第14話「今日は働きたくなかった。それでも飲みたい」
目が覚めた瞬間から、今日は働きたくないと思った。
身体のどこかが痛いわけではないし、熱があるわけでもない。昨日は西街道で壊れた標識を三本直しただけなので、魔物と戦った日のような疲労も残っていなかった。それでも布団から出て仕事を探しに行くことを想像すると、身体より先に気持ちの方が重くなり、もう一度目を閉じたくなる。
「こういう日、あるんだよなぁ」
前の世界でも、仕事そのものが嫌になったわけでも何か大きな失敗をしたわけでもないのに、朝起きた瞬間から会社へ行くための気力だけが見当たらない日はあった。会社員だった頃なら、それでも決まった時間までに着替えて電車へ乗るしかなかったけれど、今の私は自分で依頼を選んで働いているので、休もうと思えば本当に休めてしまう。
そこが良いところであり、同時に危険なところでもある。何となく休み、何となく昼まで寝て、何となく腹が減ったから食べ、そのまま夜になれば当然ながら今日の収入はゼロになる。貯えがまったくないわけではないので一日くらいなら困らないけれど、一日休めると分かれば二日目も休みたくなるくらいには、私は自分の意志の強さを信用していなかった。
朝食の黒パンを千切りながら、昨日の収支を思い出す。報酬七百ゴールドに対して、昼食七十、宿代三百、《串炉》で麦酒と串三本に三百三十使い、その日の稼ぎはきれいにゼロになった。
貯えには手をつけていないので問題はないが、今日働かなければ宿代の三百ゴールドだけは確実に減る。
「休んでも三百。飲んだらもっと減る」
そこまで考えて黒パンをスープへ浸したものの、だから今日は酒をやめようという結論にはならなかった。
「でも飲みたいんだよねぇ」
働きたくない気持ちはかなり本気だったが、それと同じくらい夜には一杯飲みたいと思っているので、結局はその二つの間で妥協できる仕事を探すしかない。
朝食を食べ終え、いつもよりゆっくり支度をして冒険者ギルドへ向かった。
到着した頃には朝の混雑が少し落ち着いていて、依頼板の前にもそれほど人はいなかった。普段なら報酬と内容を見比べながら何枚も確認するところだが、今日は最初から条件がかなり決まっている。
遠くへ行かず、魔物とは戦わず、重いものもできれば持たず、長時間働かない。そのうえで宿代と今夜の酒代くらいは稼ぎたいのだから、並べてみるとかなりわがままな条件だった。
「条件だけ見ると、ひどいなぁ」
自分でもそう思いながら依頼書を眺めていく。
《北門外・街道脇排水確認。報酬八百五十ゴールド》
昨日まで雨だったので泥がありそうだからやめる。
《南倉庫区・麻袋搬入補助。報酬千ゴールド》
昨日の肩はもう痛くないが、今日は荷運びをしたくない。
《西林・青房茸採取。二十本。報酬九百ゴールド》
森まで歩くのが面倒だった。
「働きたくない人間が仕事選ぶと、全部嫌に見える」
我ながらひどいと思いながらそのまま端まで見ていくと、一番下に小さな依頼書が残っていた。
《中央市場・店舗札交換補助。破損および退色した案内札の交換。二十四店舗。報酬六百五十ゴールド。昼前後終了予定》
「二十四店舗」
数字だけ見ると少し多いものの、仕事内容は案内札の交換らしい。重い荷物を運ぶわけでもなければ魔物も出ず、場所も中央市場なのでギルドから歩いてすぐだった。
報酬は六百五十ゴールド。
宿代三百を引けば三百五十残り、昼食を百以内に収めれば夜に二百五十前後は使える。
「……これくらいでいいか」
今日は大きく稼ぐ日ではなく、何もしない一日を避けるために働く日だと思えば十分だったので、依頼書を持って受付へ向かった。
「中央市場の札交換ですね」
対応してくれたのは若い女性の受付員だった。栗色の髪を肩の辺りで切り揃え、依頼票を読むと少しだけこちらを見る。
「珍しいですね」
「何がです?」
「ミサキさん、最近はもう少し報酬の高い依頼を選んでいたので」
「今日は働きたくないんです」
「それを受付で言います?」
「でも飲みたいので来ました」
「理由が一貫しているような、していないような……」
「宿代もありますし」
「生活は一貫してますね」
確かにそう言われると否定しにくい。
「市場管理所で交換用の札を受け取ってください。交換対象は二十四店舗ですが、札は小さいものばかりなので、籠一つで持てます」
「脚立とか必要です?」
「高い位置の札は店舗側が外してくれるそうです。依頼人からも『冒険者に屋根へ登らせる仕事ではない』と伝言があります」
「その依頼人、好きです」
「市場管理所のバルネさんです」
「覚えておきます」
依頼票を受け取り、中央市場へ向かった。
朝の市場はすでにかなり賑わっていた。野菜を積んだ荷車が通り、肉屋の前では解体されたばかりの肉が吊られ、パン屋からは焼きたての香りが漂っている。昨日の職人街とは客層も匂いもまったく違い、歩いているだけなら仕事というより買い物に来たような気分になる。
市場の中央にある管理所で依頼票を見せると、奥から五十代くらいの女性が出てきた。背は低いけれど姿勢がよく、灰色混じりの髪を後ろでまとめ、腰には鍵束と小さな帳面を提げている。
「依頼票」
「はい」
「ミサキね。私はバルネ。札はそこ」
指差された先には、大きめの籠が一つ置かれていた。
中を覗くと、手のひら二つ分くらいの木札が何十枚も入っている。店名や商品の絵、番号のようなものが描かれていて、一枚一枚はかなり軽かった。
「これを二十四軒分ですか?」
「そう。古い札を外して新しいのに替える。店主が忙しいところは声かけて、古いのだけ回収してきて」
「順番あります?」
「この通り」
バルネが帳面の写しを渡してくれる。
店舗名と番号が並んでいた。
「店が多いですね」
「市場だからね」
「全部で何軒あるんです?」
「常設だけで百八十六。季節露店入れるともっと」
「二十四なら一部なんだ」
「一部。去年から少しずつ札を替えてる」
「一気にやらないんですね」
「一気にやる金があるなら屋根直す」
「現実的」
「市場はそういうもん」
バルネは新しい札が入った籠を私へ渡した。
「壊すなよ。文字入れ直すのも金かかるから」
「今日、高いもの入ってませんよね?」
「札一枚より籠の方が高い」
「それ聞くとちょっと安心します」
「安心して落とすなよ」
「落としません」
籠を抱えて市場へ出た。
一軒目は乾燥豆を扱う店で、古い札は日差しで文字がほとんど消えていた。店主へ声をかけると、「そこ」と入口横を指差され、紐を外して新しい札と交換する。
二軒目は小さな刃物屋で、こちらは札の端が割れていた。三軒目は染料屋で、赤い塗料がすっかり茶色へ変色している。
作業そのものは難しくなく、店へ行って番号を確認し、古い札を外して新しい札をつけ、回収した札を籠へ戻すだけだった。高い場所にある店では店主か店員が外してくれるので、本当に交換するだけで済むものの、二十四軒となるとそれなりに歩く。
しかも市場の店は真っ直ぐ並んでいるわけではなく、肉屋の裏に香辛料屋があり、次の対象店は通りを一本挟んだ布屋、その次は魚屋の向かいという具合に散らばっている。
七軒目を終えたところで帳面を見ると、仕事を始めてそれほど時間は経っていないのに、残り十七という数字だけで妙に先が長く感じた。
「まだ七か」
前の世界でも、単純な確認作業を二十四件と言われると、一件目から残り二十三を数えてしまうことがあった。十件を超える辺りから少し気分が楽になるので、まずそこまで余計なことを考えず進める方がいい。
八軒目は香草店だった。
店先には乾燥した葉や根が束で吊るされていて、近づくだけで薬草のような香りがする。古い札を外していると、店番をしていた年配の女性が話しかけてきた。
「それ新しいの?」
「はい。市場管理所の依頼です」
「うちの名前ちゃんと見える?」
「《緑枝香草店》ですね。かなりはっきりしてます」
「前のは『緑枝』の緑が消えてたからねぇ」
「お客さん困りません?」
「常連は困らない」
「新規のお客さんは?」
「迷う」
「駄目じゃないですか」
「でも札直すの、うちの金じゃないから」
「市場管理所待ちだったんですね」
「そういうこと」
前の世界でも、会社の備品が壊れたとき「使えるからまだいい」と放置されることがあった。自分の財布から出さないものほど、申請と順番待ちが長いのもあまり変わらないらしい。
十一軒目まで終わったところで、少し休むことにした。
市場の端にある石の縁へ腰を下ろし、持ってきた水を飲む。作業が大変なわけではないのに、一軒終わるたびに「もう帰って昼寝してもいいんじゃないか」と思うくらい、今日はどうにも気力が足りない。
それでも、まだ昼前だった。
「あと十三軒やったら、飲み代」
口に出してみると、酒代という分かりやすい目的ができたせいか、ほんの少しだけやる気が戻った。
十二軒目は果物屋だった。
入口の札には赤い実の絵が描かれていて、交換している最中に店主が木箱を運んできた。
「そこ邪魔になるぞ」
「すみません、今終わります」
「札替えか?」
「はい」
「じゃあ古いの持ってけ」
店主は忙しそうに木箱を置き、すぐ奥へ戻っていった。その拍子に箱の端から赤い小さな果実が一つ転がり落ちる。
鈴のように丸く、下側だけ少し細くなっている。赤い皮には小さな傷が入り、その部分から透明な汁が滲んでいた。
「落ちましたよ」
拾い上げて声をかけると、店主が振り返った。
「ああ、それはいい」
「いいんです?」
「傷入った《赤鈴実》は売れねぇからな」
「捨てるんですか?」
「加工屋が来たらまとめて安く出す。そいつは割れてるからそこ置いといて」
店の脇を見ると、傷のついた果物を入れる小さな籠があるので、そこへ赤鈴実を置いた。
「見た目、きれいなのに」
「傷から汁出てるだろ。半日したら柔らかくなる」
「そんなに早いんですか」
「赤鈴は傷に弱い。味は変わらんけど、店頭には出せん」
味は変わらないのに見た目の傷だけで売り物にならないと聞くと、少しもったいない気がする。
前の世界でも、形が悪いとか傷がついたとかで値段が下がる野菜や果物はあったけれど、こちらでも同じことがあるらしい。
「加工だと何になるんです?」
「酢漬け、煮詰め、酒。安い酒場なら潰して料理にも使う」
「酒にもなるんだ」
「発酵させりゃな」
「それは気になる」
「仕事中だろ」
「分かってます」
店主に笑われた。
赤鈴実のことが少し頭に残ったまま札交換を続け、十五軒、十八軒と進む頃には、市場の通りも朝より混み始めていた。客を避けながら歩くので少し時間はかかったものの、一軒ごとの作業には慣れ、古い札を外して新しいものへ交換する手際もかなり良くなっている。
二十軒目は魚屋だった。
店主が客と値段交渉をしていたので、邪魔しないよう端で待つ。
「十二尾で五百」
「四百八十」
「五百」
「じゃあ十一尾で四百五十」
「なんで減らして値切るんだよ」
聞いているだけで少し面白い。
ようやく交渉が終わり、札を替えさせてもらう。
「兄ちゃん、これ昨日頼んだやつか?」
「私は女です」
「悪い悪い。札替えか?」
「はい」
「前のやつ魚の絵消えてたからな」
「店名より魚の絵の方が大事なんです?」
「読めないやつでも魚屋って分かるだろ」
「ああ、なるほど」
この街では字を読めない人もいるからこそ、店の札には文字だけでなく、豆、刃物、魚、果物といった絵が描かれているのだと今さら気づいた。単なる飾りではなく、文字を読める人と読めない人の両方へ店の種類を伝えるための印でもあるらしい。
仕事として札を二十四枚交換しているうちに、普段なら気にしなかった市場の仕組みが少し見えてきた。
最後の二十四軒目は小さな布屋だった。
古い札は角が欠けているだけで、まだ十分使えそうに見える。
「これも交換するんですか?」
店番の女性へ確認する。
「管理所が替えろって」
「まだ読めますけどね」
「去年、風で一回飛んだのよ」
「危ないやつだった」
「客の頭に当たった」
「交換しましょう」
「でしょ?」
紐を外し、新しい札へ替えたあと、最後に少し強めに引っ張って簡単には外れないことを確認する。
「これで二十四」
朝から何となく働きたくないと思っていた割には、始めてしまえばきちんと最後まで終えられた。
古い札を詰めた籠を持って市場管理所へ戻ると、バルネが帳面を確認しながら数を数えた。
「二十四あるね」
「全部替えました」
「問題は?」
「赤鈴実が一個落ちました」
「札の話を聞いてる」
「札は問題ないです」
「ならいい」
バルネが依頼票へ完了印を押す。
「早かったね」
「途中で何回か帰りたくなりました」
「帰らなくて偉い」
「大人に言う褒め方じゃないですよね」
「働きたくない日に来たんだろ?」
「受付から聞いたんですか?」
「市場は話が早い」
「恥ずかしい」
「来ただけ偉いよ。来ないやつは依頼受けないからね」
「それと比べるんだ」
バルネは少し笑った。
ギルドへ戻って完了印を提出すると、六百五十ゴールドが支払われた。時間はまだ昼を少し過ぎたくらいで、今日は予定通りかなり早く仕事が終わっている。
「六百五十か」
まだ昼食を食べていないので、宿代三百を差し引いた三百五十から昼食まで出す必要がある。昨日のように三百以上を夜へ回すのは難しそうだが、今日は最初から大きく稼ぐために働いたわけではない。
「飲めればいいか」
昼食は市場近くで、豆を塗った薄焼きパンを八十ゴールドで買った。刻んだ香草と少量の塩が入っていて、温かくはないけれど、昼を簡単に済ませたい日にはちょうどいい。
六百五十から昼の八十を引けば五百七十で、宿代三百を確保すると残りは二百七十ゴールドになる。
「今日の夜は二百七十」
昨日よりさらに少ないものの、一杯と何か一品なら食べられる店はきっとある。
昼食を食べ終えたあと、今日は珍しくそのまま部屋へ戻って昼寝をした。働きたくなかった理由が睡眠不足だったのか、単に気分だったのかは分からないけれど、横になった瞬間に眠ってしまい、目を覚ました頃には窓から入る光がずいぶん傾いていた。
「……寝た」
身体を起こしてみると、朝よりかなり頭が軽い。働きたくない日に無理して高報酬の仕事を選ばず、短い依頼だけ終わらせて昼寝するというのは、意外と正解だったのかもしれない。
そして、起きたら当然腹が減っていた。
「二百七十かぁ」
財布から今日使う分だけを取り出し、夕方の街へ出る。
今日は使える額が少ないので、中心街の目立つ店は避けることにした。市場の周囲には昼間だけ営業する店が多いけれど、裏道には市場で働く人向けの安い酒場もあるはずだった。
中央市場の南側から細い路地へ入り、値段を見ながら歩く。
一軒目は麦酒百二十、煮込み百八十で、合わせれば三百を超える。
二軒目は麦酒九十だったが、料理が百五十以上ばかりだった。
三軒目は安そうだったものの、入口から見える席がすべて埋まっている。
「二百七十って絶妙に難しいなぁ」
一杯だけなら簡単だけれど、何も食べずに飲むつもりはない。
さらに市場の裏を歩いていくと、昼間に赤鈴実を落とした果物屋の近くまで戻ってきた。朝とは違い、多くの店が片付けを始めている。
その通りの角で、小さな木札が目に入った。
《小皿屋 暮れ灯》
入口の横には、手書きの品書きがある。
《薄麦酒 八十ゴールド》
《赤鈴酢割り 九十ゴールド》
《豆皮焼き 七十ゴールド》
《傷果煮 六十ゴールド》
《塩葉 五十ゴールド》
《今日の小皿 八十ゴールド》
「安い」
しかも《傷果煮》という名前が気になり、昼間に見た赤鈴実の傷物をすぐ思い出した。
布張りの扉を開けると、店内はかなり小さかった。壁際に六席のカウンターがあり、二人掛けの卓が二つだけ置かれている。奥には大きな鍋が一つと、小さな鉄板、それから果物を入れた籠がいくつか並んでいた。
「いらっしゃい」
店主は六十歳前後くらいの女性だった。灰色の髪を短く切り、細い身体に濃紺の前掛けをつけている。声は静かだが、手は止まらず、小鍋を混ぜながらこちらへ席を示した。
「一人です」
「好きなとこ」
カウンターの中央へ座る。
「薄麦酒と……傷果煮って何ですか?」
「傷ついた果物煮たやつ」
「そのままなんですね」
「名前で悩んでも味変わらないからね」
「今日、赤鈴実の傷物見ました」
「市場で?」
「はい」
「じゃあ今日のにも入ってるかも」
「ほんとに?」
「朝、果物屋からまとめて買ったから」
昼間に売り物にならないと言われた赤鈴実が、ここで料理になるかもしれないと聞けば気にならないはずがない。
「じゃあ薄麦酒と傷果煮ください」
「百四十」
「お願いします」
薄麦酒が先に出てきた。
色はこれまで飲んだ麦酒の中でもかなり淡く、黄色というより薄い金色に近い。泡も少なく、一口飲んでみると麦の甘さは弱く、軽い酸味と穏やかな苦味だけが残った。
「これ、かなり軽いですね」
「市場の片付け終わりに飲む人多いからね。腹いっぱい飲む酒じゃないよ」
「昨日も仕事帰り用の軽い麦酒飲みました」
「この辺はそういうの多い」
「地域で違うんだ」
「働く人が違えば酒も違うよ」
職人街では朝の仕事へ響かないよう軽く作られた酒があり、市場裏では片付けを終えた人が短時間で飲んで帰れる酒がある。同じ「安い麦酒」でも、その店が誰に飲ませたいかで味の作り方まで少しずつ違うらしい。
傷果煮は、小さな陶器皿に盛られて出てきた。
赤、黄色、薄緑の果物が小さく切られ、とろりとした汁で煮られている。甘い香りの中に少し酸っぱい匂いも混じっていて、料理というより前の世界のコンポートに近く見えた。
「酒のつまみなんですか?」
「食べてみな」
赤い実から口へ運ぶと、昼間に見た赤鈴実と同じ形はもう残っていないほど柔らかく、最初に酸味が来たあとから蜂蜜に似た甘さが広がった。ただ甘いだけではなく、最後に少し塩気も残る。
「塩入ってる?」
「少し。酒に合わせるからね」
「甘いだけじゃないんだ」
「甘いだけなら菓子屋に売る」
次に黄色い果物を食べると、こちらは酸味が弱く、梨と林檎の間のような食感が少し残っていた。
「これ全部、傷物ですか?」
「傷、形崩れ、熟れすぎ。生で売れないやつ」
「味は?」
「悪いのは使わないよ。売れないのと食えないのは別だからね」
昼間の果物屋で聞いた言葉を思い出す。味は変わらなくても傷があるから店頭では売れず、ここではそうした果物を安く買って煮て、小皿料理として出しているらしい。
「前の世界でも似たのあったなぁ」
「何が?」
「見た目が悪い野菜とか果物を、安く売ったり加工したりするんです」
「普通じゃない?」
「こっちでも普通なんですね」
「食べられるなら食べるよ。市場の裏だもの」
「市場の裏だから?」
「表で売れなかったもんが回ってくる」
店主はそう言いながら、別の客へ豆皮焼きを出した。
市場の表では形の整った果物が高く並び、裏では傷ついたものが煮物や酒になる。どちらが上という話ではなく、同じ食材が最後まで別の形で使われている。
こういう流れは、この世界へ来る前より見えやすい気がした。スーパーへ行けばきれいな野菜や果物が並んでいて、その裏でどれくらい規格外が出ていたのか、私はほとんど知らなかったからだ。
傷果煮の甘酸っぱさが口に残っているところで薄麦酒を飲むと、さっきまで弱く感じていた苦味が少しだけ強くなり、果物の甘さをきれいに切ってくれる。
「これ、意外と合う」
「だから置いてる」
「ですよね」
カウンターの端では、市場で働いているらしい二人の女性が飲んでいた。片方は腕まくりした服に野菜の葉がつき、もう片方は前掛けに白い粉をつけている。
「今日また荷車遅れたんだよ」
「南からの?」
「そう。昼前に来るって言って夕方」
「それで片付け今まで?」
「そう。しかも向こうは『今日中には着いた』って」
「今日中なら何時でもいいと思ってるやついるよね」
思わず笑いそうになった。
前の世界でも「今日中」と言われて営業時間終了直前に資料が届き、そこから確認を頼まれることがあった。
「分かります」
つい口を挟むと、二人がこちらを見る。
「市場の人?」
「違いますけど、前の仕事で似たようなのありました」
「どこも同じなんだねぇ」
「『今日中』って便利なんですよ。言う側には」
「受ける側には最悪」
「そうなんです」
野菜の葉をつけた女性が笑った。
「それで今日飲んでるの?」
「私は今日は働きたくなかったけど、飲みたかったので働きました」
「それは偉い」
「今日二回目に言われました」
「働きたくないのに働いたなら偉いでしょ」
「評価基準が低い気もしますけど」
「毎日高くしなくていいんだよ」
その言葉が少し残った。
毎日高い報酬の依頼を受ける必要も、毎日全力で働く必要もなく、生活できる分を稼いでその日の酒代まで出せたなら、それで十分な日があってもいいのかもしれない。
現在の会計は薄麦酒八十、傷果煮六十で百四十ゴールドなので、今日の予算二百七十からはまだ百三十残っている。品書きを見れば、豆皮焼きは七十、今日の小皿は八十、薄麦酒をもう一杯なら八十と、いくつか選択肢があった。
「今日の小皿って何です?」
「《赤鈴実》と塩肉の炒めもの」
「また赤鈴実?」
「今日は多かったからね」
「甘い果物と肉?」
「そう」
「どんな味です?」
「酸っぱい。甘い。塩辛い」
「全部?」
「全部」
「気になるなぁ」
「八十」
傷果煮を頼んだ時点では追加するつもりがなかった料理だが、同じ赤鈴実が煮物ではなく肉料理になるなら、さすがに気になる。百四十に八十を足しても二百二十なので、予算からはまだ五十残る。
「今日の小皿ください」
「はいよ」
予定外の一皿を追加しても予算内に収まるなら、今日は食べてみることにした。
少しして出てきた小皿には、細切りの塩肉と、半分ほど潰れた赤鈴実が炒め合わせてあった。表面には黒い種のような香辛料が少しだけ散っている。
一口食べると、最初に肉の塩気と脂が来た直後に赤鈴実の強い酸味が入り、そのあとから果実の甘さが残った。
「……不思議」
酢豚へ果物を入れたものに少し似た方向性ではあるけれど、赤鈴実そのものに酸味があるので、調味料をかけた甘酸っぱさとは違う。果肉は熱で崩れ、半分ソースのようになって塩肉へ絡んでいた。
「これ、料理になるんだ」
「生で柔らかくなったやつは、炒めた方が使いやすい」
「傷果煮とは全然違う」
「同じ食材でも、甘く食うか、肉と食うかで違うでしょ」
「今日そればっかり考えてる気がする」
昨日も同じ食材が店によって別の使い方をされていることに気づいたけれど、今日は同じ店の中ですら使い方が違う。食材が一つあれば料理が一つに決まるわけではないのは当たり前のことなのに、知らない食材だとその当たり前が妙に新鮮だった。
薄麦酒を一口飲むと、肉の脂と赤鈴実の甘酸っぱさが軽く流れていく。
「二杯目欲しくなる味ですね」
「残りいくら?」
店主に聞かれた。
「え?」
「さっきから札見て計算してるから」
「店主さんってみんな気づくんですか?」
「一人で財布見ながら注文する客は分かりやすいよ」
「今二百二十です。予算二百七十だから、残り五十」
「じゃあ薄麦酒は無理だね」
「八十ですもんね」
「塩葉なら五十」
品書きを見ると、本当に五十ゴールドだった。
ちょうど予算を使い切れる。
「……ちょうど五十」
「頼む?」
昨日は《串炉》で、残った八十ゴールドがそのまま八十ゴールドの串へ変わった。今日も残った五十を、そのまま五十ゴールドの塩葉へ変えることはできるし、予算内だから悪いわけでもない。
ただ、腹はもうかなり満足していた。
「今日はやめます」
「そう」
「止めないんですね」
「頼まれたら出すし、いらないなら出さないよ」
「店主さんってそういう人多いですね」
「何を期待してるの?」
「背中押されるか、止められるか」
「自分の腹で決めな」
「ですよね」
昨日なら「ぴったり使える」と思って頼んでいたかもしれない五十ゴールドを、今日はそのまま残すことにした。
「会計お願いします」
「二百二十」
薄麦酒八十、傷果煮六十、予定外だった赤鈴実と塩肉の小皿八十で、合計二百二十ゴールドだった。夜の予算二百七十からは五十残る。
「今日はかなり安く済んだ」
「今日は?」
「昨日は三百三十、その前は六百四十でした」
「日に日に下がってるね」
「明日は百ゴールドかな」
「水だけ飲んで帰る気?」
「それは嫌です」
店主が少し笑った。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
外へ出ると、市場は昼間とは別の場所のように静かになっていた。大半の店は板戸を閉め、荷車もほとんど消えているのに、昼間に交換した新しい店札だけが、ところどころ残った灯りを受けて目立っている。
朝は本当に働きたくなかったし、高い報酬が欲しかったわけでも、遠くへ行きたかったわけでもない。それでも二十四軒の札を替える仕事で六百五十ゴールドを受け取り、昼に八十、宿代に三百、夜に二百二十を使ったので、今日の稼ぎからは五十ゴールド残った。
昨日より報酬は少なく、豪華な料理を食べたわけでもなければ、魔物を倒したような冒険らしい一日でもなかった。それでも朝から何もしなかった日とは違い、市場を歩いて二十四枚の札を替え、傷ついた赤鈴実が捨てられるのではなく別の店で煮物や肉料理になることを知り、軽い麦酒を一杯飲んで予定外の小皿まで食べても、今日稼いだ金の中に五十ゴールドを残せている。
毎日、昨日より多く稼ぐ必要はないのだと思う。
働きたくない日に千ゴールドを目指して無理をするより、六百五十で終わる仕事を選び、その代わり昼寝をして、夜には二百二十ゴールドで飲む。そういう日があっても生活は続くし、その方が明日また働こうと思えるなら、たぶんそちらの方がいい。
「今日は働きたくなかった。それでも飲みたかったから、ちょっとだけ働いた」
誰に聞かせるでもなく口にすると、自分でも少し笑ってしまった。
市場の入口に差しかかると、昼間に交換したばかりの果物屋の札が見えた。赤い実の絵は朝までの古い札よりずっと鮮やかで、その下では店主が最後の木箱を店内へ運んでいる。
今日一日で私がやったことは、たぶん明日には誰も気にしないくらい小さい。それでも新しい札はしばらくそこに残るし、今日飲んだ一杯も、食べた赤鈴実の味も、少なくとも今夜の私には十分だった。
「毎日頑張らなくても、一杯くらいは飲めるんだなぁ」
少し軽くなった財布をしまい、私は閉まり始めた市場の灯りを眺めながら、夜の通りをゆっくり歩いた。




