第7話 帰る役
「片倉元信。楢木宿まで薬と暮らしの食を運ぶ組を、お前に預ける」
久馬は、出立表の下に置かれた名を元信へ示した。
清倫館の門を閉じた春は過ぎ、季節は初夏へ入っていた。その朝、門は呼ばれた者を通す間だけ開き、講は再開されていなかった。小原は役を渡せる者だけを呼び、一人ずつ門内へ入れた。
机を挟んで久馬と白井主馬が座り、小原は呼び入れた若者を壁際へ並ばせていた。戸ヶ崎弦の姿はなかった。
元信は自分の名より先に、上から書かれた行を読んだ。
出立の用向き。組の責を負う者。帰る刻限。退く条件。交代する者。帰着を見届ける者。
その下へ、初めて人の名が並んでいた。
「氏名は、なぜ下なのですか」
「名を軽くしたのではない」
久馬が答えた。
「誰のために出て、誰が退くと決め、いつまでに帰すかを定めぬまま名だけを置けば、その名はどこへでも連れて行かれる。六つを先に書けば、誰が命じたかを後から隠せぬ」
出立の用向きには、楢木宿まで薬と暮らしの食を運び、傷ついた者と戦を避ける者を領内へ戻すこと、道と橋の状態を伝えることが記されていた。責を負う者は片倉元信。帰る刻限には、日が傾く前に楢木宿での受け渡しを打ち切り、日が落ちるまでに城下へ戻ること、遅れが見込まれれば連絡の者を先に返すことが記されていた。
退く条件には、武装した退却兵が宿へ入り、会津方からの銃声が宿内でも続けて聞こえるようになった時、荷の受け渡しを打ち切る、とあった。戦いの勝ち負けや、誰の命を待つかは書かれていない。
交代する者の名も、帰着を見届ける小原の名もあった。
「条件に至らぬうちに、私が危険だと見た時は」
「責任者として退け」
白井が答えた。
「条件は、そこまで行かなければ戻ってはならぬという線ではありません。少なくともそこへ至った時、迷いを理由に留まらぬための線です」
「私が誤って早く戻れば」
「見たことと判断したことを分けて報告せよ」
小原が言った。
「戻ったというだけで、臆病とも、役を捨てたとも見なさぬ。早すぎたなら、道の報とお前の判断を出立表に照らす」
「命じた側とは」
元信は久馬を見た。
「この出立を藩務としたのは上様だ」
久馬は言った。
「中立の藩命に基づき、領内と楢木宿までの非武装救護として定めた。役の組み方と出立表の文言は、私が白井殿、小原殿と詰めた。私の名も原本に記してある」
「戸ヶ崎が作ったのではないのですか」
「戸ヶ崎は、戻って知らせる者が要ると申した。誰を出し、何を運ばせ、どこで退かせるかを決めたのは戸ヶ崎ではない」
久馬は元信の名がある行へ指を戻した。
「お前へ命じるのは水枝だ。失敗した時の責を、岩井家の客人へ預けるつもりはない」
元信は返事をしなかった。
清倫館の門を閉じたあの日、久馬は役を作る責任を負うと言った。それから白井が道と人の重なりを見直し、小原が一人ずつ、何を担わせられるかを見定めてきた。
内向けの役目表には、楢木宿への運びだけでなく、負傷者を受ける者、避難してきた者の名と家を照らす者、道と橋を見る者、火を消す者、連絡を運ぶ者、戻らぬ者と傷ついた者を記す者が分けて置かれていた。外へ渡すための人別控ではなく、水枝の内で役を渡すための表だった。
そこへ元信の名があり、新田清之助の名もあった。
「新田清之助」
小原が呼んだ。
「へえ」
清之助は列から一歩出た。
「馬荷と荷縄を任せる。荷が偏った時は、責任者へ告げて止めよ。急いでいることを理由に、緩んだまま進ませるな」
清之助は返事をする前に、役目表の自分の名を見た。
「オラに、でございますか」
「お前に頼む。前に篠先生のところへ運んだ荷と、仮橋で戻した荷車を、小原殿から聞いた」
久馬が答えた。
清之助の口元がわずかに開いた。すぐに閉じ、頭を下げた。
「承りました」
「刀は持たせぬ」
小原は元信たちを見渡した。
「薬と食を運ぶ者も、道を見る者も同じだ。武器、軍勢へ渡す兵糧、戦う者は運ばない。途中で加勢を求められても、この役から外れるな」
元信は腰へ手をやった。自分で外し、小原の前へ置いた。
「武器を持たずに、退却兵と出会った時は」
「争わず退く」
久馬が言った。
「そのために、退く条件と責任者を置いた」
「荷を奪われそうになってもですか」
「荷のために人を残すな。運べなくなった物は損じとして記す。人の代わりにはしない」
元信の後ろで、清之助が預けた脇差から手を離した。
白井は荷の割り振りを記した控えを広げた。薬は篠が出せる分だけで、包みの間には空きがあった。食も、宿へ集まる者すべてへ足りる量ではない。軍勢へまとめて渡さず、避難する家族と負傷者がその日の暮らしをつなぐために使うものとされた。
「荷が減れば、帰りに負傷者を載せる場所ができます」
白井は清之助へ言った。
「ですが、初めから空きを作るために薬を減らしたのではありません。これ以上、城下から出せぬだけです」
「足りねえ時は、誰に渡すかオラたちが決めるんですか」
「傷を診る者と、宿で家を照らす者が決めます。運ぶ者が、先に人を選ばないでください」
「へえ」
「帰りの荷が空でも、役を果たさなかったことにはなりません。負傷者を載せ、歩けぬ者を支えるために空いたものです」
清之助は荷の控えを見たあと、元信へ向いた。
「元信様。止める時ァ、先に言ってくなんしょ。馬ァ歩かせたまま縄を直せば、後ろが詰まります」
「分かった。お前が止めろと言えば止める」
「オラが決めていいんですか」
「荷のことは、お前の役だ」
元信が答えると、清之助は今度こそ笑った。大きく顔を崩さず、肩を一度下げると、すぐ馬の荷へ目を戻した。
出立表の原本は小原が預かり、帰着を見届けた後に記録奉行詰へ戻すことになった。元信には、用向きと退く条件を抜き出した写しが渡された。内向けの役目表は久馬が城へ戻し、若者の手には渡さなかった。
小原は一人ずつ名を呼び、担うことを言わせた。そのたびに名を記した木札を一枚渡し、受けた者は懐へ収めた。清倫館の講を再開する言葉はなかった。呼ばれなかった館生が門前へ来ても、今日は藩務に就く者だけを通すと告げた。
元信は門を出る前に、久馬へ向き直った。
「戻れば、次もこの役を命じられますか」
「今回の帰着と報告を受けてから決める」
「約束はしないのですね」
「一度役を命じた者を、次も当然のように使うことはせぬ」
久馬は元信から目を逸らさなかった。
「だが、決めた条件で戻った者を、役を捨てたとは記さぬ。それは約す」
元信は頭を下げた。
門外には二頭の荷馬が待っていた。薬と暮らしの食は二頭へ分けて積まれ、清之助はすでに縄を引き、張りを見ていた。薬の包みが硬い荷へ当たらぬよう位置を変える。縄は新田家から持ち出したものではなく、輸送組の道具だった。
「元信様。こちら、少し待ってくなんしょ」
清之助は結び目を一度解いた。急かす者はいなかった。底へ回した縄を引き直し、反対側から荷を押した。偏りがないところで結び目を締めた。
「これで行けます」
「新田清之助」
元信は、役目表で呼ばれたのと同じように名を呼んだ。
「荷を頼む」
「へえ」
一行は朝のうちに会津往還へ出た。
城下を離れても、道を会津方へ進む者は少なかった。向こうから来る者は、着の身着のまま歩く者と、持ち出した家財を荷車へ積んだ者に分かれていた。負傷者を載せた車もあり、引く者が一人では足りず、家族が後ろから押していた。
元信は薬と食を運ぶ列を崩さず、歩けぬ者のいる場所を連絡役へ記させた。道を塞ぐ荷車には若者を二人向かわせ、通れる側へ寄せた。輸送組の後ろでは、救護組が負傷者を拾いながら進んでいた。楢木宿までの道を見る者が先へ出て、戻るたびに道の傷みを元信へ告げた。
前に無断で出た時は、誰へ何を知らせるかも決めていなかった。今日は道を見た者が連絡役へ場所と状態を告げ、連絡役が短い覚えに書き留めていた。
道の脇に座る者が増すほど、楢木宿へ着いた時に何を優先するかを決めなければならない。
途中で、馬の一頭が歩みを乱した。
「止めてくなんしょ」
清之助の声に、元信はすぐ手を上げた。
一行が止まると、清之助は馬の背へ寄った。片側の食の包みが下がり、反対側の薬を押し上げている。縄は切れていない。
「結び目でねえです。中の荷ァ寄ってます」
「ここで全部下ろすのか」
「上だけ直せば、またずれます。急げば、薬の方ァ落とします」
「直せ」
元信は後ろから来る荷車を先へ通した。同行の若者が、先を急がなくてよいのかと道の向こうを見た。
「清之助が終えるまで動かない」
元信が言うと、若者は馬の反対側へ回り、下ろす荷を受け取った。
清之助は重い包みを底へ移し、縄が角へ強く当たるところへ古布を挟んだ。すべてを載せ直してから、馬を二、三歩だけ進ませる。荷が揺れても片側へ落ちないのを見て、元信へうなずいた。
「行けます」
清之助が縄を締め終えても、元信は遅れを取り戻そうと馬を急かせなかった。一行は同じ歩幅で先へ進んだ。
昼に近づくころ、楢木宿へ着くと、人の流れは道いっぱいに広がっていた。宿を離れる家族と、宿へ運び込まれる負傷者が、同じ道を反対へ進んでいた。武装した者も混じっていたが、列を整えた軍勢ではなかった。泥のついた者、肩を借りる者、持っていた物を失った者が、前の者へついて歩いていた。
元信は宿の手前で一行を止めた。
「出立表のとおりに分かれる。荷は清之助に任せる。道を見る者は会津方へ出すぎるな。銃声を聞いた場所を、戻って伝えろ。連絡の者は、いつでも城下へ返せるところにいろ」
誰も刀を持っていなかった。
宿へ入ると、薬を待っていた者が先に集まった。自分の家族へ回してほしいと訴える者もいれば、軍勢へ渡せばもっと多くを助けられると言う者もいた。
「これは兵糧ではありません」
元信は答えた。
「傷を負った者と、戦を避けている家のために運びました。軍勢の荷としては渡しません」
「傷ついた兵はどうする」
「傷ついた者として手当てを受けてください。武器を持って戻るための荷は出しません」
相手がどちら方の者かは尋ねなかった。武具を外され、血を止めるために横たわった者は、ほかの負傷者と同じ場所へ運ばれた。
薬を受ける側が傷の重さを見て包みを分け、その間に清之助たちは食を下ろした。袋ごと一か所へ積まず、家を失って移る者へ渡す分と、歩けぬ者へ食べさせる分を分ける。量が足りないと分かっても、輸送組が勝手に薬の包みを食と引き換えることはしなかった。
荷の受け渡しと並んで、宿に留まる者の名と家を照らす作業が進んだ。口頭で名だけを聞かず、どこから来て、同じ家の誰が一緒かを聞き取る。家族と離れた者がいれば、最後に見た場所を連絡の覚えへ加えた。
年老いた男を探す女がいた。男は歩けず、別の荷車へ載せられたらしいが、どの車か分からない。照合を担う若者が、先に受けた覚えの中から同じ家の者を見つけた。男はすでに宿の外れまで運ばれ、城下へ向かう順を待っていた。
元信は女を一人で走らせず、連絡の者へ場所を伝えさせた。薬を下ろし始めた一頭を、帰りに歩けぬ者へ使うよう清之助へ命じた。
「薬の荷ァ下ろし切ってからでねえと、乗せられません」
「どれほど掛かる」
「急いで崩すより、受け取る方をこちらへ寄せた方が早えです」
「そうしろ」
清之助は荷を抱えて宿の奥へ往復せず、受け取る者を一か所へ集めた。薬を載せてきた一頭の背が空くと、宿で負傷者を見ていた者が敷物を掛け、歩けぬ者を支えて乗せた。同行の若者が馬の脇に付き、身体が傾かぬよう支えた。もう一頭には、帰路で負傷者や避難する者へ渡す食を残した。
宿の別の端で、煮炊き場からこぼれた熾と火の残る炭が、積まれた藁の下へ入った。煙が上がると、火消し役の若者が水桶を取り、藁を引き離して炭へ水を掛けた。近くにいた館生も加わったが、元信は輸送組を全員向かわせず、薬と食の受け渡しを続けた。
道を見に出た者が戻った。
「銃声はありました。ですが、まだ宿では聞き分けにくいです」
「武装した者は」
「会津方へ向かう者より、こちらへ来る者が増えています」
「もう一度だけ見ろ。宿から声の届くところを離れるな」
受け渡しの残りを数える。薬はすでに宿の手当てへ移り、一頭に歩けぬ負傷者が乗っている。もう一頭の背には食が残っていた。すべてを下ろすまで留まれば、その時間だけ退くのが遅れる。
「清之助。あとどれだけ動かせる」
「残りを一度に下ろせば、受ける方で混じります。けど、帰りに持つ分を決めてもらえれば、すぐ締め直せます」
食を扱う者が、宿へ残す分を示した。元信はそれ以上を下ろさせなかった。帰路で負傷者や避難する家族へ渡せる分を残し、清之助へ締め直すよう命じる。
「全部置いていかねえんですか」
近くの男が言った。
「軍勢が来れば取られるぞ」
「その前に、ここを離れる方へ使います」
「兵が守らなければ、お前らも帰れねえ」
「戦うための荷にはしません」
男は言い返したが、元信はそれ以上応じなかった。
会津方から、武装した者たちが宿へ入り始めた。
初めの者は歩いていた。次に来た者は後ろを振り返り、宿の者へ道を空けろと怒鳴った。隊を組み直す者も、追ってくる相手を説明する者もいない。避難する家族が道の端へ押され、荷車の轅が家の軒へ当たった。
宿の中にいた者が、一斉に荷を持ち上げた。
元信は輸送組を馬の周りへ集めた。
「まだ退くな。道見が戻るまで、帰りの列を作る。歩ける者を先に、負傷者と荷車を中央へ。後ろを見る者も決める」
「元信様、食の荷ァ一つ、締め切ってません」
清之助が言った。
「締めろ。終わったら帰りの列へ入れ」
「へえ」
清之助は馬の背へ縄を回した。手は急いでいたが、結び目だけを強く引かなかった。荷の底へ手を入れ、偏りを直してから締める。
元信は照合の覚えを持つ者へ、家族の別れた者を先に確認させた。先ほどの女は、年老いた男の載る荷車へたどり着いていた。ほかにも、子を探す者と、親を待つ者がいた。全員を宿へ残して探し続けることはできない。最後に見た場所と、先に退いた者の行き先を連絡の覚えへ残し、次の救護組へ渡すことにした。
日が傾く前、道見の者が人をかき分けて戻ってきた。
「片倉様、宿の中でも聞こえます。先ほどより近いです」
その声の後ろから銃声が届いた。
初めは一つだった。宿の物音へ紛れたが、間を置かず続いた。どちらから撃ったものかは見えない。武装した退却兵が一斉に振り返り、道のこちら側へ人を押し始めた。
元信は、会津方の道を見た。
「退く」
近くの若者が聞き返した。
「いまですか」
「条件がそろった。受け渡しを止める。連絡の者は先に城下へ戻り、救護組へ知らせろ。宿に残る者の名と家の覚えも持て。ほかは帰りの列へ入れ」
「まだ荷が」
「荷のために残るな。清之助、動かせるか」
「動かせます」
清之助は最後の縄を締め、馬の頭を城下へ向けた。
「落ちた物を拾いに戻るな」
元信は全員へ告げた。
「役はここで終わりではない。小原先生の前へ帰り、誰が戻ったかを知らせるまでだ。歩ける者から進め。帰りの列へ入れた荷車を置いていくな」
逃げるように走らせれば、歩けぬ者が残る。元信は先頭だけを急がせず、荷車が動くのを待った。歩けぬ負傷者を乗せた馬は同行の若者が引き、清之助は食を残した馬の引き綱を取った。若者たちは二頭の間へ入り、避難する者に道を譲りながら城下の方角へ向きを変えた。
武装した者が、馬の背の食へ手を伸ばした。
「置いていけ」
「負傷者と避難する者へ渡す荷です」
「いま前で戦っている者が食わねば、道ごと失うぞ」
男は縄の下から食の小包みを一つ引き抜いた。同行の若者が足を止めかけたが、元信は荷へ手を掛けなかった。
「追うな。清之助、進め」
清之助は馬を引いた。元信たちは小包みを取り返そうとせず、列を動かした。
宿を出ても、銃声は遠ざからなかった。道の曲がりごとに人が詰まり、前へ進んだ者がまた止まる。後ろから来る退却兵は、避難する者の荷車を追い越そうとして道の端へ寄せた。
「詰めるな。前の荷車が動くまで待て」
元信は同行の若者を道の左右へ置いた。誰かが列を外れれば名を呼び、戻るところまで見届けさせる。
先ほど照合した家族の一人が、宿へ荷を置いてきたと引き返そうとした。
「戻れません。荷の場所は覚えへ残します」
「家の物ァ、あれしかねえ」
「取りに戻れるとは約せません。置いた場所と持ち主の名は、覚えへ残します」
元信は腕をつかまず、進む側を空けた。家族が先へ声を掛け、引き返しかけた者を呼んだ。その者は宿を振り返ったが、やがて列へ戻った。
連絡の者はすでに先へ出ている。救護組がどこまで来ているかは分からない。帰る刻限までに着くかどうかも、元信にはまだ見えなかった。
「元信様、後ろの馬ァ止まります」
清之助の声がした。
元信が振り返ると、避難する者が横から入り、馬の前を塞いでいた。清之助は引き綱を持ったまま立ち止まり、相手を押しのけず道が空くのを待っている。
「右へ寄せろ。荷車の後ろへ入れる」
「へえ」
清之助は命じられた方へ動いた。馬の鼻先を返し、荷車の轍へ沿わせる。同行の若者が後ろの荷を支えた。
その時、銃声が近くで重なった。
道にいた者が一斉に身を低くし、荷車の脇にいた者も地へ伏せた。清之助が引いていた馬が首を振った。引き綱が道へ落ち、城下へ向けた馬の脇、荷車の轍のそばへ清之助が横向きに崩れた。どこから撃たれたのか、元信には見えなかった。
「清之助」
返事がなかった。
同行の若者が馬の頭側へ回り、地を引きずる綱を取って押さえた。それを見てから元信は清之助へ戻った。膝をつき、肩へ手を掛ける。衣に血が広がっていたが、傷の場所を調べる余裕はなかった。
「清之助」
呼んでも、目を開けなかった。
同行の若者が立ち尽くした。
「運ぶ。荷車へ場所を空けろ」
「でも、後ろが」
「残らない。清之助も連れて退く」
元信は、帰還列へ入れた避難民の荷車の持ち主へ、載せていた物を分けて持つよう頼んだ。持ち主はすぐに荷を下ろした。清之助の身体を持ち上げ、空けた場所へ横たえる。
誰かが傷を押さえる布を出した。元信はそれを受け取り、血の出ているところへ当てた。清之助の口は動かず、呼びかけに返事はなかった。
「列を動かせ」
元信は言った。
「ここで止まれば、列の者を帰せなくなる」
若者の一人が清之助のそばへ付いた。元信は荷車の横を歩き、ほかの者が列から消えていないか、前後を見た。
元信が見たのは、退く命に返事をし、城下へ馬を向けた清之助が、引き綱の落ちたそばに倒れたことだった。射手も、どちら方の銃かも見えていない。
道の先、城下側から救護組が来た。
「先の連絡役と行き合いました。あの者は城下へ走り、私どもは退く列と負傷者を迎えに来ました」
往路で、輸送組の後ろにいた救護組だった。帰る列と出会うと負傷者を一人ずつ見て、清之助の載る荷車へ寄り、胸元と手首へ触れた。
手当てを始める前に、その者は元信を見た。
「もう、息がありません」
元信は布を当てていた手を離さなかった。
「いつです」
「私どもが気が付いたた時には、すでに亡くなっていました」
救護組の覚えを持つ者が矢立を開いた。
「私どもが着いた時には、息がなかったと記します」
「それと、救護組が着いた時、清之助が帰る列の中にいたことも書いてください」
「そのように記します。身体も水枝へ戻します」
救護組の者は清之助の懐から木札を取り出し、「新田清之助」とある名を読んだ。身につけた物が落ちぬよう衣を整え、身体に掛け物を戻した。清之助が荷直しに使っていた任務用の縄は、同行の若者が食の馬へ括り戻した。
元信は木札の名を見て、もう一度呼んだ。返事はなかった。
元信は荷車から顔を上げ、帰る列の前後を見直した。
「進む。歩けぬ者は荷車へ。若い者は自分の名を隣の者へ告げろ。次に止まった時、互いに名を呼べ」
列はまた動いた。
銃声は、道を曲がるごとに少しずつ遠くなった。誰も、それを勝った側の音とも、負けた側の音とも言わなかった。
元信は若者の顔を一人ずつ見た。無断で出た時に一緒だった者も、初めて役を受けた者も歩いている。楢木宿で合流した避難民は、家族ごとに名を呼びながら進んだ。清之助は、引き綱が落ちた場所から荷車に載せられていた。
日が落ちる前に列は城下へ入った。先に出した連絡は届いており、篠が手当てに使う一室の前に小原と沙江が待っていた。戸ヶ崎弦も、水桶を持って入口に立っていた。
二頭の荷馬も入口へ入り、歩けぬ負傷者が若者に支えられて背から下りた。もう一頭に残った食は、城下の救護へ渡された。
小原は出立表を開き、記した順に名を読んだ。
「片倉元信」
「戻りました」
元信は答えた。
同行した若者も、自分の名へ返事をした。避難民は照合の覚えに従い、家ごとに行き先を告げた。
新田清之助の行で筆を止めると、救護組の者が答えた。
「木札の名は新田清之助でした。私どもが着いた時には、すでに亡くなっておりました」
小原は帰着欄に、清之助の亡骸を伴って戻ったことを記した。その脇に「生還せず」「救護組到着時、息なし」と行を分けた。
「身体が戻ったことと、生きて戻ったことを、同じ印にしないでください」
元信が言うと、小原は「分けた」と答え、三つの記載を元信に見せた。
元信は、それを見届けてから清之助の載る荷車へ戻った。
沙江は、元信が入口へ現れた時、最初に足を見た。
自分で歩いている。衣には泥がつき、息は乱れているが、誰かに支えられてはいない。その後ろにも、出立した若者たちが続いていた。
「戸ヶ崎様」
沙江が元信の帰着を告げるまでもなく、弦も見つけていた。
水桶を持つ指が緩み、上がっていた肩が下がった。弦は桶を入口脇へ置き、元信が小原の前まで歩くのを声もなく見ていた。一度深く息を吸い、長く吐いた。
その直後、荷車が入口へ寄せられた。
救護組の者が木札を示し、新田清之助と告げた。掛け物を持ち上げて身体を下ろすと、沙江はその手を見た。
弟の草履へ鼻緒を通し、古布の荷縄を締め直した手だった。指には土と縄の跡が残り、もう動かなかった。
弦の手が体の脇へ下り、肩が止まった。頭を庇うことも、声を出すこともなく、清之助の手と木札を見ていた。
篠が身体を受け取った。救護組から、到着時には呼吸がなかったことを聞き、詳しい傷をその場で語らせなかった。
「こちらへ寝かせてください」
敷物が空けられ、清之助の身体が移された。
沙江はほかの負傷者を受け入れる場所を作った。元信とともに帰った若者の一人は腕を擦り、避難民の中には歩き続けて立てなくなった者もいた。篠は生きている者の呼吸と出血から先に見た。
沙江は清之助の掛け物を胸まで直し、その隣で立てなくなった避難民を敷物へ座らせた。篠が手を当てる間、沙江は水と布を運び、呼ばれた者の身体を支えた。
手当てが一巡すると、沙江は救護組の者と、清之助が身につけていた物を一つずつ取り出した。木札と、外側に「母へ」と記された小さな折り紙があった。木札と折り紙は分けて置き、ほかの品を包んだ。
「戸ヶ崎様」
沙江は弦へ声を掛けた。
弦は返事をせず、清之助の名から目を離さなかった。喉が二度動いたが、声は出なかった。
元信が近づいた。
「清之助は、俺の命に従って戻った」
弦は元信を見た。
「残ったのではない。荷を守るために止まったのでもない。帰る列の中にいた」
「はい」
弦の声は掠れていた。
「俺が退くと決めた」
「はい」
「その判断で帰った者がいる」
弦はうなずいた。
「だが、清之助は」
その先が出なかった。
「お前に従うつもりはない。次も、俺は自分で見て決める」
「そうしてください」
「だが、次の出立にも、退く条件と帰る刻限は要る」
弦は一度だけ頭を下げた。
「はい」
元信はそれ以上言わなかった。
沙江は清之助の木札を持ち上げた。小原へ渡せば、出立表との照合が終わる。だが弦の視線がそこへ残っていることに気づき、手を止めた。
「弦様。木札を小原先生へお渡しします」
弦は顔を上げ、沙江へ目を移した。
「お願いします、沙江様」
沙江は木札を小原へ運んだ。
小原は木札の名と出立表を照らし、元信から退いた時の事情を聞いた。銃声が宿内へ届き、武装した退却兵が入ったこと。元信が受け渡しを止め、連絡の者を先に帰したこと。若者と避難民を一つの列へ入れたこと。清之助が列の中で流れ弾を受けたこと。
誰が撃ったかは書かなかった。元信も、見ていないことを足さなかった。
「清之助が命に背いたことは」
「ありません」
元信は答えた。
「私が戻れと命じ、清之助は馬を城下へ向けました」
「最後に何か言ったか」
「荷が動かせると答えました。その後は、何も」
小原はそこまでを覚えへ残した。
弦は清之助の傍らへ近づかなかった。離れた場所で、帰ってきた荷から空いた籠を下ろし、敷物を畳んだ。誰かが清之助の名を口にすると、畳みかけた手が止まった。
沙江は帰った者の名を聞くたび、生還者の数へ清之助を加えなかった。
日が落ちる前に、避難民の行き先が分けられた。家の照合がついた者は身を寄せる先へ向かい、まだ分からない者は覚えを残して待った。元信らと帰った若者は、小原が一人ずつ家へ戻るのを見届けた。
小原は出立表の原本を閉じ、元信が携えた写しを回収した。木札、書付、包みも小原が預かった。負傷者の手当てと帰着確認が済むと、元信と小原は二枚の紙を携え、水枝城の記録奉行詰へ向かった。
記録奉行詰で、久馬は元信の報告を二度、途中で止めた。
一度目は、退く条件が成立した時だった。
「銃声は、宿へ入る前から聞こえていたのか」
「遠くにはありました。宿の中でも続けて聞こえ、道見の者が戻ったのは、武装した退却兵が入り始めた後です」
「その時、誰かから退く命が届いたか」
「届いていません。私が決めました」
「受け渡しは」
「止めました。連絡の者を先へ返し、避難する者を帰る列へ入れました」
「条件がなくとも退いたか」
元信は考えてから答えた。
「道を見た者の報せと、人の入り乱れ方を見れば、退いたと思います。荷を全部渡してから退きたいとは考えました。ですが、条件がそろった後、それを理由に残る判断はしませんでした」
久馬はその言葉を、元信の判断として残した。
二度目に止めたのは、清之助が撃たれたところだった。
「新田は、列のどこにいた」
「馬荷の側です。城下へ向いていました」
「戻る命を聞いていたか」
「聞いていました。返事もしました」
「その後、列を離れたか」
「離れていません」
「人を庇ったか。荷を守るために残ったか」
「いいえ。道が詰まり、命じた側へ馬を寄せていました」
「撃った者を見たか」
「見ていません」
「どちら方の銃か」
「分かりません」
「ならば、分からぬままにする」
元信は膝の上で拳を握った。
「私がもっと早く退いていれば、清之助は」
「それは記録できぬ」
久馬は言った。
「早く退けば同じ弾を受けなかったかもしれぬ。別の場所で別の者が受けたかもしれぬ。確かめられぬ先を、清之助の死因へ加えない」
「私の判断に責任がないというのですか」
「責任はある。お前が組を預かり、退くと決めた。帰着した者は出立表へ記す。清之助の死は、清之助の名で記す」
元信は拳を開かなかった。
「私の名も残してください」
「残す。責任者として記す」
「清之助の名も」
「別の記録へ記す」
「別にするのですか」
「任務の帰着と、新田清之助の死亡を同じ欄へ書かぬためだ」
久馬は、元信が退いた判断を出立表の帰着欄へ書き入れた。出立の用向き、責任者、帰る刻限、退く条件、交代する者、帰着を見届けた者は、出立時のまま残した。
その下へ、退く条件が成立し、責任者片倉元信が受け渡しを中止して帰還を命じたことを書いた。出立した若者の帰着、避難民と負傷者の受け入れ、道と宿の状態を順に記した。武装した者に食の小包み一つを奪われ、争わず引いたことは、損じとして一行加えた。
清之助については、別の記録を起こした。
新田清之助。
死亡日はその日の日付とし、正確な刻は記さなかった。最後に担っていた役は、楢木宿までの薬と暮らしの食の輸送、馬荷と荷縄の扱い。撤退命令に従って帰る途中、混乱の中で流れ弾を受け、救護組の到着時には死亡していた。
所持品は、木札、母へ宛てた短い書付、ほかに戻った物を包みと照らして記し、任務用の縄は入れなかった。
久馬は最後の行へ、役目と出立表の文言を定めた責任者、岩井久馬と記した。以前の無断出立の記録と、閉門時に代わる役を示せなかった自分の判断は、前の帳面から動かさなかった。
書役が、元信の判断で帰った者と清之助の死を一つの報告へまとめようとした時、久馬は止めた。
「死者一名を損じとして末へ置くな」
「では、帰着の報告から外しますか」
「身体と所持品が帰ったことは出立表へ残す。死亡の事実は新田清之助の名で別に起こせ」
「御遺族へお渡しする控えは」
「いま作るな。まず、何を記したかを私が母御へ伝える」
久馬は清之助の記録を閉じ、出立表の原本と内向けの役目表を別々に戻した。元信が携えた写しは帰着後に回収され、原本と混ぜず、使われた文として添えた。
久馬は自分の名で使いを立て、新田家へ先に走らせた。
「清之助が亡くなったこと、身体をこれから戻すこと、私と小原殿が後から事情を伝えに行くことを告げよ」
使いが城を出ると、久馬は城の者を篠の手当て場へ遣わした。往還から清之助を載せてきた荷車は、持ち主の承知を得て新田家まで使い、掛け物を直し、身体を戻すよう命じた。
清之助の木札と書付、包みは、久馬が家へ携えることにした。小原がそれを久馬へ渡した。
「私も参ります」
「清倫館の講師としてか」
「閉門を求め、代わる役を示せなかった者としてです」
「今日、清之助へ役を渡したのも小原殿だ」
「はい」
「ならば、そのどちらも話してください」
小原はうなずいた。
元信も同行を願ったが、久馬は先に家へ戻るよう命じた。
「責任者として、清之助の母御へ自分で話したいのです」
「話す機会は作る。だが、今夜、母御が最初に受け取るものを、お前の悔いだけにしてはならぬ」
元信は退かなかった。
「私が清之助へ戻れと命じました」
「それも伝える。お前が隠れたことにはしない」
「なら、なぜ」
「お前が今すぐ頭を下げれば、母御は清之助に何があったかを聞きながら、お前へ返す言葉まで探さねばならぬ。今夜は、私と小原殿が事実を伝える」
元信の顔が歪んだ。
「片倉家へ帰れ。明日、母御が会うと申されたら、自分の言葉で話せ」
元信は長く頭を下げ、片倉家へ向かった。
その夜、新田家では、母が幼い弟を脇へ座らせて待っていた。久馬の使いが先に来て、清之助が亡くなったことと、身体を戻すことを告げた。その後、篠の手当て場から身体が運ばれ、奥の寝具へ寝かされていた。
母はすでに泣いていた。目の縁は赤かったが、久馬と小原が入ると膝をつき、両手を揃えて頭を下げた。弟は母の袖を握っていた。
久馬は木札と、外に「母へ」と記された小さな折り紙と、身につけていた物の包みを差し出した。
「新田清之助の、戻った品です」
母は両手で受け、膝の前へ置いた。
「清之助は、御役目に背いたんでしょうか」
「いいえ」
久馬は答えた。
「片倉元信が退くと命じ、清之助は従いました。列を離れず、馬を城下へ向けておりました」
「……そうですか」
母は一度、深く頭を下げた。
「なら、そこは帳面へ残していただきとうございます。御役目を投げた子でねえことは、新田の家のためにも」
「そのように記しております」
母は包みを開いた。
木札を手に取った。名をなぞる指が、同じ字の上を何度も往復した。書付へ手を伸ばしたが、開かずに脇へ置いた。
「荷を守ろうとして、残ったんでねえんですね」
「残ってはおりません。退く列の中で、馬を城下へ向けておりました」
「撃ったのは」
「撃った者も、どちら方の銃かも分かりません」
「何か、言いましたか」
「退く命のあと、『動かせます』と答えたと、片倉元信から聞いております。その後は、誰も言葉を聞いておりません」
母は頭を下げたまま、次の言葉を出せなかった。指だけが止まらなかった。
「でも……戻れって言われてたんですね」
「はい」
「帰ってくる御役目だったんですね」
「城下へ帰るところまでが役目でした」
「その帰りに」
「流れ弾を受けました」
母は取り落とさぬよう、木札を両手で挟んだ。
小原は、清之助へ馬荷と荷縄を任せたことを話した。館を閉じた時には代わる役を示せなかったことも、自分の責任として告げた。
「御役目をいただいたことは、あの子ァ嬉しかったんでしょうか」
小原はすぐには答えず、朝に見たことを話した。
「役目表の自分の名を見て、馬荷と荷縄を任されたと聞くと、荷を止める時は先に知らせてほしいと元信へ申し出て、すぐ二頭の馬の荷を見に行きました」
「……そうでしょうね」
母の指が、また木札の名へ戻った。
「今朝ァ、御役目で呼ばれたと聞いて、飯もそこそこに帯ァ締めて出ていきました。家でも、ほどけた縄ァ見つけりゃ、黙って結び直す子だったから」
母は木札の名を指で撫でた。
「あの子ァ、御役目をもらえたことァ嬉しかったんでしょう。そこまで嘘にはできねえ」
母は書付に触れたが、開かなかった。
「だからって、死んで帰ってくるとは思わねえべ」
弟が覗くと、母は木札を隠さず、名が見える向きへ置いた。
「帳面には、あの子がしたことを書いていただけるんですか」
「氏名、亡くなった日、所持品、最後の役を残します。退く命に従い、帰る列にいたことも記しております」
「新田清之助と」
「新田清之助と記しております」
母は頷いた。落ちた涙を拭わなかった。
「死なせたことを飾らなくてよい。けれど、あの子の名は消さないでください」




