当込みなので、大事に使ってください」
「受付の人まで言う」
「今日ここへ戻った別の方が、受け取った瞬間に高級酒を飲みに行くと言っていたので」
「誰?」
「個人情報なので」
「グレンかな」
横を見ると、グレンはすでにいなかった。
「早いなぁ」
マーヤは報酬袋を腰へしまいながら笑った。
「私は靴屋寄る」
「本当に堅実」
「ミサキは?」
「私は一回宿で考えます」
「飲む店を?」
「予算を」
「四千八百あるのに?」
「あるからです」
マーヤと別れ、《銀鈴の宿》へ戻る。
部屋へ入るなり椅子へ腰を下ろすと、腕だけではなく腰も脚も重く、今日一日で普段使わないところまで全部まとめて疲れたような感覚があった。靴を脱ぎ、報酬袋を卓へ置いてから、中身をもう一度確かめるように眺める。
報酬は四千八百ゴールドで、宿代三百を引けば四千五百残り、昼食は支給だったのでそれ以外の出費はない。ここから夜予算を五百にすれば四千残り、千使っても三千五百、二千使ったとしても二千五百は残る。
数字だけ見ていると、どこまで使ってもいいような気がしてくる。
それが一番危ない。
「今日は千二百まで」
少し考えて、そう決めた。
普段の倍近い予算だが、今日は朝から身体を使って働いたし、報酬も大きい。せっかくなら普段より一段だけ上の料理を食べたいものの、高いものを片っ端から頼むのではなく、千二百の範囲で一番満足できそうなものを選ぶことにする。
「四千八百稼いで、夜千二百なら十分残る」
自分へ言い聞かせる。
水で身体を拭き、服を着替え、しばらく横になってから夕方に外へ出た。
今日は安い店が多い職人通りではなく、中央広場から少し北へ向かう。商人や旅人が利用する宿の多い区画には、普段より少し値段の高い酒場や料理店が集まっている。
何軒か店先の品書きを見ながら歩いていると、一つの店で足が止まった。
看板には、金色に塗られた小さな匙と杯が描かれている。
《金匙亭》
名前からして少し高そうだ。
入口横の品書きを確認する。
《熟成麦酒 百六十ゴールド》
《赤果実酒 百八十ゴールド》
《白果実酒 百八十ゴールド》
《香草蒸留酒 百九十ゴールド》
《赤角牛の炙り薄切り 三百二十ゴールド》
《白角山羊乳脂と茸の焼き皿 二百八十ゴールド》
《川魚香草包み 二百六十ゴールド》
《黄根と燻し肉の温皿 二百二十ゴールド》
《焼き白麦パン 八十ゴールド》
《本日の小皿 百二十ゴールド》
「高いけど、払える」
いつもの店なら主菜が百前後なので、確かに一段上の価格帯だ。それでも千二百あれば酒二杯と料理二品くらいはいけるので、今日はこのくらいの店がちょうどいい気がした。
「今日はここ」
扉を開ける。
店内は静かだった。
カウンターは七席、二人掛けの卓が五つ。床も卓もよく磨かれ、壁には装飾より酒瓶と乾燥香草が整然と並んでいる。高級店というほど堅苦しくはないが、普段入る酒場より客の声が一段低く、椅子へ座る動作まで何となく静かになるような雰囲気だった。
「いらっしゃい」
店主は四十代半ばくらいの男性だった。
名前はオルド。焦げ茶色の髪を短く整え、顎には細く髭を残している。白いシャツの上へ濃灰色の前掛けをつけ、話し方も動きも落ち着いていた。
「一人です」
「カウンターへどうぞ」
端から二つ目の席へ座る。
椅子まで少し柔らかい。
「今日ちょっと稼いだので、普段よりいいもの食べたいんです」
席につくなり言うと、オルドの眉が少し上がった。
「予算は?」
「千二百ゴールド」
「十分ですね」
「四千八百稼いだんですけど」
「それならもっと使えますよ」
「使えるのと使うのは違うので」
「しっかりしてる」
「酒場に入る前だけです」
「中でも続くといいですね」
「店の人がそれ言います?」
オルドが笑う。
「最初の酒は?」
「熟成麦酒ください。それと、赤角牛の炙り薄切り」
「四百八十です」
最初の注文だけで普段の夕食一回分に近いが、今日の夜予算ならまだ七百二十残るので、数字を確認しても焦る必要はない。
熟成麦酒は少し背の高い陶杯で出てきた。
色は濃い琥珀で、泡は薄い。鼻を近づけると麦の香りに加え、少し木と甘い香りが混ざっている。
一口飲む。
「濃い」
「木樽で寝かせてあります」
「昨日の軽麦と全然違う」
「軽く飲む酒ではないですね」
口当たりは丸く、最初に麦の甘さがあり、そのあとゆっくり苦味が残る。喉へ勢いよく流し込むというより、口の中で少し味わってから飲みたくなる酒で、昨日までの仕事帰りに飲んでいた軽麦とは同じ麦酒でもずいぶん性格が違った。
「仕事のあと一気に飲む感じじゃない」
「そういう方には軽麦を出します」
「今日はこっちで正解かも」
赤角牛の炙り薄切りも運ばれてきた。
広い白皿に、赤みを残した肉が六枚並んでいる。表面だけ強く焼かれ、黒い胡椒に似た粒と細かく刻んだ青い香草が散らされており、皿を置かれた瞬間に焼いた肉の香りが立った。
まず一枚食べると、噛んだ瞬間に赤角牛らしい濃い肉の味が広がった。以前食べた厚切りの焼き肉より柔らかく、脂は控えめなのに旨味は強く、薄く切ってあるぶん肉そのものの味が口全体へ早く広がる。
「おいしい」
「今日は肩肉です」
「高い部位?」
「中くらい。薄切りにすると旨味が分かりやすい」
「なるほど」
熟成麦酒を一口飲むと、肉の焼けた香りと麦の熟成香が重なり、普段の軽麦酒と串焼きとは明らかに違う満足感があった。
前の世界でも、給料日だから少しだけいい居酒屋へ行く夜があった。普段なら頼まない刺身盛り合わせや、少し高い日本酒を一杯だけ頼み、「今日は働いたから」と納得していた。
たぶん、今日もそれと同じなのだろう。
ただし給料日は月に一度だったのに、こちらでは依頼ごとに財布の景気が変わるので、そのたびに気分まで合わせていたら簡単に散財できそうだった。
「危ない世界だなぁ」
「何が?」
オルドに聞かれる。
「稼いだ日にすぐ飲みに使えるところ」
「使わなければいいでしょう」
「正論」
「でも今日は使う?」
「千二百までは」
「なら楽しんだ方がいい」
肉を食べ終える頃には、熟成麦酒も半分ほど減っていた。
現在四百八十ゴールドで、まだ七百二十残る。普段ならここから残額を見ながら慎重になるところだが、今日は「あと七百も使える」という感覚が先に来てしまう。
「四千八百ゴールドもあると、逆に何頼めばいいか分からない」
思わず口にすると、隣の席にいた男性が笑った。
「分からないなら全部頼め」
「一番危ない助言」
男性は五十代くらいで、髪は短い銀灰色、肩幅が広く、服装は商人というより職人に近い。右手の親指に厚い革当てをつけている。
「金は使うためにある」
「残すためにもあります」
「若いのに堅いな」
「宿代が毎日かかるので」
「そりゃ残せ」
「急に現実的」
男性は笑い、赤果実酒を一口飲んだ。
「俺も今日大口の仕事終わったから来た」
「何の仕事です?」
「家具。宿屋の食堂分、椅子二十四脚」
「二十四」
「一本一本は普通なんだが、二十四あると嫌になる」
「今日その話分かります」
「何してきた?」
「石運び」
「何個?」
「数えたくないくらい」
「じゃあ飲め」
「その結論なんですね」
名前はラードというらしく、家具職人をしているそうだ。今日はまとまった納品が終わり、弟子たちへ給金を払ったあと、一人で少し良い酒を飲みに来たという。
「大仕事終わった日って、何食べます?」
聞いてみる。
「普段食わないもん」
「やっぱり?」
「毎回じゃないけどな。稼いだのにいつもと同じ豆だけ食ってたら、何のために働いたか分からん日もある」
「分かる気がする」
「でも全部使うやつは馬鹿だ」
「そこも分かります」
「だから一個だけ高いの頼め」
「もう牛頼みました」
「じゃあ十分じゃねえか」
考えてみれば、高い料理を食べたいという目的は最初の赤角牛ですでに達成しているのだから、残りの予算まで無理に高い料理へ使う必要はない。ここからは値段より、今の自分が本当に食べたいものを選べばいいのだと思うと、急に品書きが見やすくなった。
《白角山羊乳脂と茸の焼き皿 二百八十ゴールド》
《川魚香草包み 二百六十ゴールド》
《黄根と燻し肉の温皿 二百二十ゴールド》
《焼き白麦パン 八十ゴールド》
一日中身体を使ったせいか、今欲しいのは温かいものだった。
「黄根と燻し肉の温皿ください」
「二百二十ですね」
これで合計七百になり、残りは五百ある。
運ばれてきたのは深めの小皿で、黄色い根菜と薄切りの燻し豚肉が、少量のとろみのある汁に絡んでいる。湯気から燻煙と香草の匂いが立ち、一日中石と土の匂いを嗅いでいた鼻には、それだけでかなり魅力的だった。
一口食べると、黄根は柔らかいが崩れるほどではなく、噛むと少し甘い。燻し肉の塩気が強めなので、一緒に食べると根菜の甘さと肉の塩味がちょうどよくなり、冷たい石を触り続けた身体へ温かさが染み込んでくるようだった。
「これ好きかも」
「地味ですけどね」
オルドが言う。
「今日はこういうの欲しかったです」
「身体使う仕事でした?」
「ずっと石運んでました」
「なら塩気ある方がいい」
「料理見て分かるんだ」
「顔でも分かります」
「そんな疲れてる?」
「椅子座った瞬間、肩落ちましたよ」
「見られてた」
熟成麦酒を飲み終える。
ここまで七百ゴールドで、夜予算千二百なのであと五百使える。二杯目へ行くなら白果実酒百八十か赤果実酒百八十で、料理をもう一皿頼んでもまだ十分入る。
「余裕あると怖いなぁ」
「何が?」
ラードが聞く。
「いつもなら残り二百とか見て諦めるのに、今日は何でも頼める」
「なら値段見なきゃいい」
「もっと怖いこと言わないでください」
「今日くらい平気だろ」
「今日くらい、が毎回来たら困るんです」
「じゃあ毎回四千八百稼げ」
「それができたら苦労しない」
オルドが空いた杯を下げる。
「二杯目どうします?」
「赤果実酒ください」
「百八十です」
合計八百八十になり、残りは三百二十となった。
赤果実酒は透明な杯に注がれ、深い赤紫色だった。香りには熟した果実の甘さがあるが、飲んでみると思ったほど甘くなく、酸味と少し土っぽい渋みがあり、熟成麦酒とは違う方向でゆっくり飲みたくなる味だった。
「牛に合いそう」
「最初にそれ頼む方も多いです」
「順番逆だったかも」
「黄根にも悪くないですよ」
試してみると、黄根の甘さが果実酒の酸味で少し締まり、燻し肉の塩気も重くならない。熟成麦酒とは方向が違うが、確かにこちらも合っていた。
夜予算はまだ三百二十残っているので、ここで終えても十分だが、今日は牛肉と黄根の二品だけで、一日中身体を使ったせいか腹にはまだ少し余裕がある。もう一皿くらいなら無理なく入ると思いながら品書きを見直すと、《本日の小皿 百二十ゴールド》が目に入った。
「本日の小皿って何です?」
「今日は《石麦殻の焼き寄せ》です」
「石麦?」
「採石地の痩せた土でも育つ硬い麦です。外皮を煮て、豆と脂を混ぜて焼いてます」
「今日、採石場の近くにいました」
「それならちょうどいいですね」
「どんな味?」
「かなり素朴です」
「それ逆に気になる」
「百二十です」
頼めば合計千ゴールドになり、夜予算はまだ二百残る。
「ください」
予定外の三品目になった。
出てきた《石麦殻の焼き寄せ》は、手のひらより少し小さい平たい焼き物だった。表面は茶色く焼け、ところどころ白豆が見えている。
箸代わりの細い木具で一口分を切り、食べてみると、最初に麦殻の香ばしさが来た。中は少しもそっとしているが、豆の甘さと脂があるので乾きすぎてはおらず、高級店の料理というより農村や採石場の昼食に出てきそうな素朴な味だった。
「これ、この店で出すんですね」
「店主の故郷が東の採石村なんです」
「オルドさんが?」
「そうです。小さい頃よく食べました」
「だから石麦」
「高い食材じゃありません。でも酒には合う」
赤果実酒を飲むと、素朴な麦の香りへ果実の酸味が入り、焼き寄せだけで食べたときより少し軽く感じる。
「高い店だから全部高い材料ってわけじゃないんだ」
「料理の値段は材料だけじゃないですからね」
「手間?」
「手間、場所、酒、店、人。それから、客が何を食べたいか」
「最後が難しい」
「だから品書きがあります」
「確かに」
ラードが横から一切れ欲しそうに見る。
「それうまい?」
「素朴です」
「一口くれ」
「百二十払ってください」
「全部の値段だろ」
「昨日も似たやり取りしたなぁ」
「何?」
「何でもないです」
私は自分の皿を守った。
石麦殻の焼き寄せを食べ終えると、会計予定はちょうど千ゴールドになり、夜予算千二百からは二百残っている。軽い酒ならもう一杯飲めるかもしれないが、今日は熟成麦酒と赤果実酒を一杯ずつ飲み、料理も三品食べているうえ、身体には一日仕事の疲れがしっかり残っている。
「今日はここまでにします」
オルドが少し意外そうに見る。
「あと二百ありますよ?」
「何で残額知ってるんです?」
「最初から声に出してました」
「そうだった」
「白果実酒なら百八十です」
「入るんですよねぇ」
「入ります」
「でもやめます」
「偉い」
「昨日も褒められた」
ラードが笑う。
「四千八百稼いだ日に千で止めるのか?」
「千でも普段よりかなり使ってます」
「まあ、それならいいか」
「何で許可される側なんです?」
「大仕事仲間だから」
「今日初めて会いましたよ」
「大仕事終わりはみんな仲間だ」
「酔ってます?」
「まだ二杯だ」
「基準にならないなぁ」
会計は千ゴールドだった。
熟成麦酒百六十、赤角牛の炙り薄切り三百二十、黄根と燻し肉の温皿二百二十、赤果実酒百八十、《石麦殻の焼き寄せ》百二十で、普段の夜ならかなり高い金額になる。
それでも今日は四千八百ゴールドを稼いでおり、宿代三百を引き、昼食は支給、夜に千使ったので、今日の報酬からは三千五百ゴールド残る。
「三千五百残った」
思わず口にすると、オルドが頷く。
「十分ですね」
「最初は四千八百あると何頼めばいいか分からなかったんですけど」
「決まりました?」
「高いものをいっぱいじゃなくて、一個ちょっと高いの食べれば十分でした」
「赤角牛ですね」
「はい。それで今日ちょっと特別だったって分かりました」
「なら良い使い方だと思いますよ」
その言葉に少し満足し、硬貨を渡した。
「ごちそうさまでした」
「またどこかで良い一杯を」
「次はまた知らない店探します」
「この街なら困らないでしょう」
「本当に多すぎます」
店を出ると、中央広場へ続く通りにはまだ人が多かった。
普段入る店より千ゴールドという会計は高かったが、不思議と使いすぎた感じはなく、だからといって「四千八百稼いだからもっと使えばよかった」とも思わなかった。赤角牛と熟成麦酒で少し贅沢をし、温かい黄根と燻し肉で疲れた身体を満たし、赤果実酒を一杯飲んだうえ、最後には今日働いた採石場と妙につながる《石麦殻の焼き寄せ》まで食べられたのだから、それだけで十分だった。
前の世界でも給料日になると、財布に余裕があるだけで「今日は何でも頼める」と思っていた。けれど実際に必要だったのは、普段より少し高い刺身だったり、瓶では頼まない日本酒一杯だったり、その日がいつもと違うと分かる程度の小さな贅沢だった気がする。
使える金と使いたい金は、必ずしも同じではない。
今日みたいに四千八百ゴールドも稼ぐと、最初は何を頼んでもいい気がして、逆に何を頼めばいいのか分からなくなる。けれど一日中石を運んだ自分が本当に欲しかったのは、高い料理を何皿も並べることではなく、最初の一皿を見た瞬間に「今日はちょっといい日だ」と思えることだった。
「千ゴールドなら、まあいいか」
以前の自分なら、夜に千ゴールド使ったと聞くだけでかなり贅沢だと思ったはずで、今でも決して安い金額ではない。それでも今日は報酬四千八百から宿代三百、夕食千を引いて三千五百ゴールド残っており、昼食も支給だったので、丸一日働いた疲れと引き換えに財布の中身はかなり増えた。
それなら今夜の千ゴールドは、ただ散財したというより、よく働いた一日へ区切りをつけるための出費だったと思える。
明日から毎日千ゴールド使うつもりはないし、今日みたいな報酬も毎日あるわけではない。だからこそ、稼げた日に少しだけ良いものを選び、その日が普段と違ったことを味で覚えておくくらいなら悪くない。
「四千八百ゴールドもあると、逆に何頼めばいいか分からないって思ったけど……一個だけ贅沢すれば、それでよかったんだなぁ」
夜の通りを歩きながら口にすると、今日最初に食べた赤角牛の柔らかな食感と、熟成麦酒の濃い麦の香りがもう一度浮かんだ。
それを思い出しただけで今夜の贅沢が何だったのか分かるのだから、無理にもう一杯やもう一皿を追加する必要はなかったのだと思う。
大金を稼いだからといって、大金を使う必要はない。今日はよく働いたからこそ、いつもより少しだけいい一杯と一皿を選び、それでも三千五百ゴールドを残せたのなら、そのくらいの贅沢が自分にはちょうどいい。
私は石を運び続けた脚の重さを少し感じながら、まだ賑わいの残る夜のリーベルをゆっくり歩いていった。




