第30話「ちょっとずつなら、三杯飲んでも一杯分だよね?」
翌朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、昨日に続いて空はよく晴れていた。
数日前まで残っていた雨の気配もほとんど消え、窓の外を行き交う荷車の車輪から泥が跳ねることもない。食堂には焼いた薄パンと豆の煮込み、それから塩気の強い白酪が並び、私はいつもの席へ腰を下ろしながら、昨夜の《鳴り椅子》で飲んだ焦麦酒の香ばしさを少しだけ思い出した。
昨夜は軽麦酒と焦麦酒を一杯ずつ飲み、焼き角鶏皮、赤根と豆の煮付け、《焦がし麦殻豆》、香草卵焼きまで食べて五百三十ゴールドだった。夜予算六百五十に対して百二十を残し、報酬千四百ゴールドから昼食と宿代まで引いても最終的には四百五十ゴールド残っており、しかも百二十あれば軽麦酒をもう一杯飲めたのに三杯目へ行かなかった。
「昨日の私はかなり偉かった気がする」
黒パンへ白酪を塗りながら呟くと、近くの席にいた宿泊客が一瞬こちらを見たので、私は何でもない顔で豆煮を口へ運んだ。別に誰かと比べて偉いわけではなく、バノと比べたら大抵の人は節制できているように見えるだけなのだが、それでも酒場で使える金が百二十残っている状態で「あと一杯」を我慢できたのは、自分としては悪くない。
前の世界なら「あと一杯だけ」と言いながら、その一杯に合わせるための軽いつまみまで追加していた可能性が高い。そう考えると、昨日守った百二十ゴールドには金額以上の価値があるような気がしてきたので、今日はその節制を無駄にしない一日にしたかった。
「できれば千二百くらい稼いで、五百くらいで飲む」
口にしてみると、かなり現実的だった。
最近は千五百前後の依頼を選ぶことが増え、以前より財布に余裕も出てきたが、稼ぎが増えると夜の予算まで自然に増えるので、結局残る金額があまり変わらない日もある。生活が少し楽になったからといって、酒代まで一緒に昇格させる必要はないのだから、今日は稼ぎに関係なく五百ゴールド前後で満足できる店を探せばいい。
そう考えながら朝食を終え、私は《銀鈴の宿》を出た。
冒険者ギルドへ着くと、朝の依頼板はいつも通り混雑していた。今日は魔物討伐よりも街中の仕事が多く、木材運搬、染料桶の洗浄、市場の天幕張り、共同井戸の滑車交換補助など、半日で終わりそうな依頼が何枚も残っている。
その中で目に止まったのは、少し変わった内容の依頼だった。
《中央商業区・酒器商》
《内容:試飲用小杯および酒瓶の搬入、数量確認、棚整理》
《報酬千三百ゴールド》
《半日予定》
《破損時は必ず責任者へ申告すること》
《酒器の種類を混同しないこと》
「また酒関係」
昨日は酒樽で、今日は酒器。別に狙っているわけではないのに最近やけに酒へ近い仕事が続いているが、少なくとも今日は樽より軽そうで、報酬も千三百ゴールドなら朝考えた「千二百くらい稼ぐ」という予定より百多い。
「これにしよう」
依頼票を取って受付へ持っていくと、今日の担当は短い栗色の髪を耳へかけた三十代くらいの女性だった。以前にも何度か見たことがあり、彼女は受け取った依頼票へ素早く目を通すと、店名を確認するように指先で一度叩いた。
「《杯棚商会》ですね」
「酒飲む仕事ではないですよね?」
「違います」
「ちょっと残念」
「依頼中の飲酒は禁止です」
「本当に試飲もない?」
「ないです」
「確認が早い」
「その依頼を取る人、大体一度聞きますから」
「みんな考えること同じなんだ」
受付員は依頼票へ印を押しながら、もう一つ注意を付け加えた。
「小杯は見た目が似ていても用途が違うそうなので、責任者の指示なしにまとめないでください」
「用途?」
「酒によって形を変えるらしいです」
「小さい杯なのに?」
「私に聞かれても分かりません」
「ですよね」
「あと、透明杯は一つ割ると報酬から引かれます」
「急に怖い」
「高いので」
「慎重に持ちます」
ギルドを出る前に、昼食用として焼き平パンに燻し角鶏と酸葉を挟んだものを一つ買った。百ゴールドで、今日は昨日より少し軽めだが、半日の仕事ならこれくらいで十分だろう。
中央商業区は、西商業区の倉庫街より人通りが多い。
衣料品店、香料屋、紙店、細工物を扱う店などが並び、道を歩く人も職人より商人や買い物客が目立つ。その中に《杯棚商会》はあり、表の棚には木杯、陶杯、金属杯、それから少し高そうな透明の杯まで、形の違う酒器が何十種類も並べられていた。
「こんなにあるの?」
前の世界でもビールジョッキ、ワイングラス、日本酒のお猪口くらいの違いは知っていたが、店先に並んでいるものはもっと細かい。口が広いもの、細長いもの、底が厚いもの、取っ手がついたもの、指二本で持てそうなほど小さいものまであり、同じ酒を入れる器だけでここまで種類が必要なのかと眺めていると、店の奥から女性の声が飛んできた。
「ギルドの手伝い?」
「はい。ミサキです」
出てきたのは四十代半ばくらいの女性で、名前はセレナという。赤茶色の髪を首の後ろでひとつにまとめ、濃紺の上着の上から革製の腰前掛けをつけており、細身ながら動きは速く、話しながらすでに店先の木箱を一つ持ち上げていた。
「今日は裏の荷ほどきと棚分けね。割れ物あるから走らない、重ねすぎない、分からない杯は勝手に置かない」
「はい」
「透明杯は特に」
「ギルドでも言われました」
「割ったら高いから」
「二回目」
「大事だから」
店の裏手には荷車が止まり、その横へ藁を詰めた木箱が六つ積まれていた。
「全部杯ですか?」
「四箱が杯。二箱は瓶」
「瓶も割れ物」
「そう。だから今日は力より雑に扱わない方が大事」
「得意かは分からないです」
「落とさなければいい」
「基準が分かりやすい」
最初の仕事は、木箱を店の裏口から倉庫へ運び込むことだった。中身が酒器なので一箱あたりの重さはそれほどでもないが、持った瞬間、中から小さくカチャ、と音がするだけで心臓に悪く、腕へ余計な力が入ってしまう。
「音するけど大丈夫?」
「藁の中で少し触れてるだけ」
「割れてない?」
「それで割れるなら輸送できない」
「ですよね」
「でも落とせば割れる」
「分かりましたって」
セレナは笑いながら先に一箱運んでいく。
倉庫内には背の高い棚が何列もあり、杯の種類ごとに木札がかけられていた。
《軽麦用》
《濃麦用》
《果実酒用》
《香草酒用》
《蒸留酒用》
《試飲杯》
《料理酒用》
「料理酒用の杯?」
「飲む方じゃない。計量用」
「紛らわしい」
「だから札見る」
「また札」
「何?」
「最近ずっと札を見てる気がして」
「商売の仕事なら普通よ」
「昨日も言われました」
どうやら倉庫でも商店でも、物を間違えないためには結局札を見るしかないらしい。冒険者になったはずなのに、ここ数日の仕事だけ切り取れば、前の世界で書類や商品番号を確認していた頃とあまり変わらない気もする。
箱を全部運び終えると、次は荷ほどきだった。
藁をかき分けながら一つずつ杯を取り出し、同じ種類を木台へ並べる。最初に出てきたのは手のひらに収まる小さな陶杯で、普通の酒杯と比べても明らかに容量が少ない。
「これ試飲用?」
「そう」
「小さい」
「試すだけだからね」
「一口分くらい?」
「二口あるかないか」
「これなら何杯飲んでも大丈夫そう」
「酒次第」
「そういうもの?」
「当たり前でしょ」
セレナは隣の箱から、形の似た別の小杯を取り出した。こちらも同じくらい小さいが、口が少し広く、内側に青い線が一本入っている。
「これは?」
「果実酒用の試飲杯」
「さっきのは?」
「麦酒用」
「何が違うんです?」
「香りの広がり方」
「この大きさでも?」
「小さいから余計に形が大事なの」
そう言われても、並べて見なければほとんど同じに見える。
セレナによると、試飲用の杯は量こそ少ないが、香りや口当たりを確認しやすいよう、酒によって口の広さや深さを微妙に変えているらしい。店によっては全部同じ小杯で済ませるところもあるが、酒屋や専門店では種類を分けることが多いという。
「味って器でそんな変わる?」
「変わるというより、感じ方が変わる」
「難しいなぁ」
「夜に飲み比べたら分かるかもね」
「そういう店あるんです?」
「あるよ」
「どこ?」
思わず即答すると、セレナが手を止めた。
「仕事より食いつきよくない?」
「気のせいです」
「南水路近くに《三雫亭》って店がある。試し杯で何種類か出す店」
「三雫亭」
「でも今は仕事」
「はい」
仕事中なのでそれ以上は聞かず、《三雫亭》という店名だけをしっかり頭へ残して作業へ戻った。今日の夜予算すらまだ正式には決めていないのに、行き先だけ先に決まりかけているあたり、自分でも順番が逆だと思う。
作業を続けると、いよいよ透明の杯が入った箱へ移った。
厚いものもあるが、中には指で強く握っただけでも不安になるほど薄い杯もあり、一つずつ藁から取り出して木台へ置くたび慎重になる。受付とセレナの両方から値段について注意されているせいで、ただの割れ物以上に緊張してしまう。
「これ、いくらするんです?」
「それ一個で百八十」
「高っ」
「落とさないで」
「聞かなきゃよかった」
「こっちは三百」
「どっち?」
「右手の」
私は杯を持った姿勢のまま動きを止めた。
「今それ言う?」
「丁寧になったでしょ」
「すごく嫌な教え方」
「効果はある」
確かに、それまでよりさらに慎重になった。
前の世界なら三百円のグラスと聞いてもそこまで緊張しなかっただろうが、この世界で三百ゴールドは《銀鈴の宿》一泊分だ。手の中に一泊分の金額があると思うと、薄い透明杯が急に重くなったような気がして、棚へ置いて手を離した瞬間には思わず息まで吐いてしまった。
透明杯を棚へ収めたあと、次は酒瓶の確認へ移った。
瓶には細長いものと丸いものがあり、容量ごとに並べる。栓の形も違い、蝋を使うもの、紐で固定するもの、木栓だけのものがあるので、単純に形だけで分ければいいわけではない。
途中から、もう一人店員が加わった。
名前はリオ。二十代前半くらいの青年で、淡い金髪を短く切り、左頬に小さなほくろがある。細身で、瓶を両手に二本ずつ持ちながらも動きが軽い。
「冒険者さん?」
「今日は荷運びです」
「杯割った?」
「まだ一つも」
「じゃあ優秀」
「基準低くない?」
「初日に三つ割った人いたから」
「誰?」
「俺」
「本人だった」
リオは笑いながら棚へ瓶を並べる。
「三つでいくら?」
「給金二日分くらい」
「痛い」
「その日から透明杯嫌いになった」
「分かる」
「でも高い酒出す店は透明杯欲しがるんだよ」
「見た目?」
「色を見るためもある。果実酒とか」
「なるほど」
酒の色を見せるための器もあれば、香りを集める器、早く飲むための器、量を測るためだけの器もある。同じ「酒を入れるもの」でも目的が違えば形まで変わるらしく、昨日の《鳴り椅子》では酒そのものより店の空気が印象に残ったのに、今日はまだ一滴も飲んでいない段階で器の方に興味が湧いていた。
午前の作業が一段落したところで、昼休憩になった。
店の裏にある木製の長椅子へ座り、朝買った平パンを取り出す。燻し角鶏は塩が少し強めで、酸葉の酸味がちょうどよく、昨日より軽い昼食ではあるものの、重いものを持ち続ける仕事ではないので腹具合としては十分だった。
隣ではリオが豆入りの焼きパンを食べている。
「夜、飲むんですか?」
突然聞かれた。
「何で?」
「セレナさんが《三雫亭》教えてたから」
「聞いてた?」
「聞こえた」
「行こうかなとは思ってます」
「あそこ面白いよ」
「行ったことある?」
「ある。試し杯三つで飲み比べできる」
「三杯?」
「普通の一杯より少ないよ」
「じゃあ三杯飲んでも一杯分?」
「量だけなら近い」
「それなら安全だ」
「そう思って追加する人が多い」
「嫌な情報」
「店もそれ狙ってると思う」
確かに、小さい杯なら財布の警戒心も緩みそうだ。一杯百二十ゴールドと言われると少し考えるのに、三種類で二百ゴールドと言われれば、「三種類も飲めて二百」と別の計算を始めてしまう。
前の世界でも、飲み比べセットという言葉には弱かった。
日本酒三種の飲み比べや、クラフトビール四種、ワインを少量ずつ試せるセットを見ると、量が少ないことより種類が多いことに得を感じて注文していた。量を減らして種類を増やす仕組みは、たぶん私みたいな人間の財布を開かせるために存在している。
「でも何種類か試せるのいいなぁ」
「最初はね」
「最初は?」
「好み見つかると普通杯頼むから」
「ああ」
「結局増える」
「店側うまいな」
「でしょ」
平パンを食べながら、夜の予算について考える。
報酬千三百ゴールドから昼食百と宿代三百を引けば九百残る。昨日は夜に五百三十だったので、今日は五百くらいに抑えれば四百程度は残せる計算だが、試飲をするなら種類が増える分、料理を頼みすぎないよう少しだけ余裕を持たせた方がいい。
「夜予算五百五十かな」
「今決めるの?」
リオに聞かれた。
「決めないと使うので」
「真面目」
「酒の前だけは」
「そこだけ?」
「そこだけではないです」
昼休憩が終わると、午後は棚の数量確認をした。
試飲杯四十二、果実酒用試飲杯三十六、透明杯十八、軽麦用木杯二十四、濃麦用陶杯二十に加え、細長型の瓶が十六、丸型が十二ある。私が一種類ずつ数え、リオが帳面を確認し、セレナが棚札を直していった。
「試飲杯四十二」
「帳面も四十二」
「果実酒用三十六」
「三十六」
「透明十八」
「十八」
「割れてない」
「まだね」
「最後までその言い方やめて」
棚整理が終わったのは、昼を少し過ぎたころだった。
セレナが一通り棚を見てから頷く。
「問題なし。破損もなし」
「よかった」
「透明杯も全部無事」
「そこ強調するんですね」
「大事だから」
「今日一番緊張したの、それです」
「樽より軽かったでしょ」
「値段知ってから重かったです」
完了印を受け取り、ギルドへ戻る。
報酬千三百ゴールドを受け取ると、昼食百、宿代三百を引いて残るのは九百。そこから夜予算を五百五十ゴールドにすれば三百五十は残せるし、昨日から持ち越している分まで考えれば実際の財布にはもう少し余裕がある。
ただ、そこを使い始めると予算を決めた意味がなくなる。
「五百五十。今日は五百五十」
念のため口に出してから、《銀鈴の宿》へ一度戻った。
仕事自体は軽かったが、割れ物を持ち続けたせいで肩に妙な力が入っていたらしく、部屋へ戻ると腕より首の方が疲れていた。樽を転がした昨日とは疲れる場所まで違うのだから、半日仕事といっても内容次第で身体の使い方はかなり変わるらしい。
少し横になり、夕方前に起きた。
今日はすでに店が決まっている。
セレナとリオから聞いた《三雫亭》では、試飲用の小杯で何種類か酒を飲み比べられるらしい。普通の一杯より量が少ないのなら、種類を増やしても酔いすぎる心配はないはずだと考えながら上着を整えたところで、昼に口にした理屈がもう一度頭へ浮かんだ。
「ちょっとずつなら、三杯飲んでも一杯分だよね?」
口に出してみると、自分でも少し怪しい理屈に聞こえた。
それでも私は五百五十ゴールドという夜予算を頭に置き、《銀鈴の宿》を出た。
《三雫亭》は南水路へ向かう途中の細い通りにあった。
表通りから一本入った場所なので店先はそれほど騒がしくなく、木製の看板には大きさの違う三つの雫が描かれている。入口横には品書きが掛けられており、店へ入る前から目的の試し杯が目に入った。
《三種試し杯 百八十ゴールド》
《五種試し杯 二百八十ゴールド》
《軽麦酒 百ゴールド》
《香麦酒 百二十ゴールド》
《赤果実酒 百三十ゴールド》
《白果実酒 百三十ゴールド》
《薬草酒 百四十ゴールド》
《塩焼き角鶏 百二十ゴールド》
《香草豆煮 九十ゴールド》
《白根薄焼き 八十ゴールド》
《燻し小魚 百ゴールド》
《酢漬け実盛り 七十ゴールド》
《酒粕平焼き 九十ゴールド》
「三種百八十かぁ」
普通の酒を一杯飲むのと比べれば少し高い程度なのに、三種類試せると考えるとかなり魅力的に見える。五種二百八十にも一瞬目を奪われたが、最初から五種類へ行けば「少しずつだから」という言い訳が危険な方向へ育ちそうなので、今日は三種から始めることにした。
扉を開ける。
「いらっしゃい」
店内は思っていたより静かだった。
カウンターが八席、二人掛けの小さな卓が四つ。壁には細長い棚が何段もあり、淡い黄色、赤、琥珀、薄緑と色の違う酒瓶がずらりと並んでいるが、《鳴り椅子》のように店全体へ会話が飛び交うことはなく、それぞれの客が手元の杯を眺めながら静かに話している。
店主は三十代後半くらいの女性だった。
名前はユナ。肩までの黒髪を後ろで軽く束ね、白いシャツに深緑の前掛けをつけている。話し方は落ち着いているが、こちらを見る目はよく動き、客の杯が空きそうになればすぐ気づきそうな雰囲気があった。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
「試し杯って初めてなんですけど」
「三種と五種があります」
「三種で」
「好みあります?」
「麦酒も果実酒も飲みます」
「じゃあ、種類を変える?」
「お願いします」
「料理は?」
私は品書きを見ながら、夜予算五百五十から最初にいくら使うかを考えた。
三種試し杯が百八十なので、料理に百二十程度使っても三百で、まだ二百五十残る。最初から飛ばしすぎる金額ではない。
「塩焼き角鶏ください」
「合わせて三百ね」
これなら最初の注文としてはかなり安全だった。
ユナは棚から三本の瓶を取り出し、木製の小さな台へ三つの杯を並べた。一つ目は縁の薄い小さな陶杯、二つ目は少し口の広い白い杯、三つ目は透明で背の低い小杯で、昼間《杯棚商会》で見たものとよく似ている。
「左から、軽麦酒、白果実酒、香草酒」
「本当に少ない」
「試す量だから」
「全部合わせても普通の一杯くらい?」
「少し少ないくらい」
「じゃあやっぱり三杯で一杯分」
「そう思って飲む人多いね」
「今日二人目に言われた」
「追加する人も多いよ」
「それも言われました」
リオとユナの両方から同じことを言われた時点で、これは試し杯を使う客がかなりの確率で通る道なのだろう。私は予算五百五十を頭の中でもう一度確認してから、まず左端の軽麦酒へ手を伸ばした。
色は淡く、昨日《鳴り椅子》で飲んだものよりさらに透明に近い。小さな杯なので二口程度しかないが、口へ入れると麦の甘さより先に軽い酸味があり、そのあと弱い苦味が残った。
「昨日飲んだ軽麦より酸味ある」
「店ごとに仕入れ違うからね。これは《南風醸造所》」
「同じ軽麦でも違うんだ」
「かなり違うよ」
二つ目は白果実酒だった。
薄い黄色の酒へ鼻を近づけると少し花に似た香りがあり、一口飲んでみると思ったほど甘くない。最初に白い果実の香りが出たあと、舌の横へ少し酸味が残り、最後にごく弱い渋みが追いかけてきた。
「もっと甘いと思ってた」
「それは若い白果実酒。これは皮ごと仕込むから少し渋い」
「白でも皮使うんだ」
「使うものもある」
昨日までなら、そこから原料や仕込みについて細かく聞いていたかもしれない。
でも今日は、そこまで考えなくていい日だ。
「おいしい」
「それで十分」
「今日それ言われると助かる」
ユナが少し笑った。
三つ目は香草酒で、透明に近い薄緑色の液体へ鼻を近づけると、草と柑橘を混ぜたような香りがした。爽やかそうな匂いに油断したまま一口飲んだ瞬間、予想以上の熱さが喉へ落ちていく。
「強っ」
「三つの中では一番強い」
「先に言って」
「聞かなかったから」
「この店もそういうタイプ?」
「何のタイプ?」
「強い酒を先に説明しない店」
「量少ないから大丈夫」
「その理屈、ちょっと怖い」
喉を通った瞬間の熱さは強いが、後味は意外にすっきりしている。香草の苦味が少し長く残り、そのあと口の中が妙にさっぱりするので、量が少ないこともあって嫌な強さではなかった。
そこへ塩焼き角鶏が届いた。
薄く切った角鶏の腿肉を鉄板で焼き、表面へ塩と砕いた香草種を振っただけの料理で、焼き色のついた縁から香ばしい匂いが立っている。一口食べると、皮のない肉なので脂は控えめだが、噛むほどしっかり旨味が出てきて、塩は少し強めに利かせてあった。
「どれが合います?」
ユナに聞く。
「自分で試す店」
「そういう店なんだ」
「答え知って飲むより面白いでしょ」
「それは確かに」
まず軽麦酒を合わせると、肉の塩気をさっぱり流してくれるものの、料理の味に少し負ける。白果実酒なら果実の酸味が塩気を受け止め、肉の旨味も消さない。最後に香草酒を飲むと、肉へ振られた香草種の香りと酒の風味が強く重なり、悪くはないが少し主張が強すぎるように感じた。
「白果実酒かな」
「じゃあ覚えておけばいい」
「普通杯で頼ませる流れ?」
「頼まなくてもいいよ」
「逆に怖い」
「何で?」
私は残っていた角鶏を食べながら、三つの空いた小杯を見た。
飲んだ量としては確かに普通の一杯より少ない。それなのに三種類の味を順番に比べたせいか、ただ一杯飲んだときより満足感があり、自分の好みまで一度で分かった気がする。
「これ、いいですね」
「試し杯?」
「はい。いっぱい飲まなくても違い分かるし」
「酔いたい人には向かないけどね」
「私は飲みたいけど、予算もあるので」
「じゃあ向いてる」
ここまで三百ゴールドなので、夜予算はあと二百五十残っている。このまま終えても予算としては立派だが、腹にはまだ少し余裕があり、品書きの中では《酒粕平焼き》九十ゴールドが気になった。
「酒粕平焼きって何です?」
「酒を絞ったあとの粕を小麦粉と混ぜて焼いたもの」
「甘い?」
「少しだけ。塩味もある」
「ください」
「九十ね」
これで合計三百九十になり、予算はあと百六十残る。追加できる金額ではあるものの、普通の酒をもう一杯頼めばほとんど終わるので、まだ危険というほどではない。
酒粕平焼きは、薄い円形で出てきた。
見た目は小さなパンケーキに近いが、表面にはしっかり焼き色がつき、細かな茶色い粒が見える。一口食べると最初は小麦の素朴な味が広がり、噛むほどわずかな甘さと発酵した香りが出てきた。
「パンとも違う」
「酒粕入るからね」
「お酒の味する?」
「少し香りだけ。焼いてるから強くはない」
前の世界でいうなら酒粕入りの焼き菓子とパンの中間くらいだろうか。ただし甘さはかなり控えめで、塩気もあるので菓子よりつまみに近く、噛んでいると先ほど飲んだ白果実酒の酸味がもう一度欲しくなってくる。
品書きを見る。
《白果実酒 百三十ゴールド》
今頼めば合計五百二十になり、夜予算五百五十から三十残る。
「……入るなぁ」
財布にも入るし、決めた予算にも入る。
しかも三種類を飲み比べた結果、今日一番気に入った酒なのだから、何となく二杯目を追加するのとは少し違う。そう自分へ説明している時点で、かなり頼む方向へ傾いている気もした。
「白果実酒、普通杯ください」
「百三十ね」
「これで五百二十」
「計算してるの?」
「大事なので」
「三十残し」
「ぴったり使い切るより、これくらいがいいです」
今度の白果実酒は、試し杯ではなく普通の杯で出てきた。
量が増えると香りの感じ方が少し違い、小杯では酸味が先に来たのに、普通杯へ鼻を近づけると果実の香りが先に広がり、口へ含んだあとで渋みの輪郭まで分かりやすくなった。
「同じ酒なのに違う」
「杯も違うし、量も違うからね」
「今日の仕事につながった」
「何の仕事?」
「酒器屋で杯運んでました」
「それなら分かりやすい日だ」
「本当に」
ユナは試し杯用の小さな器を一つ持ち上げた。
「小さい杯は比較するには便利だけど、長く飲むには向かない。香りもすぐ抜けるし、温度も変わりやすい」
「じゃあ試して気に入ったら普通杯?」
「そういう人は多い」
「完全に今日の私」
「よくある」
やっぱり店側は分かっているのだろうが、不思議と嫌な感じはしなかった。最初から普通杯を一つ選ぶより、少しずつ三種類試して、その中から一番好きだったものを自分で選んでもう一杯飲む方が、金を使わされたというより、自分で今夜の一杯を見つけたという感覚が強い。
酒粕平焼きを一口食べ、白果実酒を少し飲む。
平焼きの薄い甘さと発酵した香りへ、白果実酒の酸味と弱い渋みが重なり、試し杯で角鶏と合わせたときとはまた違った印象になった。
「これ、今日一番好きかも」
「酒と料理?」
「組み合わせが」
「なら当たり」
そのとき、二つ隣の席に座っていた男性が口を開いた。
「その組み合わせ、俺もよくやる」
四十代くらいで、濃い茶髪を短く刈り、鼻の横に小さな傷がある。服には細かな白い粉がついており、石材か漆喰を扱う仕事に見えた。
「常連さんですか?」
「月に二、三回」
「昨日、常連だらけの店行ったのでちょっと警戒しました」
「何を警戒するんだ」
「気づいたら七年とかになりそうで」
「ここは飲み比べに来る客多いから、毎日は少ないよ」
「そうなんだ」
男性の前には五つの小杯が並んでいる。
「五種?」
「そう」
「全部で普通の一杯くらい?」
「二杯分くらい飲んだ気にはなる」
「量は?」
「一杯ちょい」
「危ないやつだ」
「何で?」
「少量だから飲んでない気がする」
「分かる」
男性は笑いながら三つ目らしい杯を持ち上げた。
「今日は新しい香草酒入ったって聞いたから来たんだけど、三つ目でもう何が何だか分からなくなってきた」
「飲み比べの意味」
「最初の二つは分かった」
「後半駄目じゃないですか」
「だから料理食って戻す」
「戻るんです?」
「気分は」
店内の別の卓でも小さな杯を並べている客がいて、誰かが香りについて話せば、別の客は「こっちの方が甘い」と言い合っている。昨日の《鳴り椅子》が、いつもの人たちがいつもの酒を飲みながら昨日の続きを話す店だったのに対し、こちらでは違いを確かめるために少しずついろいろな酒を飲むこと自体が楽しみになっていた。
同じ酒場でも、店が変われば酒との付き合い方まで変わる。
前の世界にも、日本酒や地ビール、ワインなどを少量ずつ並べた飲み比べセットがあり、普通の一杯より少し高くても「何種類も飲めるなら得だ」と思って頼んでいた。こちらへ来ても同じものへ惹かれているのだから、その辺りの感覚はあまり変わっていないらしい。
ただ、この世界では酒の名前も原料もまだ知らないものが多いので、試し杯の意味は前より大きい。
知らない酒を普通杯で頼んで好みに合わなければ、その一杯を最後まで飲むしかない。小杯ならまず味を確かめ、自分が気に入ったものだけを普通杯で頼めるのだから、毎回知らない店へ入る私にはかなり便利な仕組みだった。
「知らない酒を失敗せず選べるの、いいですね」
「それが一番の目的」
ユナが答える。
「店も売れる?」
「それも目的」
「やっぱり」
「商売だからね」
「正直」
「気に入ったら普通杯頼むでしょ?」
私は手元の白果実酒を見る。
「頼みました」
「なら成功」
「うまく乗せられた感じする」
「でも好きなの選んだんでしょ?」
「そうなんですよね」
自分で飲み比べて気に入ったものを選び、その結果として一杯追加したのなら、店の思惑に乗ったとしても悪い使い方ではない。むしろ何となく二杯目を頼むより理由がはっきりしているぶん、今日の五百二十ゴールドには納得できた。
普通杯の白果実酒をゆっくり飲み、酒粕平焼きも最後の一切れになった。
夜予算五百五十に対して現在五百二十なので、残りは三十ゴールドしかなく、品書きには三十で頼めるものは一つもない。これ以上何か欲しくなっても追加できないという状況は、少し物足りないどころか、むしろ自分にとっては安心材料だった。
「ちょうど止まれる」
「何が?」
「予算です」
「いくら?」
「五百五十」
「あと三十」
「そう」
「じゃあ何も頼めないね」
「それが安心」
二つ隣の男性が笑った。
「予算なくなったら帰るタイプ?」
「最近は」
「前は?」
「前の世界では、カードっていう危険なものがありまして」
「カード?」
「忘れてください」
この世界には、手元にある金以上を酒場で気軽に使える仕組みがなくて本当によかった。もちろん借金そのものは存在するだろうが、少なくとも酔った勢いで「後で払います」と簡単に追加できないだけ、私の財布にとってはかなり健全な世界だと思う。
白果実酒の最後を飲む。
小杯で味を知ってから普通杯でゆっくり飲んだことで、最初より果実の香りも渋みもよく分かった。今日の仕事でセレナが言っていた「器で味が変わるというより、感じ方が変わる」という意味も、昼間に杯を並べていたときよりずっと理解できる。
「ごちそうさまでした」
「五百二十ね」
ユナへ硬貨を渡す。
三種試し杯百八十、塩焼き角鶏百二十、酒粕平焼き九十、白果実酒百三十で合計五百二十ゴールド。今日の報酬千三百から昼食百、宿代三百、夜五百二十を引けば三百八十ゴールド残る。
朝の予定では夜五百くらいに抑えるつもりだったので二十だけ増えたが、それでも決めた五百五十以内にはきちんと収まっている。
「三種類飲んだのに、一杯とちょっとくらいしか飲んでない気がする」
立ち上がりながら言うと、ユナが笑った。
「そういう言い方する人は次に五種頼むよ」
「頼まないです」
「今日はね」
「次も別の店行きます」
「それなら別の店で五種頼むかもね」
「否定しづらい」
「気をつけて」
「店の人に言われるんだ」
店を出ると、南水路から少し冷たい風が流れてきた。
夜の通りには食堂や酒場の灯りが並び、水路の向こうから誰かの笑い声が聞こえてくる。私はそのまま水路沿いを歩きながら、今日飲んだ軽麦酒、白果実酒、香草酒の三つの小杯を順番に思い返した。
量だけを見れば本当に少しずつだったのに、それぞれ違う味を比べたことで、一杯の酒を飲んだ日よりたくさん飲んだような満足感がある。しかも、その中で一番気に入った白果実酒を最後に普通杯で頼んだからこそ、最初から白果実酒だけを一杯注文していたら分からなかった「自分で選んだ」という楽しさまで残っていた。
前の世界でも、飲み比べセットを頼むときは「少しずつだから大丈夫」と思っていたし、実際にはその中で気に入った酒を一杯追加するところまでが、だいたい一つの流れになっていた気がする。
「全然変わってないなぁ」
思わず笑ってしまう。
ただ、以前と違うのは、今は夜に使う金額を先に決めていることだ。
今日も五百五十ゴールドの予算に対して五百二十で止まり、三十を残した。三十ではもう何も頼めなかったから止まれたとも言えるけれど、それでも予算内は予算内で、明日の自分から酒代を借りなかったことには変わりない。
そして、試し杯という仕組みは思っていたより私に合っていた。
たくさん飲むためではなく、知らない味を知るために少しずつ飲み、その中から今日の一杯を選ぶ。毎回知らない店へ入り、知らない料理や酒を頼んでいる私にとっては、一度にいくつもの味を試せることそのものが、一杯の量より大きな価値になるのかもしれない。
「ちょっとずつなら、三杯飲んでも一杯分だよね?」
もう一度口にしてみると、量だけならたぶん間違っていない。
問題があるとすれば、その三杯の中に気に入ったものがあったとき、結局もう一杯頼みたくなることくらいだ。
今日は千三百ゴールドを稼ぎ、昼に百、宿に三百、夜に五百二十使って、三百八十ゴールド残った。財布にもまだ余裕があり、軽麦、白果実、香草という三種類の違いを知ったうえで、自分が一番飲みたい酒まで選べたと思えば十分満足できる夜だった。
もしまた別の店で試し杯を見つけても、最初から五種には行かないようにしよう。
少なくとも、今夜のところはそう決めておく。
私は水路を渡る夜風に白果実酒の余韻を感じながら、三十ゴールドだけ残した今日の予算にも少し満足して、そのまま灯りの続く道をゆっくり歩いていった。




