第百三十一章 キルハイヴ
ポータルから抜け出すと、俺たちは岩だらけの地形に出た。ただ、他のポータルゾーンと違って、ここは一面濃い霧に覆われていた。
耳を澄ませて、近くに誰かいないか確かめようとしたが、辺りは信じられないほど静かだった。やっぱり無駄だな、と判断して、俺はドラコニドに意識を切り替えた。背後のポータルが閉じたのに気づく。
「レギ?」
少しの間があってから、聞き覚えのある声が喜びに満ちて響いた。
「ああああ!ニコ、やってくれたのね!会えるのが楽しみで体が震えちゃう!」
アルヴァには当然見えないだろうが、俺は微笑んで答えた。
「それは良かった。でも俺はメンタル系のことにそこまで慣れてないから、自力で道を見つけるのは無理だな」
次の言葉には少し誇らしげな響きがあった。
「私、そうじゃないかと思ってね。だから昔の知り合いをそっちに送っておいたの」
「試練の時の?」
「そう。ただ、あいつが着くまでは気をつけてね。まあ、あんたなら大丈夫だと思うけど。ごめん、こっちでちょっとトラブルが……すぐまた連絡するから」
もう笑えないんだが……。
霧を抜けると、俺は辺りを見回した。近くには腰まで届く背の高い草が密生した小さな平原が広がっていた。少し先には鬱蒼とした森があり、見慣れた木々が異常なほど成長して、枝や幹が絡み合い、上部にはほぼ一面の葉の壁を作り出していた。見た感じ、森の中は夜のように暗く、光もないのにどうやって植物が枯れずに済んでいるのか不思議なくらいだ。それに、ここの葉は黄色くなることも落ちることもなく、気候もかなり暖かい。どうやらここではまだ冬は先のようだ。そもそも冬があるのかも怪しいが。
まあ、俺は景色を眺めに来たわけじゃない。ラズも同じくらい興味津々のようだったが。
「どう、何か感じない?」と俺は尋ねてみた。彼女なら何かあればすぐ教えてくれるだろうとわかってはいたが。
「いや、まだ何も……」ラズが不安げに言った。「ただ……あんたも感じない? ここ、なんだか全部が大きく聞こえるような気がするんだけど」
考えてみると、俺も頷いた。ドラコニドのメンタル繋がりがここでは敏感になっているんだ。だが残念ながら、それは雑音も大きくなるってことだった。こんなの慣れてない俺は、今のところドラコニドとの接続を切っている。注意力が完全に散漫になってしまったからな。
少し前に進んで、俺は通信リングを手に取った。
「セフィーナ、そっちはどうだ?」
「ん〜、にゃあ、たぶん大丈夫だよ。ケイトとアキルズが俺たちのパイロットを回収してくれたから、みんな無事に逃げられたみたい」
「よかった! シャドマー派閥は?」
セフィーナが咳払いをした。どうやらまだあっちにいるらしい。頼むから、あいつらに思考を読まれたりしないでくれよ……
「あー、えっと、まあ、大丈夫、にゃ。あの娘を殺された件で、男たちの中から誰を罰するか決めてるところみたい」
額に手をやりたくなったが、やめておいた。
「で、内輪揉め以外には? 何かあるか?」
「ああ、伯爵夫人が杖を渡してくれたにゃ。今のところそれだけだにゃ」猫娘は自信たっぷりに言った。
少し考えてから、俺は言った。
「とにかく、男爵夫人と連絡を取って、何か事件がなかったか聞いてくれ。それと可能なら、全ての拠点周辺のパトロールを強化してくれ。計画されてた嫌がらせが全部失敗したなんて、信じられないんだ。俺は連絡取れるようにしておく。できるだけ早く状況を把握するよ」
「ああ、わかったにゃ。全部やっとくよ、ニコ! チュッ」
キスの音が響いて、ラズはそれを聞いたらしく、くすくす笑い出した。
「俺もだ」
装備を確認して、俺は石の一部をしまい忘れていたことに気づいた。錬金術……まあ、そこまで怖くはない。
使者はまだ来ていなかったので、俺たちはゆっくりと前へ進んだ。あちこちに粘液の広がる場所が点在していたが、周辺にはキルハイヴの基地らしきものは何も見当たらなかった。ケルの話によれば、ポータルの安定装置だったという、あの胞子を噴き出す小さな柱のようなものが何度か見つかった。
平原は思っていたより小さくて、突然、湿地帯へと変わった。
森の方から咆哮が聞こえてきた。動きを止めて、俺とラズは顔を見合わせた。どうやら、これが約束されていた厄介事らしい。
考えを巡らせて、俺はキルハイヴのゾーンを思い出した。試練ゾーンでは、アルヴァー派閥のネクロマンサー、テクガン派閥のレイダー、シャドマー派閥の狂人といった、内部的な問題がよく出てくると仮定すれば、あそこで俺が出会ったのは変異した獣だった。一方では、似たような連中が一時的な資源採取者として働いていたが、他方では――誰にも分からない。
「パパ、来るよ!」ラズが素早く言って、爪の間に炎を灯した。
よく見ると、見えてきた。化け物みたいに巨大化した奴ら。体高二メートルほどの狼で、棘と膿を滴らせる腫瘍に覆われている。馬の代わりに使われていた蜘蛛の二倍はあろうかという、巨大な毛むくじゃらの蜘蛛。そして下半身が熊のような、巨大な蠅――その生き物は毛むくじゃらの足で重そうに揺れながら歩き、ブンブンと羽音を立てて大きな翅を激しく動かし、まるで不釣り合いな体のバランスを取ろうとしているかのようだった。
だが、そこにあった最も反吐が出るものは――数体のシャドマー派閥の死体が、鎧の破片から判断するに、一つに融合して血まみれのぶよぶよした肉塊になっていたことだ。黒い液体が滴る無数の穴だらけのその肉球の表面で、半透明で太い幼虫が一メートルほどの長さで脈打っていた。
狼が吠えて俺たちの方へ突進してきた。残りの連中はもっと遅かったが、それでも距離を詰め始めた。あの不快な変身の日を思い出して、俺はインセクトイドに切り替えてみることにした。
素早く足を動かしながら、念のため前足の棘を突き出して狼に向かって突進した。俺たちの間がもう二メートルほどになったとき、狼は急に止まって前足を曲げ、頭を地面につけた。吠え声が静かな鳴き声に変わった。
残りの方に向き直ると、狼は奇妙な音を出し始めた――遠吠え、吠え声、カチカチという音が混ざったようなものだ。どうやらこれも何かの「方言」らしく、俺には歪んだ断片しか伝わってこなかった。
「停止。ダメージ。攻撃。否定」
残りの化け物どもは速度を落とし、近づいてきて静止した。狼は俺の方を向いて、今度は俺との会話を続けた。
「お前。肯定。何。夢」
ラズの方を振り返ると、彼女が肩をすくめているのが見えた。
「一番近い基地はどこにある?」 試しに聞いてみたが、狼は首を傾げて悲しそうに俺を見つめただけだった。そしてまた、さっきの言葉を少し変えたバージョンに戻ってしまった。
「違う。知識。お前。そう。何。実行」
どうやら言葉の壁が立ちはだかっているらしい……ただ手を振ってみたが駄目だったので、俺はゆっくりと横に歩き出し、化け物どもを見やった。振り返った狼が大きく歯を鳴らし、ゆっくりと俺の後を追い始めた。そして残りも続いた。
ラズの手を取って、俺は彼女を自分のごつい体の上に座らせた。一歩踏み出そうとすると、俺の足は沼にずぶりと沈み、危うくバランスを崩しそうになった。
「そう。道。そう。何。夢」――背後から歯を鳴らす音が聞こえ、振り返ると、狼が体を伸ばして沼を指し示そうとしているのが見えた。
「そうだ」と俺は答えた。すると動物は毛の抜けた尻尾を振り、俺の方へ近づいてきた。よく見ると、狼は跳躍し、小さな島の上に着地した。そこに留まったまま、化け物は自分の「仲間」たちを見て言った。
「違う。我ら。停止。時。違う」
幼虫どもがうごめいて肉塊の中に隠れ、その後、その生物は森の方へと転がって戻っていった。その後ろを熊蝿と蜘蛛がよたよたとついていった。
狼が俺を待つように見つめてきたので、俺は足の中の液体の圧力を変え、勢いよく跳躍し、尖った足先を島の柔らかい土に突き刺した。
「うわあ、パパ、すごいよ! 子供たちともこうやって遊んであげなきゃ」と娘は嬉しそうに言いながら、俺にしっかりしがみついてきた。
「ああ、その子たちが巨大蜘蛛そのものに怯えなければな」と俺は呟いた。狼は別の島へと跳び移る。見た目は他と何ら変わらない島だった。
「パパはいつだってパパだよ、どんな姿になっても」とラズは自信たっぷりに続けた。俺はただ頷くしかなかった。
島から島へと跳び続けていると、この途方もない沼地の大きさを把握する希望なんてとっくに失っていた。だが、次の跳躍の後、狼は動きを止めて牙を剥き、低く唸り始めた。周囲を見回したが、相変わらずの殺風景な景色しか見えない。いや待て、少し先にはもっと植物が生い茂っている。もしかして、もうすぐ着くのか?
一声吠えると、狼は素早く横に跳びのいた。狼がいた場所に、鋏で終わる太い触手が叩きつけられた。
前足を一閃させて、俺は不意打ちの触手を根元から切断した。だがその後ろから新たな触手が次々と飛び出してくる。狼は一本を噛み千切り、何発かの攻撃をかわしてから、膿んだ腫瘍から酸を吹きかけた。近くにあった触手の皮膚がジュウジュウと音を立て、不意の敵どもは現れた時と同じ速さで沼地の濁った泥の中へと消えていった。
さらに数回跳躍すると、狼は体を伸ばして前足で一方を指し示した。
「そう。繰り返し。必要。そう」と獣は確認して、俺を見た。
「ありがとう」
跳び降りると、俺は固い地面に着地した。最初と同じような平原だ。振り返ると、狼が頭を下げているのが見えた。俺たちがかなり離れてから、獣は跳ねるように戻り始めた。
何かがこっちに向かって突進してくる。揺れる草の波が近づいてくるのでわかった。また厄介なことが起きると身構えて、俺は前足を前に出し、攻撃の準備をした。
「ああ、ここにいたんですね!」すぐ近くでカチカチという音が響いた。「こんにちは!」
ルス・ソムニが体を起こすと、俺とほぼ同じくらいの高さになった。前足を胸に当て、彼は頭を下げた。
「女王がお待ちです、さあ急ぎましょう!」
向きを変えると、インセクトイドは素早く走り出した。俺もすぐにペースに慣れて、やがて彼と並んだ。
「どのくらい行かなきゃいけないんだ?」
歩きながら前足で頭を擦りつつ、ルスはカチカチと何度か音を立てた。
「あまり。テレポートがある」
どうやらポータルゾーンには拠点を作る気がないらしい。他の場所の資源だけで足りてるってことか? まあテクガンだって同じ方針だったし、黄金の男爵夫人なんてすごく遠いのに結構潤ってたみたいだからな。
「で、境界線のあれは何だ?」
ルスの方からギシギシという音が聞こえてきた。そっちを見ると、どうやらこれが奴の笑い方らしい。
「ハッ、あれはステルス野郎どもへの俺たちの娯楽さ。霧が透明化を暴いて、獣どもが雑魚を狩る」
「はあ……」ラズが静かに言った。「独特な娯楽ね」
ルスには聞こえたようだ。
「隠れて姑息に動き回る連中に、主力を割くなんて過分な扱いだ」ソムニはかなり鋭くカチカチと鳴らした。「こっちは車両の問題で手一杯なんだから」
「えっ、エクスマッハに何か問題でも?」
ルスは速度を落とさずに全身を振って否定した。かなり強い否定の意味らしい。
「女王には問題などない、あるのは一時的な困難だけだ」ソムニは誇りと少しの不満が混じった音で言った。「もう全部片付いたと思うぞ」
別にレギを助けたくないわけじゃない。もし彼女が何か困っていたら力になりたいと思う。ただ、これ以上面倒事は勘弁してほしいだけなんだ。だからルスのこの自信は安心できた。
高い丘を駆け上がると、ロートクの円周が見えた。俺のアルヴァー派閥のロートクと同じくらい大きい。鬱蒼とした森と大きな湖の間に位置していた。あと五分もすれば到着だ。
「ルス、悪いんだけど聞いていい? 君って元は人間だったのか?」あまりにも変わり果てたインセクトイドの姿が気になって、俺は質問を投げかけた。
またきしむような音が聞こえた後、ソムニは前脚で自分の体の前部分を叩いた。
「いや、俺は純血のインセクトイドだ!」
どうやら男の個体はみんな結構醜いらしい。ハンターに捕まって改造されたやつだろうが、繭か何かから生まれたやつだろうが、関係なくな。
「ありがとう」
ルスは手を振り払って、口を開けて「笑った」。
高くそびえるキチン質の壁は、うごめく胞子に覆われていて、かなり威圧感があった。壁の下には幅広い堀があり、怪しげな液体で満たされている。そこから白い煙が立ち上っていた。
壁の上には、たくさんの穴が開いた大きな球状の突起物がいくつかあった。同じようなやつが小さめのサイズで、壁の表面全体にランダムに配置されている。
それまで壁と見分けがつかなかった門が、俺たちが近づくと動き出し、堀の上にドスンと倒れかかった。細くてほとんど見えない糸にぶら下がる形でな。
ルスは前脚を振って俺たちを先に通すと、自分も後から飛び込んできた。
見知らぬ建物が沢山あったが、俺たちは足を止めず、すでに起動しているテレポートへ駆け寄った。
「ドラコニドに変身してもいいと思うよ」ルスが考えてから、俺にカチッと音を鳴らした。
ラズを抱え上げて地面に降ろしてから、指輪を回した。ソムニが嬉しそうに前足同士をカチカチと叩き合わせた。
「本当に素晴らしい!あ、でも、もう行かなきゃ!」急いでインセクトイドがテレポートに駆け込み、俺たちもその後を追った。
最初に目に入ったのは、上へ伸びる巨大な塔で、上部が広がっていた。頂上は大きな球体でいくつか細い開口部があり、大きな棘で飾られていた(もしかしたら実用的な目的もあるのかもしれないが)。大きさは一目では判断しづらかったが、百メートルは確実にあると思われた。
ハイヴは中央に位置し、その紡錘形の影が周囲の建物の大部分を覆っていて、標準的なものの四倍ほどの大きさだった。
あちこちでワーカーたちが資源を運んでうごめいていた。ムタゲン反応炉の群れの上には、消えない緑の煙が立ち上っていた。
だが、もちろん一番重要なのは、近くにレギがグリシと一緒に立っていることだった。女王は誇らしげで堂々とした態度を保とうとしていたが、俺に飛びつくのを必死で堪えているのが見て取れた。グリシの方は剣に寄りかかり、不機嫌な表情で立っていた。
ルスが恭しく頭を下げて、慌てて距離を取った。レギの方へ一歩踏み出すと、彼女が今にも飛び出しそうになっているのが見えたので、俺も急いで近づいた。
「ニコ……」レギが息を吐きながら囁いて、手を伸ばしてきた。俺がその手に触れた瞬間、二人同時にびくっと震えて、ぎこちなく笑い合った。まるで周りの全員に、電流みたいに俺たちを貫いた信じられないほどの幸福感の波が見えてしまうんじゃないかと思ったかのように。「あ、えっと……」
「ああ、ようこそ、すごく嬉しいわ、そういうの全部ね」グリシが退屈そうな様子で素早く言った。「さあ、早く紹介してよ、あんたの珍しいトワイライトの可愛い子ちゃんを」ドラコニドの彼女が少し態度を軟化させながら続けた。
手を伸ばして娘を呼び寄せた。素早く近づいてきたラズは、大きく見開いた目で周囲をじろじろ見回すのをやめないまま、俺が告げると頷いた。
「ラズ・リカ、俺の娘だ」
「よろしくね」全員が微笑んだ。ルスまでも、遠くで何もしていないふりをして立っているだけなのに。
沈黙が流れた。まあ、無理もない。レギの手を握っているだけで、俺は幸せだった。どこから湧いてきたのか分からない多幸感が俺を完全に満たしていた。そして彼女もきっと、全く同じことを感じているんだろう。
グリシが慎重に咳払いをして、アルヴァが痛みに顔をしかめるように、そっと手を離した。
「ええ、どうぞ、こちらへ」女王は申し訳なさそうに微笑むと、巨大な塔の方へと歩き出した。




