第12話「本日の稼ぎ、全部使いそうです」
朝、《銀鈴の宿》の食堂へ下りると、窓から差し込む日差しが昨日までより強く、雨の名残を残していた石畳もほとんど乾いていた。空気にはまだ少し湿気があったものの、外を歩くには悪くない天気で、宿の前を通る荷車の音もいつもより軽く聞こえる。
朝食は黒パンと豆の薄いスープ、それから塩を振った焼き魚だった。昨日は白根草を二十二束集めて千百三十ゴールドを稼ぎ、《灯枝亭》で白芋と香草の和えものを食べながら麦酒を二杯飲んだ。夜の予算は五百五十ゴールドだったのに四百六十で収まり、九十ゴールドを残せたので、最近の私は以前より少しだけ財布の扱いが上手くなっている気がする。
「まあ、三日くらい続いただけで成長したと思うのは早いんだけど」
焼き魚の身を黒パンへ乗せながらそう呟く。前の世界でも、三日自炊しただけで「最近ちゃんとしてる」と思い始め、その翌日に仕事帰りの居酒屋で予定以上に使うことが何度もあったので、節約というのは一度我慢できたかどうかより、それを何日続けられるかの方が難しい。
しかも、こちらでは宿代や武器の修理代まで自分で考えなければならない。飲み代さえ確保していればよかった会社員時代とは違い、今は働けなくなればその日の収入そのものがなくなるので、財布の中身を全部酒と料理へ変えるわけにはいかなかった。
「今日は普通に千ゴールドくらい稼げればいいかな」
朝食を食べ終え、短剣を腰へ差して冒険者ギルドへ向かう。
ギルドの依頼板は朝から相変わらず人で埋まっていた。私は後ろから紙を眺め、今日は昨日のような採取仕事ではなく、もう少し身体を動かせるものを探していく。
《西市場・乾物倉庫搬入補助。木箱および麻袋の運搬。報酬千二百ゴールド。半日程度》
「また荷運びかぁ」
以前《風桶》へ行った日は穀物袋と木箱を何度も運び、その翌朝まで腰が重かったので、少しだけ迷う。ただ、今回は市場の乾物倉庫で、依頼書を見る限り討伐のような危険はない。
隣には《南門外・街道脇排水溝清掃。報酬九百ゴールド》があり、その下には《角兎捕獲補助・報酬千五百ゴールド》も残っていた。報酬だけなら角兎の方がいいけれど、討伐ではなく捕獲となると加減が難しく、排水溝清掃も昨日までの雨を考えればあまり選びたい仕事ではない。
「結局、一番分かりやすいのが荷運びなんだよね」
私は乾物倉庫の依頼を板から剥がし、受付へ持っていった。
「西市場の搬入ですね」
今日はいつもの受付嬢だった。
「これ、重いですか?」
「ものによります。干し豆の袋は軽めですが、塩漬け肉の樽は重いです」
「樽もあるんですか?」
「依頼書にはまとめて木箱と麻袋になっていますね」
「そこ省略しちゃ駄目な情報じゃないです?」
「運ぶのは基本的に倉庫の入口から中までです」
「距離短いなら何とかなるかな」
「ただ、今日は入荷が多いそうです」
「最後に不安になる情報足さないでください」
受付嬢が笑う。
「現地責任者はオデンという男性です。西市場の《三輪倉》へ行ってください」
「分かりました」
依頼票を受け取り、ギルドを出る。
西市場は朝から賑やかだった。乾物、野菜、肉、布、道具などを扱う店が並び、歩いているだけで干した魚の塩気や香草の青臭さ、焼いたパンの香ばしさ、荷車から降ろされたばかりの果物の甘い匂いまで次々に流れてくる。
「朝ごはん食べたばっかなんだけどなぁ」
誘惑を避けるように進み、市場の裏手にある《三輪倉》を探す。
名前の通り、入口の看板には三つの車輪が描かれていた。建物は石造りの大きな倉庫で、その前にはすでに荷車が二台止まっている。
「ギルドからです」
依頼票を見せると、荷車の横にいた男性が振り返った。
四十代後半くらいで、濃い茶色の髪を短く刈り、太い首と大きな手をしている。右肩には使い込まれた革当てをつけていて、体格だけなら冒険者と言われても違和感がなかった。
「ミサキか。俺がオデンだ」
「よろしくお願いします」
「今日は三便来る。午前に二便、昼過ぎに一便だ」
「三便ですか」
「数だけなら多いが、重いやつは二人で持たせる。無理して落とす方が高くつくからな」
「その考え方助かります」
「前に落としたやつがいた」
「高くついたんですね」
「塩魚油の壺十二個」
「それは嫌だ」
「倉庫一週間臭かった」
倉庫が一週間も魚油臭かったと聞くだけで、その後始末まで含めて想像してしまい、できれば今日は何も落としたくないという気持ちが一気に強くなる。
オデンは倉庫の中を案内してくれた。入口近くには赤、白、青の印がついた区画があり、赤は肉や魚の加工品、白は穀物や豆、青は香草や乾燥野菜を置くらしい。荷物を運ぶだけなら単純だが、置き場所を間違えるとあとで探すのが大変なので、箱や袋の印は必ず確認するよう念を押された。
「今日の一便目は豆袋と乾燥根菜だ。袋は一つずつ、箱は二つ重ねてもいい」
「重ねていいんですか?」
「持てるならな。ただ、落とすくらいなら一箱ずつ行け」
「了解です」
最初に運んだのは、干し豆の麻袋だった。
一袋は以前運んだ穀物袋より明らかに軽く、両腕で抱えれば無理なく持てる。入口から白印の区画までも二十歩ほどなので、最初のうちは三袋、五袋と順調に運べたものの、一つひとつが軽い代わりに数はかなり多かった。
最初の荷車だけで二十八袋あり、さらに乾燥根菜の木箱が十四個続く。身体へ一度にかかる負担はそれほど大きくないのに、同じ距離を往復していると少しずつ腕と脚に疲れが溜まっていった。
途中からもう一人、同じ依頼で来ていた冒険者が加わった。
二十代前半くらいの男性で、明るい金髪を後ろへ短く束ね、腰には小さな剣を差している。
「今日だけ?」
箱を運びながら聞かれる。
「はい」
「俺も。戦闘依頼残ってなかった」
「私は残ってたけど荷運び選びました」
「何で?」
「報酬が分かりやすかったので」
「変わってるな」
「捕獲依頼だったからです」
「ああ、それなら分かる」
男はケントと名乗った。
普段は小型魔物の討伐や街道警備を受けているらしく、荷運びは今日が初めてだという。
「冒険者なのに荷物運んでんの変な感じする」
「私は何回かありますよ」
「冒険者ってもっと格好いい仕事するもんじゃないの?」
「稼げれば何でもいいです」
「夢ないなぁ」
「その報酬で夜飲めれば十分です」
「そっちが本命か」
「かなり」
ケントが笑う。
午前の一便目が終わる頃には、腕が少し温まっていた。休む間もなく二便目が到着し、今度は乾燥茸の木箱、燻製魚の箱、それから受付で聞いていた塩漬け肉の小樽まで荷車から降ろされ始める。
「本当に樽あるんだ」
受付で樽があると聞いた時点で嫌な予感はしていたものの、実物は小樽と呼ぶには十分大きく、片手で持てるようなものではなかった。二人で両端を持てば運べる程度ではあるが、中身が液体に近いせいか、持ち上げると歩くたびに重心までわずかに揺れる。
「これ落としたくないな」
ケントが言う。
「魚油十二壺の話聞きました?」
「何それ」
「前に誰かが落としたらしいです。倉庫、一週間臭ったって」
「聞きたくなかった」
「私も聞いたあとで持ちたくなくなりました」
「絶対落とさないぞ」
「賛成です」
二人で息を合わせて持ち上げ、揺らさないよう歩幅を揃えながら、置く瞬間まで慎重に運んだ。
「はい、次!」
オデンの声が飛ぶ。
「魔物より終わり見えないな」
ケントがぼやく。
「前にも同じこと言ってる人いました」
「みんな思うんだろ」
「袋も箱も、一個運んでも次が来ますからね」
「それだよ」
以前《風桶》へ行った日の倉庫仕事でも、似たようなことを言っていた冒険者がいた。魔物なら倒せば一匹減るのに、荷物は一つ運んでも次が待っているという感覚は今日も同じだった。
それでも、運んだ荷物が区画ごとにきれいに並んでいくので、昨日の薬草採取より仕事の進み具合は分かりやすい。午前の二便を終えた頃には、倉庫の空いていた棚がかなり埋まっていた。
「昼!」
オデンが声をかける。
「午後便は少し遅れるらしい。四半刻長めに休んでいいぞ」
「昼食支給なしですよね?」
「ない。市場で食ってこい」
「ですよね」
依頼書を読んだ時点で昼食が出ないことは分かっていたので、私はそのまま市場へ出ようとした。
すると、ケントが後ろから声をかけてくる。
「一緒に食う?」
「何食べます?」
「肉パン」
「いくら?」
「百六十くらい」
「高いなぁ」
「市場価格だぞ」
「夜がありますから」
「また酒か」
「昼に百六十使うなら、夜の一品に回したいんですよ」
「徹底してるな」
私はケントと別れ、少し市場を歩いた。安いものを探した結果、平たい黒麦パンへ豆の塩煮と刻んだ青菜を挟んだものが九十ゴールド、水の補充が十ゴールドだったので、昼食は合計百ゴールドで済んだ。
倉庫裏の日陰へ座って食べてみると、豆は柔らかく塩気が強めで、青菜には少し酸味がある。特別美味しいわけではないけれど、午前中ずっと荷物を運んで腹が減っているので、昼食としては十分だった。
「千二百から昼の百を引いて千百、宿代三百を取ると八百か」
自由に使える分だけなら八百まである計算になるが、さすがに今日残る分を全部夕食へ回すのは違う気がする。六百なら二百残り、七百なら百残るので、その間くらいにしておくのが無難だった。
「六百五十くらいかな」
まだ正式には決めず、午後便の内容を見てからにしようと思いながら残りのパンを食べた。
休憩を終えて倉庫へ戻ると、ちょうど最後の荷車が到着したところだった。今度は午前中と少し違い、大きな木箱が多い。
「何入ってるんです?」
「乾麺と硬焼きパン。あと二箱だけ香辛料」
オデンが答える。
「香辛料って重いんですか?」
「箱は小さいが高い。落とすなよ」
「値段聞くと緊張するから聞きません」
「一箱でお前の今日の報酬二十日分くらいだ」
「言わないでほしかった」
ケントも横で顔をしかめる。
「それ俺持ちたくない」
「二人で持て」
「余計怖い」
香辛料の箱は本当に小さく、二人で持つ必要がないくらいだったが、値段を聞いたせいで妙に重く感じる。中身を崩さないよう自然と歩幅まで慎重になり、棚へ置いた瞬間には、ケントと同時に息を吐いていた。
「普通の箱の方が気楽ですね」
「ほんとそれ」
その後は乾麺と硬焼きパンの箱を運び続けた。午後便は数こそ多かったものの重さは午前の樽より軽く、作業にも慣れてきたので速度は上がり、オデンから「もう少しゆっくりでいい」と言われるくらいだった。
「早く終わらせたいんですよ」
ケントが答える。
「速くやって落としたら帰れなくなるぞ」
「分かってます」
「若いやつはすぐ急ぐ」
オデンがそう言いながら、最後の木箱を確認する。
「これで終わりだ。数も合ってる」
「終わったぁ」
ケントが肩を回す横で、私も腕を伸ばしてみると肩の奥に軽い張りがあった。以前の穀物袋ほどではないが、半日以上運び続ければ、軽めの荷物でもそれなりに身体へ残る。
「市場仕事って毎日これなんです?」
ケントが聞く。
「もっと多い日もある」
「無理だな」
「慣れる」
「冒険者の方が楽じゃん」
「怪我しなきゃな」
「それ言われると弱い」
オデンが依頼票へ完了印を押す。
「冒険者は魔物相手にするから大変だと思ってるが、市場も毎日荷物来るからな。こっちは休んでも荷物が待ってくれん」
「それ、嫌ですね」
「だから金払ってお前ら呼ぶんだよ」
「なるほど」
「また暇なら来い」
「報酬次第です」
「正直だな」
「夜の酒代に関わるので」
「そっちかよ」
オデンが呆れたように笑う。
ケントとは市場の入口で別れた。
「俺はもう飲みに行く」
「早いですね」
「今日は稼いだからな」
「千二百ですよ?」
「十分だろ」
「宿代とか引きました?」
「考えてない」
「強い」
「考えると飲めなくなる」
「私は考えないと怖くて飲めません」
「向いてないな」
「何にです?」
「散財」
「向いてなくていいです」
ケントは笑いながら市場の大通りへ消えていった。
私はそのままギルドへ戻り、受付で完了印を見せて千二百ゴールドを受け取った。硬貨の重みを手の中で確かめながら、昼に使った百ゴールドと宿代三百を頭の中で差し引く。
「やっぱり夜は六百五十にしよう」
今日だけで自由に使える八百を全部使う必要はないので、百五十ゴールドは残す前提にする。
そう決めてから宿へ戻り、部屋で少し横になると、腕と肩の疲れが一気に出てきた。重いものを一度持つより、そこまで重くない荷物を何十回も運ぶ方があとからじわじわ効いてくるらしく、夕方になっても遠くまで歩きたい気分にはならなかった。
「今日はもう近場でいいなぁ」
財布から六百五十ゴールドだけを小袋へ移し、《銀鈴の宿》を出る。
今日は宿の東側を探すことにした。これまであまり歩いていない細い商店通りへ入ると、昼間は雑貨屋や仕立て屋として営業していた店の一部が閉まり、その間で夜だけ開くらしい小さな酒場の灯りがつき始めている。
一軒目は煮込みの匂いが良かったものの、入口に「大皿中心」と書かれていたので、一人では少し重そうだった。二軒目は麦酒九十ゴールドとかなり安かったが、料理が串焼き三種類しかなく、今日は酒だけでなくもう少ししっかり食べたい。
「今日は違うかな」
その先で、赤茶色の丸い看板が見えた。
《赤根皿》
看板には根菜らしきものと、湯気の立つ深皿が描かれている。
入口の品書きを見る。
《麦酒 百三十ゴールド》
《薄赤酒 百五十ゴールド》
《角兎香辛焼き 百八十ゴールド》
《赤根鶏と白豆の煮込み 二百ゴールド》
《焼き白根菜 百二十ゴールド》
《塩葉和え 九十ゴールド》
《黒パン 五十ゴールド》
《本日の香皿 百六十ゴールド》
「赤根鶏と白豆の煮込み……」
名前だけではどんな料理なのかよく分からないが、煮込みなら疲れた日にちょうどよさそうだった。麦酒百三十と合わせても三百三十なので、予算六百五十ならもう一杯か一皿を追加する余裕もある。
「ここにしよう」
扉を開ける。
「いらっしゃい!」
明るい女性の声が飛んできた。
店内は横に広く、四人掛けの卓が五つと、調理場を囲むようにL字型のカウンターが八席ほど並んでいる。壁は赤茶色の木板で、天井からは乾燥させた香草や小さな赤い根菜が束になって吊るされていた。
店員は二人いて、一人は三十代後半くらいの女性だった。濃い赤髪を高い位置で束ね、白い布を額へ巻いていて、もう一人の二十代前半くらいの細身の男性は卓と調理場を何度も往復している。
「一人です」
「カウンターどうぞ!」
女性に言われ、端から三番目へ座った。
「麦酒と、赤根鶏と白豆の煮込みお願いします」
「はいよ。辛いの平気?」
「辛いんですか?」
「うちの普通はちょっと辛い」
「ちょっとなら」
「本当に?」
「その聞き方されると不安になる」
女性が笑う。
「じゃあ普通で出すね」
「お願いします」
まず麦酒が置かれた。
色は少し濃い金色で泡は細かく、鼻へ近づけると麦の香りの奥に、ほんの少し乾いた果実のような甘い匂いがあった。一口飲んでみると、最初は穏やかな麦の甘さがあり、そのあとから苦味が少し強く来るものの、後味は長く残らず口の中がすぐにさっぱりする。
「これ好きかも」
「今日のは《赤穂麦》ちょっと混ぜてるよ」
赤髪の女性が言う。
「赤穂麦?」
「普通の麦より甘い。色も少し濃くなる」
「店の名前も赤いし、赤いもの多いですね」
「主人が好きなの」
「主人?」
「奥で煮込み作ってる旦那」
調理場のさらに奥を見ると、五十歳くらいの大柄な男性が大鍋を混ぜていた。顔まではよく見えないが、腕はかなり太い。
「夫婦なんですね」
「そう。私はリサ」
「ミサキです」
「覚えとく」
一度しか来ないつもりなので少し申し訳ない気もするが、わざわざ今ここで説明する必要もない。
しばらくして、深めの陶器皿が置かれた。
「赤根鶏と白豆の煮込み」
湯気と一緒に香辛料の匂いが立ち上がり、赤みの強い茶色の汁の中には大きめに切られた鶏肉と白豆、それから細長い赤色の根菜が入っていた。表面には細かな黄色い粉と緑の葉が散らされている。
「これが赤根ですか?」
赤い根菜を指す。
「そう。《赤根》は煮ると甘くなるよ」
「名前そのままなんですね」
「分かりやすい方がいいでしょ」
まず匙で汁だけすくって飲んでみると、鶏と豆の旨みが広がったあとから香辛料の刺激が舌へじわっと残った。唐辛子のように一直線に辛いわけではなく、胡椒に近い刺激と少し土っぽい香りのある辛さが重なっていて、確かに「ちょっと辛い」という説明が一番近い。
「ちょっと辛いって、ちゃんとちょっとでした」
「でしょ?」
「信用できます」
「何かあったの?」
「強い酒で一回失敗しました」
「ああ、酒の『ちょっと』は駄目な店あるね」
「料理の『ちょっと』も警戒してました」
「うちは正直だから」
次に赤根を口へ運ぶと、見た目は人参に少し似ているのに味はもっと甘く、煮込んだ南瓜と根菜を合わせたような柔らかさがあった。中心には少し繊維が残っていて、噛むとわずかに土の匂いに近い香りが出る。
「甘い」
「煮込み向きなんだよ」
「生だと?」
「苦いし硬い」
「全然違うんですね」
「火入れると変わる」
白豆は柔らかく汁をたっぷり吸い、角切りの肉は角兎より繊維がしっかりしていて、噛むと肉汁より旨みがじわじわ出てくる。赤根の甘さと豆の丸い味を、その肉と香辛料がちょうど締めていた。
「この鶏、普通の鳥ですか?」
「《赤根鶏》って鳥」
「料理名じゃなくて鳥の名前だったんですか?」
「そうだよ」
「赤根食べるから?」
「よく知ってるね」
「今予想しただけです」
リサが笑う。
「畑の赤根掘り返して食べるから赤根鶏。農家には嫌われるけど、肉はうまい」
「害鳥なんだ」
「半分くらいね。飼ってるところもあるよ」
「ややこしいなぁ」
「野生は嫌われて、飼われてるのは大事にされる」
「人間都合ですね」
「食いもんなんて大体そうでしょ」
「確かに」
前の世界でも、同じ種類の動物でも野生か家畜かで扱われ方はまるで違った。こちらでもその辺りは変わらないらしい。
一口食べてから麦酒を飲むと、煮込みの香辛料が口へ残ったところへ少し強めの苦味が入り、辛さが引いたあとに赤根の甘みだけが残る。
「これ、かなり合う」
「うちの定番だからね」
そう言われて煮込みを食べ進めていると、調理場の鉄板から香ばしい匂いが流れてきた。顔を上げると、若い店員が薄切りの肉を何枚か並べ、その上から赤茶色の粉を振っている。
「それ、何です?」
「角兎香辛焼き」
リサが答える。
品書きで見た料理だった。
入る前には煮込みだけで十分だと思っていたのに、実際に焼かれているところを見ると急に気になってくる。薄い肉の端が熱で少し縮み、香辛料が脂へ触れた瞬間に香ばしい匂いが強くなった。
「……あれは危ないなぁ」
「何が?」
「見なければ頼まなかったと思うので」
「じゃあ見たから頼む?」
「まだ一杯目なので考えます」
リサが笑った。
そのとき、横の席へ一人の男性客が座った。三十代半ばくらいで、肩から斜めに革紐を掛け、腰には工具袋を下げている。座るなり深いため息をつき、若い店員へ声をかけた。
「麦酒。それと黒パン」
「飯は?」
「あとで考える」
「また金ないの?」
「金はある。使いたくない」
「同じじゃん」
「違う」
常連らしい。
男性は麦酒が届くと、一気に半分ほど飲んだ。
「今日最悪だった」
「何が?」
若い店員が聞く。
「依頼人が『ちょっと棚つけてくれ』って言うから行ったら、壁から作り直しだぞ」
「棚じゃないじゃん」
「そうなんだよ。壁歪んでるから棚つかねぇって言ったら、『じゃあ壁直して』って」
「別料金でしょ」
「当然。でも向こうは棚代に入ってると思ってた」
「入るわけないじゃん」
「説明したら『ついででしょ』だってよ」
その一言を聞いた瞬間、私は匙を止めた。前の世界で何度聞いたか分からない言葉だったので、思わず「ついで、かぁ」と口から漏れる。
男がこちらを見る。
「分かる?」
「かなり」
「職人?」
「違いますけど、前の仕事で『ついでにこれも』はよくありました」
「ついでって言うやつ、大体ついでじゃないんだよ」
「分かります」
「一個増えると、そのために三個確認すること増えるんだ」
「それも分かる」
「お姉さんいい人だな」
「同じ被害に遭ってただけです」
世界が違っても、追加作業を軽く頼む人はいるらしい。
男はニルという木工職人だった。
「今日は棚一枚のはずだったのに、壁直して、棚つけて、最後に扉まで見てくれって」
「扉も?」
「閉まり悪いからって」
「それもう別依頼では?」
「だろ?」
「断ったんですか?」
「扉は断った」
「偉い」
「壁やった時点で遅いけどな」
「それはそう」
ニルが苦笑する。
私は煮込みを食べながら、さっき鉄板で焼かれていた角兎を思い出す。現在、麦酒百三十と煮込み二百で三百三十ゴールドなので、予算六百五十から残るのは三百二十。もう一杯の麦酒と角兎香辛焼きを追加すれば百三十と百八十で三百十、合計六百四十になる。
入店前には頼むつもりのなかった料理だったが、実際に焼かれる香りを嗅いでしまったせいで、かなり気になっている。
「さっきの角兎、量どれくらいです?」
リサに聞く。
「薄切り五枚くらい。そんな多くないよ」
「辛さは?」
「煮込みより香り強いけど、辛さは同じくらい」
「じゃあ、麦酒もう一杯と角兎香辛焼きください」
「はいよ」
頼んでしまった。
「本日の稼ぎ、全部使いそうです」
自分でも呆れて呟く。
隣のニルが聞いていた。
「全部?」
「今日、夜に使っていいって決めた分のほとんどです」
「使えるならいいじゃん」
「良くないです。明日もありますから」
「じゃあ何で頼んだ」
「焼いてる匂いが美味しそうだったので」
「駄目なやつだ」
「分かってます」
二杯目の麦酒が出てくる。
今度は一杯目よりゆっくり飲むことにした。
少しして、さっき鉄板で見た角兎香辛焼きも目の前へ運ばれてきた。薄く切られた角兎の肉が五枚、鉄皿の上へ扇状に並び、表面には赤茶色の香辛料がまぶされていて、端には刻んだ白い根菜と緑の葉が添えられている。
一枚を木棒で取ると、薄切りなので表面はしっかり焼かれ、縁には少し焦げ目がついていた。
一口食べる。
「おお、こっちは香りが強い」
角兎はこれまで串焼きや煮込みで何度か食べているが、薄切りにすると印象がかなり違う。肉そのものは淡白で柔らかいのに、表面へまぶされた香辛料が強く、最初に焼けた肉の香ばしさが来て、そのあとから少し酸っぱい香りと穏やかな辛味が広がった。
「これ何か酸っぱいですね」
「《赤香粉》に乾燥させた酸針実が混ざってる」
「昨日食べました、それ」
「酸針実?」
「白芋の和えものに入ってました」
「ああ、《灯枝亭》かな」
「知ってるんですか?」
「近所だし」
「店によって使い方、全然違うんですね」
「向こうは塩漬け、うちは乾かして粉にする」
「面白い」
同じ食材でも、店が変われば使い方まで変わる。昨日は白芋の甘さを締める小さな漬物のように使われていた酸針実が、今日は乾燥させて肉へ振る香辛料の一部になっていて、同じ街の中でも食材が別の顔を見せるのが面白かった。
麦酒を飲むと、角兎の乾いた辛さと酸味を苦味が流してくれる。
「これは二杯目頼んで正解だったかも」
「だろ?」
なぜかニルが言う。
「あなたの料理じゃないですよね」
「飲み屋で肉と二杯目は大体正解」
「雑な理論」
「でも今うまいんだろ?」
「うまいです」
「じゃあ正解」
実際に角兎も麦酒も美味しいのだから、かなり雑な理屈だと思いながらも完全には否定できなかった。
角兎を二枚ほど食べたところで、若い店員がカウンターの内側から別の小皿を出した。そこには細く切った黄色い根菜が盛られ、透明な油が薄く絡んでいる。
「リサさん、これ今日出す?」
「もう出していいよ」
「何ですか、それ」
思わず聞く。
「今日の香皿。《黄巻根》の酢油和え」
「メニューに本日の香皿ってありましたね」
「百六十。小さいのなら八十でも出せるよ」
残念ながら、今の私はもう六百四十ゴールド使う予定になっているので、予算六百五十から残るのは十ゴールドしかない。
「それは無理だ」
「予算?」
「はい」
「じゃあ今日はやめときな」
「店員さんがあっさり止めてくれると助かります」
「無理して食べるもんでもないし」
安心した直後、隣のニルがその香皿を注文した。
「俺、小さい方」
「はいよ」
「ちょっと」
「何?」
「隣で頼まないでくださいよ」
「なんでだよ」
「気になるから」
「知るか」
数分後、小さな皿がニルの前へ置かれた。
細切りの黄巻根は、見た目だけなら黄色い大根の漬物にも似ていた。透明な油が薄く絡み、黒い種と刻んだ香草が散っている。
ニルが一口食べる。
「うま」
「言わないで」
「酸っぱくて肉のあといいぞ」
「説明もしないで」
「食う?」
「予算超えるので食べません」
「一口ならやるぞ」
予算を超えずに味見できるなら少し心は揺れたものの、人の料理をもらってまで試すのは何となく違う気がした。
「やめときます」
「真面目だな」
「今日はもう予定外の角兎まで頼んだので、香皿は縁がなかったってことで」
「そんな大げさな」
「また別の店で、別の食べ方に出会うかもしれないですし」
私は角兎の最後の一枚を口へ運ぶ。
知らない料理が目の前にあれば当然気になるけれど、この街にはまだ入ったことのない店がいくらでもある。全部を今日一晩で食べる必要はないし、今日逃した一皿を惜しむより、いま頼んだものをちゃんと美味しいと思えるところで止めた方がいい。
「会計お願いします」
「六百四十ね」
リサが答える。
「十ゴールド残った」
「ほぼ全部じゃん」
ニルが笑う。
「だから言ったんですよ。本日の稼ぎ、全部使いそうだって」
「十残ってるなら全部じゃない」
「夜の予算としては誤差です」
「宿代は?」
「別に取ってあります」
「じゃあちゃんとしてるじゃん」
「最低限は」
小袋から六百四十ゴールドを払い、残った十ゴールドを財布へ戻す。昼食の百ゴールド、宿代の三百、夜の六百四十を合わせれば今日使うのは千四十ゴールドなので、報酬千二百から差し引いても今日一日だけで百六十ゴールドは残る。
「本当に全部ではなかったか」
「最初から計算してんじゃん」
「自由に使える分がほぼ全部だったんです」
「それでも飲んで食って残ってるならいいだろ」
「そう言われると、そうなんですけどね」
財布へ残る額は大きくないのに、今日の満足度はかなり高かった。
「ごちそうさまでした」
「ありがと。またね」
「はい」
《赤根皿》を出ると、夜風は少しぬるく、昼間の荷運びで疲れた腕にはちょうどよかった。
今日の仕事は、市場の倉庫へ豆袋や木箱、小樽を運ぶだけだった。魔物と戦ったわけでも珍しい場所へ行ったわけでもないけれど、何十回も荷物を運んで千二百ゴールドを稼ぎ、昼には百ゴールドで腹を満たし、その夜には六百四十ゴールドを酒と料理へ使った。
最初はもう少し抑えるつもりだったし、六百五十という予算を決めた時点でも十分高いと思っていた。それでも店へ入れば赤根鶏の煮込みが美味しく、鉄板から流れてきた角兎香辛焼きの匂いに負けて二杯目まで頼んだ結果、ほとんど上限まで使ったのに、その六百四十ゴールドを無駄だったとは思わなかった。
赤根鶏と白豆の煮込みは、赤根の甘さと香辛料の辛さが混ざり、荷運びで疲れた身体へちょうどよかった。予定外で頼んだ角兎の薄切りには、昨日《灯枝亭》で食べた酸針実が今度は乾燥香辛料として使われていて、同じ食材でも店が変わればまったく別の一皿になることまで知れた。
最後に気になった《黄巻根》の香皿は、八十ゴールドくらいなら貯えから出せない金額ではなかった。それでも、予算を決めたのは食べられないからではなく使いすぎないためなのだから、そこで追加せずに止まれたなら、今日の六百四十ゴールドはただ流されて使った金ではないと思いたい。
「本日の稼ぎ、全部使いそうでした……くらいが正しいか」
千二百ゴールド稼いで、昼食と宿代と夜の酒代を払っても百六十は残った。大成功と呼ぶほどではないけれど、今日働いた分で宿代を払い、昼を食べ、夜には麦酒を二杯飲んで煮込みと予定外の角兎まで楽しみ、それでも少し財布へ残せたのだから、悪い一日ではない。
結局、財布の中身を守ることと、美味しいものを全部我慢することは同じではないのだと思う。先に使っていいところを決め、その中でどれを選ぶか悩むからこそ、予定外の一皿も二杯目の麦酒も少し特別になる。
「六百四十なら……まあ、今日はいいでしょ」
そう、自分に言い聞かせた。




