第17話「今日は魚の気分だったんです」
昨日の朝は二日酔いで頭が重かったけれど、今朝は目を開けた瞬間から身体がずいぶん軽かった。
布団の上で一度伸びをしてみても頭の奥に鈍い重さはなく、喉も乾いていない。昨夜の《湯鉢亭》で軽麦酒を一杯だけにして、店主に言われた通り水を飲んで寝た効果なのか、それとも《火蜜酒》の失敗からようやく身体が立ち直っただけなのかは分からないが、少なくとも今日はスライムの粘液を見ただけで胃が嫌な動きをするような状態ではなさそうだった。
「普通ってありがたいなぁ」
昨日、《湯鉢亭》で隣に座った粉挽き場の男性が言っていた言葉を思い出す。楽になるのではなく普通に戻るだけなのに、その普通が一番ありがたいという話を聞いた翌朝に、自分の身体でそれを実感することになるとは思わなかった。
朝食のため食堂へ降りると、今日の皿には黒パンと豆の薄い煮込み、それから小さな焼き魚が載っていた。
「魚だ」
手のひらより少し小さい銀色の魚で、表面へ粗い塩が振られ、尾の先だけ少し焦げている。宿では魚が出る日もあるけれど肉や卵の方が多く、朝から丸ごとの焼き魚を見るのは久しぶりだったので、黒パンより先にそちらへ目がいった。
小さな木の匙とナイフを使って身を外し、口へ運ぶ。白身はやや締まっていて脂は少なく、塩だけの単純な味付けなのに、久しぶりに魚を食べたせいか妙に美味しく感じた。
「今日、魚食べたいな」
朝食を食べながら夜の話をするのもどうかと思うけれど、今夜何を食べたいかが決まると、仕事を選ぶときの基準も自然に決まってくる。
昨日は八百ゴールドを稼ぎ、昼食に九十、宿代に三百、《湯鉢亭》で二百九十使って百二十残った。今日は体調も戻っているので少し多めに稼ぎたいが、護衛で一日歩き続けたり大きな魔物を相手にしたりするほど気合いが入っているわけでもない。
魚をしっかり食べて酒も一杯か二杯飲むなら、夜に六百前後は欲しい。昼食と宿代、それから少し残す分まで考えると、千二百から千五百くらいの報酬がちょうどよさそうだった。
「今日は千三百くらいで、魚」
欲しいものが明確だと、朝から少しだけ動きやすい。
朝食を終え、短剣の刃と鞘を確認してから冒険者ギルドへ向かった。
依頼板の前はいつも通り朝の冒険者で混んでいたが、今日は文字を見るのが昨日ほど苦ではない。体調だけで依頼書の印象がここまで変わるなら、昨日の自分に高報酬の仕事を選ばせなくて本当によかったと思う。
南街道の荷馬車護衛は千五百、東農地の《角鹿》追い払いは千三百五十、北西林の薬草採取は九百で、どれも条件だけなら悪くない。ただ、今日はもう少し違う仕事をしてみたい気分だったので、何枚か先まで確認していくと、一枚の依頼書に目が止まった。
《西水門外・用水路詰まり除去および水生害獣確認。報酬千三百ゴールド。長靴貸与。昼過ぎ終了予定》
「水生害獣」
少し嫌な言葉ではあるものの、用水路の詰まり除去が主な仕事なら、魔物討伐中心ではなさそうだった。
依頼票を持って受付へ行く。
対応してくれたのは、栗色の髪を肩で揃えた女性受付員だった。
「西水門の依頼ですね」
「水生害獣って何が出ます?」
「主に《泥殻蟹》です」
「蟹?」
「蟹です」
「食べられます?」
「そこから聞きます?」
「今日は魚の気分なので」
「蟹は魚じゃないですよ」
「分かってます」
受付員が少し笑った。
「泥殻蟹は用水路や浅い川にいる甲殻類です。殻幅は大きいもので腕一本分くらい、普段は人を襲いませんが、石や木片の陰へ巣を作るので水路を詰まらせることがあります」
「大きいなぁ」
「食用にもなります。ただし泥抜きが必要なので、捕まえてすぐ焼くのはおすすめしません」
「じゃあ夜ごはんにはならないですね」
「依頼と晩酌を一緒に考えないでください」
「仕事のやる気に関わるので」
「今日は元気そうですね」
「昨日は二日酔いだったので」
「ああ、スライム七体の」
「受付で共有されてるんですか?」
「たまたま聞きました」
「恥ずかしい」
「今日は大丈夫そうですか?」
「今日は普通です」
「それなら長靴を借りて、西水門管理所へ行ってください。管理人はトーマさんです」
「詰まり除去ってどれくらい?」
「三か所確認されています。泥殻蟹がいた場合は追い出しまで含まれますが、討伐必須ではありません」
「追加報酬は?」
「大きな巣が見つかって予定以上の作業になった場合だけ管理人判断で出ます」
「今日は『三か所程度』じゃないですよね?」
「三か所確認済みです」
「その言葉、信じます」
「信用してください」
依頼票と長靴の貸出札を受け取り、私は西門へ向かった。
途中で昼食用の黒麦パンと薄切り燻製肉、それから小さな酸味果を合わせて百十ゴールドで買う。今日は昨日ほど胃を気にする必要がないので、昼も少しだけしっかり食べることにした。
西水門管理所は街の外壁から少し離れたところにあり、リーベル周辺の農地へ水を分ける用水路の起点になっている。大きな川から引いた水を複数の水路へ分ける石造りの施設で、まだ建物が見えないうちから流れる水の音が聞こえていた。
「ギルドの人?」
管理所の前で声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。
名前はトーマ。日焼けした顔に深い皺があり、灰色がかった短い髪の上へ布帽子を被っている。背は高くないが腕は太く、腰には細い鉤棒と縄を下げていた。
「ミサキです。詰まり三か所って聞いてます」
「三か所。今のところはな」
「今のところって付けないでください」
「水は流れるからな。昨日三つでも今日は四つかもしれん」
「受付では三か所確認済みって」
「確認済みなのは三つ」
「嫌な言い方するなぁ」
「まあ来い」
トーマから長い木製の熊手と小さな鉄鉤を渡される。
「基本は枝と草の除去。泥殻蟹いたら棒で追い出せ。挟まれると痛いぞ」
「どれくらい?」
「指なら血出る」
「それは嫌」
「だから素手入れるな」
「入れません」
水門から最初の詰まりまでは歩いて十分ほどだった。
用水路は幅二メートルほどで、昨日の排水路より水量が多い。流れの端には雨で運ばれてきた枝や枯れ草が溜まり、その一部が狭い場所へ引っかかって水をせき止めていた。
「ここ一つ目」
「思ったより詰まってますね」
「雨のあとだからな」
長靴で水路へ入り、熊手を使って枝を引き寄せる。水は膝より下くらいまでしかないが、流れがあるので足元へ常に力を入れていないと身体が少し持っていかれるうえ、枝一本なら軽くても濡れた草まで絡み合うと急に重くなる。
「こういうの、見た目より重いんですね」
「水吸ってるからな」
「昨日スライムで靴濡らしたのに、今日は最初から水の中かぁ」
「昨日何してた?」
「排水路でスライム」
「水路好きなのか?」
「偶然です」
トーマが笑う。
一つ目は二十分ほどで片づいた。大きな枝を土手へ上げ、草と泥を分け、水がまともに流れ始めるのを確認すると、それまで淀んでいたところから一気に水が抜けていき、見た目にもはっきり流れが変わった。
「これちょっと気持ちいいですね」
「流れ戻ると分かりやすいだろ」
「倉庫の荷物運びと似てるかも。終わったのが見える」
「事務仕事よりはな」
「何で分かるんです?」
「街の役所にいたことある」
「ほんとに?」
「若い頃な。机仕事嫌でこっち来た」
「逆方向だ」
前の世界で毎日机へ向かっていた私は、今では用水路の中で濡れた枝を引っ張っている。どちらが向いているかはまだ分からないけれど、仕事が終わった瞬間に水が流れ始めるのは、完了した感じがはっきりしていて悪くなかった。
二つ目の詰まりは一つ目より小さかったが、枝をどけようとした瞬間、石の下で何かが動いた。
「いました」
「蟹だな」
トーマが鉤棒を構える。
石の陰から出てきた《泥殻蟹》は、本当に腕一本分くらいの幅があった。殻は灰褐色で、泥が乾いて固まったようなざらついた模様があり、左右の鋏だけが少し赤い。
「蟹っていうより武器持ってるみたい」
「挟まれるなよ」
「食べると美味しいんです?」
「ちゃんと泥抜きすればな」
「味は?」
「川蟹より甘い」
「川蟹分からないです」
「じゃあ食え」
「今日は魚の気分なんです」
「さっきから何だそれ」
泥殻蟹が鋏を持ち上げたので、私は木の棒で前を軽く突き、反対側からトーマが鉤棒で石を動かした。居場所を失った蟹は横向きに水路を移動し、そのまま下流へ逃げていく。
「倒さないんですね」
「水路から出ればいい。全部獲ってたらいなくなる」
「食用でも?」
「食う分は別に捕る」
必要だからと全部殺すのではなく、仕事の目的はあくまで水路を通すことらしい。第15話の護衛でセラが灰牙犬を倒さず追い払ったときと少し似ていて、仕事の目的と討伐そのものは別なのだと改めて思う。
二つ目を終え、三つ目へ向かう途中で昼休憩になった。
水門近くの木陰へ腰を下ろし、朝買っておいた黒麦パンと燻製肉を食べる。酸味果は梅ほど酸っぱくないけれど、小さな林檎に強めの酸味を足したような味で、燻製肉の塩気のあとに食べると口の中がさっぱりした。
「昼、毎日持ってくんのか?」
トーマが自分の包みを開きながら聞く。
「仕事によります。夜に使いたいので、昼は百くらいにします」
「酒?」
「酒とごはんです」
「若いな」
「トーマさんは飲まないんです?」
「飲むけど、毎日は飲まん」
「みんなそう言いますね」
「毎日飲む方が少ないだろ」
「最近ちょっと不安になってきました」
「飲み過ぎなきゃ好きにしろ」
トーマの昼食は大きな黒パンと塩漬け魚だった。
魚を見た瞬間、朝から続いている気分がまた戻ってくる。
「それ魚ですよね」
「《細鱗魚》の塩漬け」
「美味しい?」
「塩辛い」
「今日、魚食べたいんですよ」
「さっき蟹は断っただろ」
「蟹じゃなくて魚なんです」
「何が違うんだ」
「気分が」
「面倒だな」
「自分でもそう思います」
食べたいものに理屈が必要なわけではなく、朝に宿で焼き魚を見てから、頭の中にはずっと魚が残っているのだから仕方がない。
昼食を終え、三つ目の詰まりへ向かった。
最後の場所はかなり大きく、細い枝だけでなく腕ほどの太さの流木が斜めに引っかかり、その周囲へ草や葉、泥が積もって小さな堤防のようになっていた。
「これ、二人で?」
「無理なら応援呼ぶ」
「追加報酬あるやつ?」
「たぶんな」
「頑張ります」
「そこは先に安全考えろ」
「はい」
無理に流木だけを引けば周囲の枝まで一気に崩れかねないため、まず外側の草と細枝を少しずつ取り除き、水が通る隙間を増やしてから最後に大きな流木を動かすことになった。
作業を始めて十分ほどしたところで、また泥殻蟹が一匹出てきた。
今度の個体はさっきより少し小さい。
「またいる」
「巣にしやすいからな」
「こっちも追い出します?」
「そうだな」
棒で誘導すると、泥殻蟹は一度こちらへ鋏を向けたあと、流れのある方へ逃げていった。
「魚はいないんですか?」
「いるぞ」
「この水路に?」
「小さいのなら」
「食べられる?」
「仕事しろ」
「はい」
今日は自分でも魚への執着が少し強いと思いながら、さらに枝を取り、流木の周囲を空けていく。
トーマと二人で縄をかけ、一度引いたものの、流木はほとんど動かなかった。
「重っ」
「泥に噛んでるな」
「もう一回?」
「少し掘る」
木の周りの泥を鉄鉤で崩し、もう一度引く。今度は流木がゆっくり傾き、水が隙間へ入り込んだ。
「来るぞ!」
トーマの声に合わせて横へ避けると、流木が外れ、それまでせき止められていた水が一気に下流へ流れ出した。残っていた細枝や葉までまとめて動き始め、詰まりの向こう側に溜まっていた水位が目に見えて下がっていく。
「おお……」
勢いよく流れる水を見ていると、それまでの重さが一気に報われたような気がする。
「終わった?」
「まだ確認」
トーマは現実的だった。
下流まで少し歩き、別の場所で枝が詰まっていないことを確かめる。幸い新しい詰まりはなく、管理所へ戻った頃には昼をかなり過ぎていた。
「三つ、全部終わり」
「最後のは追加になりません?」
「なる。流木処理で二百追加つける」
「ほんとです?」
「管理基準超えてたからな」
「千五百!」
「嬉しそうだな」
「夜の魚が豪華になります」
「まだ魚言ってるのか」
トーマから完了印をもらい、借りた道具と長靴を返して街へ戻った。
ギルドへ着いて依頼票を提出すると、基本報酬千三百に追加二百を加えた千五百ゴールドが支払われた。
昼食に百十、宿代に三百を確保しても千九十残るので、今日は夜に七百まで使っても三百九十残せる。
「七百」
昨日が二百九十だったことを考えると、かなり贅沢できる金額だった。
「今日は何食べるんです?」
受付員が聞く。
「魚です」
「朝からまだ?」
「まだです」
「そこまで決まってるなら川荷揚げ場側の通りじゃないですか」
「そんなところあるんだ」
「西水路から来る魚を扱う店が多いですよ。魚屋は中央市場だけじゃないです」
「行ってみます」
川荷揚げ場は市街地の西寄りにあり、街の外から引き込まれた水路が広くなる場所に小さな船着き場が作られていた。セルナのような港町ではないけれど、近郊の川や湖から運ばれてくる魚、野菜、薪などの荷を受け入れる場所らしい。
夕方に歩いてみると、中央市場とは匂いが違った。濡れた木材、水、縄、魚、それから塩の匂いが混じっていて、仕事を終えた荷運び人や漁師らしい人も多く、服の裾が濡れている客が珍しくない。
「ここ、今まで来てなかったなぁ」
店を見ながら歩く。
一軒目は魚料理が多いものの酒が少し高く、二軒目は大皿料理中心なので一人では頼みにくい。三軒目は焼き魚の匂いがかなり良かったが、外まで客が並んでいたので、もう少し奥まで探すことにした。
やがて古い木造の店が見え、入口の上では青く塗られた魚の尾の看板が揺れていた。
《尾灯亭》
店先の品書きを見る。
《麦酒 百二十ゴールド》
《川白酒 百五十ゴールド》
《平尾魚塩焼き 二百二十ゴールド》
《青背魚香草焼き 二百ゴールド》
《小川魚揚げ 二百四十ゴールド》
《魚骨豆汁 百三十ゴールド》
《酢葉菜 六十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
《本日の網皿 二百ゴールド》
「魚ばっかり」
今日はそれがいい。
扉を開けると、店内は細長く、壁際のカウンターが八席、四人掛けの卓が三つあった。奥には炭火の焼き台があり、その横へ魚を並べた木箱が置かれている。
「いらっしゃい!」
声をかけてきたのは三十代半ばくらいの女性だった。
肩までの濃い茶髪を後ろへまとめ、袖を肘まで捲っている。細身だが動きが速く、片手で皿を二枚持ちながら空いているカウンターを指した。
「一人ならそこ!」
「はい」
席へ座ると、すぐに木の杯が置かれる。
「水。注文決まった?」
「平尾魚って前に別の店で食べました」
「腹?」
「腹焼きでした」
「うちは丸焼き」
「じゃあ違うなぁ」
「青背は今日脂あるよ」
「どんな魚です?」
「川下から上がってくるやつ。背が青い。身は平尾より締まってる」
「それください。あと麦酒」
「青背香草焼きと麦酒ね。三百二十」
「お願いします」
今日は魚を食べると決めていたので、料理選びにほとんど迷わなかった。夜の予算七百から三百二十を引けばまだ三百八十残り、二杯目を飲んでも何か追加できる金額なので、焦らず最初の魚を食べてから考えればいい。
先に麦酒が出てきた。
色は明るい琥珀で泡は薄く、香りには麦の甘さより少し青い草のような匂いがある。一口飲むと軽い苦味のあとに乾いた香りが残った。
「これ、ちょっと草っぽいですね」
女性店員が振り返る。
「《川辺苦葉》入ってるからね」
「魚用?」
「うちではそう。脂ある魚に合わせる」
「麦酒も店で違うなぁ」
「酒屋から二種類取ってるよ。肉の日は濃い方出す」
「肉もあるんです?」
「たまに」
「魚の店なのに」
「魚屋じゃないからね」
「確かに」
料理屋なのだから、看板が魚でも肉を出してはいけない理由はない。
少しして、青背魚香草焼きが運ばれてきた。
魚は腕の半分くらいの長さで、頭と尾をつけたまま開かずに焼かれている。背の皮は名前通り青みがかった銀色で、炭火の焦げがところどころ茶色く入り、腹の上には刻んだ緑の香草と黄色い皮のようなものが散らされていた。
「いい匂い」
「熱いから気をつけて」
ナイフを入れると、皮の下から透明な脂が少し滲んだ。
白身は平尾魚より細かく締まっていて、木串で持ち上げても崩れにくい。一口食べると最初に皮の香ばしさがあり、そのあとから思ったより強い脂が広がった。
「これ美味しい」
見た目は鯖に少し似ているけれど、味は鯖より癖が弱く、身の締まり方は鯵と鮭の間くらいに感じる。ただ、前の世界の魚へ無理に当てはめようとすると、どれも少しずつ違った。
「黄色いの何です?」
「《灯柑》の皮」
「あ、前に食べました」
「魚に合うからよく使うよ」
《灯柑》は以前別の店でも香りづけに使われていた。ここでは皮を細く削り、脂の強い魚の上へ散らしている。
緑の香草は《川香葉》というらしく、噛むと少し苦く青い香りがあるので、魚の脂を軽くしてくれる。
「塩だけじゃないんですね」
「川魚は匂い強いやついるからね。焼く前に香草塩擦る」
「この魚も臭い?」
「今日のはそうでもない。でも習慣」
前の世界では魚の臭みを酒や生姜、柑橘で取ることがあった。この世界でも目的は似ているが、使っているものは灯柑や川香葉で、やはり同じではない。
麦酒を飲んでみると、さっき少し草っぽいと思った香りが、魚を食べたあとだと急に合うように感じた。
「なるほど」
「何が?」
「魚のあとだと麦酒の味変わります」
「だからそれ出してる」
「店の人って、ちゃんと考えてるんですね」
「当たり前だよ」
「すみません」
笑われた。
隣の席には、少し遅れて二人の男性が座った。
どちらも四十代くらいで、片方は濡れた革の前掛けをつけ、もう片方は肩に細い縄を掛けている。会話を聞く前から、荷揚げ場で働いているのだろうと分かる格好だった。
「今日の網皿、まだある?」
「あるよ。小川魚と《黒尾鰌》」
「それ二つ」
「酒は?」
「麦」
「俺、川白」
二人の注文を聞きながら魚を食べていると、すぐに仕事の愚痴が始まった。
「今日また荷船遅れたな」
「上流で枝詰まったらしいぞ」
「またかよ。こっちは荷下ろし終わるまで帰れねぇんだぞ」
「水門のやつら何してんだ」
その言葉で、私は思わず手を止めた。
「それ、今日私が直したところかもしれません」
二人がこちらを見る。
「姉ちゃん、水門の人?」
「ギルドの依頼で詰まり除去してました」
「西?」
「西です」
「じゃああそこだ」
「流木ありました」
「それだよ!」
縄を掛けた男性が笑いながら机を軽く叩いた。
「昼の荷船、そこで止まってたんだ」
「すみません」
「何で姉ちゃんが謝るんだよ」
「遅れた原因を直してた側なので」
「なら逆だ。ありがとな」
「でも昼過ぎまでかかりました」
「雨のあとなんてそんなもんだ」
革前掛けの男性が麦酒を飲む。
「こっちは客から『夕方には着くって言っただろ』って言われたけど、水が詰まってるもんはどうにもならん」
「事情説明したんです?」
「した。そしたら『でも予定は予定ですよね』って」
「うわぁ」
「分かる顔したな」
「前の世界で似たようなのありました。別部署の遅れでも、最後に受けるところが怒られるんですよ」
「どこも一緒か」
「一緒です」
自分が昼間に直した水路が、知らないところで誰かの仕事へつながっていた。川の水が流れ、その水路を船が通り、荷揚げ場へ魚や荷物が届き、夜にはその魚を私が食べているのだと思うと、昨日までなら意識しなかったつながりが一日の中で急に見えるようになった。
「今日、この魚もその水路通ってきたんですか?」
女性店員へ聞く。
「青背は朝便だから昨日のうちに来てる。でも明日の分は今日の船」
「じゃあ今日詰まり直してなかったら」
「明日の魚少なかったかもね」
「私、未来の酒のつまみ守った?」
「大げさ」
「でもちょっと嬉しい」
こういう結果なら仕事をした実感がさらに増す。
青背魚は半分ほど食べ終わっていて、頭に近い身は腹より脂が少なく少し締まっている。同じ一匹でも場所によって味が違い、皮の焦げが強いところは香ばしさが増して麦酒が進んだ。
現在の会計は三百二十ゴールドで、予算七百からは三百八十残っている。麦酒をもう一杯なら百二十、本日の網皿は二百なので、両方頼んでも六百四十に収まる計算だった。
「今日は余裕ある」
つい口にすると、女性店員が聞いた。
「予算?」
「七百です」
「ちゃんと決めてるんだ」
「決めないと使います」
「分かる。給料日の市場の人もそう」
「やっぱり?」
「財布あるだけ飲む人いるよ」
隣の男性が口を挟む。
「俺のことか?」
「昨日も来たでしょ」
「昨日は昨日」
「今日も今日だね」
「そういうこと」
強い。
私も言い訳はする方だけれど、ここまで開き直れるほどではない。
二杯目を頼もうか考えていると、隣へ本日の網皿が運ばれてきた。
小さな魚を丸ごと焼いたものと、細長い黒っぽい魚を切って煮たものが一皿に盛られている。その中でも気になったのは、小魚の方だった。
頭から尾まで指くらいの長さしかなく、表面がぱりっと焼けている。
「それ、骨ごと食べられるんですか?」
隣の男性へ聞く。
「小川魚? 食えるよ」
「頭も?」
「頭も」
「……気になる」
女性店員が笑う。
「網皿頼む?」
「二百ですよね」
「二百」
麦酒をもう一杯と網皿を頼めば合計六百四十で、予算七百から六十残る。本来は青背魚一皿で魚をしっかり食べたので、追加するなら酒だけでも十分だったのに、隣で骨ごと小魚を食べているのを見ると、急にそちらの方が気になってきた。
「網皿ください。それと麦酒もう一杯」
「はいよ」
予定外の一皿まで頼んでも予算内だった。
二杯目の麦酒と一緒に運ばれてきた本日の網皿には、小川魚の炙りが五匹と、《黒尾鰌》という細長い魚の煮付けが少量載っていた。
まず小川魚を一匹持つ。
「本当にそのまま?」
「そのまま」
女性店員が答える。
頭からかじると、ぱりっと軽い音がした。
「……骨、いける」
骨はあるけれど細くて柔らかく、頭の部分には少し苦味があり、そのあとから身の香ばしさと塩気が来る。日本で食べた小魚の唐揚げやししゃもに少し似ているが、これは揚げておらず、炭火で水分を飛ばしているので、表面は硬めなのに中にはほんの少し柔らかさが残っていた。
「これ好きかも」
「安いよ」
「単品ないんです?」
「日による。網に入った小さいのまとめて今日の皿にするから」
「狙って仕入れてない?」
「大きい魚獲る網に入ったやつ。捨てるのもったいないから」
「ここでもそうなんだ」
「何が?」
「前に市場で、傷ついた果物が別の料理になってたんです」
「ああ、似てるね」
大きさが足りない魚や狙った魚ではない小魚、形が悪い果物は、そのままでは表の売り物として価値が低くても、料理屋へ来れば別の形でちゃんと使われている。
次に《黒尾鰌》を食べる。
細長い魚を短く切り、濃い茶色の汁で煮てある。身は柔らかく、少し泥っぽい香りがあるけれど、甘みのある根菜汁と強めの塩でうまく抑えられていた。
「これ、見た目より濃い」
「泥魚は薄味だと匂い出るからね」
「泥抜きする?」
「する。蟹と同じ」
「今日聞きました、それ」
「泥殻蟹?」
「仕事で二匹追い出しました」
「食べればよかったのに」
「今日は魚の気分だったんです」
朝から何度目になるか分からない言葉を、とうとう居酒屋でも口にした。
隣の男性が笑う。
「蟹も魚みたいなもんだろ」
「違います」
「水にいる」
「分類が雑すぎる」
「食えれば同じ」
「違いますって」
もう一人の男性まで笑い始める。
魚を食べたいというだけで一日ここまで話題が続くとは思わなかった。
二杯目の麦酒を飲むと、小魚の塩気のあとでは苦味が心地よく、黒尾鰌の濃い煮汁のあとには川辺苦葉の青い香りが口を軽くしてくれる。
予算は六百四十まで使ったので、残りは六十。品書きを見ると《酢葉菜》がちょうど六十ゴールドだった。
昨日なら、あるいは第13話の《串炉》なら「ぴったり使える」と頼んでいたかもしれないが、青背魚一匹に網皿まで食べたので、腹はもう十分だった。
「酢葉菜いけるよ」
女性店員が私の視線に気づいた。
「六十なんですよね」
「六十」
「ちょうど残ってる」
「じゃあ頼む?」
「今日はやめます」
「なんで?」
「ぴったり使う必要ないって最近覚えたので」
「偉い」
「その褒め方、最近よくされる」
「何歳?」
「二十六です」
「じゃあまだ覚えられる」
「怖い言い方しないでください」
笑いながら会計を頼む。
麦酒二杯で二百四十、青背魚香草焼き二百、本日の網皿二百で、合計六百四十ゴールドだった。夜の予算七百からは六十残る。
「ごちそうさまでした」
「魚の気分、満足した?」
「かなり」
「明日も?」
「明日は分かりません」
「そんなもんだよ。食べたいもんなんて、朝と夜でも変わるからね」
「今日は朝からずっと魚でした」
「珍しい日だったんだ」
「たぶん」
店を出ると、川荷揚げ場にはまだいくつか灯りが残っていた。
夜になっても荷を運んでいる人がいて、濡れた板の上を木箱が動く音が聞こえる。水路には小さな灯りをつけた船が一艘だけ浮かび、その向こうから水の流れる音が続いていた。
今日の報酬は流木処理の追加を含めて千五百ゴールドで、昼食に百十、宿代に三百、夜に六百四十使ったので、今日の稼ぎからは四百五十ゴールド残った。用水路へ入って枝と泥を取り、二匹の泥殻蟹を追い出し、最後には太い流木まで動かした仕事だったが、作業中はただ水を流すために片づけていただけで、その水路が荷船につながり、その船がこの場所へ魚や荷物を運び、それを待っている人たちがいることを夜になって初めて知った。
前の世界でも、道路を直す人、荷物を運ぶ人、店へ並べる人、料理する人は同じようにつながっていたはずなのに、私は完成したものを受け取る側からしか見ていなかったことが多い。こちらでは生産や運搬との距離が近いぶん、その流れが少しだけ見えやすいのかもしれなかった。
朝に宿で小さな焼き魚を食べて「今日は魚が食べたい」と思い、昼には水路を直し、夜にはその先の荷揚げ場で青背魚と小川魚を食べたのだから、振り返ってみれば妙に一本につながった一日だった。
「今日は魚の気分だったんです、で始まった割に、ちゃんと一日全部つながったなぁ」
そんなことを口にしながら、川沿いの道をゆっくり歩く。
明日になれば肉が食べたくなるかもしれないし、豆だけでいい日もあるかもしれない。何を食べたいかなんて毎日変わるけれど、その日の稼ぎと腹具合に合う店を探して一杯飲めれば、それで十分なのだと思った。




