第20話「今日も働いた。だから一杯くらいいいでしょう」
朝、《銀鈴の宿》の食堂へ降りると、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降るほど暗くはないけれど、気持ちよく晴れる気配もない。こういう日は身体まで少し重く感じるもので、私は黒パンを豆と刻み野菜の薄いスープへ浸しながら、今日はどのくらい働くべきかをぼんやり考えていた。
昨日は北門外から共同浴場まで薪二十束を運び、報酬はちょうど千ゴールドだった。昼食に九十、宿代に三百、《小銭亭》で三百八十使ったので、その日の稼ぎから二百三十ゴールド残せた。
昨日一日かけて考えた結果、千ゴールドは今でも十分大きな金額なのだと、自分の中でも少し確認できた。だからといって、今日は八百ゴールドでいいとか、逆に二千稼がなければいけないとか、そういう話でもない。その日にできそうな仕事を選び、必要なだけ稼いで、夜に無理なく一杯飲めれば、今の私にはそれで十分だった。
「……でも、働かないで飲むのはちょっと違うんだよね」
休みの日に飲む酒が嫌いなわけではなく、前の世界でも休日の昼から飲むことはあったし、それはそれで幸せだった。ただ、この世界へ来てからは、その日の仕事を終え、報酬を受け取り、財布の中身を確認してから店を探す流れがすっかり身体へ馴染んでいる。
今日も働いたから飲む。それだけのことなのに、その順番を守った日の方が、なぜか最初の一口は美味しい気がする。
朝食を終えて部屋へ戻り、短剣と革袋を確認してから冒険者ギルドへ向かった。
依頼板の前はいつも通り混んでいて、朝一番の人気依頼はすでに何枚か剥がされていた。残っている紙の中から今日の体調と相談しながら探していくが、昨日は荷車を押したので腕と肩に少し張りがあり、魔物相手に全力で走り回る仕事はできれば避けたい。
西農地の害獣駆除が千三百、南街道の短距離護衛が千五百、北倉庫区の樽運搬が千百。その横に、少し地味な依頼票があった。
《東市場区・共同天幕張り替え補助。支柱確認、布張り、固定縄交換。報酬九百ゴールド。半日予定》
「天幕かぁ」
市場の屋根代わりに張ってある大きな布の交換だろう。戦闘はなく、荷物運びほど重くもなさそうで、半日九百なら今日の気分にはちょうどいい。以前なら千を切っていることを少し気にしたかもしれないが、千ゴールドの価値を改めて考えたばかりなので、九百という報酬を軽く見る気にもならなかった。
依頼票を持って受付へ向かう。
今日の担当は、肩まである栗色の髪を後ろでまとめた女性だった。
「東市場区の天幕交換ですね」
「はい。これ、布を張るだけです?」
「支柱確認、古布撤去、新しい天幕の固定、傷んだ縄の交換までです」
「思ったよりある」
「依頼票に全部書いてあります」
「最近それ言われること多いなぁ」
「読んでください」
「読んではいるんですけど、題名が一番簡単そうに見えるんですよね」
「依頼名を全部書いたら紙が足りません」
「それもそうか」
受付員が依頼票へ印を押す。
「現地責任者はメイラさんです。東市場の中央広場へ行けば分かります」
「昼までに終わります?」
「問題がなければ」
「その言い方、問題あるときのやつじゃない?」
「天幕ですから、魔物は出ませんよ」
「最近、魔物より追加作業の方が怖いです」
「冒険者らしくないですね」
「長く生きるには大事だと思います」
受付員が少し笑った。
ギルドを出たあと、昼食用に黒麦パンと薄切りチーズ、それから小さな塩漬け野菜の包みを買った。合わせて百ゴールドだったので、今日の報酬九百から考えても十分収まる。
東市場へ着くと、朝の商売はすでに始まっていた。
野菜、豆、乾燥肉、布、陶器、道具などを扱う露店が道の両側に並び、客と店主の声がいくつも重なっている。市場の中央には太い木の支柱が何本も立ち、その上に大きな天幕が張られていたが、今日交換するらしい一角だけはかなり傷んでいた。
薄茶色の布には何か所も補修跡があり、端の一部は裂け、縄も毛羽立っている。
「ギルドの人?」
声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの女性だった。
名前はメイラ。焦げ茶色の髪を頭の後ろでひとまとめにし、腰には短い縄と木槌、金具を入れた革袋を下げている。細身ではあるものの腕には筋肉がついていて、どう見ても天幕を指示するだけの人ではなさそうだった。
「ミサキです」
「九百の依頼ね」
「金額で覚えてるんです?」
「仕事頼む側は覚えてるよ」
「私も受ける側なので覚えてます」
「なら話早いね。まず古い布外すよ」
メイラに案内され、交換する区画の下へ入る。
古い天幕は四本の支柱と、周囲の建物から伸ばされた縄で固定されていた。最初に露店の店主たちへ声をかけて荷物を少し動かしてもらい、それから端の縄を順番に外していく。
「一気に外さないで」
「どうして?」
「風来たら布持ってかれる」
「なるほど」
「二本残して畳みながら落とす」
「分かりました」
言われた通り端から少しずつ固定を外していったが、途中で弱い風が吹いた瞬間、天幕全体が大きく膨らんだ。
「うわっ」
「押さえて!」
「はい!」
布の端を両手で掴むと、風を受けた天幕が一気に重くなり、腕ごと持っていかれそうになる。メイラと二人で布を押さえ、風が弱くなったところで残りの縄を外すと、地面へ下ろされた天幕は、さっきまでの暴れ方が嘘のようにただの大きな布へ戻った。
「天幕って重いんじゃなくて、風で重くなるんだ」
「今知った?」
「今知りました!」
「覚えときな!」
市場仕事は思っていたより油断できないらしく、メイラによれば風だけではなく、ときどき積み上げた箱が落ちてくることまであるという。詳しく聞くと余計な不安が増えそうだったので、その話は聞かなかったことにした。
古い天幕を畳み終えると、そのまま四本の支柱を順番に確認していった。三本は問題なかったものの、一本だけ根元の固定金具が緩んでいて、メイラが木槌で叩いて確かめたあと、私にも支柱を揺らすよう指示した。
「これ、少し動きます」
「だね。金具打ち直す」
「追加作業?」
「支柱確認まで依頼に入ってるよ」
「逃げ道がない」
「ちゃんと読んで受けな」
「受付でも言われました」
「なら二回目だね」
どうやら今日は、依頼票をちゃんと読めと言われる日らしい。
固定金具を外して位置を少し変え、私が支柱を押さえている間にメイラが木槌を振るう。乾いた音が何度も市場へ響くと、近くで野菜を売っていた年配の男性がこちらを見た。
「昼までに終わるか?」
「終わらせるよ」
メイラが答える。
「昨日から日差し入って野菜しおれるんだ」
「昨日言っただろ。新しい布が朝届くって」
「朝っていつだ」
「朝は朝だよ」
「もう朝終わるぞ」
「布屋に言って」
「市場管理の仕事だろ」
「布屋が遅れたんだよ」
男性はぶつぶつ言いながら店へ戻っていった。
「大変ですね」
私が言うと、メイラが木槌を振りながらため息をつく。
「店主は客に言われる。市場管理は店主に言われる。布屋は荷車が遅れたって言う」
「その荷車は?」
「道が混んでたって」
「誰か一人くらい悪い人いないんです?」
「いた方が楽なんだけどね」
「分かる」
前の世界でも似たようなことは何度もあった。取引先から荷物が届かず、担当部署へ聞けば別会社へ確認すると言われ、その別会社からは配送が遅れていると言われ、最後には客と直接話している人だけが怒られる。世界が変わっても、仕事の遅れが順番に誰かの愚痴へ変わっていくところは同じらしい。
支柱を直し終えた頃、新しい天幕が荷車で届いた。
降ろされた布は古いものより少し明るい黄土色で、地面へ広げるだけでもかなり大きい。四隅を確認してから支柱へ仮止めしていくが、古い天幕を外すより、新しいものをきれいに張る方が難しかった。
「そっち、もう少し」
「これくらい?」
「引きすぎ。少し戻して」
「難しい」
「屋根は真っすぐじゃなくていい。雨が流れるように少し傾ける」
「見た目より水優先?」
「市場だからね。雨溜まって落ちたら商品全部濡れる」
「それは嫌だ」
引っ張り方が弱ければ中央が垂れ、強すぎれば片側だけに皺が寄る。何度か張り直し、雨水が流れるよう片側をわずかに低くしてから、ようやくメイラが納得した。
最後に傷んだ縄を二本交換し、固定箇所を一つずつ確認していく。
作業を始めたときには裂けた布の隙間から見えていた空が、新しい黄土色の天幕でほとんど隠れていた。布を通した光は少し柔らかく、その下に並ぶ野菜や陶器へ均等に落ちている。
「お、いいじゃないか」
さっきの野菜売りが言う。
「昨日よりマシだろ」
メイラが返す。
「昨日よりな」
「素直に褒めな」
「雨漏りしなきゃ褒める」
「降るまで待つ気?」
「市場の天幕は雨の日が本番だろ」
「それはそうだけど」
私は二人のやり取りを聞きながら、新しく張った天幕を見上げた。
今日は何かを倒したわけでも、珍しいものを見つけたわけでもない。それでも、さっきまで裂けた布だった場所へ新しい屋根が張られ、その下で店主たちが普通に商売を再開しているのを見ると、仕事が一つ終わったという感覚はしっかりあった。
「これで終わりです?」
「最後に古布運んで終わり」
「まだあった」
「捨て場までそこだから」
「それならいいです」
「本当に追加作業嫌いだね」
「予定にあるなら嫌いじゃないです。予定にないのが嫌なんです」
「冒険者向いてる?」
「最近ちょっと自信なくなってきました」
古い天幕を市場裏の回収所へ運び、依頼票へ完了印をもらった頃には、時計代わりの鐘が昼を知らせる少し前になっていた。
「ちゃんと半日」
「疑ってた?」
「少し」
「九百ならこんなもんだよ」
「九百でも十分です」
「そう?」
「昨日ちょっと考えることがあって」
「金の話?」
「大体そうです」
「冒険者ってもっと魔物の話するもんじゃないの?」
「私、夜ご飯の方が大事なので」
「平和でいいね」
市場の端にある石段へ座り、朝買っておいた黒麦パン、薄切りチーズ、塩漬け野菜を食べた。黒麦パンは少し硬いがチーズと一緒ならちょうどよく、塩漬け野菜の酸味が口をさっぱりさせてくれる。百ゴールドの昼食としては十分で、身体を使ったあとにはもう少し肉が欲しい気もしたが、その分は夜に回せばいい。
ギルドへ戻り、依頼票を提出すると、受付員が完了印を確認した。
「問題ありませんね。九百ゴールドです」
「ありがとうございます」
受け取った硬貨を革袋へ入れながら計算すると、昼食に百、宿代に三百を確保したあと、今日の稼ぎから自由に使えるのは五百ゴールドだった。昨日は夜の予算を四百に抑えたので、今日はもう少し使っても問題ない。
「夜予算、四百五十」
少しだけ残す前提で決めた。
昨日の《小銭亭》ほど安さを意識するつもりはないが、豪華な料理を食べたい気分でもない。今日欲しいのは、天幕と格闘した腕を休めながら飲める一杯と、ちゃんと腹に入る一皿だった。
一度《銀鈴の宿》へ戻り、布を引っ張ったせいで少し張っている腕を休ませる。夕方になってから、今度は東市場とは反対側の住宅区寄りを歩いた。
最初の店はかなり賑やかで、入口からでも大人数の笑い声が聞こえてきたので見送った。二軒目は静かだったが、品書きを見ると酒より食事が中心で今日は少し違う。さらに細い道へ入ったところで、一日の終わりを表すように傾いた太陽と杯が描かれた小さな看板を見つけた。
《暮杯亭》
「いい名前」
店先の品書きを確認する。
《麦酒 百ゴールド》
《香麦酒 百三十ゴールド》
《角豚塩焼き 百七十ゴールド》
《白豆と燻し肉煮 百四十ゴールド》
《焼き黄根 八十ゴールド》
《酢葉菜 六十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
《本日の焼き皿 百六十ゴールド》
四百五十あれば、麦酒二杯と料理一品でも十分収まる。
店へ入ると、中はカウンター八席と四人掛けの卓が三つで、壁には仕事道具らしい古い木槌や鋏、壊れた秤などが飾られている。店の奥では炭火が赤く光り、肉の焼ける匂いが漂っていた。
「一人?」
声をかけてきた店員は、三十代後半くらいの女性だった。
濃い黒髪を高い位置で結び、袖を肘まで捲っている。動きは速いが、声は意外と落ち着いていた。
「一人です」
「カウンター好きなとこどうぞ」
端から三番目の席へ座る。
「麦酒と、角豚塩焼きください」
「百と百七十で二百七十」
「お願いします」
四百五十の予算から二百七十なので、残りは百八十。最初から二杯目まで頼める金額ではあるが、今日はまず一杯飲んでから考えることにした。
木杯に入った麦酒が置かれた。
色は明るい琥珀色で、泡は指一本分くらい。香りは麦が中心で、最近飲んだ魚料理向けの軽い酒や安い薄麦酒より少ししっかりしている。
一口飲むと、最初に麦の甘さがあり、そのあとに穏やかな苦味が残った。強すぎず、薄すぎず、何か特別な香草が入っているわけでもない普通の麦酒なのに、今日はそれが妙に美味しく感じられた。
「……ああ」
思わず声が漏れる。
「疲れてた?」
店員が聞く。
「そこまでじゃないんですけど、今日ずっと大きい布引っ張ってたので」
「市場?」
「東市場の天幕」
「ああ、張り替えてたね」
「見たんです?」
「昼に買い出し行ったから。新しいの黄色いやつでしょ」
「それです」
「じゃあ今日の日陰、あんたが作ったんだ」
「メイラさんとですけど」
「十分十分」
何となく照れくさくなり、もう一口飲む。
少しして角豚塩焼きが出てきた。
厚さは指一本ほどで、手のひら半分くらいの肉が四切れ。表面にはしっかり焼き目が入り、脂の部分が少し透明になっている。横には刻んだ緑色の香草と、黄色い粒を潰したものが添えられていた。
「黄色いの何です?」
「《黄粒実》。酸っぱいよ」
「辛くはない?」
「少しだけ苦い」
「じゃあつけてみます」
最初は何もつけずに肉を食べる。
角豚は以前にも何度か食べているが、この店のものは脂を少し残して厚く切っている。表面は炭火で香ばしく、中は柔らかく、噛むと脂の甘さと強めの塩気が広がった。
前の世界なら、豚バラを少し厚く切って炭火で焼いたものに近いだろうか。ただ、角豚は普通の豚肉より身の部分に弾力があり、脂も口の中へべったり残るというより、噛むほど甘さが出る。
次に《黄粒実》を少しつけて食べると、想像していたより強い酸味が舌へ広がった。
「酸っぱ」
店員が笑う。
「つけすぎ」
「先に言って」
「少しって言ったよ」
「最近そればっかり言われる」
黄色い粒はかなり酸味が強いが、肉の脂と一緒になると印象が変わる。酸っぱさが脂を切り、そのあとにわずかな苦味が残るので、自然ともう一口麦酒を飲みたくなった。
「これ、肉のための実?」
「元は保存用。潰して塩と混ぜると肉が傷みにくい」
「調味料が先じゃないんだ」
「昔は保存用だったって店主が言ってた。今は焼いた肉につける方が多いけど」
「使い方変わったんですね」
「美味い方に残るんじゃない?」
「それは分かる気がする」
前の世界でも、保存のために生まれた料理や調味料が、いつの間にか味そのものを楽しむものになっていることはあった。こちらでも、必要から始まった食文化が、長く続くうちに「美味しいから使う」へ変わることがあるらしい。
カウンターの少し離れたところでは、二人の男性が飲んでいた。一人は五十代くらいで袖に細かな土が付き、もう一人は三十代くらいで革の肩当てを椅子の背へ掛けている。
「今日、昼休みなくなったぞ」
年上の男性が言う。
「何で?」
「壁塗り終わる前に雨来るかもって親方が」
「降らなかったじゃん」
「そう。降らなかった」
「最悪だな」
「しかも親方、昼食ってた」
「もっと最悪だ」
二人は揃って麦酒を飲み、年上の男性が「だから二杯目は親方につけたい」と言えば、もう一人が「無理だろ」と笑う。気持ちだけでも親方持ちにしたいらしい。
そのやり取りがおかしくて私も笑うと、年上の男性がこちらを見た。
「姉ちゃんも仕事帰り?」
「はい。市場の天幕張ってました」
「じゃあ腕疲れただろ」
「少し」
「飲め飲め。今日働いたんだから一杯くらいいいだろ」
その言葉に、朝からぼんやり考えていたことが、そのまま形になって出てきたような気がした。
「そうなんですよね。今日も働いた。だから一杯くらいいいでしょう」
「一杯で終わる?」
「そこは予算次第です」
「しっかりしてるな」
残り予算は百八十で、二杯目の麦酒は百なので、頼んでも八十残る。焼き黄根もちょうど八十だから、両方頼めば四百五十をきれいに使い切れる計算になる。
ただ、予算は使い切るためのものではない。
角豚はまだ二切れ残っていて、麦酒も三分の一ほどあるのだから、急いで決める必要もなかった。肉を一切れ食べ、麦酒を飲みながら店内を眺めていると、入口近くの卓へ別の客の料理が運ばれてきた。
小さな木皿に、黄色っぽい根菜が厚めに切られて並んでいる。表面には焼き目があり、何か黒い粉が振られていた。
「それ、焼き黄根です?」
店員へ聞く。
「そう」
「八十ですよね」
「八十」
「どんな味?」
「甘い。芋と根菜の間くらい。黒いのは《焦香種》」
「焦香種?」
「焼くと香り出る種。生だと苦い」
今日は一杯と一皿で十分だと思って入ったはずなのに、実物を見た途端に気持ちが揺れた。
「……焼き黄根ください」
「はいよ」
「麦酒は?」
「まだいいです」
予定外の一品は八十ゴールドなので、これで合計三百五十。予算四百五十からは百残る。
焼き黄根は、見た目だけなら厚切りのじゃがいもに少し似ていた。ただし色はもっと黄色く、断面は少し繊維質で、表面へ薄く油を塗って焼いているらしく、焦げ目のところだけ香ばしい。
一切れ食べると、最初にはっきりした甘さを感じた。
芋のようなほくほく感はあるものの、噛むと少ししゃきっとした繊維が残る。さつまいもほど甘くはなく、人参ほど青臭くもない。そこへ《焦香種》の黒い粉が加わると、軽い苦味と焙煎したような香りが出て、甘さだけが口に残らなくなる。
「これ、酒のつまみになるんだ」
「甘いだけだと酒に合わないからね」
「黒いの大事ですね」
「うちの店主、何でも酒に合わせたがるから」
「居酒屋として正しい気がする」
角豚の脂を食べたあとに焼き黄根を挟むと、今度は根菜の甘さが口の中を落ち着かせる。さらに麦酒を飲めば《焦香種》の苦味が麦酒の苦味とつながり、単純な根菜焼きなのに、食べる順番を変えるだけで印象まで少し変わった。
残っていた一杯をゆっくり飲み切った時点で、会計は三百五十ゴールド。予算四百五十から残っている百ゴールドは、二杯目の麦酒とちょうど同じ金額だった。
「……できすぎてるなぁ」
店員が聞く。
「何が?」
「残り予算と二杯目が同じです」
「じゃあ飲めば?」
「その言い方が一番危ない」
「飲みたくないならやめればいい」
「飲みたくないわけではないんですよね」
「じゃあ自分で決めな」
「正しい」
腹はかなり満たされ、酒も一杯飲んだので、ここで帰っても十分満足している。それでも、もう少しだけこの店に座っていたいという気持ちは残っていた。
前の世界でも、二杯目を頼む理由は喉が渇いているからだけではなかった。仕事のことを頭から追い出し、家へ帰る前にもう少しだけ何も考えない時間が欲しくて、グラスを空にしたあと追加することがあった。
「麦酒、もう一杯ください」
「はいよ」
追加で百ゴールドとなり、合計四百五十。今日決めた予算をちょうど使い切った。
二杯目の麦酒が置かれる。
一杯目と同じ酒なのに、今度は味を確かめるようにゆっくり飲んだ。
朝は、働かないで飲むのは少し違うと思っていた。別に働かなければ飲んではいけないわけではないし、誰かに許可をもらう必要もない。それでも私にとって、その日の仕事を終えてから飲む一杯には、自分で自分へ「今日はここまで」と区切りをつける意味があるのかもしれない。
今日は市場の古い天幕を外し、風に布を持っていかれそうになりながら押さえ、緩んだ支柱の固定金具を直し、傷んだ縄を交換して、新しい天幕を張った。その仕事を終えた証として九百ゴールドを受け取り、その中から宿代と昼食代を分けたあと、今こうして麦酒を飲んでいる。
「やっぱり美味しいなぁ」
「二杯目の方が?」
店員が聞く。
「一杯目も美味しかったです。でも二杯目は、今日もう何もしなくていい感じがします」
「分かる」
隣の男性が口を挟んだ。
「一杯目は仕事を流す酒で、二杯目は明日まで忘れる酒だ」
「三杯目は?」
「明日の朝を忘れる酒」
「それは駄目なやつ」
「だから今日は二杯」
「私も二杯で終わります」
男性たちが笑い、私もつられて笑いながら残っていた麦酒を飲んだ。
会計は麦酒二杯で二百、角豚塩焼き百七十、予定外に追加した焼き黄根八十で、合計四百五十ゴールド。今日の報酬九百から昼食百、宿代三百、夜四百五十を引けば、五十ゴールドが残る。
昨日より残った金額は少ないけれど、今日はこれで十分だった。
「ごちそうさまでした」
「四百五十ね」
「ちょうど予算です」
「毎回そこまで決めて飲んでるの?」
「大体」
「大変そう」
「決めない方が怖いです」
「それは分かる」
硬貨を渡し、席を立つ。
「またね」
店員に言われ、私は軽く頭を下げて店を出た。
外の空気は昼間より少し冷たく、朝から広がっていた雲はいつの間にか薄くなっていた。通りの向こうにはまだ明かりのついている工房があり、仕事を終えて歩く人たちの声も聞こえる。
今日の報酬は九百ゴールドで、昨日の千より百少なく、その前に稼いだ千二百より三百少ない。それでも昼を食べ、今夜の宿代を確保し、麦酒を二杯飲み、肉と根菜まで食べて、五十ゴールド残ったのだから、今日の九百ゴールドは十分だった。
毎日もっと稼がなければいけないわけではなく、毎晩高い料理を食べる必要もない。千ゴールドの日には千ゴールドなりの楽しみ方があり、九百ゴールドの日には九百ゴールドの範囲で飲めばいい。
たぶん、私が欲しかったのは高い酒でも珍しい料理でもなく、その日の仕事を終えたあとに財布を見て、「これくらいなら飲んでも大丈夫」と自分で決められる時間なのだろう。
「今日も働いた。だから一杯くらいいいでしょう」
そう言いながら二杯飲んだことには気づいていたけれど、そこはわざわざ訂正しなくてもいい。
昼間に張った天幕の下では、明日も朝から市場が開く。私がそこへ行くかどうかは分からないし、今日の仕事を誰かが覚えている必要もない。それでも、自分が働いた九百ゴールドの一日がちゃんと二杯の麦酒につながり、腹も財布も納得したところで終えられたのなら、今の私にはそれで十分だった。




