第16話「二日酔いの私にスライムはきつい」
目を覚ました瞬間、頭の奥に鈍い重さが残っていることに気づいた。
激しく痛いわけではないし、吐き気があるほどでもない。それでも布団の上で身体を起こしたとき、頭の中が半拍遅れてついてくるような感覚があり、昨夜の《火蜜酒》を思い出した私は、しばらく何も言わずに額へ手を当てた。
「……水で割ったのに」
最初に原液を二口ほど飲んだあと、水で割って最後まで飲み切っただけなので、自分ではそれほど酔っていないつもりだった。店を出たときも真っ直ぐ歩けていたし、頬が少し熱い程度だったので問題ないと思っていたのだが、どうやら身体の方は私より正確に昨夜の酒量を覚えていたらしい。
前の世界でも、飲んでいる最中には「全然平気」と思っていたのに、翌朝になってから頭の重さで答え合わせをすることが何度かあった。甘い酒は飲みやすいから危ないということまで知っていたはずなのに、世界が変わっただけで同じことを繰り返している。
「酒の強さ、聞こうって昨日決めたばっかりなのになぁ」
昨日学んだことが今日すぐ役に立っていると考えれば、無駄ではなかったのかもしれない。そう思うことにして、私はいつもより時間をかけて着替えた。
食堂へ降りると、《銀鈴の宿》の朝食は黒パンと白豆の薄いスープ、それから塩を振った焼き野菜だった。普段なら黒パンから手をつけるところだが、今日は先にスープを少しずつ飲み、温かい汁が胃へ落ちていくのを確認してからパンを千切った。
「今日は軽いのがいいな……」
仕事の話でもあり、夜の食事の話でもあった。
昨日は商隊護衛で千六百ゴールドを稼ぎ、昼食百、宿代三百、《赤炉亭》で四百二十使っても七百八十残った。貯えに余裕はあるので今日一日休んでもすぐ困るわけではないけれど、休めるからと何日も貯えを使っていれば、そのうち飲み代までそこから出すのが普通になりそうで怖い。
ただし今日は高報酬を狙うつもりもなく、宿代三百を確保して昼を百前後、夜は三百程度で軽く食べられれば十分なので、七百から八百くらい稼げればいいと思っていた。
「今日は七百五十くらいでいい」
数字を口にすると、今の自分の体調にも気分にも、それくらいがちょうど合っている気がした。
朝食を終えて水を多めに飲み、短剣を腰へ下げて冒険者ギルドへ向かった。
街を歩いているうちに頭の重さは少しだけ薄れたものの、いつものように依頼板の前へ立つと、紙に並ぶ文字が普段より面倒そうに見える。南街道の荷馬車護衛は千五百ゴールドだったが、今日は長く歩きたくないのでやめた。北西林の牙猪痕跡確認は千二百だったものの、今の体調で牙猪の痕跡を追う気にはなれず、西農地の害鳥追い払いも九百なら悪くないが、畑を走り回る可能性を考えると今日には向いていない。
今日は頭を使わず、身体も使いすぎず、できれば早く終わる仕事がないか探していく。
その中で見つけたのが、
《南側排水路・小型スライム駆除。確認数六体。報酬七百五十ゴールド。魔石回収不要》
という依頼だった。
「スライムかぁ」
第1話でも何匹も倒しているし、初心者向けの仕事として何度も受けてきた相手だ。動きは遅く、攻撃も単純なので、今の私なら危険な魔物ではない。
報酬も、朝に考えていた七百五十ゴールドちょうどだった。
「今日これ以上ぴったりな仕事ある?」
むしろ受けろと言われているように思えて、依頼書を持って受付へ向かった。
今日の担当は、以前にも何度か対応してもらった細身の男性受付員だった。淡い茶色の髪をきっちり整え、いつも通り机の上には判子が何本も並んでいる。
「南側排水路のスライム駆除ですね」
「はい。六体で七百五十」
「確認されているのは六体ですが、増えている可能性はあります」
「その言い方、嫌なんですけど」
「何かありました?」
「前に『三匹程度』のゴブリンが七匹だったので」
「ああ」
「納得しないでください」
「今回は増えていても追加一体につき五十ゴールド出ます」
「それ先に書いてほしいです」
「依頼票が小さいので」
「大事なところですよ」
受付員は表情を変えないまま依頼票の裏へ補足を書き込んだ。
「排水路なので、討伐証明は魔石ではなく管理札になります。入口の管理箱から六枚持っていき、倒した個体ごとに一枚ずつ印をつけてください」
「魔石いらないんですね」
「排水路のスライムは汚水を吸っている個体も多いので、買い取り対象外になることがあります」
「……朝から聞きたくない情報だった」
「仕事ですから」
「そうですけど」
受付員は私の顔を少し見た。
「体調悪いです?」
「ちょっとだけ」
「無理そうなら別の依頼にしますか?」
「スライム六体くらいなら大丈夫です」
「二日酔い?」
「何で分かるんですか」
「顔」
「そんなに?」
「少し」
「昨日、強い酒を知らずに飲んで」
「それなら水を持っていった方がいいですよ」
「受付で生活指導までされるとは思わなかった」
「倒れられる方が面倒なので」
「現実的」
私は依頼票を受け取り、ギルドの給水桶で水袋を満たしてから南門へ向かった。
南側排水路までは街の外へ出て二十分ほどで、農地と市街地の間を流れる浅い水路に沿って歩けば着く。雨のあとには泥や枯れ草が流れ込みやすく、その中に小型スライムが集まることがあるらしい。
空は晴れているのに地面の湿気はまだ残っていて、歩くだけなら問題ないものの、少し速くすると頭の奥が重くなるので、今日は意識して速度を落とした。
「昨日の私、何で強い酒を二口も確認したんだろ」
一口目で喉が熱いと思ったなら、そこでやめればよかったのに、「気のせいかな」ともう一口飲んでしまった。前の世界でも辛い料理を食べて「辛いな」と思ったあと、なぜかもう一口食べて確かめることがあったので、人間は気になったものを二回確認したくなる生き物なのかもしれない。
「いや、私だけか」
自分で否定しながら歩く。
排水路の入口には、小さな木製の管理箱があった。依頼票を差し込むと蓋が開き、中には掌ほどの薄い木札が六枚入っている。端に小さな金属片があり、スライムを倒したあと魔力に触れさせれば色が変わる仕組みらしい。
「便利」
六枚を腰袋へ入れ、短剣を抜いた。
排水路は幅三メートルほどで、水深は足首より少し上くらいしかない。脇には乾いた土の通路があり、そこを歩きながら水面を探していく。
最初の一体は、開始から十分もしないうちに見つかった。薄い灰青色の小型スライムで、水路の端に溜まった枯れ草へ半分身体を埋めている。
「いた」
こちらに気づいたスライムがゆっくり身体を持ち上げる。普段なら何とも思わない姿なのに、今日に限っては半透明の身体の中へ泥や枯れ葉が混ざっているのを見ただけで、胃の奥が少し嫌な感じに動いた。
「……見た目、今日きついなぁ」
昨日食べた赤脚鹿や焼き蜜根を思い出さないようにしながら近づく。
スライムが跳ねたので横へ避け、そのまま核の位置へ短剣を突き込むと、ぷるりと震えたあと身体が崩れて水へ広がった。
「うわぁ……」
普段なら気にならない音まで、今日は妙に生々しく感じる。
短剣の先を水路で軽く洗い、木札を残った魔力へ近づけると、端の金属片が白から青へ変わった。
「一体」
六体ならすぐ終わると思っていたが、二体目はなかなか見つからなかった。水路沿いを十五分ほど歩きながら石の陰や草の根元を確認していくうち、下を向いた姿勢のせいで頭の重さが少し増し、何度か立ち止まって水を飲む。
ようやく二体目を見つけたのは、小さな橋の下だった。
今度は少し緑がかった個体で、跳びかかってくる前に横から核を突き、木札を青へ変える。
「二体。あと四」
普段なら残り四体くらいすぐだと思える数字なのに、今日の体調だと妙に遠く感じたので、少し休むことにした。
水路から離れた乾いた土手へ腰を下ろし、水袋からゆっくり飲む。酒を飲んだ翌日に水が美味しいというのは、世界が変わっても同じだった。
「今日の本日の一杯、水でよくない?」
そう呟いてから、それはさすがに寂しいと思い直す。夜は酒を少なくして、その代わり温かい汁物でも食べればいいのかもしれない。
十分ほど休んでから立ち上がり、再び水路を進む。
三体目と四体目は比較的近いところにいて、二体とも水路へ落ちた果物の皮のようなものへ集まっていた。こちらが近づくと別々の方向へ動き始めたので、できれば一体ずつ相手をしたいところだった。
「一体ずつでお願いします」
もちろんスライムに言っても意味はない。
先に右側へ逃げた個体を追い、短剣で核を突く。すぐに振り返ると、もう一体は水路の中央へ移動していた。
追いつこうとした瞬間、足元の泥で靴が滑った。
「わっ」
転ぶほどではなかったが、片足が水路へ入り、冷たい水が靴の中へ染み込んでくる。
「最悪……」
スライムは待ってくれず、ぷるぷると身体を揺らしながらこちらへ向きを変え、そのまま跳ねてきた。普段なら余裕で避けられる程度の動きなのに、今日は反応が一歩遅れ、身体を横へずらしたものの肩を掠められて外套の袖へ粘液がついた。
「……今、すごく嫌」
危険な攻撃でもなければ痛みがあるわけでもないのに、二日酔い気味の朝から半透明の粘液を肩につけられたというだけで、精神的にはかなりきつかった。
「二日酔いの私にスライムはきつい」
心からそう思いながら短剣を握り直し、もう一度跳ねようとしたスライムの核へ刃を入れる。
四枚目の木札を青へ変えたあと、外套の袖を水で洗った。
片方の靴は濡れ、頭の重さもまだ残っていたけれど、あと二体倒せば七百五十ゴールドになると思えば、ここで帰るわけにもいかなかった。
「夜ごはん……」
自分を動かす理由として、やはりこれが一番効いた。
五体目は排水路の終わり近くにいた。
少し大きめだったが動きは遅く、一度避けてから核を突けば問題なく倒せたので、残るはあと一体だけになった。
しかし、その最後の一体がなかなか見つからない。
管理記録が古かったのか、どこかへ移動したのかもしれない。十分、十五分と探し、最後には水路の脇へ積まれた石を一つずつ覗くことになった。
「あと一体のために帰れないの、仕事あるあるだなぁ」
前の世界でも、九割終わった仕事ほど最後の一割に時間がかかることがあった。資料を全部作ったあとで数字が一か所だけ合わないとか、確認メールを一人だけ返してくれないとか、そういう最後の一つが一番面倒だった。
そのとき、少し先の水面が動いた。
「いた?」
近づくと、石の陰から出てきたのは確かにスライムだったが、一体ではなく二体いた。
「増えてるじゃん」
受付員の言葉を思い出す。
追加一体につき五十ゴールドなので、二体とも倒せば八百ゴールドになる。体調がいい日なら迷わないところだが、今はとにかく帰りたく、それでも目の前に五十ゴールドがぷるぷるしていると思うと、そのまま見逃すのも少し悔しい。
「一体だけ倒して帰るっていう選択肢、ないよね」
片方だけ残せばまた増えるかもしれず、依頼としてもきれいではない。
「分かりました。やります」
誰に頼まれたわけでもないのに返事をして、短剣を構える。
二体が同時に近づいてきたので、片方の跳躍を避けてもう片方へ短剣を突く。最初の一撃は核を外して浅く切っただけだったため、身体を引いてもう一度狙おうとすると、後ろからもう一体が跳ねてきた。
身体を横へずらし、石の上へ着地したところを突く。
一体目が崩れた。
「六」
本来ならこれで依頼達成だった。
しかし残った一体がこちらへ向かってくるので、ここまで来たら追加の五十ゴールドももらって帰るしかない。
「五十ゴールド!」
自分でも情けない掛け声だと思いながら跳躍を避け、横へ回って核へ短剣を突き込むと、七体目も水路へ崩れた。
木札は六枚しかないので、最後の一体は依頼票の追加欄へ核の魔力を触れさせる。紙の端に青い点が浮かび、追加討伐として記録された。
「終わった……」
達成感より帰りたい気持ちの方が強い仕事は久しぶりだった。
短剣を洗い、濡れた靴を気にしながら街へ戻る。
昼食は南門近くの露店で、薄い野菜スープと小さな黒パンを買った。合わせて九十ゴールドで、今日は燻製肉やチーズを見る気にならなかったので、むしろちょうどいい。
石の腰掛けへ座り、温かいスープを少しずつ飲む。塩味は薄いけれど刻んだ白根菜と豆が入っていて、胃へ負担なく落ちていくので、前の世界で二日酔いの日に味噌汁やうどんを食べたくなったのと同じように、身体が濃い味より温かい水分を求めているらしい。
「こういう日、あるよね」
黒パンをスープへ浸しながら食べるうち、今日は夜も脂の多い肉や強い香辛料ではなく、こういう優しいものがいいと思うようになった。酒もできれば弱いものを少しだけにしたい。
ギルドへ戻り、青く変わった六枚の札と追加記録のついた依頼票を提出する。
「七体いました」
受付員が確認する。
「増えてましたね」
「言いましたよね」
「言いましたけど、当たらなくていいんですよ」
「追加一体で五十ゴールドなので、合計八百です」
「朝より増えた」
「よかったですね」
「体調悪い日に限って増えるの、何なんでしょう」
「魔物は体調を見てくれませんから」
「人間より厳しい」
「袖、濡れてますね」
「スライムにやられました」
「怪我は?」
「精神的なやつだけです」
「なら問題なしですね」
「受付の基準が厳しい」
八百ゴールドを受け取る。
昼食九十を引き、宿代三百を確保すると、今日の稼ぎから使えるのは四百十ゴールドだった。朝は夜に三百くらいと思っていたものの、追加の一体で五十増えたせいもあり、今日は三百五十まで使っていいことにした。
「夜は三百五十にしよう」
ただし、昨日のような強い酒は絶対に飲まない。
むしろ今日は温かい汁物がある店を探すつもりだった。
一度宿へ戻って濡れた靴下と外套を替え、少し横になった。眠るほどではなかったけれど、目を閉じて休んでいるうちに頭の重さは朝よりかなりましになり、水も何度か飲んだので、夕方には普通に食事ができそうなくらいまで回復している。
「今日は優しい店」
それだけを条件にして街へ出た。
酒場を探すとき、普段は値段や匂い、客の雰囲気を見ることが多いが、今日はそこへ「胃に優しそう」が追加されている。一軒目は焼き肉の匂いが強すぎて通過し、二軒目は揚げ物らしい油の匂いがしたので避け、三軒目は店先に大きな酒樽が並び笑い声もかなり大きかったため、今日の気分には合わなかった。
「私、店選びが病人みたいになってる」
実際には二日酔いが少し残っているだけなので病人ではない。
しばらく歩いたところで、住宅街と市場の間にある細い通りから湯気の匂いが漂ってきた。肉を焼く匂いではなく、薄い出汁のような、根菜と何かを煮ている匂いだった。
その先に、小さな白い暖簾がかかっている。
《湯鉢亭》
入口脇の品書きを見る。
《軽麦酒 九十ゴールド》
《白葉酒 百二十ゴールド》
《骨野菜湯 百四十ゴールド》
《細麦麺 百八十ゴールド》
《蒸し豆 七十ゴールド》
《白根菜塩煮 八十ゴールド》
《薄焼きパン 四十ゴールド》
《本日の添え皿 六十ゴールド》
「ここだ」
今の私が求めているものが、ほとんど全部書いてある。
暖簾をくぐると店内は静かで、四人掛けの卓が三つ、壁際に長いカウンターが六席あり、奥では大きな鍋から白い湯気が上がっている。香辛料の強い匂いはなく、煮た根菜と穀物、それから少しだけ肉の出汁らしい香りが漂っていた。
「いらっしゃい」
店主は五十代半ばくらいの男性だった。
短く刈った灰色の髪に、丸い眼鏡のような透明板を鼻へ乗せている。身体は大きいのに声は静かで、鍋を混ぜながらこちらを見る。
「一人です」
「好きな席へ」
カウンターの端へ座る。
「骨野菜湯と……軽麦酒」
そこまで言って、昨日のことを思い出した。
「すみません。その軽麦酒、強いですか?」
店主が少しだけ眉を上げる。
「弱い方だな」
「どれくらい?」
「普通の麦酒より少し弱い。水代わりに飲むやつじゃないが、二杯で倒れる酒でもない」
「それください」
「何かあった?」
「昨日、強い酒を知らずに頼みました」
「なるほど」
「今日はちゃんと聞きます」
「学習したな」
「一晩かかりました」
店主は小さく笑った。
「骨野菜湯と軽麦酒で二百三十」
「お願いします」
夜の予算三百五十から残りは百二十になるので、今日は最初から追加を考えず、まず温かいものを食べることにした。
先に軽麦酒が出てきた。
色はかなり淡く、薄い麦茶に少し金色を足したような見た目で、泡も少なく香りも強くない。
慎重に一口飲む。
「……弱い」
「言っただろ」
「昨日のが強すぎたんです」
味は麦の甘さが薄く、苦味もかなり控えめだった。代わりに少し酸味があり、冷たすぎないので喉より胃へすっと落ちていく。
前の世界のビールに比べればかなり薄いけれど、今日はこの薄さがありがたい。
「今日の私にはこれが正解」
「疲れてる?」
「二日酔いです」
「なら酒やめればいいのに」
「それも考えました」
「考えただけか」
「一杯くらいは飲みたいので」
「そういう客、多いよ」
「安心しました」
「安心するところじゃない」
店主の返しが静かなぶん、少し面白い。
そこへ骨野菜湯が出てきた。
深めの陶器鉢に、透明に近い薄茶色の汁がたっぷり入っている。中には白い根菜、薄黄色の芋、小さな豆、それから細く裂いた肉が少しだけ浮いていた。
湯気を吸うと、塩と根菜の甘い香り、その奥に弱い肉の匂いがある。
「何の骨です?」
「《岩牛》と《白角羊》を半分ずつ。肉屋で出た骨を煮てる」
「二種類なんだ」
「岩牛だけだと重い。白角羊だけだと薄いからな」
匙ですくって飲むと、最初はかなり薄く感じる。塩気は弱く、脂もほとんど浮いていないが、口の中へ入れて少し待つと根菜の甘さと骨から出た旨味がゆっくり残った。
「優しい……」
「病人みたいな顔して言うな」
「今日はこれが欲しかったんです」
白い根菜を食べる。
柔らかいが崩れすぎておらず、噛むと少し甘い汁が出る。
「これ《白紐根》ですか?」
「そう。こっちが《黄土芋》」
「前に食べました」
「煮込みならよく使う」
黄土芋は以前《土鍋屋 ロッカ》でも食べたが、あのときより形がしっかり残っている。煮崩れる前に取り出しているのか、ほくっとしながらも水っぽくなく、骨の出汁を表面へ吸っていた。
細く裂いた肉は白角羊らしく、量は少なかったけれど、今日はそれで十分だった。
「前の世界だったら、こういう日はうどんとか雑炊だったなぁ」
「うどん?」
「細長い麦の食べ物です。汁に入れて食べるやつ」
「それならうちにも似たのあるぞ」
「え?」
店主が品書きを指差す。
《細麦麺 百八十ゴールド》
「これ?」
「骨湯に細い麦麺入れる」
「ほぼ欲しかったやつじゃないですか」
「頼む?」
値段を見る。
今の会計が二百三十なので追加すれば四百十となり、予算三百五十を六十超える。
「……無理」
「予算?」
「はい」
「なら次にしな」
「そうします」
昨日までなら「六十くらい」と考えたかもしれないが、今日は二日酔いで仕事まで軽めにした日だ。そこで夜だけ予算を超えたら、自分で決めた意味がなくなる。
骨野菜湯を食べ進めていると、隣へ五十代くらいの男性客が一人座った。
灰色の作業着の袖に白い粉がついていて、腰には細い縄が何本か巻かれている。
「骨湯と軽麦」
席へ座るなり注文した。
「同じですね」
つい言うと、男性がこちらを見る。
「姉ちゃんも?」
「はい。今日は重いもの無理で」
「俺も」
「二日酔い?」
「腰痛」
「違った」
男性が笑う。
「粉挽き場で袋運んでんだけどな、昨日若いの休んで二人分やった」
「それで腰?」
「そう。朝起きたら曲がらん」
「仕事休まなかったんです?」
「休んだら今日の酒代がない」
「分かります」
「分かるのか」
「私は二日酔いだったけどスライム倒してきました」
「そこまでして飲む?」
「一杯だけ」
「同じだな」
「何がです?」
「身体は休みたがってんのに、財布が働けって言う」
「それです」
妙に納得した。
前の世界では、体調が悪ければ有給を取るという選択肢が一応あった。実際に取りやすいかどうかは別として、少なくとも給料がその日の分だけ直接ゼロになる感覚は薄かった。
こちらでは働かなければ、本当にその日の稼ぎがない。自由なのは楽だけれど、自由というのは休む判断まで自分でしなければいけないということでもある。
「でも、本当に駄目な日は休んだ方がいいですよね」
私が言うと、男性が頷く。
「そりゃそうだ。腰動かなくなったら袋一個も運べん」
「私も魔物の前で倒れたら終わりだし」
「じゃあ今日は?」
「スライム七体だったので、ぎりぎり」
「六じゃなかったのか」
「増えてました」
「仕事ってそういうもんだな」
「本当に」
少し笑う。
骨野菜湯は半分ほど減っていて、食べ始めた頃より胃が落ち着き、頭の重さもかなり薄れている。軽麦酒もまだ半分残っていたので、今日は急がずゆっくり飲むことにした。
予算は残り百二十で、蒸し豆七十、白根菜塩煮八十、本日の添え皿六十なら何か一つ追加できる。
「本日の添え皿って何です?」
店主へ聞く。
「《青皮瓜》の塩湯通し」
「瓜?」
「薄切りにして湯へ通して、塩と香草油少し」
「冷たい?」
「ぬるい」
「それなら食べられそう」
「六十」
本当は最初の一杯と骨野菜湯だけで終えるつもりだったが、体調が戻ってきたせいで少しだけ何か食べたくなっている。追加しても合計二百九十で、予算からは六十残る。
「それください」
「はいよ」
予定外の小皿として出てきた《青皮瓜》は、薄緑色の皮を残したまま半月状に切られていた。表面には透明な油がほんの少しだけ光り、細かく刻んだ香草が散っている。
一枚食べると、しゃくっとした歯触りが残っていた。
「思ったより硬い」
「湯へ通すだけだからな」
味は胡瓜に少し似ているけれど、水っぽさは少なく、中央の部分だけ柔らかい。塩味は弱く、香草油から青い葉の香りが少しするので、骨野菜湯のあとに食べると口の中がさっぱりした。
「これ、今日すごくいい」
「昨日なら物足りなかっただろ」
「たぶん」
「食いたいもんって日で変わるからな」
「本当にそうですね」
昨日なら赤脚鹿のような濃い肉が美味しかったし、その前の日なら傷ついた果物を煮た甘酸っぱい小皿がよかった。今日は薄い骨湯と塩を少し振った瓜が一番ありがたく、同じ人間でも、その日の仕事や体調で「美味しい」の基準は簡単に変わるらしい。
軽麦酒を一口飲むと、弱いこと自体が今日は嬉しかった。
隣の男性が自分の腰を押さえながら言う。
「明日は若いの来るらしい」
「じゃあ楽できますね」
「楽にはならん。普通になるだけ」
「それ、前の世界でもよく聞いた気がする」
「普通が一番ありがたいんだよ」
「今日ちょっと分かります」
二日酔いじゃない朝も、泥で靴を濡らさない仕事も、スライムの粘液が袖につかない日も、酒を飲んだ翌朝に普通に起きられる夜も、普段は意識しないからこそ崩れたときにありがたさが分かる。
「会計お願いします」
「二百九十」
軽麦酒九十、骨野菜湯百四十、本日の添え皿六十で合計二百九十ゴールドだった。夜の予算三百五十からは六十残る。
「もう一杯は?」
店主が聞く。
「今日は絶対飲みません」
「昨日学習したんだったな」
「今日は確認もしました」
「成長したな」
「一日で褒められるとは思わなかった」
代金を払って席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「水飲んで寝ろよ」
「はい」
「酒屋で言うことじゃないけどな」
「でも今日は信用します」
店を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
昨日のように身体が酒で熱くなっている感じはなく、頭も朝よりずっと軽い。胃の中には温かい骨野菜湯が残っていて、一杯だけ飲んだ軽麦酒も、酔うというより食事に少し付き合ってくれたくらいだった。
今日の報酬は追加の一体を含めて八百ゴールドで、昼食に九十、宿代に三百、夜に二百九十使ったので、今日の稼ぎからは百二十ゴールド残った。大きく稼いだわけでも危険な魔物を倒したわけでもないけれど、二日酔いのまま無理な依頼を選ばず、七体のスライムだけ倒して、夜には胃に優しいものを食べられたのだから、朝の私が欲しかった一日としては十分だったと思う。
「二日酔いの私にスライムはきつかったけど……強い酒よりはまだマシだったかな」
口にしてから少し考えたものの、肩についた粘液と濡れた靴を思い出すと、素直にそうとも言い切れなかった。
「いや、スライムも嫌だったな」
強い酒も二日酔いのスライム仕事も、できれば次は避けたい。少なくとも明日の朝は普通に目を覚ませるくらいの一杯にしておこうと思いながら、私は静かな夜道をゆっくり歩いた。




