“彼女の世界”は敵だらけ
もし己の記憶の中で、“もしあのとき”とやり直ししたい時間があったとするなら、ミラのようにチャンスを与えられた人はその時間に戻るのかもしれない。
——しかしミラという少女は、どこからやり直せばいいのかもはやわからなかった。公爵家の養子になったとき、使用人たちと打ち解けれいればと考え、もう少し自分が愛想良くできたらと考え、もう少し自分が婚約者に気に入られていたらと考え……そのどれもが上手くはいかなかった。
やがて彼女は過去に戻るのが苦痛となり、やり直すべきは幼少期ではないと考えるようになる。もし自分が、あの平民を妬むことさえなかったのなら……それは無理な話であった。
しかしながら、彼女の人生を語る上で最も重要なのはそこではない。
もっともっと重要なことは、何をやっても彼女の最期は他者に殺されることだった。とても興味深いことに、これだけは変わらない運命になってしまう。
運命とは、もとより偶然と偶然によって辿り着いたその人の今と将来である。誰かの気まぐれが誰かの未来を変えるように、それは不確実で見えない糸によって紡がれている。
つまり、ミラ・スカーレットレイクは時間を巻き戻した時点で別の運命に辿り着けるはずであった。それであるはずなのに、状況こそ違えど彼女は必ず殺される。まるでそれしか、彼女には道がないとでもいうように。
「くッ、流石に意識のない人を運ぶのは……骨が折れるね」
アルノーが額に汗を滲ませながらそう呟けば、隣にいたマルリーが何か手を貸すことができないかと心配そうに己の兄を見つめている。
アルノーはそんな妹の姿に気付き、また口をとじた。
本来ならば、言うつもりのなかった言葉だ。
ただ、肉体労働が苦手な彼にとって今の状況が予想以上に過酷だっただけで。
今のアルノーは疲労、焦燥、苛立ちをそれぞれ感じていた。
疲労に関しては言うまでもない。
焦りに対して言えば、向かうべき場所にすぐに向かうことができないことがそうだった。今自分がこうしてのろのろと移動していることで、取り返しのつかないことが起こってしまう気がする。しかしだからといって、気を失ったセレナを一人森の中に置いていくことなどアルノーにはできなかった。もちろん、ペーシュやマルリーに任せるわけにもいかない。
なので彼が苛立っている理由は、ジーク・ギルシリに対してだった。ジークは今回のメンバーの中で誰よりも体格に恵まれているはずなのに、セレナのことなど気にも止めずに一人でスタスタと前に進んで行ってしまった。
アルノーたちのペースにも合わせることもなく。
アルノーはそんなジークの後ろ姿をときせつ思い出しては、米神あたりに血管を浮かばせていた。何しろ、彼は初めからジークやセレナのことを信じていなかったため好感度はマイナスだった。それが今回のことで、最低を遥かに下回ったのである。
彼らの瞳には、ミラに対する敵意がありありと伝わっていた。セレナはまだ彼女を見極めようとしているようにも見えたが、ジークに至ってはこちらが身構えてしまうくらいにはわかりやすいものだった。
アルノーはそんな彼に気が付かず、何かとジークを気にかけるミラに内心どうして気が付かないんだと肝を冷やしていた。しかし真実を告げようにも、彼女が傷ついてしまうかもしれない、或いはジークに開き直られても困ると触れずにいたのだ。
アルノーは自分の肩からずり落ちそうになるセレナの体を支え直しながら、いつも厄介な事件に巻き込まれてしまう友人のことを思い浮かべていた。
ペーシュは当初、学園に戻ることに反対していた。
ミラがいなかったからだ。
するとジークはすぐに目の色を変え、「やっぱりミラが元凶なのだ」と大きな声で騒ぎ立てた。一緒に行動していたはずの彼女がここにいないということは、俺たちを騙して魔法で眠らせた後、彼女が一人で学園に戻ったに違いないからとのことだった。最初から、ミラは俺たちをここに取り残すつもりだったのだと。
ペーシュやマルリーはそれを強く否定した。
アルノーもその話を信じる気など全くなかった。それどころか、なぜジークがそこまでミラに敵対心を向けているのか不思議でならなかった。
けれどもジークはそれしか道はないのだとブツブツ呟くと、一人で森の中を歩いて行ってしまった。
反対にアルノーは、ミラは何者かに連れ去られたのだと考えていた。前々から、彼女が何か大きな陰謀に巻き込まれていると密かに考えていた彼は、一度故郷に帰り彼女を救う方法を調べていた。
結局、何もわからずにこの日を迎えてしまった彼は酷く後悔していた。心のどこかで、考え過ぎだとも思っていたこともあったからだ。
考え過ぎ、なんてことはやはりなかったのだ。
一度彼女に酷い態度をとってしまった自分に、他者を責める資格など初めからないのかもしれないが、どうしてかミラの周りの人間は彼女を排除しようと躍起になる。
ルナも、ジークも、彼女を見下す生徒たちもそうだ。
それにミラの話によれば、スカーレットレイク公爵家にはミラの命を狙っていた使用人までいたという。
アルノーがセレナやハルメートの手を取らなかったのは、彼らの考える容疑者の中にミラがいることを察したからだ。ハルメートに至っては、魔法によって苦しむ生徒たちは決まってミラの陰口を言っていた者達だと断言していた。
(……………………)
アルノーは一旦考えるのをやめた。
もうそんなことをしている時間はないのだと、自分に言い聞かせる。目的地は目と鼻の先だ。
普段なら見えるはずの歴史ある学舎は、不気味な霧によって覆われてしまっている。その霧から感じるオーラは、彼の身体をどこまでも冷やすのだった。
ミラ・スカーレットレイクは、とある人物にとってとても邪魔な存在だった。その人物は、自身の下らぬ妄想のためにミラを排除しようと必死だった。
ミラ・スカーレットレイクは、とある人物から便利な政治道具として使われようとしていた。その人物は、自分の将来を考えミラを懐柔した。
ミラ・スカーレットレイクは、多くの人にとって自尊心を保つためのスケープゴートにされていた。他者を見下すことでしかプライドを守れない品位に欠けた者たちの、何よりも都合の良い的であった。
ミラ・スカーレットレイクは、自分自身を嫌っていた。何をしても他者から嫌われる彼女が何より憎んでいたのは、自分自身だったのかもしれない。
彼女の運命を紡ぐ糸は、一体どこから垂れてきているのだろうか。




