第26話「小皿なら、いろいろ食べても大丈夫だよね」
朝、《銀鈴の宿》の食堂で黒パンを食べながら、私は昨日《十串屋》から持ち帰った一本の焼き根串を見ていた。
白、黄、薄紫の根菜が刺さった串は、昨夜のうちに包みから出して宿の厨房で預かってもらっていたので、今朝は少しだけ温め直されている。十串盛りの最後に残した一本であり、店にいたときは見るだけでも十分だと思ったのに、一晩眠って胃が空けば普通においしそうに見えるのだから、人間の食欲というものは随分と都合がいい。
「昨日あんなに苦しかったのになぁ」
串から白い根菜を外して食べると、昨夜より表面は少し柔らかくなっていたものの、ほくほくした甘さは残っていた。
昨日は東市場の区画整理で千二百ゴールドを稼ぎ、昼食に百、宿代に三百、《十串屋》で六百二十使ったので、その日の報酬から残ったのは百八十ゴールドだった。夜予算六百五十には収めたものの、十本くらいなら余裕だろうと考えて十串盛りを頼み、結局九本で止めたのだから、財布より先に胃袋の見積もりを間違えた一日だったと言っていい。
とはいえ、最後の一本を無理して食べなかった判断そのものは悪くなかったと思う。食べ物を楽しみに酒場へ行っているのだから、苦しくなるまで詰め込んでしまえば意味がないし、前の世界でも「せっかく注文したから」と無理に食べて帰り道で後悔したことは何度もあった。
「今日は少しずつ食べよう」
昨夜の反省を込めてそう決めたものの、朝食の時点で夜の注文方法まで考えているあたり、反省の向いている方向が正しいのかは分からない。
焼き根串を食べ終え、黒パンと薄い豆のスープで朝食を済ませると、いつものように冒険者ギルドへ向かった。
昨日は市場で杭を打ち続けたせいか、右腕に少しだけ張りが残っている。動かせないほどではないが、今日は重い荷物や長時間の戦闘を避けた方がよさそうだった。
依頼板の前へ立ち、半日程度で終わりそうなものを探していく。
西街道の護衛が千六百、北側用水路の泥さらいが千三百、南倉庫の樽移動が千四百と並んでいたが、どれも腕をかなり使いそうなので見送った。その少し下に、商業区の食料品問屋から出された依頼票が貼られている。
《中央商業区・乾物問屋仕分け補助》
《内容:香辛料、乾燥豆、乾燥茸、塩漬け品の小分けおよび棚整理》
《報酬千百ゴールド》
《半日予定》
《注意:品目札を必ず確認すること。似た外見の品を混ぜないこと》
「今日はこれかな」
報酬は千百ゴールドと少し低めだが、腕を酷使する仕事ではなさそうだし、「小分け」という言葉が、昨夜の十串盛りを思い出したばかりの私には妙に魅力的に見えた。
依頼票を持って受付へ行く。
今日対応してくれたのは、短い赤茶色の髪を耳へかけた女性受付員だった。以前、西丘果樹園へ行くときにも説明してくれた人で、私の顔を見ると依頼票へ視線を落とした。
「今日は問屋仕事なんですね」
「腕がちょっと張ってるので」
「昨日は市場でしたっけ」
「杭いっぱい打ちました」
「それならちょうどいいかもしれません。ただ、細かい確認が多いですよ」
「重い物は?」
「一番重くても乾燥豆の袋で十斤程度です。基本は小分け作業ですね」
「それなら大丈夫そう」
「責任者はナディルさんです。中央商業区の《三葉問屋》へ行ってください」
「何か気をつけることあります?」
「札を読むことです」
「依頼にも書いてありました」
「見た目の似た乾燥茸や香辛料が結構あります。自信がなければ確認してください」
「勝手に判断しない」
「最近よく覚えてますね」
「何回も言われてるので」
「覚えてくれるなら言う意味があります」
何度も注意されてきた結果とはいえ、少し褒められたような気分になりながら受付印を受け取った。
ギルドを出たあと、昼食用に薄い黒麦パンと豆肉詰め、それから小さな塩果実を買った。合わせて百十ゴールドで、水は宿から持ってきたものがある。
中央商業区は朝から人通りが多かった。
冒険者向けの店が並ぶ通りとは少し違い、ここには乾物、布、香辛料、道具、紙類などを扱う店がまとまっている。表通りでは客向けの小売りをしているが、一本裏へ入ると荷車が出入りする問屋や倉庫が多くなった。
《三葉問屋》は、正面に三枚の葉を重ねた看板を出している二階建ての店だった。
中へ入ると、最初に鼻へ届いたのは香辛料の匂いだった。辛そうな刺激だけではなく、甘い香り、土のような匂い、乾燥した草、塩漬け品の酸味まで混ざっていて、昨日の串焼き屋とはまったく違う意味で食欲を刺激される。
「ギルドの人?」
奥から出てきたのは、五十代前半くらいの細身の男性だった。
名前はナディル。黒髪には白いものが混じり、鼻の下に短い髭がある。濃い緑色の長い前掛けをつけ、胸元には木札と細い炭筆を差していた。
「ミサキです」
「仕分け経験は?」
「倉庫で箱の印分けたり、薪の種類分けたりはあります」
「なら基本は同じだ。ただ、今日は似てるもの多いから、見た目だけで決めるな」
「受付でも言われました」
「それだけ間違えるやつがいる」
「何を間違えるんです?」
ナディルは近くの台から二つの小皿を持ってきた。
どちらにも、細く縮れた茶色い乾燥茸が入っている。
「左が《灰耳茸》、右が《苦枝茸》」
「同じに見える」
「灰耳は煮ると旨味出る。苦枝は薬味で、少量ならいいけど同じ量煮たら苦くて食えない」
「絶対混ぜたくない」
「だろ」
次に並べられたのは、黒い小さな種だった。
「こっちは《香黒種》。肉料理に使う。こっちは《熱黒種》」
「違いは?」
「噛めば分かる」
「嫌な予感するんですけど」
「噛まなくていい。熱黒種は辛い」
「やっぱり」
見た目だけなら本当に似ていて、これを間違えて大量に料理へ入れたら大変なことになりそうだった。
「今日は品物を覚えるより、札を確認して正しく分ければいい」
「それなら何とか」
「分からなくなったら手を止めろ。間違ったまま進めるより早い」
「はい」
最初の作業は、大袋で届いた乾燥豆を小さな袋へ分けることだった。
一袋ずつ決められた重さを量り、紐で口を縛り、種類札をつけて木箱へ並べる。豆は《白丸豆》《赤皮豆》《平黄豆》の三種類で、色が違うので間違えにくい。
「こういうの好きかも」
量り台の針が決められた線へ合うよう、少しずつ豆を足したり戻したりする。一度に大量の荷物を運ぶ仕事と違い、小さな単位で一つずつ終わっていくので、どこまで進んだのかが分かりやすかった。
隣では、同じ問屋で働いている若い女性が袋の口を縛っていた。
名前はユナ。二十代半ばくらいで、短い焦げ茶色の髪を布でまとめ、右手の親指へ革当てを巻いている。
「細かい作業平気?」
「今のところは」
「百袋越えると嫌になるよ」
「何袋あるんです?」
「今日は七十くらい」
「先に数字聞かなきゃよかった」
「でも一袋ずつだから」
「それ昨日聞きたかった言葉だなぁ」
「昨日?」
「串を十本頼んで」
「それくらい食べられるでしょ」
「九本で止まりました」
「惜しい」
「数の問題じゃなかったんです」
ユナが笑う。
「何でも小分けなら楽そうに見えるんだよね」
「この仕事も?」
「一袋は軽いし簡単。でも七十袋ある」
「そうでした」
「あと紐結び百回やると指痛くなる」
「聞きたくなかった」
「だから革当てしてる」
右手の親指を見せられ、どんな仕事でも同じことを続ければ、それなりに負担になるのだと分かった。
白丸豆を分け終えると、次は香辛料の小分けに移った。
こちらは豆より慎重さが必要だった。
《香黒種》は小さな袋へほんの少しずつ、《乾黄皮》は細かく砕いたものを匙で量り、《青香葉》は葉の形を崩さないように軽く詰める。重さだけでなく扱い方まで違うので、同じ「小分け」でも作業は意外と変化があった。
「これ、何に使うんです?」
私は《乾黄皮》の袋を見ながら聞いた。
「肉とか魚。酒に入れる店もあるよ」
ユナが答える。
「昨日食べた串にも似た香りあったかも」
「乾黄皮は割とどこでも使うからね。細かく削ると香り強いし」
「こういうの、料理するときほんの少しなのに結構違うんですよね」
「だから問屋は小分けで売る。普通の家に大袋で売っても使い切れないし」
「確かに」
その言葉に、昨日は十本まとめて頼んで途中で多いと気づいたばかりだったことを思い出す。
「小分け、大事だな」
「急にどうしたの?」
「昨日の反省です」
「串の?」
「串の」
午前の途中には、乾燥茸の棚整理を任された。
ここからは見た目が似ているので、札を必ず確認する。
《灰耳茸》《苦枝茸》《薄傘茸》《香木茸》の四種類を、それぞれ決められた棚へ並べる。棚にも木札がついているが、乾燥すると色が似てしまうものが多く、手を急がせると間違えそうだった。
一度、《灰耳茸》を《苦枝茸》の棚へ入れかけたところで手が止まり、念のため札を見ると、手元には灰色の線が二本、棚側には黒い線が一本入っていた。
「危な」
隣を通ったナディルがこちらを見る。
「止まれたならいい」
「本当に似てますね」
「慣れれば匂いでも分かる」
「私はまだ札見ます」
「それでいい。慣れてないやつが慣れたふりする方が困る」
何だか冒険者の仕事でも同じ話を聞いた気がする。
昇格試験のときも、強さより判断を見ると言われた。分からないものを分かったつもりで進めないことは、戦闘でも乾燥茸でも大事らしい。
棚整理が一段落したところで、ナディルから休憩をもらった。
裏口の横にある木箱へ腰掛け、朝買った薄い黒麦パンと豆肉詰めを出す。
豆肉詰めは小さな焼き皮の中へ潰した豆と刻み肉を詰めたもので、塩気は控えめだが、乾黄皮らしい香りが少しついていた。午前中ずっと香辛料を触っていたせいで、食べた瞬間に「あれと似ている」と気づけるのが面白い。
ユナも近くへ座り、小さな弁当箱を開いた。
中には薄麦餅と、何種類かの小さな漬物が入っている。
「いっぱいある」
「昨日の残りとか、一昨日の残りとか」
「少しずつ?」
「家で作るとそうなる。大皿一つより好きなんだよね」
「小皿派?」
「酒飲むときは特に」
「分かる気がする」
「一種類多く食べたいなら、小さい皿にすればいいじゃん」
私は豆肉詰めを持ったまま止まった。
「それだ」
「何が?」
「今日の夜」
「何の話?」
「昨日、串を頼みすぎたから、今日は量少なめにしようと思ってたんです」
「じゃあ小皿の店行けば?」
「そうする」
「仕事中に夜の店決める人なんだ」
「それが働く理由のかなり大きいところなので」
「冒険者って自由だね」
「たぶん私が特に自由なだけです」
塩果実を一口かじると、強い塩気と酸味で口の中がさっぱりした。
前の世界でも、小皿料理が多い居酒屋は好きだった。ポテトサラダを少し、漬物を少し、焼き物を少しと頼めば、一人でもいろいろな味を試せる。
昨日の十串盛りは、一皿の中で種類こそ多かったが、最初から十本という量が固定されていた。今日は自分で少しずつ選べる店を探してみようと考えながら、残りの昼食を食べた。
午後は塩漬け品の在庫確認だった。
小さな陶器壺に入った《酸葉漬け》《赤根酢漬け》《塩青実》《香辛豆》を棚から出し、札と個数を確認して並べ直す。壺一つは軽いが、数が多い。
「十二、十三、十四……」
昨日の薪束では十三か十四か分からなくなったので、今日は最初から指で一つずつ触りながら数えた。
「十七、十八。十八個」
帳面を確認すると数字も十八で合っていた。
「合った」
「嬉しそうだね」
ユナが笑う。
「昨日、数え直したので」
「数える仕事向いてない?」
「途中で話しかけられなければ」
「じゃあ十九個だったよ」
「今やめて」
「冗談」
「怖いこと言わないで」
もう一度数えたくなるのを我慢し、帳面へ確認印をつけた。
その後も何種類かの棚を整理したが、大きな間違いはなく、昼を少し過ぎたころには今日の予定分が終わった。
ナディルが帳面を確認し、最後に私が分けた香辛料袋を二、三個手に取る。
「量も問題ない。終わりでいい」
「追加あります?」
「ない」
「よかった」
「最近追加で嫌な目に遭ったのか?」
「嫌な目というか、『ついでに』を警戒するようになりました」
「うちは追加頼むなら金も追加する」
「いい店だ」
「当たり前だろ」
「その当たり前がありがたい」
完了印をもらい、ユナにも挨拶して《三葉問屋》を出た。
ギルドへ戻ると、報酬千百ゴールドが支払われる。
昼食百十と宿代三百を引けば、今日の稼ぎから自由に使えるのは六百九十ゴールド。昨日より余裕は少ないが、今日は最初から小皿を少しずつ食べるつもりなので、大きな予算は必要なさそうだった。
「夜は五百五十くらいかな」
酒一杯と小皿を三つか四つなら十分楽しめるだろうし、昨日と同じ失敗をしないためにも、最初から全部まとめて頼むのはやめておく。一杯と二皿くらいから始め、まだ食べたければ追加するくらいがちょうどよさそうだった。
「今日は慎重にいこう」
自分に言い聞かせ、一度《銀鈴の宿》へ戻った。
香辛料の匂いがついた手をよく洗ってから少し休むと、腕の張りも朝より楽になっている。
夕方になって外へ出ると、今日は中央商業区から少し北へ外れた細い通りを歩いてみた。
店先の品書きを見ながら、一皿が大きそうな店は避けていく。一軒目は鍋料理中心で一人には少し重そうで、二軒目は肉の大皿が人気らしく店の外から見える皿が明らかに大きく、三軒目も酒より食事中心だったので、そのまま通り過ぎた。
少し歩いたところで、入口の横へ小さな木皿を何枚も重ねている店を見つけた。
看板には《豆皿亭》とある。
「分かりやすい」
店先の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《白果酒 百三十ゴールド》
《本日の豆皿 一皿七十ゴールド》
《塩焼き角鶏小皿 百ゴールド》
《香茸油和え 八十ゴールド》
《豆酢煮 七十ゴールド》
《赤根甘辛煮 七十ゴールド》
《白酪香草和え 九十ゴールド》
《小魚塩揚げ 百ゴールド》
《焼き薄パン 五十ゴールド》
一皿七十から百なら、五百五十の予算でも複数試せるので、条件にはかなり合っている。
「今日はここだな」
そう決めて扉を開けた。
店内は思っていたより明るく、壁際に六席のカウンター、中央に二人掛けの小さな卓が四つ並んでいた。料理を置くための皿も本当に小さく、手のひらより少し大きい程度の木皿や陶器皿が棚に積まれている。
「いらっしゃい。一人?」
「一人です」
「カウンターどうぞ」
店主は三十代後半くらいの男性だった。
名前はエルク。明るい茶髪を後ろへ撫でつけ、細身で、灰色の前掛けを着けている。右手には小さな木匙を持ち、カウンターの中に並ぶ料理を少しずつ皿へ盛っていた。
「本当に小皿なんですね」
「店名通りだよ」
「一人でもいろいろ食べられる?」
「そのための店みたいなもんだね」
「今日ここ来て正解かも」
「何かあった?」
「昨日、十串盛り頼んで九本で止めました」
「あと一本じゃない」
「その一本が入らなかったんです」
「じゃあ今日は小さくいきな」
「そうします」
まず軽麦酒九十を頼み、料理は最初から欲張らず二皿だけにした。
「豆酢煮と、塩焼き角鶏小皿ください」
「七十と百ね」
酒と合わせて二百六十なので、夜予算五百五十からまだ二百九十残る。
「余裕ある」
「その言い方、昨日失敗した人がして大丈夫?」
「聞いてたんですか?」
「今自分で言ったでしょ」
「そうでした」
軽麦酒が出てくる。
色はかなり薄く、泡も軽い。一口飲むと苦味は控えめで、少し酸味のある後味が残った。濃い料理に合わせるというより、いろいろな小皿の間を邪魔しないための酒なのかもしれない。
最初に出てきた豆酢煮は、小さな白い豆と赤い豆を薄い酢味の汁で煮たものだった。上には細かく刻んだ青い香草が乗っている。
一匙食べると、豆は柔らかいが崩れきっておらず、最初に甘みが出たあと、遅れて酢の酸味が広がる。
「これ、昨日の酸葉漬けより優しい」
「串屋の漬物みたいな強いやつとは違うね。酒の途中に食べる用だから」
「途中用ってあるんだ」
「全部濃かったら疲れるだろ」
「昨日それを学びました」
次の塩焼き角鶏小皿には、薄く切った角鶏が四切れほど載っていた。
表面だけ強火で焼いてあり、塩と砕いた《香黒種》が少し振られている。
「あ、今日分けたやつ」
「何を?」
「香黒種。問屋で小袋にしてました」
「じゃあそれがうちに来るかもね」
「最近仕事と夜ご飯がつながりすぎてるなぁ」
一切れ食べると、香黒種は思っていたより穏やかで、肉の脂へ香ばしい刺激を足していた。問屋で隣に置かれていた《熱黒種》と間違えていたら、たぶん全然違う料理になっていただろう。
「これ一皿でちょうどいい」
「追加しやすい量にしてるからね」
「こういうの好きです」
二皿を食べ終えても、まだかなり余裕がある。
昨日ならここで「まだいける」と勢いよく追加していたかもしれないが、今日は一度水を飲み、少しだけ待った。
「慎重だね」
エルクに言われる。
「昨日学んだので」
「九本の経験が生きてる」
「九本って言うと結構食べてますよね」
「食べてるね」
「反省する量じゃない気がしてきた」
「十本目を無理しなかったならいいんじゃない?」
「今日いろんな人に同じこと言われる」
少ししてもまだ食べられそうだったので、三皿目を選ぶ。
「香茸油和えください」
「八十ね」
ここまでで合計三百四十ゴールドになり、夜予算五百五十から残るのは二百十ゴールドだった。
出てきた香茸油和えは、細く裂いた茶色い茸を、淡い香りの油と刻み葉で和えたものだった。昨日《十串屋》で食べた茸醤串は油をたっぷり吸っていて見た目以上に重かったので少し警戒したが、こちらは表面を軽く和えているだけらしく、口へ入れても重さはない。
「茸なのに軽い」
「焼いて油吸わせるのと、後から少し和えるのは違うよ」
「同じ材料でも料理で変わるなぁ」
「それ言い出したら何でもそうだね」
噛むほど茸の香りが広がり、最後に青い葉の爽やかさが残る。
軽麦酒ともよく合った。
カウンターの向こう側では、二人組の女性客が小皿を何枚も並べていた。一人は三十代くらいで布の巻尺を首へかけ、もう一人は四十代くらいで指先に青い染料が残っている。
「今日の注文、細かすぎない?」
「細かいよ。青布三尺、赤布二尺半、紐一束、留め具六つ」
「まとめて言ってくれればいいのに」
「しかも昼に『留め具四つ追加』」
「最初から十個って言えよ」
「数は同じでも準備が違うんだよね」
「分かる」
二人の会話に、思わず耳が向いた。
小分け仕事をしてきたばかりなので、妙に身近に聞こえる。
「少しずつ頼まれる方が大変なこともあるんですね」
私が言うと、巻尺の女性が振り向いた。
「客側は『ちょっとだけ追加』って思うんだけどね」
「作る側は毎回準備するから?」
「そう。青布出して片づけたあとに『やっぱりもう一尺』って言われると、また出す」
「それ嫌だなぁ」
「だから今飲んでる」
「理由が強い」
「あなたも仕事帰り?」
「問屋で小分けしてました」
「じゃあ分かるでしょ」
「すごく分かります」
小さいものは扱いやすいが、小さければ何でも簡単になるわけではない。
今日の仕事だって、一袋は軽かったけれど七十袋あり、客の注文も少量ずつ何度も追加されれば、そのたびに準備の手間がかかる。そう考えると、小皿だって一皿が小さいからという理由だけで、何皿でも無制限に食べられるわけではない。
「……気をつけよう」
思わず呟いた。
「何を?」
エルクが聞く。
「小皿だからいっぱい頼んで大丈夫って思い始めてたところです」
「昨日から学んでるようで学んでないね」
「今止まりました」
「なら間に合ってる」
ここまでで三百四十ゴールドなので、残り予算は二百十。まだ何か食べたいが、酒も半分くらい残っている。
品書きを見ると、《赤根甘辛煮》七十、《白酪香草和え》九十、《小魚塩揚げ》百が気になる。
全部頼めば二百六十なので予算を超えるし、二つなら選び方次第で入るが、昨日の反省を考えれば一皿追加で十分かもしれない。
「迷う」
「何と何?」
「赤根と白酪と小魚」
「三つじゃない」
「だから困ってるんです」
「腹は?」
「あと一皿なら確実。二皿は分からない」
「じゃあ一皿にしなよ」
「正しい」
「聞かなくても分かってるでしょ」
「人に言われると諦めやすいんです」
どれを選ぶか考える。
白酪は最近かなり食べたし、小魚は揚げ物なので、量が小さくても意外と重い可能性がある。
「赤根甘辛煮ください」
「はいよ」
四皿目は七十ゴールドで、合計四百十。夜予算からは百四十ゴールド残る。
運ばれてきた赤根甘辛煮は、細長い赤い根菜を短く切り、濃い褐色の煮汁を絡めたものだった。表面には細かな白い種が振られている。
一口食べると、最初は甘く、そのあと少し辛さが来る。
「おいしい」
「今日の赤根、甘い方だからね」
「これ酒進むなぁ」
「追加する?」
「まだ残ってます」
「今日は本当に慎重だね」
「昨日より成長してます」
赤根を食べながら軽麦酒を飲むと、甘辛い煮汁を酒が洗い流し、また次の一口が欲しくなる。
四皿目まで食べ終えたところで腹はちょうどよく満たされ、まだ一皿なら入りそうではあるけれど、入ることと必要なことは違う。
「ここで止めよう」
自分に言う。
「珍しいね」
エルクが笑う。
「初対面ですよね?」
「昨日九本食べた話聞いたから、何となく」
「初対面なのに過去を把握されてる」
それでも、このくらいがちょうどいい。
軽麦酒もあと少しで、会計四百十なら夜予算五百五十から百四十残る。今日の報酬は千百で、昼食百十、宿代三百を引いているので、このままなら二百八十ゴールド残る計算になる。
そこまで考えたところで、カウンターの奥から小さな皿が一枚出てきた。
「これ、今日最後だから食べる?」
「何です?」
「《焦がし豆皮》」
「いくら?」
「六十」
聞いてしまった。
薄い豆の皮を乾燥させ、油を引かずに焼いたものらしい。見た目は小さな薄焼き煎餅のようで、皿には三枚しかない。
「軽い?」
「かなり」
「さっき止めるって言ったばっかりなんですけど」
「無理にとは言ってないよ」
「六十かぁ」
残り予算百四十なので、頼んでも四百七十で、まだ八十残る。しかも量は明らかに少ない。
「……ください」
「はいよ」
こうして予定外の五皿目が決まった。
「止めたんじゃなかった?」
近くの女性客に笑われる。
「これは予定外なので別枠です」
「そういう理屈で増えるんだよ」
「分かってます」
分かってはいる。
それでも出てきた焦がし豆皮は本当に薄く、これなら問題なさそうだった。
一枚かじると、ぱりっと軽い音がして、焦がした豆の香ばしさが広がった。塩はほとんど使っておらず、噛んでいると豆そのものの甘みが少しだけ出る。
「これ、すごく軽い」
「だから最後に出すこと多いよ」
「さっきまでの小皿と全然違う」
「同じ小皿でも量も重さも違うからね」
その言葉を聞いて、今日一日の話がまた戻ってきた。
一袋が小さいからといって七十袋が楽なわけではなく、一皿が小さいからといって何皿でも食べられるわけではない。ただ、小さいからこそ少しだけ試して、自分の腹と相談しながら次を選べるところが、昨日の十串盛りとは違っていた。
「これいいなぁ」
「焦がし豆皮?」
「それもですけど、小皿の店」
「気に入った?」
「自分で止めるところ決められるのがいい」
「普通の店でも決められるでしょ」
「それはそうなんですけど」
言われてみればその通りで、大皿だって頼まなければいいし、十本盛りだって単品で頼めばよかった。結局、料理の量より、頼む側がどこで止めるかを決めることの方が大事なのかもしれない。
焦がし豆皮を三枚食べ終え、軽麦酒も最後まで飲んだところで、今度こそちょうどいい満腹感になった。
「会計お願いします」
「軽麦九十、豆酢七十、角鶏百、香茸八十、赤根七十、焦がし豆皮六十で、四百七十」
「ちゃんと予算内」
「いくら予定だったの?」
「五百五十」
「八十残ったね」
「今日は優秀」
「昨日との比較だけならね」
「そこは言わなくていいです」
硬貨を渡す。
今日の報酬千百ゴールドから昼食百十、宿代三百、夜四百七十を引けば、二百二十ゴールドが残る。
「ごちそうさまでした」
「また食べすぎなかった?」
「今日はちょうどいいです」
「なら成功だね」
「小皿のおかげです」
「自分で止めたからでしょ」
「……それもあります」
店を出ると、夜の空気が少し涼しかった。
昨日《十串屋》を出たときは腹の中に九本分の串が入っていて、歩く速度まで少しゆっくりになっていたけれど、今日は同じように何種類も食べたのに身体が軽い。
豆酢煮、角鶏、香茸、赤根、焦がし豆皮と五皿も食べているので、数だけ見ればそれなりなのだが、一皿ごとの量が小さいことで、自分の腹具合を確かめながら次へ進めたのが大きかった。
「小皿なら、いろいろ食べても大丈夫だよね」
店へ入る前なら、たぶんそう言い切っていたと思う。
今は少し違っていて、小皿だから大丈夫なのではなく、小皿なら「次を頼むかどうか」を一皿ごとに考えられるのがよかったのだ。
今日の問屋仕事も似ている。
大袋の豆をそのまま扱うより、小分けにすれば家でも店でも必要な量だけ使える。ただし、小分けにする側には七十袋を量り、縛り、札をつける仕事があり、「小さい」というだけで手間までなくなるわけではない。
前の世界でも、少量パックや一人前の商品を見て便利だと思っていたけれど、その裏で誰かが分けて、量って、包んでいた。
こちらへ来てから、食べる前の仕事を知ることが増えた気がする。
紫房実を採り、山羊乳を運び、燻煙用の木を分け、今日は香辛料と豆を小袋へ詰めた。そのたびに夜の一皿が少し違って見えるようになった。
別に料理人になるわけでも、食材の専門家になるつもりもない。私はただ、仕事が終わったあとに一杯飲んで、知らないものを少し食べられれば、それで十分なのだが、その「少し」が思っていた以上に面白い。
今日は千百ゴールドを稼ぎ、昼に百十、宿に三百、夜に四百七十使って、二百二十ゴールド残った。昨日より報酬は百少なかったのに、腹具合も財布も今日の方が少し余裕がある。
「毎回これくらい上手くいけばいいんだけどなぁ」
そう呟いた直後、昨日の朝にも「今日はほどほどにしよう」と考えていたことを思い出して、自分で少し笑った。明日になればまた何かの匂いや品書きに負ける可能性は十分あるけれど、それでも今日は食べすぎなかったのだから、それだけで一歩前進ということにして、私は軽い腹を確かめるように歩きながら灯りの残る夜の通りをゆっくり進んでいった。




