第27話「雨の日くらい、温かいもの食べたいよね」
朝、《銀鈴の宿》の窓を開ける前から、今日は外が濡れていると分かった。
屋根を叩く細かな音が夜明けからずっと続いていて、食堂へ下りても入口の脇には濡れた外套が何枚も掛けられている。昨日は《三葉問屋》で乾物や香辛料を小分けし、夜は《豆皿亭》で小皿を少しずつ追加しながら食べたおかげで、腹も財布も比較的余裕のある一日だったが、今日は朝からそんな軽い気分にはなれなかった。
窓の向こうでは、石畳の隙間に水が溜まり、通りを歩く人たちはみんな肩をすぼめている。
「今日は外出たくないなぁ」
黒パンを豆のスープへ浸しながら呟くと、近くで皿を片づけていた宿の女将が笑った。
「雨の日ほど仕事はあるよ」
「それ、聞きたくなかったです」
「荷物は濡らせないし、道は滑るし、屋根は漏るしね」
「増えてるじゃないですか」
「だから人手も要る」
言っていることは正しいけれど、雨の日くらい布団の中で過ごしていても世界は回ってほしい。
昨日は千百ゴールドを稼ぎ、昼食百十、宿代三百、《豆皿亭》で四百七十使ったので、その日の報酬から残ったのは二百二十ゴールドだった。今日一日くらい仕事を休んでも、今までの残りを合わせればすぐ困るわけではないが、何もしない日に宿代三百だけ減っていくのは、私の性格には少し落ち着かない。
それに、雨の日は雨の日で、温かい煮込みや汁物のような、湯気の立つものを食べながら飲みたくなる。
そこまで考えたところで、結局私はいつものように朝食を食べ終えた。
「働くかぁ」
雨が止む気配はないので、外套の襟をしっかり閉じ、できるだけ水溜まりを避けながら冒険者ギルドへ向かった。
いつもなら入口付近まで人が溢れている時間なのに、今日は少し少ない。雨の中を歩きたくないのは私だけではないらしく、依頼板の前にも空きがあった。
ただし、依頼そのものはかなり残っている。
《東門排水溝・落葉詰まり除去 報酬千二百ゴールド》
《南倉庫・雨漏り箇所荷物移動 報酬千三百ゴールド》
《中央市場・雨除け布固定補助 報酬千百ゴールド》
《西住宅区・薪配達補助 報酬千四百ゴールド》
「雨の日用の仕事ばっかり」
見事なくらい、今日やらなければ意味がないものが並んでいる。排水溝は泥だらけになりそうだし、薪配達は荷物が重い。市場の雨除け布は以前の仕事と少し似ているが、風があると面倒そうだった。
その中では《南倉庫・雨漏り箇所荷物移動》が一番ましに見える。
《南倉庫区・第四保管庫》
《内容:雨漏り発生区画より乾物箱、布包み、空樽を安全区画へ移動》
《報酬千三百ゴールド》
《半日予定》
《注意:濡れた床での転倒に注意。箱を積み直す際は品目札を外側へ向けること》
「昨日から札ばっかり見てるなぁ」
依頼票を剥がして受付へ向かう。
今日の受付は、肩まである黒髪を低い位置でまとめた三十代くらいの女性だった。落ち着いた声で、私が持ってきた依頼票を見ると、すぐに説明を始める。
「第四保管庫ですね。夜中から屋根の一部で雨漏りが始まっています」
「修理じゃなくて荷物移動?」
「屋根職人が昼前に来ます。それまで中身を濡らさないよう、該当区画を空ける仕事です」
「箱は重い?」
「中身によります。乾燥豆と麦粉が一番重く、布包みは軽めです。二人で持つ箱もあります」
「床が滑るって書いてありますけど、かなり?」
「かなりです」
「強調するんだ」
「昨日から雨が続いていますから」
「分かりました。走りません」
「それが一番です」
「最近そればっかりですね」
「安全に終わるのが一番ですから」
正論しか返ってこないが、転んで仕事を増やすよりはその方がいい。
現地責任者はオルダンという男性で、南倉庫区の第四保管庫にいるらしい。
ギルドを出る前に、昼食用として肉豆入りの厚焼きパンと小さな塩林檎を買った。合わせて百二十ゴールドで、今日は濡れた手でも食べやすそうなものを選んだ。
南倉庫区へ着くころには、外套の裾がかなり重くなっていた。
雨そのものは強くないのに、細かい水滴がずっと降り続くので、歩いているうちに少しずつ染みてくる。倉庫区の石畳は荷車の轍に水が溜まり、場所によっては靴の底が半分ほど沈む水溜まりまでできていた。
第四保管庫は、三棟並んだ大きな木造倉庫の一番奥だった。
入口の前には木箱や空樽が何個か仮置きされ、屋根の端から雨水が筋になって落ちている。
「ギルドから来た人?」
倉庫の中から、太い声がした。
名前はオルダン。四十代後半くらいで、短く刈った灰茶色の髪に、厚い革の上着を着ている。右膝には布が巻かれ、歩くと少しだけ足を引きずっていた。
「ミサキです」
「助かった。奥の三列目が漏れてる」
「どのくらい?」
「今のところ床二枚分。放っとくと広がる」
「中身濡れてます?」
「上段の布が少し。箱はまだ大丈夫」
倉庫の奥を見ると、天井の梁から落ちた水が一か所だけではなく数か所からぽたぽたと落ちていた。その下には木箱が三段ほど積まれており、応急処置らしく大きな布が被せられている。
「修理の人は?」
「来るって言ってる」
「何時?」
「昼前」
「本当に?」
「俺もそう思ってる」
この返事だけで、少し不安になった。
最初にすることは、漏れている区画の箱を乾いた場所へ移すことだった。
中身は乾燥豆、麦粉、塩、布地、木製食器などで、箱ごとに重さがかなり違う。軽い箱なら一人で持てるが、乾燥豆が詰まった大箱は持ち上げた瞬間に腰へ来た。
「それ二人で」
オルダンがすぐ言う。
「持てなくはないです」
「持てるかじゃなくて、滑ったとき止まれんだろ」
「ああ」
昨日までなら「一回で運んだ方が早い」と考えていたかもしれないが、今日は素直に箱を下ろした。
「じゃあ誰かと」
「レイグ、手伝って」
「はいよ」
声をかけられて来たのは、二十代後半くらいの男性だった。
名前はレイグ。赤みのある短い髪に、鼻の横へ小さな傷があり、袖を肘までまくっている。倉庫仕事専門ではなく、普段は荷運び依頼を中心に受けている冒険者らしい。
「そっち持って」
「了解」
二人で箱を持ち上げると、重さはかなりあるが、一人で無理をするよりずっと安定した。
「床、右側滑るよ」
「分かりました」
「さっき一人転んだから」
「先に言って」
「今言った」
「最近それよく聞くなぁ」
濡れた床では靴底がわずかにずれるだけでも、箱を抱えているとかなり怖い。無理に急がず、足元を確認しながら一歩ずつ進み、乾いた区画へ着くと品目札が外側を向くように箱を積み直した。
「札、見える向きで」
「昨日も札見る仕事してたんですよ」
「問屋?」
「はい」
「じゃあ慣れてるじゃん」
「慣れたと思って間違えないようにします」
「それ正解」
レイグが笑う。
作業は単純だが、雨の日はいつもより気を遣う。
箱を運び、空いた棚板を拭き、濡れた布を別の場所へ広げる。重い物は二人で持ち、軽い物も濡れた床では身体から離しすぎないようにした。
一時間ほど経つと、最初に雨漏りしていた場所はほぼ空になった。
「これで修理来れば早いな」
オルダンが天井を見る。
「まだ来てないですね」
「来てないな」
「昼前?」
「そう聞いてる」
「今、どのくらい?」
「昼前」
「便利な言葉ですね」
「俺もそう思う」
雨の日の「昼前」は、かなり幅があるらしい。
次は、移動した箱の数と状態を確認することになった。
布地の包みが二つ少し濡れており、開いて乾かす必要がある。豆や麦粉の箱は濡れていないので、そのままで問題ない。
レイグと一緒に布包みを棚から下ろしていると、外から何かが倒れたような大きな音がした。
「何?」
入口を見ると、雨を避けるために立てかけていた空樽が一つ転がっている。
「風だな」
オルダンが言う。
「雨だけじゃないんだ」
「今日は南から吹いてる」
「さっきより強くない?」
「強くなってる」
嫌な予感がした直後、倉庫の奥から別の声が上がった。
「オルダン! こっちも漏れた!」
「どこだ!」
「五列目!」
予定外の二か所目だった。
「……半日予定」
私が呟くと、レイグが横で笑う。
「予定は予定」
「受付でも言われるやつ」
五列目へ行くと、今度は天井から細い筋が一本落ち始めており、真下には空樽と布包みが積まれている。
「まだ少ないうちに動かすぞ」
オルダンの判断で追加の移動作業が始まった。
幸いこちらは軽い荷物が多く、一度に二つ持てるものもある。ただし、濡れた範囲が少しずつ広がっているので、床の滑りやすさは最初より増していた。
「ゆっくりでいい!」
オルダンが倉庫全体へ声を飛ばす。
「箱落としたら仕事増えるからな!」
「それ一番嫌ですね」
「濡れた粉掃除したことあるか?」
「ないです」
「ないままでいろ」
「説得力ある」
荷物を早く逃がしたいのに、床が滑るせいで急げないという、雨の日らしいもどかしさが続いた。
前の世界でも、雨の日の配送や通勤はそうだった。時間に遅れそうだから早く動きたいのに、路面が滑るせいで普段より慎重に歩かなければならず、こういう日は速さより転ばないことの方が大事になる。
二か所目の荷物を移し終えるころ、ようやく入口に二人の男性が現れた。
大きな革袋と木の板を持っている。
「屋根職人!」
オルダンの声が少し明るくなった。
「遅いぞ!」
「道が川みたいになってたんだよ!」
「それでも遅い!」
「屋根直しに来て流されるわけにいかんだろ!」
「それはそう!」
倉庫の中に笑いが起き、職人たちが屋根裏へ上がっていくのを見て、ようやく仕事の終わりが見えてきた。
休憩は少し遅めになった。
倉庫の入口近く、雨が吹き込まない場所に木箱を並べて座り、朝買った肉豆入りの厚焼きパンを出す。冷えて少し固くなっていたものの味そのものは悪くなく、豆と細かい肉が入っていて塩気もしっかりしているのだが、濡れた外套を着たまま雨音を聞いていると、どうしても温かい別のものが欲しくなった。
「温かいもの食べたい」
隣でパンを食べていたレイグがすぐ頷く。
「分かる」
「こういう日に冷たいパンつらいですね」
「俺、朝から夜は煮込みって決めてる」
「やっぱり?」
「雨の日に焼き串は違う」
「串は昨日食べたので、今日は絶対汁物です」
「どこ行くか決めてる?」
「まだ」
「北通りに煮込み屋多いよ」
「行ったことない方探します」
「毎回新しい店行くの?」
「その方が楽しいので」
「よく店尽きないな」
「この街、思ってたより多いです」
リーベルへ来たころは、酒場なんてどこも似たようなものだと思っていた。
でも実際には、立ち飲み、果実酒、白酪、燻し料理、串、小皿と、それぞれかなり違う。雨の日に温かい煮込みを探したら、また新しい店が見つかる気がした。
塩林檎をかじると酸味は強かったが、当然ながら身体は温まらない。
「夜は絶対温かいやつ」
もう決定だった。
休憩後は、修理職人の下で濡れた棚を拭き、移動した荷物の一部を元に戻した。ただし、完全に乾いていない区画はそのまま空けておく。
オルダンが札を一枚ずつ確認しながら指示を出し、私とレイグが箱を戻していく。
「乾燥豆、二列目」
「はい」
「布はまだ戻すな」
「はい」
「空樽は入口側」
「これ三つ?」
「四つ」
「一個どこ?」
「外」
「ああ、風で転がったやつ」
「忘れるなよ」
「存在感あったので大丈夫です」
作業が終わるころには、雨は朝より少し弱くなっていた。
屋根の漏れも止まり、床にはまだ濡れた跡があるものの、これ以上荷物を動かす必要はなさそうだった。
オルダンが依頼票へ完了印を押す。
「助かった。今日はここまで」
「追加なし?」
「屋根もう直ったからな」
「よかった」
「雨続いたら明日また何かあるかもしれんけど」
「それは明日の私に任せます」
「正しい」
ギルドへ戻るころには、外套の裾から水が滴るほどではなくなっていた。
受付へ完了票を出し、報酬千三百ゴールドを受け取る。
昼食百二十と宿代三百を引けば、今日の報酬から自由に使えるのは八百八十ゴールドなので、温かい煮込みと酒、それに何か一品を追加することまで考えて、夜予算は七百ゴールドに決めた。
《銀鈴の宿》へ戻ると、まず濡れた外套と靴を乾かした。
宿の裏には濡れ物を掛ける場所があり、すでに何人分もの外套が並んでいる。部屋へ戻って乾いた服へ着替えると、それだけで身体が少し軽くなった。
昼間ずっと雨音を聞いていたせいか、横になったら眠りそうだったが、夜に食べるつもりの煮込みを思い出して起き上がる。
「煮込み」
今日だけは、これを逃したくない。
夕方になっても雨は完全には止まず、細かな粒が街灯の光の中を落ち続けていた。
傘のようなものを持つ人は少なく、多くはフード付きの外套や頭巾で雨をしのいでいる。私は乾かしかけの外套をもう一度着て、できるだけ軒下を選びながら北寄りの通りへ向かった。
一軒目は焼き魚中心で今日の気分とは違い、二軒目には鍋料理があったものの二人前からと書かれていた。三軒目は店の外まで香辛料の強い匂いが漂っていて、それも悪くはなかったが、今欲しいのはもっと素直に身体を温めてくれるものだった。
さらに少し歩いたところで、狭い路地の奥から白い湯気が見えた。
店先には大きな赤茶色の鍋を描いた看板が吊られている。
《雨鍋》
「名前まで今日向き」
入口の横には品書きがあった。
《軽麦酒 百ゴールド》
《温麦酒 百二十ゴールド》
《根菜と白豆の雨煮 百八十ゴールド》
《角鶏と青菜の塩煮 二百二十ゴールド》
《赤角豚の濃煮 二百六十ゴールド》
《焼き黒パン 六十ゴールド》
《酢葉小皿 七十ゴールド》
《本日の煮込み 百五十ゴールド》
「温麦酒?」
前の世界でも温めた酒はあったが、ビールを温めるという発想にはあまり馴染みがない。ただ、今日は身体が冷えているので気になり、そのまま扉を開けた。
店内へ入ると、まず暖かい空気が顔に当たった。
中央には大きな煮込み鍋が三つ並び、それぞれから湯気が上がっている。壁際にカウンターが八席、奥に四人掛けの卓が二つある小さな店で、客の外套を乾かすためなのか、入口近くには低い炭火台まで置かれていた。
「いらっしゃい。濡れてるね」
声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの女性だった。
名前はヘナ。濃い栗色の髪を太い一本三つ編みにし、深緑の前掛けをつけている。頬が少し赤く、湯気の中で長く働いているせいか、額には細かな汗が浮いていた。
「ずっと倉庫でした」
「なら冷えたでしょ。そこ座って」
「今日、温かいもの食べたくて」
「雨の日はみんなそう言うよ」
カウンターへ座ると、目の前の鍋から豆と香草、それから肉の匂いが混ざって流れてくる。
「温麦酒って、温かい麦酒ですか?」
「そう」
「炭酸なくならない?」
「うちのはもともと泡弱いよ。香草蜜少し入れて温める」
「甘い?」
「少しだけ。苦いの好きなら普通の軽麦にしな」
少し迷ったものの、今日は身体が冷えているので温麦酒を選ぶことにした。
「温麦酒ください」
「料理は?」
「根菜と白豆の雨煮」
「百八十ね」
温麦酒百二十と合わせて三百ゴールドなので、夜予算七百から四百残る。
先に出てきた温麦酒は小さな厚手の陶器杯に入っており、手で持つとじんわり熱が伝わってきた。
「これだけでちょっと嬉しい」
「飲む前から?」
「手が冷えてたので」
顔を近づけると、麦の香りに少し甘い草の匂いが混ざっている。
陶器杯を両手で持ったまま一口飲むと、思わず声が漏れた。
「……不思議」
冷たい麦酒とは全然違う。
泡はほとんどなく、苦味も丸くなっていて、最後にわずかな甘さが残る。前の世界のビールをそのまま温めたら、たぶん違和感の方が強いと思うが、これは最初から温めて飲むことを前提にしているらしく、薄い香草蜜の甘さがよく合っていた。
「雨の日だけ出すんです?」
「冬も出すよ。夏はほとんど頼まれない」
「ですよね」
「暑い日に温かい麦酒飲みたい?」
「私は嫌です」
「私も」
ヘナが笑う。
少しして、根菜と白豆の雨煮が運ばれてきた。
深めの陶器皿に、白い豆と大きめに切った三種類ほどの根菜が入っている。汁は透明ではなく薄い乳白色で、とろみはほとんどない。
湯気と一緒に、土の香りと香草の匂いが上がってくる。
「いただきます」
まず汁を匙ですくい、口へ入れた瞬間、温かさが舌から喉へ落ちていき、そのあとから豆の甘みと塩気が広がった。
「これだ」
「何が?」
「今日ずっと欲しかったやつ」
「雨の日は汁物強いからね」
白い根菜はほくほくしていて、黄色い根は少し甘い。薄い緑色の根菜は柔らかいのに繊維が残り、噛むと独特の青い香りが出た。
「これ何です?」
「《雨根》」
「雨の日に採れる?」
「違う違う。水多い畑でも育つからそう呼ぶの」
「名前で勘違いするやつだ」
「よくある」
白豆はしっかり煮込まれているが、形は残っている。肉は入っていないのに、豆と根菜の味が汁へ溶けているため、物足りなさはなかった。
「この白い汁、乳です?」
「少しだけ《白実乳》入ってる」
「山羊じゃない?」
「木の実」
「木の実から乳?」
「白い実を潰して水で揉むと出る」
「へえ」
前の世界の豆乳やナッツミルクに近いのかもしれないが、味はもっと淡く、油っぽさもほとんどない。豆と根菜をまとめるために少量入れているだけらしい。
「雨煮って名前は?」
「雨の日に出すこと多いから」
「そのままなんだ」
「分かりやすいだろ」
「かなり」
温麦酒を飲むと、甘さのある麦酒と塩気の優しい煮込みが思った以上によく合う。
冷たい酒なら煮込みの温かさを少しずつ冷ましてしまう気がするけれど、今日は飲み物まで温かいので、身体がずっと緩んだままだった。昼間、濡れた倉庫で冷えたパンを食べながら欲しかったものが今そのまま目の前にあると思うと、それだけでかなり満足できる。
隣の卓では、三人組の男性が外套を椅子へ掛けながら飲んでいた。
一人は五十代くらいで、濡れた帽子を膝へ置いている。残り二人は三十代から四十代くらいで、泥のついた長靴を履いていた。
「だから言っただろ、あの道水溜まりじゃなくて池だって」
「荷車なら行けると思ったんだよ」
「車輪半分沈んだじゃねえか」
「押したの俺らだぞ」
「依頼主は『少しぬかるんでます』って言ってた」
「少しの意味聞きたいわ」
思わず笑ってしまった。
五十代の男性がこちらを見る。
「何だ?」
「今日、屋根職人さんが『道が川みたいだった』って言ってたので」
「川ならまだ流れる。あそこは溜まってる」
「そんなに?」
「靴片方持ってかれた」
「それはもう少しじゃないですね」
「だろ?」
世界が違っても、「少し」という言葉の幅は広すぎる。
ギルド依頼の「近くです」、仕事の「あと少し」、雨の日の「少しぬかるんでます」と、言う側と実際にやる側で、なぜか意味が変わる。
「今日は倉庫?」
男性の一人が聞く。
「雨漏りしたところの荷物移動です」
「そっちも大変だな」
「滑るので急げないのが一番困りました」
「分かる。雨の日は急ぐと倍遅くなる」
「それです」
少しだけ仕事の愚痴を共有し、また煮込みへ戻る。
半分ほど食べたところで、身体は完全に温まっていた。
ここまでの会計は三百ゴールドで、夜予算七百からまだ四百残っている。煮込み一皿でもかなり満足しているものの、まだ少し食べられそうだった。
品書きを見る。
《角鶏と青菜の塩煮 二百二十ゴールド》
《赤角豚の濃煮 二百六十ゴールド》
《焼き黒パン 六十ゴールド》
《酢葉小皿 七十ゴールド》
同じ煮込みをもう一皿はさすがに多いが、黒パンなら残った汁につけられる。
「焼き黒パン追加しようかな」
ヘナがこちらを見る。
「煮汁残ってるなら合うよ」
「じゃあ一つ」
「六十ね」
合計三百六十になり、残りは三百四十ゴールド。
焼き黒パンは二枚で、表面だけ炙られており、端が少し硬い。雨煮の汁へ浸すと、白実乳と豆の味を吸い込み、一気に柔らかくなった。
「これ好き」
「最初から頼む人多いよ」
「先に言ってください」
「聞かれなかったから」
「最近みんなそれ言う」
前の世界でも、シチューやスープへパンを浸すのは好きだった。
行儀がいいかどうかは店によって違ったけれど、一人で飲むときくらい気にしない。こちらではむしろ普通らしく、隣の卓でも同じようにパンを汁へ浸している。
最後の根菜を食べ、汁もほとんどパンで拭うようにして食べ終えた。
「満足した」
今日はこれで十分な気もしたが、温麦酒がまだ少しだけ残っているので、何か小さいものを合わせたい気持ちもあった。
そんなことを考えていると、ヘナが鍋の横から小さな陶器皿を持ち上げた。
「これ、今日だけの端物なんだけど食べる?」
「何です?」
「《煮崩れ根》」
「名前そのまま?」
「雨煮仕込むとき崩れた根菜を潰して、塩と香草混ぜたやつ。小皿で八十」
見ると、淡い黄色と白が混ざった柔らかいペースト状のものが、小さな皿へ盛られている。
「パンもうないけど、そのまま食べる?」
「食べる人もいるし、追加で薄パン頼む人もいる」
「量は?」
「ほんの少し」
夜予算はまだ三百四十残っている。
「ください」
「はいよ」
予定外の一品は、煮込みの端材から作った《煮崩れ根》になった。
一口食べると、見た目は地味なのに根菜の甘みが思った以上に強い。
「これ、おいしい」
煮崩れた白根と黄根を潰し、少量の塩と《青香葉》を混ぜているらしく、温かくはないものの、口の中には煮込みと同じやさしい風味が残った。
「これ捨てないんですね」
「食べられるのに捨てる理由ないでしょ」
「前もそういう店あったなぁ」
「どこ?」
「白酪作ったあとの乳清を豆煮にしてた店」
「普通だよ。食えるなら使う」
この世界では、余ったものや端材を別の料理へ回すのが珍しくない。食料を保存するのが今より難しい地域も多いのだから、使えるものを使い切るのは自然なのだろう。
煮崩れ根は量こそ少なかったが、温麦酒の最後にちょうどよかった。
ここまでで四百四十ゴールドなので、予算七百からは二百六十残っている。まだ追加する余裕はあるが、腹は十分に満たされていた。
「今日はここで終わります」
「まだ予算ある顔してるけど」
「何で分かるんです?」
「品書き見ながら指で数えてたから」
「見られてた」
「でも腹いっぱいなら止めときな」
「今日は素直に止めます」
「雨の日は帰り道もあるからね」
「ああ、それ大事」
店の中で温まりすぎると、外へ出た瞬間に寒く感じるかもしれない。それでも食べすぎて動きにくくなるよりは、今くらいの方がいい。
「会計お願いします」
「温麦百二十、雨煮百八十、黒パン六十、煮崩れ根八十で、四百四十」
「だいぶ残った」
「七百予定?」
「はい」
「二百六十残しだね」
「今日は優秀」
「雨だからじゃない?」
「それもあるかも」
硬貨を渡す。
今日の報酬千三百から昼食百二十、宿代三百、夜四百四十を引けば、四百四十ゴールドが残る。
昨日よりかなり多く、雨の日だから出歩きたくなかったはずなのに、結果だけ見れば仕事もして、温かい夕食も食べ、財布にも余裕が残った。
「ごちそうさまでした」
「雨、まだ降ってるよ」
「知りたくなかった」
「外見れば分かる」
「ですよね」
店を出る前に、炭火台の近くで外套を少し温めさせてもらった。
乾ききるわけではないが、着た瞬間の冷たさが少し和らぐ。
扉を開けると細かな雨がまだ降っていたが、朝ほど冷たくは感じず、身体の中には温麦酒と雨煮の熱が残っている。
石畳を歩くたび、街灯の光が水溜まりへ揺れて映った。
「雨の日くらい、温かいもの食べたいよね」
朝からずっと考えていたことを、改めて口にする。
実際その通りだったけれど、今日一日を思い返すと、温かいものが欲しくなったのは単に雨が降っていたからだけではない。
濡れた外套で倉庫へ行き、滑る床で箱を運び、昼には冷えたパンを食べたからこそ、夜の湯気がいつも以上にありがたかった。
晴れた日に同じ雨煮を食べても、たぶん美味しい。
けれど、今日ほど「これが欲しかった」とは思わないかもしれない。
前の世界でも、寒い日のコンビニのおでんや、雨の日のラーメンが妙においしく感じることがあった。料理そのものの味だけではなく、その日どんな一日を過ごしたかまで一緒に食べていたのだと思う。
今日は千三百ゴールドを稼ぎ、昼に百二十、宿に三百、夜に四百四十使って、四百四十ゴールド残った。財布にも余裕があり、腹も苦しくなく、身体はまだ温かい。
朝は外へ出るのすら嫌だったのに、終わってみれば悪くない一日だった。
雨だから仕事が増える人がいて、雨だから客が増える店があり、雨だからこそ食べたくなるものもある。そう考えると、天気が悪い日にも悪い日なりの楽しみ方はあるのかもしれない。
もっとも、靴の中まで濡れるのはやっぱり嫌なので、できれば明日は晴れてほしい。
そんなことを考えながら、私は水溜まりを避けて歩き、湯気の余韻が消えないうちに夜の通りをゆっくり進んでいった。




