第21話「昇格試験って、飲み代も上がるんですか?」
朝、《銀鈴の宿》の食堂でいつもの黒パンをちぎっていると、昨日までとは少し違うことを考えていた。
昨日は東市場の天幕張り替えで九百ゴールドを稼ぎ、昼食に百、宿代に三百、《暮杯亭》で四百五十使ったので、その日の稼ぎから残ったのは五十ゴールドだった。大きく残せたわけではないけれど、麦酒を二杯飲み、角豚の塩焼きと焼き黄根まで食べたのだから、使い方としては十分納得している。
最近の私は千前後の依頼ならそれほど身構えず受けられるようになり、仕事の内容によっては千二百や千五百を選ぶことも増えていた。もちろん、まだ失敗することはあり、泥で滑ることもあれば、荷車の坂で苦労したり、依頼票を最後まで読めと注意されたりもする。それでも、この街へ来たばかりの頃よりは、自分がどこまでできるのか少し分かるようになってきた。
そのせいだろうか。
昨日、ギルドを出る直前に受付員から言われた言葉が、朝になっても頭へ残っていた。
「そろそろ昇格試験、受けてもいい頃ですよ」
その場では「試験?」としか返せなかった。
冒険者ギルドに登録した当初、依頼には難易度や経験に応じた区分があると説明されたのは覚えている。ただ、当時は今日食べるものと宿代の方が重要で、上の区分へ行けば受けられる依頼が増える、くらいにしか考えていなかった。
それが今では少し事情が違い、受けられる仕事の幅が広がって報酬の高い依頼も増えるのなら、そのぶん夜に使える金額も増える可能性がある。いつもなら値段を見て見送る酒や、少し高い肉料理に手が届く日も出てくるかもしれない。
「……昇格試験って、飲み代も上がるんですか?」
朝食の豆スープを見ながら呟いたところで、当然ながら誰も答えてくれなかった。
実際には、階級が上がったからといって自動的に酒代が支給されるわけではない。それくらいは分かっている。それでも、仕事を選べる範囲が広がること自体は悪くないし、英雄になるつもりも、強い魔物を倒して名を上げたいわけでもない私にとっては、夜の選択肢が少し増えるというだけでも十分な理由になる。
「これは大事だな」
朝食を終え、短剣と革袋を確認してから冒険者ギルドへ向かった。
昨日と同じ時間帯だったが、今日は依頼板へ行く前に受付へ向かう。
対応してくれたのは、細身で淡い茶色の髪を整え、机の上へ何本もの判子を並べている男性受付員だった。
「昇格試験の話なんですけど」
「受けます?」
「まず何するか聞きたいです」
「そこからですね」
「試験って聞くと、いきなり強い魔物と戦わされそうで」
「そんなことしませんよ」
「よかった」
「今の区分から一つ上なら、実地確認です。戦闘だけでなく、判断、依頼内容の理解、報告まで見ます」
「普通の依頼みたい」
「ほぼそうです」
「試験官つき?」
「はい」
「見られながら仕事するの嫌だなぁ」
「みんな言います」
受付員は机の下から一枚の紙を取り出した。
《昇格実地確認・南西雑木林》
《内容:迷い角鹿二頭の誘導、および柵外への追い出し》
《危険度:低》
《想定所要:半日》
《試験完了報酬:二千五百ゴールド》
《注意:討伐不要。農地側へ戻さないこと》
最後の報酬を見た瞬間、私は紙をもう一度見た。
「二千五百?」
「試験報酬込みです」
「高くない?」
「試験官拘束と確認業務があるので、ギルド側の扱いが通常依頼とは少し違います」
「受験する側も二千五百もらえるんですよね?」
「合格でも不合格でも、依頼を成立させれば支払われます」
「不合格でも?」
「仕事した分は仕事した分です」
「ギルド、そこちゃんとしてる」
「当然です」
私は依頼票を見直した。
角鹿二頭を農地から遠ざけるのが目的で、討伐は必要ない。
「倒しちゃ駄目?」
「駄目ではありませんが、減点対象になる可能性があります」
「何で?」
「依頼主が欲しいのは死骸ではなく、畑から遠ざけることだからです」
「なるほど」
「必要のない討伐をする人が上位依頼へ行くと困りますから」
以前、商隊護衛でセラが灰牙犬を倒さず追い払ったときのことを思い出した。あのときも目的は敵を全滅させることではなく、商隊を安全に通すことだった。
強ければ何でも解決できるわけではなく、むしろ必要なことだけやる方が難しい場合もある。
「受けます」
「では試験官を呼びます」
「今?」
「今です」
「心の準備が」
「依頼は待ってくれません」
「正論ばっかりだなぁ」
しばらくすると、奥から一人の女性が出てきた。
三十代後半くらいで、濃い灰色の髪を短く切り、腰には細身の剣を提げている。革鎧は使い込まれているが手入れされていて、歩き方だけでも冒険者としてかなり慣れているのが分かった。
「試験官のラーナ」
「ミサキです」
「聞いてる。説明は?」
「受けました」
「依頼目的は?」
「迷い角鹿二頭を南西雑木林から農地と反対側の柵外へ追い出すこと。討伐は必要なし」
「報告は?」
「終わったら戻って報告」
「それだけ?」
少し考える。
「……農地へ戻さない?」
「依頼の注意事項としてはそれでいい。現地で見たことも報告して」
「分かりました」
ラーナはそれ以上何も言わず、先に歩き始めた。
試験官というから、もっと威圧的な人を想像していたが、静かな方が逆に緊張する。
「質問してもいいです?」
「いいよ」
「途中で助けてくれる?」
「死にそうなら」
「基準重いなぁ」
「迷い角鹿で死なないで」
「頑張ります」
ギルドを出る前に、昼食用として肉入りの薄焼きパンと小さな乾燥果実を買った。合わせて百三十ゴールドで、普段より少し高いが、試験の日くらいは腹持ちを優先してもいいだろう。
南西門を抜け、農地の外れへ向かう。
ラーナは必要なこと以外ほとんど話さず、私が歩く速度に合わせてくれているのは分かるものの、前にも後ろにも出ず、少し横へ距離を空けたままついてくる。見張られているようで落ち着かない。
「試験官ってずっと黙ってるんです?」
「受験者が何考えてるか見たいから」
「今、すごく帰りたいと思ってます」
「それも見えてる」
「怖い」
「でも帰らないでしょ」
「二千五百あるので」
ラーナが初めて少し笑った。
「理由は何でもいいよ」
目的地の農地では、依頼主の男性が待っていた。
名前はヘルム。五十代くらいで、日に焼けた顔に深い皺があり、腰には短い鉈を差している。畑の端には高さが胸くらいまである木柵が続き、その向こうに雑木林が広がっていた。
「ギルドか」
「ミサキです」
「角鹿二頭。朝方から林の中をうろついてる。昨日、ここの柵を越えて豆畑まで来た」
「壊された?」
「少し食われた。追ったら林戻ったけど、また来る」
「殺しても?」
聞いた瞬間、横にいるラーナの視線を感じた。
まずかったかなと思ったが、ヘルムは首を振った。
「できれば追い払ってほしい。角鹿は林の向こうへ行けば害じゃない」
「分かりました」
「北側へ追うなよ。そっち別の畑だから」
「じゃあ西か南?」
「西側の古い柵が開いてる。そこから出せれば一番いい」
「了解です」
依頼票には「農地と反対側の柵外」としかなかったが、現地で話を聞けば具体的には西側が望ましいらしい。ラーナは何も言わず、たぶんこういう確認も見ているのだろう。
ヘルムに角鹿を最後に見た位置を教えてもらい、雑木林へ入った。
迷い角鹿は、以前遠くから見た普通の鹿より一回り大きく、肩までの高さが私の胸近くまである。雄ではないのか角は短いが、名前の通り額の横へ枝分かれした硬い突起があり、正面から突っ込まれたらかなり痛そうだった。
最初の一頭はすぐ見つかった。
木の皮を齧っている。
「一頭」
小声で言うと、ラーナは頷くだけだった。
問題はどう追うかだ。
正面から近づけば逃げるだろうが、方向を間違えると農地へ戻る。周囲を見ると、西側は木々の間が少し広く、古い柵の隙間まで続いている一方、東側へ逃げれば農地側へ近づいてしまう。
「後ろ回ります」
ラーナへ告げたが、返事はない。
角鹿から距離を取り、大きく南側へ回り込む。枝を踏まないよう歩いていたつもりだったが、一度乾いた小枝を踏んでしまい、ぱきりと音がした瞬間に角鹿が顔を上げた。
「まずい」
こちらを見る。
私も止まる。
しばらく見合ったあと、角鹿はまだ逃げなかった。
下手に突っ込めば農地側へ逃げる可能性があるので、近くに落ちていた長い枝を拾い、角鹿の正面へ出るのではなく、東側の茂みを強く叩いてみた。
がさっ、と大きな音がする。
角鹿の耳が動く。
もう一度叩くと、今度は身体を西へ向けた。
「行って」
三度目に茂みを叩くと角鹿が西へ走り出したので、追いかけるというより戻らないよう距離を取りながら後ろから圧をかける。途中で南へ曲がりそうになったところだけそちら側へ回り、枝を振って進路を戻すと、そのまま木々の間を抜け、古い柵の隙間から草地へ出ていった。
一頭目を無事に西へ追い出し、息を整えながら振り返ると、ラーナが少し後ろに立っていた。
「何点?」
「まだ言わない」
「厳しい」
「一頭終わっただけ」
「ですよね」
二頭目は少し時間がかかった。
林の奥まで探しても姿が見えないので、足跡や食べられた葉を頼りに探してみることにしたが、こういう痕跡を見る仕事にはまだ慣れていない。
「角鹿って足跡どれです?」
思わず聞く。
「試験中」
「ですよね」
答えてくれない。
「意地悪」
「聞けば全部教えてもらえる仕事は少ないよ」
「それは分かるけど」
地面を見ると蹄らしい跡はいくつかあったが、古いのか新しいのかまでは分からない。少し先へ進むと、低い枝の葉が途中からなくなっていて、高さはちょうど角鹿の口が届きそうな位置だった。その下にはまだ乾ききっていない糞らしいものも落ちている。
「こっちかな」
その方向へ進むと、さらに奥の小さな水たまりのそばで二頭目を見つけた。
こちらは一頭目より警戒心が強く、私を見た瞬間に北東へ走り出した。
「待って!」
言っても待つわけがない。
「まずい!」
北東は農地側だ。
横へ回り込もうとするが、短剣を抜く必要はないし、走って正面へ追いつける距離でもない。私は足元の小石を拾い、角鹿の進行方向より少し先の木へ投げた。
石が幹へ当たり、乾いた音が響く。
角鹿が進路を変えたものの、今度は北へ向かった。
「そっちも畑!」
さらに走る。
ラーナは後ろからついてくるが、手を出さない。
こういうとき、試験官という存在は本当に腹立たしい。でも助けてもらって合格しても意味がないので、角鹿の前を塞ぐのは諦め、もう一度音で方向を変えることにした。
今度は枝を拾う余裕がない。
「そっちじゃない!」
私は声を張った。
当然意味は通じないが、大声に驚いた角鹿が少し西へ逸れた。
「よし、そのまま!」
必死に追っているうちに息が上がり、昨日までは天幕や荷車と格闘していたのに、今日は鹿を追って林の中を走っているという冒険者仕事のまとまりのなさが、少しおかしくなった。
角鹿は西側の林へ向かい、そのまま一頭目と同じ古い柵の近くまで走った。
ここまで来れば、あとは戻さないようにすればいい。
私は少し距離を取って東側から近づき、角鹿がこちらを警戒する位置を保つ。鹿が一歩西へ下がればこちらも一歩進み、それを何度か繰り返すうちに、急に走らせるよりこの方がいいのだと分かった。
「ゆっくりでいいから」
聞こえているはずはないけれど、声をかける。
角鹿は最後に一度だけこちらへ身体を向けた。
少し嫌な予感がする。
「突っ込まないでね」
角鹿が前脚を踏み鳴らした。
「それ、突っ込む前のやつ?」
ラーナが後ろで言った。
「たぶんね」
「今だけ答えるんだ」
「危ないから」
「もっと早く!」
角鹿が一歩前へ出たので、私は慌てて正面から外れる。
同時に大きく腕を広げて横へ動くと、鹿の視線がこちらを追い、その間に身体の向きが少し西へ変わった。
今だ。
地面を強く踏み鳴らし、大きな声を出す。
「はい、向こう!」
角鹿はびくりとし、そのまま西へ走って古い柵を抜け、草地へ出ていった。
今度こそ農地とは反対側だ。
十分離れるまで確認してから、その場へしゃがみ込む。
「疲れた……」
ラーナが近づいてくる。
「怪我は?」
「ないです」
「鹿も?」
「たぶんない」
「依頼主の農地?」
「戻ってない」
「じゃあ戻ろう」
「点数は?」
「報告終わってから」
「まだあるんだ」
「試験だからね」
林を出て、ヘルムのところへ戻る。
「二頭とも西へ出しました」
「追い出せたか」
「はい。一頭目はすぐ、二頭目はちょっと農地側へ行きかけましたけど、古い柵から西へ出ました」
「怪我は?」
「させてません」
「ならいい」
ヘルムが柵越しに林を見たあと、頷いた。
「しばらく戻らなきゃ大丈夫だろ」
依頼完了の印をもらい、そのまま近くの木陰で昼食にした。
肉入り薄焼きパンを広げると、朝よりずっと美味しそうに見える。中には細かく刻んだ角豚肉と豆が入り、少し強めの塩味がついていたので、走ったあとにはちょうどよかった。
一口食べる。
「おいしい」
「走ったからね」
ラーナが少し離れたところで自分のパンを食べている。
「試験官も食べるんですね」
「人間だから」
「ずっと見てるから食べないのかと思ってた」
「そこまでしない」
「評価どうです?」
「まだ」
「食事中くらい教えて」
「報告終わってから」
徹底している。
乾燥果実も食べ、水を飲んでからギルドへ戻った。
受付へ依頼票を出すと、試験開始前と同じ男性受付員が確認した。
「では報告してください」
「迷い角鹿二頭を確認。一頭目は西側へ音で誘導して古い柵から外へ。二頭目は私を見て北東へ逃げたので、音と声で西側へ進路を変えて、最後は古い柵から外へ出しました」
「農地被害は?」
「追加ではなし」
「角鹿への負傷は?」
「なし」
「現地で気づいたことは?」
少し考える。
「依頼票だと『農地と反対側』でしたけど、現地では西側へ追い出すのが一番いいって分かりました。北側にも別の畑があるので、ただ農地から離せばいいわけじゃなかったです」
受付員が頷く。
「ほかには?」
「二頭目は警戒が強くて、追いすぎると逆に農地側へ逃げる可能性がありました。あと、最後に突っ込まれそうになりました」
「そこは?」
「正面から外れて、向きを西へ変えてから追いました」
受付員がラーナを見る。
ラーナは少しだけ考えてから、短く言った。
「合格で」
「え?」
思わず聞き返した。
「合格」
「終わり?」
「終わり」
「もっと何か言われるかと思ってた」
「じゃあ言う?」
「怖いからいいです」
「判断は悪くなかった。最初から倒す選択をしなかったこと、現地で西が最適と確認したこと、二頭目を追いすぎず向きを変えたこと。この区分なら十分」
「よかった」
「ただ、走りながら喋りすぎ」
「それ関係ある?」
「息切れるよ」
「確かに」
受付員が新しい登録札を出した。
「これで一段階上の依頼も受けられます。ただし、上の区分だから必ず報酬が高いわけではありません」
「そこ大事ですね」
「危険度も上がります。報酬だけ見て選ばないでください」
「気をつけます」
「本当に?」
「飲み代は大事ですけど、怪我したら飲めないので」
「その理由なら忘れなさそうですね」
そして、試験報酬として二千五百ゴールドが支払われた。
硬貨を受け取った瞬間、財布がいつもより明らかに重くなった。昼食百三十と宿代三百を引いても二千七十残るので、いつものように五百や六百の夜へ抑えればかなり残せる。
「昇格した日くらい……」
口に出しかけて止める。
受付員がこちらを見る。
「何です?」
「何でもないです」
「飲み代ですね」
「何で分かるの」
「分かります」
ギルドを出てから、今日の夜予算を考えた。
普段なら六百でも十分で、少し使って七百くらいだろう。でも今日は昇格試験を終え、二千五百稼いだので、いつもより少し良い店へ入ってみてもいい。
「千ゴールド……は使いすぎかな」
一瞬そう思ったが、二千五百から昼食と宿代を引いた残りは二千七十あり、夜に九百使っても千百七十残る。
「九百」
そう決めた。
別に昇格した自分を祝うために豪華な宴会をしたいわけではない。ただ、普段なら値段を見て見送る店へ一軒くらい入ってみたい。
一度宿へ戻り、走ったせいで汗ばんだ服を替え、少し休んでから夕方の街へ出た。
今日は安い店を探すつもりはなかったが、だからといって高級そうな場所へ入る勇気もない。歩きながら何軒か品書きを見ていくと、一軒目は肉料理が五百以上で、二軒目は酒だけで三百を超えていたので、どちらも今の自分には少し違うと感じた。
三軒目は大通りから少し外れた静かな通りにあり、入口には葡萄のような紫色の実を描いた看板が下がっていた。
《葡灯亭》
店先の品書きを見る。
《赤果実酒 一杯二百二十ゴールド》
《白果実酒 一杯二百ゴールド》
《軽麦酒 百三十ゴールド》
《白角羊香草焼き 三百二十ゴールド》
《熟成白酪 百八十ゴールド》
《焼き茸と薄麦餅 百六十ゴールド》
《酸葉菜 九十ゴールド》
《本日の温皿 二百四十ゴールド》
「ちょっと高い」
でも、手が届かないほどではない。
九百の予算なら、酒二杯と料理二品は難しくても、果実酒一杯としっかりした料理、それから何か小さな追加くらいならいける。
「今日はここかな」
店へ入ると、これまで入った店より静かだった。
カウンターは六席だけで、奥に二人掛けの卓が四つ。木の壁には細長い瓶が並び、照明も少し暗い。仕事帰りの職人より、商人や少し余裕のありそうな客が多いように見えた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは四十代くらいの男性だった。
細身で、黒髪を後ろへ撫でつけ、白いシャツの上に濃い葡萄色の前掛けをつけている。これまでの店主たちより少し丁寧な話し方だった。
「一人です」
「こちらへどうぞ」
カウンターへ案内される。
椅子まで少し座り心地がいい。
「何かお決まりですか?」
品書きをもう一度見る。
「赤果実酒と、白角羊香草焼きください」
「赤は軽めと渋め、どちらになさいます?」
そこで止まる。
「……違うんですか?」
「かなり」
「どっちが肉に合います?」
「白角羊でしたら渋めをおすすめします」
「じゃあそれで」
「かしこまりました」
いつもの店なら「麦酒とこれ」で終わるのに、ここでは酒の種類まで聞かれたので、少しだけ緊張する。
すぐに細い脚のついた杯が置かれた。
赤果実酒は深い赤紫色で、麦酒のような泡はなく、香りを嗅ぐと甘い果実の匂いの奥に、木や乾いた皮のような匂いが混ざっている。
一口飲む。
「……渋い」
「最初はそう感じます」
店主が少し笑った。
確かに甘くはなく、舌の横へ酸味が広がったあと、口の内側が少しきゅっとなるような渋さが残る。ただし、以前飲んだ強い酒のように喉が熱くなるわけではなく、味そのものが長く残る感じだった。
「前の世界で飲んだ赤ワインに近い」
思わず小さく呟く。
もちろん同じではない。
こちらの酒は《紫房実》という果実を発酵させたものらしく、香りに少し土っぽさがある。
「この実、葡萄みたいなもの?」
「葡萄?」
「私のいたところの果物です。房になって、丸い実がいっぱいつくやつ」
「なら似ているかもしれませんね。《紫房実》も房になります」
「やっぱり」
「ただ、こっちは皮の苦味が強いので、赤酒は皮ごと発酵させると渋くなります」
「なるほど」
前の世界の知識がそのまま通じるわけではないが、似た仕組みはあるらしい。
少しして白角羊の香草焼きが出てきた。
白角羊の肉は薄く切られ、三枚重ねるように盛られている。表面には細かな香草と粗塩が振られ、横には焼いた白根菜と紫色の小さな実が添えられていた。
「紫の実は?」
「《酸紫実》です。肉と一緒にどうぞ」
「酸っぱい?」
「かなり」
「最近酸っぱいもの多いなぁ」
「お嫌いですか?」
「好きです。でも毎回油断する」
まず肉だけ食べる。
白角羊は、以前食べた羊系の肉より香りが穏やかで、脂は少なく、柔らかいが完全にほぐれるほどではない。そこへ香草の青い香りが重なり、前の世界なら羊肉のローストに近いものの、こちらの白角羊には身そのものにわずかな甘さがあった。
次に赤果実酒を飲む。
「合う」
さっき単体では強く感じた渋さが、肉の脂と一緒になると急に落ち着いた。
酒が肉を軽くし、肉が酒を丸くする。
「こういうのか」
「何か?」
「高い酒って、単体で高いんじゃなくて、料理と一緒に飲むと分かることあるんだなって」
「安い酒でも同じですよ」
「そうですね」
「ただ、香りの幅が広い酒は、合わせ方で印象が変わりやすいです」
「難しい」
「楽しめれば十分です」
その言い方は少し気に入った。
カウンターの反対側には、二人組の男性客が座っていた。一人は四十代くらいで上等な外套を椅子へ掛け、もう一人は三十代くらいで帳面を膝へ置いている。
「だから南倉庫の契約、今日中って言っただろ」
「先方が印を持ってなかったんですよ」
「印くらい持って来いって話だ」
「向こうは『聞いてない』って」
「こっちは言った」
「言った人、昨日休みです」
「最悪だな」
聞こえてくる愚痴は、いつもの荷運びや工房とは少し種類が違うものの、内容は結局同じだった。言った、聞いていない、担当がいない、それでも期限だけは決まっているという、前の世界でも何度も聞いた種類の話である。
少し笑ってしまう。
帳面を持った男性がこちらを見る。
「何か?」
「すみません。似た話、前の仕事でもあったなって」
「どんな仕事?」
「説明が難しいですけど、言った言わないで揉める仕事です」
「じゃあ同じだ」
「世界変わっても同じなんですね」
「世界?」
「こっちの話です」
余計なことを言いそうになり、赤果実酒を飲む。
現在の会計は酒二百二十、肉三百二十で五百四十。予算九百から三百六十残っているので、もう一杯同じ赤を頼むこともできるし、熟成白酪百八十や焼き茸と薄麦餅百六十を追加することもできる。
今日は高めの店を経験することが目的で、予算を使い切ることが目的ではない。
そう考えていたとき、隣の席へ小さな木板が運ばれてきた。
白い塊が薄く切られ、何か赤茶色の粉が振られている。
「それ何です?」
思わず店主へ聞いた。
「熟成白酪です」
「チーズみたいなやつ?」
「山羊乳を固めて熟成したものです」
「百八十ですよね」
「はい」
気になる。
しかも赤果実酒と合いそうだ。
「……ください」
「かしこまりました」
予定外の一品として熟成白酪を追加し、会計は七百二十になったので、予算から残るのは百八十。もう一杯の赤果実酒には足りないが、軽麦酒百三十なら頼める。
ただ、今日は無理に酒を増やさなくてもいい気がした。
熟成白酪は三切れだった。
見た目は白いが、外側だけ少し黄色く乾いている。表面へ振られている赤茶色の粉は《焙香種》という種を炒って砕いたものらしい。
一切れ口へ入れる。
「濃い」
最初に塩気が来て、そのあと山羊乳らしい独特の香りと、ねっとりした旨味が広がる。前の世界で食べた熟成チーズに近いけれど、もう少し酸味が強く、後味に草のような香りが残った。
そこへ赤果実酒を少し飲む。
「……これも合う」
「白酪は赤酒によく合います」
「先に言ってください」
「聞かれませんでしたので」
「今日そればっかりだなぁ」
店主が笑う。
「二杯目、どうします?」
「残り予算百八十なんです」
「でしたら白酒は二百なので少し超えますね」
「超えないです」
「きっぱり」
「予算は守るって決めてるので」
「では軽麦酒?」
少し考える。
赤果実酒はもう半分以下で、肉は食べ終わり、白酪が二切れ残っている。軽麦酒でも合わなくはないだろうが、せっかく今日は赤果実酒を飲んでいるのに、最後だけ麦酒へ戻す必要もない気がした。
「水ください」
「無料ですよ」
「それで」
「かしこまりました」
隣の客が少し驚いた顔をした。
「飲まないの?」
「今日はここまでです」
「昇格祝いとか?」
なぜ分かったのかと思ったら、首元から新しい登録札が少し見えていたらしい。
「ああ、これ」
「今日上がった?」
「はい」
「なら飲めばいいのに」
「飲みたいんですけど、予算超えると明日の私に怒られるので」
「真面目だな」
「飲み代に関しては」
自分で言って、少しおかしくなる。
今日の試験で見られたのは、必要以上に角鹿を傷つけず、依頼内容を現地で確認し、求められているところまで仕事を終えることだった。夜になれば、今度は自分の財布に対して、使えるからといって必要以上に使わないよう考えている。
結局、仕事でも飲みでも、できることを全部やればいいわけではなく、その日に必要なところまでやれば十分なのかもしれない。
水を飲みながら残りの白酪を食べると、酒ではないのに意外と満足感があった。
「会計お願いします」
「七百二十ゴールドです」
赤果実酒二百二十、白角羊香草焼き三百二十、予定外に追加した熟成白酪百八十で、合計七百二十ゴールド。夜予算九百からは百八十残り、今日の報酬二千五百から昼食百三十、宿代三百、夜七百二十を引けば、千三百五十ゴールドが残る。
「結構残った」
「昇格初日なら上出来じゃない?」
隣の男性が言う。
「何がです?」
「金も仕事も」
「そうかも」
店主へ硬貨を渡し、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「またどうぞ」
「赤果実酒、美味しかったです」
「次は白も試してください」
「機会があれば」
店を出ると、静かな通りへ冷たい風が流れていた。
今日は朝から昇格試験という言葉に少し身構えていたが、実際に求められたのは強い魔物を倒すことでも難しい技を見せることでもなく、依頼の目的を理解し、現地で話を聞き、必要以上のことをせずに終わらせることだった。私が想像していたよりずっと普通の仕事に近く、その普通の仕事をきちんと最後までやれるかどうかを見られていたのだと思う。
そして報酬は二千五百ゴールドで、今までならかなり大きな金額だったし、今でも十分大きい。ただ、その全部を使う必要はない。
今日は少し良い店へ入り、普段なら選ばない赤果実酒を飲み、白角羊と熟成白酪まで食べた。それでも千三百五十ゴールド残ったのだから、昇格したからといって急に飲み方まで変える必要はなかった。
「昇格試験って、飲み代も上がるんですか?」
朝に自分で言った言葉を思い出して、少し笑う。
正確には、飲み代が勝手に上がるわけではなく、受けられる仕事が増え、選べる店や料理も少し増える。その中から、その日の自分がどこまで使うかを決めればいい。
「……でも、ちょっと良い酒は飲めるようになるかも」
それなら昇格した意味は、私にとって十分あった。
新しい登録札が歩くたび胸元で小さく鳴るのを聞きながら、私はいつもより少しだけ重い財布を確かめ、夜の通りをゆっくり歩いた。




