第15話「その酒、強いなら先に言ってよ」
朝、《銀鈴の宿》の食堂で黒パンを千切りながら、私は昨日のことを思い返していた。
昨日は朝から本気で働きたくなかったくせに、結局は中央市場で二十四軒分の店札を交換し、六百五十ゴールドを稼いだ。昼食に八十、宿代に三百、《暮れ灯》で薄麦酒と傷果煮、それから予定外の赤鈴実と塩肉の小皿に二百二十使い、それでも五十ゴールド残せたのだから、気力がなかった日にしてはかなり上出来だったと思う。
しかも仕事が昼過ぎには終わったので、久しぶりにまとまった昼寝までできた。前の世界で平日に昼寝をしようと思えば体調不良で会社を休んだ日くらいしかなかったので、働いたあとに堂々と昼寝をして、それでも夜には一杯飲める生活というのは悪くない。
「でも今日は、もうちょっと稼ごうかな」
昨日が軽かったぶん、今日は少しくらい身体を動かしてもいい気がしていた。
朝食は黒パン、豆と根菜の薄いスープ、小さな焼き卵だった。卵を半分に切りながら、宿代に三百、昼食に百前後、それから夜にはできれば五百くらい使いたいと考える。そこへ少しでも残したい金を足すなら、千二百から千五百くらいの依頼がちょうどよさそうだった。
昨日のように「飲めれば十分」という日もあれば、今日はもう少ししっかり食べたいと思う日もあるので、その辺りは毎日同じではない。
「千五百くらいかな」
朝食を終え、短剣を確認してから冒険者ギルドへ向かった。
今日の依頼板は、昨日よりかなり混んでいた。晴れが続き始めたせいか、雨で止まっていた荷車や商隊がまとめて動き始めたらしく、護衛、荷運び、道の確認といった街道関係の仕事が何枚も貼られている。
私はその中から、報酬が高すぎず低すぎないものを探した。
《東街道・商隊護衛。リーベルより第二中継所まで。日帰り。報酬千六百ゴールド。昼食各自》
「千六百」
条件としてはかなり良い。
第二中継所までは以前別の仕事で近くまで行ったことがあり、片道二時間半ほどだったはずだ。往復すればそれなりに歩くけれど、荷物を持つ仕事ではないし、護衛対象も商隊なら単独より安全だろう。
ただし、気になるところがある。
依頼書を剥がして受付へ持っていくと、今日は栗色の髪を肩で切り揃えた女性受付員が担当だった。
「護衛人数は?」
「三名予定です。すでに二名決まっています」
「私が最後?」
「そうですね」
「商隊の規模は?」
「荷馬車二台、商人一名、御者二名です」
「積荷は?」
「乾物、布、それから加工革です」
「狙われやすそう?」
「特別高価な品ではありません。ただし東街道では最近《灰牙犬》の目撃があります」
「どれくらいの大きさです?」
「普通の犬より一回り大きい程度で、群れは三から五頭くらいです。人を積極的に襲う魔物ではありませんが、荷馬の脚を狙うことがあります」
「それなら三人いれば大丈夫かな」
「もう二人も経験者です」
「どんな人です?」
「一人は槍、一人は弓です」
「役割分かれてるなぁ」
私が短剣なので、遠距離と中距離の二人がいるならかなり助かる。
「受けます」
「では東門前へ。出発は半刻後です」
「早いですね」
「朝便ですから」
「昼ごはん買わなきゃ」
「市場を通るなら急いだ方がいいですよ」
「行ってきます」
依頼票を受け取り、そのまま東門方面へ向かった。
途中で露店へ寄り、昼食用に薄焼きパンへ燻製肉と豆を挟んだものを九十ゴールド、水袋への補充を十ゴールドで頼む。合計百ゴールドなので、今日の昼食代としては想定通りだった。
東門前へ着くと、すでに荷馬車が二台並んでいた。
一台目には乾物らしい麻袋が積まれ、二台目には布を包んだ大きな束と、革をまとめた箱が載せられている。
「護衛?」
声をかけてきたのは、二十代後半くらいの女性だった。
肩より少し長い黒髪を後ろで一つに束ね、背中には弓、腰には短剣を下げている。細身だが腕にはしっかり筋肉がついていて、立ち方も慣れていた。
「はい。ミサキです」
「セラ。弓」
「見れば何となく分かります」
「そっちは?」
彼女が顎で示した先には、荷馬車の車輪を確認している男性がいた。
二十代半ばくらいで、明るい茶髪を短く切り、長い槍を荷台へ立てかけている。背は高いけれど身体は細めで、槍使いというより旅人のような印象だった。
「ルーク」
こちらへ来て名乗る。
「よろしくお願いします」
「よろしく。短剣?」
「はい」
「じゃあ近づかれたら頼む」
「できれば近づかれる前に何とかしてください」
「セラ次第だな」
「私に全部振らないで」
セラが即座に返す。
商人は四十代くらいの男性で、名前はモルド。少し丸い顔と立派な口ひげがあり、荷馬車の前へ護衛三人を集めた。
「第二中継所まで行って、積荷を一部降ろしたら戻る。昼は向こうで半刻ほど休む予定だ」
「危険情報は?」
セラが聞く。
「昨日、灰牙犬が二頭見られた。それ以外は今のところなし」
「盗賊は?」
「最近は聞いてない」
「分かりました」
ルークが槍を肩へ乗せる。
「配置どうする?」
「私が前見る。ルークは後ろ。ミサキは一台目と二台目の間でいい?」
「大丈夫です」
「何かあったら馬を優先。荷物はあとでもどうにかなるけど、馬が走れなくなると帰れない」
「了解」
役割がすぐ決まった。こういうところを見ると、二人が護衛に慣れているという受付の話は本当らしい。
東門を出てからしばらくは、特に何も起きなかった。
雨上がりの街道は少し湿っていたものの、大きな水溜まりはなく、荷馬車も問題なく進んでいく。左右には畑や低い丘が続き、さらに東へ進むと疎らな林が増えてきた。
私は二台の荷馬車の間を歩きながら、左右を確認する。
「護衛って、暇な時ほどいい仕事なんですよね」
独り言のつもりだったが、前を歩くセラに聞こえたらしい。
「そう。何も起きないのが一番」
「でも何もないと、千六百もらっていいのかなって少し思う」
「そこ気にしなくていいよ」
「そういうものです?」
「何も起きなかったのは、運が良かっただけかもしれないし、護衛が見えてたから近づかなかったのかもしれない。仕事って結果だけじゃないから」
「なるほど」
前の世界でも似たようなことはあった。
何か問題が起きる前に確認する仕事は、何も起こらなかったら「結局何もしなかった」に見える。でも、本当に何も見ていなかったら問題が起きていたかもしれないし、それを依頼主へ説明するときほど難しいものはなかった。
「前の仕事でも、問題起きないように確認してたのに、何も起きなかったら『これ必要?』って言われることありました」
「嫌だね、それ」
「問題起きたら今度は『なんで確認しなかった』って言われます」
「もっと嫌だね」
「ですよね」
セラとそんな話をしていると、後ろからルークが声をかける。
「二人とも前」
「はい」
セラがすぐ会話をやめた。
街道の少し先では、右側の草むらが風とは違う揺れ方をしていて、低い位置だけが不自然に動いている。
「灰牙犬かも」
ルークが槍を構える。
商人のモルドも状況に気づき、御者へ声をかけて荷馬車を止めた。
セラが弓へ矢をつがえる。
「数見える?」
「まだ」
私は短剣を抜き、一台目と二台目の間から右側へ少し寄る。
数秒後、草むらから灰色の獣が一頭出てきた。
受付で聞いた通り、大きさは普通の犬より一回り大きい程度だった。ただ、頭が低く、口元から左右へ伸びる牙がかなり長い。
こちらを見てはいるものの、すぐに襲ってくる様子はなかった。
「一頭?」
私が聞く。
「たぶん違う」
セラが小さく答える。
その直後、少し離れた草むらからもう一頭が現れ、さらに左側から三頭目まで姿を見せた。
「三」
ルークが言う。
灰牙犬たちはこちらへ近づかず、荷馬を見ている。
馬も気づいたのか、鼻を鳴らして落ち着かなくなり始めた。
「追い払う?」
「近づいたら」
セラは矢を構えたまま動かない。
一頭が二歩前へ出たところで、セラが矢を放った。矢は灰牙犬そのものではなく目の前の土へ刺さり、獣が驚いて跳び退く。
「警告?」
「先に逃げてくれるなら、その方が楽」
「なるほど」
しかし二頭目が横へ回り始めた。
ルークがそちらへ移動する。
「ミサキ、一台目の馬見て」
「了解」
私は荷馬の脇へ移り、手綱を持つ御者の近くへ立った。
灰牙犬がさらに回り込もうとした瞬間、ルークが槍の石突きを地面へ強く打ちつけた。
「来るなら来い!」
大きな音と声に、灰牙犬が一瞬止まる。
そこへセラが二本目の矢を放ち、今度は一頭の前脚近くを掠めた。獣は甲高い声を上げて草むらへ逃げ込み、残りの二頭もそれを追って姿を消した。
しばらく待っても戻ってこないので、セラがようやく弓を下ろす。
「終わり?」
「たぶん」
「倒さないんですね」
「護衛だから」
「確かに」
「追い払って終わるなら、それが一番。倒すと血の匂いで別のが来ることもあるし」
「なるほどなぁ」
ルークが槍を戻す。
「セラは無駄な矢使わないよ」
「一本目、地面でしたけど」
「あれは回収する」
「徹底してる」
「矢も金だから」
「急に親近感出てきた」
セラが少し笑った。
私たちは草むらの安全を確認してから、再び荷馬車を進めた。
それ以降は特に魔物も現れず、昼前には第二中継所へ到着した。
中継所といっても大きな建物ではなく、荷馬車を止められる広場と、屋根付きの休憩所、小さな井戸、それから倉庫が二つあるくらいだった。
モルドたちが積荷の一部を降ろしている間、護衛三人は休憩する。
私は朝買っておいた薄焼きパンを取り出した。
「それだけ?」
ルークが聞く。
「燻製肉と豆入ってますよ」
「俺もっと買えばよかった」
彼の昼食は黒パンと乾燥肉だけだった。
「同じようなものでは?」
「そっち柔らかそう」
「九十ゴールドでした」
「俺の七十」
「二十ゴールド差ですね」
「その二十を惜しんだ」
「分かる」
セラは小さな丸パンと硬いチーズを食べていた。
「二人とも昼から金の話ばっかり」
「夜のためです」
「俺は単純に貧乏」
「私は夜のため」
「余計悪いな」
ルークが笑う。
「セラさんは?」
「昼はちゃんと食べる派」
「夜は?」
「飲むけど、毎日じゃない」
「健康的」
「ミサキは毎日?」
「ほぼ」
「身体大丈夫?」
「今のところ」
「そのうち来るよ」
「何が?」
「年齢」
「まだ二十六です」
「私は二十八」
「二年しか違わないじゃないですか」
「二年は大きい」
「絶対そんなことない」
くだらない話をしながら昼食を食べる。
中継所では一時間ほど休み、積荷の確認が終わってから帰路についた。
帰りは行きより静かだった。
灰牙犬がいた辺りも問題なく通過し、荷馬も落ち着いている。街が近づくにつれて他の荷車や旅人が増え、夕方前には東門が見えてきた。
「今日は楽だったな」
ルークが言う。
「灰牙犬出たけど」
「あれくらいなら楽」
「基準が違う」
「戦闘になってないし」
「確かに」
セラも頷く。
「護衛はこれくらいが一番いい」
「千六百もらって?」
「もらう」
「迷わないんですね」
「仕事したから」
そう言われると、私も遠慮する必要はない気がした。
ギルドへ戻って依頼完了を報告し、千六百ゴールドを受け取る。朝の昼食代百ゴールドと宿代三百を差し引いても千二百ゴールド残るので、今日は夜に五百くらい使ってもかなり余裕がある。
「今日は使えるなぁ」
思わず口に出る。
「何に?」
横で報酬を受け取っていたルークが聞く。
「夜ごはんです」
「やっぱりそこなんだ」
「今日は五百くらい使ってもいいかな」
「千六百稼いだならいいだろ」
「昨日二百二十だったので」
「何その振れ幅」
「収入に合わせてます」
セラが報酬袋をしまう。
「それなら悪くないんじゃない?」
「ですよね」
「ただ、酒の強さは聞いた方がいいよ」
「何で急に?」
「安い店の強い酒って、たまに危ないから」
「経験あります?」
「ある」
「覚えときます」
このときは、かなり軽い気持ちで答えていた。
夕方まで少し時間があったので、一度休んでから街へ出る。
今日の夜予算は五百五十ゴールドにした。
千六百稼いで昼食百、宿代三百を引けば千二百残るので、五百五十使っても六百五十は残る。それなら昨日よりかなり贅沢しても問題ない。
今日は東門方面を歩いてみることにした。
護衛で一日街道を歩いてきたあとに、また遠くまで店を探す気にはならなかったので、東門から商人宿が並ぶ通りを少し南へ入る。
この辺りは旅人向けの食堂が多く、店の前には荷運び人や御者らしい客が目立つ。
一軒目は料理が大皿中心。
二軒目は葡萄酒が主役で少し高い。
三軒目は煮込みの匂いが良かったものの、かなり混んでいた。
その先で赤い光が目に入り、近づいてみると《赤炉亭》と書かれた看板があった。店先には小さな鉄籠が吊るされ、その中で赤い火石が淡く光っている。
入口の札には酒と料理が並んでいた。
《麦酒 百四十ゴールド》
《火蜜酒 百二十ゴールド》
《赤炉肉焼き 二百ゴールド》
《香辛豆煮 百二十ゴールド》
《焼き白根菜 九十ゴールド》
《酸葉漬け 六十ゴールド》
《黒麦パン 五十ゴールド》
《本日の小皿 百ゴールド》
「火蜜酒」
名前が気になる。
蜂蜜酒みたいなものだろうか。
値段も百二十なら高くない。
「ここにしよう」
扉を開ける。
中は思ったより広く、六人掛けの長卓が三つ、壁際に四人掛けの卓が二つ、それから短いカウンターがある。中心には丸い鉄炉があり、その周囲へ赤い石が入れられているせいで、店全体が少し暖かかった。
「いらっしゃい」
声をかけてきたのは三十代後半くらいの男性だった。短い黒髪に細い顎髭があり、左腕には革の腕当てをしている。
「一人です」
「カウンター空いてるよ」
端の席へ座る。
「火蜜酒と、赤炉肉焼きお願いします」
「火蜜、普通でいい?」
「普通?」
「割らないやつ」
「じゃあ普通で」
「はいよ」
店主は特に何も言わず奥へ注文を通した。
私は品書きをもう一度見る。
火蜜酒百二十と赤炉肉焼き二百で合計三百二十なので、予算五百五十からはまだ二百三十残る。追加で麦酒か小皿くらいはいける計算だった。
「今日は余裕あるなぁ」
昨日二百二十で終えた反動もあり、財布に余裕があるだけで少し気分が大きくなる。
先に火蜜酒が出てきた。
小ぶりの陶器杯へ、琥珀色より少し赤みのある液体が注がれている。表面に泡はなく、麦酒とは明らかに違う。
鼻へ近づけると、蜂蜜に近い甘い香りの奥に、何か焼いた果実のような匂いがあった。
「美味しそう」
一口飲む。
最初に感じたのはかなり濃い甘さで、蜂蜜そのものほど重くないが、舌の上へはっきり甘みが乗る。そのあとに果実の酸味が少し来て、最後に喉の奥が急に熱くなった。
「……あれ?」
もう一口飲んでみると、やはり甘さと酸味のあとに強い熱が残る。
「これ、強くない?」
店主がこちらを見る。
「強いよ」
「先に言ってよ」
「普通でいいって聞いたろ」
「普通って量かと思ったんですけど」
「割るかどうか」
「それ分からないです」
「初めて?」
「初めてです」
「じゃあ言えばよかったな」
「そう思います」
杯を見ると、見た目は普通の果実酒くらいなのに、喉へ残る熱さが明らかに違った。
「どれくらい強いんです?」
「麦酒の二倍ちょい」
「先に言ってよ!」
思わずもう一度言ってしまった。
店主が笑う。
「水で割る?」
「今から?」
「できる」
「お願いします」
素直に頼む。
店主が別の大きめの杯へ火蜜酒を移し、水を足してくれた。
「最初からこれくらい?」
「旅人はこっち多い」
「じゃあ何で聞かなかったんです?」
「普通って言ったから」
「初見には罠ですよ」
「名前知ってるやつが頼むこと多いからな」
「今日覚えました」
水で割った火蜜酒を飲んでみると、今度はかなり飲みやすかった。甘さはまだしっかりあるけれど、喉へ落ちる熱さが弱くなり、焼いた果実のような香りも分かりやすくなっている。
「これなら美味しい」
「だろ」
「最初からこれならもっとよかった」
「次からそうしろ」
「次は別の店です」
「変わった客だな」
店主が笑う。
そこへ赤炉肉焼きが運ばれてきた。
鉄皿の上に薄めの肉が重なり、赤茶色の香辛料と刻んだ緑の葉が散らされている。皿の端には焼いた白根菜が少し添えられていた。
「何の肉です?」
「《赤脚鹿》」
「鹿なんだ」
「東丘にいるやつ。脚赤いだろ」
「見たことないです」
「街道からはあんま見えない」
肉を一切れ取る。
表面はしっかり焼かれているが、中心は少しだけ柔らかく残っている。
一口食べると鹿肉らしい赤身の強さがあり、脂は少ない代わりに肉の味が濃く、少し鉄っぽい香りもある。そこへ赤茶色の香辛料が重なり、舌の奥へ軽い辛さが残った。
「結構しっかりした味」
「火蜜に合わせてるからな」
「火蜜が甘いから?」
「そう。甘い酒に弱い料理合わせても負ける」
「なるほど」
水割りにした火蜜酒を飲むと、確かによく合う。肉の塩気と香辛料を甘い酒が少し丸くするので、麦酒で流すのとは違い、酒そのものが料理へ味を足しているように感じた。
「甘い酒と肉って、前はあんまり合わせなかったなぁ」
ワインならあったけれど、蜂蜜っぽい甘さのある酒と塩気の強い肉という組み合わせは、自分ではあまり選ばなかった。
「この辺だと普通なんです?」
「旅商人はよく頼む」
「何で?」
「腹減ってても強いの一杯で身体温まるし、甘いから飲みやすい」
「飲みやすいのが危ないんですけど」
「だから割るんだよ」
「その情報、注文前に欲しかった」
「まだ言うか」
「言います」
店主が笑った。
少し離れた席では、荷運び人らしい二人の男性が同じ火蜜酒を飲んでいた。ただし、あちらの杯は私の最初のものより大きく、水割りらしい。
「それ、最初から割ってます?」
思わず聞く。
一人がこちらを見る。
「当然だろ」
「やっぱり?」
「そのまま飲んだのか?」
「一口だけ」
「強いだろ」
「先に言ってほしかった」
「店主、またやったのか」
「普通って聞いたぞ」
「初めての客にそれ通じねぇよ」
「味方いた」
私は少し嬉しくなる。
もう一人の荷運び人が笑う。
「俺も最初やった」
「ほんとです?」
「三杯飲んで帰れなくなった」
「三杯?」
「甘いからいけると思った」
「絶対駄目なやつじゃないですか」
「次の日、荷車の上で寝てた」
「仕事は?」
「怒られた」
「でしょうね」
前の世界でも、甘いカクテルを「ジュースみたい」と飲んでいたら急に酔いが回ったことがあった。味の強さと酒の強さは別だという当たり前のことを、世界が変わってまた学んでいる。
「強いなら強いって分かる名前にしてほしい」
私が言うと、店主が返す。
「火って入ってるだろ」
「辛いとか温かいとかだと思うじゃないですか」
「喉燃えるから火蜜」
「由来そっちなんだ」
「甘いのに燃える」
「嫌な納得した」
肉をもう一切れ食べる。
赤脚鹿は噛むほど味が出るので、一枚ずつゆっくり食べる方がよく、水割りにした火蜜酒も一口を小さくする。最初の二口で少し身体が熱くなっていたが、今のところ酔っているほどではなかったので、今日は二杯目を同じ酒にするのはやめた方がよさそうだった。
現在の会計は三百二十ゴールドで、残りは二百三十。麦酒なら百四十、本日の小皿は百なので、両方頼めば二百四十となり十ゴールドだけ予算を超える。
「微妙」
こういう十ゴールドが危ない。
昨日までなら「十くらい」と思っていたかもしれないが、最近はそういう少額の積み重ねが意外と大きくなることをよく分かってきた。
「本日の小皿って何です?」
店主へ聞く。
「《焼き蜜根》の塩和え」
「蜜根?」
「甘い根菜。焼いて塩と油」
「火蜜とは関係ない?」
「ない」
「名前似てるからちょっと怖い」
「根菜は酔わん」
「それは分かります」
「百」
「麦酒は百四十」
「そう」
今の気分なら二杯目の酒より料理の方がよく、火蜜酒もまだ少し残っているので、小皿を追加すればちょうど飲み切れそうだった。
「本日の小皿ください」
「はいよ」
これなら合計四百二十で、予算から百三十残る。
少しして運ばれてきた《焼き蜜根》は、薄い橙色の根菜を輪切りにして焼き、粗い塩と透明な油を絡めた料理だった。
一枚食べると、名前通りかなり甘い。南瓜ほどではないけれど芋より明らかに甘く、表面には焦げ目がついているので、そこだけ少し苦味がある。塩と合わせることで、むしろ根菜そのものの甘さが強く感じられた。
「これ、酒なしでも食べられそう」
「付け合わせにも使うよ」
「火蜜には?」
「合う」
「何でも合うって言ってません?」
「うち火蜜出す店だからな」
「信用しにくい」
それでも実際に合わせてみると、焼き蜜根の甘さと火蜜酒の甘さが重なりすぎるかと思ったのに、根菜の方は塩気と焦げがあるので意外とくどくなく、肉より穏やかな組み合わせになっていた。
「合うなぁ」
「ほら」
「悔しい」
「何でだよ」
店主が笑う。
荷運び人の二人は仕事の話を続けていた。
「今日の依頼人さ、荷車一台って言ってたろ」
「二台だったな」
「一台追加は聞いてねぇ」
「報酬は?」
「同じ」
「断れよ」
「帰りに追加するって言われた」
「それ一番嫌なやつ」
思わず頷く。
「分かります」
また口を挟んでしまう。
「お姉さんも荷運び?」
「今日は護衛ですけど、前に何回か」
「追加された?」
「荷物じゃないですけど、『三匹程度』のゴブリンが七匹だったことあります」
「それ最悪だな」
「追加報酬はもらいました」
「じゃあまだマシ」
「数増えるなら報酬も増えてほしいですよね」
「当たり前だ」
世界が違っても仕事の愚痴はかなり似ているが、こちらでは「追加」が本当に命に関わることもある。今日の護衛でも灰牙犬が三頭だったからよかったけれど、十頭出ていたら同じ千六百で納得できたかは分からない。
火蜜酒を最後まで飲み切る。
水で割ってからは美味しかったし、最初のままだったら一杯を飲み切る前にかなり酔っていたと思う。
「次から、初めての酒は強さ聞こう」
「それがいい」
店主が即答する。
「あなたが言うんですか?」
「学んだならいいだろ」
「原因そっちですけど」
「でも聞かなかったのはそっちだ」
「それはそうなんだけど……」
完全には納得できないけれど、酒の強さを知らずに頼んだのは私だった。前の世界ならメニューにアルコール度数が書いてある店も多かったけれど、こちらでは「麦酒」「果実酒」「火蜜酒」と名前があるだけで、どれくらい強いかまでは書いていない。
だったら、自分で聞くしかない。
「会計お願いします」
「四百二十」
火蜜酒百二十、赤炉肉焼き二百、本日の小皿百で合計四百二十ゴールドとなり、予算五百五十からは百三十残った。
「今日は余裕ある」
「もう一杯いく?」
「いきません」
「百三十残ってんだろ」
「麦酒百四十じゃないですか」
「十足せば」
「その十を足さないために予算決めてるんです」
「堅いな」
「最近学びました」
「火蜜でも学んだな」
「それは今夜です」
店主へ代金を払い、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「次は割って頼めよ」
「次があれば」
「変な客だな」
《赤炉亭》を出ると、外の空気が思ったより涼しかった。店の中に鉄炉があったせいもあるだろうけれど、火蜜酒を飲んだ身体には特に冷たく感じる。
私は一度立ち止まって足元を確認してみたが、真っ直ぐ立てていて、頬に少し熱が残っている程度なので、歩くぶんには問題なさそうだった。
「一口で気づいてよかった」
もし最初の火蜜酒を「甘いから飲みやすい」とそのまま何杯も飲んでいたら、さっきの荷運び人と同じように翌日の仕事へ響いていたかもしれない。
今日の仕事は商隊護衛で千六百ゴールドを稼ぎ、昼食に百、宿代に三百、夜には四百二十使ったので、今日の稼ぎだけで見ても七百八十ゴールド残る。灰牙犬を追い払って商隊も無事に戻り、赤脚鹿の肉も焼き蜜根も美味しかったうえ、火蜜酒も水で割ればかなり好みだったので、今日の問題は最初にその強さを知らなかったことくらいだった。
酒は名前だけでは分からない。
甘いから弱いとも限らないし、小さな杯だから軽いとも限らない。こちらの世界にはまだ私が知らない酒がたくさんあるのだろうから、次からは値段を見るだけでなく、注文する前に一つ聞けばいい。
「その酒、強いなら先に言ってよ……じゃなくて、私が先に聞けばいいのか」
少し悔しい結論になったものの、知らない酒で失敗しかけた夜まで含めて今日の一杯だったと思えば、それほど悪くない。
私は夜風に熱くなった頬を冷ましてもらいながら、急がずゆっくりと夜の通りを歩いた。




