第23話「チーズって、置いとくだけじゃ駄目なんですね」
朝、《銀鈴の宿》の食堂で黒パンをちぎりながら、私は昨日《房雫屋》で飲んだ三種類の果実酒について考えていた。
赤、白、淡紅。同じ《紫房実》から造られる酒でも、皮をどれだけ使うか、実の種類や発酵のさせ方によって味が変わり、同じ白房酒ですら料理を食べる前とあとでは印象が違った。前の世界ではワインを飲んでも赤か白か、甘いか渋いかくらいしか気にしていなかった私が、異世界へ来てから酒の作り方を考えるようになるとは思わなかった。
昨日は西丘果樹園で千五百ゴールドを稼ぎ、昼食に百二十、宿代に三百、《房雫屋》で六百九十使ったので、その日の稼ぎから残ったのは三百九十ゴールドだった。昇格したからといって毎日高い仕事を選ぶ必要はないし、夜の予算まで一緒に上げるつもりもないけれど、少し余裕がある日に知らない酒や料理を試せるのは悪くない。
そんなことを考えながら朝食の皿へ目を落とすと、今日は黒パンと豆の薄い煮込みに加え、小さな白い塊が添えられていた。
「これ、チーズ?」
正確には、この世界で《白酪》と呼ばれているものだ。一昨日の《葡灯亭》では熟成白酪を食べたし、昨日の《房雫屋》にも白酪と乾燥果実という料理があった。ただ、宿の朝食に出てきたものはそれらよりずっと白く、触った感じも柔らかい。
一口食べてみると、塩気は弱く、乳の甘さとわずかな酸味がある。
「全然違うなぁ」
《葡灯亭》で食べた熟成白酪は香りが濃く、ねっとりした旨味があったのに対し、今朝のものは水分が多くて少し崩れやすい。同じ白酪でもこれだけ違うのだから、昨日飲み比べた果実酒と似たところがあるのかもしれない。
「……こういうの気にし始めると終わらないな」
それでも、気になったものは仕方ない。
朝食を終え、短剣と革袋を身につけて冒険者ギルドへ向かった。
昇格して二日目になり、新しい区分の依頼にも目を通すようにはなったが、報酬だけを見て選ばないようにするという受付員との約束は覚えている。二千を超える依頼が並んでいても、自分に向いていなさそうなら見送り、千前後でも面白そうなら候補に入れる。
その日の依頼板には、北街道の短距離護衛が千七百、東農地の害獣確認が千四百、南倉庫区の荷運びが千二百と並んでいた。その少し下に、戦闘とはまったく関係なさそうな依頼票が貼られている。
《北牧区・白角山羊飼育場補助》
《内容:飼料運搬、搾乳桶運び、白酪工房への原乳搬入》
《報酬千三百ゴールド》
《半日予定》
《注意:家畜を驚かせないこと》
「白酪」
朝食で食べたばかりだ。
昨日は酒の原料を収穫し、その夜に同じ果実から造られた酒を飲んだので、今日まで同じような流れを狙う必要はないと思う。それでも、こうして目の前に白酪へつながりそうな依頼があると、やっぱり気になってしまう。
「二日続けて食べ物に釣られてる気がする」
でも、冒険者が依頼を選ぶ理由に決まりはないし、報酬も千三百なら十分だ。
依頼票を外して受付へ持っていくと、対応してくれたのは肩までの栗色の髪を後ろで結んだ女性受付員だった。
「北牧区ですか」
「これ、山羊の世話?」
「補助ですね。飼育そのものは牧場の方がやります。ギルドへ頼んでいるのは人手が必要な運搬作業が中心です」
「山羊に蹴られたりします?」
「白角山羊は比較的おとなしいですよ。ただし後ろへ立たない方がいいです」
「それ、蹴るってことですよね」
「比較的おとなしいです」
「比較的の使い方が怖い」
受付員が笑いながら依頼票へ印を押した。
「現地責任者はマルタさんです。牧区へ入って二つ目の大きな柵なので、迷わないと思います」
「分かりました」
「服、汚れてもいいものですよね?」
「冒険者なので」
「なら大丈夫です」
「何がつくんです?」
「行けば分かります」
「それ先に知りたいんだけど」
詳しくは教えてくれなかった。
ギルドを出たあと、昼食用に黒麦パンと薄切りの燻し肉、それから小さな焼き根菜を買った。合わせて百十ゴールドで、水筒には宿で水を入れてある。
北門を出て牧区へ向かうと、街道の両側から建物が減り、代わりに木柵で囲われた草地が増えていった。牛に似た大きな家畜もいれば羽の短い鳥もいて、少し先では羊らしい動物が群れになって草を食べ、そのさらに奥からは低い鳴き声がいくつも聞こえてくる。
教えられた二つ目の大きな柵へ着くと、入口で女性が待っていた。
「ギルドの人?」
「ミサキです」
「マルタ。今日は運び物多いから助かるよ」
マルタは四十代後半くらいで、赤みのある茶髪を太い三つ編みにし、袖を肘までまくっている。背は私より少し低いが腕はかなり太く、腰には革手袋と短い縄が下がっていた。
「まず飼料から。山羊の間歩くから、急に走らないで」
「走ると?」
「追うのがいる」
「襲われる?」
「遊びで」
「それはそれで嫌だな」
柵の中へ入ると、白角山羊が十数頭いた。名前の通り毛は白く、額の左右から後ろへ曲がる短い角が生えていて、普通の山羊より身体も大きく、背中は私の腰より少し高いくらいだった。
飼料袋を抱えたまま歩き出すと、一頭の白角山羊がこちらをじっと見つめてきた。私も思わず見返していると、その山羊は視線を外さないまま、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
「マルタさん」
「止まってればいい」
「すごい見られてる」
「袋持ってるから」
私が抱えている飼料袋へ、山羊の鼻が近づいた。
「これ食べたいの?」
「そりゃね」
「でも今あげたら?」
「全員来るよ」
「絶対あげない」
飼料袋は一つ十五斤ほどで、それを柵の反対側にある餌場まで運ぶ。全部で十二袋なので重労働というほどではないが、山羊の間を通るたびに何頭かが袋へ寄ってくるので、普通の荷運びより神経を使った。
三袋目を運んでいる途中、一頭の山羊が私の服の裾を咥えた。
「ちょっと、それ食べ物じゃないから」
声をかけても山羊は気にせず裾を引っ張り、私が動かずにいると、さらに力を込めて引き始めた。
「マルタさん、これどうすればいい?」
「止まって」
「止まってます」
「怒らないで」
「まだ怒ってないです」
「引っ張り返さない」
「じゃあどうするの」
マルタが近づいて山羊の鼻先を軽く押すと、ようやく口を離した。
裾を確認すると、しっかり濡れている。
「……受付の人が言ってたの、これか」
「何て?」
「服が汚れるって」
「まだ綺麗な方だよ」
「まだ?」
嫌な予感がした。
飼料を運び終えると、次は搾乳用の桶を洗い場から小屋へ運ぶことになった。桶そのものは空なので軽いが数が多く、マルタのほかに牧場で働いている若い女性が二人いて、すでに何頭かの白角山羊を搾乳場所へ移している。
一人がこちらへ手を上げた。
「ギルドの人?」
「はい」
「桶こっちお願い」
「分かりました」
名前はリネ。二十代前半くらいで、淡い金髪を頭の後ろでまとめ、頬に小さなほくろがある。動きが速く、山羊の角を避けながら歩くのにも慣れていた。
「搾乳もやる?」
「依頼には桶運びって」
「じゃあやらなくていい」
「難しい?」
「慣れれば。でも初めての人にやらせると山羊が嫌がる」
「私じゃなくて山羊基準なんだ」
「そりゃそうでしょ。乳出すの山羊だもん」
「正しい」
搾った乳は大きな蓋つきの桶へまとめられ、それを二人で白酪工房まで運ぶ。一桶はそれほど大きくないが、中身が液体なので歩くたびに重心が動き、普通の木箱や袋とは違う扱いにくさがあった。
「これ、荷物として嫌なやつだ」
私が言うと、反対側を持っているリネが笑った。
「こぼしたらもっと嫌だよ」
「値段高い?」
「朝一番の乳だからね」
「そういうこと先に言わないでほしい」
「落とさなくなるでしょ」
「緊張で落としそう」
歩幅を合わせ、ゆっくり工房へ向かう。
白酪工房は牧場のすぐ隣にある石造りの低い建物で、中へ入ると乳の甘い匂いと少し酸っぱい香りが混ざっていた。壁際には大きな桶が並び、布を敷いた型や木枠、丸い白酪らしいものが載った棚まで見える。
「ここでチーズ……白酪作るんだ」
つい見回してしまう。
「興味ある?」
奥から声がした。
出てきたのは六十代くらいの男性だった。
名前はドラン。頭はほとんど白髪で、口元には短い髭がある。白い前掛けをつけ、両腕には肘近くまで布を巻いていた。
「最近ちょっと」
「作る方?」
「食べる方です」
「そっちか」
「そっちです」
ドランは笑いながら、運んできた乳の桶を確認した。
「揺らしたな」
「分かるんですか?」
「泡」
「こぼしてはないです」
「ならいい。次はもう少し静かに」
「液体運ぶの難しい」
「酒なら慎重になるだろ」
「かなり」
「同じように運べ」
「急に分かりやすくなった」
空になった桶を持って牧場へ戻り、それを何度か繰り返した。最初の一桶より二桶目、二桶目より三桶目の方が揺らさず運べるようになり、最後にはドランから「今度はいい」と言われた。
運搬が一段落すると、マルタから少し休憩していいと言われた。
工房脇の木陰へ座り、持ってきた黒麦パンと燻し肉、焼き根菜を広げる。黒麦パンは噛み応えがあり、燻し肉の塩気とよく合った。
隣にはリネも座った。
「毎日これ?」
「何が?」
「搾乳して、工房運んで」
「毎日。山羊は休んでくれないから」
「ですよね」
「雨でもやるし、祭りの日でもやる」
「会社より休み取りづらそう」
「会社?」
「前の仕事」
「家畜相手は予定立てにくいよ」
「体調もありますもんね」
「ある。乳の量も毎日同じじゃないし」
リネはパンを一口食べてから、ため息をついた。
「なのに工房は『明日この数欲しい』って普通に言うんだよ」
「出ないものは?」
「出ない」
「ですよね」
「『少し増やせない?』って言われても、山羊に頼めって思う」
「それは本当にそう」
「今朝も十桶予定が九桶半で、ドランに『半桶どこ行った』って聞かれた」
「山羊のお腹?」
「そう言った」
「怒られた?」
「笑われた」
前の世界でも、生産量を数字だけで見て「もう少し増やせませんか」と言う人はいた。相手が機械ならまだ調整できることもあるだろうけれど、山羊に今日だけ一割増しでお願いしますと言ったところで、聞いてくれるはずがない。
昼食を終えたあと、最後に空桶を洗い場へ戻し、使った飼料袋をまとめる。
これで依頼は終わりかと思ったところで、マルタが工房から小さな木箱を持ってきた。
「これも倉へ運んで」
「依頼にあった?」
「白酪工房への原乳搬入までだから、これはこっちの仕事」
「よかった」
「何でそんな安心してるの」
「予定外追加に警戒する癖がつきました」
「ギルドの人も大変だね」
「そっちも大変そうです」
「まあね」
木箱の中には、まだ柔らかそうな白酪が並んでいた。
「これ朝食に出るようなやつ?」
「たぶんね。作ったばかりの若い白酪」
「熟成するやつは?」
「工房の奥」
「ちょっと見てもいい?」
「ドランに聞きな」
依頼はほとんど終わっていたので、工房へ戻ったときに聞いてみた。
「熟成してる白酪、見てもいいです?」
「見るだけなら」
ドランが案内してくれたのは、工房の奥にある少しひんやりした部屋だった。木棚の上には丸い白酪がいくつも並び、白いもの、黄色っぽいもの、表面が茶色くなっているものまである。
「全部同じ山羊乳?」
「基本はな」
「こんなに変わるんだ」
「置く時間、塩、水分、表面の手入れで変わる」
「置いとけば勝手に熟成するわけじゃない?」
「放っといたら腐る」
「ですよね」
「毎日見る。返す。表面拭く。塩足すものもある。乾かしすぎても駄目、湿りすぎても駄目」
「すごい手間」
「だから古いのは高い」
私は棚に並んだ白酪を見た。
前の世界でも熟成チーズが高いことは知っていた。でも、何となく「長く置いてあるから高い」くらいにしか考えていなかった。
実際には、置いている時間そのものにも管理する人の仕事がある。
「チーズって、置いとくだけじゃ駄目なんですね」
「チーズ?」
「あ、白酪。私のいたところでは似たものをそう呼んでました」
「なら、そのチーズとやらも同じじゃないか?」
「たぶん」
「食べ物は大体、放っとくだけじゃ駄目だ」
「耳が痛い」
「何で?」
「家の冷蔵箱の奥で何回か駄目にしたことあるので」
「冷蔵箱?」
「忘れてください」
ドランは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
牧場へ戻るとマルタから依頼完了の印をもらい、昼過ぎにはリーベルへ戻ることができた。
ギルドで依頼票を提出し、報酬として千三百ゴールドを受け取る。昼食百十、宿代三百を引けば、今日の稼ぎから自由に使えるのは八百九十ゴールドで、昨日より少ないが、それでも夜の選択肢は十分ある。
「六百くらいかな」
朝から山羊と白酪ばかり見ていたので、今夜は当然のように白酪を食べたくなっている。ただし朝食でも食べたし、昼には工房まで見たので、夜まで白酪というのは少しやりすぎな気もする。
「……でも、熟成したやつ食べたい」
結局そこへ戻った。
今日の夜予算は六百五十ゴールドにする。
これなら少し値段の高い熟成白酪を頼んでも、酒ともう一品くらいは選べるだろう。
一度《銀鈴の宿》へ戻って服を確認すると、裾には山羊に咥えられた跡がまだ少し残っていた。水で拭き、着替えてから夕方の街へ出る。
今日は北側の牧区から戻ってきたので、そのまま北門周辺の道を歩いてみた。この辺りは牧場や乳製品を扱う商人が出入りするためか、肉や乳を売る店が多く、串焼きの匂いに混じって焼いた白酪らしい香りが漂ってくる店もあった。
何軒か見ていくうち、細い横道に小さな看板を見つけた。丸い白酪を半分に切った絵が描かれ、その下に店名がある。
《乳月亭》
店先の品書きを見る。
《軽麦酒 百ゴールド》
《白果酒 百四十ゴールド》
《若白酪 百ゴールド》
《熟成白酪三種 二百二十ゴールド》
《白酪炙り 百六十ゴールド》
《山羊肉薄焼き 二百ゴールド》
《焼き根菜 八十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
《本日の小皿 九十ゴールド》
昨日は果実酒三種を飲み比べたばかりなのに、今日は白酪三種と書かれている。
「こういうの弱いなぁ、私」
でも、違いを比べられるなら面白そうだ。
扉を開けると、店内は十席ほどの小さな造りで、四人掛けの卓が二つと短いカウンターがあった。壁には丸い木板がいくつも飾られ、その一部には白酪の産地らしい牧場名が焼き印されている。
「いらっしゃい」
店主は四十代前半くらいの女性だった。
黒に近い茶髪を首の後ろで短くまとめ、白い前掛けの上から革紐を巻いている。左手には細長い白酪用らしい刃物を持っていた。
「一人です」
「カウンターどうぞ」
座って品書きを見る。
今日の目的はほとんど決まっている。
「熟成白酪三種と、白果酒ください」
「三種二百二十、白が百四十で三百六十ね」
予算六百五十から、残り二百九十。
店主は木板の上へ三種類の白酪を並べてくれた。
一つ目は薄い黄色で柔らかそうで、二つ目はもう少し色が濃く、表面だけ乾いている。三つ目は外側が茶色がかり、中は濃い乳黄色だった。
「左から若い順?」
「そう。三十日、九十日、百八十日」
「半年?」
「最後はね」
「今日、熟成庫見てきたんです」
「牧場?」
「北牧区」
「じゃあ白角山羊?」
「たぶん」
「これも全部白角山羊だよ」
「今日ずっと縁があるなぁ」
白果酒から飲んでみると、昨日の《房雫屋》で飲んだ白房酒より香りは穏やかで、酸味も弱い。代わりに少しだけ甘みがあり、後味に花のような香りが残る。
「白酪に合わせてる酒?」
「そう。強い酒だと若い白酪の味消えるから」
「なるほど」
まず三十日の白酪を食べてみると、朝食で食べたものより水分は少ないものの、まだ柔らかく、舌で押すと崩れる。塩気は穏やかで、乳の甘さと酸味が残っていた。
「これなら朝でも食べられそう」
「実際食べる人多いよ」
続いて九十日のものを口へ入れると、噛んだ瞬間から違いが分かった。少し弾力があり、塩味も強く、飲み込んだあとには山羊乳らしい香りが鼻へ抜ける。
そこへ白果酒を飲むと、その香りが少し丸くなった。
「これ好きかも」
「真ん中好きな人多い」
「何で?」
「食べやすいけど、ちゃんと熟成の味するから」
「分かる気がする」
最後に百八十日の白酪を食べてみると、一口噛んだ瞬間、思っていた以上に味が濃かった。水分が少なく、少しほろっと崩れるうえ、塩気だけでなく木の実のような香りと、わずかな苦味まである。
「同じ乳なんですよね?」
「同じ牧場、同じ白角山羊。作った時期は違うけどね」
「半年でこんな変わるんだ」
「半年何もしないわけじゃないよ」
「今日聞きました。返して、拭いて、塩見て、湿りすぎないようにして」
「よく知ってるね」
「今日だけ詳しいです」
「一番危ないやつだ」
「ですよね」
店主が笑った。
そこへ白果酒を合わせると、百八十日の白酪の強い塩気が少し落ち着き、代わりに乳の甘さが分かりやすくなった。
「酒で味変わるの、昨日からずっとやってるなぁ」
「果実酒屋でも行った?」
「行きました」
「飲み歩いてるね」
「仕事のあとだけです」
「そこ大事?」
「私には」
カウンターの端には、仕事帰りらしい二人の男性が座っていた。一人は四十代くらいで袖に乾いた草がついており、もう一人は三十代くらいで革靴に泥が残っている。
「今日また乳少なかったらしいぞ」
「暑かったからだろ」
「工房長は数欲しいって」
「山羊に言えよ」
「俺に言うんだよ」
「お前が乳出せ」
「出るか」
二人が笑う。
昼にリネから聞いた話とほとんど同じだったので、私は白果酒を飲みながら吹き出しそうになった。
草のついた男性がこちらを見る。
「何だ?」
「今日、牧場で同じ話聞いたので」
「どこ?」
「北牧区」
「じゃあリネんとこか?」
「リネさんいました」
「ほら、絶対あそこだ」
「有名なんです?」
「乳足りないと工房から言われるの、どこも同じ」
「山羊に言えって話してました」
「だろ?」
どこへ行っても、現場と必要数の間で誰かが困っている。前の世界なら在庫や納期だったものが、こちらでは山羊乳になっただけかもしれない。
現在の会計は三百六十で、残り予算は二百九十。熟成白酪は思ったより満足感があるので、追加するなら軽いものがよさそうだった。焼き根菜八十なら安く、軽麦酒百も頼めるし、山羊肉薄焼き二百という選択肢もある。
「白酪食べたあと、何が一番合います?」
店主へ聞く。
「腹具合は?」
「まだ少し入ります」
「じゃあ本日の小皿」
「何です?」
「《乳清豆煮》。九十」
「乳清?」
「白酪作ったあと残る汁。それで白豆煮てる」
「それください」
予定外の一品が決まった。
少しして置かれた小さな深皿には、白い豆が薄い乳色の汁に浸かり、上には細かな緑の香草が散らされていた。
「白酪作った残りを使うんだ」
「捨ててもいいけど、栄養残ってるからね。パン生地に使う店もあるよ」
「今日、潰れた果物を酢にする話の次は、乳の残り汁か」
「何の話?」
「最近、捨てない料理によく当たるんです」
「食材高いからね。使えるもの捨てる方がもったいないよ」
一口食べてみると、白豆は柔らかく、普通の塩煮より味が丸い。乳そのものほど濃くはないのに、汁にはわずかな酸味と甘みがあり、豆の淡い味を邪魔せず支えていた。
「優しい味」
「熟成白酪のあとにいいでしょ」
「すごくいい」
濃い白酪を食べたあとだからこそ、この薄い味がちょうどいい。
これで合計四百五十になり、残りは二百。軽麦酒百を追加してもまだ百残り、白果酒をもう一杯なら百四十なので、どちらを選んでも予算には収まる。
昨日なら同じ酒をもう一杯選んでいたかもしれないが、今日は白酪の濃い味をかなり楽しんだので、最後は少し軽くしたかった。
「軽麦酒、一杯ください」
「はいよ」
追加の軽麦酒は百ゴールドで、最終会計は五百五十になり、予算六百五十から百ゴールド残る。
麦酒は淡い黄金色で泡が薄く、香りも苦味も控えめだった。単体なら少し物足りないと思うかもしれないが、熟成白酪を三種類食べ、乳清豆煮まで食べたあとには、この軽さがむしろありがたい。
「今日、朝から白酪だったなぁ」
「朝も?」
「宿の朝食で若いやつ食べて、仕事で山羊の飼料運んで、乳を工房まで運んで、熟成庫見せてもらって、夜これです」
「一日白酪だね」
「自分でもそう思います」
「嫌になった?」
少し考えてから、九十日の白酪を最後の一欠片だけ食べる。
「むしろ前より好きになりました」
「ならいい一日だったね」
「そうかも」
白酪を食べるだけなら昨日まででもできたけれど、今日はその前に山羊がいて、毎朝搾乳する人がいて、重い桶を運ぶ人がいて、工房で固める人がいて、そのあと何十日、何百日と状態を見ながら手入れする人がいることを知った。
熟成という言葉から、私は勝手に「置いて待つ」ことを想像していたが、実際には、その待っている時間の中にも毎日の仕事がある。
「会計お願いします」
「五百五十ね」
白果酒百四十、熟成白酪三種二百二十、予定外の乳清豆煮九十、追加の軽麦酒百で、合計五百五十ゴールドだった。夜予算六百五十から百残り、今日の報酬千三百から昼食百十、宿代三百、夜五百五十を引けば、三百四十ゴールドが残る。
「今日は百余った」
「無理に使わなくていいよ」
「最近それ、いろんな店で言われる気がします」
「じゃあ覚えな」
「覚えてるつもりなんですけどね」
店主へ硬貨を渡して席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「三つならどれが好きだった?」
「九十日」
「無難」
「いいじゃないですか」
「いいよ。好きなの食べるのが一番だから」
「それも最近よく聞きます」
店を出ると、北門へ続く通りには昼間よりずっと人が少なくなっていた。牧区から戻ってきた荷車がゆっくり街の中へ入り、どこかの店からはまだ焼いた肉の匂いが流れている。
朝食で食べた柔らかな白酪と、《乳月亭》で食べた三十日、九十日、百八十日の熟成白酪は、全部同じように山羊乳から作られているのに、それぞれまったく違う食べ物のようだった。
「チーズって、置いとくだけじゃ駄目なんですね」
昼間、ドランへ言った言葉を思い出す。
考えてみれば当然なのだけれど、知るまではそんなものだった。何十日も何百日も棚へ置いておけば勝手に美味しくなって値段が上がるわけではなく、毎日状態を見て、返して、拭いて、塩を調整し、湿りすぎても乾きすぎてもいけないという時間の中に、ちゃんと誰かの仕事が積み重なっている。
前の世界では熟成チーズの値札を見て、「高いな」と思って別の商品を取ったことも何度もあったけれど、今なら少しだけ違う見方ができる。
高いから必ず美味しいわけではないし、長く熟成したものが自分の好みに合うとも限らない。実際、今日一番好きだったのは一番古い百八十日ではなく、真ん中の九十日だった。
結局、値段や日数ではなく自分が好きなところを選べばよく、それは酒でも仕事でも同じなのかもしれない。
昇格したからといって一番高い依頼を受ける必要はなく、今日は千三百ゴールドの牧場仕事を選んだおかげで、白角山羊に服の裾を咥えられ、乳桶を揺らして注意され、熟成庫を見せてもらい、夜には三種類の白酪を食べ比べることができた。
今日の稼ぎは昨日より二百ゴールド少なかったけれど、それで昨日より悪い一日だったとはまったく思わない。
そんなことを考えながら歩いていると、昼間に山羊へ咥えられた裾の辺りが少し気になった。
「……これ、洗った方がいいな」
白酪について少し詳しくなった日の最後に考えることが洗濯なのは、我ながら締まらない。それでも、今日も働いて、食べて、飲んで、三百四十ゴールド残ったのだから、それなら十分だと思いながら、私は夜の北通りをゆっくり歩いていった。




