第6話 開かぬ門
「負傷者を運ぶことまで、兵糧を通すのと同じ御求めでしょうか」
久馬が問うと、早坂右近は膝前の文へ目を落とした。
「傷ついた者を道で捨てよとは申しません。ただ、その者を運ぶ人馬も、食わせる米も、泊める宿も、軍勢とまったく別にはできませぬ」
「ゆえに、すべてを開けよと」
「奥羽のために道を用いることを、水枝が拒まぬとのお答えを願っております」
早坂は声を強めず、礼も崩さなかった。拒めばどうするとも、いつまでに答えよとも言わない。持参した文にも、兵の数、米の量、差し出す者の名はなかった。まず水枝がどちらへ立つかを確かめ、その返答を受けて次を求める文だった。
三原が尋ねた。
「兵と米を出すと答えれば、宿と道も引き受けたことになるのか」
「兵だけが空を歩くことはできませぬ。何をどこまで願うかは、御返答を受けた後に詰めます。ただ、初めの御返答を、後になって違う意味であったとはなさらぬよう願います」
久馬は、早坂が持参した文の末を見た。兵、米、宿、道は別の行に書かれている。だが、早坂の答えでは、一つを受ければ残りも続く。
「水枝の返答は、書面にてお渡しいたす」
「いつごろ頂けましょう」
「上様の御判断を経てからです。今ここで刻までは申せませぬ」
早坂は催促せずに頭を下げた。
「承知しました。水枝の御事情をお尋ねするつもりはございません。出せぬ理由ではなく、出すか出さぬかをお返しください」
人数帳も、持ち場の重なりも、蔵の内情も求めなかった。早坂が持ち帰るのは、水枝が出すか出さぬかを記した返答だけである。その一通が、奥羽方では水枝の向きとして読まれる。
早坂が取次の間を出ると、持参した原文を収め、評定用の写しを一通作らせた。
久馬は、小会議へ戻っても、手箱の一枚をすぐには開かなかった。
三原と白井が席へ戻るのを待ち、まず早坂の文の写しを中央へ置いた。その脇へ、外へ返す文の下書き用に新しい料紙を置く。取次に先立って作った「何を出せば、どこが空くか」の一枚は、久馬の側に留めた。
「出せぬ理由は要らぬ、と申したな」
三原が言った。
「はい、三原様」
「もっともな話だ。家中の薄さを外へ並べても、信義を断る言い訳にしか見えぬ」
「ゆえに、人数は返答へ入れませぬ」
「では、何を入れる」
久馬は下書きの初めへ、諸軍の交戦に加わらず、会津攻撃へ兵を出さず、と二行に分けて書いた。
白井は早坂の文へ目を戻した。
「兵を断っても、軍勢へ送る米が残ります。早坂殿は、兵だけが歩くことはできぬと申しました」
三原が白井を見た。
「米を一俵も通さぬか」
「それを私に決めさせてはなりません」
白井は答えた。
「戦を避ける家族の食まで兵糧と呼べば、人を道に留めます。軍勢へ届ける米を暮らしの米と同じにすれば、兵を断った意味がなくなります」
久馬は下書きへ、米ではなく武器と軍勢の兵糧と書いた。
「往還で止め、城へ伺いを上げます」
「伺いの間、負傷者も止めるのか」
「止めませぬ」
「兵が傷を負えば、兵ではなくなるのか」
「傷を負った者を運ぶことと、その者を戦へ戻す武器を運ぶことは分けます」
「どちら方の者かは」
「手当ての前には問いません」
久馬は新しい料紙を出し、往還へ命じる文を書き分けた。
白井が二枚を読んだ。
「同じ往還へ、兵糧を積んだ荷と負傷者を載せた荷車が続けて来ます」
「だから役を増やすと言うか」
三原が尋ねた。
「増やせば、また人を抜きます」
白井は二枚から手を離し、久馬の筆が止まるのを待った。
「では、どうする」
「いま往還にいる者へ、武器と兵糧は止め、負傷者は通せと命じます。新しい番の名を設けても、そこへ出す者がおりません」
白井は二枚を久馬の前へ戻し、手を膝へ置いた。
三原は、久馬の側にある一枚へ目をやった。
「早坂殿へは見せぬのだな」
「見せませぬ。これは内々の覚えです」
「評定には」
「上様が何を問われても答えられるよう、私が持参します。返答文へは写しませぬ」
三原は早坂の文を閉じた。
「兵を出さぬ。軍勢の米も通さぬ。それで会津への情だけは残ると、おぬしは考えるか」
「考えておりません」
久馬は答えた。
「会津は、兵を出さなかった水枝を覚えます。人数を数えても、その責めは消えません」
「ならば、家中が足りぬとの算段だけで、徳川と会津への信義まで済ませるな」
「はい、三原様」
正式の評定は、その日のうちには開かなかった。早坂の文を受けたことだけを上へ通し、久馬の二つの下書きは小会議で詰め直された。
評定の間へ義政が出たのは、その後だった。
上段に座した義政は、早坂の原文ではなく、評定用の写しから読んだ。久馬が作った二つの下書きは三原の前に置かれ、内々の覚えは久馬の膝前にあった。白井は次の間に控え、問われた時だけ答えることになっていた。
「三原」
義政が呼んだ。
「兵を出さぬのは、会津を捨てることか」
三原は頭を下げたまま答えた。
「会津から見れば、そう受け取られます。徳川から受けた恩を、難儀の時に返さぬことにもなります。高森家は、平穏の時だけ遠縁を唱えてきたのかと問われましょう」
「兵を出せば、何人であれば信義を果たしたことになる」
「数で決まるものではございません」
「水枝が出せる数を知らぬわけではあるまい」
「存じております。若い者を集めて死地へ送ればよいとも申しません。されど、足りぬから何も負わぬと決めれば、この先、水枝の約定を信じる者は減ります」
義政は久馬を見た。
「岩井。兵を出せば、初めにどこが空く」
「一か所ではございません。城、往還、町、蔵のいずれかが薄くなります」
義政は、久馬の膝前にある一枚を取らせた。近侍が運んだ一枚を読み、消された「出せるもの」の四字にも目を留めた。
「これは命ではないのだな」
「はい。何を出せば、何が欠けるかを、御決定の前にお目にかける覚えです」
「誰に見せた」
「三原様、白井殿、私です。ほかには作成に関わった書役がおります。早坂殿には見せておりません」
「このまま返答へ使うか」
「使いませぬ」
義政は一枚を近侍へ戻した。途中で咳をし、袖で口元を覆った。咳が収まるまで、誰も言葉を継がなかった。
「白井を入れよ」
白井は次の間から進み、下座へ控えた。
「白井。いまの人数と持ち場のまま、兵を出してなお領内を守れるか」
「できません」
「ならば、兵を出さぬのが正しいか」
「それは私には決められません。兵を出さぬことで失う信義を、私が背負うことはできません」
白井は頭を下げ、久馬が膝前の下書きを繰るのを待った。三原は早坂の写しへ目を落とした。
義政は早坂への下書きを取らせた。
「交戦へ加わらぬことと、会津を攻める兵を出さぬことを分けたのはなぜだ」
「水枝がどちらかの軍へ兵を加える余地と、新政府側から会津攻めを求められる余地の両方を閉じるためです」
「会津から守りの兵を求められた時もか」
「出せば交戦へ加わります」
三原の肩がわずかに動いた。
「上様。会津への情まで、文で断ち切る必要はございません」
「断ち切らぬ」
義政は三原へ向いた。
「会津への情は、兵を出さぬから消えるものではない。消えぬからこそ、出さぬ責めは残る。だが、領内の若者と民を戦へ出す責は、さらに私から逃れぬ」
三原は顔を上げなかった。
「負傷した会津の者が来たら、道を閉じるか」
「閉じるべきではございません」
「新政府方の負傷者なら」
三原は答えるまでに間を置いた。
「領内で倒れた者を、見殺しにはできませぬ」
「ならば、そこは分けぬ」
義政は久馬へ下書きを返した。
「水枝は諸軍の交戦に加わらぬ。会津攻撃へ兵を出さぬ。武器と軍勢の兵糧を通す時は、藩の許しを要する。負傷した者と戦を避ける者の道は閉じるな。領内での手当ては、どちら方の者かで分けてはならぬ」
義政は一度息を整えた。
「岩井。これはおぬしの判断を藩命に見せる文ではない。私の命として出せ」
「はっ、上様」
「外へ返す文と、領内へ命じる文を混ぜるな。早坂殿へ、水枝の持ち場も人数も渡すな」
「承知しました」
「三原」
「はっ」
「反対は変わらぬか」
「変わりませぬ。兵を出さぬことで会津への信義を失い、会津からも新政府方からも疑いを受けます」
「それも記せ。私が承知せず選んだことにはするな」
三原は深く頭を下げた。
「御命として承ります」
評定が終わると、久馬は記録奉行詰へ戻った。
早坂への返答は義政の決定だけを清書し、領内への藩命は、受取先ごとの指図を別紙にした。
返答の控えと藩命の原文をそれぞれ収め、藩命の写しを各持ち場へ出した。内々の覚えは手箱へ戻し、白井の作業札とともに外へは出さなかった。
早坂は取次の間で返答を末まで読み、封の脇へ置いた。
「承知しました。早坂右近、水枝の御返答を拒絶として持ち帰ります」
三原が早坂を見た。
「水枝は会津との縁を断つとは申しておらぬ」
「承知しております。ですが会津方には兵を出さぬ一行が、新政府方には会津から来る負傷者を通す一行が残ります。両方から疑われるでしょう」
「承知の上です」
久馬が答えた。
早坂は返答を封へ戻し、取次の間を出た。
幾日かすると、塩の壺の底へ、沙江の小さな木匙が触れるようになった。弥七は一度に使う量を減らし、漬けてあるものを早く開けようとはしなくなった。
「会津の荷主が、水枝は後だと申したそうでござんす」
弥七は塩を小皿へ移しながら言った。
「兵も出さねえで、塩だけは今までどおり欲しいのか、って」
油も、前と同じようには入らなかった。夜、離れまで灯していた明かりは一つ減り、弦が母屋へ来る時は手燭を持って渡りを越えた。薬は越後境から来る荷の中で後へ回された。
西から来た商いの者は、会津へ道を残す藩へ品を回せば、佐幕を助けたと疑われると言ったという。会津方からは卑怯と呼ばれ、新政府方へ通じる者からは、中立を掲げて会津をかくまうのだと見られた。
沙江が父の許しを待たずに岩井家を出たのは、篠のもとへ負傷者が続けて運び込まれた日だった。
脇門へ来た町の女が、湯を沸かす者も、汚れた布を運ぶ者も足りないと告げた。久馬は城にいた。戻る刻を待って使いを立てれば、その間も篠の手は塞がる。
「弥七。父上がお戻りになったら、篠先生のところへ出たとお伝えください」
「お許しを待たねえで、ええんですか」
「待っている間に必要なのは、父上のお返事ではなく、湯と布です」
沙江は勝手にある洗った布を集めた。弦が前室から出てきて、その包みへ手を掛けた。
「私も運びます」
「戸ヶ崎様は、お役を命じられたわけではありません」
「はい。ですが、ここから篠先生のところまでなら、荷を持てます」
沙江は包みの重さを確かめ、半分を弦へ渡した。弦は家の羽織を着て草履を履き、残りの包みを抱えて沙江の横を歩いた。
篠が手当てに使っている一室には、街道から運ばれた者と、その家族が入り交じっていた。空けられた部屋へ敷物を寄せ、入口近くに湯と水を置いているだけだった。
篠は沙江を見ると、来た理由を問わなかった。
「その布をこちらへ。戸ヶ崎殿は、入口の荷を奥へ運んでください」
「はい」
弦は入口の包みを篠の示した場所へ運び、空いた水桶を戻した。寝かされた男の一人が、誰に追われたかを話そうとしたが、篠は肩の布を外しながら止めた。
「話はあとです。いつから血が止まらないのか、それだけ答えてください」
「会津の者でも、診なさるんですかい」
手伝っていた町の男が小声で尋ねた。
「そちらを押さえてください。いま離せば、また血が出ます」
篠は男の問いへ顔を上げず、傷口を押さえる手へ自分の手を重ねた。浅い傷は湯で洗い、少ない薬は深く裂けた傷へ使った。灯明の油も惜しみ、明るいうちに見られる傷から先に見た。
入口で板が倒れた音に弦の足が一度止まったが、水桶を置くと、空の籠を戻して篠の次の指図を受けた。
粥に入れる塩も減らした。油が足りないため、日が傾くと部屋の端は見えにくくなった。薬包を開くたび、篠は残りを目で確かめた。
敷物が空くと、篠は会津往還から来た者と、西の方から入った者を、傷の重い順に寝かせた。
「水枝は、どっちさ付くんだ」
寝かされた男が尋ねた。
篠は傷口から手を離さなかった。沙江も父の藩命を説明しなかった。
「いまは水を呑んでください」
沙江が椀を支えると、男は顔を背けかけた。
「兵も出さねえくせに、怪我さァしたもんだけ拾って、よい顔ァするのか」
「いまは水を呑んでください」
沙江は椀を下げなかった。男はしばらくして口をつけた。
昼を過ぎたころ、荷車へ載せる夜具を束ねる縄が足りなくなった。擦れた一本を弦が結び直したが、短くなった縄では大きな束を回せない。
篠が、古い布を出すと申し出た家から受け取ってきてほしいと沙江へ告げた。その中に新田家があった。
新田家では、清之助の母が洗った古布を畳んでいた。幼い弟が、切れた鼻緒の草履を片手に立っている。
「母ちゃん、これ、直らねえ」
「母ちゃんはいま手ァ離せねえべ。清之助に頼みな」
清之助は、沙江に気づくと頭を下げた。清倫館の騒ぎにも、会津往還の話にも触れなかった。
「貸してみろ」
草履を受け取り、切れた鼻緒を抜いた。使えるところまで裂き、替えの紐を通す。弟が急かしても叱らず、左右の長さを合わせてから足を入れさせた。
「歩いてみろ。痛えところァねえか」
弟は家の中を往復し、戻ってきた。
「ねえ」
「なら、外で走っても、途中で見ろよ。切れてからじゃ遅えからな」
母がまとめた古布は、荷縄で一つに束ねられていた。清之助は結び目を見て、締め直した。持ち上げた時に布が片側へ寄らぬよう、底へ回る縄の位置を変える。
「清之助。その縄まで出したら、家の荷ァどうする」
「この一本ァ戻してもらう。ほどきやすくしておいた」
「忘れられんでねえぞ」
「オラのだって言ってくる」
清之助は、母と弟の前では、戦へ出たいとも、会津へ行きたいとも言わなかった。弟の草履をもう一度見て、母が渡した布の束を背負った。
新田家を出てから、沙江が言った。
「篠先生のところへは、私が運びます」
「オラが持っていきます」
「お家の縄を返していただくためですか」
「それもあります」
清之助は背の束を直した。
「けど、縄を結ぶ手が要るなら、オラにもできます。荷を運ぶのも、草履を直すのも」
「清倫館のお役ではありません」
「清倫館で待ってろって言われてるうちに、外じゃ手が足りねえんでしょ」
清之助は前を向いたまま続けた。
「オラ、死んで名を残してえんでねえです。生きて使える手があるなら、誰でもいい若え者で済ませねえで、新田清之助に頼むって言ってもらいてえんです」
沙江は歩みを止めず、「明日も来てください」とは言わなかった。清之助の持ち場を、沙江から決めることはできなかった。
手当ての場所へ戻ると、入口の男が清之助を見た。
「館生の方、その布ァ奥へ」
「新田清之助です」
男は一度、清之助の顔を見た。
「新田清之助。では、布ァ篠先生の脇へ。空の籠も持っていってくれ」
「へえ」
清之助は縄の束を肩へ掛け直し、もう一方の手で籠を持った。
その日の運びは、日が傾く前に終わった。清之助は空になった籠を入口へ返し、篠へ頭を下げると、使った縄を抱えて新田家へ帰った。篠は次に来る日を告げず、清之助も尋ねなかった。
それから日が重なり、春が深まる間も、沙江は篠の手当てを手伝った。清之助の姿を見ることはなかった。
やがて春が初夏へ移るころ、会津往還から城下へ入る荷車は、荷より人を多く載せるようになった。敷物の上へ降ろされる者も、手当てを受ける家族の傍らで行く先を待つ者も増えた。白河口で戦が始まったとの報が城へ届いたころには、道を戻ってきた者の衣へ、乾いた泥と血が一緒についていた。
篠は傷を見て、湯で洗うところと布で押さえるところを沙江へ示した。少ない薬は傷の深い者へ使い、油を使う灯も増やせない。弦は篠の指図で水を運び、汚れた敷物を外へ出した。
その晩、小原が岩井家を訪ねてきた。久馬は控えの間へ通した。沙江が湯を置いて下がりかけると、父が呼び止めた。
「沙江。お前も聞け」
「白河口の報が入ってから、講の前後に会津へ出る話が増えました」
小原は湯へ手をつけずに言った。
「一つの軍談を止めても、別の者が続きを持ち込みます。館生が顔を合わせれば、会津へ行くと言う者に、別の者が声を重ねます。講を止めても、門内で軍談を続けさせることになります」
「清倫館を閉じるのか」
「講を止め、門を閉じたいと考えます」
「閉じた間、館生には何をさせる」
小原はすぐに答えなかった。
「家へ帰し、呼ぶまで待たせます。館の内で会津行きを相談させるよりは、散らした方がよい」
「待たせるだけか」
「私の一存で、館生へ城門の番や往還の使いを命じることはできません」
久馬は小原を見たあと、沙江の方へ顔を向けた。
「明朝、閉門の触れを清倫館へ持たせる。閉門の命は私の名で出す」
小原は湯に触れぬまま頭を下げた。
翌朝、清倫館の門は開かなかった。
沙江は朝から篠の手当てを助けていた。昼を過ぎたころ、新田家の母が幼い弟を連れ、篠の使う一室へ来た。負傷者ではないと分かり、沙江が入口へ出た。
「清之助、こちらさ来てねえでしょうか」
「いいえ。あの日のほかには、お見かけしていません」
「今朝、館さ行くって出たきりで。戸ァ閉まってたって、戻ってきた子は言うんです。こないだ、ここで荷ァ運んだって聞いたもんで、また来てんでねえかと思って」
弟は母の袖をつかみ、何も言わなかった。
「小原先生に伺ってきます。こちらでお待ちください」
沙江が清倫館へ行くと、門は閉じたままだった。呼びかけに応じて小原が出てきた。
「片倉様と清之助殿は、今朝こちらへ来ましたか」
「来た。ほかにもいる。触れを読み、家へ帰れと命じた」
「帰ったところを、お確かめになりましたか」
小原が門へ添えていた手を止めた。
「門前を離れるところまでは見た。片倉は、呼ばれるまで何をすればよいと尋ねた。私は、家で待てと答えた」
小原は今朝門前に来た館生の名を挙げた。
「片倉の家へは、こちらから知らせる。新田の母御は」
「篠先生のところで待っておられます」
「私も行く」
沙江と小原が戻る前に、会津往還から来た荷車が一台、入口へ寄せられていた。傾いた荷を縄で締め直してある。二本の縄は底へ回り、角で強く当たりすぎないよう、布が一枚挟まれていた。
沙江は、その結び目の前へ屈んだ。
「これは、どなたが結び直したのですか」
荷車を引いてきた男が、道の方へ顎を向けた。
「若え衆です。侍の倅らしいのが何人か、こっちと逆さ歩いてきてな。荷ァ傾いてたの見て、足軽の子が直してくれた。新田って呼ばれてたべ」
「その方々は、どちらへ」
「楢木宿の方さ。止めたよ。向こうから逃げてくる者がいるのに、何しに行くって。役ァ向こうで探すって、先へ行っちまった」
沙江は立ち上がった。小原は新田家の母へ、見つけ次第こちらへ戻すと告げた。入口にいた手伝いの者二人を呼び、一人を今朝来た館生の家々へ、もう一人を城へ走らせた。沙江は荷車の男へ、元信らと別れてから道がどうであったかを尋ねた。
「向こうから来る人と荷車が続いてな。端さ寄って、また進んでの繰り返しだ。道ァ思うように進めねえ」
男は元信らと別れた辺りを、道筋に沿って示した。沙江は一室の中へ戻った。
弦は空いた水桶を持っていた。
「戸ヶ崎様」
沙江が元信と清之助の名を告げ、荷車の男から聞いたことを伝えると、弦は桶を入口の脇へ置いた。
「その方が別れたのは、いつですか」
「昼より前だべ。荷ァ直してもらってから、こっちは休まず来た」
弦は会津往還へ出る道を確かめた。
「追います」
「お一人で行かれるのですか」
「城と御家々への知らせを待つ間にも、片倉様方は進みます。私はいま出られます」
小原が入口へ戻ってきた。
「見つけても、一人で押し戻そうとするな。城と家々へ走らせた者が戻れば、私からも後へ人を出す」
「はい」
「篠先生には、私からお伝えします」
奥から水を求める声がした。沙江は一室と入口の間に立った。
「耳の鳴りが強くなったら、追い続けないでください」
「はい、沙江様」
「追いついても、戸ヶ崎様お一人で止めようとなさらないでください」
弦は一度うなずき、会津往還へ向かった。
元信たちは、城下へ戻る人と荷車へ道を譲るたび、歩みを止めていた。傾いた荷車を一台見つけると、清之助が「すぐ済む」と縄を取り出した。元信は先を急かさず、結び直すのを待った。さらに二台を通したところで、背後から待てと呼ぶ声がした。初めは遠く、二度目には足音も聞こえた。
元信が足を止めると、清之助らも振り返った。道を急いできた弦は息を切らし、借りた羽織の胸元を押さえていた。
「また、お前か」
「はい」
「帰れと言いに来たのか」
「どこへ行くのかを聞きに来ました」
「会津の方だ。着く前に、荷を運ぶ者でも使いでも、人を要る所がある」
「誰の命を受けるのです」
「着いてから聞く」
「いつ戻るのです」
元信は弦から目を外し、道の先を見た。
今朝、清倫館の門は閉じていた。小原は門の内から触れを読み、講を止めると告げた。白河口で戦が始まり、若者を集めておけば熱が高まる。だから家へ帰れ。それが命だった。
元信が、呼ばれるまで何をすればよいと問うと、小原は家で待てと答えた。馬を引く者にも、文を運ぶ者にも、傷ついた者を支える者にも、館生の名は置かれなかった。
門を閉じられた時、元信は自分が守られたとは思わなかった。学ぶところを失い、何の役もなく家で待てと命じられただけだった。
「戻る時は、役を命じた者が決める」
「帰すことを考えない者に命じられたら」
「またその話か」
元信は弦へ向き直った。
「お前は、俺たちがどこへ行っても死ぬと思っている。だから怖がっているだけだ」
「死ぬかどうかは分かりません」
「なら、なぜ追ってきた」
「私と同じ年頃の者が、戻る先を決められないまま、役を命じられていました。戻らなかった者もいます」
「どこで見た」
弦の息が止まった。
「言えません」
「結局、それか。臆病者」
「はい」
元信は弦へ一歩戻り、その顔を正面から見た。
「認めれば、言うことが正しくなると思うな」
「思っていません」
清之助が二人の間から声を出した。
「戸ヶ崎様。オラは死にさ行くんでねえ。荷を結ぶ手なら、向こうでも使ってもらえる。そう言ったべ」
「覚えています」
「なら、止めねえでくなんしょ」
「せめて、帰る時を決めてください」
「帰れ」
元信が言った。
「私は、ついて行きます」
「勝手にしろ。だが、俺たちは戻らぬとは言っていない」
「いつ戻るかを、誰にも告げていません」
「告げれば止められる」
「止められぬ所まで行ってから、役を求めるのですか」
元信は答えず、歩き出した。弦は横へ並ばず、少し離れて後ろを来た。
会津往還を進むほど、向こうから来る人と荷車が増えた。道を譲るたび、一行は端へ寄った。元信たちと同じ向きに歩く者は少なかった。
仮橋の手前で、人の流れが止まっていた。
橋の外寄りでは二枚の板がずれ、会津の方から来る向きの右側が低くなっていた。荷車を引く男は、左輪を橋の中央寄りの揃った板へ載せ、右輪を低い板から離そうとしていた。だが、荷は右へ寄り、家族が右から押し戻しても、右輪が少しずつ外へ流れた。
「待て。先に人だけを渡せ」
元信が呼んだ時、右輪の下で浮いていた板が横へずれた。右輪が板と板の間へ落ち、荷台は右へ大きく傾いた。右の縁が橋板へ当たり、荷車はそこで止まった。
年少の館生が荷台を支えようと駆け出した。隣の緩んだ板を踏むと、その端が浮き、片足が板の間へ入った。身体が前へ倒れ、脛を板の縁へ強く打った。
荷車の軸と板がぶつかり、大きな音を立てた。
弦は両腕を上げ、頭を庇った。すぐに腕を下ろしたが、橋へ踏み出すまで一息遅れた。
「清之助、荷を下ろせ。車を軽くする」
元信は橋へ上がった。清之助は荷車の縄を解き、荷台の後ろにある包みから橋の手前へ移した。弦も遅れて加わり、示された包みを受け取った。
年少の館生は板から足を抜いたが、立とうとすると膝が崩れた。脚絆に血がにじんでいた。
「立つな。傷めた脚を地へつくな」
元信と別の館生が左右から肩を抱え、傷めた脚を浮かせたまま橋の手前の土へ下ろした。館生は歩けると言ったが、足を地へつけられなかった。
右輪は板間へ沈み、荷車の軸の下が板の縁へ当たっていた。荷車を引いていた男が轅を押しても、輪は前へ進まない。後ろでは、橋を待つ別の荷が詰まり始めている。
「縄ァ貸してくなんしょ」
清之助は避難する者から縄を受け取ると、沈んだ右輪のすぐ内にある荷台の枠へ回し、二本の端を橋の中央へ渡した。
「元信様、そこの者と一緒に、縄を真ん中さ引いてくなんしょ。荷車の方は、前から轅を持ち上げてくだせえ。戸ヶ崎様、右の包みをもう一つ下ろしてくなんしょ」
弦は返事をして、傾いた荷台から包みを運んだ。元信と館生が中央寄りの板へ足を置いて縄を引き、荷車の男が轅を持ち上げる。右輪は板の縁へ当たり、一度止まった。
清之助はさらに荷を一つ下ろし、枠の結び目を締めて縄を短くした。合図に合わせて元信たちがもう一度中央へ引き、男が轅を持ち上げた。荷が減ったぶん、荷台の右端が先ほどより高く上がり、右輪は板の縁を越えて、揃った板の上へ戻った。
荷を載せ直す間、元信は橋を見た。外寄りの板は斜めに沈み、次の荷車は橋の手前で止められていた。年少の館生は座ったまま脚を押さえ、立てない。
「私がこの者を城下へ連れて戻ります」
弦が言った。
「お前一人でか」
「荷車が城下へ向かいます。乗せていただけるなら、篠先生のところまで」
元信は荷車の持ち主を見た。車輪には乾いた泥が厚くつき、荷縄には継ぎ足した跡がある。引いてきた男は肩で息をし、家族は下ろした包みを抱えたまま立っていた。その車へ負傷した館生を載せれば、肩で息をする男が、もう一人を引いて城下へ戻ることになる。
清之助が、下ろした包みを一つ持ち上げた。
「オラが荷ァ持つ。空いたところさ、こいつを乗せっぺ」
「それで、お前は先へ行くのか」
「元信様が行くなら」
年少の館生が顔を上げた。
「私のために、皆で戻ることはありません」
橋の向こうから、早く空けてくれよと声が飛んだ。
元信は、沈んだ板と、脚を押さえる館生と、止められた次の荷車を順に見た。
「荷を載せ直せ」
元信は言った。
「傷めた者を車へ乗せる。清之助は縄を締めろ。ほかの者は、持てる包みを持て。荷車と一緒に城下へ戻る」
「元信様」
清之助が呼んだ。
「橋のことを知らせる。負傷者を篠先生のところへ運ぶ。無断で出たことも、俺が城で話す」
元信は弦を見た。
「勘違いするな。お前に言われたから戻るのではない」
「分かっています」
「お前も荷を持て」
「はい」
清之助は空けた場所へ年少の館生を座らせ、荷が寄らないよう縄を掛け直した。元信たちは下ろした包みを分けて持った。
元信は橋の外寄りに沈んだ板を振り返った。橋の手前で待っていた男へ、後から来る荷車を一台ずつ止め、右輪を外へ寄せぬよう声を掛けてほしいと頼んだ。男は次の荷車の前へ出て、手を上げた。
一行は、会津往還を城下へ向けて歩き始めた。
篠のところへ着くと、沙江が入口へ出てきた。荷車の上の館生を見て、すぐ篠を呼んだ。
弦は持っていた包みを下ろした。沙江が近づくと、弦は先に言った。
「追いつきました。皆様も戻られました」
「戸ヶ崎様も、お帰りになったのですね」
「はい、沙江様」
篠は負傷した館生を敷物へ移すよう告げた。元信と清之助が身体を支え、弦は荷車に残った包みを運んだ。篠が傷へ触れると、弦は空いた籠を入口へ戻し、次に示された包みを一室の奥へ運んだ。
元信は、傷めた館生を篠へ渡すと、小原へ仮橋の状態を伝えた。小原は別の者を城へ走らせ、仮橋の外寄りの板がずれ、荷車の右輪が落ち、館生一人が脚を傷め、後から来る荷車にも危険があると伝えさせた。元信らを清倫館へ連れて行き、留めておくことも添えた。
清之助らは持って戻った包みを持ち主へ渡し、荷車が町の方へ向かうのを見届けた。小原は新田家の母へ、清之助を清倫館で預かってから家へ帰すと告げた。それから閉じていた門を開け、元信、清之助らを清倫館へ入れた。自分も入ると、門をまた閉めた。
城へ来た使いから、久馬は、負傷した館生を篠が手当てし、元信らは小原が清倫館に留めていると聞いた。久馬は席を立ち、清倫館へ向かった。
久馬が着いた時、門は閉じたままだった。
小原は久馬を門の内へ通した。元信、清之助らは小原に呼び止められ、館に残っていた。負傷した館生は篠の手当てを受け、避難する者の荷車はすでに町の方へ移っている。
久馬は元信の前へ座った。
「行き先は、誰が決めた」
「私です」
「会津のどこへ行くつもりだった」
「決めておりません。楢木宿の先へ進み、役を求めるつもりでした」
「誰の指図を受けるかも決めずにか」
「ここでは、何の指図も頂けませんでした」
元信は目を伏せなかった。
「戸ヶ崎が戻れと命じたのか」
「あの者が命じたのではありません。戻ると決めたのは私です。橋の板がずれ、館生が足を傷め、避難する者の荷車の右輪が落ちました。戻って知らせなければ、次の荷車も同じ板間へ落ちます」
久馬は小原を見た。
「閉門を願ったのは私です」
小原が言った。
「館生を館へ集めておけば、会津行きを言い出す者へ別の者が続きます。門を閉じるべきだったとの考えは、いまも変わりません。ですが、家へ帰した館生へは、何をして待てとも告げられませんでした」
「命じたのは私だ」
久馬は元信たちにも聞こえるように言った。
「清倫館を閉じる命は、岩井久馬の名で出した。館生へ代わる役を示さず、家で待てとした。その責も私にある」
「では、無断で出たことは」
元信が問うた。
「消さぬ。家へ帰れという命に背き、許しなく往還へ出た。橋で戻り、負傷者と道の状態を知らせたことも消さぬ」
「咎めるのですか」
「咎めをなかったことにはしない。だが、館生が命に背いたことだけを書き、閉門を命じた私と、門前で家へ帰れと答えた小原の名を外しはしない」
久馬は小原へ向き直った。
「城へ上げる報告には、まず、私が閉門を命じたと書け。次に、門前で何を問われ、何を答えられなかったかを書く。その後へ、無断出立と帰還、負傷者と道の状態を書け」
「私の名も置いてください」
「閉門を求めた者として書く。私の責まで引き受けるな」
小原は一礼した。
久馬は閉じた門を見た。今すぐ開ければ、朝に出した命を引っ込めることになる。家へ帰せば、元信らはまた、何の指図もないまま待つ。
「今夜は、一人ずつ家へ帰せ。家々へは私から知らせる。咎めを定める前に、家で待つ館生へ何を命じるかを、こちらで定める」
「私どもに、何をお命じになるのですか」
「閉じた後に何を命じるかは、私が定める。だが、今日出たことへの褒美にはしない。無断を隠すための役にもせぬ」
元信は久馬の前へ膝を進めた。
「帳へ名を置くなら、正面から置いてください」




