第13話「串一本八十ゴールドなら、あと一本いいよね」
朝食を食べながら昨日使った金額を思い返してみると、我ながらずいぶん際どいところまで使ったものだと思う。
昨日の仕事で稼いだのは千二百ゴールドで、昼食に百ゴールド、宿代に三百ゴールド、夜の《赤根皿》では六百四十ゴールドを使った。夜の予算として決めていた六百五十ゴールドからは十ゴールドしか残らなかったものの、一日全体で見れば百六十ゴールドは残せているので、散財したと言い切るほどではない。
「でも今日は、もうちょっと安く飲もう」
黒パンを豆のスープへ浸しながら、自分へ言い聞かせるように呟いた。
昨日の赤根鶏と白豆の煮込みも、予定外で頼んだ角兎香辛焼きも美味しかった。だから使ったことを後悔しているわけではないけれど、毎日六百ゴールド以上を夕食へ使っていたら、次に短剣の修理代が必要になったとき、また財布を見ながら固まることになる。
武器の修理に六百八十ゴールド払った日のことは、まだ忘れていない。
「今日は三百五十。多くても三百五十」
朝から夜の予算を決めるのもどうなのかと思うけれど、私にとっては今日の仕事を選ぶ理由にもなるので、それほどおかしなことではない……たぶん。
朝食を終えて冒険者ギルドへ向かうと、今日も依頼板の前には十人ほどが集まっていた。討伐依頼の周囲には装備の整った冒険者が多く、採取依頼の前には大きな籠を背負った人がいる。
私は人の隙間から依頼書を眺めながら、昨日の荷運びで少し張っている肩を回した。痛いというほどではないけれど、今日も倉庫で樽を運びたいかと聞かれたら、答えはかなりはっきりしている。
「今日は持ち上げない仕事がいいなぁ」
小声で呟きながら探していると、端の方に一枚だけ少し地味な依頼書が残っていた。
《西街道・案内標識補修。破損標識三本の再固定および文字板交換。報酬七百ゴールド。工具貸与》
「七百か」
昨日の千二百と比べれば少ないけれど、内容を見る限り危険はほとんどなさそうだった。三本の標識を直すだけなら昼過ぎには終わりそうだし、夜の予算を三百五十に抑えるつもりなら十分だろう。
依頼書を剥がして受付へ持っていく。
「西街道の標識補修ですね」
今日の受付は、何度か見かけた細身の男性だった。薄茶色の髪をきれいに横へ流し、机の端には用途の違いが分からないほど大量の印章を並べている。
「これ、三本直せば終わりですよね?」
「依頼書に記載されている三本で終了です」
「増えません?」
「現時点では三本です」
「その言い方ちょっと嫌なんですけど」
「昨日の夕方に担当者が確認していますので、少なくとも昨日の時点では三本です」
「今日一本増えてても知らない?」
「その場合は追加報酬の対象になります」
「それならいいです」
以前「三匹程度」と書かれたゴブリン退治へ行ったら七匹いた経験があるので、数については確認しておきたい。三本のはずが六本になっているのに同じ七百ゴールドですと言われたら、さすがに納得できない。
「現地へ行く前に《西門管理所》へ寄ってください。交換用の文字板、木槌、固定杭、縄を渡されます」
「持って歩くんですか?」
「手押し車があります」
「よかった」
「ただし、返却もお願いします」
「仕事終わったら乗り捨てていいものじゃないですよね」
「当然です」
受付の男性は真顔だった。
ギルドを出て西門へ向かい、門の脇にある小さな管理所で依頼票を見せると、白髪混じりの男性職員が奥から手押し車を出してきた。中には新しい文字板が三枚、短い木杭が何本か、太い縄、木槌、それから穴を掘るための細長い鉄棒まで積まれている。
「思ったより多いですね」
「標識一本でも、立て直すとなりゃこんなもんだ」
「三本とも倒れてるんですか?」
「一本は傾き、一本は板割れ、最後の一本は根元が緩んでる。場所はこの紙に書いてある」
渡された簡単な地図を見ると、一番遠い標識でも西門から一時間ほどの場所だった。三本とも同じ街道沿いなので、順番に直して戻ってくればいいらしい。
「原因って何です?」
「最初のは荷車がぶつけた。二本目は風。三本目は分からん」
「三本目だけちょっと怖いですね」
「たぶん雨で土が緩んだだけだ」
「たぶん」
「魔物なら標識だけ傾けて帰らんだろ」
「それはそうですね」
納得して手押し車を押し、西門を出た。
街道は昨日までの雨でところどころ柔らかくなっていたものの、荷車が通れないほどではなかった。朝から商人の馬車が何台も街へ向かっていて、こちらが手押し車を端へ寄せるたびに、車輪が湿った土を踏みながら横を通り過ぎていく。
最初の標識は、西門から二十分ほど歩いた場所にあり、近づく前から右側へかなり傾いているのが分かった。街道の分岐に立つ木製標識には《リーベル 東》《西牧草地》と刻まれていて、根元を見ると地面が片側だけ深く抉れ、荷車の車輪らしい跡も残っている。
「思ったより傾いてるなぁ」
まず縄を外し、標識を一度まっすぐに戻す。
一本の柱なので簡単そうに見えたが、地面へ埋まっている部分が緩んでいるせいで、手を離すとまた少し傾いてしまう。鉄棒で周囲の土を掘り、柱を正しい位置へ戻してから新しい杭を打ち込み、最後に土を足で踏み固める必要があった。
「標識って、立ってるだけだと思ってた」
木槌を振り下ろしながら呟く。
前の世界では道路標識がどうやって固定されているかなんて考えたこともなかった。そこにあって当然のものだったけれど、こちらでは壊れれば誰かが直し、その誰かに七百ゴールドが払われる。
杭を一本打ち終え、もう一本を反対側へ入れる。何度も木槌を振るので昨日使った肩が少し重かったものの、樽を二人で抱えるよりはずっと楽だった。
最後に縄を張り直し、少し離れたところから確認すると、今度はきれいにまっすぐ立っていて、手で押しても大きく揺れない。一つ目が無事に終わったので、道具を手押し車へ戻してさらに西へ進んだ。
二本目はそこから十五分ほど先にあり、こちらは柱ではなく文字板そのものが割れていた。標識には近くの村と街道の分岐が書かれているらしく、中央から大きく亀裂が入り、《リーベル》の文字の半分がなくなっている。
「これ、知らない人だったら困るよね」
私はこの街で生活しているので道を間違えることは少なくなったけれど、初めて来た頃なら確実に困ったと思う。文字板を留めている古い縄を外し、新しい板と交換していると、街道を歩いてきた商人らしい男性が足を止めた。
「直してんのか?」
「はい。ギルドの依頼です」
「助かるよ。昨日こっち来たとき読めなかったからな」
「昨日から壊れてたんですね」
「もっと前から割れてたぞ」
「え?」
「三日前にはもう割れてた」
「昨日確認したって聞いたんだけどなぁ」
「役所なんてそんなもんだろ」
男性は笑いながら街へ向かっていった。
前の世界でも「昨日確認しました」と「昨日壊れました」は同じ意味ではなかったので、そこは深く考えないことにする。新しい板をしっかり固定し、文字が正面から読めることを確認して二本目も終えた。
二本終わった時点で、まだ昼には少し早い。最後の標識まで歩いて直してから食べるか迷ったものの、空腹のまま木槌を振り続けるのも嫌なので、街道脇の大きな石へ腰を下ろした。
今日の昼食は朝のうちに宿でもらった黒パン一つと、途中の露店で買った小さな燻製肉だった。燻製肉が七十ゴールド、水は持ってきたものがあるので、今日の昼代は七十ゴールドで済んでいる。
七百ゴールドから七十を引けば六百三十。そこから宿代三百を取ると、今日の稼ぎだけで自由に使えるのは三百三十ゴールドになる。
「……三百五十に届かない」
朝は夜の予算を三百五十にすると決めたけれど、今日の稼ぎだけで考えれば二十ゴールド足りない。
もちろん財布にはこれまで残した金があるので、三百五十使ったところで困るわけではない。それでも、今日は昨日より安く飲むと決めた日なので、ここで簡単に「二十くらいいいか」と考え始めると、昨日の六百四十と何も変わらない気がする。
「三百三十にするか」
夜の予算を二十ゴールド下げる。
燻製肉を黒パンへ挟んで食べると、少し硬いけれど塩気が強く、働いている途中の昼食としては悪くなかった。飲み物が水なので夜の麦酒が少し恋しくなるものの、今飲むわけにはいかない。
昼食を終え、最後の標識へ向かった。
三本目は街道から牧草地へ入る細い道の分岐にあり、管理所で聞いた通り、見た目には壊れていなかった。ただ、近づいて柱へ手をかけると軽く押しただけでぐらりと動き、昨日までの雨で根元の土が緩んだらしく、穴そのものが広がっている。
「これは危ないな」
このまま放っておけば次の強い風で倒れそうなので、周囲を掘って柱を立て直し、持ってきた杭を三本使って固定する。最初の標識より手間はかかったが、作業自体は難しくなく、木槌を何度も振り下ろして最後の杭が土へしっかり入ったところで柱を押してみると、今度はほとんど動かなかった。
「三本。ちゃんと三本だった」
依頼書に書かれていた数がそのまま終わっただけなのに、それだけで少し嬉しい。
余った道具を手押し車へ積み直して西門まで戻り、管理所の男性に作業終了を伝えると、三本とも問題なく直っているかあとで確認するらしく、依頼票へ仮の完了印を押してくれた。
「追加なかったか?」
「なかったです」
「そりゃよかった」
「増えることあるんです?」
「仕事してる間に別のが壊れりゃな」
「それは追加料金ですよね?」
「当然だ」
「ならいいです」
「金に細かいな」
「夜ごはんに関わるので」
「そこか」
最近、この会話をいろいろな人としている気がする。
ギルドへ戻って依頼票を提出すると、少し待ったところで管理所から確認が届き、報酬の七百ゴールドが支払われた。昼食に七十ゴールド使っているので、今日の稼ぎから残っているのは六百三十で、そこから宿代三百を確保すれば三百三十が残る。
「今日は三百三十まで」
今度こそ正式に決めた。
昨日の半分くらいしか使えないけれど、だからといって飲めないわけではない。むしろ安い店を探す理由ができたと思えば、それはそれで面白い。
午後の早い時間に仕事が終わったので、しばらく街を歩いてから休み、夕方になってもう一度外へ出た。今日は最初から安く飲める店を探すつもりなので、大通りではなく、西門から少し南へ入った職人街の裏通りを歩いてみる。
鍛冶屋や革工房が並ぶ通りは、日が落ち始めてもまだ仕事を終えていない店が多かった。金属を叩く音や革を削る音が聞こえる一方、その間には小さな酒場も何軒かあり、仕事を終えた職人がそのまま入れるような店が多いらしい。
一軒目の店先には《麦酒百二十》と書かれていた。悪くないけれど、料理を見ると一皿百五十から二百くらいなので、三百三十では一杯と一皿で終わってしまう。
二軒目は麦酒百ゴールドだったが、かなり混んでいて立つ場所すらなさそうだった。
「もうちょっと安いところないかなぁ」
さらに細い道へ入ったところで、焼けた肉の脂と炭の匂いが流れてきた。その先には小さな赤い提灯のような灯具を下げた店があり、木の板へ大きく《串炉》と書かれている。
店名の下には、小さな札がいくつも並んでいた。
《麦酒 九十ゴールド》
《角兎ねぎ串 八十ゴールド》
《砂走鳥塩串 八十ゴールド》
《角豚脂串 八十ゴールド》
《焼き茸串 六十ゴールド》
《白根菜串 六十ゴールド》
《塩豆 五十ゴールド》
《酸味菜 五十ゴールド》
「八十」
思わず足が止まった。
麦酒が九十で、肉串が一本八十。三百三十ゴールドあれば、麦酒を一杯と串を二本頼んでも二百五十なので、八十ゴールドも残せる。
「ここでしょ」
今日は店を探すのが早かった。
扉代わりの厚い布をくぐると、店内は細長く、右側に十席ほどのカウンターがあり、左側には二人掛けの小さな卓が三つだけ置かれていた。奥には横長の炭炉があり、その上で何本もの串が焼かれている。
店主らしい男性は四十代前半くらいで、黒髪を短く刈り、右頬に小さな火傷の痕があった。袖を肘までまくり、注文を聞きながら串を何度も返している。
「一人」
「空いてるとこ座って」
カウンターの端へ座る。
「麦酒と……角兎ねぎ串、それから砂走鳥塩串ください」
「はいよ」
今日は安く飲むと決めているので、最初から残りの八十まで使うつもりはなかった。麦酒一杯と串二本で二百五十ゴールドなら、八十はそのまま残せるし、それでも夕食として足りるなら十分だと思っていた。
店主が麦酒を置く。
「予算決めてんのか?」
「顔に出てました?」
「札見ながらずっと計算してたろ」
「計算しないと飲みすぎるので」
「串屋でそんな飲みすぎるか?」
「安い方が危ないんですよ」
「変な客だな」
笑われた。
麦酒は透明感のある淡い金色で、泡は少なめだった。冷たさも控えめで、一口飲むと麦の香ばしさより先に軽い酸味があり、そのあとから弱い苦味が残る。
これまで飲んだ麦酒の中でもかなり軽い。
「薄めです?」
「仕事帰り用だからな」
「仕事帰り用」
「ここらの職人、明日も朝から仕事だ。強いの何杯も出したら朝来なくなる」
「店側が心配するんですね」
「客来なくなったら俺も困る」
「なるほど」
前の世界の居酒屋なら、軽めのビールや発泡酒に近い立ち位置なのかもしれない。ただ、単純に水っぽいわけではなく、少し酸味があるので焼いた肉の脂を流すにはちょうどよさそうだった。
ほどなくして、二本の串が細長い木皿へ置かれた。
「角兎ねぎ、砂走鳥塩」
角兎ねぎ串には、角兎の肉と白い茎の野菜が交互に刺されていた。野菜は長ねぎに似ているけれど、表面が少し黄色く、焼かれた部分には薄い焦げ目がついている。
最初に角兎を食べる。
昨日は薄切りを香辛料で焼いたものだったが、今日の角兎は一口大で、味付けは塩と少量の香草だけだった。噛むと柔らかな肉から少しだけ脂が出て、そのあとに焼けた香草の香りが残る。
間に挟まれた野菜も食べてみる。
「甘い」
「《白筒葉》な」
店主が炭炉から目を離さず答える。
「葉なんですか、これ」
「葉の根元。上の青いとこは煮込みに使う」
「ねぎみたい」
「ねぎ?」
「前にいたところの野菜です」
「似てんのか」
「かなり。でもこっちの方が甘いかも」
火を通した白筒葉は柔らかく、噛むと水分と甘みが一緒に出てくる。角兎の淡い脂を受け止めるにはちょうどよく、肉だけを続けて食べるより飽きにくかった。
麦酒を一口飲んでから、今度は砂走鳥の串へ移る。
《風桶》でも食べたことのある砂走鳥だが、あの店では少し大きめの肉を塩串にしていたのに対し、《串炉》では小さな肉を四つ刺し、表面を強めに焼いている。
噛んだ瞬間の弾力は覚えている。脂が少なく、鶏肉より締まっていて、噛むほど淡い甘みが出てくる肉だった。
ただし、今日は表面へ《焦塩》という黒っぽい粒の混ざった塩が振られていた。
「この黒いの何です?」
「焦がし香草と塩。うちじゃ焦塩って呼んでる」
「ちょっと苦いですね」
「砂走鳥は脂少ないから、そのくらいの方が酒に合う」
確かに、そのままなら淡白な肉へ軽い苦味と香ばしさが足され、麦酒を飲みたくなる味になっている。
「同じ肉でも店で全然違うなぁ」
《風桶》では《風葉》を合わせ、こちらでは焦がした香草と塩を使う。砂走鳥という同じ食材でも、店ごとに「酒に合う」と考える味が違うのが面白かった。
カウンターの少し離れたところでは、三人の職人らしい男性が飲んでいた。全員、袖や手に黒い汚れがついていて、鍛冶か金属加工の仕事をしているらしい。
「今日また看板直してたぞ」
一人が言う。
私は思わず耳を向けた。
「西街道の?」
「そう。朝通ったら傾いてたやつ」
「あれ荷車だろ」
「ガルムんとこのだって聞いたぞ」
「またかよ。あそこの御者、曲がるの下手なんだよ」
どうやら今日私が直した標識の話らしい。
「今日直したの、私です」
思わず声をかける。
三人がこちらを見る。
「冒険者?」
「はい。ギルドの依頼で三本」
「三本も壊れてたのか」
「一本は荷車、一本は風、一本は雨で土が緩んだみたいです」
「標識も大変だな」
「立ってるだけなのに」
「俺らより働いてるかもな」
三人が笑う。
「報酬いくらだった?」
「七百です」
「それで飲みに来たのか」
「はい」
「いい使い方だ」
「でも今日の予算三百三十です」
「細けぇな」
同じことを店主にも言われた。
そのとき、一人の職人へ新しい串が運ばれてきた。
赤身の肉と白い脂身、それから小さな茶色い球状のものが交互に刺されている。焼けた脂が炭へ落ちるたびに香ばしい匂いが立ち上がり、つい目で追ってしまった。
「それ何です?」
「角豚脂串」
「八十ゴールドのやつ?」
「そう。うまいぞ」
職人が一口食べ、すぐ麦酒を飲む。
私は手元の木皿を見る。角兎ねぎ串と砂走鳥塩串はもうほとんどなく、麦酒も半分を切っていた。
会計は今のところ二百五十ゴールドなので、予算三百三十からは八十残っている。
その八十は残すつもりだった。
少なくとも、店へ入ったときはそう思っていた。
でも目の前の角豚脂串も、ちょうど八十ゴールドだ。
「串一本八十ゴールドなら、あと一本いいよね」
口に出した瞬間、自分で少し嫌な予感がした。
店主がこちらを見る。
「残すつもりだったんじゃねぇの?」
「聞いてました?」
「ずっと金の話してるからな」
「八十残る予定だったんです」
「じゃあ残せばいいだろ」
「でも串も八十なんですよ」
「俺に言われても知らん」
「……角豚脂串ください」
「はいよ」
結局、八十ゴールドを残す予定は、隣の串を見てから数分も持たなかった。
しばらくして出てきた角豚脂串は、さっき見た通り赤身の肉と白い脂身、それから小さな茶色い球状の野菜が交互に刺されていた。
一口目に肉を食べる。
角豚はこれまでにも料理の一部として食べたことがあるけれど、串焼きでは脂の存在感がかなり強かった。表面は炭火で少し硬く焼かれているのに、噛むと内側の脂が溶け、甘さと塩気が一気に口へ広がる。
「これは麦酒欲しくなるなぁ」
残っていた麦酒を飲む。
軽い酸味が脂を流してくれるので、店主がこの麦酒を仕事帰り用と言っていた意味が少し分かった。
次に茶色い球状の野菜を食べてみると、外側は柔らかく、中はほくほくしていた。
「これ何です?」
「《土珠》」
「前に根菜で似た名前聞いた気がする」
「土珠根じゃねぇぞ。こっちは実だ」
「ややこしい」
「俺に言うな」
味は小さな芋と栗の間くらいで、角豚の脂を吸っているのでかなり濃い。肉、土珠、肉と食べ進め、気づけば予定外だった三本目もきれいになくなっていた。
そして麦酒もほとんど残っていない。
「……ちょうどいいな」
腹八分くらいで、これなら三百三十ゴールドの予算をきれいに使い切って終われる。予定では八十残すはずだったけれど、少なくとも上限そのものは守っているので、昨日よりは計画的だと思いたい。
そう考えたところで、店主が炭炉の端へ何かを並べ始めた。
肉ではなく、薄く切った白いものを串へ刺し、表面へ油を塗っている。
「それ何です?」
「白根菜串」
「六十ゴールドの?」
「そう」
「どんな味です?」
「焼けば甘い」
炭火の上で表面が少しずつ色づき、油が落ちるたびに小さく火が上がる。肉とは違う香ばしさが漂ってきて、さっきまで「ちょうどいい」と思っていた腹に、なぜか少しだけ空間ができたような気がした。
けれど、今日の上限は三百三十ゴールドで、角豚脂串を追加した時点でもう使い切っている。昨日ならここで、貯えから六十くらい出してもいいかと考えていたかもしれないが、今日は安く飲むと朝から決め、昼食を七十ゴールドに抑えたうえで、この三百三十を夜の上限にした。
ここでさらに六十追加すれば三百九十になる。
「白根菜、一本」
隣の職人が注文した。
「今頼まないでほしかった」
「何でだよ」
「気になるからです」
「知らねぇよ」
昨日も似た会話をした気がする。
焼き上がった白根菜串が職人の前へ置かれた。表面には薄い焦げ目がつき、仕上げに黄色い粉が振られている。
「それ、黄色いの何です?」
「《乾黄皮》」
店主が答える。
「前に似たの食べたかも」
「香黄皮なら別物だぞ。こっちは皮を干したやつだ」
「また似た名前」
「食材なんてそんなもんだ」
職人が串を一口食べる。
「甘いぞ」
「感想いらないです」
「じゃあ聞くなよ」
その通りだった。
私は空になった木皿と、底に少しだけ麦酒が残った杯を見る。
串一本八十ゴールドなら安い。
六十ゴールドなら、それよりもっと安い。
けれど、安いからという理由だけで一本ずつ増やしていけば、最後に払うのは一本分ではなく、その全部を足した金額になる。
しかも怖いのは、高い料理を追加するときよりも、こういう小さな金額の方が「これくらいなら」と自分へ言い訳しやすいことだった。
「……危ないな、この店」
「何が?」
店主が聞く。
「一本ずつ安いから、ずっと追加できそうです」
「それで商売してんだよ」
「正直ですね」
「一本で帰るやつもいるし、十本食うやつもいる。決めるのは客だ」
「それ言われると弱いなぁ」
店主は炭炉の上の串を返しながら、こちらを見ずに続けた。
「腹いっぱいなら帰りゃいいし、食いたきゃ食えばいい。金なくなるまで食うのは知らん」
「最後だけ急に突き放しますね」
「俺は串焼くだけだからな」
もっともだった。
財布を管理するのは店主ではなく私だ。
「会計お願いします」
「麦酒一、串三。三百三十」
「ぴったり」
「本当に計算してたんだな」
「してました」
「偉い偉い」
「子ども扱いしないでください」
小袋から三百三十ゴールドを払い、空になった袋を畳んで財布へ戻す。
隣の職人はまだ白根菜串を食べていた。
「食わなくていいのか?」
「今日はいいです」
「六十だぞ」
「その六十が危ないんですよ」
「よく分からんな」
「私も今日分かりました」
前の世界でも似たようなことは何度もあった。百円だから、二百円だから、期間限定だからと買い足して、最後にレジで思ったより高くなっている。居酒屋でも一皿三百円なら安いと思って何皿も頼み、会計を見て首を傾げたことがあった。
世界が変わっても、安いものに弱いところはあまり変わっていないらしい。
「ごちそうさまでした」
「おう」
《串炉》の厚い布をくぐって外へ出ると、職人街ではまだいくつかの工房から明かりが漏れていた。昼間に直した標識も、ああいう人たちが切った木や作った杭でできているのかもしれないと思うと、七百ゴールドの地味な仕事も少しだけ違って見える。
今日は七百ゴールドを稼ぎ、昼食に七十、宿代に三百、夜の酒と串に三百三十使った。
「……あれ?」
歩きながらもう一度計算すると、七百から七十を引いて六百三十、そこから三百、さらに三百三十なので、今日の稼ぎだけで見ればきれいに残りはゼロだった。
「昨日より安く飲んだのに、今日の稼ぎ全部なくなってる」
昨日は夜だけで六百四十ゴールドも使ったのに、一日全体では百六十残った。今日は夜に三百三十しか使っていないのに、そもそもの報酬が七百だったせいで、その日の稼ぎは全部使い切っている。
安く飲んだことと、金が残ることは同じではないらしい。
それでも貯えには手をつけず、昼食も宿代も今日の報酬から払ったうえで、麦酒を一杯飲み、串を三本食べ、最後に気になった白根菜串は追加せずに決めた予算も守れたのだから、今日としてはそれで十分だろう。
少し歩いたところで、別の店から焼き物の匂いが流れてきた。反射的にそちらを見そうになったものの、さっきの白根菜串を思い出して、そのまま前を向く。
「串一本八十ゴールドなら、あと一本いいよね……は、一回までにしよう」
どうやら安い店で必要なのは、大きな財布ではなく、「あと一本」を何回まで許すか決めることらしかった。




