第29話「常連さんって、店より先に酔ってません?」
朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、窓の外にはすっきりとした青空が広がっていた。
雨そのものは昨日の朝にはもう上がっていたので、通りを歩く人たちが外套の襟を閉じていることもなく、石畳の大部分もすっかり乾いている。ただ、建物の陰や道端のくぼみには一昨日の雨でできた小さな水溜まりがまだ残り、数日前まで雨続きだったことをわずかに思い出させていた。
昨日は《白乳工房》で白角山羊乳と白実乳を運び、夜は《白椀亭》で二種類の白い煮込みを食べ比べたので、朝食の薄い豆煮を見ても「これは何で白くなるんだろう」と考えそうになった。
「考えすぎるのもよくないなぁ」
私は黒パンをちぎって豆煮へ浸しながら、小さく呟いた。
前の世界では、仕事帰りに居酒屋へ入っても、料理の材料や加工方法まで毎回考えていたわけではない。枝豆は枝豆、唐揚げは唐揚げ、ビールはビールで、それ以上のことを知らなくても十分楽しめていた。
こちらへ来てからは、仕事で食材に触れる機会が増えたせいか、一皿を見るたびに「どこから来たんだろう」と考えることが増えている。それはそれで面白いのだが、今日はもう少し何も考えず、酒と料理をそのまま楽しみたい気もした。
昨日は千五百ゴールドを稼ぎ、昼食百三十、宿代三百、《白椀亭》で七百二十使ったので、その日の報酬から三百五十ゴールド残っている。白い煮込みを二種類も食べ、酒も二杯飲んでこの残りなら悪くない。
「今日は普通の一日にしよう」
何が普通なのかはよく分からないけれど、少なくとも乳の違いを勉強するような仕事ではなく、頭をあまり使わない依頼を選びたい。
朝食を食べ終え、《銀鈴の宿》を出た。
一昨日の雨の名残は、街のところどころにまだ残っていた。濡れたままの日陰の石や、店先で完全には乾ききっていない木箱から少し湿った匂いがするものの、大通りには荷車がいつも通り行き交い、昨日以上に普段のリーベルらしい騒がしさが戻っている。
冒険者ギルドへ入ると、依頼板の前にはすでに何人か立っている。
私は人の間から半日程度の仕事を探した。
《北門外・木柵補修補助 報酬千三百ゴールド》
《中央通り・石畳泥掃除 報酬千百ゴールド》
《東市場・空箱回収 報酬千二百ゴールド》
《西商業区・酒樽倉庫棚卸し補助 報酬千四百ゴールド》
「酒樽」
どうしても目が止まった。
昨日「今日は普通に」と決めたばかりなのに、結局こういう依頼を選んでしまう。
依頼票を取る。
《西商業区・酒類卸倉庫》
《内容:空樽確認、納品札照合、酒樽位置整理》
《報酬千四百ゴールド》
《半日予定》
《注意:樽を転がす際は勝手に栓を触らないこと。酒種札と納品先札を混同しないこと》
「また札だ」
ここ数日、私は本当に札ばかり確認している気がする。
依頼票を受付へ持っていくと、今日は以前にも何度か見た、薄茶色の髪をした細身の男性受付員だった。机の上には相変わらず何本もの印章が並び、彼は依頼票へ視線を落としてから私を見る。
「酒類倉庫ですか」
「頭使わない仕事にしようと思ったんですけど」
「照合作業ありますよ」
「やっぱり?」
「完全な力仕事ではありません」
「依頼取る前に聞けばよかった」
「戻します?」
「いや、行きます」
「酒だから?」
「そういうわけじゃないです」
「間がありましたね」
「気のせいです」
受付員は何も言わず、印を押した。
「責任者はロメルさんです。西商業区の《樽葉商会》倉庫へ行ってください。大樽は一人で動かさないように」
「転がすだけなら一人でいける?」
「床の傾きがあります」
「嫌な予感する言い方だ」
「止まらなくなると困るので、指示に従ってください」
「分かりました」
ギルドを出る前に、昼食用として焼き薄パンに塩豚肉と刻み葉を挟んだもの、それから小さな酢漬け豆袋を買った。合わせて百二十ゴールドで、水は宿から持ってきている。
西商業区は、飲食店よりも卸商や倉庫が多い。
昨日の南牧区とは違い、道沿いには荷車が何台も止まり、店先へ積まれた木箱や樽の間を作業員が行き来していた。酒を扱う区画へ近づくにつれ、木と麦、それから少し酸味のある発酵臭が混ざって鼻へ届く。
《樽葉商会》の倉庫は、大きな木製の葉を描いた看板が目印だった。
入口をくぐると、壁際へ大小さまざまな樽が積まれている。床には太い溝があり、樽を転がして運びやすいように少し傾斜がつけられていた。
「ギルドの人か?」
奥から声がした。
現れたのは、灰色が混じった赤茶色の髪を短く刈った五十代前半くらいの男性で、名前はロメルという。鼻が大きく腹回りは少し出ているものの、腕は太く、袖をまくった前腕には細かな傷がいくつもあった。
「ミサキです」
「樽運んだことは?」
「空樽なら少し」
「中身入りは?」
「ないです」
「なら勝手に転がすなよ。酒入ってると重心違う」
「重心?」
「液体動くからな」
「なるほど」
「あと、この床少し下ってる。手離すと店の外まで行くぞ」
「受付で嫌な言い方された理由分かりました」
「一回やったやついるから」
「外まで?」
「向かいの布屋まで」
「それは怒られる」
「怒られた」
ロメルは笑いながら私を倉庫の中央へ案内し、今日の作業について説明した。一昨日の雨の影響で出荷が少し滞り、倉庫には予定より多くの樽が残っているらしく、今日はそれらを納品先ごとに並べ直し、空樽を回収用区画へ分けるのが主な仕事だった。
樽には三種類の札がついており、麦酒は黄色、果実酒は赤、薬草酒や香草酒などは緑に分けられている。さらに納品先の店名が小さな木札で括りつけてあり、酒の種類だけでなく送り先まで確認しなければならない。
「色だけで分ければいい?」
「酒種はな。でも同じ麦酒でも店ごとに違うから、最後は札見る」
「結局札」
「何だ?」
「最近ずっと札見てるんです」
「倉庫仕事なんてそんなもんだ」
「夢がない」
「酒飲む側は夢見てろ。運ぶ側は札見ろ」
「すごく正しい」
最初は空樽の確認から始まり、軽いものなら一人でも転がせた。ただし完全に空なのか、底に少し残っているのかを音で確認する必要があるらしい。
ロメルが一つの樽を軽く揺らしてみせる。
「聞いてみろ」
中から、ちゃぷ、と小さな音がした。
「残ってる」
「そう。これは洗浄前。完全な空樽とは分ける」
「残った酒どうするんです?」
「同じ種類で問題なければまとめる。混ぜられないやつは酢用か廃棄」
「捨てることもあるんだ」
「何でも飲めるわけじゃない」
「ちょっと安心した」
「何に?」
「この街の人、余ったら全部料理にする気がしてたので」
「酒まで全部料理にしたら酔っ払いしか来なくなる」
「それはそれで店によっては人気出そう」
「仕事しろ」
「はい」
空樽を転がして指定の場所へ並べる作業は、中身入りの樽と違って軽いぶん動かしやすいが、勢いをつけすぎると傾斜で予想以上に進んでしまう。一度、私が押した空樽が思ったより転がり、慌てて前へ回り込んだ。
「止めるな、横から押さえろ!」
ロメルの声が飛ぶ。
言われた通り横から手を当てると、樽は大きく揺れながら止まった。
「危な」
「正面立つと足轢くぞ」
「樽なのに怖い」
「中身入りならもっと怖い」
「気をつけます」
前の世界では樽なんて居酒屋の飾りくらいでしか見たことがなかったので、転がすだけでここまで気を遣うとは思わなかった。
次は中身入りの樽を二人一組で動かす。
一緒に作業することになったのは、二十代後半くらいの男性だった。名前はケルン。短い金茶色の髪に、左耳へ小さな銀色の輪をつけている。体格はそれほど大きくないが、樽を扱う手つきはかなり慣れていた。
「初めて?」
「中身入りは」
「じゃあ押しすぎないで。樽って思ってるより止まらないから」
「さっき空樽でやりました」
「早速?」
「早速」
「じゃあもう学んだな」
ケルンと向かい合い、樽の両側を押さえる。
「こっちへ倒して」
「こう?」
「そう。で、少しずつ転がす」
樽を斜めへ倒すと、中で液体が動く感触が手に伝わった。確かに重心が一定ではなく、少し転がすたび中身が遅れて動くので、樽そのものがこちらの思った通りに進まない。
「変な感じ」
「慣れると分かる」
「中身によって違う?」
「粘りある果実酒は少し動き鈍い。麦酒は速い」
「そんな違うんだ」
「あと満杯か八分目かでも変わる」
「飲むだけだと知らないことばっかりですね」
「飲むときそんなこと考えるやついないだろ」
「最近考えちゃうんですよね」
「変な飲み方してるな」
午前の前半は、麦酒樽を三列、果実酒樽を二列、香草酒樽を一列に並べ直し、そのあと納品先札を確認しながら夕方出荷分を手前へ移した。
《灰鐘亭》
《南橋食堂》
《木靴屋》
《落葉房》
知らない店名も多い。
「酒場って本当に多いなぁ」
私が呟くと、ケルンが樽へ札を括りながら笑った。
「この街で全部回る気?」
「新しい店行くの好きなので」
「無理じゃない?」
「やっぱり?」
「酒出す店だけでも百はあると思う」
「百?」
「食堂とか宿まで入れたらもっと」
「そんなに」
「市場の裏とか住宅区の小さい店もあるし」
「まだ全然知らないんだなぁ」
リーベルへ来てから毎晩のように違う店へ入っているつもりなのに、それでも街のほんの一部しか知らないらしい。
「常連になる店とかないの?」
ケルンに聞かれた。
「今のところないです」
「毎回違う店?」
「はい」
「疲れない?」
「それが楽しいので」
「俺は無理だな。いつもの席、いつもの酒、いつもの店主でいい」
「常連派」
「店入って何も言わなくても麦酒出てくるの最高だぞ」
「それはちょっと憧れるかも」
「だろ?」
扉を開けたら店主が「いつもの?」と聞いてくるような店は確かに便利だし、落ち着くのかもしれない。前の世界でも会社帰りに同じ居酒屋へ通う人はいたし、私はその日の気分で店を変える方が好きだったので顔を覚えられるほど通う店は少なかったが、「いつもの」がある安心感は理解できる。
「でも新しい店も行きたいんですよね」
「じゃあ常連向いてない」
「ですよね」
「たまに戻ればいいじゃん」
「いや、今は新しいところだけにしてます」
「変な決め方」
「自分でもそう思います」
午前の後半になると、納品予定の樽を入口近くへ移動する作業が始まった。
大きな果実酒樽を二人で転がしている途中、入口から一人の男性が入ってきた。五十代後半くらいで、頬が赤く、まだ昼前なのに少し足取りが怪しい。
「ロメルー!」
「まだ昼前だぞ!」
ロメルが倉庫の奥から叫び返す。
「樽返しに来た!」
「自分で持ってくんな!」
「近かったから!」
「店に置いとけって言っただろ!」
男性は小さな空樽を一つ抱えていたが、抱えている本人の方が樽に支えられているように見える。
「酔ってません?」
私は小声でケルンに聞いた。
「いつもあんな感じ」
「朝から?」
「朝というか、あの人は夜が続いてる」
「どういう生活」
男性は《樽葉商会》の入口へ空樽を置くと、満足そうに胸を張った。
「返したぞ!」
「だから回収日に店へ行くって言っただろ!」
「俺が持ってきた方が早い!」
「転んだら遅いんだよ!」
「転んでない!」
「昨日転んだろ!」
「昨日は昨日!」
ロメルが頭を抱えている。
「誰です?」
「近くの《夕靴工房》の親方、バノ」
「酒場の人じゃない?」
「靴職人。仕事終わると毎日どっかで飲んでる」
「今は?」
「昨日の続きじゃない?」
本人の前で普通に言う。
バノと呼ばれた男性はこちらを見ると、目を細めた。
「見ない顔だな」
「ギルドの手伝いです」
「飲むか?」
「仕事中です」
「終わってから!」
「まだ店も決めてないので」
「店なんか決めなくていい! 歩いてれば酒はある!」
「強い」
「この街の真理だ!」
「真理にするな!」
ロメルが怒鳴り、倉庫の中に笑いが起きた。
バノは空樽を返したことで満足したらしく、そのまま帰ろうとする。
「まっすぐ歩けよ!」
「歩いてる!」
「斜めだ!」
「道が斜めなんだ!」
「平らだ!」
入口の外へ消えていく背中を見送り、私はケルンを見る。
「すごい人ですね」
「夕方もっとすごいよ」
「何で知ってるんです?」
「同じ店になることあるから」
「有名なんだ」
「この辺じゃね」
常連という言葉について考えていた直後に、随分と強烈な人が出てきた。
昼休憩になり、倉庫の裏にある木箱へ座った。
朝買った焼き薄パンを開くと、塩豚肉と刻み葉が挟まれており、日陰にはまだ少し湿り気が残っているものの、空気そのものは穏やかで暖かく、外で食べるにはちょうどよかった。
隣にケルンも座った。
彼の昼食は、薄い黒パン二枚と燻し肉、それから小さな白酪だった。
「さっきの人、本当に毎日飲んでるんですか?」
「たぶん」
「身体大丈夫なのかな」
「知らない。でも仕事はちゃんとするらしい」
「それが一番不思議」
「朝は靴工房で一番早いって聞いた」
「じゃあ寝てる?」
「どこかで」
「適当だなぁ」
酢漬け豆を少し食べると、強めの酸味が塩豚肉の脂を切ってくれる。
「常連って、どんな感じなんです?」
「何が?」
「毎日同じ店行く人」
「店によるだろ。でもバノみたいなのは、店主より他の客の方が詳しい」
「どういう意味?」
「何杯目か、今日どこで仕事したか、機嫌いいか悪いか、勝手にみんな知ってる」
「家族みたい」
「家族より雑だよ」
「雑なんだ」
「でも一人で飲んでても完全に一人じゃない感じはある」
その言葉は少し分かる気がした。
私は一人飲みが好きで、誰かと予定を合わせなくていいし、食べたいものを好きな順番で頼めるところも気に入っている。帰りたいときに帰れるし、二杯目を飲むかどうかも自分で決められる。
ただ、一人で飲みたいからといって、誰とも話したくないわけではない。
店主と少し話したり、隣の客の愚痴を聞いたり、その場にいる人と一言二言交わすくらいはむしろ好きだった。
「常連じゃなくても、そのくらいがいいかも」
「何が?」
「一人だけど、完全に一人じゃない感じ」
「酒場ってだいたいそうじゃない?」
「確かに」
言われてみれば、答えは案外簡単だった。
午後の作業は空樽の数を帳面と合わせることから始まり、麦酒用が十四、果実酒用が九、香草酒用が五、洗浄前が六、返却待ちが三で、私が数字を読み上げ、ケルンが帳面へ印をつけていく。
「麦十四」
「十四」
「果実九」
「九」
「香草五」
「五」
「洗浄六」
「六」
「返却三」
「三」
「合った?」
「合った」
「今日は数え直さなくて済んだ」
「普段やらかす?」
「話しかけられると忘れることがあって」
「じゃあ今後ろから名前呼んだら最初から?」
「やめてください」
「冗談」
「最近みんな同じことするなぁ」
作業はその後も順調に進み、夕方出荷分の樽を入口へ移したところで予定分が終わった。
ロメルが帳面を確認し、最後に並んだ樽を一列ずつ見て回る。
「問題なし」
「今日は転がって逃げた樽もなし」
「空樽一個危なかっただろ」
「止めました」
「横からな」
「学びました」
「ならよし」
完了印をもらったあと、昼前に現れたバノのことが気になり、何となくロメルへ尋ねてみた。
「バノさんって、どこで飲むんです?」
「気になるのか?」
「常連ってどんな感じなのかなって」
「今夜なら《鳴り椅子》にいるんじゃないか」
「店名?」
「そう。西職人通りの端」
「新しい店です?」
「お前にとっては知らん。初めてなら新しいだろ」
「そうでした」
「ただし、うるさいぞ」
「バノさんが?」
「バノだけじゃない」
「なるほど」
バノだけではないと言われると、常連の多い酒場が実際にはどんな場所なのか少し興味が出た。
ギルドへ戻り、報酬千四百ゴールドを受け取る。
昼食百二十、宿代三百を引けば、今日の報酬から自由に使えるのは九百八十ゴールドだった。昨日は夜に七百二十使ったので、今日は少し抑えることにして、夜予算は六百五十ゴールドに決めた。
酒は二杯まで、料理は二品か三品。
常連の多い店なら、気取った料理より手頃なものが中心かもしれない。
一度《銀鈴の宿》へ戻り、手と顔を洗って少し休んだ。
今日は樽を転がしただけなのに、腕より腰が少し疲れている。持ち上げる荷運びとは違い、押したり止めたりする動きが多かったせいかもしれない。
夕方になると、空はきれいな青からゆっくり橙色へ変わった。
私は西職人通りへ向かった。
この辺りは昼間の《樽葉商会》からそれほど遠くないが、倉庫区より道が細く、靴、木工、金物、革加工などの工房が多い。仕事を終えた職人らしい人たちが店先で手を洗ったり、前掛けを外したりしている。
《鳴り椅子》は、通りの端にあった。
木製の看板には、脚の短い椅子と、その周りに三本の線が描かれている。
「何で鳴るんだろう」
入口横の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《焦麦酒 百十ゴールド》
《薄果実酒 百二十ゴールド》
《塩豆 五十ゴールド》
《焼き角鶏皮 八十ゴールド》
《赤根と豆の煮付け 九十ゴールド》
《燻し豚端肉 百二十ゴールド》
《香草卵焼き 百ゴールド》
《本日の皿 百三十ゴールド》
全体的にかなり安く、職人が仕事帰りに使う店らしい価格に見えた。
「今日はここにしよう」
扉を開けた瞬間、店名の理由が分かった。
床板が少し歪んでいるのか、入口近くの椅子へ誰かが座るたび、ぎい、と大きな音が鳴る。
「いらっしゃい!」
カウンターの奥から声が飛んでくる。
店主は四十代後半くらいの男性だった。
名前はドグ。太い黒眉に短い黒髪、顎には無精髭があり、茶色い前掛けの腹あたりに何本も白い粉跡がついている。
「一人?」
「はい」
「好きなとこ座って」
カウンターは九席で、奥には四人掛けの卓が三つあるが、すでに半分ほど埋まっていた。
私はカウンターの端へ座ると、椅子がぎい、と分かりやすく鳴った。
「これか」
「初めて?」
「はい」
「座るたび鳴るから《鳴り椅子》」
「そのままなんですね」
「変える金もないし、名前にしたら誰も文句言わなくなった」
「強い解決方法」
「直してもまた鳴るしな」
店内はかなり賑やかで、金物職人らしい男たち、布仕事をしていそうな女性二人、泥のついた靴を履いた配送員らしい若者たちが、それぞれ酒を飲んでいる。
そして一番奥の卓から、聞き覚えのある大きな声がした。
「だから今日は樽返したんだって!」
「昼に持ってくなって言われたんだろ!」
「返した方が早い!」
「お前が遅い!」
声の主は、昼前に倉庫へ現れたバノだった。
「あ、本当にいる」
私が呟くと、店主のドグがそちらを見る。
「知ってるの?」
「今日、倉庫で会いました」
「それなら今日は運が悪いな」
「何でです?」
「もう三杯目」
「まだ早くない?」
「今日は遅い方」
「えっ」
思わずバノを見る。
本人は私に気づいたらしく、片手を大きく上げた。
「樽の姉ちゃん!」
「その呼び方やめてください!」
「飲みに来たか!」
「そうです!」
「正解!」
「何がです?」
「仕事の後は飲む!」
「それはちょっと分かります!」
「だろ!」
会話が遠いのに成立してしまった。
「うるさいでしょ」
ドグが言う。
「でも嫌いじゃないかも」
「じゃあすぐ慣れる」
「常連さん多いんです?」
「半分くらい」
「何で分かるんです?」
「注文聞かなくていいから」
「本当に『いつもの』あるんだ」
「そこの三人は軽麦と塩豆。奥の二人は焦麦と豚端。バノは――」
「何です?」
「止めないと何でも飲む」
「注文じゃない」
「だから最初に軽麦出す」
何も言わなくても注文が決まる関係というのは、見ているだけでも少し面白かった。
「私は何にしよう」
「初めてなら聞くよ」
「ですよね」
「何飲む?」
「軽麦酒。それと焼き角鶏皮ください」
「百七十ね」
夜予算六百五十から、まだ四百八十残る。
軽麦酒はすぐに出てきた。色はかなり薄く、泡も軽く、一口飲むと苦味は弱めで、少しだけ麦の甘さが残る。
「飲みやすい」
「職人が仕事終わりに早く飲む用」
「早く飲む用ってあるんです?」
「濃いの出すと一杯目からゆっくりになるだろ」
「それが悪いみたいに言う」
「回転悪い」
「店側の理由だった」
焼き角鶏皮もすぐに来た。
小さく切った皮を鉄板で焼き、塩と少量の香草を振っただけの料理だった。端はぱりっとしているが、中央にはまだ脂が残っていて、噛むとじわっと旨味が出る。
「これ、安いのにおいしい」
「皮だからな」
「身より安い?」
「安い。余る店もある」
「端とか皮とか、この街よく使いますね」
「捨てる方がもったいないだろ」
また同じ答えだったが、今日はその理由を深く考えるより、単純に酒と一緒に食べたい気分だった。
軽麦酒を飲み、角鶏皮を一切れ食べると、ぱりっとした塩気のあとに麦の軽い苦味が入り、仕事終わりの一杯としてはかなり分かりやすい組み合わせだった。
「今日はこういうのでいいなぁ」
「何か疲れてる?」
「最近ちょっと料理のこと考えすぎてたので」
「食ってうまけりゃいい日もあるだろ」
「それです」
ドグの言葉が妙にありがたかった。
店の奥では、バノが別の客と話している。
「今日の靴、十三足直した!」
「昨日十って言ってなかった?」
「増えた!」
「断れよ!」
「困ってるって言われたらやるだろ!」
「その結果こっち来るの遅れただろ!」
「仕事終わらせたんだからいい!」
「それはそう!」
常連同士らしい会話には説明がほとんどなく、誰が何の仕事をしているのか、昨日何を話したのかを互いに分かっているらしい。
私は少しだけ、その空気を眺めた。
知らない店なのに、店の中には昨日の話や先週の失敗、誰かの仕事、店主への借り、いつもの酒といった、私の知らない続きのある会話がいくつも存在している。今日初めて入った私にとっては断片にしか聞こえないのに、この店の人たちにとっては昨日から自然につながっている日常なのだろう。
「常連ってこういう感じなんだ」
小さく呟くと、隣の席の男性が聞いた。
「初めて?」
「はい」
声をかけてきたのは、四十代前半くらいの男性だった。
短い灰色の髪に、右手の指へ細かな火傷跡がある。金属加工の職人らしく、爪の隙間に黒い煤が残っていた。
「俺も最初は端だった」
「今は?」
「七年」
「長い」
「気づいたらこうなる」
「毎日来るんです?」
「週四くらい」
「十分多いです」
「家で飲むと嫁に邪魔って言われる」
「理由が現実的」
「ここならドグが片づける」
「自分で片づけて」
ドグがすぐ返す。
「金払ってる」
「酒代しかもらってない」
「じゃあ皿代?」
「払え」
「嫌だ」
周りから笑いが起きる。
「名前は?」
男性が聞く。
「ミサキです」
「俺はゼフ」
「金物?」
「鍋とか留め具とか。今日は鍋の取っ手二十本」
「二十」
「一本は楽なんだけどな」
「数増えると大変なやつ」
「分かる?」
「最近そればっかりです」
「じゃあ飲め」
「飲んでます」
「足りない」
「まだ一杯目です」
「バノ基準にしない方がいいぞ」
本人が奥から聞いていたらしい。
「聞こえてるぞ!」
「聞かせてる!」
また笑いが起きた。
店全体が一つの会話になったり、すぐ別々へ戻ったりする様子を見ていると、これが常連の多い店なのかもしれないと思えてきた。
私は焼き角鶏皮を食べ終え、軽麦酒を半分ほど飲んだ。ここまで百七十ゴールドなので、夜予算六百五十から四百八十残っており、腹にもまだかなり余裕がある。
「赤根と豆の煮付けください」
「九十ね」
合計二百六十。
出てきたのは、赤い根菜と白豆を濃い色の汁で煮た小皿だった。見た目はかなり地味だが、香りには少し甘さがある。
一口食べると、赤根は柔らかく、白豆は少し固めに残っている。味つけは甘辛く、後味にわずかな香草の苦味があった。
「これ酒進む」
「そのための味」
「分かりやすい」
「常連はそれでいい」
「初めての人も?」
「初めての人は聞いてくれるから説明する」
「常連は?」
「勝手に食う」
「雑だなぁ」
ゼフが横から口を挟む。
「その煮付け、焦麦の方が合うぞ」
「今軽麦なんですけど」
「二杯目で頼めばいい」
「自然に二杯目勧める」
「店の回し者だから」
「嘘つけ」
ドグが笑う。
「でも焦麦は合うよ」
「じゃあ次にしようかな」
軽麦を飲み終えるころ、店内はさらに人が増えていた。
入口の椅子が誰か座るたびにぎいぎい鳴り、そのたびに常連らしい誰かが「また一人増えた」と適当なことを言う。
バノはいつの間にか四杯目に入っている。
「常連さんって、店より先に酔ってません?」
思わず呟くと、ドグが吹き出した。
「バノだけな」
「俺は酔ってない!」
聞こえていた。
「四杯目ですよね!」
「数えてる時点で酔ってない!」
「理屈が変!」
「飲めば分かる!」
「分かりたくない!」
隣のゼフまで笑っている。
「二杯目いく?」
ゼフが焦麦酒を持ち上げる。
私は品書きを見ながら計算すると、焦麦酒は百十ゴールドなので、頼めば合計三百七十になり、予算から二百八十残る。
「ください」
「はいよ」
二杯目は焦麦酒にした。
色は濃い茶色で、泡も少しだけ細かい。口へ含むと、軽麦より香ばしさが強く、苦味もはっきりしている。
赤根と豆の煮付けを一口食べてから飲むと、甘辛い味のあとを焦げた麦の香りが締めてくれた。
「本当に合う」
「だろ」
ゼフが得意そうに言う。
「常連の知識?」
「ただ飲んでるだけ」
「それが知識になるんですね」
「七年あればな」
七年という時間を聞いて、私は少し考えた。
この世界へ来てから、まだそんな長い時間を過ごしていない。今は毎晩違う店へ入り、新しい料理を食べることが楽しいけれど、七年後も同じように毎日新しい店を探しているのか、それともどこかに「いつもの」ができているのかは分からない。
「何考えてる?」
ゼフに聞かれた。
「常連になるのも悪くないのかなって」
「じゃあここ来れば?」
「同じ店にはあまり戻らないようにしてるので」
「何で?」
「新しい店を探したいから」
「じゃあまだ常連になる時期じゃないんだろ」
「時期?」
「そのうち探すの疲れたら、勝手に同じ店入るようになる」
「そんなもの?」
「俺も昔はあちこち行ってた」
「それが七年?」
「ドグの料理が特別うまいわけでもないし」
「帰れ」
ドグがすぐ言う。
「でも落ち着く」
ゼフは笑った。
「それが一番でしょ」
ゼフのその言葉は妙に耳に残り、特別な酒や料理、珍しい食材だけが酒場へ行く理由ではないのだと、私は改めて考えた。座る場所があって、知っている人がいて、何を頼むか迷わず、仕事の愚痴を言えば誰かが適当に聞いてくれること自体が、一つの贅沢なのかもしれない。
今の私にはまだ新しい店へ入る方が楽しいけれど、常連たちを見ていると、それも少し分かる気がした。
焦麦酒を半分ほど飲んだところで、ドグが小さな皿をカウンターへ置いた。
「これ食う?」
「何です?」
「《焦がし麦殻豆》」
「品書きにない」
「今日の試し。六十」
小さな豆に、細かく砕いた焦がし麦の殻が絡めてある。
「どんな味?」
「苦い。塩辛い」
「説明が雑」
「酒には合う」
「説得力だけある」
現在三百七十ゴールドなので、これを頼んでも四百三十で、夜予算六百五十から二百二十残る。
「ください」
「はいよ」
予定外の一品は、《焦がし麦殻豆》になった。
一粒つまんで食べると、最初に塩味が来て、そのあと焦がした麦殻の苦味が広がった。豆そのものは少し甘く、苦さと塩気の間から遅れて味が出てくる。
「本当に苦い」
「言っただろ」
「でも酒に合う」
「言っただろ」
「悔しい」
焦麦酒を飲むと、豆の苦味と酒の香ばしさが重なり、確かに相性がいい。前の世界なら焦がした麦のふりかけを豆へ絡めたような感じかもしれないが、完全に同じものは思いつかなかった。
ゼフも皿から一粒取ろうとする。
「それ私のです」
「一粒くらい」
「六十払って」
「高い」
「じゃあ駄目」
「常連に厳しいな」
「私は常連じゃないので」
「理屈になってない」
そんなやり取りをしていると、奥のバノが立ち上がった。
「帰る!」
店全体が一瞬だけ静かになる。
「まだ早いぞ!」
誰かが言う。
「明日仕事!」
「毎日だろ!」
「だから帰る!」
バノは店主へ硬貨を置き、ふらつきながら入口へ向かう。
椅子が、ぎい、と鳴った。
「バノ!」
ドグが呼ぶ。
「何だ!」
「忘れ物!」
「何!」
「靴!」
「履いてる!」
「じゃあ帽子!」
バノは頭へ手をやる。
「ない!」
「最初から持ってきてない!」
「何だよ!」
「ちゃんと歩けよ!」
「歩いてる!」
扉を出た瞬間、外から「うおっ」と声がした。
店内がまた静かになる。
「転んだ?」
私が聞く。
ドグは少し待ってから外を見る。
「道端のくぼみに足入れただけ」
「大丈夫?」
「立ってる」
「よかった」
「明日また来る」
「何で分かるんです?」
「十年以上来てるから」
「十年」
十年以上と聞けば、バノがそこまで店の日常へ完全に組み込まれているのも納得だった。
「本当に店より先に酔ってたなぁ」
私が言うと、ゼフが笑う。
「店は酔わないだろ」
「雰囲気です」
「でもバノ来ると始まった感じする」
ドグが皿を拭きながら言った。
「来ない日は?」
「病気かと思う」
「それもすごい」
「去年一回来なくてな」
「どうしたんです?」
「靴工房で寝てた」
「元気だった」
「元気だった」
常連というのは、そこまで店の日常に組み込まれるものらしい。
私は焦がし麦殻豆を食べ終え、焦麦酒も残り少なくなった。現在四百三十ゴールドで夜予算六百五十から二百二十残っているが、腹はかなり満足しているので、もう一品だけならちょうどよさそうだった。
品書きの《香草卵焼き》百ゴールドが少し気になる。
「卵焼きって大きいです?」
「小さい。卵二個分くらい」
「それならください」
「百ね」
合計五百三十で、予算からは百二十残る。
香草卵焼きは、丸く焼いたものを四等分して出された。表面はしっかり焼けているが、中は少し柔らかく、刻んだ青い香草がたくさん入っている。
一切れ食べると、塩味は薄めで、卵そのものの甘さがある。
「優しい味」
「他が濃いからな」
「順番最後で正解かも」
「常連は最初に頼むやつもいるぞ」
「何で?」
「腹減ってるから」
「理由が単純」
焦麦酒の最後を飲むと、濃い酒のあとに卵の柔らかい味が残り、ちょうどいい締めになった。
夜予算はあと百二十あり、軽麦酒ならもう一杯飲めるが、今日は十分だった。
「今日はここで終わります」
「三杯目いかない?」
ゼフが聞く。
「明日の私が怒るので」
「バノ見たあとなら正しい」
「ですよね」
ドグも頷いた。
「会計五百三十」
「予算内」
「いくら?」
「六百五十」
「百二十残し」
「ちょうど軽麦一杯分」
「飲む?」
「その誘い方ずるい」
「飲まない?」
「飲みません」
「えらい」
「今日初めてちゃんと褒められた」
硬貨を渡す。
今日の報酬千四百ゴールドから昼食百二十、宿代三百、夜五百三十を引けば、四百五十ゴールド残る。昨日より報酬は百少なかったのに、残りは百多く、特別高い料理も珍しい酒も頼まなかったわりに満足感はかなり高かった。
「ごちそうさまでした」
「また来いよ」
ドグが言う。
私は少しだけ迷ってから笑った。
「新しい店、まだ行きたいところいっぱいあるので」
「じゃあ全部回ってから来い」
「いつになるんだろう」
「そのころ俺の椅子直ってるかもな」
「店名変わっちゃう」
「じゃあ直さない」
「商売上手なのか雑なのか分からない」
ゼフにも軽く手を上げて挨拶し、店を出た。
扉が閉まる直前、誰かが椅子へ座って、ぎい、と鳴る音が聞こえた。
夜の西職人通りは昼より少し静かで、工房の扉はほとんど閉まり、その代わり酒場や食堂から人の声が漏れている。二日前の雨が溜まっていた道端のくぼみもほとんど乾き、今夜は足元を気にせず歩けそうだった。
歩きながら、今日の《鳴り椅子》を思い返した。
料理は派手ではなく、軽麦酒も焼き角鶏皮も赤根と豆の煮付けも焦麦酒も香草卵焼きも、どれも「ここでしか食べられない特別な一皿」というものではなかったが、あの店には料理そのものとは別のものがあった。
誰が何を飲むかを店主が知っていて、常連同士が昨日の仕事の続きを話し、バノが来れば皆が呆れながらも帰り道を少し気にする。私が初めて座った席にも、七年通っているゼフが当たり前のように話しかけてきた。
「常連さんって、店より先に酔ってません?」
改めて口にすると、少し笑ってしまった。
実際には、酔っていたのはほとんどバノだけだったが、あの店に入った瞬間から漂っていた妙な親しさは、酒より先に人を緩ませるものだったのかもしれない。
私は一人飲みが好きで、その気持ちは今日も変わらないし、これからも好きな店を一人で探して、好きな料理を自分で選びたい。ただ、一人飲みと孤独は同じではなく、名前も知らない隣の客と仕事の愚痴を一つ交わしたり、店主に予算の残りを見抜かれたり、常連の騒ぎを眺めながら笑ったりする程度の距離なら、むしろ心地いい。
前の世界でも、知らない人同士がテレビを見ながら一言だけ同意したり、店員に「今日は早いですね」と言われたりする店があったので、《鳴り椅子》の空気を眺めているうちに、あの頃の店の雰囲気を少しだけ思い出していた。
今日は千四百ゴールドを稼ぎ、昼に百二十、宿に三百、夜に五百三十使って、四百五十ゴールド残った。財布にも余裕があり、腹も苦しくなく、酒も二杯で止められた。
常連になるつもりはまだなく、リーベルには知らない店が百軒以上あるらしいので、今はそちらを見て回りたい。それでも、いつか新しい店を探すより「今日はあそこにしよう」と迷わず歩き出す日が来るのなら、それも悪くない気がする。
そのときの私は、店へ入る前から少しくらい酔っているような顔をしているのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は仕事終わりの声が残る西職人通りを抜け、まだ知らない酒場の灯りを横目に夜道を歩いていった。




