第22話「同じ果実酒なのに、こんなに違うんだ」
朝、《銀鈴の宿》の食堂で黒パンをちぎりながら、私は昨日受け取った新しい登録札を指先で何度か裏返していた。
見た目が劇的に変わったわけではなく、縁へ細い線が一本増え、刻まれている印の形が少し違うだけなので、知らない人が見れば以前のものとの差なんて分からないと思う。それでも、昨日まで受けられなかった区分の依頼を選べるようになったと思うと、不思議と少しだけ重く感じた。
昨日は昇格試験で二千五百ゴールドを受け取り、昼食に百三十、宿代に三百、《葡灯亭》で七百二十使ったので、その日の稼ぎから千三百五十ゴールド残った。普段ならかなり余裕のある夜だったのに、少し高い赤果実酒と白角羊、それから熟成白酪まで食べても半分以上残ったのだから、昇格で選べる仕事が増えるというのは、やはり財布にもそれなりの影響があるらしい。
ただ、今朝になって私が一番思い出していたのは報酬でも登録札でもなく、昨日飲んだ赤果実酒の味だった。
「単体だと渋かったのに、肉と飲んだら美味しかったんだよなぁ」
前の世界でワインを飲んだことはあるものの、産地や品種を語れるほど詳しかったわけではない。会社の飲み会で誰かが頼んだものを飲んだり、居酒屋のグラスワインを注文したり、たまに家で安い瓶を買ったりした程度で、それでも赤と白くらいの違いは知っていたし、肉には赤、魚には白という、ものすごく大雑把な知識くらいは持っていた。
でも昨日の《葡灯亭》で飲んだ赤果実酒は、それまでこちらで飲んだ果実酒より明らかに香りも渋さも強く、同じ「果実を発酵させた酒」とひとまとめにするには、ずいぶん違っていた。
「白の方も気になるな」
昨日の店主に「次は白も」と言われたことまで思い出したところで、私は黒パンをちぎりながら首を振った。
「いや、同じ店には行かない」
こちらへ来てから、まだ知らない店を探すことがすっかり楽しみになっている。昨日の店が美味しかったからといって、そこだけへ戻っていたら新しい料理も酒も見つからないのだから、今日は別の店で別の果実酒を探せばいい。
もっとも、その前に仕事である。
朝食を終え、短剣と革袋を身につけてギルドへ向かった。
新しい登録札になって最初の通常依頼なので、依頼板の前へ立つと昨日までとは少し違う紙も目に入るようになった。報酬だけなら二千を超えるものもあるが、内容を見ると長距離護衛だったり、魔物の巣の確認だったりして、今の私が気軽に選べそうなものばかりではない。
「上がったからって、何でもできるわけじゃないよね」
当たり前のことを自分へ言い聞かせながら、無理のない依頼を探す。
南の果樹農園で収穫箱の確認と運搬が千四百、東街道で小型魔物の痕跡調査が千六百、北西の貯蔵庫で乾燥香草の棚卸しが千二百。その中で、少し気になる依頼票を見つけた。
《西丘果樹園・紫房実収穫補助および選別》
《報酬千五百ゴールド》
《半日予定》
《注意:潰れた実と未熟果を分けること。房軸を傷めないこと》
「紫房実」
昨日飲んだ赤果実酒の原料だ。
偶然なのか、この街では今がちょうど収穫時期なのかは分からない。ただ、昨日飲んだ酒の材料を実際に見る機会があるなら、少し面白そうだった。
依頼票を持って受付へ向かうと、対応してくれたのは短い赤茶色の髪を耳へかけた女性受付員だった。
「西丘果樹園ですね」
「これ、酒にする実です?」
「酒にもします。生食、酢、干し果実にも使いますよ」
「そんなに使うんだ」
「今の時期は収穫依頼が増えます。ただし実を潰すと減額される場合がありますので、雑に扱わないでください」
「運搬なのに繊細」
「箱を落としたらかなり怒られます」
「先に聞いてよかった」
「依頼票にも書いてあります」
「最近ほんとそれ言われる」
受付員は依頼票へ印を押して返してくれた。
「現地責任者はエルドさんです。丘の上に大きな石造りの圧搾小屋があるので、そこへ行けば分かります」
「圧搾小屋?」
「酒用の実を搾る場所です」
「ますます気になる」
「仕事を忘れないでくださいね」
「そこは大丈夫です」
ギルドを出たあと、昼食用に豆と燻し肉を挟んだ平パン、水、それから小さな塩漬け果実を買った。合わせて百二十ゴールドで、今日の報酬から考えれば無理のない金額だった。
西門を出て緩い坂道を歩き、しばらくすると果樹園が見えてきた。
低い丘一面へ腰より少し高いくらいの木が規則正しく植えられ、枝には紫色の実が房になって垂れ下がっている。遠目には本当に葡萄畑のように見えたが、近づいてみると一粒一粒は葡萄より少し細長く、皮の色も完全な紫ではなく、赤黒いものや青みがかったものが混ざっていた。
「かなり似てるなぁ」
「ギルドから?」
声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。
名前はエルド。白髪混じりの茶髪を短く刈り、日に焼けた腕には細かな傷がいくつもある。腰には小さな収穫鋏を下げ、足元には浅い木箱が積まれていた。
「ミサキです」
「収穫経験は?」
「こういう果物はないです」
「じゃあ最初に教える」
「お願いします」
エルドは枝から下がっている一房を持ち上げ、房と枝をつなぐ軸を指で示した。
「切るのは房軸のここ。枝側を少し残す。実の根元ぎりぎりで切ると房が崩れる」
「なるほど」
「あと、黒く柔らかくなりすぎた実は酒用の箱へ入れるな。潰れた実も別。青いやつは未熟」
「食べられない?」
「食えるけど酸っぱい。酒にすると青臭さ残る」
「昨日飲んだ赤酒、こういう選別から始まってるんだ」
「酒飲むのか?」
「好きです」
「なら今日は壊すなよ」
「責任重くなった」
最初はエルドの横で数房切りながら扱い方を覚え、房軸を鋏で切ったあと、片手で下から支えるように持って木箱へ置いていった。見た目より一房が重いうえ、実の部分を握って持ち上げると簡単に潰れそうなので、手のひら全体で受けるように支える必要がある。
「収穫ってもっと、ぱちぱち切るだけかと思ってた」
「雑にやるなら早い」
「雑にやると?」
「安酒行き」
「それはそれで飲まれる?」
「飲まれる。ただ、いい酒にはならん」
「なるほど」
高い酒と安い酒の違いは、樽や熟成期間だけではなく、収穫の時点からすでに始まっているらしい。
午前の前半はひたすら房を切り、最初は一房ごとに色や張りを確認していたものの、慣れてくるとある程度は見ただけで判断できるようになってきた。成熟した実は皮に張りがあり、青黒い色の中へ少し赤みが混じっている一方、未熟なものは明るく青く、触ってみてもまだ硬い。
ただし、こういう作業は慣れた頃が一番危ない。
一本の枝にきれいな房が二つ並んでいて、調子よく切ろうとした瞬間、鋏の先が房軸ではなく小枝へ当たりかけた。
「危な」
寸前で手を止めると、少し離れたところにいたエルドがこちらを見ていた。
「今の切ってたら?」
「房ごと二つ落ちてました」
「分かってるならいい」
「見られてた」
「収穫期は見てる暇ないと思うだろ。でも落とすやつほど見えるんだ」
「仕事あるあるっぽい」
「何だそれ」
「気にしないでください」
前の世界でも、慣れてきた頃に限って確認を飛ばして失敗することはあった。最初は一つずつ慎重にやっていたのに、「もう分かった」と思った瞬間からミスが増えるあたりは、世界が変わっても同じらしい。
房がいっぱいになった木箱は、二人一組で圧搾小屋の前まで運んだ。一箱だけなら持てない重さではないものの、果実を潰さないよう水平に保つ必要があるので、普通の荷物よりずっと気を使う。
一緒に運んだのは、二十代後半くらいの男性だった。
名前はフィン。短い金髪で、鼻の頭にそばかすがあり、果樹園で季節雇いとして働いているらしい。
「箱、傾けるなよ」
「分かってる」
「前のやつ一回転んで、三箱潰したから」
「その人どうなったの?」
「その日ずっと選別」
「地味に重い罰」
「酒用の実の中から潰れたの拾う方が大変だからな」
「それ嫌だなぁ」
「だから転ぶなよ」
「言われると転びそう」
「言うな」
二人で笑いながら、箱を水平に保ってゆっくり坂を上がる。
圧搾小屋の前では、収穫された実が生食向け、酒向け、酢向け、乾燥向けと用途ごとに分けられ、さらに酒向けの中でも色の濃い房と薄い房が別々の箱へ積まれていた。
「これ全部酒?」
私が聞くと、フィンが頷いた。
「濃いのは赤、薄いのは白が多い」
「白って、白い実じゃないんだ」
「皮取って搾るのもある」
「そうなんだ」
昨日、《葡灯亭》で聞いた話では赤酒は皮ごと発酵させると言っていたので、白酒は実の汁を中心に使うものもあるのだろう。
「白の方が甘い?」
「そうとも限らない」
「え?」
「酒蔵で違う。辛いのもあるし、甘いのもある」
「果実酒、思ってたより複雑」
「飲むだけなら好きなの選べばいいよ」
「それが一番大事」
午前の後半は選別作業になり、収穫箱から房を一つずつ取り出して、未熟果、潰れた実、傷のあるものを外していった。潰れた実は完全に捨てるわけではなく、状態によって発酵酢や煮詰めた調味料へ回すらしい。
「捨てないんですね」
エルドへ聞く。
「腐ったのは捨てる。潰れただけなら使う」
「酒には駄目?」
「潰れて時間経つと余計な菌入る。良い酒には使わん」
「でも酢なら使える」
「早めに回せばな」
果物一つでも、状態によって行き先は細かく違う。食べられるか食べられないかだけではなく、酒に向く、酢に向く、乾燥向き、生食向きという振り分けそのものが農園の仕事の一部なのだと思うと、昨日飲んだ一杯の向こう側に急にたくさんの人の手が見えてきたような気がした。
昼前には予定していた区画の収穫と選別が終わった。
「こんなもんだな」
エルドが帳面へ印をつける。
「終わり?」
「終わり。今日は追加なし」
「その言葉だけで嬉しい」
「何かあったのか?」
「予定外の仕事、何回か経験したので」
「農家だと予定外ばっかりだぞ」
「じゃあ農家は無理かも」
「雨と鳥と虫に言っとけ」
「言って聞くなら冒険者いらないですね」
依頼完了の印をもらい、果樹園の端にある木陰で昼食を食べた。平パンの中には潰した豆と燻し肉が入り、朝買ったときより少し冷たくなっているものの、塩気が強めなので身体を動かしたあとにはちょうどいい。
小さな塩漬け果実を口へ入れると、思っていた以上に酸味と塩味が強かった。
「また酸っぱい」
最近なぜか酸っぱいものによく当たる。
ただ、紫房実を何時間も見たあとだからか、塩漬け果実を食べながらも、頭の中には昨日飲んだ赤酒の渋さが残っていた。
ギルドへ戻って依頼票を提出すると、報酬として千五百ゴールドが支払われた。昼食百二十と宿代三百を引けば、今日の稼ぎから残るのは千八十で、昨日ほどではないが夜を選ぶには十分な金額だった。
「今日は……七百くらい?」
少し考える。
昨日は九百の予算を組んで七百二十使った。今日まで高めにすると、昇格した途端に生活水準まで一緒に上げてしまいそうで少し怖いが、せっかく紫房実の収穫をした日に安い麦酒だけ飲んで終わるのも、何となくもったいない。
「七百五十」
少しだけ上げることにした。
今日は果実酒を飲みたい。
ただし昨日の《葡灯亭》とは違う店で、できれば果実酒そのものに力を入れているところがいい。
一度《銀鈴の宿》へ戻り、服についた土と果汁の跡を落としてから夕方の街へ出た。
果実酒を扱う店なら、市場近くより商人区や住宅区寄りの方が見つかりそうな気がして、昨日とは別方向へ歩く。一軒目は麦酒中心で、二軒目は蒸留酒らしい強そうな酒が多かったので見送り、三軒目まで来たところで、小さな木板に三種類の果実が描かれた店を見つけた。
《房雫屋》
看板の下には、細かい字でこう書いてある。
《赤・白・淡紅 三種あります》
《一杯からどうぞ》
「ここだ」
店先の品書きを見る。
《赤房酒 百八十ゴールド》
《白房酒 百七十ゴールド》
《淡紅房酒 百九十ゴールド》
《三種小杯 合計二百四十ゴールド》
《角鶏香草焼き 二百ゴールド》
《白酪と乾燥果実 百五十ゴールド》
《焼き茸塩油 百二十ゴールド》
《薄麦餅 七十ゴールド》
《酸葉漬け 六十ゴールド》
「三種小杯?」
一種類をしっかり飲むより、今日はそれの方が楽しそうだった。
店へ入ると、中は細長く、カウンターが八席だけだった。壁には大小の瓶が並び、赤、黄金、薄桃色の酒がそれぞれ入っている。瓶の首には小さな木札が下がり、産地や収穫年らしい数字が書かれていた。
「いらっしゃい」
店主は五十代前半くらいの女性だった。
肩までの銀混じりの茶髪を後ろで束ね、片目だけ細い透明板のような眼鏡をかけている。手元には小さな杯が何個も並んでいた。
「一人です」
「どうぞ。果実酒は飲む?」
「昨日からちょっと興味出ました」
「昨日から?」
「赤を飲んだら、料理で味変わるの面白くて」
「それなら三種小杯にしな」
「やっぱりそれおすすめ?」
「違い見るならね」
「じゃあ三種小杯と、角鶏香草焼きください」
「二百四十と二百で四百四十」
予算七百五十から残り三百十なので、最初の注文としては十分だ。
店主は細い瓶を三本取り出し、小さな杯へ順番に注いだ。
左から深い赤、淡い金色、薄い桃色。
「赤、白、淡紅。左から飲んで」
「赤から?」
「今日はそう。三つ全部軽めだから、赤からでも大丈夫」
「軽い赤もあるんだ」
「もちろん」
昨日飲んだ赤果実酒は渋さが強かったので、赤と聞くだけで同じような味を想像していた。ところが、左の赤房酒を口へ運んだ瞬間、思わず声が出た。
「……あれ?」
昨日の赤酒を想像していたのに、驚くほど軽い。
酸味はあるけれど渋さは弱く、香りも木や皮というより赤い果実そのものに近い。少し冷たくしてあるせいか、後味もすっきりしていた。
「昨日飲んだのと全然違う」
「どんなの?」
「かなり渋くて、肉と飲むと丸くなる感じ」
「皮厚い実を長く漬けた赤じゃないかな。これは若い《早紫房》だから軽いよ」
「同じ赤でも違うんだ」
「当たり前」
店主は当然という顔をした。
次に白を飲んでみると、金色に近い酒は香りが少し甘いのに、口へ入れた瞬間は赤より酸味が鋭く、そのあと青い果物のような香りが鼻へ抜けた。
「白の方が酸っぱい」
「これは辛口」
「甘くないんだ」
「白が甘いなんて誰に聞いたの」
「勝手なイメージです」
「よくある」
最後に飲んだ淡紅は薄い桃色で、三つの中では香りが一番華やかだった。赤い果実と白い花を混ぜたような匂いがあり、味は赤と白の間くらいで、酸味も渋さも強すぎない。
「これ一番飲みやすいかも」
「初めてならそう言う人多い」
「何で桃色になるんです?」
「皮を少しだけ一緒に置く。赤ほど長くない」
「へえ」
昨日は赤酒と白酒の違いだけでも面白いと思ったのに、同じ原料でも皮をどれくらい使うか、実の種類や発酵のさせ方によってかなり味が変わるらしい。
「酒って、思ってたより面倒ですね」
「作る方はね」
「飲む方は?」
「好きなの飲めばいい」
「それ昨日も聞いた気がする」
「正しいから何度でも聞くよ」
そこへ角鶏香草焼きが出てきた。
角鶏は骨のない腿肉を一口より少し大きく切り、表面をしっかり焼いてある。上には《青香葉》と《乾黄皮》を細かく刻んだものが散らされ、横には薄切りの白根菜が添えられていた。
まず肉だけ食べてみると、角鶏は鶏肉に近いものの、普通の鶏より身が締まっていて、噛んだときに少し弾力がある。脂は少なめで、香草の青さと《乾黄皮》の柑橘に似た香りがよく合っていた。
「どれと合わせる?」
店主が聞いた。
「分からないです」
「じゃあ三つ試せば」
「そういう店か」
最初に赤を合わせると、肉の焼けた香ばしさが少し強く感じられ、酒の赤い果実の香りが後ろに残った。次に白を飲むと酸味が脂を切り、《乾黄皮》の香りと酒の青い香りがつながる。
「これ好き」
最後に淡紅を合わせてみると、白ほどさっぱりしない代わりに、肉そのものの甘さが少し分かりやすくなった。
「全部違う」
「だから三杯並べると面白い」
「同じ料理なのに」
「酒も調味料みたいなもんだよ」
その言葉は分かりやすかった。
塩を変えれば料理の印象が変わるように、酒を変えても口の中の残り方が変わる。昨日は肉と赤酒の組み合わせで初めてそれを強く感じたが、三種類を並べて飲むと差がもっと分かりやすい。
カウンターの向こう側には、二人の女性客がいた。一人は三十代くらいで布商らしく、指先に青い染料が残っている。もう一人は四十代くらいで、小さな帳面を何度も開いていた。
「今日の納品、また二反足りなかった」
「織り場?」
「そう。『明日の朝には』って」
「その明日、何回目?」
「三回目」
「もう明日じゃないじゃん」
「私もそう言った」
二人が白房酒を飲む。
「でも店の客には『明後日です』って言えないし」
「言えば?」
「注文取ったの先月だよ」
「それは言えない」
「だから飲んでる」
「それは分かる」
私は思わず笑った。
帳面の女性がこちらを見る。
「何?」
「すみません。仕事の『明日にはできます』って、どこの世界でも延びるんだなって」
「どこの世界?」
「こっちの話です」
「変な子」
「よく言われます」
店主が小さく笑いながら瓶を拭いている。
今の会計は四百四十で、残り予算は三百十。三種小杯はそれぞれ少量なので、酒の量としては合わせても一杯半くらいだろうか。まだ飲めるけれど、追加するなら同じものを一杯頼むか、料理を増やすかで迷う。
品書きを見ると、《白酪と乾燥果実》は百五十だったが、昨日も白酪を食べたので、さすがに二日続けて似たものを頼まなくてもいい。《焼き茸塩油》百二十も良さそうだが、今日は果実酒の違いを楽しむ日なので、できれば酒に合うものをもう一つ試したかった。
「この中で、淡紅に一番合うの何です?」
店主へ聞く。
「甘いもの好き?」
「嫌いじゃないです」
「なら品書きにないのあるよ」
「品書きにない?」
「今日だけ。《紫房実の焼き蜜漬け》、八十」
「今日収穫してきたやつと同じ?」
「紫房実ならね」
「ください」
予定外の一品が決まった。
店主が奥から出してきた小さな皿には、紫房実を半分に切り、軽く焼いてから蜜へ漬けたものが載っていた。表面には薄い焼き目があり、熱を通した皮は少し縮んでいる。
「酒の原料を酒のつまみにするんだ」
「収穫期だけね。傷ついた実を使う」
「傷んだやつ?」
「腐ってないやつ。形悪いとか、房から外れたとか」
「今日選別した」
「農園?」
「西丘果樹園」
「あそこの実ならうちも買ってる」
「え?」
「この白の一部、あそこ」
店主が真ん中の瓶を指す。
「今日収穫したところの酒?」
「今年のじゃないよ。去年の実」
「それでもすごい」
朝、自分が房を切っていた果樹園の実が、この店では酒として出されている。
昼間までの仕事と、今目の前にある一杯が急につながった。
紫房実の焼き蜜漬けを一つ食べてみると、生の実より皮が柔らかく、加熱された果汁の味が濃くなっていた。蜜の甘さはしっかりあるが、皮のわずかな渋みが残っているので、ただ甘いだけではない。
「甘いけど、ちゃんと皮の味残ってる」
「全部取ったら酒に合わないからね」
そこへ淡紅房酒を飲む。
「似てるのに違う」
同じような果実の香りがあるのに、焼き蜜漬けは甘く濃く、酒の方は酸味と香りが軽い。似たもの同士だから味が重なると思っていたのに、むしろ並べたことで違いが分かりやすかった。
「どう?」
店主が聞く。
「同じ紫房実なのに、酒になると全然違いますね」
「そりゃ発酵させるからね」
「赤も白も淡紅も違うし、焼いて蜜に漬けても違う」
「実一つで何通りもあるよ」
「今日ずっと見てたのに、果物に見えてただけだった」
「畑じゃ酒の味しないからね」
「確かに」
現在の会計は五百二十で、予算七百五十から二百三十残っている。赤百八十、白百七十、淡紅百九十なので、どれを一杯追加しても予算内だった。
「一番好きだったやつ、飲んで帰れば?」
店主が言う。
「営業上手い」
「三つ飲んで、好きなの分かったでしょ」
「白かなぁ」
「なら白」
「百七十ですよね」
「そう」
追加しても合計六百九十なので、六十ゴールド残る。
「じゃあ白房酒、もう一杯ください」
「はいよ」
今度は小杯ではなく、普通の杯へ白房酒が注がれた。
一口目に感じた鋭い酸味も、二度目になると少し印象が変わる。角鶏を食べ、焼き蜜漬けを食べたあとだからか、さっきより青い果実の香りが分かりやすかった。
「同じ酒なのに、最初と味違う気がする」
「口の中に何残ってるかで変わるよ」
「難しいなぁ」
「だから楽しいんじゃない?」
「それはそう」
高い酒を飲めるようになったから楽しいのではなく、同じ値段の酒でも、その違いを少しずつ分かるようになる方が面白いのかもしれない。
前の世界ではワインを飲んでも、「赤」「白」「甘い」「渋い」くらいで終わることが多かった。仕事帰りにそこまで真剣に考える気力もなく、美味しければそれで十分だったけれど、こちらでは飲めるものの種類そのものがまだ知らないものばかりだから、これは何からできていて、なぜこの料理と合い、同じ材料なのにどうしてここまで違うのかと、一口ごとに自然と考えるようになっていた。
その答えを全部覚える必要はないし、酒に詳しい人になりたいわけでもない。それでも、少し知れば次に別の店へ入ったときの選び方が一つ増えるのだから、飲む楽しみが減ることはなさそうだった。
「会計お願いします」
「六百九十」
三種小杯二百四十、角鶏香草焼き二百、予定外の紫房実の焼き蜜漬け八十、追加の白房酒百七十で、合計六百九十ゴールドだった。夜予算七百五十からは六十残り、今日の報酬千五百から昼食百二十、宿代三百、夜六百九十を引けば、三百九十ゴールドが残る。
「ちゃんと残った」
「何か決まりあるの?」
「夜の予算決めてます」
「えらいね」
「決めないと怖いので」
「酒飲みの自覚あるじゃない」
「そこはあります」
店主へ硬貨を渡し、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「白が一番だった?」
「今日は」
「明日は変わるかもよ」
「酒って面倒ですね」
「また言ってる」
「飲む方も少し面倒になってきました」
「それは楽しんでるってこと」
店を出ると、通りには夜の涼しい風が流れていた。
今日は朝から紫房実を切り、房を選別し、潰れた実と未熟な実を分けた。昼まではただ果物として見ていたものが、夜には赤、白、淡紅の三種類の酒になり、さらに傷のある実は焼いて蜜へ漬ける料理へ変わっていた。
「同じ果実酒なのに、こんなに違うんだ」
違うのは赤と白だけではなく、同じ赤でも渋いものと軽いものがあり、白だから甘いわけでもない。皮の使い方や実の種類、発酵の仕方で味が変わり、そこへ料理まで加われば、同じ酒でも一口目と二口目で印象まで変わる。
全部理解できたわけではないし、産地や作り方を覚えて語りたいわけでもない。それでも、「赤だからこう」「白だからこう」と決めつけず、その日の料理と一緒に飲んでみるくらいなら私にもできそうだった。
昇格して受けられる仕事が増えたから、今日みたいな果樹園の依頼を見つけられたのかもしれない。そして、その仕事で見たものが夜の酒につながるなら、報酬が少し高くなること以上に、こういう偶然も悪くない。
明日は何を飲むかまだ分からないし、果実酒が続くとも限らない。それでも、今日一日で紫房実を見る目が少しだけ変わったことを思い出しながら、私は果実の甘い香りがまだわずかに残る口の中を確かめ、静かな夜道を歩いた。




