第5話 客将の算盤
「これは、兵の数ではありません」
白井主馬は、人数帳から抜き出した一枚を久馬の前へ戻した。
正月が明けて二月に入っていた。安中藩から来た三十七歳の客将を、小会議へ通して二度目の朝だった。白井の脇には算盤が置かれていたが、珠は動いていない。
初日に白井が見たのは、会津往還と越後境往還の傷んだ箇所、宿駅で滞りやすい荷、蔵へ米を入れる手順を抜き出した写しだけだった。招かれた目的の内にあるものだった。白井はそれらを読み終えると、道を直す者、宿を継ぐ者、蔵を開ける者が、ほかに何を務めているかを尋ねた。
久馬が人数の抜き書きを用意したのは、その問いを受けた後である。白井は記録奉行詰へ入ろうとはせず、運ばれた一枚より先を覗こうともしなかった。次を開くかどうかは、久馬に返されていた。
「武家と足軽、合わせておよそ二百七十です」
久馬が言うと、白井は一枚の最初へ指を置いた。
「家です。二百七十人ではない」
「承知しています」
「承知しておられる方が、なぜ最初に家の数を示されたのです」
問いには責める響きがなかった。だからこそ、久馬は言葉を選んだ。
「水枝で役を負う者は、家から出ます。人だけを拾えば、誰がその者に代わるかを落とします」
「では、家の中を見せてください」
義政の求めが安中へ届いた時、白井に任せるはずだったのは街道と宿駅、蔵備えまでだった。都の政変はその後に起きた。いま家臣の内訳まで開く理由を、招聘の話へ負わせることはできない。白井の前へ人数帳を開くと決めたのは久馬だった。
机上の一枚には、家数と身分の別しか写していなかった。白井がそれだけで済ませるなら、久馬も人数帳を閉じたままにするつもりでいた。だが、二百七十を二百七十人と取り違えなかった男が、次に何を求めるかは分かっていた。
「一つの家から、必ず一人が出ますか」
「出せぬ家もあります」
「二人を出せる家は」
「あります。けれど、二人を別々の役へ出せば、家には動ける男が残らぬこともある」
「家の数だけでは、出せる数にも、残る数にもならない」
白井は久馬へ確かめるように言った。久馬は人数帳の紐へ手をかけた。
「その通りです」
久馬は帳面を膝元へ引き寄せた。原本を丸ごと渡さず、開いた頁を自分の側から示す。
「士分は百二十から百三十家。足軽は百四十から百五十家。家族を含めれば、武家の人口は千三百から千五百ほどになります」
「役に出る者は」
「人足、馬丁、荷を扱う者まで名目へ入れれば、六百から七百」
白井の指が止まった。
「その全員へ武具を持たせれば、荷を運ぶ者と馬を引く者が消えます」
「武装して動ける者は、三百五十から四百五十の間です」
幅を持たせたのは、病で動けぬ者や、老いて役に出せぬ者の数が日によって変わるためだった。武具があっても、持ち場を離れられない者もいる。
「下の三百五十は、何を除いた数です」
「病で動けぬ者、武具の整わぬ者、荷役と馬丁を除きます。その上で、城と蔵を空にしない」
「上の四百五十は」
「交代を薄くし、兼ねている役を一つと見た時です」
「同時に二つ務めることになっても」
「そこまでは、この帳面では分かりません」
白井はそこで初めて人数帳の開かれた頁へ目を落とした。久馬が見せたのは家数の総計だけではなく、各家で役に出られる者を記した箇所だった。父子、兄弟を一つの家から取れるように見えるところでも、片方はすでに蔵に、片方は往還に出ている。
久馬は頁をめくるごとに、白井の目がどこまで届いたかを覚えた。役立つ材料を外部者へ示すたび、水枝の弱みもその目へ渡った。
「その間、という言葉が要ります」
白井はようやく珠を一つ弾いた。
「上だけを採れば、下との差は百です。百人の増減が誤りで済む藩ではないでしょう」
「済みません」
「ならば、その三百五十から四百五十が、いま何をしているかを」
白井は人数帳へ手を伸ばさなかった。次に必要なものを口にしただけだった。
「持ち場書を拝見したい」
久馬は返事を急がなかった。人数帳だけなら、白井に渡したのは水枝の厚みである。持ち場書を重ねれば、どこへ触れれば崩れるかまで渡すことになる。
「明朝、ここへ用意します」
「原本でなくてよい」
「原本はこちらで預かります。あなたに見せた範囲も残す」
白井は一礼した。
久馬は人数帳を閉じ、表紙の裏へ挟んだ控えに、白井へ示した頁と刻を書いた。
翌朝、小会議へ運ばせたのは、持ち場書の原本と、久馬が前夜に作らせた区分別の写しだった。原本は久馬の膝前に留め、写しだけを白井の前へ出した。
持ち場書には、平時から続く役と、報が増してから重ねた役が同じ墨で並んでいた。いつから加わったかは余白の覚えで追えるが、いま誰がどちらを優先するかまでは書かれていない。久馬はその欠けを知りながら、これまで役所の内で扱ってきた。
三原主膳も席に着いていた。
「城、蔵、会津往還、越後境往還、町」
白井は写しの見出しを追った。
「夜番、伝令、病人への対応、交代。これで全てですか」
「書かれている持ち場は」
「書かれていない働きがある、と」
三原が先に口を開いた。
「家へ帰れば、薪も割る。親が伏せれば医者を呼ぶ。田畑を持つ足軽なら、家の者だけで間に合わぬ日もある。それも兵に数えるか、白井殿」
「数えられるなら、数えます」
「数えられぬなら」
「余りとは見なしません」
そこへ、記録奉行詰の者が入口から久馬を呼んだ。城の夜番に出るはずの一人が病で起きられず、町番から代わりを回してよいかという伺いだった。
「町の夜はどうする」
「交代の者を一人、早く入れます」
「その者は明朝、伝令に出るはずだ」
役人は答えに詰まった。久馬は持ち場書を見ずに、伝令を遅らせ、交代の者を夜明けまで町へ置くよう命じた。急を要する報が来れば、城から別の者を出すとも付けた。
役人が下がると、白井は算盤の珠へ触れた。
「いまの一人は、どこへ数えますか」
「今夜は町です。明朝は伝令へ戻す」
「城から急の伝令を出したら」
「城の朝番を替えます」
白井は珠を弾かなかった。
「一人が欠けて、三つの持ち場が動きました」
三原は入口の向こうへ消えた役人を追わず、久馬を見た。
「それでも城の番は立ち、町も明ける」
「今夜は」
白井の二文字に、三原の眉が寄った。
白井は算盤を持ち場書の横へ寄せた。
「平時なら、一人が刻を違えて幾つもの持ち場を務められます。戦になれば、往還の警戒、急報、蔵出し、宿の支度、夜番、傷ついた者や病人への対応が一度に重なる。帳面の人数が同じでも、その刻に回せる人は減ります」
「町から取ればよかろう」
三原の返しに、白井は町の欄を示した。
「町の者が夜番と病人の運びを兼ねています。ここから前へ出せば、夜を減らすか、倒れた者を運ばず残すかです」
「どちらもせぬ道を探すのがおぬしの役ではないのか」
「探すために、どちらもできぬことを消さずにおります」
「できぬと先に書けば、できる者まで退く」
「できると書けば、二つ目を命じた時に倒れます」
「倒れると決めつけるな」
「倒れぬよう、二つ目がどこへ重なるかを見ています」
三原は久馬を見た。
「岩井。この書はいつからこう重なっておる」
「役が増すたび、前の役を消さずに足してあります。務める刻は、重ならぬよう組んできました」
「いまは平時でないと、白井殿は申すか」
「私が申さずとも、往還を通る報がそう申しています」
白井の返答に、三原は目を細めた。久馬は持ち場書を閉じなかった。
「報は人を急かす」
三原は言った。
「急かされたまま数えれば、守るべき順を違える。城と蔵が先だと決めれば、往還に立つ者は後か。会津が助けを求めれば、町の夜を守る方が先だと言うか」
「どちらを先にするかは、私には決められません」
白井は答えた。
「ですが、一人を同じ刻に二つの持ち場へは置けません」
政変の報が遅れて届いた正月には、先を見立てて回覧へ入れぬことができた。いま目の前にあるのは、水枝がすでに誰をどこへ割いているかという事実だった。外へ出さずにおけば変わらぬ類いのものではない。
「城下絵図も見せます」
三原が眉を上げた。
「白井殿が求めたのは持ち場書までであろう」
「持ち場の名だけでは、交代がどこを通るか分かりません」
「おぬしが決めるか」
「私が見せます」
久馬は記録奉行詰へ人をやった。ほどなく運ばれた絵図を、自ら小会議の床へ広げた。白井には触れさせず、東町橋、下河原、二つの往還へ続く道を久馬が示す。
「会津往還は楢木宿へ。越後境往還は西山宿から西山峠へ向かいます」
「町の夜番が東町橋にも出る。伝令は城から町を抜け、往還へ入る」
白井は絵図と持ち場書を見比べた。
「会津往還へ人を増せば、楢木宿だけを見ればよいのではありませんね」
「城下から出す荷と報は町を通ります。橋にも人が要る」
「越後境往還は」
「西山宿までの行き来を絶やせば、西山峠の先が分からなくなる」
「片方へ寄せれば、もう片方の報が遅れる」
「両方へ置けば、城下から出す者が増す」
久馬が答えるたび、絵図の道は新しい人数を生むのではなく、持ち場書にある者を引いていった。
「一人を、場所の名ごとに別の働きとして数えている箇所があります」
「時を違えると言った」
「道が乱れれば、その時が重なります」
三原の膝が動いた。
「乱れると決めるな」
「決めてはおりません。重なった時に、どちらを捨てるかを尋ねています」
白井は絵図の上へ指を下ろさなかった。会津往還にも越後境往還にも、選んだ印を置かなかった。
三原は久馬へ向いた。
「岩井。白井殿へ絵図まで開いた責めを、誰が負う」
「私が負います」
「殿の命を待たずにか」
「白井殿を招かれたのは殿です。どこまで見せるかを任されたのは、記録を預かる私です」
「ならば、見せたことで選べぬものが増えた時も、おぬしが負うのだな」
「はい」
返した声は大きくなかった。絵図を出す前と同じ声で言えたことだけを、久馬は確かめた。
「水枝は表高三万石だ」
三原が言った。
「小藩とて、何も出せぬほど痩せてはおらぬ」
「実収を伺えますか」
白井の問いが、次の開示を求めていた。
久馬は絵図を畳んだ。米蔵の覚えまで見せれば、兵を割けぬ場所だけでなく、何を何日支えられぬかを外部者に量らせる。正確な日数を出せる覚えではなくとも、蔵の出入りと備えの薄い時期は読める。
「およそ二万三千石です」
「蔵ごとの量は」
「今日は出しません」
白井はうなずいた。
「理由を伺っても」
「蔵ごとの残りを知れば、どこへ求めれば水枝が断れぬかまで分かります」
「私が求める側へ回ると」
「回らぬという証しを、私は持ちません」
三原の顔が初めて白井から久馬へ動いた。外部者を疑うなら、初めから一冊も開かなければよい。開いた後で疑いを口にするのは、見せる範囲を久馬が選び続けるためだった。
「それでよい」
白井は言った。
「見せぬ線を、曖昧にされる方が困ります」
「では、出入りだけを」
「それも、私が選びます」
久馬はその日は席を立った。
米蔵の覚えを開いたのは、さらに二日後だった。蔵ごとの正確な残りを写させず、入る米、城下へ回す米、備えとして動かせぬ分の区別だけを白井へ示した。
白井は米の区別より先に、蔵番と受け渡しの順を指した。
「米を出す時、誰の手を通りますか」
久馬は蔵番と受け渡しの順だけを写し、量の欄は伏せた。白井は伏せられた欄に手を触れず、その横に並ぶ役の名を拾った。
「領内には、およそ二万六千が暮らしております」
久馬が言うと、白井は覚えから顔を上げた。
「戸数は五千二百から五千六百。城下だけでも五千五百ほどです」
「兵へ渡す米だけを計ればよいのではない、ということですね」
「米を出すなら、蔵を開く者、量る者、荷にする者、運ぶ者、道を守る者が動きます。その者たちと家の者も食べます」
「宿へ兵を入れれば、宿の米も減る」
白井が言葉を継いだ。
「往還を開けば、米は人より先に動くこともある。兵と米と道は、別々には出せません」
「馬は」
三原が問うた。
「頭数を聞けば、久馬殿は見せないでしょう」
「見せません」
久馬が言うと、白井は続けた。
「ならば、馬丁が六百から七百の名目の内にあり、武装して動ける者とは別だと分かればよい。荷が増せば、馬だけでなく引く者も取られます」
「人足もそうか」
「はい。兵を多く見せようとして名目の奉公人数を使えば、兵の食を運ぶ者を兵に数えることになる」
三原は算盤の珠を見た。白井は触れていなかった。
三原は覚えを見ず、白井へ向いた。
「水枝の信義は、人数帳には載らぬ」
「載りません」
「会津が立つ時、高森家が何も負わずにおられると思うか」
「思いません」
「ならば、城の番が一人減る、蔵の受け渡しが一人遅れると、そればかり申すな」
「遅れた先にいる者を、私は消せません」
「数は、どの家へ恥が落ちるかを数えておらぬ」
白井は一度、算盤から手を離した。
「三原様」
久馬が呼ぶと、三原は手で制した。
「答えさせよ」
白井は三原を見た。
「数えきれません。どの家へ兵を出させ、どの家へ残る恥を負わせるかは、水枝の方が選ぶことです」
「白井殿には、その家の名を選べるか」
「選べません」
「なぜだ」
「私は水枝の家が負う恥を背負えません」
その答えで、三原の顔は緩まなかった。
「だが、選んだ後に足りぬと申すのは、おぬしであろう」
「申します。足りぬものを足りるとは書けません」
三原は持ち場書へ目を落とした。しばらくして、町の欄を押さえた。
「この家の嫡男は、父が伏せておる」
「はい」
久馬は答えた。
「こちらは弟がまだ幼い。会津へ出せと言えば出るだろう。残せと言えば、それも従う。どちらを命じても、後で家が負うものは同じではない」
白井はその二家を算盤へ置かなかった。
「その違いを、私はこの帳面からは拾えません」
「だから数だけで決めるなと申しておる」
「数を外して決めれば、命じた後で動かせぬ者が出ます」
どちらの言葉も、相手を退かせなかった。
久馬は米蔵の覚えを閉じた。城の番を抜けば夜が薄くなり、蔵を抜けば米が動かず、往還を抜けば報が途切れる。そのつなぎ目まで白井へ見せた。
「見せた範囲と刻は、私が残します」
久馬は白井へ言った。
「人数帳、持ち場書、城下絵図、米蔵の覚え。原本は私の手元から離しません。写しも、この小会議から持ち出させません」
「承知しました」
「あなたが安中へ持ち帰れるのは、この場で出した見立てまでです」
「それで足ります」
「足りぬと申したばかりではないか」
三原の声に、白井は首を横へ振った。
「水枝が薄いことを知るには足ります。誰を出すかを決めるには足りません」
白井は写しを一枚ずつ重ね、久馬へ返した。持って出るものがないことを確かめ、取次の者に伴われて小会議を出た。
三原は席を立たなかった。
「あの男を信じるか」
「信じるかどうかで、人数は増えません」
「答えになっておらぬ」
「白井殿に見せる範囲を決めたのは私です。外へ漏れれば、信じたという言葉で責めを分けるつもりはありません」
「使わねば、あの算盤は要らぬ。使えば、水枝の家を知らぬ者の数に従うことになる」
「数に従うのではありません。数を知らずに、家へ命じぬために使います」
三原は閉じた人数帳へ手を置いた。
「名を見てから数えるおぬしと、数えてから名を問うあの男が、同じ答えへ着くとは限らぬぞ」
「はい」
「それでも開くか」
「開きました。閉じたことにはできません」
三原は手を離した。それ以上、白井を退けろとは言わなかった。
その日のうちに、久馬は作業用の札を作った。原本の名と役を一度ずつ楷書へ写し、城、蔵、二つの往還、町、夜番、伝令、病人、交代の束へ分けた。白井に見せる前に、同じ者がいくつの束へ入るかを確かめるためだった。
原本四種は記録奉行詰へ戻した。家へ持ち帰ったのは、久馬が書いた札だけである。米の量も絵図もなく、名と持ち場の対応だけが残っていた。
夕餉の後、書きつけの間で札を並べていると、弦が借りていた書物を返しに来た。久馬は入口で止まった弦に、敷居の内を指した。
「戸ヶ崎。そこへ置け」
「はい、岩井様」
弦は書物を置き、散らした札を避けて下がろうとした。三つ離れた束へ、同じ名があるところで動きが止まった。
「どうした」
「この方は、三人いらっしゃるのですか」
弦が示したのは、町、夜番、伝令の札だった。崩した原帳ではなく、久馬が書き直した字で、三枚とも同じ名だと分かった。
「一人だ。刻を違えて三つ務める」
「町から伝令へ出た時は、夜番には別の方が入るのですか」
「そのつもりで組む」
「その方は、どこへ戻るのですか」
久馬は答えず、町の札を一枚抜いた。代わりを夜番から移す。夜番の穴へ交代の札を置く。すると交代の束が減った。
「ここです」
久馬が言うと、弦は札ではなく、その横に残った場所を見た。
「皆様を元へ戻す番は、どこに書いてありますか」
弦が見ているのは、出した者の代わりを入れ、その代わりを元へ返すところだった。そこに当たる札は、どの束にもない。
「書いていない」
久馬が答えると、弦は口を閉じた。新しい役の名も、必要な人数も言わなかった。
翌朝、久馬はその三枚を上に載せ、作業用の札を小会議へ持っていった。
白井は町、夜番、伝令の札を順に見た。
「誰が気づきました」
「岩井家の客人です。札の同じ名を見ただけだ」
「帳面を読んだのでは」
「読ませていません。私の写しを見て、尋ねた」
「客人の名を伺えますか」
「戸ヶ崎弦。私の家に留めている者です」
「この並べ方を、どこかで扱ったことがあるのでは」
「本人は同じ名があると気づいただけだ。どこで何を学んだかを、こちらからあなたへ渡すつもりはありません」
白井は一呼吸を置いた。
「本人をここへ呼ぶ必要は」
「ありません。役に加えるつもりもない」
「では、問いだけを借ります」
久馬がうなずくまで、白井は三枚の札に触れなかった。戸ヶ崎弦という名を外部者へ口にしたことも、久馬はその場の控えへ残した。
三原は弦の名を問わなかった。
「残りの札も使ってよろしいですか」
白井が尋ねた。久馬は包みを自分の前で解き、城、蔵、二つの往還、町、夜番、伝令、病人、交代の束を並べた。それから白井の側へ、必要な束だけを押し出した。
白井は畳の上を手前、中央、向こうの三つに分けた。
「こちらを今夜、中央を明朝、その先を次の番とします」
算盤の左の三桁も、今夜、明朝、その先の番へ割り当てた。城の夜番を務めるはずだった者の札を今夜の列から外し、病欠として脇へ伏せる。町から一枚を今夜の夜番へ移し、町の穴へ交代の札を入れた。白井は今夜の桁で珠を一つ上げた。
「この者は、明朝には伝令へ出るはずでした」
交代から町へ入れた札と、伝令の束にあった札には、同じ名が書かれていた。白井は二枚を重ねて明朝の伝令へ置いた。空いた町へ別の交代札を置き、明朝の桁で珠を一つ上げた。
「夜番を終えた町の者を、すぐ町へ戻すのではいかぬか」
三原が言った。
「戻せば、休ませぬまま次の務めへ入れることになります。入れなければ、町へ入れた代わりを解けません」
白井は夜番を終えた札を明朝の町へ戻した。すると、その札は本来の次の番と重なった。白井は片方の持ち場から札を外し、その分の珠を上げようとした指を止めた。人数帳に、新しい一人が増えるわけではなかった。
「帳面では三つの役に三度載る。算盤では一人分です」
白井は今度、会津往還の警戒、蔵出し、宿の対応を、一度に起きたものとして加えた。往還へ送る札を伝令から取れば急報が止まり、蔵へ入れれば荷を渡す者が減る。町から宿へ回せば、夜番か病人を運ぶ手が欠けた。どの束から始めても、初めの空所は交代で埋まった。その札は次の番に使うはずのものだった。
白井は組み直すたびに珠を払い、今夜、明朝、その次の番で、交代から借りる人数を数え直した。今夜の持ち場が埋まっても、明朝には次の交代札を要した。その次の桁では、上げるべき珠のところで指が止まった。珠に添える札が、交代の束に残っていなかった。
「この人数帳から分かるのは、いま武具を持って動ける者の数までです。次の番まで持ち場を保てる人数ではありません」
白井は最後に、交代の束を元へ戻した。城から出せば朝番、町からなら夜番か病人への対応、往還からなら警戒か急報が先に欠ける。どこから始めても、次の番へ渡す札が先に尽きた。
「水枝は、人がいなくなってから崩れるのではありません。次の番を今の番へ使い切った時に、持ち場が崩れます」
白井は、弦が見つけた三枚をもう一度並べた。
「戸ヶ崎殿の問いは、帰る者へ一人つけよという話ではないでしょう。外へ出した者の帰着を確かめ、代わりに入った者を解く役が定まっていない。帰らぬ時に、誰を次の番まで残すかを決める者もいません」
「役を新しく設けるか」
三原が問うた。
「いま設ければ、その役へ出す者をまた別から抜きます」
白井は新しい役を札へ書かなかった。
「欠けていることだけを残します」
久馬は何も書かれていない札を一枚、交代の束の脇へ置いた。
その空札まで白井に見せた責任は、久馬のものだった。
白井が退出すると、久馬はすべての束と空札を一つの包みへ戻した。小会議に残したのは、誰が閲覧し、何を確かめたかという控えだけだった。次に開く時も、白井が先に触れられるものはなかった。
荷の束が傾いたのを、弦の左手が止めた。
離れ前室へ運ぶ古い書物を、弥七が二束にして廊下へ置いていた。縄は切れていなかったが、一方へ寄った重みで下の一冊が滑りかけている。弦は結び目を解き、束を二つに分け直した。縄を底へ回し、角で締め、余った端を輪へ通す。
「そいつぁ、ほどく時も早えな」
弥七が持ち上げて言った。
「強く締めるだけだと、角が傷みます」
「誰に習った」
弦の手が、縄の端を押さえたところで止まった。
「荷を運ぶ時に、教わりました」
「よその土地でか」
弥七はそれ以上問わなかった。弦はしばらくしてから、うなずいた。
沙江は廊下の端で二人を見ていた。縄を結べることに不思議はない。けれど、手際が役に立てば、次には誰に、どこで、と問いが続く。答えが一つ増すたび、それまで伏せていた場所の形まで求められる。
弥七は束を肩へ載せた。
「戸ヶ崎、もう一つ頼めるか」
「はい」
弦は断らなかった。役に立てると分かった時ほど、問いから退かなかった。
数日後、沙江は弥七と東町橋へ出た。家へ届ける荷を受け取るためで、弦も空いた籠を持ってついてきた。
水枝川の岸では、小舟から荷を上げる途中だった。舟縁へ寄せた包みを岸の男が先に引き、舟が片側へ傾いた。乗っていた若者が慌てて同じ側へ足を出す。
「そちらへ寄らないでください」
弦が声をかけた。
若者の足が止まる。弦は岸の綱を取り、引き上げずにいったん緩めた。舟の向きが流れへ戻るのを待ってから、包みを一つずつ渡すよう手で示した。
「綱を知ってるだけじゃねえな」
舟の男が言った。
「舟へ乗ったことがあります」
「どこで覚えた」
「学校で、少し」
「学校で舟を教えるのか」
弦は返事をしなかった。大きな荷が岸へ置かれた音に肩が先に固くなり、それから息を吐いた。耳に残るものがあることを、沙江は知っていた。
「戸ヶ崎様、籠を」
沙江が呼ぶと、弦はすぐ綱から手を離した。
「はい、沙江様」
弥七が弦に代わって綱を取り、舟の男は次の包みを岸へ渡した。弦が離れても荷揚げは続き、誰も改めて指図を求めなかった。
帰りに寄った店で、薬瓶にある短い英字を一語読んだ時も、問われたのは意味より先に、どこで習ったかだった。弦はまた「学校で、少し」とだけ答え、店の者が学校の名を聞く前に、沙江は受け取った荷へ話を移した。
結び方も、舟で重みを移す手も、短い英字も、それだけなら小さな働きだった。三つが一人へ重なると、離れに預けられた出所の定かでない若者という話では収まりにくくなる。
家へ戻ると、離れ前室で家の女が衣類箱の蓋を開けていた。
「冬物を少し入れ替えようと思いまして」
「内納戸の履物も、ついでに揃えておきます。片方しかないものが混じっておりますから」
沙江は箱の上へ置かれた女の手を見た。衣だけではない。木底の履物も、すでに目へ入っていた。
箱の上には、弦がいま着ているものとは違う薄い衣が畳まれていた。雪の下河原から運び込まれた日に身につけていた夏衣だった。
「ここは私がします」
沙江が言うと、女は手を止めた。
「ですが、お嬢様」
「離れの方の分は、借り物と分けておきたいのです」
「では、履物は」
「そちらも私が見ます。弥七が出した草履と取り違えたくありません」
嘘ではなかった。女が廊下へ出てから、沙江は夏衣を持ち上げた。薄さも、縫い方も、この家の着物と違う。誰かが広げれば、縄や舟の時と同じ問いが始まる。
沙江は衣を捨てず、縫い直しもしなかった。畳み目を変えず、同じ衣類箱の底へ移し、その上へ家から貸している衣を重ねた。箱は離れ前室から動かさなかった。
次に内納戸へ入った。日々使う草履を探しに来た者が、奥の履物まで出すことがある。片方だけの木底の履物は、以前と同じ納戸にあった。
沙江はそれを手に取った。片方だけで、雪の日の傷とともに残ったものだった。
こちらも包み替えなかった。内納戸の履物をまとめた場所のいちばん奥へ移し、普段使う草履を手前へ戻した。
廊下へ出ると、先ほどの女が待っていた。
「片方だけのものは、処分なさいますか」
「いいえ。戸ヶ崎様のものです。内納戸から出さないでください」
「承知しました。夏の衣も、そのままで」
「はい。どちらも手を加えずに置きます」
女は理由を尋ねず、衣類箱から除いた冬物だけを抱えて母屋へ戻った。沙江は箱の蓋と内納戸の戸を、自分の手でもう一度確かめた。
戸を閉めた時、離れ座敷から弦の咳が一つ聞こえた。呼ばれたのではない。沙江は返事をせず、手に残った木の冷たさが消えるまで、納戸の前に立っていた。
沙江は弦へ何も告げなかった。女に伝えたのも、次に衣類箱や内納戸を開く時は自分を呼んでほしいということだけだった。
短い渡りへ出ると、弦が離れ前室の前にいた。家の着物の袖を押さえ、沙江が運び残した籠を見ている。
「沙江様、私が持ちます」
「もう軽いものだけです」
「軽くても、持てます」
弦は籠を受け取った。沙江は礼を言い、どこで結び方を覚えたのかも、どこの学校で舟へ乗ったのかも聞かなかった。
三月に入るころ、小会議の作業用写しは、一度目より薄くなっていた。
人数帳から取った家ごとの名は外した。持ち場書からは役の重なりだけを残し、絵図の道筋は会津往還と越後境往還の別へ縮めた。米蔵の覚えから移したのも、出入りに人が要るという順だけで、量は一つも写していない。
久馬は初め、上へ「出せるもの」と書いた。書いた後で筆を止め、その四字へ線を引いた。城にいる一人を紙の上で抜くことができても、現実に外へ出せるとは限らない。
「何を出せば、どこが空くか」
書き直した一行を、白井は黙って読んだ。三原は消された文字の方を見た。
「出せるとは、書けなんだか」
「はい」
「白井殿の算盤では出せるのであろう」
「算盤の上なら」
白井は答えた。
「ですが、算盤の上で一人を前へ出せば、後ろから二つ三つの役がついてきます。それを残したまま、出せるとは言えません」
「ならば、出せぬとも書かぬのだな」
「それを決めるための一枚ではありません」
久馬は消した四字を削り取らなかった。何と書き始め、なぜ改めたかが、その一枚に残った。
久馬が重ねた一枚には、人の総数も、家の序列も書かなかった。上から順に、出すものと、そのために欠けるものだけを並べた。
城から人を出す。夜番と交代が減る。
蔵から出す。米の受け渡しと警固が減る。
会津往還へ増す。町、伝令、病人への対応から人が移る。
越後境往還へ増す。西山宿と城下をつなぐ者が足りなくなる。
道を通す。往還の見張りを増し、城下を抜ける荷に町の者を取られる。
米を出す。蔵だけでなく、荷を作り、運び、宿へ渡す者が要る。
宿を開く。往還の見張り、米の受け渡し、町からの人手が同じ日に重なる。
人を出す時が延びれば、交代の束が先に尽きる。
どの行にも、最後へ空所を残した。出た者を交代させ、帰ったことを確かめ、代わりに入った者を元へ返す側である。役の名にはしていない。
「これを、評定へ出すのか」
三原が一枚を見下ろした。
「評定前の整理に留めます」
「外への返答では」
「ありません。徴める名も、命じる役も書いていない」
白井は一枚の端から端までを読み、算盤を使わなかった。
「これなら、算盤が止まった先に、どの持ち場を失うかが見えます」
「見えるだけだ」
三原が言った。
「見えたものを避ければ、別のものが失われる」
「会津との信義ですか」
「それだけではない。徳川から受けた恩、高森家が何によってこの地を預かってきたか、家中が見てきたものだ。兵を出さぬと決めれば、残る者の恥が消えるわけではない」
白井は、兵を出す行へ指を置いた。
「兵を出せば米が要ります。米を動かすには道を通し、宿も開かねばならない。四つは別の行に書けても、実際には続いて動きます。初めの一つを受ければ、残りも続く。あとから、その一つだけを引き戻すことはできません」
「求められたものを拒めば、次に差し出そうとしても信義は戻らぬ」
三原の言葉に、白井はうなずかなかった。否定もしなかった。
「一歩出せば戻れぬ」
白井が言った。
「一歩退けば戻れぬ」
三原が返した。
久馬は二人の言葉を一枚へ書き加えなかった。これは意見を並べる記録ではなく、何を出せば、どこが欠けるかを、決定の前に見るための整理だった。
「どちらも、まだ水枝の決定ではない」
久馬は一枚を自分の前へ戻した。
「写しを取りますか」
控えていた役人が尋ねた。
「取らない。この一枚だけを私が預かる」
「評定へ上げる時は」
「上げると決まってからだ」
外向けの返答にも、持ち場を命じる書にもなっていない。いま写しを増やせば、決まらぬうちから人が「出す側」と「残る側」に分けて読まれる。久馬は折り目をつけず、一枚を手元へ引いた。
三原が何か言おうとした時、廊下の外で取次の者が膝をついた。
「奥羽方より使者が参っております」
「名は」
「早坂右近と」
「使者控へ通したか」
「はい。供の者も定めの所で待たせ、早坂殿だけがお文をお持ちです」
「取次の間を整えよ。こちらから参るまで動かすな」
役人が下がると、三原は一枚を見た。兵、米、往還、宿の行が、まだ何を求められたかも知らぬうちから同じ面に並んでいた。
小会議にあった写しは、久馬が記録奉行詰へ戻させた。一枚は二つに折り、こちらも記録奉行詰の手箱へ収める。早坂へ見せるものではなかった。
早坂は使者控から取次の間へ通された。久馬と三原が入ると、白井は同席せず小会議に残った。
早坂右近は礼を終え、差し出す文を膝前に置いた。久馬は封と宛名を確かめ、三原へ渡した。文が開かれるのを待って、早坂は顔を上げた。
声に脅す響きはなかった。頼みを持って来た者の礼を崩さなかった。
「奥羽の諸藩が備えを急ぐ折、水枝にもお力添えを願いに参りました」
三原は文を読み終えても、返答をしなかった。
「願いとは」
久馬が問うた。
早坂は一つずつ区切らず、一息のうちに求めた。
「水枝から兵と米を出していただきたい。会津往還の宿を開き、道を通していただく。あわせて、水枝がどちらに立つ藩か、明らかな返答を願います」




