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秋水の藩  作者: 花房清澄


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第8話 若い名

「人の名へ移るな」


 久馬は、書役の筆先と役目表の間へ手を差し入れた。


 書役が写していたのは、内向けの役目表の最初にある名だった。救護、運搬、道と橋の確認、火消し、連絡、町場の維持。水枝の内で若者へ何を担わせるかを定めた表である。その横には、新しい料紙が置かれていた。上には人別控とあり、氏名、年齢、家、技能の順に欄が作られている。


 最初の氏名欄には、片倉元信とあった。四字目の墨はまだ乾かず、筆先から落ちた小さな墨が、その下の年齢欄の手前に丸く残っていた。


 書役は筆を浮かせたまま久馬を見た。


「早坂殿のお文には、三日以内に添えるようにとございます」


「読んだ」


「役目表から取れば、技能まで早く揃います。年齢と家は、人数帳で確かめられます」


「そのために作った表ではない」


「ですが、ここにある者なら、運びも道も務められます。軍夫へ出す者を選ぶには――」


「選ぶな」


 久馬は役目表を自分の側へ引いた。


 福島の同盟軍事局から届いた文は、その朝、辰の刻に大手門で受け取られ、書役衆控で写しを取られた後、記録奉行詰へ運ばれていた。持参した早坂右近は、定めどおり使者控へ通され、供の者とは別に待っている。文にいう三日は、その辰の刻から数える。


 前の要求には、兵、米、宿、道と、水枝がどちらへ立つかを明らかにせよとあった。水枝は兵を出さず、軍勢のための武器と兵糧を許しなく通さず、負傷者と避難する者の道は閉じないと返した。


 今回の文には、前になかった数字が並んでいた。


 銃兵八十名。軍夫百二十名。三日以内に楢木宿へ集めること。


 氏名、年齢、家、技能を記した人別控を添えること。


 応じなければ、水枝へ入る米と塩の通行を止める。中立を敵対とみなし、藩境へ兵を進める。


 文の末まで読めば、兵を出さぬ理由を尋ねる余地はなかった。二百人を差し出すか、米と塩と藩境を差し出すか。そのいずれかを、三日の内に示せと迫っていた。


 久馬は、書役の前にある人別控を取った。


「これは、どこまで写した」


「表題と項目を作り、片倉元信一名を書き移したところです。下書きも、反故も、ほかの写しもございません」


「役目表を誰がここへ運んだ」


「私が、記録方から受け取りました。人別控を作るよう下知が来たためです」


「誰の下知だ」


 書役は答える前に目を伏せた。


「最後通牒を受けた以上、添付の支度だけは先に始めよと、書役衆控から」


 正式な評定はまだ開かれていない。義政の裁可もない。人別控を提出すると決まった者はいなかった。それでも三日という期限は、決定より先に書役の手を動かしていた。


「この料紙はここへ置け。役目表は私が預かる」


「人別控の作成は」


「止める」


「評定で、出すと決まった時に間に合いませぬ」


「その時は、止めた者の名を先に答えよ」


 久馬は、料紙の余白へ、役目表から片倉元信一名を転記したところで人別控への筆写を止め、内部役目表を回収したことを記した。刻を添え、末へ自分の名を書いた。


「この場にいた者は」


 書役は、自分の名を書く欄と、久馬が持つ筆を交互に見た。


「お前の名も残せ。ただし、転記を命じた者にも、止めた者にもするな。片倉元信一名を書き移した時、岩井久馬が止めた。その事実だけでよい」


 書役は筆を受け取り、自分がその場にいたことを書いた。


 久馬は内向けの役目表を閉じた。


 片倉元信の名がある。楢木宿への運搬組を預かり、退く条件が成立した時に帰還を命じたことも、別の出立表と帰着の記録へ残っている。


 新田清之助の名もある。輸送組で馬荷と荷縄を担った。清之助については、任務の記録とは別に、死亡日、所持品、最後の役、撤退命令に従って帰る列にいたことが記されている。


 ほかにも、負傷者を運んだ者、崩れた道を知らせた者、火を消した者、避難してきた家族を照らした者の名があった。


 役を与えず門を閉じた失敗のあとで、何ができるかを見定め、水枝の内へ一人ずつ置いた名だった。どの名も、若いというだけで一つにまとめなかった。


 だが、早坂の持参した文は、同じ名を別の順で読ませる。


 氏名。年齢。家。技能。


 荷縄を扱える者。馬を引ける者。道を知る者。負傷者を運べる者。連絡に走れる者。


 水枝の内では、残る者へ役を渡すための記載だった。福島へ渡せば、二百人を選び出すための記載になる。


 役目表の内容を偽ってはいない。書役が誤った紙を持ってきたのでもない。外から求められた人別控を短い期限で作るなら、最も早く、最も正確に使えるものが、この役目表だった。


 久馬は封じるための支度を命じた。


「原本は記録奉行詰の文庫へ戻す。これ以後、私の指図なく開くな。写しも取るな」


「すでにある出立表は」


「混ぜるな。あれは出立の用向きと帰着を確かめた記録だ。人別控へ移すためのものではない」


「清之助の記録も」


「別に置く。役目表へ戻すな。外へ出す名の代わりにも使うな」


「原本を封じれば、評定で人数を問われた時は」


「名を見ずに答えられるところまで、私が抜き出す」


 久馬は封じる前に、書役へ役ごとの人数だけを数え直させた。筆は氏名欄へ戻さず、救護、運搬、道と橋、火消し、連絡、町場の維持の順に数だけを別紙へ移す。久馬は読み上げられた数を表の行と照らし、別紙の末へ、人名を転記していない旨と刻を書いた。その一枚だけを、外向け回答を作るため手元へ残した。


 別紙には、誰がその数に含まれるかを書かなかった。元信一名の未成稿とも綴じず、役目表を封じた控えとも分けた。外向けの回答から、数を手掛かりに個人名へ戻れないようにするためだった。ただし、数を抜き出した責任は消さず、末へ岩井久馬の名を加え、封じた役目表の集計に基づくと記した。必要になれば、水枝の内で原本と照らせる。書役にも同じ箇所を読み合わせさせ、誤記のないのを見届けた。別紙も、記録奉行詰の外へは出させなかった。


 書役はなお人別控の料紙を見ていた。


「未成のまま提出なさるのですか」


「提出しない」


「では、別の名を」


「作らぬ。死んだ者も、実在しない者も入れない。年齢を変え、技能を偽ることもしない」


 久馬は役目表を自分で文庫へ運んだ。原本に封紙を掛け、継ぎ目へ印を押し、文庫の定位置へ納めた。立ち会った者には封紙と表題を見せ、原本がそこにあると控えへ書かせた。外部への閲覧と転記を止めた旨も、その同じ控えに記した。未成の人別控は、名を削らず、反故にもせず、写しも作らせないまま記録奉行詰へ留めた。


 元信一名の未成稿は机上に残り、役目表は封の内に残った。久馬が止めたのは、そこから福島へ人の名を書き移す手だった。


 記録奉行詰へ戻ると、久馬は最後通牒の写しを持って取次の間へ向かった。人別控の未成稿は詰に留めた。


 早坂右近は、前に水枝の返答を受け取った時と同じく、礼を崩さず座っていた。


「お待たせしました」


 久馬が向かいへ座ると、早坂は一礼した。


「御評定は」


「まだです」


「では、人別控についてのお尋ねでしょうか」


「氏名、年齢、家、技能の四つは、必ず添えよとのお求めですか」


「そのように承っております」


「役ごとの人数だけでは足りませんか」


「足りませぬ。銃兵八十名、軍夫百二十名を楢木宿で受け取るには、誰が来たかを確かめねばなりません。技能が分からなければ、銃兵と軍夫を分けることもできませぬ」


「水枝の内で何を担っている者かは」


「それも技能のうちとして記していただきたい」


「水枝の持ち場から外してよいかどうかは」


「それは水枝で御判断ください。こちらが求めるのは、出す者の人別です」


 早坂の言葉には、役目表という語も、そこにある名や技能への言及もなかった。出す者の人別を添えよと、持参した文の求めを繰り返している。


「三日の間に評定が定まらなければ」


「期限が過ぎたものとして持ち帰ることになります」


「米と塩を止め、敵対と見なし、藩境へ進むと」


「書面のとおりです」


「早坂殿が、その処置を決めるのですか」


「決めませぬ。私は水枝の御返答と、添えられた人別控を持ち帰る役です」


 早坂は脅しを足さなかった。文の内容を軽くもしなかった。


「御返答が三日目に遅れれば、私が待ったことで期限を延ばしたとは扱われません。人別控がなければ、二百人を出す御意思があるとも扱われぬでしょう」


「うむ」


「義政公の御裁可を待たれるのであれば、その旨を持ち帰ることはできます」


「裁可を待つとの返答を、承諾としては受け取らないのですな」


「受け取れませぬ」


 久馬は席を立った。


「早坂殿には、使者控でお待ちいただきたい」


「三日の内であれば、待ちます」


 早坂が頭を下げた。


 取次の間を出た久馬は、評定前控へは向かわなかった。


 義政へ伺いを上げ、三原を通して評定を整えれば、早坂を待たせたまま、いくつもの意見を聞くことになる。会津との信義、米と塩を止められた後の暮らし、藩境へ兵が入る危険。いずれも問わなければならない。


 その間も、人別控を作る時間だけが削られる。


 評定で応じると決まれば、役目表を開けという命が出る。封を解き、名を写す。役目表を使わず人数帳から取るとしても、銃兵八十名と軍夫百二十名を選ぶため、家と年齢と技能を照らすことになる。


 誰を選ぶかを議する前に、誰の名を選べる状態へするかが決まる。


 その順を、久馬は評定へ渡さなかった。


 記録奉行詰へ戻り、外向けの回答を書き始めた。


 初めに、人別控は添付せぬ、と書いた。


 次に、水枝で働ける者が何を担っているかを、名ではなく役ごとに分けた。負傷者の救護。薬と暮らしの食の運搬。会津往還と越後境往還の道路と橋の確認。町場の火消し。避難する者と家族の照合。城と宿の間の連絡。夜番と町場の維持。


 それぞれの人数は、封じる前に作った別紙の集計から取った。個人の氏名、年齢、家、技能は写さなかった。役を担う者を外征へ出せば、水枝で何が止まるかだけを行ごとに記した。


 救護から抜けば、領内へ戻った負傷者の手当てが遅れる。


 道路の確認から抜けば、避難する荷車と次の救護組へ、損じた道を伝えられない。


 火消しから抜けば、町場と宿で火を抑える者が欠ける。


 運搬から抜けば、薬と暮らしの食も、歩けない者を載せる荷車も動かせない。


 連絡から抜けば、退く条件が成立しても、次の組へ届かない。


 町場から抜けば、残った家族と入ってくる避難民を支えられない。


 久馬は一行ずつ、個人名を出さずに書き切った。


 最後に、回答の中心となる文を書いた。


 外征へ出せる余剰人員なし。


 続けて、動ける者の多くがすでに城内外の持ち場へ就き、そこから外征へ回せば、上に記した働きのいずれかが欠ける、と書いた。若年者だけを除いたとも、年長者なら出せるとも記さなかった。


 書役へ読み上げさせた。


「人別控を添えず、二百人とも出さぬ御返答になります」


「そう読めるか」


「はい」


「水枝には動ける者が一人もいない、とも読めるか」


 書役は回答へ目を戻した。


「役ごとの人数と、残す理由がございます。動ける者がいないとは読めませぬ」


「若者だから外したと読めるか」


「年齢を記しておりません。若者を外したことも、年長者を出すことも書かれておりません」


「架空の名を入れたように見える箇所は」


「ございません。個人名は一つもありません」


 久馬は書役から回答を受け取った。


 本来なら、ここから三原へ回し、評定を経て義政の裁可を受ける。外へ出す水枝の回答を、一奉行だけで決める職分ではない。


 久馬はその順を知っていた。


「清書せよ」


 書役が顔を上げた。


「評定へ上げる分でございますか」


「外へ出す回答だ」


「上様の御裁可は」


「まだない」


「三原様の御決裁も」


「ない」


 書役の手が膝の上で止まった。


「それでは、御署名をどなたの名で」


「岩井久馬」


「記録奉行として、でございますか」


「役職は記す。だが、藩命を受けて署名した形にはするな。裁可前に岩井久馬が決めたことが分かるようにせよ」


「私が清書してよろしいのでしょうか」


「清書を命じたのも私だ。お前の判断で外へ出すのではない」


 書役は筆を取った。


 清書の間、久馬は評定を待たなかった。三原へ先に使いを走らせることもしなかった。


 出来上がった回答を最初から読み、役ごとの人数と、内部へ残さなければならない理由を確かめた。人別控が添えられていないことも、欄の落ちではなく、提出しない回答として明記されている。


 久馬は筆を取った。


 署名を書く速さは、普段と変えなかった。


 岩井久馬。


 書き終えた名を、役職の陰へ置かなかった。決裁を経た者の列も作らなかった。


「控えを残せ」


 書役が写しを作った。久馬は原文と控えを一行ずつ照らし、原文を封じた。


 書役は発送の覚えへ、宛先、原文一通、回答控え一通、差出人、藩議前・上様御裁可前であることを記した。最後通牒を辰の刻に受け取ったことと、その受取から三日を数えることも照らした。


「早坂殿へ渡す。宛先は福島の同盟軍事局。受け渡したところまでを発送の記録へ残せ」


「三原様へは」


「発送の後で私が申し上げる」


 書役は回答を両手で受け取った。


「呼び戻す御沙汰が出た時は」


「その時は、誰が呼び戻すと命じたかを残せ」


 久馬は書役とともに使者控へ向かった。


 早坂は呼ばれると立ち、取次の間へ移った。久馬は封じた回答を差し出した。


「水枝からの返答です」


「人別控は」


「添えていません」


 早坂は封を受け取る前に、久馬を見た。


「二百人を出さぬとの御返答ですか」


「回答に記したとおりにござる」


「義政公の御名は」


「ござらん。記録奉行岩井久馬が署名と致した」


「水枝の御評定を経たものではないと」


「経てはおりませぬ」


 早坂は手を伸ばさなかった。


「私が持ち帰れば、福島では水枝から届いた返答として扱われます。岩井殿お一人の私文として退けられることもあり得ます」


「承知しております」


「御評定を待つことは」


「待ちません」


「理由を伺っても」


「人別控を作るために、若い者の名を外へ出せる形へすることになるからです」


「名を出さず、人数だけを後から決めることもできましょう」


「誰を出すかを決めるためには、先に名を選べるものとして並べます。私は、それを続けさせません」


 早坂はなお封を見た。


「その判断を、義政公の御意思として持ち帰ることはできませぬ」


「そのように申してはおりません。署名を見たまま持ち帰りいただきたい」


 早坂は封を受け取った。


「承知しました。岩井久馬殿の署名による水枝からの返答として、福島へ持ち帰ります」


 久馬は受け渡したことを、同行した書役に記させた。受取人は早坂右近、原文を渡したのは午の刻を過ぎてからと記された。早坂が使者控へ戻り、出立の支度に入るまで見届けた。


 回答は久馬の手を離れた。


 片倉元信が城へ呼ばれた時、最初に見たのは、自分の名が書かれた料紙だった。


 記録奉行詰の机に、人別控の未成稿が置かれている。表題と、氏名、年齢、家、技能の項目があり、最初の氏名欄に片倉元信とある。年齢も家も技能も、その先にはない。名の下に落ちた墨と、余白の停止記録が残っていた。


 その隣には、封じた内向けの役目表原本が置かれていた。


 封紙の継ぎ目には印が残り、開かれた跡はない。元信の目は、未成稿に置かれた自分の名へ戻った。


「私の名がある」


「役目表から、お前一名を書き移したところで止めた。役目表から名を消したのではない」


「では、なぜ私へ先に言わなかったのです」


 久馬は答えず、最後通牒の写しを元信へ向けた。


「銃兵八十名、軍夫百二十名。三日以内に楢木宿へ集める。人別控には氏名、年齢、家、技能を記す」


 元信は四つの項目を上から見た。


「楢木宿では、私に運搬組を預けました。退くと決めたのも私です。帰った者も、帰せなかった清之助も、その結果は私が引き受けました。それなのに、自分の名を外へ出すかどうかだけは、私より先に決めるのですか」


「福島へ渡せば、十八歳、片倉家、運搬組の責任者、道を知る者として、銃兵か軍夫を選ぶ材料になる」


「私の名を福島へ出せと申しているのではありません。なぜ、自分の名のことを私へ聞かなかったのかと申しています」


「聞かなかった。私が筆写を止めた」


 元信は、まだ空いている年齢、家、技能の欄へ目を移した。


「また、若いというだけで、私より先に決めたのですね」


「若いというだけで決めたのではない。だが、お前より先に決めたことは違わぬ」


「評定と、上様の御裁可は」


「待たなかった。回答はもう発送した」


 元信は人別控の未成稿へ手を置いた。


「私が反対しても、書き直さないのですか」


「書き直さぬ」


「なら、私を呼んだのは、知らせるためだけですか」


「お前の名を消したのではなく、福島へ渡さなかったことを知らせるためだ。私が先に決めたことも、お前が異を述べたことも記録へ残す」


「それで、正しいことになるのですか」


「ならぬ。評定も裁可も経ず、職分を越えてした、私の判断だ」


 元信は封じた役目表へ目を移した。


「清之助の名は」


「役目と死亡の記録に残した。徴発の人別控には使わぬ」


「清之助はもう徴発されません。私とは違います」


「違う」


 久馬はそれ以上を重ねなかった。元信も、清之助の名と自分の名を同じには受け取らなかった。


「役を預け、判断させ、その結果を負わせる時には、私を一人前として扱う。それなのに、自分の名をどうするかは、私へ聞かずに決める。そのことも残してください」


「残す」


「私は、岩井様のなさったことに納得したわけではありません」


「分かっている」


「私は、次も自分で見て決めます」


 元信は立ち上がり、戸口で未成の人別控を振り返った。


「清之助の名を、あの紙へ書かなかったことは分かります」


 久馬は答えなかった。


「私の名を福島へ出さなかったことまで、分かったとは申しません」


 元信は一礼し、記録奉行詰を出た。


 自分の名が消えたとは思わなくなっていた。だが、久馬に預けてよいとも思わなかった。


 その二つを一つの答えにしないまま、城を出た。


 久馬が岩井家へ戻った時、沙江は書きつけの間で父の手を見た。


 指には墨が残っていた。城から持ち帰ったのは、いつもの私的手控と、薄い包み一つだった。内部役目表の原本はない。


「父上。お夕餉を先になさいますか」


「先に、残してもらいたいことがある」


 久馬は書きつけの間へ入り、手控を開いた。


 そこには、最後通牒を受け取ったことだけが、すでに久馬の字で記されていた。銃兵と軍夫の人数、三日の期限、楢木宿、人別控、拒否した時の処置。沙江は初めから読み、父がどこまで書いて帰ったかを確かめた。


 沙江は受取の記載へ、辰の刻とあることを確かめた。三日の起算も、その刻からと父の字で添えられていた。


「人別控は作ったのですか」


「片倉元信一名を書き移したところで止めた」


「役目表は」


「原本を封じ、記録奉行詰の文庫へ戻した。私の指図なく閲覧も転記もさせぬ」


「名は」


「消していない」


 沙江は父の顔より先に、持ち帰った包みを見た。


「こちらは」


「外へ出した回答の控えだ」


「原文は、どなたがお持ちですか」


「早坂殿へ渡した。福島の同盟軍事局へ持ち帰る」


 久馬は沙江の前へ控えを置いた。


「発送した刻は、城の記録にある。ここにも同じ刻を残せ」


 沙江は筆を取った。父が読み上げる順に、短く行を分けた。


 宛先、福島の同盟軍事局。


 人別控、添付せず。


 回答本文、「外征へ出せる余剰人員なし」。役ごとの人数と、水枝へ残す理由を付す。


 署名、岩井久馬。


 受取、早坂右近。午の刻を過ぎて引き渡し。


 同文の控え一通を水枝に残す。


 人別控は片倉元信一名で筆写停止。停止の刻、筆写した書役、止めた岩井久馬の名を未成稿へ記す。写し・反故なし。記録奉行詰に留める。


 内部役目表原本は封じ、記録奉行詰の文庫に収める。


 沙江は書き終えても、筆を置かなかった。


「上様の御裁可を受けた刻は」


「ない」


「三原様の御決裁は」


「受けていない」


 沙江は、辰の刻の受取と午を過ぎた発送を同じ頁で見直した。その間に、藩議も裁可も入っていない。


 父を守るだけなら、後の裁可を待ってから綴る方がよかった。しかし、それでは父が先に署名した刻が見えなくなる。沙江は空白にせず、続けて書いた。


 藩議と上様の裁可を経ず、岩井久馬の判断で発送。


「これでよい」


 久馬が言った。


 沙江は筆を置いた。


「父上が、書かせたことも残しますか」


「残せ」


 沙江は末へ、岩井久馬の求めにより岩井沙江が記した、と置いた。自分の名も外さなかった。


「三原様は、まだ御存じないのですか」


「これから申し上げる」


「呼び戻すよう命じられたら」


「従うかどうかも、そこで決める」


 沙江は父の手を見た。署名を書いた速さは見ていない。それでも、指に残る墨は、ためらいなく筆を走らせた形で乾いていた。


「父上」


「何だ」


「控えは、どこへ置きますか」


「私的手控とともに、書きつけの間へ置く。城へ戻すのは原本ではない。控えの所在も、いまの行へ加えよ」


 沙江はそのとおりにした。


「役目表の封を、あとで解くことはありますか」


「水枝の内で、役を確かめるためならある。外へ渡すためには、いまは解かせぬ」


「父上がお戻りにならない時は」


 久馬の目が上がった。


 沙江は言葉を引かなかった。


「文庫へあることを、私が知っているだけになります」


「三原様へ伝えよ。封じた者が私であることも、開く権限をお前へ移したのではないことも」


「はい」


 久馬は立ち上がった。


「夕餉は、戻ってからにする」


「お帰りになる刻は」


「申せぬ」


 沙江は、帰るまで待つとは言わなかった。父が戻る時刻を約せないことも、その日の事実だった。


 久馬が廊下へ出ると、離れの方から弦が来た。家の羽織を着て、前室へ返す湯の器を持っている。久馬の顔を見たが、城で何があったかは尋ねなかった。


「岩井様。お出かけですか」


「城へ戻る」


「はい」


 弦は道を空けた。


 沙江は書きつけの間の戸口から、二人を見た。


「弦様」


 呼ぶと、弦が振り返った。


「何でしょう、沙江様」


「その器は、私が勝手へ戻します」


「私が持てます」


「では、一緒に参ります」


 沙江は手控を閉じた。父の越権を記した一行は、消さずにそこへ残した。


 久馬は水枝城へ戻り、年寄・家老詰へ入った。


 三原主膳は、久馬が差し出した回答の控えを末まで読んだ。読み終えると、机上へ置かず、手に持ったまま久馬を見た。


「岩井」


「はい、三原様」


「誰の権限で、これを出した」


「私の判断です」


「問うているのは、誰が許したかだ」


「誰にも許されておりません」


「上様へは」


「伺っておりません」


「評定は」


「開いておりません」


「私へも知らせずに出したな」


「はい」


 三原は控えの末へ目を戻した。


「人別控は」


「作成を止めました」


「内部役目表から移すよう命が出たのか」


「片倉元信一名が書き移されたところで、私が止め、原本を封じました」


「焼いたのではあるまいな」


「記録奉行詰の文庫にあります。名も、役も、清之助の記録も消しておりません」


「ならば、封を解けば作れる」


「作れます」


「おぬしを役から外し、別の者へ命じれば」


「作れます」


 三原は回答の控えを机上へ置いた。


「それを承知で、なぜ先に出した」


「評定へ人別控の作成を委ねれば、出すか否かを決める前に、誰を出せるかを並べることになります」


「評定は、並べた名を出さぬと決めることもできる」


「できます。ですが、外へ渡せる形へした名は、次の要求にも使えます」


「だから、上様の御判断を待たずに、おぬしが止めたか」


「はい」


「米と塩を止められれば、誰が責めを負う」


「私です」


「藩境へ兵が入れば」


「私です」


「負えると思うか」


「思いません」


 三原の眉が動いた。


「負えぬと知って、藩の返答を決めたのか」


「はい」


「それは責任ではない。藩を自分の判断へ巻き込んだだけだ」


「そのとおりです」


 久馬は言い逃れなかった。


「早坂殿へ急かされたのか」


「いいえ」


「白井殿に出せぬと算盤を示されたか」


「今回の回答は、白井殿に作らせておりません」


「小原殿が若者を隠せと」


「申しておりません」


「戸ヶ崎か」


「知りません」


 三原は一つずつ、久馬が責任を移せる先を閉じた。久馬はどの名も使わなかった。


「早坂殿は、もう発ったか」


「出立の支度に入りました。回答は手を離れております」


「呼び戻せば間に合うか」


「いま使いを走らせれば、間に合うかもしれません」


「戻した後は」


「人別控を添えるか、裁可を待つと返すか、無回答とするか。改めて御評定をお願いいたします」


「おぬしの回答を回収し、人別控を作らぬまま、同じ文を上様の名で出すこともできる」


「できます」


「ならば、なぜ待たなかった」


「上様の御名を先に使って、若い名を出さぬ責任から退きたくなかったからです」


 三原は久馬を見た。


「きれいに申すな。上様へ御裁可を求めれば、異なる御判断もあり得た。それを、おぬしが先に塞いだのだ」


「はい、三原様」


「私が、人別控を出すべきだと申したかもしれぬ」


「その機会も奪いました」


「上様が、米と塩を守るために一部を出せと命じられたかもしれぬ」


「その御判断を受ける前に出しました」


「ならば、これは若者を守っただけの文ではない。主命を待たず、家老の議を奪い、水枝の外向きを一人で定めた文だ」


「はい」


 三原は控えを裏返さなかった。久馬の署名を上へ置いたまま、机の端へ寄せた。


「回答を呼び戻せば、おぬしの越権は消えると思うか」


「消えません。発送した記録と控えが残ります」


「家にも残したな」


 久馬は顔を上げた。


「なぜ、そう思われます」


「おぬしは、自分の名を外した時ほど、別の場所へ残す」


「沙江に、発送の刻、宛先、控え、封じた原本の所在を記させました。藩議と裁可を経ていないことも」


「娘に、おぬしの罪を守らせるか」


「消せないようにしました」


 三原は机を離れ、取次を呼んだ。


「早坂殿を呼び戻す使いは出すな」


 命は短かった。取次が下がるのを待って、三原は久馬へ向き直った。


「おぬしの文を回収すれば、次に出すのは、名を添えた承諾か、期限を遅らせる文になる。福島は、その間に人別控を求め続ける」


「はい」


「だが、このままでは、記録奉行一人の私文として退けられる」


 三原は書役を呼ばせた。


「岩井の回答を水枝の返答として追認する文を作る。先の回答は回収せぬ。署名も替えぬ」


 書役が三原と久馬を見た。


「上様の御名でございましょうか」


「違う。御裁可を受けたことにはするな。筆頭家老三原主膳が、発送後に知り、水枝の回答として引き受けたと記せ」


「藩印は」


「用いる」


「先の回答へ押し加えますか」


「加えぬ。別の文だ。岩井が先に出した事実を変えるな」


 書役は料紙を広げた。


 三原は回答の文言を直させなかった。人別控を添えないことも、「外征へ出せる余剰人員なし」としたことも、そのまま追認する。米と塩の停止、敵対とみなされる危険、藩境への進駐を承知したうえで、水枝の返答として受けると記した。


「三原様」


 久馬が呼ぶと、三原は書役から目を離さなかった。


「何だ」


「追認なされば、三原様にも責めが及びます」


「それを、おぬしが言うか」


 久馬は口を閉じた。


「岩井。おぬしが先に越えたことを、私は認めぬ。処分も、上様への申し開きも残る」


「はい、三原様」


「だが、呼び戻した文の代わりに若い名を出すことも、私はせぬ」


 三原は書役が作った文を読み、自分の名を署した。藩印を用いるよう命じた。書役はその原文の控えを一通作り、読み合わせた。発送の覚えには、起案者は書役、決定者は三原主膳、宛先は福島の同盟軍事局、原文一通を使者へ渡し、申の刻に発送したことを記した。


 追認文の控えは年寄・家老詰の文庫へ留めた。原文は押印されたまま、久馬の回答を追う道へ出た。


 久馬の回答控えには久馬の署名だけが残り、申の刻に出た追認文には三原主膳の名と藩印があった。


「上様へは、私から先に申し上げる」


「私も参ります」


「来い。だが、私の追認を、おぬしへの許しと申すな」


「申しません」


「人別控の未成稿と、役目表を封じた記録も持て。名を消したのではなく、何を止めたかを示す」


「承知しました、三原様」


 三原は机上の控えを久馬へ返さなかった。


「これは、ここへ置く」


「はい」


「おぬしが先に出した回答の控えとしてだ。私の追認文と一つに綴じるな」


 久馬は頭を下げた。


 三原は久馬の回答控えを年寄・家老詰へ残し、追認文の控えとは別の綴りへ収めさせた。久馬の署名は消されず、午を過ぎて渡した時刻も書き替えられなかった。


 追認文が出た後も、福島から米と塩の停止を解く返事はない。藩境へ兵が進むかも分からない。


 記録奉行詰では、人別控の未成稿が片倉元信一名のまま留まり、内部役目表は封を切られず文庫にあった。


 それから幾日かを経て、会津往還から別の報が届いた。


 書役衆控で受け取られた覚えは、二本松の城下で兵が足りず、少年たちまで動員されたと伝えていた。


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