第19話「千ゴールドって、前は大金だったのになぁ」
朝、《銀鈴の宿》の食堂で黒パンをちぎりながら、私は財布の中身を数えていた。
昨日は工房区で石灰袋と灰籠を運んで千二百ゴールドを稼ぎ、昼食に百二十、宿代に三百、《骨灯屋》で五百十使ったので、その日の稼ぎから二百七十ゴールド残った。もちろん、それ以前から少しずつ残してきた分もあるから、今すぐ宿代や食事代に困る状態ではない。
それなのに、財布の中で千ゴールド分をまとめて数えた瞬間、なぜか少しだけ違和感があった。
「……千ゴールドか」
こちらへ来たばかりの頃なら、千ゴールドと聞くだけでかなり大きな金額に感じていた。
宿代が一晩三百ゴールドなのだから、千あれば三日分の寝床を確保できる。安い店なら何度か飲めるし、昼食だけなら十回近く食べられる。最初にスライムを倒して千ゴールドを受け取ったときなど、これでしばらく何とかなるのではないかと思ったくらいだった。
それが最近は、依頼板を見て千ゴールド前後だと「今日は少なめかな」と思うことがある。
自分でそう考えていたことに気づき、黒パンを持った手が止まった。
「いや、千ゴールドって大金だったよね?」
誰かに確認したかったわけではなく、むしろ自分へ言い聞かせるために口にした感じだった。
朝食は黒パンと薄い豆スープ、それから小さな角兎肉の塩焼きだった。肉を一口食べれば普通に美味しく、朝から贅沢な気分になるほどではないけれど、以前の私ならこういう肉が宿の朝食についてくるだけでも嬉しかったはずだ。
生活に慣れて仕事も少し選べるようになり、飲める店も増えて、五百や六百ゴールドを使う夜も珍しくなくなった。ただ、そのせいで数字の感覚まで大きくなっているとしたら、少し怖かった。
「今日は千ゴールドをちゃんと千ゴールドだと思う日にしよう」
何をすればそうなるのかは分からないけれど、とりあえずそう決めて朝食を終えた。
冒険者ギルドへ着くと、依頼板の前はいつものように混んでいた。
今日の私は、無意識に報酬の高い紙から見始めていた。南街道の護衛が千六百、北林の牙猪調査が千四百、東農地の角鹿追い払いが千三百で、その下には中央市場の荷札確認九百五十、共同井戸の清掃八百、北門外の薪束運搬千ゴールドという依頼が並んでいる。
私は一度、報酬千ゴールドの紙を見て、そのまま隣の千三百へ視線を移しかけた。
「……今、千ゴールド飛ばしたな」
自分で気づいた。
以前なら迷わず候補へ入れていたはずなのに、今は「もう三百高い仕事がある」と考えている。もちろん仕事は報酬だけで選ぶものではないし、同じ時間なら多く稼げる方がいい。それでも、昨日までの自分が知らないうちに千ゴールドを小さく扱い始めていたことが、妙に気になった。
もう一度、薪束運搬の依頼票を見る。
《北門外・乾燥薪束運搬。集積場より北共同浴場倉庫まで。二十束。報酬千ゴールド。荷車貸与。昼前終了予定》
「二十束で千」
半日仕事で戦闘もなく、荷車も貸してもらえる。今日はこれでいい気がした。
依頼票を持って受付へ向かう。
対応してくれたのは、以前にも何度か見た細身の男性受付員だった。淡い茶色の髪をきっちり整え、今日も机の上には判子が何本も並んでいる。
「北門の薪運搬ですね」
「はい」
「珍しいですね」
「何がです?」
「今日はもっと高い依頼を取りそうな顔してたので」
「顔で報酬分かるんですか」
「最近、千二百以上の依頼を見ること多いでしょう」
「見られてる」
「受付なので」
少し悔しい。
「今日は千ゴールドをちゃんと千ゴールドだと思いたくて」
「意味が分かりません」
「私もまだ分かってません」
受付員は依頼票へ判子を押した。
「荷車は北門管理所で借りてください。薪は乾燥済みで、一束十五斤前後。二十束全部運べば終了です」
「追加は?」
「ありません」
「増えない?」
「増えません」
「本当に?」
「薪が勝手に増えたら怖いでしょう」
「魔物よりは怖くないかも」
「どうでしょう」
「そこ迷うんだ」
依頼票を受け取り、ギルドを出る。
途中で昼食用に薄焼きパンと豆入りの肉詰めを一つ買い、水の補充まで含めて九十ゴールドだった。以前なら「百を切った」と思って少し嬉しくなったはずの金額なのに、最近は百ゴールド前後の昼食を当たり前のように買っていて、安いとも高いとも思わなくなっていた。
「慣れって怖いなぁ」
食費も酒代も宿代も、毎日使っているとただの数字になる。
北門を出て少し歩くと、乾燥薪の集積場が見えてきた。
太い丸太ではなく、すでに薪として割られた木を縄でまとめた束が何十個も積まれている。その脇には二輪の木製荷車が置かれ、管理人らしい男性が帳面を見ていた。
「ギルド?」
「ミサキです。薪二十束」
「おう」
男性は五十代前半くらいで、短い黒髪に白髪が混じり、右手の親指が妙に太かった。名前はガントというらしい。
「浴場まで二往復な」
「一回十束?」
「荷車ならそれくらい。積みすぎると坂で止まる」
「止まる?」
「押しても動かん」
「嫌だなぁ」
「だから十」
荷車へ最初の薪束を載せる。
十五斤前後なので、一束だけならそれほど重くない。ただし十束積み上げると荷車全体はかなりの重量になる。
「これ、下りは楽です?」
「行きはほぼ平ら。帰り空車」
「じゃあ大丈夫そう」
「共同浴場前に少し坂あるぞ」
「先に言ってください」
「今言った」
「受付と同じこと言う」
十束を積み終え、縄で固定する。
荷車の持ち手を握って押すと、最初は思ったより軽かった。
「いける」
「最初だけな」
「また嫌な言い方」
舗装されていない道をゆっくり進む。乾燥した薪なので石灰袋ほど扱いにくくなく、荷車のおかげで肩に直接重さがかからない。これなら午前中で終わるという依頼票も信じられそうだったが、ガントが言っていた坂へ着くと話が変わった。
「……これか」
共同浴場の倉庫は、少しだけ高くなった場所にあった。距離そのものは短く、傾斜も急というほどではないのに、薪十束を積んだ荷車を押すとなると急に重く感じる。
最初の数歩は進んだものの、途中から持ち手がずしりと重くなり、足を踏ん張った瞬間に荷車がわずかに後ろへ戻った。
「待って待って」
誰に言っているのか分からない。
前の世界で重い買い物袋を自転車の籠へ載せ、坂道を押して上がったときのことを思い出した。あれも最初は「歩けば余裕」と思っていたのに、途中から自転車そのものが敵みたいに重く感じた。
「荷車も同じなんだ……」
少し休み、もう一度押す。
一歩、二歩と進み、そこからは勢いを止めないように身体を前へ倒しながら押し続け、ようやく浴場倉庫の前まで上がった。
「お疲れ」
倉庫の前にいた男性が笑っていた。
三十代くらいで、袖を捲った腕に湯気で湿った布を巻いている。浴場の従業員らしい。
「見てました?」
「途中から」
「手伝ってくれてもよかったのに」
「依頼だろ?」
「正論」
「次は坂の前で勢いつけた方がいい」
「先に教えてほしかった」
「みんな一回目で覚える」
「教育方法が雑」
薪束を倉庫へ運び込む。
中には同じような薪が壁際へ積まれ、奥には大きな釜へ続く通路が見えた。
「この薪、全部お風呂用?」
「湯沸かすのと、洗い場温めるのと、湯気部屋にも使う」
「かなり使うんですね」
「冬はもっと使う」
「一日どれくらい?」
「今なら四十から五十束」
「そんなに?」
「客多い日ならもっと」
今日私が運ぶ二十束など、一日の半分にもならない。
「千ゴールドで二十束運んでるんですけど」
「なら一束五十か」
「そうなる」
「安いと思う?」
「今考えてました」
一束五十ゴールドと考えると、昨日《骨灯屋》で頼まなかった焼き根菜より安い。自分の報酬だけを見れば千ゴールドは大きいのに、二十束へ分ければ急に小さく見えるので、数字というのは見方だけで印象がかなり変わるらしい。
「何の話?」
「こっちの話です」
空になった荷車を引き、集積場へ戻る。
帰りは本当に軽く、さっきまで敵のように重かった荷車が空になると片手でも扱えるくらいになる。同じ道なのに、行きと帰りで別の仕事のようだった。
「一往復終わったか」
ガントが帳面へ印をつける。
「坂、重かったです」
「だろ」
「知ってて笑ってた?」
「みんな言うからな」
「二往復目もあるんですよね」
「ある」
「千ゴールド……」
「急に報酬確認するな」
「自分を励ましてます」
二回目は、さっき教えられた通り坂の少し手前から速度を落としすぎないようにした。楽ではないが、一回目よりはずっと早く上がれた。
「学習してる」
浴場の男性が言う。
「褒められた」
「でも顔赤いぞ」
「荷車押してるからです」
「酒じゃなくて?」
「朝から飲みません」
「夜は?」
「飲みます」
「即答だな」
十束を下ろし終え、二十束すべての搬入が終わった。倉庫の男性から完了印をもらい、荷車を集積場へ戻す。
「これで終わり?」
「終わり」
「本当に二十だけ?」
「二十だけ」
「増えなかった」
「薪は増えん」
「今日は平和」
ガントからも確認印をもらい、仕事は昼前に終わった。
近くの木陰へ移動し、朝買った薄焼きパンと豆入りの肉詰めを食べる。薄い生地の中に潰した豆と細かい角豚肉が入り、塩と少しの香草で味がついていた。
昼食代は九十ゴールドで、千ゴールドの報酬からこれを引けば九百十、さらに宿代三百を確保すれば六百十残る。今夜六百使えば、今日の稼ぎから残るのはわずか十ゴールドなので、千ゴールドという金額は大きいのに、その気になれば一日で簡単に使い切れる金額でもあった。
「千ゴールドって、使おうと思えばすぐなくなるんだよなぁ」
大金なのに、同時に一日で使える金額でもある。その両方が本当なのだろう。
ギルドへ戻り、完了印のついた依頼票を提出する。
「二十束、終わりました」
受付員が確認し、報酬として千ゴールド分の銀貨と銅貨をまとめて手渡してくれた。
手の上に乗った報酬を見た瞬間、最初にスライムの依頼で同じ千ゴールドを受け取ったときのことを思い出した。あのときは実際の重量とは関係なく、千という数字そのものが今よりずっと重く感じられた。
「どうしました?」
受付員が聞く。
「前は千ゴールドってすごく大金に見えたなって」
「今は?」
「今日、千だとちょっと少ないと思いかけました」
「生活に慣れたんじゃないですか」
「いいこと?」
「使いすぎなければ」
「そこなんですよね」
「今日の夜はいくら使うんです?」
「まだ決めてません」
「珍しい」
「千ゴールドをちゃんと考える日にしてるので」
「やっぱり意味分からないです」
「私も途中です」
ギルドを出る。
今日の稼ぎから昼食九十と宿代三百を引いた六百十が、今夜使ってもいい最大額になる。いつもの私なら、そこから五百とか六百と決めて店を探すところだったが、今日は少し違った。
「三百五十くらいで飲んでみる?」
最初の頃なら、それでも十分だった。
軽い麦酒一杯と安い料理二品くらいあれば、それで満足できる夜はいくらでもあった。最近は報酬が増えた分、自然と夜の予算も増え、六百、七百と使える日が多くなったことで、「使えるから使う」が少しずつ普通になっていたのかもしれない。
「今日は四百」
少し考えて決めた。
四百ゴールドなら千ゴールドの報酬の四割で、宿と昼を合わせても七百九十。今日だけで二百十残るので、千ゴールドが一日で全部消えることもない。
夕方まで少し休んでから街へ出た。
今日は高い料理を探すのではなく、四百ゴールドでちゃんと楽しめる店を探すことにする。
最初に見つけた店は麦酒百四十、料理が二百前後だったので今日は通り過ぎ、二軒目は麦酒百、串焼き百二十からで悪くなかったものの、店内がかなり混んでいたので見送った。三軒目は大通りから一本入った細い路地にあり、看板には丸い銅貨の絵の下に杯が描かれていた。
《小銭亭》
「名前が今日っぽい」
店先の品書きを見る。
《薄麦酒 八十ゴールド》
《豆塩煮 六十ゴールド》
《炙り角兎皮 九十ゴールド》
《根菜焼き 七十ゴールド》
《麦団子汁 百二十ゴールド》
《塩漬け葉 五十ゴールド》
《薄焼きパン 四十ゴールド》
《本日の小皿 七十ゴールド》
「安い」
久しぶりに、値段を見ただけで少し嬉しくなった。
店へ入ると、中は細長く、壁際にカウンターが九席、奥に二人掛けの卓が三つある。豪華さはないが掃除はされていて、木の壁には小さな銅貨を吊るした飾りが並んでいた。
「いらっしゃい」
店主は四十代後半くらいの男性だった。
濃い茶色の短髪に細い目、少し丸い腹。黒い前掛けの腰には、小銭を入れる革袋を下げている。
「一人です」
「空いてるとこどうぞ」
カウンターへ座る。
「薄麦酒と、豆塩煮ください」
「八十と六十で百四十」
「お願いします」
四百ゴールドの予算から百四十なので、まだ二百六十残る。
「安いなぁ」
「聞こえてるぞ」
店主が言う。
「褒めてます」
「ならいい」
「何でこんな安いんです?」
「量少ないから」
「正直」
「安く見せて高く取るよりいいだろ」
「それはそう」
先に薄麦酒が出てきた。
色はかなり淡い金色で泡は少なく、飲んでみると麦の甘さも苦味も軽い代わりに、少しだけ酸味がある。水っぽいほどではないが、確かに名前通り薄めの麦酒だった。
「本当に薄い」
「名前通りだ」
「でも水っぽいってほどじゃない」
「仕事帰りに二杯三杯飲む客用だからな」
「前にもそういう酒ありました」
「この辺は職人多いから、強い酒ばっかり出してたら翌朝来なくなる」
「店側も困るんだ」
「客が働けなくなったら飲み代も来なくなる」
「すごく現実的」
豆塩煮もすぐに出てきた。
小さな木鉢に茶色と白の豆が混ざって入り、汁気はほとんどなく、塩と少しの香草、それから薄い油で和えてあるらしい。白い豆は柔らかく、茶色い豆は少し歯ごたえがあり、味付けそのものは単純なのに麦酒と一緒だとちょうどよかった。
「これ六十ならいいなぁ」
「そういう店だからな」
「小銭亭って名前もそこから?」
「一日の最後に、小銭だけでも飲める店って意味」
「いいですね」
「給金日前に来る客多いぞ」
「分かる」
前の世界にも、財布が寂しい日に入る安い居酒屋はあった。給料日前や出費が続いた日、何となく飲みたいけれどしっかりした店へ行くほどではない夜に、安い酒と小皿だけで少し気持ちを切り替える。こちらにも同じような店があり、ただし料理は豆で、酒は薄麦酒だった。
隣に二人の男性が座った。
一人は三十代くらいで革の腰袋を下げ、もう一人は四十代くらいで袖に青い染料が付いている。
「麦二つ。皮一つ、葉一つ」
「二百九十」
「安いな」
「毎日言うな」
常連らしい。
「今日も給料日前?」
店主が聞く。
「給料出たの昨日」
「じゃあ何で小銭亭」
「昨日使った」
「早い」
「靴直した」
「なら仕方ない」
「あと酒」
「そっちだろ」
私は思わず笑った。
革袋の男性がこちらを見る。
「姉ちゃんも金ない?」
「今日はあります」
「あるのにここ?」
「千ゴールドをちゃんと千ゴールドだと思いたくて」
二人とも少し黙った。
「何それ」
「やっぱりそうなりますよね」
「千は千だろ」
「前は大金だと思ってたんですけど、最近ちょっと感覚が変わってきて」
青い染料の男性が薄麦酒を飲む。
「給料上がった?」
「仕事に慣れて、高い依頼取るようになりました」
「じゃあそんなもんだろ」
「そんなもん?」
「昔は百ゴールドの昼飯も高いと思ってたけど、今は百二十なら普通だと思う」
「同じだ」
「金の大きさじゃなくて、自分が使う金が変わるんだよ」
少し納得する。
「でも使いすぎません?」
「使う」
「即答」
「だからここ来る」
「解決してない」
「使った後に安く飲める」
「なるほど……いや、やっぱり解決してない」
店主が笑う。
「金なんてあるだけ使うやつと、あるだけ残すやつと、その間がいる。姉ちゃんは間だろ」
「多分」
「なら予算決めとけばいい」
「決めてます」
「いくら?」
「今日は四百」
「今百四十」
まだ二百六十残っている。
品書きを見ると、炙り角兎皮九十、根菜焼き七十、麦団子汁百二十、本日の小皿七十と、安いぶん選択肢が多い。
「安いと逆に迷う」
「そういう客多い」
店主が言う。
「一品高い店は諦めるの早い。安い店は『これもいける』が増える」
「分かります」
以前、串焼きの安い店で一串八十ゴールドならもう一本くらいと考えたときと同じだった。単価が低いと財布への警戒心まで低くなり、少しずつ追加しているうちに、結局それなりの金額を使ってしまう。
「本日の小皿って何です?」
「《炙り豆皮》と《酸根》の和えもの」
「豆皮?」
「薄く伸ばして焼いた豆生地。酸根は酢漬けの細い根菜」
「七十」
「七十」
本当は最初から二品くらいで終えるつもりだったが、今日は四百以内でどこまで満足できるかを見る日でもある。
「本日の小皿ください。あと薄麦酒もう一杯」
「百五十追加。合計二百九十」
まだ百十残る。
本日の小皿は、小さな平皿に細切りの豆皮と白っぽい根菜が盛られていた。豆皮は表面に焼き目が入り、ところどころ少し硬く、酸根は細い大根のように見えるものの、噛むとかなり強い酸味があり、最後にわずかな甘さが残る。
豆皮だけだと香ばしくて少し粉っぽいが、酸根と一緒に食べると口の中が軽くなった。
「これ好きかも」
「安い材料しか使ってないけどな」
「安い材料でも美味しいならいいです」
「それでこの店やってる」
店主が焼き台を拭きながら言う。
「高い肉はどこでも売れる。でも豆とか皮とか端っこは、使い方知らないと余るからな」
「皮って角兎の?」
「炙り角兎皮もそう。肉屋が脂と皮余らせるから買う」
「またそういう店だ」
「何が?」
「余るもの使う店、結構ありますね」
「余るもん安いから」
「理由が現実的」
「商売だからな」
前の世界でも安い居酒屋ほど、もやしや豆腐、鶏皮、キャベツのような安い食材を美味しくする工夫があった。値段の高い食材そのものを出すのではなく、安いものへ味を足し、酒に合う料理へ変えるところは、この世界でもあまり変わらないらしい。
二杯目の薄麦酒を飲む。
現在二百九十ゴールドなので、予算四百から残りは百十。炙り角兎皮は九十、根菜焼きは七十、塩漬け葉なら五十なので、まだ一品は追加できる。
「あと一品いける」
口に出してから、今日の朝を思い出した。
千ゴールドをちゃんと千ゴールドだと思う日にする、と決めたのであって、四百ゴールドを使い切ることが目的ではない。胃の具合を確かめてみると、豆と小皿だけなのでまだ少し入るが、酒はもう十分だった。
「角兎皮ってどんな感じです?」
店主へ聞く。
「脂少し残した皮を炙って塩。硬め」
「九十かぁ」
「食う?」
ちょうどそのとき、隣の常連へ炙り角兎皮が運ばれてきた。
薄く切られた皮が焦げ目をつけて皿へ盛られ、表面には粗い塩と赤い粉が少し振られている。香りがかなり良く、本来は頼むつもりがなかったのに、実物を見た瞬間に気になってしまった。
「ください」
「九十。合計三百八十」
「二十残った」
「使い切れなくて残念?」
「今日はむしろ正解です」
炙り角兎皮は、見た目よりかなり噛み応えがあった。
一口目では硬いと思ったものの、噛んでいるうちに皮の内側へ残った脂が少しずつ出てきて、塩気と一緒に甘さが広がる。赤い粉は辛味ではなく、《赤香種》という香ばしい種を砕いたものらしく、最後に胡麻のような風味が残った。
「これ九十なら頼む人多そう」
「だから定番」
「肉じゃなくて皮なのに」
「皮だから九十で出せる」
「なるほど」
安い料理には安いなりの理由があるけれど、それは質が悪いという意味ではない。高く売れない部位を使い、量を少なくし、手間をかけて別の料理へ変え、さらに大通りから外れた場所で店を構えることで値段を抑えている。その結果が、薄麦酒八十ゴールドや豆塩煮六十ゴールドなのだろう。
「千ゴールドあったら、この店かなり飲めますね」
私が言うと、隣の男性が笑った。
「十杯以上飲めるぞ」
「酒だけならね」
「やる?」
「やりません」
「正解」
今日使ったのは三百八十ゴールドで、最初に決めた四百より二十少ない。それでも麦酒二杯、豆塩煮、本日の小皿、炙り角兎皮まで食べられた。
「会計お願いします」
「三百八十」
薄麦酒二杯で百六十、豆塩煮六十、本日の小皿七十、炙り角兎皮九十で、合計三百八十ゴールドだった。
今日の報酬は千ゴールドで、昼食九十、宿代三百、夜三百八十を使ったので、合計七百七十。今日の稼ぎからは二百三十ゴールド残る。
「千ゴールドって、やっぱり結構あるなぁ」
私が呟くと、店主が小銭を返しながら言う。
「使い方次第だろ」
「今日それを確認しに来た感じです」
「変な客だな」
「自覚あります」
「でもまた金なくなったら来い」
「金ある日でも来たい店でした」
「それならもっといい」
店を出ると、職人街の外れは昼間より静かになっていた。大通りの店ほど明るくはなく、ところどころの窓から漏れる灯りと、帰宅する人の足音が残っている。
財布の中には、今日稼いだ千ゴールドのうち二百三十ゴールドが残った。千ゴールドは宿三泊分以上にもなるし、今日のような店なら二晩飲んでもまだ少し残る一方で、高めの料理と酒を選べば一晩でほとんど使うこともできる。
金額そのものが小さくなったわけではなく、私の選べる使い道が増えただけなのかもしれない。最初の頃は千ゴールドを持っているだけで安心したけれど、最近は千ゴールドあれば何を食べるか、何杯飲むか、どれだけ残すかまで考えるようになった。
慣れたから雑に使うのではなく、慣れたからこそ選べるようになったのなら、それは悪い変化ではないと思いたい。
「千ゴールドって、前は大金だったのになぁ」
そこまで口にしてから、少し考え直した。
「……いや、今も大金か。私が慣れただけだ」
数字の価値が変わったのではなく、自分の暮らし方が変わった。それなら、明日からも報酬が高いだけで仕事を選ばず、使えるだけで飲み代を増やさず、その日の仕事と腹具合にちょうどいい金額を自分で決めればいい。
薄麦酒二杯と安い小皿で十分満足できた腹を確かめながら、私は財布の中に残った二百三十ゴールドをいつもより少し大事に感じつつ、夜の通りをゆっくり歩いた。




